ポリネシア人の祖先は、南米から海を渡ってやって来た――その仮説を証明するために、実際にいかだで8,000キロもの航海を成し遂げた学者とその仲間たちの冒険物語。
内容紹介
1937年、ポリネシア・ファッツヒバ島。
主人公のトール・ヘイエルダール(ポール・スヴェーレ・ヴァルハイム・ハーゲン)はノルウェーの文化人類学者で、島で現地の人々と同じ暮らしをしながら、妻のリヴと共にフィールド・ワークをしている。
あるとき、トールは妻のリヴから、
「ポリネシア人は、アジアから来たの? 海流に逆らって東へ行くなんて。すごい冒険ね。」
と言われ、ポリネシア人の祖先についての通説に疑問を抱くようになる。
実際、この島には南米のパイナップルと同じ果物が根付いていた。
また、島の酋長・テイに、
「君たちの祖先はどこから来たのかな?」
と尋ねると、
「ティキ(太陽神)が東から連れてきた。ティキは西へ向かって航海した。すべては東から来た。太陽も、風も、海流も…。はるか東の大陸から来た。」
と島に伝わる言い伝えを答える。
1946年、ニューヨーク・ブルックリン。
トールは、10年間に及ぶ研究の成果をまとめ、著書として世に問おうとするが、どの出版社からも断られる。定説に反して、ポリネシア人が南米からやって来たなどという意見に、まともに耳を傾ける編集者がいなかったためだ。最後に訪ねた出版社でも、
「…だが、ティキの時代、航海はできなかった。船がないからだ。」
と決めつけられ、トールが、
「いかだがありました。」
と反論すると、
「だったら、いかだで、ペルーからポリネシアまで行ってみろ。」
と言われてしまう。
この言葉が逆に、トールの負けじ魂に火を点け、トールは「海は障壁でなく道であった」ことを証明するために、当時と同じ技術で、いかだで8,000キロを航海してみせようと決意する。
トールはそれから5ヶ月で資金と資材を集め、1,500年前と同じ手法で12本の丸太と麻縄でいかだを作成。マストには、太陽神・ティキの描かれた帆が張られ、いかだは“コン・ティキ号”と名づけられた。
誰が見ても無謀な冒険ゆえ、資金と同様、メンバーもなかなか集まらなかったが、最終的に5人がトールと航海を共にすることになる。トールの幼なじみで唯一、航海の経験のあるエリック。第二次大戦で活躍した、ノルウェーの無線技士・トルステインとクヌート。酒場でトールの冒険への挑戦を聞いて話しかけ、意気投合したヘルマンは、冷蔵庫のセールスマンで技術屋。スペインの民俗学者・ベングトはアフリカに1年いた経験があり、
「この航海の記録映画で金を稼げる。カメラは私に任せてくれ。」
と協力を申し出る。
トールは、ペルー大統領とアメリカ海軍に話をつけ、航海に必要な無線機などの資材の調達を受けることに成功し、ついに1947年4月28日、コン・ティキ号は大勢の人々から盛大に見送られながら、ペルー・リマのカヤオ港を出発する。
意気揚々と旅立った6人。
ただトールは、出港直前にノルウェーの自宅に電話をかけた際、
「うまくいったら、僕たちの人生は変わる。もう苦労しないで済む。」
と妻のリヴに話したところ、
「100日後も子どもたちに父親がいるといいけど…。」
と冷たく返事されたことが気にかかっていた…。
内容紹介
1937年、ポリネシア・ファッツヒバ島。
主人公のトール・ヘイエルダール(ポール・スヴェーレ・ヴァルハイム・ハーゲン)はノルウェーの文化人類学者で、島で現地の人々と同じ暮らしをしながら、妻のリヴと共にフィールド・ワークをしている。
あるとき、トールは妻のリヴから、
「ポリネシア人は、アジアから来たの? 海流に逆らって東へ行くなんて。すごい冒険ね。」
と言われ、ポリネシア人の祖先についての通説に疑問を抱くようになる。
実際、この島には南米のパイナップルと同じ果物が根付いていた。
また、島の酋長・テイに、
「君たちの祖先はどこから来たのかな?」
と尋ねると、
「ティキ(太陽神)が東から連れてきた。ティキは西へ向かって航海した。すべては東から来た。太陽も、風も、海流も…。はるか東の大陸から来た。」
と島に伝わる言い伝えを答える。
1946年、ニューヨーク・ブルックリン。
トールは、10年間に及ぶ研究の成果をまとめ、著書として世に問おうとするが、どの出版社からも断られる。定説に反して、ポリネシア人が南米からやって来たなどという意見に、まともに耳を傾ける編集者がいなかったためだ。最後に訪ねた出版社でも、
「…だが、ティキの時代、航海はできなかった。船がないからだ。」
と決めつけられ、トールが、
「いかだがありました。」
と反論すると、
「だったら、いかだで、ペルーからポリネシアまで行ってみろ。」
と言われてしまう。
この言葉が逆に、トールの負けじ魂に火を点け、トールは「海は障壁でなく道であった」ことを証明するために、当時と同じ技術で、いかだで8,000キロを航海してみせようと決意する。
トールはそれから5ヶ月で資金と資材を集め、1,500年前と同じ手法で12本の丸太と麻縄でいかだを作成。マストには、太陽神・ティキの描かれた帆が張られ、いかだは“コン・ティキ号”と名づけられた。
誰が見ても無謀な冒険ゆえ、資金と同様、メンバーもなかなか集まらなかったが、最終的に5人がトールと航海を共にすることになる。トールの幼なじみで唯一、航海の経験のあるエリック。第二次大戦で活躍した、ノルウェーの無線技士・トルステインとクヌート。酒場でトールの冒険への挑戦を聞いて話しかけ、意気投合したヘルマンは、冷蔵庫のセールスマンで技術屋。スペインの民俗学者・ベングトはアフリカに1年いた経験があり、
「この航海の記録映画で金を稼げる。カメラは私に任せてくれ。」
と協力を申し出る。
トールは、ペルー大統領とアメリカ海軍に話をつけ、航海に必要な無線機などの資材の調達を受けることに成功し、ついに1947年4月28日、コン・ティキ号は大勢の人々から盛大に見送られながら、ペルー・リマのカヤオ港を出発する。
意気揚々と旅立った6人。
ただトールは、出港直前にノルウェーの自宅に電話をかけた際、
「うまくいったら、僕たちの人生は変わる。もう苦労しないで済む。」
と妻のリヴに話したところ、
「100日後も子どもたちに父親がいるといいけど…。」
と冷たく返事されたことが気にかかっていた…。