この記事では今回の三ヶ根山歩きのハイライトともいうべき場所を歩きます。
第一には:三ヶ根スカイラインの終点まで行って見ること。
第二には:三等三角点を探すこと。
第三には:この山域の最高地点に行く-----ことでした。
そのどれも前回この山を歩いた時にし残したことだったからでした。
今回は上のすべてをクリアーして戻ってきましたので、写真とともに順次レポートしていきます。
三等三角点 ↓
前記事のロープウェイ山頂駅からそう遠くない場所にこの三等三角点がひっそりと設置されていました。
前回来た時には探し当てられませんでしたが、それは違う場所を探していたからでした。
このすぐ下に三ヶ根山スカイラインが走っています。
三ヶ根山スカイライン ↓
この道路は有料道路で、自転車の通行禁止であり、歩いても車道は通れないとありました。幸いなことにほとんどの場面で歩行者専用の道がつけられていたので、その道を歩いて行きます。
ヒメオドリコソウ ↓
道端の北風を避ける場所の陽だまりで、ヒメオドリコソウが咲いています。
遠望峰(とぼね)山 ↓
開けた場所からは先日自転車で行った遠望峰山(とぼね)が見えますが、同時に行った桑谷(くわがい)山は位置が悪くて見えません。
スカイラインから少しだけ外れて三ヶ根観音に行って見ます。
三ヶ根観音 ↓
三ヶ根観音(さんがねかんのん)は、商売繁盛の観音と、ぼけ封じ白寿観音などもまつられています。
広い境内には太平洋戦争のフィリピン戦の戦没者を弔う比島観音をはじめとして沢山の慰霊碑が祀られています。
比島観音 ↓
その代表的なものがこの観音様像です。
薬害根絶祈願碑 ↓
こういう石碑もありました。
君が代 ↓
戦場ではどんな状況下でこの歌が歌われていたのでしょうね。
近衛歩兵の碑 ↓
この建造物は皇居の正門を形取ったそうです。
ソシンロウバイ ↓
境内の一角で満開になっていました。
第一見晴台 ↓
小高いところに見晴らしの良さそうな場所があり、そこに行くと三河湾の眺めがありましたが、生憎の春靄でくぐもった眺めとなっています。
再びスカイライン歩きに戻ります。
無名峰 ↓
再び小高い場所が現れましたのでそこに行くことにします。
水仙 ↓
小高い場所を登り詰めると最上箇所は藪になっていました。標高が恐らく340mくらいのところでしょうか?
この山域では一・二を争うような標高になっていますが、山名表示も何もなくて、藪の中に水仙の花が咲いているだけでした。
最高地点はあそこ ↓
その無名峰からあたりを見回すと、どうやらアンテナの塔が立つあの場所が最高地点のようです。
ならばそこに行って見ることにしましょう。
最高地点の目印 ↓
やがて目指す場所にやって来ました。アンテナが二本、小生を見下ろしています。
最高地点の表示 ↓
小生の地図上では345mの高さまでは確認できるのですが、看板に書かれた350mとなると果たしてどうなのでしょうか。
ここをあとにして、今度はその北にある「殉国七士の墓」にお参りすることにしました。
「殉国七士の墓」について:
祀られているのは、先の東京裁判で、いわゆるA級戦犯とされた、板垣征四郎・木村兵太郎・東条英機・土肥原賢二・広田弘毅・松井石根・武藤章の七名です。
東京裁判の正当性については議論のあるところですが、絞首刑の執行は昭和23年の12月23日のことでありました。この日は今の天皇の誕生日でもあります。そしてクリスマス・イブに掛からない日でもありました。
絞首刑となった七士は、即日横浜市の久保山で火葬に付されました。
処刑された遺体と遺骨は米軍側が「神格化」と「英雄崇拝」・「軍国主義復活」を懸念して、誰にも引き渡されることなく、遺骨については米軍側が持ち去り、どんな始末がついたのかは定かではありません。
しかし、遺体を焼いた台の上に灰と一緒に残っていた小さな骨は、共同骨捨て場に捨てられていたのです。12月25日の晩のことですが、それを密かに拾い集めて、寺にで供養・安置した人達がいました。
サンフランシスコ講和条約の後、時を経ても七士のお墓建立の動きは粘り強く進められていました。
その強い推進者は地元形原町出身の三文字正平弁護士であり、彼は遺骨奪還の当初からの計画者であり、12月25日晩の遺骨収集実行者でもありました。
七士のご遺族、政財界での賛同者を募り、各方面の有志たちと連携し、資金と場所の確保に奔走します。
そして、昭和35(1960)年8月16日に愛知県幡豆(はず)郡幡豆町役場の好意を得て、三河湾国定公園三ケ根山頂に、七士の墓碑とご遺骨の埋葬を実現しました。
この日、三ヶ根山の「殉国七士廟」の前に、関係者とご遺族が列席し、初の慰霊祭が執り行われました。
「殉国七士廟」と書かれた塔?石門? ↓
この左側にももう一本立っています。高さは4-5メートルはありそうな大きなもので、岸信介元内閣総理大臣の書だということです。
モニュメント ↓
ブロンズ製の大きなもので、像本体の高さは6-7メートルあるのではないでしょうか、作品の芸術性はともかく、初見では不気味さを感じました。
殉国七士の墓 ↓
ここに先述した由緒の遺骨が安置されています。
ご遺族の方たちのその後の辛苦を思う時に、胸が締め付けられます。
仏教では死んだしまったらみな仏ですね。
ここでは心を込めてお詣りさせていただきました。
靖国神社問題とは違い、この場限定ですが、他所の国からの批判はこの際問題外だと思いました。
第一には:三ヶ根スカイラインの終点まで行って見ること。
第二には:三等三角点を探すこと。
第三には:この山域の最高地点に行く-----ことでした。
そのどれも前回この山を歩いた時にし残したことだったからでした。
今回は上のすべてをクリアーして戻ってきましたので、写真とともに順次レポートしていきます。
三等三角点 ↓
前記事のロープウェイ山頂駅からそう遠くない場所にこの三等三角点がひっそりと設置されていました。
前回来た時には探し当てられませんでしたが、それは違う場所を探していたからでした。
このすぐ下に三ヶ根山スカイラインが走っています。
三ヶ根山スカイライン ↓
この道路は有料道路で、自転車の通行禁止であり、歩いても車道は通れないとありました。幸いなことにほとんどの場面で歩行者専用の道がつけられていたので、その道を歩いて行きます。
ヒメオドリコソウ ↓
道端の北風を避ける場所の陽だまりで、ヒメオドリコソウが咲いています。
遠望峰(とぼね)山 ↓
開けた場所からは先日自転車で行った遠望峰山(とぼね)が見えますが、同時に行った桑谷(くわがい)山は位置が悪くて見えません。
スカイラインから少しだけ外れて三ヶ根観音に行って見ます。
三ヶ根観音 ↓
三ヶ根観音(さんがねかんのん)は、商売繁盛の観音と、ぼけ封じ白寿観音などもまつられています。
広い境内には太平洋戦争のフィリピン戦の戦没者を弔う比島観音をはじめとして沢山の慰霊碑が祀られています。
比島観音 ↓
その代表的なものがこの観音様像です。
薬害根絶祈願碑 ↓
こういう石碑もありました。
君が代 ↓
戦場ではどんな状況下でこの歌が歌われていたのでしょうね。
近衛歩兵の碑 ↓
この建造物は皇居の正門を形取ったそうです。
ソシンロウバイ ↓
境内の一角で満開になっていました。
第一見晴台 ↓
小高いところに見晴らしの良さそうな場所があり、そこに行くと三河湾の眺めがありましたが、生憎の春靄でくぐもった眺めとなっています。
再びスカイライン歩きに戻ります。
無名峰 ↓
再び小高い場所が現れましたのでそこに行くことにします。
水仙 ↓
小高い場所を登り詰めると最上箇所は藪になっていました。標高が恐らく340mくらいのところでしょうか?
この山域では一・二を争うような標高になっていますが、山名表示も何もなくて、藪の中に水仙の花が咲いているだけでした。
最高地点はあそこ ↓
その無名峰からあたりを見回すと、どうやらアンテナの塔が立つあの場所が最高地点のようです。
ならばそこに行って見ることにしましょう。
最高地点の目印 ↓
やがて目指す場所にやって来ました。アンテナが二本、小生を見下ろしています。
最高地点の表示 ↓
小生の地図上では345mの高さまでは確認できるのですが、看板に書かれた350mとなると果たしてどうなのでしょうか。
ここをあとにして、今度はその北にある「殉国七士の墓」にお参りすることにしました。
「殉国七士の墓」について:
祀られているのは、先の東京裁判で、いわゆるA級戦犯とされた、板垣征四郎・木村兵太郎・東条英機・土肥原賢二・広田弘毅・松井石根・武藤章の七名です。
東京裁判の正当性については議論のあるところですが、絞首刑の執行は昭和23年の12月23日のことでありました。この日は今の天皇の誕生日でもあります。そしてクリスマス・イブに掛からない日でもありました。
絞首刑となった七士は、即日横浜市の久保山で火葬に付されました。
処刑された遺体と遺骨は米軍側が「神格化」と「英雄崇拝」・「軍国主義復活」を懸念して、誰にも引き渡されることなく、遺骨については米軍側が持ち去り、どんな始末がついたのかは定かではありません。
しかし、遺体を焼いた台の上に灰と一緒に残っていた小さな骨は、共同骨捨て場に捨てられていたのです。12月25日の晩のことですが、それを密かに拾い集めて、寺にで供養・安置した人達がいました。
サンフランシスコ講和条約の後、時を経ても七士のお墓建立の動きは粘り強く進められていました。
その強い推進者は地元形原町出身の三文字正平弁護士であり、彼は遺骨奪還の当初からの計画者であり、12月25日晩の遺骨収集実行者でもありました。
七士のご遺族、政財界での賛同者を募り、各方面の有志たちと連携し、資金と場所の確保に奔走します。
そして、昭和35(1960)年8月16日に愛知県幡豆(はず)郡幡豆町役場の好意を得て、三河湾国定公園三ケ根山頂に、七士の墓碑とご遺骨の埋葬を実現しました。
この日、三ヶ根山の「殉国七士廟」の前に、関係者とご遺族が列席し、初の慰霊祭が執り行われました。
「殉国七士廟」と書かれた塔?石門? ↓
この左側にももう一本立っています。高さは4-5メートルはありそうな大きなもので、岸信介元内閣総理大臣の書だということです。
モニュメント ↓
ブロンズ製の大きなもので、像本体の高さは6-7メートルあるのではないでしょうか、作品の芸術性はともかく、初見では不気味さを感じました。
殉国七士の墓 ↓
ここに先述した由緒の遺骨が安置されています。
ご遺族の方たちのその後の辛苦を思う時に、胸が締め付けられます。
仏教では死んだしまったらみな仏ですね。
ここでは心を込めてお詣りさせていただきました。
靖国神社問題とは違い、この場限定ですが、他所の国からの批判はこの際問題外だと思いました。