ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

1/8日 御坂隧道手前の天下茶屋から御坂山と御坂峠を往復する。(下の段):富士山の夕景も印象的だった。

2016-01-14 07:11:36 | 草花
太宰治はこの天下茶屋から眺める富士山に対して、複雑な感じ方をしていたようです。
「富嶽百景」の中から引用してみます。
引用開始:
>この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝しように当つてゐて、北面富士の代表観望台であると言はれ、ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞへられてゐるのださうであるが、私は、あまり好かなかつた。好かないばかりか、軽蔑けいべつさへした。あまりに、おあつらひむきの富士である。まんなかに富士があつて、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひつそり蹲うづくまつて湖を抱きかかへるやうにしてゐる。私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた。・・・・・(引用終了)

尤もその当時の文人も同じようなことだったかもしれませんし、「日本百名山」を著した深田久弥でさえも手放しでほめちぎっているわけではなくて、気恥ずかしさを含みながら、「偉大なる通俗」と呼びながらも、その偉大さに兜を脱がざるを得ないと白状しています。

そんな思いを含みながらこのレポートを進めます。
天下茶屋の手前から ↓

河口湖が見えています。天下茶屋前の旧街道からこのように見えます。
これを見て、太宰のように狼狽し、恥ずかしく思いますでしょうか?



太宰治の文学碑 ↓

太宰の死後、井伏鱒二らの発案で建立されたと聞きました。



碑文 ↓

真っ暗になってからフラッシュを焚いて撮りました。(昼は光の乱反射で全く判読不能でした。)
「富士には月見草がよく似合ふ」とあるようですが、この筆体は彼の著作「右大臣実朝」の自筆原稿から集字したものだそうです。



旧御坂隧道 ↓

太宰の文学碑を見てから一旦車に戻り、靴を履き、食料、ヘッドライトを持ち、御坂山、御坂峠往復をすることにしました。



山歩き開始 ↓

枯れ葉が散り敷く道を歩き始めます。



ホソバシャクナゲ ↓

道端に同じくらいの大きさのホソバシャクナゲが何度か出てきました。おそらく天竜水系から移植したものではないでしょうか。



枝の向こうに三つ峠山 ↓

枝の向こうに、夕日に照らされて、次の日に歩く三つ峠山の峰の一つ、御巣鷹山が見えています。



強烈な西日 ↓

あたりに西日が強烈に当たっています。次の日の好天が約束されたようです。



稜線到着 ↓

稜線に着き、これを左に曲がり、稜線歩きになります。時刻は午後4時18分で、日没まで40分ほどあります。



夕陽に浮かぶ富士山 ↓

あたりはひっそりとしていて、富士山をひとり鑑賞しています。



御坂山山頂 ↓

第一目的の御坂山の頂に着きましたが、木の枝に邪魔されて富士山の眺望は得られません。
時刻は午後4時46分で、そろそろ日没タイムですね。
なおも稜線を西進します。



日没時の富士山 ↓

時刻は午後4時54分。このあたりが日没直後なのでしょうね。



色を失う ↓

富士山も色彩がなくなってきました。河口湖は鈍く光って見えます。



御坂峠着 ↓

御坂峠には午後5時15分に着きました。まだ空に明るさが残っています。
ここで持ってきたご飯を食べます。



夕闇迫る ↓

枝越しに富士山と河口湖を見ながら道を戻ることにしました。この後すっかり暗くなっても、天下茶屋に戻るまで富士山は、木の枝越しですが、シルエットで何度か見えていました。



稜線から下る ↓

あたりはどっぷり暮れて、午後6時24分。稜線からの下降点に戻って来ました。
空を見上げると、満天の星が恐ろしいほど、大きく・明るく輝いています。



太宰文学碑前からの夜景 ↓

午後7時ジャスト付近に戻って来ました。これから三つ峠の登山口まで行って、そこで一夜を明かすことになります。
コメント (2)
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