私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  84

2009-01-16 15:02:14 | Weblog
 私のブラグに書いていた「和気清麻呂」が終わり、もう「吉備って知っている」のシリーズを終わろうかと思いました。同時に、この際、「私の町 吉備津」のブログも、なにせ、書く種が無くなってしまったのですから。
 
 約2年半ばかりあちらに行って調べたり、こちらに行っては人に尋ねたりしながら書き綴ってまいりました。
 「おい、そげえなわけも分からんものをけえて、なにんするんなら。はよお止めてしもうたほうがええぞ」
 と、お叱りを受けたりもするのですが、つい、時たまですが、閲覧者数が300以上もあるというのを見て、だからと言ってどういうこともないのですが、ついその気になって恥をも顧みなくて、何やかやとと、それらしくかなぐり書いてきました。

 と、思って、もう一度、和気清麻呂の実績を確かめて見ようと、永山卯三郎の「岡山県通史」に目を通しました。
 何の気なしにめくったページにあったのが「国司藤原保則」という人についての歴史です。かって学生の時分だと思いますが授業か何かで、そんな人の名前を聞いたことがあるように思われます。
 読んでみると、吉備津神社とも深い繋がりがあるではありませんか。偶然、「吉備って知っている」の種が転がっていました。
 まあ、今少しブラグを書け、という吉備津様のありがたい思召しかと思って続けてまいりますのでお付き合いのほどよろしくお願いします。
 

吉備って知っている  83  吉備真備⑩

2009-01-15 20:03:25 | Weblog
 清麻呂も、もう10回の多くを数えます。
 「日本王代一覧」によると。清麻呂の功績については「桓武天皇の十八年卒す」としか出てはいません。
 が、林羅山の「本朝通鑑」によると、この清麻呂の功績が数々書かれています。その中の一つを紹介して「和気清麻呂」を終わりたいと思います。

 私が中学校2年生の時だったと思います。歴史の時間に、桓武天皇が京都に都を移したことを習いました。どうしてそんな話になったのかは覚えてはいませんが、当時、私の通っていた中学校でも、相当の突っ張りで勉強は嫌いで喧嘩ばかりをしているといった不良っぽい同郷の先輩がいました。
 ある時、その先輩が私ら数人を捕まえて、
 「おめえら、その年号を覚える方法を教えてやる。「鳴く(798)や鴬・平安京」と覚えりゃあえんじゃ。よう覚えておけ」
 と、さもよく知っているかのように教えてくれます。
 平生、あまり勉強はできなく、「喧嘩太郎」と異名を持つ、他所の中学生と喧嘩ばかりをしている、陰でタバコをふかしているようなとても怖い先輩から、そんな勉強の話を聞くなんて思いもよらなかったものですから、目から鱗と言いましょうか、ぽかんとしてじっとその先輩を眺めた記憶があります。どうしてかは分からないのですが、なんだか、その時、私は急に大人への仲間入りができたように思えました。
 
 今もですが、その先輩が、どうして私達にそんな彼の柄でもないことを教えてくれたのか、いくら考えても分からいのです。
 
 その「鳴くやウグイス」の平安京に都を移すことを桓武天皇に勧めたのが何を隠そう「和気清麻呂」だったのです。
 本朝通鑑によると、桓武天皇は始めは長岡京に遷都しようとしていたのですがはかばかしく工事が進まず経費ばかりが膨らんでいたのです。ある時、天皇が「葛野(かとの)」に狩をされます。その時「この地に都はどうですか」とを進めたのが清麻呂なのです。そして、遂に、それが実現できたのです。この葛野の地こそが今の京都なのです。清麻呂がおったからこそ京都に御所が造られ平安京が出来たのです。

 平安京といえば、私がすぐ思い出すのが、後にヤクザになったと噂されている先輩の真顔で教えてくれた「鳴くや」です。年号など全て忘れているのですが、この平安京遷都だけの年号は、今でもはっきりと覚えています。

 そんな功績もあったからこそ、清麻呂は、死んだ時に「正三位」という位をおくられています。

 この清麻呂の後、中央政界に於いて活躍した歴史に残る吉備の出身者は、犬養本堂まで見ることはできません。

 くしくも奈良期という日本歴史の激動な時代に、ほぼ時を同じくして活躍した吉備出身の「吉備真備と和気清麻呂」の名は、日本の国が続く限り、その名は永遠に歴史の中に留められることになると思います。

吉備って知っている  81 和気清麻呂⑨

2009-01-13 19:45:12 | Weblog
 もう少々清麻呂の事をお話しします。
 清麻呂の姉「広虫」は、現代では、この吉備の国でも知る人はほとんどいないと思います。地方出身の女性として歴史に残る活動をしたのです。今までは美人であったからちやほやされる程度の人はたくさん出ています。奈良期という天皇中心の男社会で目を見張るような歴史的活躍をした女性の人がいたでしょうか。
 この「和気広虫」こそが、当時の平城京の中で、自分の思いを存分に発揮し、女性でしかなしえなかった政治を行った人なのです。
 それまの歴史を振り返ってみると、天皇の思い人になったとかいう女性は吉備からは数多く出ていますが、「和気広虫」こそ、女性が政治の前面に出て活躍した人はいないのではないかと思いましす。
 例の恵美押勝【藤原仲麻呂】の乱で見せたあの素早い対応は、目を見張るばかりの驚きの歴史的事実です。
 750年代にですよ。まだ「奈良時代」の真っ最中なのですよ。
 戦争犯罪で、死罪に処せられるとされた人「375人」ですよ。
 今、世界では「たった500人が」と、いとも安易に爆撃死させられています。「ガザ」での子供たちですよ。
 ところがですよ。今から1300年も前の話ですよ。これら375人の死罪になろうかと言う人を、「広虫」は天皇に直疎して、島流しの刑にして、命を助けているのです。
 「罪を憎いん、人を憎まず」、これは民主主義の根本理念です。ヨーロッパで生まれた民主思想です。その考えが生まれる遥か遥か昔に、日本では、8世紀には、もうその民主的な考えが芽生えていたのです。それも女性からです。周りにいる人々の暮らしをいつも冷静に見つめることができる度量が備わっていたのです。
 それの基が「広虫」の行いなのです。
 この後、更に「広虫」は、飢えや病気で親を亡くして途方に暮れていた子供を、私財を投げ出して、83人の子を養子にして養育しています。
 「福祉社会と岡山」というと、直ぐ「石井十次」を思い出す人が多いと思いますが、そのルーツは、「広虫」そのものなのです。誰もが忘却の彼方に追いやってしまっているのですが。この人を忘れては福祉社会を語ることはできないぐらいの吉備が生んだ、歴史的重要人物なのです。
 
 今、困っている者を、「即」助ける。これが「広虫」の真骨頂なのです。それまでもに誰もがなしえなかった社会福祉の原点なのです。
 「今しなくてはならないことを真っ先にやる」
 これが政治だと、身を以て訴えたのではないかとと思えます。本当に誰かさんに聞かせてやりたいような話ではありませんか。
 こんな「広虫」です。道鏡事件で、一時、備後に流されてはいますが、再び、都へ帰り桓武天皇のもとで活躍しています。
 位も「従四位上」という坂上田村麻呂と同じ位を女性として授かっています。
 最後は「典蔵」という位について、朝廷の女官の最高責任者として、天皇政治を側面から支えていきます。
 だからこそ「従四位上」なのです。 

 こんな素晴らしい女性を生んだのも吉備の国なのです。日本の歴史に書き込まれた表には現れない、陰の歴史を支えた重要なる女性の一人でもあるのです。
 

 なお、「典蔵」という位は大宝令の「後宮職員令」の天皇家を支える女官の中の最高位の人です。
 

吉備って知っている  80 和気清麻呂⑧

2009-01-12 11:46:17 | Weblog
 清麻呂が、再び、歴史の中に名を刻まれるのは、光仁天皇の後の桓武天皇の時代です。
 本朝通鑑には「摂津太夫」「民部大輔」「摂津長官」「中宮太夫」などと、約2年おきに毎回栄進した様子が書き込まれています。
 さて、これはどうでもないことのようですが、清麻呂は中央の朝廷政治にいながら、地元、美作備前のためにも大変役立つ仕事をしています。その例が出ています。
 
 桓武天皇の延暦7年6月のことだったそうです。本朝通鑑には「清麻呂は言う」と書いてあります。
 即ち、
 「備前国和気郡の百姓170人余りが来て言う。吾々は、元赤坂と上道二郡の側に住んでいた。それが天平神護二年(765年)に和気郡に組み込まれ、今は、郡の政治は藤野郷で行われている。この真中に大河が流れていて、しばしば洪水によって藤野郷へ行くことができず村の政治に支障が生じている。どうか昔のように河東を和気郡に、河西を磐梨郡にして、政りごと西と東でしてほしいと訴えてきので許した」
 と。

 真備が下道郡のためにどれだけの仕事をしたのは明らかではないのですが、清麻呂は、中央にいても、自分の出身の備前国のための仕事もしているということがわかります。

 延暦九年には、清麻呂は「正四位下」になっています。なお、姉の広虫は「従四位上」になっています。この位は例の征夷大将軍「坂上田村麻呂」と同じです。広虫がいかに女性として中央で活躍があったかわかります。

吉備って知っている  79 和気清麻呂⑦

2009-01-11 11:28:48 | Weblog
 さて、この道鏡の皇位覬覦(きゆ)事件ですが、「覬覦」という、まあ本当に難しい漢字を使うのですが、「望んではならないことを望む」という意味なのだそうです。
 まあ、その後、なんやかんや天皇と道鏡の周りには摩訶不思議な事件は起こりますが、一方で、この称徳天皇の政治を右大臣として支えていたのが正二位「吉備真備」です。道鏡のなすがままで、その力を抑えることができなかったとして、真備の力を揶揄する後世の学者のいます。水戸光圀などがその最たる人です。でも、その一方で、和気清麻呂を陰から強く支えて、道鏡の野望を打ち砕いた人として評価を下す人もいたようです。道鏡が清麻呂を死罪にしようと天皇に訴えたのを、陰で、天皇に大隅に流罪するように進言したのが真備だとする人もいます。  
 が、歴史はその辺りのことは何も語ったてはいません。

 この事件の翌年には称徳天皇も崩御されます。
 次の天皇をだれにするということで吉備真備は、藤原百川などの藤原一族に破れ下野し、それからは政治の舞台からすっかり姿を消してしまいます。この時、真備の年は七十六歳だったそうです。相当長い年月渡って、平城京の政治の中枢にいて活躍したと思えます。
 光圀が言うように「道鏡」の言いなりになった薄っぺらの人ではない、誰かがこう云うからと、周りばかり眺めて、自分の政策を打ち出さないで人気が20%台に落ち込んだどこかの国の総理より違って、深慮遠謀のもと、自分の信念に基づいて政治を行う偉大なる吉備の国が生んだ大政治家であったのではないかと、私は思います。そうでなかったら、七十六歳まで右大臣が務められますか?、決して務められないと思います。
 その真備も次の光仁天皇の六年に薨ります。
 
 少々、また、例の通り横道にそれますが、この光仁天皇の父は、
 「石激る垂水の上の早蕨の燃え出る春になりにけるかも」
 の志貴皇子です。それまで続いていた天武天皇系の天皇でなく、天智天皇のお子です。
 この歌は、そんな喜びの絶頂時分の歌なのだそうです。そんな思いを持ってこの歌を読んでみますと、その時の志貴皇子の気持ちが十分理解できます。

  
 さて、称徳天皇が崩御された後、道鏡は、世を簒(うかが)わんとした悪人であるが、天皇の恩深い人であったため死罪とはならず、下野国の薬師寺の別当にして送られ、そこで病死したようです。
 大隅に流された和気清麻呂は許されて、その姉と一緒に、都へ呼び返されていますが、光仁天皇の時には、何も歴史は語っていません。再び、歴史に出てくるのは、その次の桓武天皇の時です。

目から鱗の話

2009-01-10 17:29:55 | Weblog
 この前です。我が家でも七草粥をして(これを確か私の故郷「美袋辺りでは、「なのかべぞうしい」と言っていたと思うのですが、この「ベ}はどんな意味だかわかりません。多分、正月七日目のという言葉が、{べ}、そんなふうに聞こえたので、私の耳に残っているのではないかとも思います)、一年の無病息災を祈りました。
 勿論、七草は、吉備津神社の参道付近の田圃の畦道などで探しました。決してデパートから買ってきたものではありません。念のため。「オギョウ(ハハコグサ)」と「ホトケノザ(コオニタビラコ)」も見つけることができます。小学生の孫たちと毎年摘んでいます。だから、孫たちには、何が「セリ」、何が「ナズナ」であるか、その草は七つ見つけることができると思います。
 摘んできたその七草を洗って(これは祖母の専用です)いよいよ包丁で切り刻みます。これも子供用の包丁を祖母がちゃんと用意しています。手を切らないようにと。
 さて、その七草を切る時は、当然、七草のはやし歌を歌いながら切ります。
 今までに、私の母から伝わった通りのはやし歌に従って孫たちにも切らせます。

 「七草なずな、唐土の鳥と日本の鳥の渡らぬ先に・・・・」
 
 と、唱えながら49(7×7)回、カタカタとまな板の上にある七草を勢いよく切っていくのです。どうしてここに「日本の鳥」が出るのか、これまではあまり気に留めないで、それがごく当たり前のおはやしことばと思いこんで、子供たちにも教えておりました。
 私が、かって、公民館でこの地域の子供たちのために、七草の行事を催したことがありました。その時も、やっぱり、このはやし言葉を教えていました。おかしいとも思っていなかったのです。今から思えば、知らないということは恐ろしいことですね。
 ところがです。
 今朝の【朝日新聞の声】の欄に、大阪府枚方市の鍵山奈美江さんが、七草粥を食べる時に「ヨシ」の箸を使うのだということと、一緒に投稿されていました。「ヨシ」は私たちの周りにはないので使ったことはないのですが。
 
 『「七草なずあん、唐土の鳥が日本の土地に、渡らぬ先に・・」と歌って七草をたたいた。』

 と、お書きになっていらっしゃるではありませんか。
 「そうか。日本の土地にか。それだと意味がよくわかる」と、目から鱗です。早速孫たちに知らせ、じいちゃんの早合点を誤りんす。

 なお、鍵山さんは
 「・・・・日本の四季の豊かさを知るためにも、長く受け継がれてきた伝統行事をこれからも大切にしていきたい」
 と、文を結んでおられます。
 張った殺したと何かぎくしゃくとした今の世の中、こんなゆとりを日本人のみんなが大切にすると、世の中はもっともっと明るくなるのではないでしょうか。
 これが「老人力」であると思います。老人は、まだまだ引っこんでばかりいないで、私たちの周りには、気をつけて見ていくと、老人でなくては活躍ができない舞台がいっぱい転がっているように思えます。自分の家庭だけでもいいのです。「いらんことばあして」と、非難ごうごうですが、積極的に自分の持っている「老人力」を発揮するよう、毎日、私は張り切っています。

 今日は吉備津神社の「えびすさま」です。例の「ささもてこい」が聞こえています。
 我が家にも「戎」がお出ましです。これも私の「いらんことばあして」の老人力です。まあ、一人楽しんでいます。
 
 
 

吉備って知っている  78 和気清麻呂⑥

2009-01-09 15:51:57 | Weblog
 清麻呂が宇佐大神の神託どうりに天皇に報告した結果について、「清麻呂伝」には
 「清麻呂を、即刻、殺すように道鏡は天皇に進言したのですが、天皇は殺すことは忍びず「因幡員外介」にして、名も「穢(きたな)麻呂」とし、その姉「広虫」の名も「狭虫(さむし)」と改めさせて、大隅国に流します。道鏡は、それでも清麻呂が憎くて仕方ありません。刺客を送って殺させようとしますが、刺客が清麻呂に迫った将にその時、一天俄かにかき曇り、辺り一面真っ暗になり稲光と共にものすごい豪雨が降りしきり、刺客も清麻呂の姿が見えず、殺すことができなかったのです。そこに味方が大勢集まってきて、清麻呂は助かったのです。しかし、その時のショックで清麻呂は足が萎えて一歩も歩くことができなくなったのです。その時。道に三〇〇頭ばかりのイノシシが出てきて道に挟んで並び、清麻呂を十里ばかり運んで山中にある社に連れて行ったのです。その社に詣でると途端に、清麻呂は歩くことが出来たのです。それを見た周りにいた村人たちがことごとくに驚いたそうです」
 林羅山の本朝通鑑に出ています。
 また、この本には「宇佐託宣集」に記されている文も載せています。それによりますと
 「道鏡は清麻呂が宇佐から帰ってくるまでに、周りの人に、
 『我は必ず皇位に就く』と、自信満々に語ったていたという。
 それが、帰ってきた清麻呂の言った言葉に、呆然自失です。その書きっぷりの、また、なんて漫画的なのかと驚かされます。まあ、読んでください。
 まず初めは、「王代一覧」から、
 「道鏡大いに怒て、眼の色は血の如く赤なり、其面或は青くなり、或は赤くなり大息ついて清麻呂を睨みつける」
 この文の元になったと思われる「本朝通鑑」には
 「道鏡大怒。目光変血。面色或青或赤。大息睨視曰。是真奸人也」

 誠に簡潔にして要を得ている書きっぷりです。漫画そのものです。「是元漫画也」です。

 なお、この宇佐託宣集には、怒った道鏡が清麻呂の脚筋を切って伊予の国に流したとあります。すべて作り話の匂いが伺えますのでどれが本当か分からないのが実情です。
 だからこそ、林羅山も、集めた沢山の資料を総て載せているのです。さすが羅山だけあります、誠に筋の通った客観的な歴史の見方をしているものだと驚かされます

吉備って知っている  77 和気清麻呂⑤

2009-01-08 10:02:15 | Weblog
 再び和気清麻呂の話に戻します。
 長(たけ)3丈ばかりの形に現れた宇佐大神の影向の曰く、
 “我国ノ天ツ日嗣は神代ヨリ代々皇胤の外、臣トシテ伺ウベキニアラズ、況ヤ無道ノ者ヲヤ。汝帰テ、アリノママニ申スベシ道鏡を畏ルルコトナカレ”
 と。
 清麻呂はもとより仲節の者なれば、この神託を肝に銘じて都へと帰るのです。
 都へ帰った清麻呂、早速、参内して天皇の御前に進みます。天皇の御側に侍っていた「道鏡」は椅子によりかっかって「神託いかに」と、聞きます。
 清麻呂少しも諂(へつ)らわず、ありのままに奉聞します。
 「天皇モイト興ナク思シ召ス」と、いとも簡単に天皇の反応を、この王代一覧には書いてあります。この「興なく」という言葉をいかに解釈すべきか迷うのです。
 「ふん、やっぱり八幡大神の思召しはそうか。道鏡を天皇にはできんか。面白うない。仕方ない諦めようか」
 と思ったのか、それとも、
 「この清麻呂のやつ、私の熱い思いを踏みにじったな。どうしてくれようか」
 と、じだんだ踏んだのかはわかりません。
 あなたならどう思いますか。いろいろな本を読んでみますと、これまでの日本の多くの歴史学者もこの言葉に随分と迷ったのではないかと思われます。いろいろな解釈ができるものですから、意見もいろいろと分かれています。
 それは、清麻呂が、この事件の後、「続日本記」によると「穢麻呂」と名を替えさせられていますが、激怒した天皇が替えさせたとする人と、この「一覧」のように、道鏡が替えさせたとする人にわかれていることからもわかります。

 あなたならどう解釈しますか。ご意見を賜れば幸いに存じます。
(Recent Entryよりどうぞ)

七草です

2009-01-07 20:26:26 | Weblog
 ふつうは朝、七草を入れた粥を作って、まず「神棚」にお供えして家の邪気を除いてから、みんなで頂いていたのですが、我が家では、昼に摘んできた七草を孫たちと「七草なずな、日本の鳥と唐土の鳥の渡らぬ先に七草なずなと」うたいながら、一緒に切り刻みます。49回包丁でたたくとも言われますが、二歳の孫がいますので適当に刻み込みます。
  
 これが我が家の周りで摘んできた今年の七草です。
 「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すすな、すずしろ」です。子供たちが小学生にもなると、去年までは一緒に摘みに行っていたのですが、何やら忙しくて一緒には摘みに行く暇がないのだそうです。仕方なく私が摘んできておきます。
 
 小学生の孫は鯉山小学校一年生です。担任の先生が四月から、子供たちに百人一首を覚えさせてくれています。
 君がため 春の野に出でて 若菜つむ・・という光孝天皇のお歌を、今年の七草の話題にと思ったのですが、残念ですが、まだ、その歌は覚えてないとのことでした。
 
 ここでちょっと、我が家の七草を説明しておきます。
 摘んできた七草は普通なら粥にして頂くのですが、我が家では雑炊にして、その中に餅を入れて頂きます。
 私が子供の時分には「七日の雑炊底うれし」といって、この日に頂く夕飯を大いに楽しみにしていました。 正月に食べたお餅がもうこの頃にはなくなります。どのようにして取っておいたのか知れませんが、この七草までは、その日家族が食べるだけの数のもちを大切に取っておいて、そのお餅をいただけるのです。もう、今年は食べることができないと思っていたお餅が食べれるのです。だから、学校から帰った後、周りのみんなと、七草を摘みに行くのが楽しくて仕方ありませんでした。私の家は家族が八人でしたから、きっと母は食事の用意だけでも大変だったのではないかと思います。
 その夜、鍋一杯に出来上がった雑炊を上から上から食べていって、最後に残った底に思いもかけなかったお餅が出てくるのです。その最後の御茶碗に雑炊をよそってもらった時の気持は、70を過ぎた今でも、はっきりと覚えています。
 この「七日の雑炊底うれし」という言葉は、昔の貧しい農村の風習を伝える言葉でもあるのです。そんな事を孫たちに毎年聞かせています。

吉備って知っている  76 和気清麻呂④

2009-01-06 10:23:13 | Weblog
 天皇から、姉「広虫」に代わって、清麻呂は、宇佐八幡宮に勅使として参り、「能く敬で聞いて帰れ」と命じられます。その清麻呂が御前から下がる時、道鏡は人を退けて清麻呂に囁くのです。
 「此度の勅使は、我に帝位を譲らるべきや否と、八幡大神に問わるるところなり。其心得を以て、神託を言上すべし。汝が返事によりて、我即位せば、汝を大臣となして、国の政を任すべし。若し、返事悪くは、重き罪に行うべし」
 眼を怒らせ、刀に手を掛けて脅したのです。

 それから清麻呂は宇佐に参詣します。
 宇佐八幡に詣でた清麻呂は
 「これは大変な国家の大事なり。たとえどんな託宣があっても卒爾には信じがたい。どうか願わくば一つの不思議を示し給え」
 と、大神に祈念します。するとどうでしょう。大神はたちまちに長(たけ)三丈ばかりの形を現じて影向があったのです。その光は満月のごとく照り輝きあまりはまばゆい過ぎて、まっすぐにその影向を仰ぎ見ることがでず、ただただその場にひれ伏すのみであったと。
 この部分を原文では
 「其光り満月のごとし、清麻呂伏拝して、仰ぎ見ることあたはす」

 この辺りの表現の何と漫画的なのかと驚きます。
 日本発の文化として、現在、世界中の若者の人気の中心となっている「日本のアニメマンガ」のルーツがここにあるのではと考えられます。
 宮崎駿も手塚治虫も不二子も、総て、ここああたりから出発したのではと思います。彼らが日本以外の国に生まれていたなら、決してあんな世界を圧卷するような日本的な漫画文化は生まれてはいないと思えます。
 日本の遠い時代から続いている伝統的なこんな書きっぷりの文化があったからこそ出来上がったものではないかと思えます。古事記や日本書紀の時代からの伝統があったからこそ出来上がった文化ではないかと考えられます。

 この清麻呂の宇佐八幡宮のご神託の有様を書いた表現も宮崎駿の漫画(絵かも)によって表わす表現も、古来から脈々と続いている日本文化の中から生まれ出た発想ではないかと思えるのです。突然に彼が創造したものではないのではとも思えます。
 
 また、そんな日本文化が、ノーベル賞のような偉大な世界的な賞を多くいただける日本人を生んだのではとも思えます。

吉備って知っている  75 和気清麻呂③

2009-01-05 11:41:33 | Weblog
 ちょっと間が開き過ぎたきらいもしないではないのですが、再び、和気清麻呂について述べてみます。
 前にも書いたのですが、和気清麻呂は吉備真備とほとんど同時代の吉備人です。真備の方が40歳ばかり年上です。
 二人とも孝謙天皇(称徳天皇)に仕え、奈良朝廷で活躍していました。特に、恵美押勝の乱の活躍等でその力が認められて頭角を現したのが清麻呂です。
 ちょうど孝謙天皇が重祚(同じ天皇が二度天皇になること)して称徳天皇になった頃です。天皇の病を祈祷で治癒させたことから厚い信任を得た弓削道鏡が政治を動かしていました。
 そんなある時、大宰府にいた阿曽麻呂という者がその道鏡の威勢の強いのをを見てこびへつらって
 「宇佐八幡宮の神託でございます」
 と言って、道鏡が天皇になると天下は更に太平になり、人々が安心して暮らせる平和な世の中になると、天皇に説いたのだそうです。それを聞いた天皇も、道鏡をこよなく愛していましたので、それもいいかなと思っていたのですが、そもそも帝位にかかわることです。天皇の私事にもできず、とりあえず「宇佐八幡の神託を受けてみる」ことになったのだそうです。天皇は、その宇佐八幡への使いを清麻呂の姉「広虫」に決めたのですが、その頃病気勝ちで、その任に堪えないということがわかり、その弟清麻呂に代役を務めさせることにしたのだそうです。
 天皇の曰く
 「八幡大神、夢の告げあり。汝を勅使として宇佐に遣わす。よく敬(つつしん)で神託を聞きて皈(かえ)れ」
 と。
 清麻呂は謹んでその天皇のお言葉を聞いて御前を退いたのだそうです。

 ここからがまた面白いのですが、まあ続きは明日にでも。
 
 なお、このお話は文政年間に出た「日本王代一覧」より書きました。
   
 昨年の暮れにお亡くなりになった門脇貞二先生などは、もう少し違った角度からこの事件を見ておいででした。

お正月をもう少々

2009-01-04 11:15:59 | Weblog
 正月もあっという間に過ぎてしまいました。それにしてもこの3日間の吉備津神社へのお参りは相当なものでした。
 昨日、午後からお参りした近所の人が、
 「これぐれえぎょうさん人がお参りしているのを、今までに見たことがねなえ。おおぜえのお人だったでえ」
 と、目を白黒させながら驚いたように報告していました。不景気の時は、お参りが多いいとは聞いていたのですが、今年はちょっと異常だったようです。まあ「平成のお屋根替え」の効果だとは思うのですが。
 今日も、今は11時を回ったいますが国道180号線の下り路線は車でいっぱいです。

 さて、我が家の正月のお付け物について、少しばかり書いてみます。
 松、榊、梅、竹、ウラジロ、昆布、ホンダワラ、橙、千両、ヤブコウジ、ナンテンなどは必ず用意します。お飾りに付けたり、鉢植えにしたり、生け花にしたりして使います。
 食べ物としては、御節料理に鯛、海老、昆布巻き、くりきんとん、数の子、ひらきごぼう、大根、たづくり(ごまめ)などがお重に入れられて食卓に並びます。
 出来たらならば、我が家では、膳を出して、しめ縄や鏡餅などの正月飾りをしている床の間の前で、家族全員で、元旦の食事を頂けたらと思うのですが、山の神様のご許可が、どうしても下りず、仕方なく台所でいつもの通りの平凡な正月をしています。祝うのではありません。ただ普段と同じに食べているだけです。新年の改まった気持ちなど、そこには、ほんのひとかけらもありません。感謝する心もそれだけ薄くなるのですが、その辺りが、めんどくさいという気持ちに負けてしまっているのです。まあ、それはそうとして、屠蘇も全員で頂きます。(今年は新潟の「久保田」が手に入りましたのでそれにしましたが、毎年各地の銘酒を使っています)、それから雑煮になります。
 念のために、我が家のお雑煮も説明します。この辺りの家と違いはありませんが。お餅は、焼いた丸い白餅とゆでたお餅を使います。(小さい時にそれぞれの母がやっていた仕方に従います。私はゆでたお餅を、家内は焼いたお餅を)それに昆布とかつおとじゃこのだしを使ったお汁に、ホウレンソウ、ごぼう、人参、ユリ根、蛤、ぶりを入れて頂きます。

 なお、屠蘇は一番小さな子供から段々と順番に飲んでいくという作法があったのですが、いまでは一斉に「明けましておめでとうございます」と言って乾杯風に飲んでいます。

 それからこれも、今では、我が家では誰も知らないことなのですが、お重は3段重ねになっていますが、本来は、私の祖母などの話によると四重の組重(くみつけ)であったらしいのです。
 一重には春を意味する(青菜など青いもの)、二重には夏を意味する(人参など赤いもの)、三重には秋を意味する(イモなど白いもの)、四重には冬を意味する(シイタケなど黒いもの)の四重であったものが、四という数を嫌って、三重にしたり五重にしたりするようになったと伝えられております。

 家々でそれぞれの正月の付け物やお料理はあると思います。これでなくてはといったものではないのですが、それぞれの家庭で正月を祝っているようす。

 最後に、近頃、正月に、この田舎でも、まったく姿を見せなくなったものに、神棚、若水、門松、羽子板、凧揚げ、双六、かるた、宝船などがあります。テレビで見るのが関の山です。少々さびしいのですが、「まっ、いっか」ぐらいの所にしておきたいです 

再び「年歳(とし)」ついて

2009-01-03 12:47:12 | Weblog
 昨日、「明けましておめでとう」の起源について話しましたところ、早速、例の緒石塊氏よりお叱りのメールが届きました。
 「田寄せなどという言葉はありゃあせん。正月早々ええかげんにせえ」というのです。続いて
 「年というのは疾(とし)の義で、あっという間に過ぎ去るという意味で、疾(と)く々進みゆくので年(とし)を疾(とし)の義にしたのある。これが本当の年の意味だぞ。覚えておけ。どこからか知れんがええ加減な説を拾いだしてきて、これこそが本当の「年」の意味だなんて堂々と書く馬鹿がどこにおるか。よく心して書け」
 と、悪口雑言を浴びせかけてきます。さらに、緒氏は
 「その証拠として古今集に、こんな歌があるのを知っているか。知らないだろうから教えて進ぜる。
   “とどめあへず むべも〈とし〉とは いわれけり
               しかもつれなく すぐる齢(よわい)か”
 ちいでに、この歌の意味も教えてやるから覚えておけ。
 留めようとしても留められず年が疾しといわれるのはもっともなことだ。自分の意志とは関係がなくつれなく老いてゆく年齢であることだよ、ぐらいの意味だ。わかったか」
 というのです。早速お礼のメールを送っておきました。正月早々いやはや、どんだことでした。
   
 それから吉備津神社の三味線餅つきを見学に行きました。にぎやかなお囃子をバックに、威勢のいい杵の音が新装なったお屋根に響いていました
    
 それから御陵に参拝して、
   
成親の御墓にも詣で東細谷川を下りてきました。

 なお、鏡岩に立ち寄りて一首。

  鏡岩 いざ立ち寄よりて 見てゆかむ
           年経ぬる身の 先のありやと

 これが私の正月3日でした。
 

「明けましておめでとうございます」という言葉

2009-01-02 17:22:05 | Weblog
 「明けましておめでとうございます」と、ごくごく当たり前の正月に取り交わされる言葉でが、何時の頃からかは、定かではないのですが、日本の人々の間で使われるようになりました。
 こんな「明けましておめでとうございます」という新年のあいさつ言葉を交わす国民は、多分日本を置いて他の国にはないのではと思っています。
 英語の[happy new year]という言葉とは、大分その意味が異なるのではないかとも思います。中国や韓国ではどんな言葉が交わされるのかは分からないのですが。
 
 日本で使われているこの「明けましておめでとうございます」と言う言葉は、元々は宮中で行わていた新年の儀式の中で使われていたのだそうです。新年初めに行う天皇の神に対する敬虔な敬いの儀式から起こったと言われています。
 年とは、本居宣長は「田寄せ」という言葉がつまって出来たと言っています。
 「tayose」の[tayo]がつまって「to」「と」に、「se」が「し」という音に変化して「とし」即ち「年」になったという。
 神の御霊が田を興して、そこから出来上がったその年の穀である稲を天皇に寄せ給わるのが「田寄せ」という意味なのです。
 その天皇に寄せ給わった穀(こめ)を、われわれ国民にも分け頂いているのだ。だから、それを頂いている我々も天皇と一緒に神に感謝しなくてはなりません。だからみんなこぞって、「頂いてありがとうございます。深く感謝しています」即ち、「めでたい事でございます。おめでとうございます」なのです。
 更に、新たな年にも、また、昨年と同じように、神のご加護がありますようにと祈る心が、この「おめでとう」という言葉の中にはあるのです。神に対する感謝の念が込められている言葉なのです。
 新たな年を神に賀し「敬う」、そんな心が、いつしか人々の年頭のあいさつ言葉になっていったのだそうです。だから、「明けましておめでとうございます」です。
 初詣もそんな思いから始まったとも言われます。

 それはそうと、今年の吉備津神社の初詣客は例年になく多く、境内は混雑を極め、あちらからもこちらからも「おめでとうございます」の声で大いににぎわっていたと、「三味線餅つき保存会」の人が言っていました。
 

普賢院への初詣

2009-01-01 17:44:05 | Weblog
 除夜の鐘を聞きに町内の普賢院にお参りしました。
 本堂では和尚様による読経がようやく始まったばかりです。入口の扉も開けられ、真っ暗なお堂の中には、お寺にお参りの人のためにでしょうか、ストーブの火が赤々と燃えています。そんな本堂を回って、まず初めに、裏手にある鐘つき堂に参ります。若いお坊様による読経と突く鐘の音が、寒々とした明け初めた新年の空に響いています。そこで、しばらく鐘の音を聞いてから、次に、聖天様の御堂に回ります。締め切った明るい広いお堂から、これまた若いお坊様による木魚の音に合わせて読経の声が響きます。
 この普賢院の向こうにある吉備津神社へお参りする人々のせわしげに行き交う気配が、がやがやと聞こえてきて、読経と鐘の音のこの寺の新年の厳かさを一層盛りたててくれて、清新な心が呼び込められるような気がします。
 そんな木魚と鐘と僧侶の読経が流れる中を、再び、本堂にお参りします。
 明け放たれているお堂に上がり、私には分からない読経のための儀式があるのでしょう、そんな作法通りの儀式が行われている真っ最中の和尚様の後ろに正座します。胸を貫いて永遠の世界に引き込まれそうな読経の声は、所々に灯されている燈明の堂内一杯に広がります。
 空の世界を漂っているかのようです。何となく自分も今年一年の幸を授かったように思えます。
 
 「こんなに寒いのに、行かんでもええが」
 「どうしても今年は参りする」
 娘たちと義母との今年最後の小さな争いがありましたが、結局、母親が勝ちます。
 そんな母を伴っての今年のお参りでした。足の悪い母は本堂にまでは上がれません。私が母やその娘たち3人を代表して3本のお蝋燭とお線香を供えて来る年への希望を祈ります。
 灯した3本のお蝋燭の火がゆらゆらと燃え堂内に輝きます。お線香の煙もその光と競合するかのように、ふおふおと、和尚様を通り越して、御本尊様の方へ吸い寄せられて行きます。お鐘突き堂からは鐘の音が、聖天様からは木魚の音がその光と煙を守ってくれるように届きます。
 
 「ああ、今、私はみんなと生きているのだ」という強い気持ちにさせてくれた今年の私の初詣でした。