私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  89 藤原保則⑤

2009-01-24 10:43:41 | Weblog
 この保則は、又、神を深く敬ったのだそうです。
 次のように書かれています。

 「備前、備中の境目に吉備津彦神あり。国に水旱干あれば、即ち自ら往きて之を祈る。必ず観応を致す。もし境中(備中の国)に姦(禍)あれば神必ず之を罰す。神甞(かっ)て形を見はして語りて曰く、『公の徳化に感ず、こいながわくば公の冶を為すを助け、この善積(徳政)を終らしめん』
 と。
 是によって、両国(備中と備前)を治化し年荐(しきり)に豊穣し百姓和楽す」

 吉備津宮も保則の政治を助けたもうたと言うのです。

 当時の政治は、今と違って、その重要な部分は天地の神々を祭る「神祗」というものに重きがおかれていました。特に10世紀の初めに決められた延喜式神名帳に記載された神社を「式内社」と呼ばれ、朝廷から官社として認識されていた神社でした。県内にも55社があります。これらの神社では毎年の祈年(きねん)祭(毎年二月四日)に、朝廷からの使者から直接に幣帛を受け、その一年の豊穣を祈願したのです。その中で、古来より霊験が著しいとされる名神を祀る神社があります。古代社格制度における大社(官幣大社)に列しているので、「名神大社」とも、「名神大(みょうじんだい)」とも呼ばれている神社があります。  調べてみると吉備の国では、備前の安仁神社、備中の吉備津神社、美作の中山神社の3社しかありません。備後にはありません。それにしてもあれほど古代から勢力を持っていた吉備の国にどうして3社しかなかったのか不思議です。大和には29、摂津には9、近江には10、隠岐にさへ3つもあるのにです。
 まあ兎に角として、国司として備中にやってきた「藤原保則」が、名神大吉備津神社を大変に大切に敬慕したのは、人々の心を和らげるに最も大きな作用を及ぼしたものであると想像がつきます。
 彼は、それまでに持っていた国民の国司に対する不信感と言うかそんなな感情を和らげ、「今度の国司は前の国司とは全然違う、信頼してもいい」という気持ちを住民にもたせる掌握方法を熟知していたのではないかと思えます。国司である支配者の自分と被支配者の国民の共通の「神」に対する尊崇と言う手段を使ったのです。
 神、吉備津彦命が姿を見せて保則に語ったというのも、その辺の保則の住民掌握の演出ではなかったかと思われます。
 あたかも、オバマが語ったリンカーンと同じ効果を使ったのではと思います。
 当時は国民に伝える国司の報道手段はごくごく限られた範囲にしか働きません。人の口から口だけの手段しかありません。識字能力も0に近い時代ですから、想像以上に、その効果が大きく深く広くゆったりと大波のように国中を、それもあまり時間をかけずに急激に駆け巡って行ったように思えて仕方なりません。
 口から口へと言う手段は、尾鰭羽鰭がくっついて、時としては話に真実味が一段と増してくるものでもあるのです。そんな事をも計算に入れてやったことではないかもしれませんが、国司としては最高の人を当時の備中国の人々は偶然にも享受したのでした。