私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  79 和気清麻呂⑦

2009-01-11 11:28:48 | Weblog
 さて、この道鏡の皇位覬覦(きゆ)事件ですが、「覬覦」という、まあ本当に難しい漢字を使うのですが、「望んではならないことを望む」という意味なのだそうです。
 まあ、その後、なんやかんや天皇と道鏡の周りには摩訶不思議な事件は起こりますが、一方で、この称徳天皇の政治を右大臣として支えていたのが正二位「吉備真備」です。道鏡のなすがままで、その力を抑えることができなかったとして、真備の力を揶揄する後世の学者のいます。水戸光圀などがその最たる人です。でも、その一方で、和気清麻呂を陰から強く支えて、道鏡の野望を打ち砕いた人として評価を下す人もいたようです。道鏡が清麻呂を死罪にしようと天皇に訴えたのを、陰で、天皇に大隅に流罪するように進言したのが真備だとする人もいます。  
 が、歴史はその辺りのことは何も語ったてはいません。

 この事件の翌年には称徳天皇も崩御されます。
 次の天皇をだれにするということで吉備真備は、藤原百川などの藤原一族に破れ下野し、それからは政治の舞台からすっかり姿を消してしまいます。この時、真備の年は七十六歳だったそうです。相当長い年月渡って、平城京の政治の中枢にいて活躍したと思えます。
 光圀が言うように「道鏡」の言いなりになった薄っぺらの人ではない、誰かがこう云うからと、周りばかり眺めて、自分の政策を打ち出さないで人気が20%台に落ち込んだどこかの国の総理より違って、深慮遠謀のもと、自分の信念に基づいて政治を行う偉大なる吉備の国が生んだ大政治家であったのではないかと、私は思います。そうでなかったら、七十六歳まで右大臣が務められますか?、決して務められないと思います。
 その真備も次の光仁天皇の六年に薨ります。
 
 少々、また、例の通り横道にそれますが、この光仁天皇の父は、
 「石激る垂水の上の早蕨の燃え出る春になりにけるかも」
 の志貴皇子です。それまで続いていた天武天皇系の天皇でなく、天智天皇のお子です。
 この歌は、そんな喜びの絶頂時分の歌なのだそうです。そんな思いを持ってこの歌を読んでみますと、その時の志貴皇子の気持ちが十分理解できます。

  
 さて、称徳天皇が崩御された後、道鏡は、世を簒(うかが)わんとした悪人であるが、天皇の恩深い人であったため死罪とはならず、下野国の薬師寺の別当にして送られ、そこで病死したようです。
 大隅に流された和気清麻呂は許されて、その姉と一緒に、都へ呼び返されていますが、光仁天皇の時には、何も歴史は語っていません。再び、歴史に出てくるのは、その次の桓武天皇の時です。

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