私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

孫娘への手紙

2009-01-31 20:50:58 | Weblog
 我可愛い孫娘(鯉山小3年生)から、夜、次のような質問の電話がありました。
 「人は火はどうやっておっこしていたのでのでしょうか?」と、云うのです。

 さていかに答えればいいとお考えですか。

 私は次のように答えておきました。

 「人がまだ火を見つけていない30~50万年前のことです。ある時、かみなりさんか何かで山火事が起きました。それまでは、ただ、火は恐(おそ)ろしいものとばっかり思っていたのですが、この火をじょうずに使かえば、人にたくさんのいいことしてくれるということを教えてくれました。
 ・あたたかいこと。
 ・おそろしい強い動物からみをまもってくれること。
 ・やけあとにあったやけた動物の肉や植物の種を食べてみると、今まで生のまま  食べていたのとはちがって、とてもおいしかったこと。
 ・やけた後から育つものには、たくさん実をつけること。
 ばど、たくさんの火をつかうと人間に役に立つことを知ったのです。
 そこで、人々は、どうにかして、この火を自分たちで作りたいと考えるようになります。
 さいしょは山火じや火山のばくはつなど、しぜんにおこった火をとってきて使(つか)っていたのですが、しだいに自分たちでこの便利(べんり)な火を作りたいものだと思うようになりました。一番初めに作った人の名前は分からないのですが、ものすごく、おそらく何10万年もの長い間、人々がああでもないこうでもないと考え考えて、考え抜いて思いついたのです。それは木と木をこすりつけると、たいへんあつい熱(ねつ)が出てきて、それを長い時間かけて、くりかえしてやっていると、ついには煙(けむり)がでます。そのようなことをくりかえしてやっていくうちに、やがて火ができるということを見つけるのです。
 それを見つけた時の人の顔をそうぞうしてみてくださいね。こんなかおを「したりかお」というのです。花奈だからおしえるのですよ。覚(おぼ)えておいてほしいな。
 なんかいも、なんかいも、しっぱいをかさねながらようやく見つけ出した火なのです。
 はっきりしたことは分からないのですが、たぶん、30万年も、それいじょうもかかってようやく見つけたのだろうと考えられています。
 「考える」ことができる人間だから出来たことなのです。サルやトラではできないことなのです。人しかできない力なのです。
 
 花菜は人です。なんでも、どうしてかな、どうすればいいかな、と、いつも考えることができる人になってください。人間だもの。考えて考えて、これが一番いい方法だというものを見つけてくださいな。

吉備って知っている  96 藤原保則⑫

2009-01-31 15:02:52 | Weblog
 私の計算間違いがありました。先に、藤原保則は、今だ、備前の国司の任期途中に蝦夷の討伐に向かったと書きましたが、そうではなかったのです。
 それを、ちょっとしつこいようですが詳しく申し上げますと、保則が備中の国司に任ぜられたのは貞観8年です。それから貞観17年まで備中の、そして、その後備前の国主も兼ねたようです。そしてようやくその任が切れた貞観17年(877年)「秩満ちて京に帰る」とあります。蝦夷の反乱が起きるのは元慶元年(877年)です。そして、その2年に、保則は出羽の国司に任じられ、蝦夷との戦いが始められます。

 そんな保則のもうひとつの備前時代の、だから貞観17年の事です。エピソードとして言い伝わっていることがありますので、少々長くはなりましたが、お聞きください。

 「ある時、安芸の賊が、備後の国の調として国に納めなければならない「絹」四十匹(一匹=二反、一反は30cmと10mの着物一人分の布)を盗んで備前の石梨郡(今の和気の辺り)の旅館に泊まります。どうしてそんなことを訪ねたのかはわかりませんが、多分、備中から備前にかけて旅している間に、いろいろな人から国主保則の噂を聞いたのではないかと思います。賊は亭主に聞きます。
 「備前の国主は一体どんな人で、どんな政治をしていますか」
 と。すると、亭主が答えます。
 「はい左様でございます。わが国主様のなさっておられます政(まつりごと)は一口で申し上げますと「仁義」による政です。寛い心で人を見て、民を信じて、民に誤ちがあっても大概の事は許すような、おおらかな政治をしています。だから、人々もこの国主様の尊い御慈悲におすがりして、決して悪いことはしなくなり、恩義を感じてつつましやかに誠実を旨として暮らしており、誠に住みよい国になっております」
 続けて、亭主は、更に、言います。
 「その国主様の「仁義」あるお心は神にも通じていて、何か国に人々を悩ますような悪い出来事や災難でも起ころうものならば、たちまちのうちに、その神「吉備津彦命」がお出ましになり、悪事の基を断ち切って、悪を退治してくれるのです」
 と、説明します。
 安芸の賊は、その話を聞くと途端に顔色を失い、一晩中、自分はこれからどうなることかと心配で胸が塞がれ眠れず、大息ばかり吐いていたそうです。そして、暁になると、その宿を飛び出して、国府に駆けり込み、叩頭自首します。
 「自分は今までよい行いをしたことはありません。此の度も備後の国府の倉庫にあった「調」の官絹四〇匹を盗み出し、今、持っています。昨夜、旅館の亭主様からご領主さまの事を聞き、自分のこれまでの誤まちを改め罪に服しなくてはならないと思いました。どうぞ命だけはお助けください」
 それに対し、保則は
 「あいわかった。悔いを改め、罪に服す覚悟じゃな。許す」
 と、その盗賊の罪を、即刻、許したばかりでなく、いくばくかのお金まで与えて、
 「お前は今からは悪人ではない。今後は、決して悪いことはしない善人になる。これからお前は、ここを出て、その盗んだ物を備後の国府に持って行き、返しなさい。ここに添え条をつけておいてやったから、それと一緒に持っていきなさい。それで全部今までのお前の罪は消える。よいなわかったか」
 と、その盗賊を国府の外に放ったそうです。
 その時、備前の国府の役人たちは口々に
 「なんてバカな、あ奴はきっとそのまま、どこかへずらかるに違いない。なんて人がいい御屋形様だろう」
 と言ったという。
 それを聞いた保則は
 「彼は既に心を改め、誠に帰す。豈に更に変あらん」
 と言ったという。
 それから数日後、備後の国主「小野喬査」が、わざわざ備前にまで詣できて、その後の顛末を聞かせて拝謝し、その徳をたたえたという。彼の政治はことごとくこのようであったと伝えています。
 そこで改めて、備前の国の役人たちも人たちも、すべて国主様の偉大な力に感激して、いよいよ廉潔な暮らしに励んだということです
 人を見る目が確かなことです。この人を処するにはこうするのが最高なのだという方策を熟慮して事にあったのだそうです。
 法は法として、法以上の、他の人が決して真似ることのできない最高の統治能力を兼ね備えていた平安期の最高の為政者ではなかったかと思われます。人そのものを見て政治を行うことができた人であったと思えます。その後の歴史の中にもそんな偉大な政治家は一人たりとも見当たりません。
 そんな人を国司として迎えた備中備前の人は、一時ですが、僥倖な幸運をつかんだといっていいと思います。