清麻呂が、再び、歴史の中に名を刻まれるのは、光仁天皇の後の桓武天皇の時代です。
本朝通鑑には「摂津太夫」「民部大輔」「摂津長官」「中宮太夫」などと、約2年おきに毎回栄進した様子が書き込まれています。
さて、これはどうでもないことのようですが、清麻呂は中央の朝廷政治にいながら、地元、美作備前のためにも大変役立つ仕事をしています。その例が出ています。
桓武天皇の延暦7年6月のことだったそうです。本朝通鑑には「清麻呂は言う」と書いてあります。
即ち、
「備前国和気郡の百姓170人余りが来て言う。吾々は、元赤坂と上道二郡の側に住んでいた。それが天平神護二年(765年)に和気郡に組み込まれ、今は、郡の政治は藤野郷で行われている。この真中に大河が流れていて、しばしば洪水によって藤野郷へ行くことができず村の政治に支障が生じている。どうか昔のように河東を和気郡に、河西を磐梨郡にして、政りごと西と東でしてほしいと訴えてきので許した」
と。
真備が下道郡のためにどれだけの仕事をしたのは明らかではないのですが、清麻呂は、中央にいても、自分の出身の備前国のための仕事もしているということがわかります。
延暦九年には、清麻呂は「正四位下」になっています。なお、姉の広虫は「従四位上」になっています。この位は例の征夷大将軍「坂上田村麻呂」と同じです。広虫がいかに女性として中央で活躍があったかわかります。
本朝通鑑には「摂津太夫」「民部大輔」「摂津長官」「中宮太夫」などと、約2年おきに毎回栄進した様子が書き込まれています。
さて、これはどうでもないことのようですが、清麻呂は中央の朝廷政治にいながら、地元、美作備前のためにも大変役立つ仕事をしています。その例が出ています。
桓武天皇の延暦7年6月のことだったそうです。本朝通鑑には「清麻呂は言う」と書いてあります。
即ち、
「備前国和気郡の百姓170人余りが来て言う。吾々は、元赤坂と上道二郡の側に住んでいた。それが天平神護二年(765年)に和気郡に組み込まれ、今は、郡の政治は藤野郷で行われている。この真中に大河が流れていて、しばしば洪水によって藤野郷へ行くことができず村の政治に支障が生じている。どうか昔のように河東を和気郡に、河西を磐梨郡にして、政りごと西と東でしてほしいと訴えてきので許した」
と。
真備が下道郡のためにどれだけの仕事をしたのは明らかではないのですが、清麻呂は、中央にいても、自分の出身の備前国のための仕事もしているということがわかります。
延暦九年には、清麻呂は「正四位下」になっています。なお、姉の広虫は「従四位上」になっています。この位は例の征夷大将軍「坂上田村麻呂」と同じです。広虫がいかに女性として中央で活躍があったかわかります。
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