私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  86 藤原保則②

2009-01-18 19:58:40 | Weblog
 貞観八年(866年)に備中権介になった「藤原保則」は、国司として備中の国府(今の総社市金井戸付近だと言われていますがはっきりとした位置はいまだに不明です)に下って来ます。
 この時代の備中はと言えば、旱(ひで)りのために農作物はできず、道には生き倒れの人がどこまでも満ち溢れ、盗賊が横行し村里は極度の疲労困憊に陥っていました。
 この藤原保則の前の国司の名も分かっています。「朝野貞吉」と言う人です。
 この人の政治は、苛刻な政治をすることで国が治まると思っていました、強権こそが政治の根本だと考え、徹底的な法治政治を遂行しました。その一方では随分と私腹も肥やしていたらしいとも言われています。
 「地方の小役人に何ができるのだ」と郡司等の部下を信用せず小馬鹿にして、厳しく取り締まることにより、法が施工でき、立派に政治できると信じていました。 もし自分が使っている国府の役人がごくわずかな罪でも犯そうものなら、たちまちに、鉗(かん)釱(てい)-くびかせ、あしかせーの刑に処したのだそうです。全く部下を信頼するという事はなかったのです。また、里人に対しても、彼らがほんのわずかな(繊毫)の過ちを犯しても厳しく取り締まり、罰します。そのため、捕らわれた人がいっぱいで、何時も牢獄は満員だったと言われています
 密告が横行し、人々はお互いに疑心暗鬼になり隣同士仲良くなるということはなく、国中の者がいつも周りに気をとらわれながら汲汲とした生活をしなければならないような、心安くして平和に暮らすなどと言うことは望むべきもあらずという状態だったのです。
 常に周りにばかり目を向けたぎくしゃくとした生活を強いられていました。だから、例え親子でもその本心は決して見せてなならない、本当にいやらしい世の中だったそうです。その上、天変地変も加わり、この藤原保則が国司としてこの国に来るまでは、備中の人々は過酷な生活を強いられていたのです。