清麻呂も、もう10回の多くを数えます。
「日本王代一覧」によると。清麻呂の功績については「桓武天皇の十八年卒す」としか出てはいません。
が、林羅山の「本朝通鑑」によると、この清麻呂の功績が数々書かれています。その中の一つを紹介して「和気清麻呂」を終わりたいと思います。
私が中学校2年生の時だったと思います。歴史の時間に、桓武天皇が京都に都を移したことを習いました。どうしてそんな話になったのかは覚えてはいませんが、当時、私の通っていた中学校でも、相当の突っ張りで勉強は嫌いで喧嘩ばかりをしているといった不良っぽい同郷の先輩がいました。
ある時、その先輩が私ら数人を捕まえて、
「おめえら、その年号を覚える方法を教えてやる。「鳴く(798)や鴬・平安京」と覚えりゃあえんじゃ。よう覚えておけ」
と、さもよく知っているかのように教えてくれます。
平生、あまり勉強はできなく、「喧嘩太郎」と異名を持つ、他所の中学生と喧嘩ばかりをしている、陰でタバコをふかしているようなとても怖い先輩から、そんな勉強の話を聞くなんて思いもよらなかったものですから、目から鱗と言いましょうか、ぽかんとしてじっとその先輩を眺めた記憶があります。どうしてかは分からないのですが、なんだか、その時、私は急に大人への仲間入りができたように思えました。
今もですが、その先輩が、どうして私達にそんな彼の柄でもないことを教えてくれたのか、いくら考えても分からいのです。
その「鳴くやウグイス」の平安京に都を移すことを桓武天皇に勧めたのが何を隠そう「和気清麻呂」だったのです。
本朝通鑑によると、桓武天皇は始めは長岡京に遷都しようとしていたのですがはかばかしく工事が進まず経費ばかりが膨らんでいたのです。ある時、天皇が「葛野(かとの)」に狩をされます。その時「この地に都はどうですか」とを進めたのが清麻呂なのです。そして、遂に、それが実現できたのです。この葛野の地こそが今の京都なのです。清麻呂がおったからこそ京都に御所が造られ平安京が出来たのです。
平安京といえば、私がすぐ思い出すのが、後にヤクザになったと噂されている先輩の真顔で教えてくれた「鳴くや」です。年号など全て忘れているのですが、この平安京遷都だけの年号は、今でもはっきりと覚えています。
そんな功績もあったからこそ、清麻呂は、死んだ時に「正三位」という位をおくられています。
この清麻呂の後、中央政界に於いて活躍した歴史に残る吉備の出身者は、犬養本堂まで見ることはできません。
くしくも奈良期という日本歴史の激動な時代に、ほぼ時を同じくして活躍した吉備出身の「吉備真備と和気清麻呂」の名は、日本の国が続く限り、その名は永遠に歴史の中に留められることになると思います。
「日本王代一覧」によると。清麻呂の功績については「桓武天皇の十八年卒す」としか出てはいません。
が、林羅山の「本朝通鑑」によると、この清麻呂の功績が数々書かれています。その中の一つを紹介して「和気清麻呂」を終わりたいと思います。
私が中学校2年生の時だったと思います。歴史の時間に、桓武天皇が京都に都を移したことを習いました。どうしてそんな話になったのかは覚えてはいませんが、当時、私の通っていた中学校でも、相当の突っ張りで勉強は嫌いで喧嘩ばかりをしているといった不良っぽい同郷の先輩がいました。
ある時、その先輩が私ら数人を捕まえて、
「おめえら、その年号を覚える方法を教えてやる。「鳴く(798)や鴬・平安京」と覚えりゃあえんじゃ。よう覚えておけ」
と、さもよく知っているかのように教えてくれます。
平生、あまり勉強はできなく、「喧嘩太郎」と異名を持つ、他所の中学生と喧嘩ばかりをしている、陰でタバコをふかしているようなとても怖い先輩から、そんな勉強の話を聞くなんて思いもよらなかったものですから、目から鱗と言いましょうか、ぽかんとしてじっとその先輩を眺めた記憶があります。どうしてかは分からないのですが、なんだか、その時、私は急に大人への仲間入りができたように思えました。
今もですが、その先輩が、どうして私達にそんな彼の柄でもないことを教えてくれたのか、いくら考えても分からいのです。
その「鳴くやウグイス」の平安京に都を移すことを桓武天皇に勧めたのが何を隠そう「和気清麻呂」だったのです。
本朝通鑑によると、桓武天皇は始めは長岡京に遷都しようとしていたのですがはかばかしく工事が進まず経費ばかりが膨らんでいたのです。ある時、天皇が「葛野(かとの)」に狩をされます。その時「この地に都はどうですか」とを進めたのが清麻呂なのです。そして、遂に、それが実現できたのです。この葛野の地こそが今の京都なのです。清麻呂がおったからこそ京都に御所が造られ平安京が出来たのです。
平安京といえば、私がすぐ思い出すのが、後にヤクザになったと噂されている先輩の真顔で教えてくれた「鳴くや」です。年号など全て忘れているのですが、この平安京遷都だけの年号は、今でもはっきりと覚えています。
そんな功績もあったからこそ、清麻呂は、死んだ時に「正三位」という位をおくられています。
この清麻呂の後、中央政界に於いて活躍した歴史に残る吉備の出身者は、犬養本堂まで見ることはできません。
くしくも奈良期という日本歴史の激動な時代に、ほぼ時を同じくして活躍した吉備出身の「吉備真備と和気清麻呂」の名は、日本の国が続く限り、その名は永遠に歴史の中に留められることになると思います。
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