私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  92 藤原保則⑧

2009-01-27 11:22:34 | Weblog
 ちょっとしつこいようですが保則の蝦夷征伐について書きます。
 本朝通鑑いはたった4文字で「討出羽賊」とあるだけですが「日本王代一覧」によると保則によるこの蝦夷征伐について、もう少し詳しく、書いていますので説明します。

 陽成天皇の元慶二年、出羽国の夷賊千人余りが秋田城(城と言っても朝廷方のあのアメリカの西部劇に出てくるような簡単な木の柵などで設えた砦と言った方が正しいのかも知れませんが)を焼き壊しています。この戦いで朝廷方の兵士500人ぐらいが殺されています。将にあのインデアンと白人の騎兵隊との戦いそのものです。西部劇ではありません。日本の東部劇です。
 官軍は、その後も出羽の各地に設置している小さな砦での戦いにもうち続いて打ち負かさ、反乱は収まるどころか、いよいよ風雲急を告げてきます。
 そんな所に、5月に、備中での戦乱平定の実績を重くみた朝廷は、藤原保則を出羽に遣わします。7月に出羽の国に着いた保則は、どう戦術を組み立てたのかは書いてはいませんが、兎も角も賊を討って小利を得るのです。しかし、蝦夷は津軽などに一杯いてなかなか打ち破ることができません。それらの夷賊と保則は半年渡って戦い、ついに3年の正月に降参させ、出羽の国もようやく無事になったと伝えてきたとあります。
 出羽の反乱に対処するにも、その保則の政治の信念である備中の国司になって民に施したと同じ「専ら仁恵を以って之を化す」を忘れなかったようです。だからこそあれほど長年に渡って続けられていた戦いも無事になったのだと思います