私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

木堂展ー小さな私の博物館

2008-05-16 08:12:08 | Weblog
 昨日は5・15事件の記念日でした。
その記念として、毎年ささやかですが、小さなギャラリーを開いています。
   
 展示するものは毎年同じものですが、ただ生ける花だけが違っています。今年はバラを生けてみました。
 まず、木堂の書(掛け軸)です。
            
 志が正しければ、誰も人の家に軍靴のまま上がりこんで、「問答無用」と拳銃で人を殺害するといった、よこしまな考え方はしないという意味だそうです。5・15事件の首謀者に見せてやりたい書です。でも、首謀者の三上、黒岩等がこの書を、もし、見ていたとしても結果は同じことだっただろうとは思いますが。
 次も、これも木堂の書(色紙)です。この書は、木堂が暗殺される最直前に書かれたといわれております。1932年5月15日の書であると思います、木堂最後の書だとも聞いています。「慈悲」という言葉とともに、私のとっておきの宝物でもあります。
         
 それから3番目が、満州事変で実際に使われた砲弾の弾頭です。平和裏に戦争終結へと導くために、木堂をして一番悩ませた戦争器具なのです。これまた貴重な歴史的なものなのです。
        
 最後に、リットン卿の、国際連盟に対する満州事変の報告書です。日本軍の不正を列挙しています、この報告書により、日本は世界各国から非難され、ついに、国際連盟から脱退しています。この報告書が出来たのは、木堂暗殺から、わずか5ヵ月後の1932年10月でした。
        

 もし、この報告書を見たら、その後の日本を木堂はどのように導いたでしょうか。「慈悲」という色紙は何も語ってくれません。
 その後の日本は、毬が坂道を転がるように、一直線に戦争へと進んでいったのでした。
 
 そんな思いの中に、こんな博物館を、毎年、開いては、一人で日本の歴史を思いながら、楽しんでいます。

5・15事件

2008-05-15 09:48:28 | Weblog
 今日は5・15事件の76回目の記念日です。
 1932年5月15日午後5時ごろのことであったと言う。海軍の青年将校の一部が首相官邸に討ち入り、当時の首相であった犬養毅 木堂を、「話せば分る。いや問答無用」のもとに、数発の銃弾によって暗殺してしまった事件です。
 当時、軍部のでっちあげによって起きた満州事変(1931)がまだ解決を見ておらず、騒乱の世の中です。一旦は、政界から身を引いていた木堂を再び首相に祭り上げなければ収まらない日本の国内事情があったようです。77歳という高齢で日本の首相に着いたのです。
 孫文と親交があったということも手伝って、
 
            (木堂記念館にある孫文からの手紙)
木堂は、この事変の日支双方の円満解決への道を探っていたという。それにはどうしても、軍部へのてこ入れが必要でもあるのです。この干渉が、軍部には大いに不満であり、その干渉を排除するために暗殺という非常手段に訴えたのです。
 きしくも、事件後の今年は、木堂の年齢と同じ時間が流れました。吉備津にある木堂広場に建っている犬養木堂の銅像は、今何をみて、どうお考えになっていらっしゃる事でしょうか。
 
 今日、午後から神社では木堂の銅像の前でお祭りが行われます。

 私は、朝、ささやかですが、そっとこの像に「杜若」の一輪をお供えておきました。その足で、川入りにある木堂のお墓にもお参りしてきました。ここではもう法事は済んで、側にある生家や記念館には大勢の人で賑わっていました。

おせん 29

2008-05-14 10:59:31 | Weblog
 今朝は「おや、やっと秋か?」と感じさせる涼しい風が、ようやく秋色を見せだしたおにぎり山から吹き下ろしきます。
 大旦那様は、早くから起きられ、部屋の隅に置かれている文台に向かわれて、何かお書きものをなさっておられます。ここ立見屋はおにぎり山の山裾にあり、日の出はいつも遅く、まだ、山の端には朝日は顔を覗けてはいません。平蔵は、昨夜のお酒の勢なのかもしれませんが、珍しく朝寝坊をしてしまいました。
 「どうも失礼をいたしました」
 と、飛び起きます。
 「つい、時刻を忘れて、こんな時まで寝ているなんて、本当に失礼しました」
 「まあまあ、よう寝ておったようだったさかいな。・・そう気にせんでええ。今日は占いの日じゃ。お天道はんも、ご機嫌がええらしゅうてな、ええ占いになること間違いなしや」
 お日奈さんが用意してくれ朝ご飯を済ませた所へ、立見屋のご主人が入ってこられます。昨夜の内に、お園さんと平蔵とのことで、お宮さんまで参られて打ち合わせをしてこられたという。今朝は、特別に藤井神主が、わざわざ自ら、祝詞を奏上して、お園さんへの神のお告げを、吉兆を占ってくれるということです。
 しばらくして、舟木屋茲三郎、平蔵、立見屋吉兵衛夫婦とお園の五人はお竈殿に座ります。
 二つある竈には、既に、火が赤々燃えています。正面の煤けた板壁には大きなしゃもじが3つ並んで掛けてありました。「阿曾女」と、呼ばれている巫女が2人、神事の前の準備でしょうか、あちらこちらと、こ忙しくお竈の周りを立ち動いております。
 二つあるお釜の一つには、甑が設えてあり、湯気がもこもこと、しきりに菰の上から立ち上っています。
 やがて、竈の火が一人の阿曽女によって焚き口に引き出されます。それを合図のように、しゃもじの横にある入り口から、有紋の冠を被り纓がゆらゆらと肩にまで垂れ、従五位長門守を表す官位の浅緋の袍を身に纏った神主が威儀を正してお出ましです。
 まず、お竈に向かって座に着くと、勺を顔面に押し抱き、深く二礼二泊の神々しい拝礼を済ますと、太く低く人の魂を抉り出すように「高間の原に神留す・・・」と、祝詞が奏上されます。
 それよりもやや早く、もう一人の阿曾女が、お釜の側に設えられた白布で覆われた台上より、お釜上に掛けてあった菰を打ち取り、お釜の中に身を投げ入れるようにして、お米の入った檜物の器を前後左右に小さく激しく振り立てます。
 巫女の打ち振る曲げ物の中のお米の音と深淵で荘厳な神主の声が、殿中の静寂をより一層引き立てておりました。
 と、どうでしょう。突然に、それこそ地底に住む鬼か何かの得体の知れない恐ろしげな唸り声のようでもでもあり、また、毬を追って消えていった女の子の泣き叫ぶ怨み声のようでもある、摩訶不思議としか言いようのない声が、後から後から、お釜の中から湧き出てきます。神主の祝詞の声はそのお釜から出る音に全く打ち消され、お竈殿の中は、激しく唸る音だけが行ったり来たりするばかりです。その余り声は、格子窓の間から飛び出して、比翼のお屋根を伝わるようにして、あのおにぎり山へと響き渡っています。

おせん 28

2008-05-13 14:50:32 | Weblog
 平蔵は、お竈殿の鳴る音について、あの時、お園さんから聞いた、毬を追いかけて行った少女の叫び声だという、この地方の、又の、言い伝えの話を思い出しました。
 鬼か少女の人魂の声かは分らないのですが、鳴る釜の音によって吉兆を占うなんて、その時は、ただ、なんとなくいい加減に、自分とは無関係な遠い世界のお伽話のように聞いたのです。
 でも、今、大旦那様言われた、お園さんと夫婦になるかならないかを決めるこの賭けに、大いにあきれるやら驚いているやらしています。そして、自分も、この賭けに自分の身を、自分の生涯を、是非、賭けなくてはならないと言う思いが、平蔵の胸深くに入り込んできました。
 今は、唯、真っ黒の深い深い漆黒に変わってしまっている「おにぎり山」の奥底深くに入り込んで行ったと聞いた少女は、お園さん自身であったのかもしれないという思いもしてきます。何か幻みたいなものに、理由は分らないのですが、自分も引きずり込まてしまったようにも思えます。もしかして、始めて、吉備津神社にお園さんに案内してもらった時から、何か目に見えない糸のようなものでお互いがつながれていたのではという思いさへしてきます。
 「この落ち込んだ深い穴ぼこの中から、早く早く引き出してください」
 と、お園さんと同体のようになった少女の誘い声がそこらじゅうを駆け巡っているようでもあります。今までに経験のない幻みたいな不思議な気が平蔵の身体を覆い包みこんでいるようでもあります。
 「こりゃ、何をそう、うすぼんやりいている。平どん、どや。それでええやろ。
明日、お竈殿で占おうてもらいいまひょ。話はそれで済んだ。立見屋さんもそれでええじゃろう。こりゃ気持ちがええ。神さんだけが知っておいでやす。話はそれからじゃ。もう一杯頂こうかな、おかみはん」
 どうしたわけだか分りませんが、大旦那様は大いに満足そうです。立見屋の主人夫婦も何にも言われませんが、満更ではないようです。あれだけ固唾に拒んでいたお園さんが、神の占いによって決めてもらうことを承知したのですから。
 明日、お釜の鳴る音がお竈殿に大いに響けば、平蔵とお園さんとの自分の戦術が大旦那様には、思いの外、順調に進んで行ったことに対する自己満足みたいなものがあったのかもしれません。「じいさん」と異名を頂いている大旦那様の面子が立つことにもなるのです。これからの自慢話の一つにもなること間違いなしと思われたのかもしれません。
 大旦那様は、最後に
 「心配せんでええ、お釜は鳴る。第一、お酒がこんなにおいしいのやさかい」
 と言われ、
 「うまい、こくがええ酒じゃ、うまい。・・・・宮内はええとこや。美人も仰山おいでだし。なあ、お上はん」 と、久しぶりに、わいわいがやがやと、お酒をお楽しみになられていたようでした。それから何回か、お園さんやおかみさんが、お酒を取替えに、部屋を出たり入ったりしている姿が見られました。

世界遺産-石見銀山

2008-05-12 21:32:09 | Weblog
 高松歴史を楽しむ会(会長;渡辺武士)の研修視察で、世界遺産の石見銀山に行きました。どうして、ここが世界遺産であるのかははよく分らないのですが、月曜日であるにも拘らず、たくさんの人で賑わっていました。果たして、何時までこの見学が今日のように隆盛を極めるのかは疑問なのですが、一見は如かずと参加してみました。
 余り価値ある遺産ではないのではと、私の目にはうつりました。かえって吹屋銅山の方が規模から言っても勝っているのではと思いました。どうでしょう。
 私の参加理由に、早島の安原備中守知種の業績が分ればと思っていたのですが、参加の中から、安原という言葉すら聞かれず、ただ釜屋間歩が地図上に記されていたのみでした。高松の人すら、それも歴史を楽しむ人ですらこれです。少々淋しい気分になりました。
 なお、安原備中は、前にこの欄に書いたのですが、吉備津神社のお竈殿の寄進した人です。

吉備津神社の御膳据えー春の大祭

2008-05-11 08:41:05 | Weblog
 昨日からの雨も上がり、どんよりとした曇り空ですが、お山の緑が一段と目に映えるます。
 今日は吉備津神社の春の大祭です。藤井駿先生の「吉備津神社」によると、江戸時代までは、この七十五膳据という神事は、陰暦の9月の中の申の日に行われていた大饗会(だいきょうえ)という神事が明治以降春秋の2回行われるようになったということです。
 この大饗会は、要するに秋に行われていた新嘗祭であり、備中の各郷から新穀、果物、魚藻などを吉備津神社に奉納して、五穀豊穣を感謝したのが始まりだそうです。七十五という数字も何かそこらあたりと関係があるのかもしれません。
 回廊の端のほうにある御供殿と言うところに宮内・総爪などの周りの地域の人たちが集まって七十五膳のお供え物を造ります。その中心は、なんと言っても、円筒形の型に嵌め込んで作った「御盛相」(ごもっそう)です。

 回廊の端にある御供殿という建物の中で、昨日から、この七十五膳が用意されます。御盛相に使われるお米は、春は白米です。これを作った人の話によりますと、
 「ただ型に、はめりゃあ、ええだけじゃん、ありゃせんのじゃ。なげえ、ええだの感がなけりゃあ、ちゃんとした形のええもんはこさえられりやあせんのじゃ。でえでもじゃあ、作くれりゃあ、へんのじゃでえ」
(「、」は読みやすくするために勝手に私がつけました。本当は、一息に言われました)
 と、吉備津言葉で説明してくださいました。
 この御供殿に用意されたから数々の、御盛相などの、お供え物を回廊を行列して神殿まで運ぶ行事が「七十五膳据の神事」なのです。
 猿田彦と獅子が先頭に立って、この七十五膳を運びます。
 
 その後に神主などの神官や氏子代表などが続き、弓矢、鉾、太刀等の武具、御盛相、お酒、鏡餅などの膳の行列が回廊を神殿に向かいます。拝殿で待ち受けていた氏子の代表がそれを受け取り神殿にいる神職に手渡します。それを神職によって神殿内部の内殿に奉られます。その間、神殿外部の廊下では、笙や篳篥など楽士による雅楽が厳かに奏でられています 
   (青色の網の蓋の付いた漆塗りのお膳の中のが御盛相)
 11時から約二時間の神事です。余り宣伝をしていないために多くの人の目に留る事はないのですが、先の本で藤井先生は「まことに優雅にして荘重な神事である」とお書きになっておられます。
 本当に珍しい神事です。

おせん 27

2008-05-10 13:48:39 | Weblog
 「さあ、暖かいのをお一つ」と、おかみさんが大旦那様に勧めます。そのお酒をお受けになられて、
 「人が生きていくのは考えてみれば難しゅうおますな。いっぱいのなんや知らんけど約束事がおまして、窮屈な世の中どすなー。宿世なんていっても、しょせん、人様がおつくりにならはったものと違うのかいなと思いますねん。その宿世というもので、みんな、自分に降りかかった災難というのか、なんと言ったらよろしゅうおすのか知りしまへんけど、不幸というのかもしれまへんな、そんなものをなんとなく諦めてしもうておるのと違いますやろか。・・」
 そう言うと、手にした盃を見つめられたから、ぐいっと、さもうまそうにお酒をお飲みなさいます。
 「うまい酒どすな、女将さん。・・・・どうでしゃろ。お園さん、わいと賭けをしてみまへん。お園さんのと、わいのと、どちらが本当の宿世であるのか。神さんだけしか知っておへん。神様にお尋ねしてみようじゃおませんか」
 「神様に尋ねて見るといっても・・・」
 お園さんはそんなの出来っこありませんという風に、大旦那様のこの申し出に怪訝な顔をして尋ねます。
 「神さんにです。それしか方法があらしまへん。・・・ここのお宮はんにはお竈殿という吉兆を占う神さんがいてはると聞いています。どうどす、占ってもらいまひょ。お竈の音が大きく鳴りよったら、これは吉どす。平蔵と一緒になりなさいというお告げどす。もし鳴らんようなら兆です。平蔵さんに諦めてもらいまひょ。どうどす。お園さん。神さんに、いいのか悪いか決めてもらいまひょ。平どんも納得しよりますさかい。そうさせておくれやす」
 お園さんは、しばらく黙って考えていました。立見屋のご主人も女将さんも、大坂の大旦那様が持ち出したお竈殿の占いに随分と驚かれている様子でした。平蔵は平蔵で、漆黒の闇のおにぎり山の中に一旦は消えていったお園さんが、再び、こちらにちらりと顔を向け、一歩自分のほうに近づいてきたようにも思えます。不思議なことですが、おそい十六夜の月でしょうか、山の頂から、その時、顔を出して真っ暗のお山が一瞬の光に包まれ青黒く輝きます。
 「どや、神さんにどちらがほんまか占もうてもらうのやさかい、文句はありゃへんやろ。お園さん。・・・立見屋はんも文句はおまへんやろ。お上さんはどうどす」
 二人ともどう返事していいのか判断がつきかねるように押し黙ったままです。
 「お園、私もお前のと大旦那様のとを比べて、どう判断したらいいのかはわかりません。折角、ああ言ってくださっている大旦那様に従って、占ってもらってみたら。わしも、ここ当分、あそくで占ってもらったことはなかったけえ、ついでに占ってみてもろうてもいいような気もしている」
 「おばあさまは大変賢いお人であったから、言われた事には間違いはないと思います。でも、ようわからんが、大旦那様が言われるように、この際、一度お竈殿で占ってもらうのもいいんじゃあないかなー。行く行かんは、また、別問題にして」
 「そうだす。おとっつぁん、おっかさんもああ言っておられる。占ってもらいまひょ」
 お園はしばらくの間、どうしたものだろうかと迷うのです。お竈殿の占の事を持ち出されて言われた大旦那様の老獪さに、決して打ち負かされたのではないのですが、大旦那様や父母の言葉を聞きながら、宿世とは、結局、そんなものではないだろうかというき気分にもなります。
 今までに何回も、何か困った事があった時は、いつも吉備津様に来てお願いしていました。おばあさんが息を引き取る間際も、どうぞ生かしてくださいと、一心にお願いしました。その甲斐があって、最後は、本当に安らかに、私の膝の上で、眠るように大往生されました。これも吉備津様の御陰だと思っています。福井から帰ってきた時もそうです。「いいよ、いいよ、元気をおだしと」と声をかけてくださったようでもありました。これまで何度も何度も、お助けいただきました。
 今度の事も、吉備津様にお縋りして見るのもいいのではとも思います。そんな思いがあちらこちらと心の中を駆け回っていましたが、結局、ゆっくりと、大旦那様のほうに向き、頭を下げます。
 

おせん 26

2008-05-09 18:35:16 | Weblog
 「そうどす。人さんはみんな、お園さんが、今、言わはりました宿世、そうどす、前世からの約束で生きておるのどす。お園さん。今、ここに、こうして、みんなで、おささを頂いているのも、これも、みんな宿世とちがいますやろか。誰がどうやって決めはりましたかは、そりゃあ、わかりしまへんけど、きっと、神さんがお決めにならはったことではないですやろか。・・・・。そんな神さんのお決めにならはった事を、どうのこうの、とやかく、人さんが言うのはどないなもんでっしゃろ。・・・・・考えてみておくれやす。みんな明日はどうなるのか誰一人わかっているもんはいやはらしまへん。みんな宿世と思うて今を生きておるのどす。お園さんが、最前から辱だ、辱だ、と言わはっておられるのどすが。そんなん辱でもなんでもないのどす。神さんのお決めになった通りに生きておるだけどす。150年も前のお人もそこら当りのことはご承知しておったのと違いますやろか。人の勤めをよくすれば、必ず神仏は守ってくれはる、と言っておられます」
 そこまで大旦那様は一気におしゃべりになられます。そして、膝の上にあった冷えたお酒を口にされます。
 「あら、失礼をしました。大旦那様。ついうっかり皆さんのお話を聞かせてもろうてましたので、お酒のことはすかっり忘れてしもうとりました。暖かいのを持ってこさせます」
 「私がとってまいります」と、言うお園さんを制して、お美世さんが部屋から出て行かれます。大旦那様は「すまんですな」と、盃を膳に戻しながら、ゆっくりとお園さんを諭すように、また、話を続けられます。
 「なあ、お園さん。考えてみなはれ。おばあさまはどう思われていたのかはしれへんのどすが、わいは、辱ではないと思うとります。第一、それも神さんがお決めになった事どすさかいな。神さんのお決めにならはった事じゃけん、どうしょうもなかことと違がいますやろか。それこそお園なんの言わはりました宿世なんどす。二度お嫁に行くのも。これもやっぱり宿世どす。そう思われしまへん。ここにおる平蔵と夫婦になるのが、お園さんにとっても。平蔵さんにとっても、前世からの宿世でおます」
 「お言葉を返すようですが、大旦那様、わたしがお嫁に二度と行かないで一人で生きていくこともやっぱり前世からの宿世ではないのでしょうか」
 「そうどす。それもやっぱり宿世かもしれまへん。では、どれがほんまの宿世か分かりしまへンやろ。これがほんまの宿世だと決めることができしまへん。・・・・じゃんけんで決めることも出来しまへん。困りましたナー。みなはんもおおいにお困まりどした」
 女将さんのお美世さんが、これもまた洒落れたお猪口に入れた新しいお酒を持って「遅うなってごめんなさい」と部屋に来られます。
 
 
 

おせん 25

2008-05-08 09:06:26 | Weblog
 すっかり暮れていったおにぎり山を平蔵は見ていました。「たいしたもんだ」と、言われたまま大旦那様も、依然と冷め切ったお酒の盃を手にしたまま、しばらく黙っておられます。
 「あのお山は不思議ですね」
 それまでは、うつむいて、ただ、黙って聞いていた平蔵が突然に口を挟みます。
 大旦那様は、勿論、お園さんも、立見屋のご主人夫妻も、平蔵の方に怪訝そうに顔を向けます。
 「私は、大旦那様やお園さんが言われるように辱のことはよく分りまへん・・・。こんな人と、いやお園さんとです。一緒になりたいと思ったことも確かです。あの吉備津様に連れて行ってもらって時のことです・・・・長い回廊で、さも自分のことのように生き生きと話してくれはりました。地の底に吸い込まれるように、突然、消えた毬と女の子の話をしてくれた時でした。この人も、ひょっと、お話の女の子のように、この長い回廊の向こうに、今、吸い込まれて行ってしまうのではないかと感じられます。手をとって持っていてあげないといけんのかなという気持ちになったのですが、恥ずかしくてそんな手を握るなんて事は出来ません。その時、こんな人と一緒になれたらいいなとも、なんとなく勝手に思いました」 
 そこで、ちらっと、お園さんの方をみて、又、話しだします。
 「お園さんに、無断でこんな事を思ったらいけなんだったかもしれんが、うまいことはいえんのんじゃが、それから、お園さんの顔が、時々、ぽーと、頭の中に出てくるんです。この春、ここから大阪へ帰る時も、見送りがお日奈さんだけじゃっけえ、ちょっぴりがっかりしてしもうた。もういっぺん、お園さんに合って帰りたかったんじゃが・・・・。でも、女が駄目になると言われたお園さんの気持ちも分るような気がして、なんかお園さんが、あの回廊で思ったように、今、真っ黒になったあのおにぎり山の中にすーっと吸い込まれてしもうたような気になっています。不思議なお山です。本当に不思議です」
 今までにあった自分の心を全部吐き出してしまってすっきりするはずなのですが、残ったものは悲しい侘しい気持ちだけで、なんだかやるせない気分になる平蔵でした。
 「だろうと思った。どうじゃな。平蔵のためにもお願いする。お園さん。もういっぺん。考えてくれれはらへんか」
 「平蔵さんがそんな事をお考えになっていらっしゃたとは少しも知りませんでした。そんなお話をお聞きして、こんな私のためにそんな思いをしてくださっていたなんて、ありがたいことだと思います。・・・・・。でも、・・・女の痩せ我慢だといわれるかも知りませんが、私の考えは変わりません。出戻り女と、小さいお子までにも、陰口されている事も分っております。でも、もういっぺんお嫁に行くなんてできっこない事です。それが、女の辱である事には違いないと、大旦那さまがどう言われようとも、今でも思っています。女の意地でもなんでもないのですが。そうするのが女に生まれた定めのように思えるのです。あばあさんは、いつも、宿世だとか、なんか言っていたようですが」
 「ほほう、宿世だと。本当だ、宿世なのだよ」
 大旦那様は、急ににこにこ顔になられて、早口に言われました。

おせん 24

2008-05-07 12:55:32 | Weblog
 「外は大分暮れてまいりました。が、ここは宮内の街より少々離れてておりまして、そんなには騒がしい事はございませんが、それでも街道筋でも名が知れている色街です。幾分かはいつもこの時刻になりますと賑々しい音曲は聞こえてはきます」
 と、ご主人が言われます。開け放されている障子の外は知らぬ間に真っ暗闇に変わっています。
 「お園さん。大いなる辱を言わはったな。それが辱になるのかならないのか、私にも正直なところ、わかりしまへんのや。おなごはんだけ、どうして辱になるのか、男は辱にならないのかわかりしまへんのや。おなごはんの方が、どうもみても豪いのがわいの周りにも沢山いやはりまっせ。・・・兎に角、もう150年も前の話などす。・・・貝原とかなんとかいう筑紫辺りのお人が書かれた古い古い本に出ていると言われておるのやさかい、いまごろ、幽霊みたいなそんなものに、惑わされんでもええのとちがう。第一あんたさんみたいな別嬪さんが一人で暮らしておるというだけでも、いけまへん。・・・なあ、お園さん、この平蔵も満更悪い人ではおまへん。とうか、平蔵を一人前の男にしてやってくれはらへんか」
 大旦那様は、平蔵が、もう、お園さんを嫁にするのを承知でもしてているようにどんどん話されます。
 考えてみれば、あの長い回廊で、毬が転がり落ち、女の子と一緒にどこかえ消えて行ったという、吉備地方に伝わる昔話を聞いたときから、なんとなく、この人と一緒になりたいなあと考えていたことは確かなことです。だからこそ、お店で、大旦那様から「平蔵。お嫁を」といわれた時、とっさに平蔵の口を突いて、お園さんの名前が出てきたのは事実です。同じ一緒になるのだったらお園さんという気持ちに、その時、既に、出来上がっていたのではないかと思うのです。
 大旦那様のお顔をじっと見ながら、はきはきと対応されるお園さんを頼もしくさへ思われ、一層強く一緒になれたらいいのになあと思うのです。大いなる辱なんてそんなことは、大旦那さんの言われるように、どうでもいいように思われます。大旦那さまと御寮ンさんとのご夫婦をお店で見ている平蔵にとっては、余計に、そんな風に強く思えるのです。
 「ちょっとお待ちになってください。大坂の大旦那様の言われるように、例え、それが150年もの前の筑紫辺りの話であっても、私の心は、つい、昨日聞いたばかりのように真新しいものなのです。ここに居る母には悪いのですが、私の本当の母はもう死んでいません。ずっと、おばあさまが育ててくれたといってもいいのです。そのおばあ様から、いつも聞かせてもらったことなのです。おばあさまに聞いたことは、それがすべて、この世の中で一番大切な誤りのないことだと信じて今まで生きてきました。・・・・・大いなる辱というのは、「オンナハ、タダ、ヤハラカニシタガイテ、テイシンニ、ナサケフカク、シズカナルコトヲヨシトスル」という言葉とともに、これが女の道じゃと強く教えてくれました。・・・・もう。誰がなんといっても、私がお嫁に行く事がありません。それが私を育ててくれた、おばあさまに対しての私の感謝の印でもあるのです」
 「なるほど、たいしたおばばさまじゃのう・・・・・」
 と、さすが大旦那様も、何か、例の長く太い眉毛を眉間に寄せて、とっさにそれ以上の言葉が出ないようでもあり、むうと口を尖らせたまま思案顔をなさったまましばらく絶句なさいました。
 これで、お園さんへの淡い自分だけの一人の思いは終わったなと、平蔵は、わびしいようでもあり、悲しいようでもあり、せつないようでもあり、なんといったらいいのかわからないような思いが胸を突きます。何か一言でも、ここで自分の気持ちを言っておかなかったら、重大な後悔が残るのではないかと、なぜだか分らないのですが、その時、突然に、どこにそんな勇気があったのだろうと、後になって、よくぞそんなことが言えたなと、気恥ずかしささへ感じるような言葉が、不思議なことなのですが、口をついて自然に出てきたのです。

 

おせん 23

2008-05-06 10:04:53 | Weblog
 おかみさんのお美世さんとお園さんが夕食の膳を運んできます。3人への配膳が済むと、お園さんはそのまま部屋から出て行かれようとされます。
 「ちょっと待ちなはれ、お園さん。まだわいの話は済んでへん。平どんも呼んであるさかい、もうちょっとここにいて、話聞いてえなー、ええどすやろ」
 立見屋のご主人の方に向いて、「あんたもなんかいうてえな」というように顔をして言います。
 「お園、お旦那様がああおっしゃられている。まあ。もう少しここに居て、お勺でもして差し上げておくれ」
 と、立見屋の主人も助け舟を出します。
 戻りかけていたお園さんも、前掛けを取りながら、京都かどこかのしゃれた徳利を持って大旦那様の前に進みます。
 お美世さんも夫の吉衛門さんの横に座ります。
 「一つ注いでいただこうかなあ、お園さん。美人に注いでもらうとお酒も、また、えろうおいしゅうてな」
 お園さんから注いでもらったお酒を、ゆっくりと口に運び嗜むようにお飲みないなります。
 「こりゃあ結構なお酒どすナー立見屋さん。もう一杯注いでください。お園さん」
 二盃目もゆっくりとお飲みになります。
 「それはとしてじゃ。お園さん。どないやろ、この平蔵と夫婦にならんか。こやつもまんざらではあらしまへんでー。どや・・・」
 平蔵は思いもかけず自分の名前が突然にこの座に飛び出してきて、どうもばつが悪いような、気恥ずかしいような気がして、それも、お園に自分の嫁さんになれと言って下さっているのを聞いて、ぼーと顔が赤くなるようで、身を縮込めるように下を向いたまま座っていました。
 「先ほどから大旦那様から「お嫁に行け行け」と言われていますが、私はもう誰のお嫁さんにもなりません。・・・・なれるはずがありません。私は一度失敗しています。駄目ないけない女です。・・・もういっぺんお嫁に行くという事はそんな駄目な女を更に駄目にする事です。そんなのは「女の道に違えて、おおいなる辱」だと、私の祖母からよく聞かされました」
 と、きっぱりと言われます。その態度の立派な事といったら、横から声だけを聞いている平蔵にも伝わってきます。特に、「おおいなる恥」という言葉の響きは強くてきっぱりとしていて、どうしてあんなふうに言葉が出てくるのかとさえ不思議に思われます。
 「おおいなる辱とな。むー、益軒先生だな。あれを知とるか。・・あれを持ち出しよったか・・・・・・・。これを言い負かすとなると、わいにも、ちいィとばっかりほねやねん」
 にやにやしながら独り言のように言わ、思案顔で、遠慮そうに三盃目の盃をお園さんの前に差し出されます。
 「そうそう、余りいける口ではなさそうやが、お園さん、平どんにもその酒を一杯飲ませてやってくれんかのう」
 立見屋のご主人は自分でちょびりちょびりとやりながら、この2人の話がどう進むのかなと、満更でもないように眺めるように聞いておられます。その横で、おかみさんは、それでもなにやら不安げにうつろな目で黙って二人のやり取りを見つめておられます。
 「あら失礼な事を。どうぞ、平蔵さん」
 場に慣れているというのか、お嫁さんの事はどうでもといわんばかりに、お園は、下向き加減に、わずかに震える自分の手に恥じるように差し出した平蔵の盃に、お酒を注ぎます。
 余りお酒に強くない平蔵には、口にした途端に、これまでにない、ほろ苦いようなほろ甘いようななんとも不思議な味が口の中全体に沁みるように感じます。何かけったいな味です。
 「すいません」
 と、消え入るそうにそれだけ言うのが精一杯です。全くその場に飲まれこんでしまっている自分がなんとも情けなくなるような思いがいよいよ強くなります。

 
 

こどもの日 端午の節句です

2008-05-05 08:49:06 | Weblog
 今日は、こどもの日です。「端午」の節句です。この端午とは五月の始め(端)の午の日又は五の日の事で、男の子の節句です
 粽、菖蒲、蓬、鯉幟、武者人形などを飾るのが端午の節句の定番だったのですが、 今では、何処を捜しても見当たりません。
 私の生まれた中国山地の山間の村々では、今日、五月五日には、何処の家でも、出入り口に薬玉を束にして結わえ付け、屋根には菖蒲の葉と蓬を束にして投げ上げていました。また、新聞紙で作った兜をかぶり、縁側に並んで、山から取ってきたその年のみずみずしい香立つ柏の葉でこしらえた出来立ての柏餅を、ふうふうと息をかけながら、食べた思い出があります。
 そんな風習は、近頃は何処の家にもありません。この吉備津でも菖蒲の姿は見ることもありません。まして、屋根にほうりあげられるなんて。そん慣わしがあったことすら人々の間から忘られてしまっています。
 
 そうそう。こんな思い出が私にはあります。
 
 あれは、確か、戦争が済んだ時だったと思うのですが、ある夜、近所の子供達が用水の側のやや広い裏道に集まって、花火をして遊んいました。打ち上げ花火も当然その中にあったのだと思います。誰が打ち上げたのかはわかりませんが、そのうちの一本が、不発のようになって近くにある栗林を通り過ぎて、どこかへ飛んで行ったは記憶に残っています。
 その夜の花火も済んで、もう蚊帳の中に入って寝ていた時分だったと思います。隣の家が火事だというので大騒ぎになりました。幸い発見が早かったので、麦わら屋根の1㎡ぐらいを焼いただけのぼやで済みました。原因は子供達の花火遊びで、打ち上げに失敗した栗林を飛び越えて飛んでいった花火だったらしいのです。
 どうも、その燃え上がった屋根の辺りに、その年の端午の節句に投げ上げた菖蒲が、まだ、ずり落ちずに屋根にそのまま残っていたというのです。
 「屋根に今まで残っていた、あの菖蒲が大火事になるのを防いだ」
 と、地域の年寄りから言い聞かされて、幼い私どもも菖蒲の威力を大いに感じさせられました。
 その焼けた所だけを新しい藁で葺き代えた円形の形が何時までもその家の屋根に残っていて、
 「花火をするときは、よう気ィつけんといけんでえ」
 と、いつも言っていた母親の顔とともに、何時までたっても忘れず、五月五日には、柱の傷ではないのですが、思い出されます。
 
 こんなの話は、今ではする人もなくて、端午の節句に菖蒲を屋根に葺くという事とともに完全にこの世の中から消えてしまっています。

 さて、今日は旗日です。こんな美しい風景を吉備津で見つけました。
 

みどりの日

2008-05-04 15:58:22 | Weblog
 「G・W」の只中です。誰がなずけたのかは知らないのですが、五月四日を「みどり」とは良くぞ命名したものだと思われます。
 野も山も総べて緑一色です。童謡ではないのですが、風までもみどり色をしているように感じられます。
 
 今朝も、吉備津神社本殿でお祓いを受けた後、御竈殿で、例年の通り、鳴る釜神事をして町内の吉兆を占って頂きました。
 今朝のお竈の音も大きくお竈殿に響き渡り、その余り音が、吉備の野のみどりの風となって、広く広く流れておりました。
 お山も野も空も総べて清々しいみどりです。
 気温の30℃越しております。この神事が終わって、今度は参道の清掃で、町内の人たちが汗を流しました。

 きれいに清掃された、参道口から見ると、緑の木々の間から、新装成ったお屋根の千木と鰹木が五月の日を浴びてきらきらと、みどりになって、辺りに神の光を投げかけているようです。
 
 それと平行して、向畑の山神様のお祭りも、吉備津神社から神官に来ていただいて、行われました。町内の五軒が順番に当番となってお世話させて頂きます。これも町内の無病息災と安全を祈願するのです。大祓いの祝詞を参加者が皆で奉りお祈りします。この行事も、向畑独特の長年続いている年二回のお祭りです。言い伝えや記録によりますと、江戸の終わりごろ(天保)には既に、このお祭りは町内でしたといわれています。160年以上も続けられている、特別記念物に指定されてもよさそうな、町内の貴重な文化遺産でもあるのです。

 こんな行事がある御陰で、町内の融和も随分はかられているようです。御陰で、伝統を無視するような自分勝手な人はいないと自慢してもいい町内です。

小さな自然の驚愕

2008-05-03 09:53:37 | Weblog
 今朝、猫の額ほどのわが菜園を覗きます。
 もう半月ぐらい前のことです。高松農業高等学校で、「野菜の苗」を販売をするというチラシが新聞に入っていました。さそく数本のトマト・キュウリ・ナス・ピーマンの苗を買ってきて(値段はどれも一本65円)植えておきました。
 昨日、そのキュウリに雌花が1つつきました。
           
 見ると雄花は何処にも見当たりません。これでは、この雌花には実が成らないなと思って諦めていました。ところがです。昨日まではその気配さえ見せていなかった雌花の上に、ちゃんと、今朝は、一つだけ慎ましやかに雄花を咲かせているではありませんか。本当にいじらしい黄色の雄花の花びらを開いています。
 さっそく、その雄花を採って、花粉を雌花につけます。昨日、咲いた雌花も萎まずに、ちゃんと、今朝の今を待つように、花びらを下向きに力強く付けて、九ちゃんよろしく
「明日がある明日がある。明日があるさ」
と、歌っているようでもあります。ウリハムシもテントウムシも葉の上をちょこちょこと這い回っています。
 自然ってなんと素晴しいのでしょう。たったこれだけの事ですが、こんなちっぽけな世界にも、驚愕なる現象?を繰り広げながら、懸命に生を維持しているのです。それらのほんの小さな小さな誰もが気付かないような一つずつの出来事が積み重なって、始めて、地球上の生物体系が成り立っているのです。と、感心しきりの今朝でした。
 普通なら、人間様がすることだ、当たり前だとばかりに、即座にひねり潰すこにっくたらしいウリハムシにさえも、今朝は、何か愛しさすら感じられ、しばらく、そっと静かに彼らの行方を眺めているだけでした。
 
 人間ってなんて勝手なのでしょうかね。この自然に比べて、人の世のなんて無味乾燥なことと、ため息ばかり出る朝でもありました。
 
 さて、果たして、このキュウリが大きくなった時、愛しさのあまり食することが出来るかなと、今から訝しがっています。

おせん 22

2008-05-02 08:19:48 | Weblog
 立見屋のご主人が
 「今、大坂の大旦那様からお園の話をお聞きして、私も正直なところ驚いているのです。平蔵さんもご存知のように、前が前ですから」
 とそこでお茶をぐいと一飲みなさいます。しばらくじっと手にされた茶碗を手の中で弄ばれていましたが、また
 「あれも、それでええと思うて、漸く近頃、何か可やと、ようやくうちの事を手伝ってくれるようになったのです。よく考えてみたら、あれもかわいそうな女子でしてね。・・・随分とお断りしたのですが。舟木屋さんに、当ってみろ、親がそげえに引っ込んでおったら、できるものも出来んようになってしまう、そげんことじゃあ、いけないと随分叱られましてなあ」
 「今、急にお園さんとのお話を伺いまして、私自身、どうすればいいのかとっさのことで困っています。・・・・・まあ、春過ぎに、この前にです。麦の穂が出揃った時分だったと思いますが、旅の報告やらないやらを舟木屋まで送ってほっとしている時、始めてお園さんに案内してもらって吉備津神社にお参りしました。その時のお園さんの話を聞きながら、優しい人だなあと、いうぐらいに思っていました。こんな人をお嫁さんに出来たらいいなというぐらいの事は思いましたが、特別、お園さんに惚れたはれたというのではありません。嫁にもらおうなんてことは思ってもみませんでした」
 一気に、ここまで、平蔵にしてはよく言えたものだと、自分でもあきれています。
 にこにこ顔の大旦那様は、
 「あの日、急に嫁はんの事を持ち出したさかい、それでお園さんの名前をもちだしたのじゃな。まあなんでもええ。とにかく平どんではない、平蔵はん、お園さんを是非もらいなはれ。第一別嬪さんがええ、笑顔もええ、それに、やさしい所がええ、お園さんに会って、平どんがお園さんの名前を持ち出したのがわかるわい」
 と、持ち前の大きな声でなんぼうでもまくし立てます。
 「ここの主人や女将はんは、お園はんの出戻りのことをえろう気にしていやはるようじゃが、そんなことはどうでもええ。夫婦になる二人がそれを許せるのじゃったらそれで十分なんじゃ。惚れあっとりゃそれでええのや。それが問題となって喧嘩になるなんてわけがねえ。ワイがええ証拠や」
 と言われる。
 いつかそんな噂話を平蔵は聞いた事があります。御寮ンさんが前の亭主と別れて
その後に大旦那さんが、舟木屋の婿としてお入りになったとの事ですが、その御寮ンさんとは、今でも、みんなうらやむほどの仲のよいご夫婦であることも事実なのです。
 「先ほど、お園さんに尋ねてみたのじゃが、何かまだ出戻りの事にえろう気ィ使っていらはるようで、金輪際、お嫁にはいきませんなんて、痩せ我慢の強がりを言っているようだがな。何時までもここにいらへんでぇなあ。ありゃあええ女じゃ。誰かに取られん間に、なあ、平蔵さんよ。この際だ。決めてしまえ。それが、今の、おまはんの一番大事なことなんだ。そうしなせえ、色々お前はんのためを思って考えた甲斐があったというもんだ。金毘羅参りにお前を連れてきた甲斐があったというもんだ」
 大旦那さんは、早決まったみたいにはしゃぎます。
 特に、お店を若旦那ンさんにお譲りになってから、世話のじいさんとあだ名されて、それこそ大坂中を駈けずり廻っているようです。なお、じいさんとは、大旦那様のお名前が茲三郎ということから付けられたあだ名だそうです。

 そんななところへ、女将さんと当のお園さんが夕飯の膳を持って入ってこられます。
 「おまちどうさんでした」と女将さん。早速、三つの膳を据えに懸かりますす。