現在の吉備津神社に通じる道は幅員が狭く、大型バスだと一台がやっと通れるといった状態です。そのため『もっと広い県道を」という地域の人たちの要望もあり、今急ピッチで、新しい県道が造られています。
その道と国道180号線との交差点にある吉備津神社の案内板も移転されました。この案内板には、歴史漫画にしばしば見られる、古代史にある武人の姿が描きこまれています。いかにもちゃちな安っぽい何処にでもあるような形式的な無配慮な図柄です。もっと工夫があればと思うのですが出来上がってしまっている物に文句をつけようがありません。
「なんだあれは?、よくもあんなものを」
と、吉備の国をよく知っている者の多くは、この案内板を見て、いかにも卑下する如くに薄笑いを投げかけているそうです。
「大体、頭にある冠から、鎧姿、それに白い服、脛の所を紐で結んだ姿、誰が一体、吉備津彦命をこんな姿だと決め付けてのだろう。刀も弓も総て気にくわん。この地は藤井高尚の生まれた所だろうが。勉強しとらん。なってはおらん。」
例の「おらん」氏からのおこごとです。
早速「松の落葉」をみると、「服」についてお書きになっておられます。
「古事記の神代に、伊邪那岐大神の御冠に合せて、御衣みはかまは大変うるわしくきれいに取り揃えられていた。又、八千矛神の歌にも、『黒き青き色の衣をよく似合わないと脱ぎ捨て赤い色の衣がいいと言われ、衣の色のよしあしを決めたた』、とある。・・」
と
私事(ひとりごと);
吉備津彦命の時代は、7代の孝霊天皇のお子様です。秦の始皇帝の為に不老不死の薬草を求めて旅に出した除福も日本の熊野地方にたどり着いたとされる時代です。
当時の服装が、歴史漫画的な白だけではなかったと、思われます。高松塚古墳の絵でも分るように、当時の服装は、現代と同じように相当カラフルなものではなかったかと想像されます。
まあ、今更、そんなことを言ってもどう仕様もありません。吉備津神社へお参りされる人が、この案内図を無視されて、お参りされる事を祈るばかりです。
それはそうと、新しく塗り変えられた本殿の漆の色の真っ赤さにも、又、少しばかり驚かされました。一見してください。派手派手し過ぎではと思いす。
その道と国道180号線との交差点にある吉備津神社の案内板も移転されました。この案内板には、歴史漫画にしばしば見られる、古代史にある武人の姿が描きこまれています。いかにもちゃちな安っぽい何処にでもあるような形式的な無配慮な図柄です。もっと工夫があればと思うのですが出来上がってしまっている物に文句をつけようがありません。
「なんだあれは?、よくもあんなものを」
と、吉備の国をよく知っている者の多くは、この案内板を見て、いかにも卑下する如くに薄笑いを投げかけているそうです。
「大体、頭にある冠から、鎧姿、それに白い服、脛の所を紐で結んだ姿、誰が一体、吉備津彦命をこんな姿だと決め付けてのだろう。刀も弓も総て気にくわん。この地は藤井高尚の生まれた所だろうが。勉強しとらん。なってはおらん。」
例の「おらん」氏からのおこごとです。
早速「松の落葉」をみると、「服」についてお書きになっておられます。
「古事記の神代に、伊邪那岐大神の御冠に合せて、御衣みはかまは大変うるわしくきれいに取り揃えられていた。又、八千矛神の歌にも、『黒き青き色の衣をよく似合わないと脱ぎ捨て赤い色の衣がいいと言われ、衣の色のよしあしを決めたた』、とある。・・」
と
私事(ひとりごと);
吉備津彦命の時代は、7代の孝霊天皇のお子様です。秦の始皇帝の為に不老不死の薬草を求めて旅に出した除福も日本の熊野地方にたどり着いたとされる時代です。
当時の服装が、歴史漫画的な白だけではなかったと、思われます。高松塚古墳の絵でも分るように、当時の服装は、現代と同じように相当カラフルなものではなかったかと想像されます。
まあ、今更、そんなことを言ってもどう仕様もありません。吉備津神社へお参りされる人が、この案内図を無視されて、お参りされる事を祈るばかりです。
それはそうと、新しく塗り変えられた本殿の漆の色の真っ赤さにも、又、少しばかり驚かされました。一見してください。派手派手し過ぎではと思いす。