私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

最後「松の落葉」

2007-12-29 20:56:09 | Weblog
 平成19年も後2日、いよいよ今年も押し詰まりました。「松の落葉」シリーズも今日で終わりです。
 191題について書かれた高尚先生の随想の内、私の思いと重なった部分だけを引き出して、私なりに解釈して、我田引水の感は否めませんが、4月から自由奔放に書きなぐって参りました。文章の拙さを始めとして、知識の乏しさも手伝って、あらぬものになったように思えます。毎回100ぐらいの平均の閲覧を頂き感謝しています。本当にありがとうございました。

 高尚先生が「松の落葉」で取り上げられている最後の題についてご紹介して、この項の締めくくりにします。

 「ここの書はさらなり。からのにまれ、天竺のにもまれ、書をよみあきらめたるを、その道みちのものしり人と言うべし。」
 日本や中国、更に印度の書物を読み明らかにした人を本当の「もの知り」というべきだ。
 この人たちは、何時も善事を行おうとして努力してきたのである。その人たちは常に、「よいことをしなさい。悪い事はしてはいけません」と、事あるごとに何時も説いていたのです。悪事は天地の神も大層忌み嫌い、また、世間の人もいたく「そしりたる」(うらんでいる)と言うことをしきりに強調しておられたのです。
 「そのつみかいなでの人よりは千重まさりなんかし」
 と。

 一昔前までは、ここに書かれた江戸末期を含め現代まで、殆どの世間一般の人が道徳の先生だったのです。

 それはそうとして、どこかの学校の教頭先生が、「平気でエッチなことをして、あくどい金儲けをしていた」と言うニュースが、今朝の新聞に出ていました。世も終わりですね、此れだけ「世の中が乱れているというか、でたらめな世の中だ」と、言う証拠でしょうか。

 この例を挙げるまでもなく、今みたいに、誰も彼も知識を一杯持っていそうな人達が、平気で悪事をしています。今年ぐらい、年の初めから終わりまで、偉いさんが謝罪のための頭をさげっぱなしの年はなかったようにおもわれますが。
 どうしてこうなったのでしょうね、原因は何処にあるのでしょう。
 
 さて、なんだかんだと愚痴っぽいことを申し上げてきましたが、この辺で終わりにします。長い間のお付き合い、厚く感謝申し上げます。
 
 最後の部分は、原文にてご紹介して筆を置きます。

 「此松の落葉よ、木かげにつもれるをかきよせいれしに、よつのかたにみちて、なほのこれるおほし。庭のかきねくまくまに、風の吹きよせてあるをもかきあつねなば、いまいつつむつのかたみにもといふやうなれど、さておきつ。其はゑは、ねでたき玉や、めずらしき石やをひろいあつめて見るにさへ、かずおほければ、あくここちもまじるならいなるを、ましてかれ葉の年へてつもりにたるは、大かたはくちくろみてきたなきをや、いといとうるさくなりてぞ」

 来春からは、ぐっと試行を変えて。正月の神迎えに関係のある福神について、しばらくお付き合いいただきたくい願いもうしあげます。