私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

義士祭

2007-12-14 20:27:09 | Weblog
 12月14日は義士祭です。赤穂の町は相当賑わいを見せていることだと思います。
 さて、この吉備津の地と義士祭とは関係がないと、思われている人が多いのではと思いますが、「吉備津の歴史を尋ねる会」が編集した(平成2年)資料によりますと、赤穂浪士四十七士の一人である片岡源五右衛門の子息の一人『本龍』の墓が吉備津の千日山墓地に見られます。その墓碑銘には、「寛延三年 真了本龍阿遮梨  忠臣片岡源五右衛門男」と書かれています。

 この資料によると、本龍の墓は、この吉備津のほかに「船穂の鶏徳寺にもある」と、説明がありますす。
 まあ、どちらにしても、源五右衛門の子息「本龍」が吉備津にいたことは確かなようです。僧侶となって、ひっそりと、吉備津であったか船穂であったかははっきりとはしてないのですが、このどちらかで終焉を迎えたことだけは確かなようです。
 『木龍』の生涯はいかなるもので、一体この天地を揺り動かした大騒動をどのように眺めたかは、資料がありませんので分らないままです。

 この人についても、また機会がありましたら。、何時の事になるやら分らないのですが、物語にでも仕上げてみようかなとも思っています。
  

2007-12-13 22:25:55 | Weblog
 今年の言葉に「偽」が選ばれたという報道がありました。
 この「偽」について、高尚先生は「松の落葉」に書いています。このことは前に一度ご紹介しましたが、再び書きます。

 「いつわりを言って人をたぶらかせば、その時は『ああいい具合にいった』、と思うが、ついには自分自身を滅ぼす事になる、ということは世の例としてしばしば見える。このことから思うことは『心のまこと』ということが如何に大切だかよく分る。・・・・<人の身の行いは『まこと(信)』をむねとすべし>・・・・嘘偽りで人を騙しても、その時だけは非常に華やでときめいている様に見えるが、結局はその偽りが分り次第に衰えていくのが常だ」
 と。

 私事(ひとりごと);
 何時の世の中にも「偽」というものはあるのでしょうね。同じ事が毎回毎回繰り返されています。利口な人が大勢いそうなものですが。
 世の中さほど難しいものではないと思うのですが、『分っちゃいるけど止められない』のですね。
 また、ニュースを見ていると、人の言葉がこれほど薄っぺらなものであるということにも気付きます。これぞ「偽」の本質かなと、政治のトップの人たちの言と聞いてあきれ返っています。

 今年の言葉に『偽』を選んだ人は、果たして偽りがない人なのでしょうか、そのあたりを考えて、もう一度今年をゆっくり振り返りたいものです。

現代風の着方の吉備津彦命

2007-12-12 16:25:15 | Weblog
 昨日の「あら捜し」の答えは、この絵が描かれている像の吉備津彦命のお着物の着方が現代と同じで、「右衽」なのです。これは、高尚先生を出すまでもなく、明らかなミスです。
 昨日の絵は、横山大観の描いた「神武天皇像」です。この絵からでも、当時の日本人の風習は「左衿」だったことが分ります。
 さらに、これこそ「神代の日本の風俗習慣をそのままに表しているものだ」と、思われるものに「埴輪」があります。

 ちゃんと左衿になっています。同じモニュメントを作るなら、こんな図柄のようなものにして欲しかったと、私は思っています。
 
 ついでに、この記念碑について、もう一つ言いたい事があります。それは、この像には「まほろばの里 高松』という字が金色に輝いています。でも、ここは「吉備津」なのです。「高松」とは、その時代にもその背景にも、雲泥の格差があります。高松と吉備津では、その言葉が醸し出す意味が全然違うのです。決して「高松」と「吉備津」とは同一視出来ない内容の重みの差異があるのです。そんなことがこの像を設置した人たちにはお分かりに成らないのだとも思いました・・。

 そんな事を思いながら、新しく出来上がりつつある師走の雨の県道を、車で走り抜けてみました。

 蛇足;現代のきもの

あら捜し 襟と衽

2007-12-11 14:11:24 | Weblog
 さて、高尚先生の「松の落葉」も長い間にわたって書いてまいりましたが、ぼつぼつ種切れになりかけています。次のテーマは何にしようかなと思って資料等を探しておりますがいい資料が見つかりません。「真野竹堂」と、思ったのですが、これもなかなか資料が見当たりません。想像しながら挑戦してみようかなとも思っています。

 まあ、それは何ですが、今日も、前回に続きまして、「まほろばの里」のモニュメントのあら捜しをして見たいと思います。
 前回とその前の二枚の写真をみてください。「どこか変だ」と、思われる所はありませんか。
 
 高尚先生の「松の落葉」には、
 「みくにのいにしえ人は、かみしもなべて衣きるよう左襟なりき。」
 と、書かれているということは先にご紹介しました。
 即ち、上代の日本では、人々は誰でも、左襟(こちらから見て相手の右襟が外に左襟が中に)が当たり前だったのだそうです。
 それが、奈良に都があった頃より、現代と同じように、右襟にするようになったと説明されています。それは、遣唐使の影響によるものだったらしいのです。当時、唐の国では、「左衽」はえびす(未開の国)の風習だとして、どうも卑しき民のものとして軽蔑されたらしいのです。そんなことから、わが国も天皇が「右襟に変えよ」と詔を出したのだそうです。

 私事(ひとりごと);
 今で言うなら、法律で「黒髪はアメリカ等西欧人から、野蛮国のものだ」と言われるので、「国民は全員茶髪に染めろ」と言う決まりを決めるのと同じ方法で決めたのだと思います。結構、乱暴な事をしたものだなと思います。
 このことを、高尚先生も「左襟はどうして卑しいと決め付けたのか、それぞれのお国柄があってもよいものを」と、批判されています。
 なお、地域の古老の話によると、
 「今でも、この左前の着せ方は死者に対して見られ、昔から左前に着ると運が悪くなり貧乏になる」
 と言われ、「左前」は余り芳しくない評判になっているらしいのです。
 
 話が、ちょっと長くなりましたので、続きは明日にでも。
 

あら捜し2

2007-12-09 09:19:25 | Weblog
 昨日に続いて、また、この絵柄のあら捜しをします。
 
 「松の落葉」によると、上古の男子の髪の型は、この写真にあるように二つに振り分けて額の所で結わえていたそうです。

 古事記の景行天皇の巻に、小碓命の説明で、「その髪は額に瓠花(ひょうたん)のような形をして、角子のように結わえた」と、書いてあるそうです。
 さらに、冠(かふり)を付けるときは、この二つに分けた髪をといて、一つに結い上げて付けたと説明しておられます。そうだとしました、やはりこの絵柄は、間違っています。

 史実にもとずいて描くのであれば、やはり、冠を描かないで、振り分け髪にすればと思います。それとも、戦闘用のお姿ならば、埴輪に見られるような、鉄製か何かの戦闘用の冠をつけておけばと思います。

 まあ、ともかくも、間違いだらけの絵柄です。

2007-12-08 10:52:46 | Weblog
 例の吉備津神社入り口の案内板にある漫画的吉備津彦の絵柄について、もう少し悪口を書き続けます。
 この絵にある頭の部分には、何かは分らないのですがちゃんと冠らしき物が描き込まれています。
  

 この冠について「松の落葉」には、次のように記されています。
 『冠は「かかぶる」という用言(動詞)が体言(名詞)になって「かかぶり」に、さらに「かうふり」「かふり」と言われ、神代の昔にもあった。古事記などには伊邪那岐大神も、また、大国主命にも御冠の事が見えるが、本居宣長の「古事記伝」の中では、上古には冠はなかったとされている。あったとしても、正月につける于受(うず)だけで、これは頭巾のようなもので、これを「かふり」と呼んでいた。  
 なお、推古天皇の時代になると、中国の制度がわが国にも導入されて、冠が使われるようになった』
 と。

 私事(ひとりごと);
 埴輪などにでてくる武人の姿には現在の鉄兜のような戦用の帽子は見ることが出来ますが、ここに見られるような何かわけの分らないような冠は全くのでたらめな想像的なものではと思われます。
 ここに描かれている頭巾に何かその上につけているのですが、これはなにを意味するのかは不明ですが、正月に帝が頭に飾られる髻華(うず)を表したのかもしれません。
 髻華とは、元日に、時の帝が、頭巾のようなものに「くまかし」の木の葉をつけたものだそうです。
 だから、吉備津彦命が孝霊天皇の皇子であったとしても、そんな物をつけるはずがありません。頭巾・冠はなかったとするのがいいようです。

袴は白でした。

2007-12-07 14:13:53 | Weblog
 「松の落葉」によると、神代の昔から、人々が着た上着はとてもカラフルだったようでしたが、袴は白で、脛の所を結んでいた「さしぬき」であって、
 「さしきぬと言う名の由は、袴のすそに狩衣の袖くくりのごとく、組緒をさしぬきてとほすゆえなり」
 とあります。
 
 だから、ここの案内板に書かれている発想の貧弱な漫画的な絵柄もまんざら嘘ではないようですが、とても滑稽な、この地に相応しい物とは決して思われないような品のない物であることには変わりはありません。

 明日は、この像の冠について書く予定です。

 

八千矛神

2007-12-06 21:26:34 | Weblog
 前に取り上げた「八千矛神」について、念のために、もっと詳しく説明します。「ヤチホコノカミ」と読みます。古事記によりますと、大国主命の別名だということです。
 
 ある時、八千矛神さま、越の国で、それはそれは美しい「沼河姫」というお姫様を見初められたそうです。そしてその姫君に求婚しに越の国まで行かれます。それを知った出雲にいたお妃さん「須勢理姫」が大変嫉妬したので、それを恐れて大和の国へ家出しそうになりましす。それを知ってそのお妃さんが、
「何処へも行かないで。あなたがいない出雲なんて考えられない。さみしくて死んでしまいます。どうかお願いです。私の側にずっといてください」
 と、と頼みます。その結果、それ以後、大国主命はずっといらしたということです。

 そんなやり取りの歌の中に、八千矛神の服装について歌われているのです。
 最初は灰色の服を着ていたのですが、それが似合わないと言って、次は、緑色の服を来て見ます。でも、やっぱりそれもだめだと言って、今度は緋色の服を取り出して着てみます。。これが良いといってその服を着られたと書いてあります。
 決して、当時の服は白色だけではなかったのです。沢山なカラフルな服が流行していたのだそうです。

 だから、漫画的な白一色のお姿で、今日看板として立っておられるのは、吉備津彦命に対して、聊か気の毒なような気になります。

 「もっとしっかり当時の歴史を勉強しろ。私はそんなに野暮ではないぞ」
 と、おしかりを受けそうで仕方ありません。
 
 なお、赤色は植物の「あかね」から染めたのだそうです。神代の時代から使われていたそうです。吉備地方にも沢山見ることができます。

一張羅の秋-2

2007-12-05 15:23:25 | Weblog
 吉備津神社におまいりしました。そこでも、とっておきの秋を見つけました。山の木々は木枯らしに揺らされています。
 高尚先生の好きな松と紅葉の対象がとても辺りに映えていました。

 なお、後ろの社はえびす宮です。回廊から写しました。

 この風景も吉備津の「一帳羅の秋」のとっておきの名残り絵です。

一帳羅の秋

2007-12-04 10:10:32 | Weblog
 古希を過ぎると、やけに月日の流れの早急なのを実感します。もう師走です。
 
 昨夜の寒風に、山間にある橡の枯れ葉も、一夜の内に、見事なまでに散り落ち、寒々とした空が、やけに大きく広がって見えます。道も草原もこの落葉に埋もれ、そこらじゅうに茶色い絨毯を拡げています。これぞ村里の冬色そのものです。
 そんな中、吉備津の街角に、師走に残る、とっておきの寂寞の秋を見つけました。
 「一帳羅の秋」です。

 

吉備津神社への県道が新しく出来ています。

2007-12-02 21:51:07 | Weblog
 現在の吉備津神社に通じる道は幅員が狭く、大型バスだと一台がやっと通れるといった状態です。そのため『もっと広い県道を」という地域の人たちの要望もあり、今急ピッチで、新しい県道が造られています。
 その道と国道180号線との交差点にある吉備津神社の案内板も移転されました。この案内板には、歴史漫画にしばしば見られる、古代史にある武人の姿が描きこまれています。いかにもちゃちな安っぽい何処にでもあるような形式的な無配慮な図柄です。もっと工夫があればと思うのですが出来上がってしまっている物に文句をつけようがありません。
 「なんだあれは?、よくもあんなものを」
 と、吉備の国をよく知っている者の多くは、この案内板を見て、いかにも卑下する如くに薄笑いを投げかけているそうです。
 「大体、頭にある冠から、鎧姿、それに白い服、脛の所を紐で結んだ姿、誰が一体、吉備津彦命をこんな姿だと決め付けてのだろう。刀も弓も総て気にくわん。この地は藤井高尚の生まれた所だろうが。勉強しとらん。なってはおらん。」
 例の「おらん」氏からのおこごとです。

 早速「松の落葉」をみると、「服」についてお書きになっておられます。
 
 「古事記の神代に、伊邪那岐大神の御冠に合せて、御衣みはかまは大変うるわしくきれいに取り揃えられていた。又、八千矛神の歌にも、『黒き青き色の衣をよく似合わないと脱ぎ捨て赤い色の衣がいいと言われ、衣の色のよしあしを決めたた』、とある。・・」
 と

 私事(ひとりごと);
 吉備津彦命の時代は、7代の孝霊天皇のお子様です。秦の始皇帝の為に不老不死の薬草を求めて旅に出した除福も日本の熊野地方にたどり着いたとされる時代です。
 当時の服装が、歴史漫画的な白だけではなかったと、思われます。高松塚古墳の絵でも分るように、当時の服装は、現代と同じように相当カラフルなものではなかったかと想像されます。
 
 まあ、今更、そんなことを言ってもどう仕様もありません。吉備津神社へお参りされる人が、この案内図を無視されて、お参りされる事を祈るばかりです。

 それはそうと、新しく塗り変えられた本殿の漆の色の真っ赤さにも、又、少しばかり驚かされました。一見してください。派手派手し過ぎではと思いす。