私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

運動会とたたみ

2007-10-06 17:30:30 | Weblog
 今朝は雲ひとつない秋晴れです。孫の通っている保育園での最後の運動会です。
狭い運動場は一杯の観客で埋まっています。遠くに住んでいるおじいちゃんおばあちゃんまで動員されています。それこそ家族中の応援団の大集合です。
 開会式での全員による可愛いダンス、親子競技、障害物競技、鼓笛隊パレード、リレー、閉会行事など、吉備津保育園独特の演技が運動場一杯に繰り広げられます。
 観る者をして、一瞬の園児の無心な妙技が興奮の坩堝に引き込ませます。小さい園児の大演技です。日ごろの先生達の愛情こもるご指導に目を見張るばかりです。大相撲の親方衆に見せてやりたいような光景です。これぞ指導なのです。
 障害物競走の中で面白い演技がありました。太鼓橋風の運梯に畳を一畳立てかけてあります。それを園児が駆け上り、頂上から、一気に今度は地上めがけて飛び降ります。こんな競技が可能な年になったのです。ついこの前までは、椅子の上からさえも飛び降りることが出来なかった幼子が、自分の背丈の2倍も3倍もあるような高さから飛び降りることが出来るなんて信じられません。
 成長するという事は、指導を受けるという事は、子供達にとっては何でしょうか。古臭いと言われそうですが、「我師の恩」とは、この期の子供達にとっても、かけがえのないの自分の命と同じぐらい大切なものではないでしょうか。
 「ありがとうございます」
 という感謝の念を、この子達の両親は、決して、忘れてはいけない事だなとお思いました。それが、ここに集う子供達の健全な成長を促すのに十分でかつ必要な条件ではないでしょうか。やさしい心を育てるとは、親が感謝したり思いやりがあったりする人でなければいけないのではないでしょうか。 
 はつらつした子供達の演技を見ながら、久しぶりに充実した日を過ごす事が出来ました。

 さて、この子供達が、今日使って演技していた「畳」について、「松の落葉」で高尚先生は説明しておられますが、少々長くなりますので、明日にでも。

 今日は、孫の運動会に大いに感動したので、それだけをお伝えします。
 

雁がね

2007-10-05 12:14:09 | Weblog
 「松の落葉」で、4種類の植物が取り上げられていますが、では、動物はと思って頁を捲ってみました。やはり偶然がどうかは分りませんが、「雁がね」「かえるかわづ」「松虫鈴虫」「白狗」の4種類が取り上げられていました。

 その中の、「雁がね」について読んでみました。
 
 『雁がねは、「かりが音なる事」であり、
 古今集の歌にも、
    さよ中と 夜はふけぬらし かりがねの
               きこゆるそらに 月わたるみゆ
 と、詠まれているのでよく分り、
 「音のきこゆるとつづきたる詞なり」と。
 万葉集にも「雁鳴」「雁泣」「雁音」とあり、どれも<カリガネ>と読ませています。』
 
 
 私事(ひとりごと);
 もうじき、雁が「く」や「さお」になりながら飛ぶ姿を、この吉備の里でも見かけるようになります。その音まではなかなか聞く事は出来ませんが、『おしねほすしずが垣根の』や吉備の中山の空に、その姿を見つけますと、たまらなくわびしい秋の気配が、ひしひしと押し寄せ、胸潰す思いに駆られます。

 秋のわびしさは、吉備の野の、風にも景色にも空にも飛ぶ鳥を初め大小の動植物達にも到るところで感じられます

 定家の歌
     見わたせば 花も紅葉も なかりけり
              浦の苫屋の 秋の夕暮れ

 何処も同じ秋の夕暮れが展開しています。

見渡せば 雲間より漏る 陽の中の
             しずが垣根の 秋の夕暮れ

をしね

2007-10-04 10:12:08 | Weblog
 昨日「松の落葉」で取り上げられている植物は3種類だと書きましたが、今朝もう一度調べてみました。するともう一つ「おしね」という言葉が出ていました。
 だから正確には4種類になります。
 「おしね」については、先生は。次のように説明しています。
 『おしねは小稲のことで、をは軽く添えた詞で、車のことを「をぐるま」というのとおなじです。稲を「しね」と言うのは、昔、和稲(ニコシネ)荒稲(アラシネ)と呼んでいたの名残だそうです。
 為家という人が
 『かたおかの 森の木の葉の いろずきぬ
          さわ田のをしね いまやからまし』
 と詠んでいるが、これなどもただの稲という意味らしい。

 私事(ひとりごと);
 「明治43年に、明治天皇が、この吉備の里で行われた陸軍の演習視察のために(行幸)立ち寄られた駅」という碑が、JR吉備津駅に立てられています。
 この吉備への行幸で、御詠みになられたのでは思われている御歌が4,5首残っています。

  ・をしねほす しずが垣根を みつつゆく
                秋の旅路の ここちよきかな
  ・草枕 たびのやどりに 着きて後
                うれしく雨は ふりいでにけり
  ・あすもとく 軍ならしの さまみむと
                思えば夢の さめがちにして
 などの歌などです。

 この時の天皇の野立所にも(足守川の岸辺の小高い場所)記念の石碑が建てられています。
 現在では、「をしね」「しずが垣根」等といった御歌の風景は、吉備の里の何処を捜しても見つかりません。が、この足守川の岸辺に出で立つと、あの秋の寂寞としたわびしさがいっぱいに吉備の野に広がっているのが見渡せます。誰でも簡単に、秋を深く思うことが出来ます。
 これぞ「吉備路の秋」だという実感が味わえます。一度お尋ねください。大和路よりちょっと違った「マホロバ」の姿を感じることが出来ます。出来れば11月の末頃の雨上がりの晴れた日の夕方が一番だと思います。
 あたりの気配に「おしねほす しず垣根」の風景をなんとなく感じ取る事が出来ます。
 霧立ち上る秋の夕暮れが一番ですが。

彼岸花

2007-10-03 21:09:11 | Weblog
 先日、買って帰ったのが美味しかったので、再び、今日、孫を連れて吉備高原にピオーネを買いに行きました。もうこれが今年の最後のピオーネだとか。あたりは秋色をそこかしこに見せております。
 足守を過ぎ、大井、福谷にかけて、今年は、少々時期がずれていますが、今が一番の彼岸花の盛りです。たわわに実った取り入れ前の稲田の畦に沿って真っ赤な彼岸花が、蛇がうねうね通り過ぎていくように、幾重にも幾重にも、続いています。この時期ならではの田舎のうっとりするようなのどかな景色が目の前に展開されています。それでも、まだ暑さを一杯に残しているやや強い秋の日差しが、その彼岸花の何処までもうねうねと続いている赤い帯に映えて、なんともいえない今年だけの風景が見られました。
「そんなこと教えても、小さい子にわかるもんですか」
 家人に笑われながらも、一歳の孫にもその景色を私は分ろうとわかるまいと関係なしに目にさせました。彼の目にその赤が映ったのか映らなかったのかは分りませんが。
 ちょっとおかしな今年の秋をです。

 我;先生、「松の落葉」の中には残念ですが、この彼岸花のことについては触れられていません。この本に取り上げてある植物は、「すすき」「あさがお」「菊」の3種類だけでした。

 今日頂いて帰った「ピオーネ」のおいしさは、この足守の彼岸花の美しさに匹敵すると思いながら美味しく頂きました。
 

教科書検定について

2007-10-02 10:40:49 | Weblog
 またまた「松の落葉」から離れます。
 
 今朝の新聞の一面に教科書検定の記事がありました。

 これってちょと可笑しいのではと疑問に思いましたので、意見を述べてみます。
 
 新聞によると、沖縄戦で日本軍が住民に「集団自決」を強制したとの記述が高校の教科書から削除された問題で、沖縄県民の強い意見により、この記述が復活する可能性があるというのです。
 
 この記事を見て「どうも可笑しい」と皆さんはお思いになられないのでしょうか。
 そもそも、どんな経緯があって、なぜ、この記事が削られたのでしょうか。削られたからには、それ相応の客観的な歴史的事実が存在したはずです。その事実は、今度はどうなるのでしょうか。
 また、客観的事実があったにも拘らず、多数の住民の意見があれば、歴史は変えられるのでしょうか。いったん歴史的認識に誤りがあるとして削られたのもでも、やすやすと再び復活できるのですか。
 
 一体教科書とは何なのでしょう。
 今までにあったものが、どのような経緯で、前回は教科書より削除したのでしょうか。朝令暮改みたいな事がどうして起るのでしょうか。教科書から削られるという事にはそれなりの理由があったからだと思います。
 今秋の改正判断では、前回の削除事由が根本的に間違っていたということなのでしょうか。
 もし、前回の判断に過ちがあるとして改正するのだったら、どうして間違いが起ったのか、また、その間違った判断をして、記述を書き直させた文科省の人たちの責任はどうなるのでしょうか。
 その人たちの意見をも、是非聞いてみたいと思います。ある確証をお持ちになっていた為の指示だったと思います。何処が間違ったのか、我々国民も是非知りたいと思います。

 またまた、これが政治だと苦笑いをして済ましておしまいになるのでしょうか。

むしろ

2007-10-01 18:53:47 | Weblog
 ちょっと又寄り道をしました。「松の落葉」に戻ります。
 「むしろ」についても解説しておられますのでそれを取り上げます。
 
 今「むしろ」といえば土の上に敷いて、物を置いたり人が座ったりする藁などを使って作っている「こもむしろ」を呼んでいますが、平安の昔には、家の中で使われていた上等な敷物を「むしろ」と呼んだのだそうです。
 その中でも上等なものが綾むしろです。絹で作られていたやわらかなむしろです。うわむしろ、したむしろなどもあり、寝る時に使ったふとんのようなものであったらしいのです。そのほか、敷物として使われた竹むしろ、菅むしろなどのかたむしろもあったようです。
 種類も広筵、長筵、狭筵、小筵はその形から、出雲筵、信濃筵、あづま筵などは織り出す国から、たかむしろ、菅むしろ、綾むしろは作られた材料から呼ばれていたそうです。

 私事(ひとりごと);
 我々の時代の人は筵といえば、筵旗など百姓一揆の幟などから誠にお粗末な藁でこしらえてある農作物を置くための何処にでも転がっているような敷き物の感覚しかないのですが、本来は上流階級の人たちが使っていた上等の生活用品であったようです。
 「時代時代でそれぞれに使われている物は、やはりその時代に書かれた書物によらなければ正しく理解する事は出来ない」と、言っておられる先生の言の通りです。
 「なんだそんなもの」と簡単に早合点しないで、何でもよく調べてみる事の大切さを改めて教えられました。