私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

たたみ

2007-10-08 08:24:22 | Weblog

 孫達の保育園の運動会で使われていた古畳がやけに目に付きました。新しがり屋の現代の教育の場に、まさかこんな物がといささか驚かされました。先生達のアイデアに感心することしきりでした。  

 さて、この「たたみ」について、我;先生は 

 『たたみという名は神代からあったのですが、今の畳とは随分違っていた。どんなものでも、いくへにもたたみて敷く物をいって、「これが畳だ」というものだという決まったものはなかったようです。 奈良に都があった時代は、薦(こも)をたたみ重ねて編み、畳を作ったとあります。それが平安の時代になってから、現在のような畳になったらしいのです。 「錦のはしさしたる長たたみどもを、西ひがし北みなみとまはりてしかせたまわり・・・」という文が栄花物語にも出ていることからもわかる。 藺を織ったものを表にした畳というものは、この時代の中ごろから作られたようです。でも、今の時代のように長さ大きさが決まってはなかったらしい。 
 中でも面白いのは、畳のはしのさまは、そこに座られる人によって区別されていたようです。 帝、院、神仏用には、繧繝縁(うんげんべり)。大臣などの公家は小紋高麗縁、紫縁、黄縁など位によって使われる色が分かれていた」 と。  

 私事(ひとりごと);  
 庶民の暮らしの中に何時頃から取り入れられた分らないのですが(多分室町ぐらいからではないでしょうか)、藺はその表に敷かれたその辺の経緯が分ればと思ったのですがはっきりした事は不明なのだそうです、この草は、細くて硬くて敷物にするのには適していたと書かれている本のあるようで、人の生活の智慧の大きさを改めて思いました。 
 我々年老いた者にとっては、やはりこの畳のない生活って考えられないことのように思われます。 日本人の落ち着いた気分を誘うためには、どうしても欠くことのできない身体の一部だと、いっても良いようなものではないでしょうか。 
 『胡坐をかく』、これこそ伝統的な日本文化の基ではないでしょうか。畳があって、そこからすべての日本人の物の考え方を始として、生活する上での基礎的な習慣が生まれてきたのではないかとも思われます。大げさに言いますと、日本人を作ったと言っても過言ではないと思います。
 「礼儀、作法」もそうです。また「くつろぐ」という言葉も、この畳から生まれています。 
  現代の家を見ていますと、そんな従来からあった日本人の伝統的な心を創り上げた畳を忘れてしまって、形式的な便宜さだけを追求しての板の間の空間が家の中の主流となり、いままでに培ってきた数々の日本人の心が蔑にされているのではないかと、寂しく一人で思っております。これも現在の殺伐たる世相を生み出している大きな原因の一つではないでしょうか。

  日本の建築の中から、敷居、鴨居、天井、たたみ、障子、衾、欄間、床の間、神棚、大黒柱、更に、金剛梁といった人の心を支えていた建物様式が身の回りから消えています。 日本全国何処へ行っても同じ家が建っています。気候風土に合致した地方独特の日本家屋が消失しています。それに連れ情緒も。北海道も岡山も総てが同じになっています。 

 ますます明治や昭和が遠のいています。