私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「川嶋」という言葉

2007-07-11 12:23:56 | Weblog
 「吉備」と言う文字が、わが国の歴史書に最初に出てくるの「古事記」と「日本書紀」です。
 我高尚先生は、
 「おのれがつかへまつる神は、比古伊佐勢理毘古ノ命(ひこいさせりひこのみこと)と申ぞ正しき御名なりける。古事記に、亦の御名を大吉備津彦ノ命・・・」
 と、書いて、日本書紀にも、今の人達にも、「大」を省いて「吉備津彦ノ命」と呼んでいるのは{あじきなき事なりしか}と、わざわざ『しか』とうい言葉を付け加え、残念がっておられます。

 私事(ひとりごと);
 あじきなしとは、道理にはずれ正常ではない、けしからんことで情けないことだと言うような意味ですが、高尚先生の憤りが見えるようで面白いと思います。
 なお、少々古臭いお話しになって恐縮ですが、日本の正史に現れた「吉備」について説明します。
 『古事記』によりますと、第七代孝霊天皇の皇子、比古伊佐勢理毘古ノ命と腹違いの弟、若日子建吉備津日子命の二人を吉備の国に派遣して『言向け和したまいき』(話し合いによって平和裏に服従させた)と書かれています。
 その後、大吉備津彦命はこの地に留まってこの地を支配され、吉備津神社の神になり、人々から敬われました。お墓も吉備の中山の頂上にあります。現在、御陵となって、宮内庁の管理下におかれています。
 大吉備津彦命の子孫は、多分お子様がお一人であったようです(三井根子命)。その人が、静岡のあたりの国造(くにのみやつこ)となっていかれて、この地の豪族にはなられなかったようです。
 それに対して、弟君の若日子建吉備津日子命の一族が、この吉備地方を直接支配するようになったのです。
 この尊の娘、「播磨稲日大郎媛」は景行天皇の皇后になり、あの日本武尊をお生みになられます。その大郎媛の弟の子「吉備武彦命」が、後に日本武尊の蝦夷征伐の時の副官になって、一緒に遠征し大活躍し、尊の薨後、戦死なさった後、景行天皇に、この戦いの復命をしておられます。
 ここら当りのことは「日本書紀」に詳しく書かれています。
 この吉備武彦の娘「吉備穴戸武媛」は、日本武尊の妃になっています。その妹にあの兄媛(えひめ)がいます。采女となって応神天皇の後宮に入りに寵愛されています。

 川嶋河とか笠臣はこのあたりから『日本書紀』に登場してきますが、余りにもお話が込み入ってきましたので、今日はここらあたりにして、続きは明日に!

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