私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備国が、くち中しりと分かれた頃  

2007-07-10 16:05:00 | Weblog
 わが高尚先生は、吉備の国が前・中・後の3つに分かれたのは、何時頃の事だろうと言うことについて書かれています。色々と説はあるが、持統天皇(百人一首の、“春過ぎて夏きにけらし・・・の作者)の御代に分かれたらしいとされています。その後、更に、元明天皇の和銅年間に備前の国のうち6郡を美作国としたそうです。

 私事(ひとりごと);
 この高尚先生の説明の中に、日本書紀に書かれていると言う『虬』(みつち)の話しが出てきます。
 紀には、仁徳天皇の67年の条に、
 吉備中国(きびのみちのなかのくに)の川嶋河の派(かわまた)に、大虬がいて、大層周りの人々を苦しめておったと言う事です。また、旅人が知らずその河の近くを通るとその息の毒を浴びて、多く死んだそうです。そこで、この国を治めていた、けたたましく勇気ある笠臣の祖である県守(県知事のような人)が、その派の淵に行って、3つの瓢箪(瓠)を水に投げ入れて言ったそうです。
 「お前は多くの人達を苦しめており悪い奴じゃ。今投げ入れた3つの瓠を沈めたらお前を助けてやる。もし沈める事が出来なかったら殺す」
 と、すると、この虬、鹿に化けて、瓠を沈めようと試みるも、沈める事が出来ない。そこで、県守は剣を抜き、水の中に入って虬を切り殺しています。その一族も淵の穴(岫穴)に逃げ込んだが、総て切り殺します。そのために、この川嶋河の水が血色に変わったという事です。
 
 河の色が変わったという事で、そのあたりは「川変」と呼ばれていたのだ、更に、それが、「川辺」になったと、言い伝えられています。
 なお、河童が瓢箪を恐れるのは、この虬は河童の仲間であるからとも、まことしやかに言い伝えられています。どうでしょう。
 川辺付近にお住まいの人、こんなお話し聞いた事ありますか?

 なお、「笠臣」・「川嶋河」については、又明日、今日はこれにて。

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