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「成長する種」のたとえ

2014-05-11 14:02:32 | メッセージ
礼拝宣教 マルコ4章26~29節 母の日


「はじめに」
先程読まれましたマルコ4章26~29節の「成長する種」のたとえ。これは他の福音書にはなくマルコ福音書だけに記されております。新緑が萌え出る季節に相応しいこのところから今日は、イエスさまが語られた「神の国」について聞き取っていきたいと思います。
このマルコの1章15節には、イエスさまが最初の伝道の地ガリラヤで、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と神の国の福音・喜びの訪れを語られたとあります。この「時は満ちた」とは、今やそれはイエス・キリストによって実現し、神の国が間近に来た」と言う意味であります。そのイエス・キリストによってもたらされた神の国とその拡がりを、今日の箇所は「成長する種」に語られているのです。

「土に蒔かれた種が主体」
さて、この短いたとえを読みますと、パレスチナ地方の農耕、種を蒔き、育て、収穫するような非常に身近な自然の営みに、神の国をたとえておられます。

イエスさまはまず、「神の国は、人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種が芽を出して成長するが、どうしてそのようになるか、その人は知らない」とおっしゃいます。
それは、人(農夫)が種を土に蒔くことから始められるわけですが。この話の主体は種を蒔く「人」にあるのではなく、土に蒔かれた「種」にあります。その種は主イエスの語られたいのちの言葉と解することができますし、又福音そのものと捉えることもできるでしょう。この「土に種を蒔く」の「蒔く」という用語は、原文では「一度限りの行為を意味する」そうです。そう考えますと、それはイエス・キリストの十字架の苦難と死をもって蒔かれた「いのちの種」と私たちは読むこともできるでしょう。
ヨハネ福音書12章24節に主イエスは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とおっしゃいました。地に蒔かれた一度限りのこの福音の種には、「神の国」の到来と完成へ至らせる「いのち」が宿っているのであります。
すでにそのいのちに与っている私たちキリストの教会とその信徒には、この主イエスの福音の「種を蒔く」という宣教や伝道の働きが託されているのでありますけれども。

「隠された御業」
このマルコ福音書が注目している点は、その地に蒔かれた種がいつ芽を出しいつ育つか、それは種を蒔いた人すらも知らない、と言うことであります。種が蒔かれた後、もちろん農夫は水をやったり、芽が出るとその必要に応じて手入れを行うわけでありますけれども。しかし農夫は、種がどのようにしてその芽を出し成長するのか、どうして実となるのか知らないのです。「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」のであります。

自然界における動植物の不思議ないのちの営み。私は小学生の頃、よくチョウやトンボ、セミ取りに夢中になり、足中を蚊にボロボロに刺されるまで続けたものでしたが。それだけ野に親しんでも、サナギの殻を破ってチョウが羽を伸ばす瞬間や、ヤゴがトンボになる時、セミの幼虫がセミの姿になる時などは、ほとんど目にしたことはありません。映像等で観ましても、それはまさに神秘としか言いようのないものです。
果たしてイエスさまも幼少の頃虫取りをされたかは分かりませんが。自然界に生きる動植物に身近に触れる中で、創造主なる神の御手の業を覚え、このようにたとえをお用いになる知恵を培われたのかも知れないなあ、と想像したりいたしますが。
いずれにしろ、この「成長する種」のたとえの言わんとしていることは、神のなさる業や働きは人の目に隠されているということです。人の理解していることや人の知っていることはほんの一部分にすぎず、そのほとんどは知らないということです。どんなに科学技術が発達した現代にあっても、それは同様であります。動植物がどうして命をもち得るのか。
イエスさまは、「土はひとりでに実を結ばせる」と言われましたが。まさにこれは神の驚くべき御業であります。「神の国」が「種の成長」にたとえられたそのメッセージは、神の働きが人の努力や業を遥か超えるダイナミックな力によって成し遂げられていくものであることを、示しているのです。Ⅰコリント2章7節で使徒パウロも、「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始る前から定められておられたものです」と述べています。

さて、イエスさまは、「種の成長」が自然界の秩序に則して、「芽を出し、茎、穂、そして穂には豊かな実ができる」あたかもそのように、神の国の実現も神の秩序の中で実を結んでいくとおっしゃったわけですが。実際私たちひとり一人にいたしましても、この成長はあくまでも人の視点ではなく、天からの視点によってでありますが。福音を種が心に蒔かれ、いつの間にかそれが芽を出し、育っていき、葉を茂らせ、花を咲かせるように、救いの喜びに与り、いずれ実を結んでいくものとされているわけであります。
その順序が入れ替わることはありません。けれども、それぞれの過程にかかる時間、あるいは経緯といったものは人それぞれであり、千差万別です。ある人は茎が伸びるまでに時間が必要であるけど。花開けばあっという間に実を結びます。またある人は、いつまでたっても芽が出ない。待てども暮らせども出ない。けれど雨の季節を過ぎて気づけば、すばらしい大輪の花を咲かせているのです。
福音の種を蒔く私たちは、結果を急ぐあまり、その目に見える状況に常に一喜一憂いたします。落ち込んだり、悲観的になることさえあるでしょう。けれども、神の業と働きは人の目に隠されており、私たち人の思いを遥かに超えてなし遂げられていくのであります。
27節で「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」とありますように、福音の種蒔きをなし、水を注いだりするのは私たちであったとしても、命を与え、育むのは神さまですから、その神さまの力に信頼をおいていく信仰が大切なのです。
使徒パウロが、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(Ⅰコリント3章6節)と述べているとおりです。

私たち大阪教会も教会堂建築という働きの中で、私たちの働きや思いを遥かに超えた神さまの驚くべき御業をいくつも見せていただきました。この新会堂での新たなあゆみの中でも、様々なかたちで主は生きて働かれています。むろん礼拝者が増し加えられることやキリストの教会が継承されてことを今後も課題として祈り、努めることは必要であります。しかし、より多くの方と祝福を分ち合うということからすれば、すでに様々な形で実現されています。今後も主の豊かな実りの御業に期待してまいりたいと願うものであります。

「いのちの種」
今日ここを読んでほんとうに思いますのは、地に蒔かれた「福音の種」自体に、「神のいのち」が完全なかたちで宿っているということであります。その福音の種を神さま御自身が成長させ、豊かな実りを備えておられるのです。
種まきをなした農夫が、日々土に水を注ぎ、芽を出せばその手入れをするように、人のため、教会のためと努めることはすばらしいことですが。何にも優って大事なのは、「福音の種」自体に完全なかたちで「神のいのち」の力が宿っている、そのことに信頼し、その力に育まれていくことです。それが何よりの証しとなって地に落ち、次なる実を結んでいくことにつながっていくのです。

「主イエスにある家族」
本日は母の日でありますが。母親は子どもに寄り添い、惜しまずに労し、働いてくださる存在であります。それは、何か子ども見返りを期待するからではなく、唯、その子を愛するがゆえです。
先程、使徒パウロの「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(Ⅰコリント3章6節)との言葉を引用いたしましたが。成長させてくださるのは神さまであることは確かでありますが、パウロのように「植える」、又、アポロのように「水を注ぐ」そのような関わりを通して教会とそこに集う人たちは、主イエスにある福音の深さ広さを知ることとなったのです。

私たち教会は、イエス・キリストによって神の家族とされていますが。そこには主にある親子や兄弟姉妹が存在しているのですね。先週のマルコ3章の終りのところでイエスさまは、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とおっしゃいましたね。
私たちは単に血縁による親子という枠に留まらない、主イエスの尊い命によって新しく生まれた一人ひとり、そしてその家族なのです。今日は特に教会のお母さん、女性会の皆さまをおぼえて、感謝と祝福を祈りたいと思います。

「おわりに」
イエスさまは29節で、「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」とおっしゃいました。

私たちが地上において生きる時間は限られていますが。その限られた時の中で、一体どれだけ神の驚くべき恵みの業を知らされることでしょう。それは又、「神の国」の先取りであり、この地上にあってすでに私たちは神の国に連ならせて戴く喜びを味わいながら生きているのです。アーメンです。主イエスの福音を信じる者にとって何よりも幸いなのは、やがてこの神の国が完全なかたちで現れる、その時を待ち望みながら完成を待ち望みながら日々歩んでいくことができることであります。

最後に、30節~32節を読んで本日の宣教を閉じます。
「更に、イエスは言われた。『神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。』」
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