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永遠に赦されない罪とは?

2014-05-04 14:03:51 | メッセージ
礼拝宣教  マルコ3章20~30節 

5月に入り大変気候もよく、夏のような暑ささえ感じますが。新緑の若葉が活き活きと映え、神の創造された美しい命の息吹を覚えるそんな時節となりました。昨日は「憲法記念日」でしたので、大阪城野外音楽ホールを会場に開かれた「憲法記念日」の集いに家族で参加しました。「憲法を守ろう」という宗教者を含む幅広い府民、団体などの呼びかけ人によって毎年企画されていますが。今年はジャーナリストの鳥越俊太郎さんが「メディアと9条」という視座から、平和への願いを込めたお話をして下さいました。たとえば、集団的自衛権行使の問題だけでなく、原発の問題、学校教育の現場、経済の問題も、昨今の新聞各紙やテレビ局が国民に与える影響力の大きさを指摘され、その背景には権力による縛りや統制。それは教育の現場でも同様のことが起こっている。メディアや教育というものは国家の権力と独立したものでないと、非常に危険な方向へ国民を誘導し、かつての戦争の過ちを繰り返すことになる、ということを改めて考えさせ教られました。武力によって平和が築かれものではないことは、歴史が証明しています。武力を使えば憎しみの連鎖によって、さらに争いは拡大するだけです。
日本国憲法の9条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と 、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを 放棄する」と誇り高く謳っています。
まことの救世主イエス・キリストは、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)と言われ、又、敵のためにさえ忍耐をもって祈り執り成す愛を示し、身をもってそれを実践なさいました。この和解の福音が今日も世界中で具現化されることを祈ります。又、私たちも日本がかつて誤った戦争の道を繰り返さないために日常から絶えず見張り、覚えながら、祈り続けていきましょう。

本日は先程読まれましたマルコ3章20節~30節より、「永遠に赦されない罪?」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

20節に「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」と記されています。
前の箇所を読みますと、これらの群衆はイエスさまの教えやいやしの業を見たり、聞いたり、又、体験した人々であり、何とか、自分や家族、友人や知人が病気や悪霊にとりつかれている苦しみや悩みから解放され、いやされ、救いを得たい、という切実な願いをもってイエスさまのところに押し寄せていたことがわかります。
ところが、イエスさまの「身内の人たちは、イエスのことを聞いて取り押さえに来た」と言うのです。その理由は『あの男は気が変になっている』と言う者があったから、とあります。いわば一番身近な者が、イエスさまのなさっていることを理解できず、福音の拡がりを阻止しようとしたわけです。
そしてさらに、「エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼベルに取りつかれている』といい、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた」と記されています。

先週は、当時ユダヤ社会の中で排除されていた徴税人や罪人たちとイエスさまが一緒に食卓を持たれ、彼らの間に喜びが分ち合われたこと。一方で、そのことに憤慨し、非難したファリサイ派の律法学者たちがいたことから、主イエスの思いとそのメッセージに耳を傾けたわけですが。彼ら律法学者は、恐らくエルサレムの指導者らがイエスの近辺の監視と調査のために送りこまれて来たのでありましょう。3章のはじめのところに記されているような、イエスさまが安息日に手の萎えた人をいやさられたという報告や、イエスさまの力ある業と教えに魅せられたおびただしい群衆がイエスさまに従っている、という現状を危惧し、「この何とも得体の知れない運動に警戒せねば」ということで、選りすぐりの律法のエキスパートを派遣し、イエスに不義があれば糾弾せよ、と命じていたのでしょう。
当時のユダヤでは、異邦人を中心に、怪しげで疑似治療的な魔術が横行していたという背景もあったようで、律法学者たちから見れば、イエスもうさんくさい魔術で民衆を惑わすやからのように思っていたのでしょう。それで律法学者たちは、イエスをベルゼベル(悪霊の頭やサタンの意)「悪霊に取りつかれている」と訴え、その業については「悪霊の頭の力を借りて悪霊を追い出している」と糾弾するのです。

そこで、イエスさまは「どうしてサタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない、同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」と、独特なたとえで律法学者たちに反論します。
 さらに「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない、まず縛ってから、その家を略奪するものだ」と言っておられますが。この強い人とは、ここでは人間を支配している世の力、サタンを指しています。それを悪い霊が追放することなどできません。
しかし、神の力はサタンよりも遥か強く、それを縛り、人に解放の業をもたらして下さるのです。そのような働きこそ聖霊の力によることをイエスさまは明らかにされるのです。

そこでイエスさまは、「はっきり言っておく」と言われます。これはもとは「アーメン」という言葉で、「まことに信頼をおけるもの」とか「本当に」と言うことですが。そういう確信をもって次のように言われます。
「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」

このイエスさまの言葉を聞いて疑問に思いますのは、人の子(人間の意)が犯す罪やどんな冒瀆の言葉さえも、すべて赦されると言われるその一方で、聖霊を冒瀆することは赦されないというのは、矛盾してはいないかという事です。

しかし、イエスさま確信をもって、まず、すべての人が犯す罪や冒瀆の言葉も、赦されると完全な赦しの宣言をなさっておられるのです。それは、確かなことなのです。イエスさまはその後、十字架に架かりすべての人の犯す罪や冒瀆の言葉の一切を身に引き受けられて、その罪の裁きを自ら負われることで人間の罪を贖い、赦しを成し遂げて下さいました。その赦しの福音は、まさに悪魔の縄目にある私たち人間を完全に解放へと導くものです。実にすべての人の犯す罪と冒瀆の言葉の裁きをイエスさまは十字架上で負われ、尊い命をもってその罪の清算をなさり、罪を贖ってくださった。ただ一方的に人間は主によって赦される外ない者なのであります。それこそが、聖霊の御業であります。
 ですから、人がもしこの聖霊の働きである「愛と赦しの福音」を冒瀆し、拒絶するなら、その人にどのような赦しが残されるでしょうか。その人は、主イエスによる罪の贖いと神との関係における回復を無にしてしまうのです。つまり、自らで愛を拒み罪の赦しの機会を封じ込めて赦されることなく、その罪の責めをずっと負う事になりはしないでしょうか。

さて、今回の箇所で、イエスさまは「身内の家族」から、また「聖書に通じていた律法学者たち」から理解されることなく、その言動についても誤解を受けました。もっとも身近な存在であり、日頃から分かり合っていたかに思える家族だからといってすべて理解しているかというと、実はそうではなかったのですね。
イエスの母マリアにとっても、イエスは我が子でありましたから、そういう身内という立場からイエスを見ていたでしょう。イエスの兄弟姉妹たちも兄弟姉妹としてイエスを見ていました。しかし、イエスのうちに働かれる聖霊の業について彼らは少なくともこの時点では理解することができず、それをやめさせようとやって来るのです。そしてイエスさまは、もはやヨセフの家のものとしてではなく、母マリアの子としてでもなく、聖霊によって神の御心を行うものとして立ち、歩んでおられたのです。
私たち一人ひとりは、天地万物をお造りになられた創造主にあってこの地上に生かされているかけがえのない存在であります。この天の神さまと私との一対一の関係、命のつながりというのは、肉親や家族であっても阻むことのできないものなのです。神との一対一の関係を見出した者は霊に寄って生きる人、新しく生まれた人として立ち、歩み出すのです。きっと、イエスさまとの出会いを経験した群衆の一人ひとりもそうだったのではないでしょうか。先週の徴税人であったレビも、イエスさまとの出会いによって神の前に一人のかけがえのない者とされた喜びを家を開放して、その分ち合いの場とすることで表現しました。律法学者たちはそれを非難しましたが、まさにそれは主イエスを通して起こされた聖霊の業であったのです。
又、イエスの母や兄弟姉妹たちは、そのなさっているイエスの働きに対して「一体我が子は何をしているの」とか、「お兄さん一体どうしたんだ、そんなことはやめてくれ」と、まあそのようにやめさせようとするのですが。それは、家族や身内だから過剰に気になり、余計そのように思えたのかも知れません。イエスさまのなさったことは、まさにその父なる神との一対一の関係の中で、「神の御心を行う」以外のなにものでもなかったのです。

イエスさまは、31節以降のところで、「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、「周りに座っている人々を見回して、「言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」と、そのように記されています。

「周りに座っている人々。」それは主イエスによって真の解放を得、神の救いを見出し、又見出された神の前にかけがえのない人。聖霊の働きによって新しくされたひとり一人であります。そのひとり一人をしてイエスさまは、「わたしの母、わたしの兄弟姉妹」と呼んでいるのであります。聖書は、ここに神の家族としての教会の原型を描き出しているのです。
 今日のイエスさまの厳しい怒りは、聖霊の働きを理解しようとせず、妨げる世の力に対するものでありました。世の勢力や権力は常に働くものですが、主イエスにあって私たちも、この「神の家族」、「神の国の食卓」に共に与る魂が興されていくことを切に祈り、努めてまいりましょう。
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