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わたしを憐れんでください

2014-05-25 15:40:09 | メッセージ
礼拝宣教 マルコ10章46~52節 

本日は、盲人のバルティマイが救われた記事から、御言葉を聞いていきたいと思います。

「とき(機会)」
みなさまはそれぞれに主イエスとの出会いの時がおありかと思います。神の愛と赦しを知らずに歩んでいたけれど、主イエスと出会って初めてその救いを知って、「このお方に従っていこう。」そう決心なさったことでしょう。そこには人の思いを超えた聖霊のお働きがあり、又、教会の方々の執り成しの祈りがあったことでしょう。教会に初めて足を運んだ時、又、信仰決心してバプテスマに与った時、あるいは転入会をなさる時というのは、自分だけで計画して得られるものでもなく、それは人知では計り知れない「神の側から与えられた時」「神のご計画のもとで導かれた時」なのであります。
本日登場するこのバルティマイにとっての「神の時」は、盲人である彼が生きていくため道端に座って物乞いをしている時に訪れました。
「イエスさまがエリコを出ていこうとされたとき、彼がそこに座っていた。」それはまさにこの「とき」(機会)がなかったなら、彼はイエスさまとお会いすることもありませんし、いわんや目が見えるようになり、救われることもなかったわけでありますね。
この千載一遇ともいえるチャンスを彼は決して見逃しませんでした。実は、神の時は世の多くの人々に与えられているのでありますが、生活の事ごとや思い煩いのために心が鈍くなり、そのチャンスを逃してしまうことがあります。ここの10章17節以降には、金持ちの男が富の問題で心塞がれイエスさまに従うことができなかったエピソードが記されています。又、35節以降にはヤコブやヨハネはじめ弟子たちが地位争いをして、イエスさまが十字架の苦難を前にしておられる最も重要な時を理解することができませんでした。
それらと対照的に「神の時」であるチャンスを決して見逃さなかったのは、大きなハンディを抱え、その日その日を生きていくのに精いっぱいで神に叫び、訴えるほかないこのバルティマイであったのです。

「叫び続ける」
47節以降で、バルティマイが「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた」と記されています。

彼は目が見えませんでしたが、その分聴覚や周りの雰囲気を察することにはたけていたのではないでしょうか。しかしそれ以上に、「何とか噂に聞くイエスというその方にお会し、自分の現状を知ってほしい」との願いと祈りが、その救いの時をたぐり寄せるのです。ナザレのイエスが遂に目の前に来ておられることを察して、彼の期待はまさに頂点に達します。
そして、彼は「わたしを憐れんでください」と、イエスさまに叫び始めます。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしますが、彼はますます、「わたしを憐れんでください」とイエスさまに叫び続けた、というのですね。
視力を失い、物乞をして路上で生きるほかなかった彼の魂の叫び。それは家族や地域社会といったあらゆるつながりを絶たれ、すべて罪の結果と排除されてきた彼の、人間性と人生を取り戻すための叫びでありました。

彼のこの「わたしを憐れんでください」という言葉は、旧約聖書では詩編のダビデの詞に幾度も使われていますように、「神の慈悲を施してください」という意味です。又、「憐れむ」というヘブライ語には「腸がちぎれるような思いを共にする」という意味があります。ですから、ここで彼は必死に激しく「主イエスよ、わたしの苦悩をどうか分かってください。」もっと言えば、それは「主よ、この私の痛みに共感したまえ」というくらいの強い訴えであり、叫びであったのです。

このバルティマイの叫びを、多くの人々(おそらくイエスの弟子たちも含まれていたのでしょうが)は止めさせ、黙らせようとします。彼らには、この人の切なる願いも、苦悩や痛みも分からなかったのです。バルティマイが単にイエスさまに物乞をしているのだと思ったのかも知れませんし、イエスさまがそういう状況の人に構っておられる時間などありはしないと考える人々もいたのかも知れません。誰も彼の心境を思いやってみようなどとは考えもしなかったのです。
 現在も残念ながら路上で生きていかざるを得ない人々に対して様々な偏見がもたれています。罪深い生活の結果だとか。働こうとせず怠けているだけだとか。しかし多くの場合は、適切な支援を受けることができず、多くのつながりを絶たれ、孤立してしまうといった状況の中で、追いこまれるように路上で生きざるを得なくなった人がほとんどなのです。偏見とは怖いものです。人の人間性まで否定してしまう力が働きます。
がしかし、イエスさまは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と人々に言われます。そうすると人々は一変して、「安心しなさい。立ちなさい、お呼びだ」とバルティマイを招きます。イエスさまの彼に対する関心が多くの人の良心を呼び覚ますのです。見出されるとは、まさにそういうことでありましょう。無関心であれば何も変わらなかったことが、こうして希望の出来事へとつなげられていくのです。

バルティマイに話を戻しますが。
彼のこの叫びは、イエスさまの心を動かさずにはおかない激しさを持っていました。だからこそ、イエスさまは立ち止まられたのです。人が何と言おうが。止めようが。バルティマイは執拗に求め、叫び続け、決してあきらめませんでした。
私たちには、祈ることをあきらめるような思いが起こることがあるでしょう。祈っても一向に状況が変わらず、それどころか益々悪くなっていくように思える時。又、もっと常識的に行動することを優先させるべきだと考える時、祈りが妨げられます。確かに神の計画と人の願いがいつも一致するとは限りません。確かに受け入れるほかないこともあるでしょう。けれど、それは神が祈りを無視されたのでは決してありません。祈り続ける者の心の叫びを必ず顧みてくださり、神の御業としての栄光を表す時を備えてくださるのです。ルカ18章でイエスさまは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを弟子たちに教えてこうおっしゃいました。「神は昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らいつまでも放っておかれることなどあるだろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。そうしてこうつけ足されました。「しかし人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか。主に祈り続けること、訴え続けることを決してあきらめない。主はそれを信仰と呼んで下さるのです。

さて、イエスさまが「お呼びだ」という主の招きを受けた彼は、「上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来た」と記されています。
この上着は物乞をする時に路上に広げ、暑さからも守る彼にとって最も大事な持ち物で、いわばそれは彼の全財産でもあったわけです。それを脱ぎ捨て、喜び踊り上がってイエスのところに来た、というのです。「脱ぎ棄て」の原語;アポバローは、放棄するという意味があります。つまり、彼は一切を放棄して主イエスのもとに来たということであります。

主に捧げるときに、私たちは何がしかのもの、それは私たちにとって大切な時間であったり、労働であったり、財であったりと、何らかを放棄しているのではないでしょうか。時にそれは自分の主義、主張であったりもするでしょう。けれどそのような思いでさえ、主の招きに応え、放棄して従っていきます。しかしそれらは、強いられるからではなく、主に見出された喜びと感謝からそのように捧げているのです。

「信仰」
さて、ここからが本日のメッセージの後半部分になります。
イエスさまはこの盲人に対して、「何をしてほしいのか」と聞かれました。
何で目の見えない盲人を前に、イエスさまはこのように分かりきったような事を尋ねられたのでしょうか?イエスさまも当然この盲人の彼の必要をご存じであられたはずではないでしょうか。しかしここでイエスさまは、「この盲人が自ら願う事を確認して答える」そのことを望まれたのです。
ヘブライ人への手紙には、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することです」と記されてあります。ほんとうのところ自分は何を望んでいるのか?確認が必要なのです。たとえばお金が欲しいと祈る人がいたとするなら、主は何のために必要なのかと問われるでしょう。何のために必要か確認ができた時、ほんとうに大切なのはお金そのものではなく、その希望が叶えられるために、という本質が見えてきます。それこそがほんとうに祈るべきことなのですね。

盲人のバルティマイはイエスさまの問いかけに対して、「(わたしの)先生、目が見えるようになることです」と、具体的な願いを自分の言葉にして返しています。
彼はここで、「イエスさま、あなたはすべてご存じでしょう」と言う事もできたのです。でもここで主が彼に望んでおられるのは、「具体的に何を願うのかを自分の言葉で伝える」ということであります。そこに主と彼との人格的なつながりが生じるからです。

私どもの人と人の関係でも、家族の関係でもそうですが、言葉にわざわざしなくても分かってくれている、理解してくれている、ということで、自分の思いを言葉にして伝えることを面倒がったり、省いてしまっていることがあるように思います。が、そこで大いなる誤解が生じることもあるのではないでしょうか。やっぱり、自分の思いを人に伝えることってほんとうに大事ですよね。そこから、また相手の応答があり、さらにそれへの返答というキャッボールがなされるなかで、深いとこで理解し合うことが起こっていくわけです。それをどこか面倒くさがり、相手は分かってくれているという思い込みですませて伝えなければ、関係は何も築いていけません。
私たちはどこか、神はすべてご存じであるとか、何とかして下さるだろうと、なるようににしかならないとか言って具体的な願いを祈る事をやめてしまっていることはないでしょうか。先程の祈りの事柄と同様に、もうずっと何も変わらないからこれからも何も変わらないだろうというふうに自分の思いであきらめをつけているようなことはないでしょうか。そうなっていきますと信仰というものに命がなくなっていくことになり兼ねません。大事なのは、主と一対一で向き合い、主に問われながら自分の思いを確認しながら祈り、そして行動していく主との生きた関係にあります。

イエスさまは、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃった後、盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った、と記されています。
イエスさまは、あなたの信仰があなたの目をいやした、あるいは治したとは言われず、「救った」と言われます。
ここで問題になっているのは単なる目のいやしではなく、救いであります。それは、先程から申しあげている主と私の問い問われる一対一の関係の中で確かにされていく神との命の交わりの回復であり、人として生きることの回復であります。それを「救い」とイエスさまはおっしゃるのです。
盲人のバルティマイにとって目がいやされたことは確かに大きなことであったと思いますが。しかし彼にとって何より大きな奇跡は、彼の存在に目をとめ、ひとりの尊厳をもった人間として彼を立たしめた主イエスの愛、神の救いでした。

イエスさまは見えるようになったバルティマイに「行きなさい」と言われました。それは家に帰りなさいという意味でしたけど、彼はその言葉に対して、「なお道を進まれるイエスに従った」と記されています。

彼のイエスさまに呼びかけた「ラボニ」という言葉は、先生というよりさらに畏敬の念を込めた言葉であり、それは「わたしの師よ」という師弟関係を表します。
見えるようになったバルティマイは家に帰らず、エルサレム;十字架への道へ向かうイエスさまの御後に従っていったのです。すでにイエスさまはご自分の死と復活を予告して、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」ということを、弟子たちに教えられていたのですが。弟子たちはその意味を理解することができなかったのですが、このバルティマイはある意味イエスさまのこの招きに、従っていった真の弟子であったのです。彼は上着を脱ぎ捨て、自己放棄して、踊り上がってイエスさまのもとに来て、そして御後に従っていったのです。
彼は自分の人生のどん底、その困窮と失望の中でイエスさまに招かれ、その魂が見出されるという救いの体験をした。そのことが彼を立たしめたのです。
私たちはこの彼のような魂からの叫び、主への求めを忘れてはいないでしょうか。
主は生きておられます。主の御前に信仰をもって進みいで、主の御業を見せて戴きましょう。「わたしを憐れんでくださる主」、「魂の叫びを共にして下さる主」は、いつくしみ深いお方であります。今週の一日一もこの主に祈り、従い続けてまいりましょう。
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