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民族の隔てを越えて

2014-05-18 14:59:01 | メッセージ
礼拝宣教 マルコ7章24~30節 

本日はマルコ7章24節~30節より、「民族の隔てを越えて」と題して、御言葉に聞いていきたいと思いますが。その前にまずこの7章全体のテーマとなっている一つの問題について知る必要があるかと思います。
それは、ユダヤの人々に浸透していた「汚れ」という概念です。ユダヤのとりわけ宗教的な指導者たちは律法を守る事のできない人たちを「汚れた者」として裁いていました。しかし、6~13節でイエスさまが語られたように、表面的には律法を守り行っているようであっても、それは単なる昔からの言い伝えの慣習的なものであって、本当に大切な神の言葉と御心は無にされていたのです。

イエスさまは群衆や弟子たちに対して、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚す」とおっしゃいました。
ユダヤの熱心なファリサイ派の人々や律法学者たちは、イエスさまが、罪人や汚れているとされていた人と交流をもったり、食事を共にすること自体「汚れる」みなしていましたが、イエスさまは21節~22節にあるように、「人のうちにある様々な罪の思いこそ人を汚す」とおっしゃるのです。

そのような背景を経て、本日の24節「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」という描写から始まる今日のエピソードが記されているのであります。

このティルスはガリラヤ湖北西部の地からかなり離れたフィニキア(現:シリア)という異邦の地であります。この地はユダヤ人から見れば政治的にも民族的にも外国でありました。
すでに3章8節には、イエスさまの御業について伝え聞いたティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのおられたガリラヤ湖周辺にまで集まって来ていたという記事がありますことから。群衆が異邦の地ティルス、シドンとガリラヤを往来していたという事はあったようです。
いずれにしても、イエスさまはなぜわざわざ異邦の地ティルス地方に迄行かれたのでしょうか。その理由は何も記されていませんが、ただここに「だれにも知られたくと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」とありますように。連日、御自分を追って来る群衆への対応でかなり疲労されていたのかも知れませんし、ここまでガリラヤから離れると少しは休養ができると考えたのかも知れませんね。しかし、イエスさまの人に知られたくないという思いとは裏腹に、滞在されていた家はすぐ人々に見つけられてしまうのであります。
そこへ25節、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏し、娘から悪霊を追い出してください」とイエスさまに頼んだというのです。26節で、この女は、「ギリシャ人でシリア・フィニキアの生まれであった」と記されています。

この異邦人の女性の娘は汚れた霊に取りつかれていたと紹介されています。
ユダヤの人たちにとって、異邦人は神の選びと救いから隔てられた人たちであり、ゆえに彼らは異邦人(外国人)と接したり、交流をもったり、食事をすると汚れを身に受けることとなると考えていました。イエスさまの弟子たちでさえも、そのような異邦人に対する偏見から自由になることができずにいたのです。ですから、この女性の娘のように汚れた霊に取りつかれるという現象は、ユダヤ人からすれば異邦人の汚れからくる「神の裁き」でしかなかったのです。
おそらくイエスさまのおそばに弟子たちもいたと思われます。彼らも同様に考えていたでありましょう。彼女とその娘は、神の祝福の家から隔てられ、汚れに縛られて失望の中を生きる以外になかったのであります。
しかし、そこによき知らせが届きます。神の人イエスがこの異教の地にまで、そのすぐそばにまで来ておられるという噂です。この時すでにイエスさまの噂は遠い地にまで広められ、すでにこの女性もイエスさまのなさることを伝え聞いていたことでしょう。けれども、苦しむ娘から目を離すことができず、大きな期待を持ちながらもいつかはイエスさまとお会いできる日が来ることを祈る以外なかったのではないでしょうか。そして訪れたこのチャンスです。
この汚れた霊に苦しむ娘を持つ女性は、何とかして苦しむ娘を救いたいというその一心でありました。彼女は「イエスさまの足もとにひれ伏して」、娘から悪霊を追い出してくださいと依り頼むのであります。この「ひれ伏した」というのは、「礼拝した」ということです。28節の「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、、、」の「主よ」と呼びかけたこともそうですが、彼女はイエスさまを「ラビ」つまり「先生」としてではなく、私の「主よ」と呼ぶのであります。そこに、神の救いを待ち望んできたこの女性の万感の思いが込められていました。「このお方なら娘を悪霊から解放して下さる」「私たちがもう一度人間らしく生きることができるようにして下さる」。その希望を前にして彼女はもうなりふり構わず、救いをもたらして下さると信じ、イエスの前に身をなげ出してひれ伏し、懇願するのです。
その時イエスさまは食事をされていたかどうか分かりませんが。この女性に対してこう言われます。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」

このイエスさまの言葉を聞かれて、皆さんはどう思われたでしょうか。「こんなにも必死に頼んでいるのに、何て冷たい」「犬と軽蔑して呼んでいるのは差別ではないか」などと思う方もおられるでしょう。
一つ考えられますのは、この時のイエスさまの心境についてであります。イエスさまの心のうちはユダヤの民の救いと解放でいっぱいであったということがまず考えられます。それは単なる同じ民族としての愛着から起こる感情的なものというより、イスラエルの民の悔改めとその救いに対するいわば使命感であったのではないでしょうか。
しかし、初めにもお話したように、律法学者やファリサイ派の人たちをはじめユダヤの民はイエスの言動を常に非難し、イエスを殺そうとする者まで出てきます。マルコ3章には、イエスさまがそんな彼らの頑なさを怒り悲しまれた、とありますが。そのような苦悩のただ中におられたイエスさまは、敢えて一旦異邦の地にその身を寄せることで、物事や事象、御自身をも客観的に見つめ直そうとなさったのかも知れません。むろんそんな緊張を強いられる日々には休息も必要であります。そこにおられることを誰にも知られたくないと思っておられたイエスさまでしたが、人々に見つけられ、この女性が飛び込んで来るのです。まあそのような状況の中で発せられたこのイエスさまのお言葉であったわけですが。

ところで、このイエスさまの「まず」という言葉は、異邦人である女性の娘の救いと解放を頭から否定するものではなく、「神の救いと解放はユダヤから始まって、そこから異邦の地に」という神のご計画を表しています。このマルコ福音書にも、イエスさまはまずユダヤのガリラヤで5千人を食べさせてから、異邦人の地域・デカポリスで4千人を食べさせたと記されています。
このようにイエスさまが「まず」と言われたことの中には、「ユダヤに訪れる救いと解放がやがて異邦の人たちにも開かれる」ということを含んでいたということです。
また、この「犬」というのは、確かにユダヤ人異教の神々を崇める異邦人を野良犬のように軽蔑して呼んだ用語です。しかし、ここでイエスさまが言われた「小犬」は野良犬を指す言葉ではなく、室内で飼われている愛犬(ペット)を指す言葉でした。この時代にも犬がペットとして飼われ、食事の折には食卓の下でおこぼれを待ちうけていたのでしょう。そのようにイエスさまが野良犬といわず愛犬といっておられることの中には、主人(あるじ)である神さまとその子らユダヤの民のその家に、異邦人である彼ら彼女らも共に住む存在であることが示されているように思えます。

さて、そのイエスさまの言葉を聞いた異邦人の女性は答えます。
「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
彼女は娘が汚れた霊に縛られた日々から何としても解放されるためにくいさがります。

ところで、ユダヤ人のパンの食べ方については、独特な食事規定があり、私たちからしてみればちょっと風変わりな食べ方をしていたということです。彼らはパンをちぎりやすい形に作り、大きな皿に盛り、各自が取って食べたり、分け合って食べたそうです。パン以外の料理は、主に手で食べ、食事が終わると、残ったパンの切れはしで指を拭き、指を拭き終ったら、そのパンの切れはしを床に捨て、飼い犬が食べられるようにしてやった、というのですね。
実にイエスさまのこの言葉とこの異邦人の女性とのやり取りには、そういう日常のことが背景にあったということです。彼女だって犬と言われて、いくらそれが愛犬を指す言葉であったとしても、やはりいい気はしなかったのではないでしょうか。
 けれども、もうプライドもへったくれもありません。彼女は娘と自分に解放を与える「主」、救い主を目の前にしているのです。さすがのイエスさまも、この思いがけない彼女の返答とそこに込められた解放への希望、その一途な信仰とに、29節「それほど言うのなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言われ、そのとおりの御業を現わされるのであります。この女性はひとしきり感謝の言葉を口にして、取り戻された娘を抱きしめるために飛ぶように家へと引き返していったことでしょう

今日は、「民族の隔てを越えた」救いと福音の記事から御言葉を聞いてきました。
はじめに7章は、「汚れ」についての問題を取り扱っていると申しましたが。イエスさまは「人の中から出るものが人を汚す」のだとおっしゃいました。この異邦の女性とその娘を神の祝福から隔てていたのは、実は「人の中から出てくる差別や偏見」であったのかも知れません。今日の世界においても、いまだに民族同士の争い、国と国との争いが尽きません。憎しみの連鎖が後を絶ちません。しかし、神は御ひとり子イエス・キリストの十字架の苦難と死を通して、民族や国家の隔てを越えた和解の福音を与えて下さったのです。それは又、その福音に生かされている私たちが、主の和解の使者として世にあってその務めを果たしていくということ、主の平和を築いていくことでもあります。

マルコ福音書は、自らを神に選ばれた民であると自称するユダヤ人たち、又、イエスの弟子たちに対して、この異邦人女性の「パン屑の信仰」に目覚めるよう促しているようにも思えます。イエスさまの救いを受けて生きる私たちも、もう一度このパン屑の信仰に立ち帰って、神さまに見出された一人ひとりとして、御救いの実現を待ち望む者とされてまいりましょう。
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