東伏見における夏のオープン戦の日程は、まだ固まっていないようです。
さて、4月の定例人事異動、そして6月下旬の株主総会を経て役員人事ならびに本部長級人事、少し遅れて課長級人事という年間スケジュールを基本に、人事異動を実施する会社が多いのではないでしょうか。
以前、幼少時に富山県滑川市に住んでいたことを話題にしましたが、滑川市の工場から東京本社に父が転勤となったのは4月の定例人事、私が小学二年生になったばかりの時でした。
一年余り通った寺家小学校へのリンク
当たり前のことですが、転校することになると、まず最初に先生や友達との別れが待っています。
何といっても、これが一番辛い。
私の場合、国鉄・滑川駅のプラットホームに担任のF先生、そしてクラスメートが10人ぐらい見送りに来てくれました。
そしてF先生が「列車の中で食べてね」とキャラメルを一箱くださいました。
それはフランス・キャラメルというお菓子で、外国の女の子のイラストのあるパッケージ。
その空き箱は、どうしても捨てることができず、高校を卒業する頃まで勉強机の引出しに入っていました。
次は、東京の学校で、新しいクラスメートとの顔合わせが待っています。
転校先の五本木小学校へのリンク
問題は、方言でした。
私は東京生まれでしたが、1歳の時に滑川市に転居。
それも大半の期間を漁港に近い社宅に住んで、遊び友達には漁師の家の子も多かったので、私は富山の方言にドップリ浸かっていました。
「どうしたが」(どうかしたの?)
「知っとっけ」(知ってるかい?)
「知らんちゃー」(知らないよ)
「いいちゃ、いいちゃ」(いいよ、いいよ)
「おまん、だらけ」(お前、馬鹿じゃないの)
そんな富山の方言を駆使する田舎っぺが都会っ子の中に飛び込んで行ったわけで、周囲のクラスメートも「妙なやつが富山からやってきた」と、かなり驚いたようです。
その証拠に、小学校の卒業アルバムの「クラスの歴史」というコーナーで、二年生の欄に「ayくんの言葉が面白かった」と明記してあります。
いわゆるイジメを受けてもおかしくない状況だったとも思うのですが、幸い、そういう経験は全くありませんでした。
転校初日の授業で、今も鮮明に憶えている場面があります。
先生が「鉄は何色をしていますか?」と生徒に質問。
その時、Hくんが「はい、先生!」と手を挙げて、「鉄は茶色です」と答えました。
後で分かったのですが、Hくんはクラス一番の優等生。
勉強に関しては仲間から一目置かれる存在でした。(Hくんは、後に慶応の普通部に進学)
次に先生は、「ayくん、君はどう思う?」と転校初日の私に名指しで質問してきました。
私は、「銀色」と答えました。
その前日、約6時間も信越本線の列車で揺られてきた私は、ずっと車窓から眺めていた線路のレールの上部が銀色に輝いていたことをとっさに思い出して、そう答えたのでした。
恐らく典型的な富山弁を使って、私がレールの話をすると、「その通り。良く観察していたね。みんなも東横線の踏切を渡る時に、レールを見てごらん。」と先生は誉めてくれて、周囲のクラスメートは「へえー」という顔をして、私の方をみんな注目しました。
私が幼稚園年長組からピアノを習っていたことを知ると、私の演奏を録音して、給食の時間にテープを流してくださったりもしました。
田舎っぺ丸出しの私がイジメられなかったのは、きっと先生のご配慮が奏功して、転校早々に仲間が私を認めてくれたからでしょう。
もっとも、その後はしょっちゅう授業中に言葉遣いを先生から直されましたし、勉強でクラス一番の座から転落したHくんは、暫くの間、少し冷たかったですが。
就職活動中の学生さんとお話しする時、私は自分自身の転校の経験をたびたび話題にしています。
就職先の選択が、将来の自分の家族の人生にも大きな影響を与えるんだよ、転勤の多そうな企業を選ぶ場合は、その覚悟をきちんとしておくようにと。
そうは言っても、私は一度の転校しか経験はありません。
ブログにお立ち寄りくださる皆さんの中には、何度も転校して、そのたびに苦労した経験をお持ちの方もいらっしゃるのでしょうね。
話題は変わりますが、衆議院選挙の投票日が8月30日に決りました。
劣勢が報じられる自民・公明が勝つとすれば、投票日に大型台風が上陸し、大半の無党派層が投票所に行かないという、いわば神風が吹いた場合ぐらいはないでしょうか。
さて、4月の定例人事異動、そして6月下旬の株主総会を経て役員人事ならびに本部長級人事、少し遅れて課長級人事という年間スケジュールを基本に、人事異動を実施する会社が多いのではないでしょうか。
以前、幼少時に富山県滑川市に住んでいたことを話題にしましたが、滑川市の工場から東京本社に父が転勤となったのは4月の定例人事、私が小学二年生になったばかりの時でした。
一年余り通った寺家小学校へのリンク
当たり前のことですが、転校することになると、まず最初に先生や友達との別れが待っています。
何といっても、これが一番辛い。
私の場合、国鉄・滑川駅のプラットホームに担任のF先生、そしてクラスメートが10人ぐらい見送りに来てくれました。
そしてF先生が「列車の中で食べてね」とキャラメルを一箱くださいました。
それはフランス・キャラメルというお菓子で、外国の女の子のイラストのあるパッケージ。
その空き箱は、どうしても捨てることができず、高校を卒業する頃まで勉強机の引出しに入っていました。
次は、東京の学校で、新しいクラスメートとの顔合わせが待っています。
転校先の五本木小学校へのリンク
問題は、方言でした。
私は東京生まれでしたが、1歳の時に滑川市に転居。
それも大半の期間を漁港に近い社宅に住んで、遊び友達には漁師の家の子も多かったので、私は富山の方言にドップリ浸かっていました。
「どうしたが」(どうかしたの?)
「知っとっけ」(知ってるかい?)
「知らんちゃー」(知らないよ)
「いいちゃ、いいちゃ」(いいよ、いいよ)
「おまん、だらけ」(お前、馬鹿じゃないの)
そんな富山の方言を駆使する田舎っぺが都会っ子の中に飛び込んで行ったわけで、周囲のクラスメートも「妙なやつが富山からやってきた」と、かなり驚いたようです。
その証拠に、小学校の卒業アルバムの「クラスの歴史」というコーナーで、二年生の欄に「ayくんの言葉が面白かった」と明記してあります。
いわゆるイジメを受けてもおかしくない状況だったとも思うのですが、幸い、そういう経験は全くありませんでした。
転校初日の授業で、今も鮮明に憶えている場面があります。
先生が「鉄は何色をしていますか?」と生徒に質問。
その時、Hくんが「はい、先生!」と手を挙げて、「鉄は茶色です」と答えました。
後で分かったのですが、Hくんはクラス一番の優等生。
勉強に関しては仲間から一目置かれる存在でした。(Hくんは、後に慶応の普通部に進学)
次に先生は、「ayくん、君はどう思う?」と転校初日の私に名指しで質問してきました。
私は、「銀色」と答えました。
その前日、約6時間も信越本線の列車で揺られてきた私は、ずっと車窓から眺めていた線路のレールの上部が銀色に輝いていたことをとっさに思い出して、そう答えたのでした。
恐らく典型的な富山弁を使って、私がレールの話をすると、「その通り。良く観察していたね。みんなも東横線の踏切を渡る時に、レールを見てごらん。」と先生は誉めてくれて、周囲のクラスメートは「へえー」という顔をして、私の方をみんな注目しました。
私が幼稚園年長組からピアノを習っていたことを知ると、私の演奏を録音して、給食の時間にテープを流してくださったりもしました。
田舎っぺ丸出しの私がイジメられなかったのは、きっと先生のご配慮が奏功して、転校早々に仲間が私を認めてくれたからでしょう。
もっとも、その後はしょっちゅう授業中に言葉遣いを先生から直されましたし、勉強でクラス一番の座から転落したHくんは、暫くの間、少し冷たかったですが。
就職活動中の学生さんとお話しする時、私は自分自身の転校の経験をたびたび話題にしています。
就職先の選択が、将来の自分の家族の人生にも大きな影響を与えるんだよ、転勤の多そうな企業を選ぶ場合は、その覚悟をきちんとしておくようにと。
そうは言っても、私は一度の転校しか経験はありません。
ブログにお立ち寄りくださる皆さんの中には、何度も転校して、そのたびに苦労した経験をお持ちの方もいらっしゃるのでしょうね。
話題は変わりますが、衆議院選挙の投票日が8月30日に決りました。
劣勢が報じられる自民・公明が勝つとすれば、投票日に大型台風が上陸し、大半の無党派層が投票所に行かないという、いわば神風が吹いた場合ぐらいはないでしょうか。