東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

荷風住居跡巡り2013(8)

2013年01月28日 | 坂道

福吉坂下 福吉坂上側 福吉坂上 六本木通り地下通路 前回の新坂(遅刻坂)を下ると外堀通りにでるが、ここを横断すると、赤坂で、最終目的地の偏奇館跡(六本木一丁目)にかなり近づいてきた。

歩道を南へ歩き、適当なところで右折し、赤坂の繁華街をしばらく歩くと、右手に見覚えのあるビルが見えてきた。ここに福吉坂という階段坂がある(現代地図)。前回見つけた坂で、一枚目の写真のように、ビルとビルの間にある狭い階段坂である。二枚目は階段改修工事の記念パネルを、三枚目は階段上から下側を撮ったものである。

福吉坂上を進み、何度か曲がり、ビルのわきなどを通って、六本木通りに出ると、歩道近くに地下通路の入り口があったので、ここに潜り込んで反対側の歩道に出る。四枚目はこの地下通路で撮ったものである。

この地下通路は、20年ほど前に地下鉄赤坂駅の方から来て通り抜けたことがあるような気がする。もっと古びていたような記憶もあるので改修されたのであろう。当時、坂巡りはおろか荷風にも関心がなかったのであるが、ここから道源寺坂下まですぐで、南北線の六本木一丁目駅はまだなく、坂上からすぐの偏奇館跡も消滅前だったかもしれない。かなり近くまで来ていたのにとつい思ってしまう。

下一枚目は、尾張屋板江戸切絵図 今井谷六本木赤坂絵図(文久元年(1861))の部分図で、この上(東)に溜池がある。福吉坂のあるビルのあたりは、松平美濃守の屋敷であったと思われる。

今井谷六本木赤坂絵図(文久元年(1861)) 榎坂下 榎坂下 霊南坂下 六本木通りの歩道を六本木方面の反対側(溜池方面)へ進み、次の信号のところを右折し、ちょっと進むと、二枚目の写真のように、榎坂下が見えてくる。三枚目は榎坂下から撮ったもので、かなり緩やかに上っている。

榎坂上から交差点まで行き、南側を見ると、霊南坂下で(現代地図)、四枚目の写真のようにまっすぐに南へ上っている。

一枚目の尾張屋板江戸切絵図を見ると、松平日向守の屋敷と横田筑後守の屋敷の間を右(東)へ進むと、榎坂があり、坂上を右折すると霊南坂で、直進すると、汐見坂(潮見坂)である。ここは、榎坂上と汐見坂上、霊南坂下の三つの坂が交わっているが、現在も同じである。

汐見坂上 江戸名所図会 溜池 汐見坂上 汐見坂下 霊南坂を正面に見て左側が汐見坂である。交差点を横断し霊南坂側の歩道のちょっと下側から坂上を撮ったのが一枚目の写真で、標柱の先を左折すると霊南坂で、向こう側が榎坂である。

二枚目は『江戸名所図会』にある溜池の挿絵の左半分である。中央の下やや左に榎坂、下右に汐見坂、下左に霊南坂が見え、三つの坂が集まっている。上側が溜池で、その向こうの森が山王権現(日枝神社)である。

三枚目の写真は坂上から坂下側を、四枚目は坂下の標柱から坂上を撮ったもので、榎坂と同じくさほど勾配はない。坂名から、そのむかし、ここから海が見えたというが、いまの様子からとても信じられない。ここに来るといつもそう思ってしまう。

江戸見坂下 江戸見坂中腹 江戸見坂上 山谷坂上 汐見坂下をちょっと進み、次の信号を右折すると、江戸見坂の坂下である。一枚目の写真は坂下に立っている標柱を入れて坂上を撮ったもので、かなり急に上っている。 二枚目は中腹で坂上を撮ったものであるが、かなりの勾配である。坂下の低地から一気に高度を上げる。三枚目は坂上の標柱を入れて坂下側を撮ったものである。

この坂や霊南坂は、荷風の偏奇館から近いこともあって、「断腸亭日乗」によく登場する。

坂上を道なりに進むと、T字路に出るが、左右の道が霊南坂上から続く道で、ここを左折し、南へ歩く。まもなく、右手に山谷坂が見えてくる。四枚目は坂上から撮ったものである。

御組坂上 御組坂上 御組坂下 偏奇館跡 霊南坂からの道をさらに南へ歩くと、御組坂に近づくが、その周囲を見わたすと、以前の風景は完全に消滅し、まったく新しい街へと変わっている。一、二枚目の写真は坂上から坂下を、三枚目は坂下から坂上を撮ったもので、坂も改修されてまったく新しくなっている。

御組坂(1)
御組坂(2)
御組坂(3)

ここにはじめて来たとき(6、7年前)、まだ坂の南側には以前の建物が残っていて、かすかにむかしの名残があったが、これが完全に消滅した。

二枚目の写真のように坂を下ると、そのむかし、正面に偏奇館があり、その手前左からさらに坂が下っていた。

坂下を右折すると、左側の歩道そばに偏奇館跡の標識が立っているが、そのあたりからふり返って撮ったのが四枚目で、中央左が坂下で、右端に標識が写っている。このあたりが偏奇館跡である(現代地図)が、もとの土地をかなり削っているので、元偏奇館跡とよぶ方がふさわしい。御組坂下を左に見て進めば、右角に山形ホテル跡の標識が立っている。

ようやく最終目的地の偏奇館跡に着いた。断腸亭跡からここまで2時間10分、出発の水道橋(お茶の水坂下)から4時間15分である。携帯による総歩行距離は21.4km(かなり精度は悪い)。時速5km(83m/分)で、ちょっと遅めである。

道源寺坂上 道源寺坂上 道源寺門前 道源寺坂下 偏奇館跡を背にして進み、左折すると、ちょっとで道源寺坂の坂上である(現代地図)。一枚目の写真は坂上から、二枚目はそのちょっと下から坂下側を、三枚目は坂下側から道源寺門前を撮ったものである。四枚目は坂下から坂上側を撮ったもので、坂南側はまだ工事中である。

道源寺坂(1)
道源寺坂(2)
偏奇館跡~道源寺坂
道源寺・道源寺坂

坂下から六本木一丁目駅へ。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

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荷風住居跡巡り2013(7)

2013年01月23日 | 坂道

弁慶濠 紀尾井坂上 紀尾井坂下 麹町永田町外桜田絵図(元治元年(1864)) 前回の鮫河橋坂上を右折し、迎賓館の門前を通って紀伊国坂を下ると、やがて信号のあるT字路であるが、ここを左折する。この先は喰違見附跡であるが、その手前のちょっと小高い所から南の方の弁慶濠を撮ったのが一枚目の写真である。

鮫河橋坂下からこの喰違見附跡のあたりまでは、歩いている人もかなり少ないが、これはいつものことで、新年のせいではない。

喰違見附跡を通って進むと、紀尾井坂の坂上である。二枚目は坂上から坂下を撮ったものであるが、かなりの勾配でまっすぐに下っている。坂下を右折すると、かなり緩やかな下り坂が清水谷公園の前を通って弁慶壕にかかる弁慶橋まで続くので、かなりの高低差がある。三枚目は、坂下から坂上を撮ったものである。

四枚目は尾張屋板江戸切絵図 麹町永田町外桜田絵図(元治元年(1864))の部分図であるが、喰違の上(東)にこの坂が見える。

紀尾井坂下から清水谷坂下 清水谷坂下 清水谷坂上 貝坂上 紀尾井坂の坂下近くから坂下を見ると、清水谷坂の坂下が見えるが、これを撮ったのが一枚目の写真である。

坂下の交差点を渡り東へ進むと、二枚目のように、坂下はしばらくほぼ平坦である。緩やかに二度ほど曲がってから東へ上っているが、中腹から坂上を撮ったのが三枚目の写真である。緩やかにまっすぐに上っている。上記の江戸切絵図には、紀尾井坂下からさらに延びる道筋があるが、これがこの坂であろう。

坂上の交差点を直進し、次の交差点を右折し、南へちょっと進むと、貝坂の坂上である。四枚目の写真は坂上のちょっと手前から坂下を撮ったもので、ほぼまっすぐに下っている。右端に坂の標柱が立っている。

貝坂上 貝坂下 諏訪坂上 諏訪坂中腹 坂上の左側(東)の建物の壁面に高野長英の塾跡を示す黒い石板が埋め込まれている。一枚目の写真は、その左側から坂下を撮ったもので、左側に黒い板が写っているが、これがその石板で「麹町貝坂 高野長英 大觀堂學塾跡」と刻まれている。二枚目は坂下から坂上を撮ったものである。

紀尾井坂からずっとビル街であったが、この坂のある一画は小料理屋などが並んでいて、ちょっと違った雰囲気となっている。荷風は、確か、この坂の店に来たことをその日記「断腸亭日乗」に記していたと思うが、日乗を調べても見つからない。(見つかったら紹介する。)

貝坂を下ると、一枚目の写真のように坂下で二度ほどちょっとだけ曲がりながら南へ延びているが、この坂下をしばらく歩くと、交差点があるので、ここを右折し、次のT字路を左折すると、諏訪坂の坂上である。三枚目は坂上から坂下を、四枚目は中腹の標柱から坂下を撮ったものである。

諏訪坂下 麹町永田町外桜田絵図(元治元年(1864)) 三べ坂上 三べ坂中腹 諏訪坂下の左右は青山通りで、右折すると下り坂であるが、ここが富士見坂で、ちょっと下ると、赤坂見附跡の標柱が立っていて、石垣の一部が残っている。

近くの歩道橋を渡って反対側の歩道に行き、富士見坂を上り反対側を見ると、先ほどの諏訪坂が見える。一枚目の写真はそこから撮った諏訪坂である。

二枚目の尾張屋板江戸切絵図 麹町永田町外桜田絵図(元治元年(1864))の部分図は、上記の部分図をずらしたものであるが、カイサカ、諏訪坂が見える。

そのまま坂を上ると平坦になるが、次を右折すると、三べ坂の坂上である。三枚目の写真は坂上から坂下を撮ったものである。まっすぐに南へ下ると、やがて四差路にいたるが、まだ中腹で、ここからちょっと急に下っている。四枚目は中腹から坂下を撮ったもので、坂の標柱が写っている。下一枚目は中腹から坂上を撮ったものである。

上記の江戸切絵図を見ると、「三辺坂」とあるが、この坂をずっと上(北)の方へたどっていくと、先ほどの貝坂(カイサカ)がある。現在も、三べ坂上から北は青山通りで分断されるが、その道は貝坂へと続いている。

三べ坂中腹 新坂(遅刻坂)上 新坂(遅刻坂)上 新坂(遅刻坂)下 三べ坂中腹の四差路を右折し、突き当たりを左折すると、右手がメキシコ大使館で、突き当たりが日比谷高校の門である。ここを右折すると、新坂の坂上で、細い坂道が下っている。高校生などが遅刻しないように駆け上がるので、別名が遅刻坂であるが、おもしろい坂名である。

二枚目は坂上から坂下を、三枚目は標柱のところから坂上を、四枚目はまっすぐ下った中腹から坂上を撮ったもので、坂上からかなりの勾配で下っている。遅刻しそうで急いで上るときは堪えたことであろう。

この坂は、坂上から眺めると、細い坂道が古びた石垣とよくあって、よい風景をつくり出しており、好きな坂道の一つである。ところが、中腹から左に曲がって下ると、両側がビルで、ちょっと味家のない風景となってしまう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)

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荷風住居跡巡り2013(6)

2013年01月19日 | 坂道

自証院坂上まで牛込台地であるが、ここから坂を下り、谷道である靖国通りを横断し、南へ向かえば四ッ谷・麹町台地である。ここを通って最終目的地の六本木一丁目の偏奇館跡を目指す。

暗闇坂下 暗闇坂中腹 浄運寺から西側遠景 駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図(元治元年(1864)) 自証院坂下を左折し、靖国通りの歩道を東へ歩くと、次の信号で向こう側に暗闇坂の階段が見えてくる。一枚目の写真は横断し、坂下から撮ったものである(現代地図)。短いがちょっと急な階段となっているので、そのむかしはかなり急な坂であったのであろう。

階段を上ると、左からの道と合流して緩やかに南へ上っている。二枚目はそのちょっと上から坂上側を撮ったもので、現在は、明るい坂道となっている。

坂上からまっすぐに南へ細い道が延びている。この途中、浄運寺のところで右手を見ると、西の方の眺望がよい。三枚目の写真はそこから西側を撮ったもので、途中の服部坂上でもそうだったが、これだけ見えれば立派なものである。ただ、落葉樹が落葉したこの季節ならではの風景であろう。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図(元治元年(1864))の部分図を見ると、左下に自證院があり、そのわきの道が自証院坂と思われ、坂下を左折すると、自證院門前町の前を通りすぎてから右折すると、クラヤミサカがある。ここから現在と同じように南へまっすぐに道が延びているが、この道に浄ウン寺ヨコ丁、とある。

女夫坂上 女夫坂下 女夫坂上 駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図(元治元年(1864)) 暗闇坂上を南へ歩くとやがて新宿通りに出るが、左折し横断し、外苑東通りを越えて東へ進み、次を右折すると、女夫坂の坂上である(現代地図)。一枚目の写真のように、狭い坂道が南へ緩やかに下っている。新宿通りはこの台地の尾根で、南北の分水嶺のような位置にある。この坂の一本東隣りは円通寺坂で、同じように南へ下っている。

坂を下ると、坂下からさらに南へ緩やかに上っている。二枚目はその上り坂を、三枚目は上ってから坂下を撮ったものである。

上の江戸切絵図の部分図で、暗闇坂上から延びる浄運寺横丁から左折すると、その上(東)に忍原ヨコ丁という道が見えるが、ここがこの坂で、その上が円通寺坂である。

四枚目は尾張屋板江戸切絵図 駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図(元治元年(1864))の部分図で、上記の部分図の東南側であるが、忍原横丁が下に見える。

闇坂上 戒行寺坂上 戒行寺坂中腹 戒行寺坂下 女夫坂上を南へまっすぐに歩くと、やがて突き当たるが、ここを左折し東へ進むとまもなく、右手に一枚目の写真のように闇坂の標柱が見える(現代地図)。ここをもう少し入ると急な下り坂となる。

そこからさらに東へ歩くと、二枚目の写真のように戒行寺坂の坂上である。二枚目はちょっと下って坂下を、三枚目は坂下から坂上を撮ったものであるが、この坂は独特の曲がりをしていることがわかる。このため、まっすぐなようでいて坂上と坂下が互いに見えない。

上四枚目の江戸切絵図を見ると、下の忍原横丁から左折し上(東)へ進み、次の一本目を右折した道が闇坂で、さらに上へ進むと、戒行寺があるが、そのあたりが戒行寺坂上である。

鉄砲坂下 出羽坂下 鮫河橋坂下 鮫河橋坂上 戒行寺坂下が若葉通りで、ここを右折し、南へちょっと歩くと、左手が一枚目の写真のように鉄炮坂下である(現代地図)。さらに進むと、中央線のガードにいたるが、その手前右手を撮ったのが二枚目の写真である。出羽坂が西へ上っている(現代地図)。

ガードをくぐり、直進すると、南元町のT字路の交差点にいたるが、ここを左折すると、鮫河橋坂の坂下である(現代地図)。途中、ガードのちょっと先に小祠があるが、ここに鮫河橋地名発祥の石碑が立っている。

三枚目の写真は、坂下から坂上を、四枚目は坂上から坂下を撮ったものである。戒行寺坂でいったん旧鮫河橋町の低地に下ったが、この坂で四ッ谷台地にふたたび上ることになる。

上四枚目の江戸切絵図を見ると、鮫河橋町の低地の南側に鮫ヶ橋坂がある。坂の東側は広い紀伊屋敷である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)

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荷風住居跡巡り2013(5)

2013年01月17日 | 坂道

団子坂上 団子坂下 団子坂下 牛込市谷大久保絵図(安政元年(1854)) 前回の下戸塚坂の坂上は、大久保通りであるが、ここを横断し、小路に入って、二度ほど曲がってから進むと、大久保通りから分かれて西へ抜弁天の方に延びる大きな道路に出る。ここを右折し進むと、信号が見えてくるが、このあたりが団子坂の坂上である(現代地図)。近くに大江戸線の若松河田駅がある。

一枚目の写真は坂上を撮ったもので、緩やかに西へ下っている。二枚目は坂下側(南)で坂下を、三枚目はそのあたりから坂上を撮ったもので、坂の標柱が立っている。坂下をすぎると、ふたたび緩やかな上りとなる。

この坂はこのブログで取りあげていないので、標柱の説明を以下に示す。

「団子坂(だんござか)
 昔この辺一帯が低湿地であり、この坂はいつも泥んこで、歩くたびにまるで泥だんごのようになったという。嘉永七年(一八五四)の『江戸切絵図』には「馬ノ首ダンゴサカト云」とある。」

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 牛込市谷大久保絵図(安政元年(1854))の部分図を見ると、標柱の説明のとおり前回の下戸塚坂上のちょっと左(南)の東西の道(若松町の町屋の上)に「馬ノ首ダンゴサカト云」とある。このためか、別名が馬の首団子坂である(横関、岡崎)が、「馬ノ首」の意味が不明。この道の上(西)に抜弁天が見える。

余丁町と河田町の間の道 余丁町と河田町の間の道 断腸亭跡付近 余丁町街角地図 団子坂から断腸亭跡に向かうには、坂下を西へ抜弁天まで歩き、左折しそのまま進むめばよいが、ずっと大きな通りの歩道を歩かなければならないので、坂下からちょっともどり、坂中腹から南へ延びる細い道に入る(現代地図)。余丁町と河田町との間である。

この道に入ると始めちょっと下り坂だが、坂下は一枚目の写真のようにずっと平坦で南へ延びている。しばらく歩くと、こんどは二枚目のように上り坂となる。実測東京地図(明治11年)を見ると、このあたりは狭隘な谷となっているが、その名残であろう。

坂を上ると四差路があるが、そこを右折し、まっすぐに西へ歩く。余丁町13番地(右)と14番地(左)の間の道である。

荷風は明治35年(1902)から大正7年(1918)まで牛込区大久保余丁町79番地の邸宅に父母等と住んだ(以前の記事)が、この番地を明治地図(明治40年)で確認すると、現在の余丁町14番地で大きな通りの近くである。

三枚目の写真は余丁町の大きな通り(放射第6号線)に近づいてから撮ったもので(現代地図)、この左手一帯が旧永井邸と思われる。断腸亭とは、荷風がこの敷地内に建てた離れに付けた名である(以前の記事)。

三枚目の小路から歩道に出て左折すると、その先のビルの隅に断腸亭跡の標識が立っている。

神田川の華水橋から断腸亭跡までの所要時間は1時間30分(途中、夏目坂での昼食休憩30分を含む)。

四枚目は、標識の近くに立っていた街角案内地図であるが、断腸亭跡から南の自證院(自証院)坂を目指すことにする。

牛込市谷大久保絵図(安政元年(1854)) 自證院坂上 自證院坂上 自證院坂下 一枚目は、尾張屋板江戸切絵図 牛込市谷大久保絵図(安政元年(1854))の部分図であるが、「馬ノ首ダンゴサカト云」とある団子坂から下(南)へ延びる道が先ほどの狭い谷道で、そこから右折した「二ツ目」とある道が上記の余丁町13番地と14番地との間の道と思われる。断腸亭跡の位置は、真田源次郎の屋敷であろうか。自證院が絵付きで大きく描かれている。

現在の大きな通りに相当する道に「此辺四丁町ト云」とあるように、横町が四条ある(道が一ツ目から五ツ目まである)ため大久保四丁町とよばれたが、これが明治になってから大久保余丁町、その後、余丁町となった。これがいまも残っているが、その陰には「余丁町の町名を守る会」の運動があったという。

広い通りを横断し、市谷台町と富久町との間の道に出たが、ここから自証院方面へ出る道がわからず、そのあたりをうろうろし、途中、右折し西へ歩くと、自証院坂の上側に出た。坂上を見ると、二枚目の写真のように、右手が自証院の門前であるが、むかしながらのお寺の感じがする。以前来たときもそうであった。なんかほっとする風景である。三枚目は坂上近くから坂下を、四枚目は坂下から坂上を撮ったもので、坂下は靖国通りである。

散策の好きな荷風は、麻布の偏奇館からこのあたりにも出没しており、「断腸亭日乗」昭和12年(1937)3月28日に次の記述がある。

「三月廿八日 日曜日。晴。表通の老桜少しく花ひらく。午後市ヶ谷辺散策。善学寺及瘤寺を訪ふ。余丁町抜弁天の横町取ひろげらる。銀座に夕餉を食すること例の如し。」

瘤(こぶ)寺とは自證院のことである。善学寺というのが不明であるが、靖国通り近くの善慶寺のことか。偏奇館近くの長垂坂上に同名の寺があるが、これと間違ったのかもしれない。この坂を上ってから余丁町、抜弁天の方に行ったと想像されるが、旧住居(断腸亭)についての感想は記されていない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「東京地名考 上」(朝日文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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荷風住居跡巡り2013(4)

2013年01月14日 | 坂道

前回の神田川にかかる華水橋から第2の目的地である余丁町の断腸亭跡を目指す。

山吹町 山吹町 早稲田鶴巻町 礫川牛込小日向絵図(万延元年(1860)) 神田川沿いの目白通りを横断し、関口一丁目を通り、江戸川橋通りを横断すると、その先(西)は山吹町である(現代地図)。この地名は、太田道灌が登場する山吹の里伝説に由来するのであろう。この近くの神田川沿いに山吹の里の石碑と説明板が立っている(面影橋近くの電気会社の入口)。

一、二枚目の写真は山吹町の通りを撮ったものであるが、平坦な道が続き、このあたりも低地であることがわかる。この途中、やまぶき児童遊園によってホットココアでちょっと休憩する。

さらに進み、外苑東通りを横断すると、早稲田鶴巻町であるが、三枚目はその通りで撮ったものである。

四枚目は、尾張屋板江戸切絵図 礫川牛込小日向絵図(万延元年(1860))の部分図で、先ほどまでの服部坂や大日坂などが見えるが、神田川の西に広がる田が、このあたりに相当するところで、早稲田田圃とよばれていた。このあたりは、東北に小日向台地、小石川台地、北に目白台地、南西に牛込台地に囲まれた地で、これらの山々を望みながら稲作りにいそしんだ時代があった。

夏目坂下 漱石生誕の地石碑 夏目坂上 夏目坂上 早稲田鶴巻町(北側)から早大通りを南へ横断すると、ちょっと上りになる。宗清寺前を通って早稲田通りに出てから、右折してちょっと進むと、地下鉄早稲田駅前の交差点で、反対の南側に夏目坂が見える(現代地図)。一枚目の写真は、そこから坂を撮ったもので、まっすぐに南へ上っている。

夏目坂は、このあたりの名主であった漱石の父、小兵衛直克が名付けた。もともと豊島坂といったが、このあたりが豊島郡に属していたからという(岡崎)。この坂のある一帯の町名は、同じくその父が夏目家の定紋の井桁に菊にちなんでつけたという喜久井町である。山吹町もそうだがこういった地名が残っているのはうれしいことである。

坂下東側の牛丼屋の前の狭いところに、二枚目の写真のように夏目漱石誕生之地の石碑と説明板が立っている。三枚目は坂上近くで坂下を、四枚目は坂上を撮ったもので、坂の標柱が立っている。

下一枚目の尾張屋板江戸切絵図 牛込市谷大久保絵図(安政元年(1854))の部分図を見ると、穴八幡のちょっと下(東)に二股に分かれている道があり、二股の道の間が、ワセダババ下丁、となっているが、この左側の道がこの坂と思われる。誓閑寺と来迎寺は、いまも坂西側にある。漱石の生家は、この早稲田馬場下町にあったのであろう。

牛込市谷大久保絵図(安政元年(1854)) 下戸塚坂下 下戸塚坂上 下戸塚坂上 上四枚目の夏目坂上を右折し、ちょっと進むと、右手に清源寺の門前があるが、一枚目の江戸切絵図に同じ位置にこの寺がある。

そのまま南へさらに進むと、道がほぼ直角に曲がっているが(現代地図)、その曲がりのところから小路が南へと延びている。この小路に入ってちょっと歩くと、下戸塚坂の標柱が立っている。

二枚目の写真は、坂下から撮ったもので、細い道がまっすぐに延びている。三枚目は、坂上近くから坂上側を撮ったもので、ここにも標柱が立っている。四枚目は坂上から坂下を撮ったもので、坂上側でかなりの勾配となっている。

一枚目の江戸切絵図に、清源寺前でちょっと曲がってから南にまっすぐ延びる道があるが、この道の南側がこの坂と思われる。ここは江戸から続く坂であるが、坂名は明治になってからの町名に由来する。

山吹町や早稲田鶴巻町あたりの低地から夏目坂へと上ると、牛込台地の上側と思ってしまうが、さらにこの坂があるので、夏目坂上はこの台地の中腹であることがよくわかる。この坂上が牛込台地の頂上の一端である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)

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荷風住居跡巡り2013(3)

2013年01月13日 | 坂道

「浅利坂」上 街角地図 東都小石川絵図(安政四年(1857)) 薬罐坂上 前回の荒木坂上を左折しさらに上り、その上で右に曲がり、そのまま北へ進むと、右手に下り坂が見えてくる。ここが「浅利坂」(誤り)である。一枚目の写真は、この坂上から撮ったもので、坂下を横切る道は、荒木坂を直進してきた道である。

二枚目は、そのちょっと先のT字路に立っていた街角地図であるが、「浅利坂」が示されている。これには、上から、新坂(今井坂)、荒木坂、これから向かう薬罐坂、横町坂、服部坂、大日坂、その先の神田川にかかる華水橋などがあり、茗荷谷まで続く谷道もある。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 東都小石川絵図(安政四年(1857))の部分図にアサリサカがある。この江戸のアサリサカは、横関の説明にあるように、消滅している(以前の記事)。

二枚目の街角地図と、三枚目の江戸切絵図を比べると、先ほどのT字路は江戸切絵図にもあり、その北側にアサリサカがあるが、街角地図が示す「浅利坂」はT字路の南にあるので、これからも誤りであることがわかる。

T字路を左折し、西へ向かうとまもなく、四枚目のようにちょっとした下り坂となって坂下からまた緩やかな上りとなるが、この坂下の鞍部が薬罐坂の坂上(現代地図)である。荒木坂上からこの坂上まではじめて歩いた。

薬罐坂上 薬罐坂下 横町坂下 横町坂上 上四枚目の写真の坂下鞍部を左折すると、薬罐坂の坂上で南へ下っている。一枚目の写真は坂上から坂下を、二枚目は坂下から坂上を撮ったものである。

上三枚目の江戸切絵図には鞍部の先にヤカンサカとあり、近江屋板には鞍部のあたりにヤカンサカとあるため、この坂の位置について以前の記事その後の記事で、かならずしも鞍部から南へ下る坂(上二枚目の街角地図が示す位置)とはいえないかもと疑問を呈したが、今回訪れて、やはり一枚目の写真のように鞍部から下る坂であろうと思った。薬罐坂とは、幽霊坂のような寂しいところの坂であるが(横関)、坂上から下ってくると、坂下はむかし薄暗く寂しいところだったように想えてくるからである。

薬罐坂を下り、右折、左折して進み、水道通りの手前を右折し、細い道を進むと、上り坂になるが、ここが横町坂である。三枚目は途中から坂上側を、四枚目は坂上から坂下を撮ったものである。この坂は、標識などが立っていないが、上三枚目の江戸切絵図にもあり(福勝寺の門前の道)、江戸から続く坂である。

服部坂上 小日向神社上側から 大日坂中腹 雑司ヶ谷音羽絵図(安政四年(1857)) 横町坂上は、服部坂の上側で、一枚目の写真は、その坂上から坂下側を撮ったものである。

坂上を左折して進むと、そのあたりは小日向神社の上側であるが(現代地図)、神社側(南)の眺望がよいことに気がついた。二枚目はそこから撮ったものであるが、ビルに囲まれてビルしか見えないと云ってよいいつもの風景からいえば、これだけ見えるところはめずらしい。左右がよく見え視界が広いため開放感のある風景になっている。このあたりは小日向台地の南端である。

思いもかけずよい眺望を楽しんでから、北へ進み、適当なところで、左折し進むと、大日坂の坂上側に出た。服部坂上からここまでもはじめて歩く道である。

三枚目は大日坂中腹の標識が立っているところから坂上を撮ったもので、猫が歩いていてちょっとのんびりした感じがよい。

四枚目は、尾張屋板江戸切絵図 雑司ヶ谷音羽絵図(安政四年(1857))の部分図で、この坂があるが、服部坂が隠れてしまっている。「ハットリ坂」とあるが、ここはかなり坂上を進んだところである。

大日坂下 大日坂下 華水橋から大日坂下方面 大日坂を下り、坂下側で水道通りとの交差点方面を撮ったのが一枚目の写真で、交差点から坂下を撮ったのが二枚目である。坂下ではかなり緩やかになっている。

交差点を横断し、そのまま南へ向かうと、神田川にかかる華水橋である(現代地図)。ここを渡ってからふり返って北側を撮ったのが三枚目の写真である。

ここまでの道程を簡単にまとめると、JR水道橋駅→白山通り→富坂下→堀坂下→六角坂下→善光寺坂→伝通院門前→三百坂上→荷風生家跡→金剛寺坂→鶯谷の無名の階段坂上→新坂(今井坂)→荒木坂→薬罐坂→横町坂→服部坂上→大日坂→華水橋で、ちょうど神田川の水道橋からその上流の華水橋まで歩いたことになる。所要時間は1時間10分。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)

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荷風住居跡巡り2013(2)

2013年01月12日 | 坂道

荷風生家跡付近 金剛寺坂中腹 無名の階段坂上 無名階段坂上の北 前回の荷風生家跡前の道(標識が立っている)は、緩やかに西へと下っているが、ここから西側を撮ったのが一枚目の写真で、右側が荷風生家跡、遠くに見える突き当たりの左右が金剛寺坂である。

突き当たりを右折して撮ったのが二枚目で、金剛寺坂の中腹である。うねりのあるちょっと急な坂で、上りがいがある。

荷風は『礫川徜徉記』で「金剛寺坂の中腹には夜ごとわが先考の肩揉みに来りし久斎とよぶ按摩住みたり。」と書いて、その妻であった老婢しんを偲んでいる(荒木坂の記事)。

坂上側で左折しまっすぐ進むと、そのむかし、鶯谷とよばれた谷を見渡せる所にいたる(現代地図)。もっともそういうにはちょっと眺望がわるくなっている。そこから石垣に沿って無名の階段が南へ下っている(鶯谷~無名の階段坂(1))。これを撮ったのが三枚目で、坂下を進むと、丸の内線の上にかかる橋を通ってから、水道端(水道通り)へ出ることができる(鶯谷~無名の階段坂(2))。

この階段坂を左に見て進み、右に丸くぐるりとカーブする坂道を下って、住宅街の小路をまっすぐに進むと、四枚目のような小階段がある。これを上ると、すぐ春日通りである。

東都小石川絵図(安政四年(1857)) 新坂(今井坂)上 新坂(今井坂)上 新坂(今井坂)下 一枚目の尾張屋板江戸切絵図 東都小石川絵図(安政四年(1857))の部分図には、金剛寺坂、新坂(今井坂)が見える。現在も同位置にある多福院の近くに丸くカーブする道が見えるが、ここが上記の階段坂近くのカーブである。

春日通りの歩道を左折し、ちょっと歩き、次を左折すると、新坂(今井坂)のずっと坂上の道である。二枚目の写真は、そのあたりで進行方向を撮ったもので、住宅街の中で細い道が延びている。やがて下り坂となって、丸の内線にかかる橋を越えると、三枚目のようにまっすぐに水道端へと下っている。

四枚目は、坂下から撮ったものである(現代地図)が、この坂は、最近、工事により改修され、なめらかなカーブを描くように仕上げられている。このため、江戸から続く坂が妙に現代風な雰囲気になっている。このあともこんな風になっている坂に出くわす。

荒木坂下 荒木坂上 荒木坂上 東都小石川絵図(安政四年(1857)) 新坂(今井坂)下を右折し、水道端の通りを西へ進み、小日向の交差点をすぎて、次を右折すると、荒木坂の坂下である(現代地図)。

なお、小日向の交差点を右折すると、平坦な道(本ブログで谷道と勝手によんでいる)がずっと続き、ここは、庚申坂藤坂などの坂下を見ながら、やがて茗荷坂へといたるよい散歩道である(谷道(1)谷道(2))。

一枚目の写真は坂下から、二枚目は坂上から撮ったもので、三枚目は坂上を左折するとさらに上りになっているが、この坂上を撮ったものである。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 東都小石川絵図(安政四年(1857))の部分図を見ると、新坂の西に荒木坂があり、坂上を左折した道が三枚目の現在の坂道と対応しているようで、今回はじめてここを歩いた。この切絵図で坂上を右折して進むと、切支丹坂(庚申坂)方向にいたるが、この道と、現在、切支丹坂とされる坂の下側へといたる道とは、たぶん別と思われる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)

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荷風住居跡巡り2013(1)

2013年01月09日 | 坂道

年明け後の一日、永井荷風の生家跡(文京区春日二丁目)から断腸亭跡(新宿区余丁町)経由で偏奇館跡(港区六本木一丁目)までその間にある坂を巡りながら歩いた。このような荷風住居跡巡り・坂巡りは、前回(2011年末)実行したが、今回は、前回とできるだけ違うコースを歩くようにし、前回と同じようにできるかぎり裏道・横道・脇道を歩くようにした。コースの方は一部重複したが、ある程度は仕方がない。

お茶の水坂下 忠弥坂下 新坂(外記坂)下 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 午前JR水道橋駅下車。

東口を出て水道橋を渡るとすぐ白山通りと外堀通りとの交差点にいたる(現代地図)。このあたりは、おそらくかなり低地である。ここから白山通りは南へ神保町、平川門へと延び、内堀通りとなるが、ずっとほぼ平坦と思われる。このあたりから東の日比谷通りにかけては、江戸期以前まで日比谷入江で江戸湾が入り込んでいた。

東京23区西部の地形は、台地とそこに複雑に発達した谷とにより特徴づけられるが、これらの谷と台地の間にできた坂を巡るには、できるだけ低地(谷)から始めるのが適していると思い、ここを出発点とした。

白山通りとの交差点から東へ上るお茶の水坂を撮ったのが一枚目の写真で、坂下付近はかなりの低地である。

白山通りの西側歩道を北へ歩くが、その反対の東側を見ると、忠弥坂の坂下が、さらに進んで、新坂(外記坂)の坂下が、ビルとビルの間に見える。 二枚目は忠弥坂下、三枚目は新坂(外記坂)下で、これらの坂はビルに隠れるようにひっそりと存在しているが、これが魅力の一つである。

四枚目は、このあたりの尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図で、水道橋付近から北へ延びる道が現在の白山通りに重なるが、ほんの途中までしか延びていない。

富坂下(北) 富坂下北側右折した道 堀坂下 六角坂下 白山通りを春日町の交差点まで進むと、右手に東富坂が、左手にこれから向かう富坂(西富坂)が見える。ここから西側を見ると、富坂に向けてかなり緩やかであるが上り勾配になっていることがわかる。

富坂下の交差点を北側で渡ると、一枚目の写真のように富坂下の緩やかな上り勾配となる。ここをちょっと上り右折すると、二枚目のように、細めの道が緩やかに下ってから平坦になって北へ延びている(現代地図)。交通量の多い大きな通りを歩いてきたので、この裏道に入り、ようやくほっとする。いつもの裏道散歩の気分にもどる。

この道をちょっと歩くと、左手に掘坂の坂下が見えてくる。三枚目は坂下から撮ったもので、小石川台地の中腹に向けてまっすぐに上っている。 さらに進むと、蒟蒻閻魔の裏手を通って、六角坂の坂下となる。四枚目は坂下から撮ったが、この坂は突き当たりを左折してからまっすぐに上り、先ほどの堀坂の坂上を通り、富坂の中腹まで延びている。

善光寺坂下 善光寺坂中腹 善光寺坂中腹 東都小石川絵図(安政四年(1857)) 六角坂下のすぐとなりが善光寺坂の坂下である。一枚目の写真は善光寺坂の新旧の坂下を撮ったもので、左が新坂下で、右が旧坂下である。実測東京地図(明治11年)や明治地図(明治40年)を見ると、明治頃までは旧坂しかなかった。

旧坂下から上ると、左に直角に曲がりさらに上って善光寺の門前で新坂と合流する。二枚目はその合流地点から旧坂下側を撮ったもので、道の左端に坂の標識が立っている。

三枚目は合流地点付近から坂上を撮ったもので、小石川台地の東端の尾根を上るようにちょっとうねりながら続いている。適度な勾配とうねりがあるため、気分のよい坂道散歩ができるところである。

四枚目は、尾張屋板江戸切絵図 東都小石川絵図(安政四年(1857))の部分図であるが、先ほどの堀坂、六角坂が見え、善光寺坂もある。上の小石川谷中本郷絵図と比べると、蒟蒻閻魔のある源覚寺のあたりなどはちょっと違って描かれている。

伝通院 春日通りから荷風生家跡への道 荷風生家跡 荷風生家跡 善光寺坂を上ると、右手に伝通院が見えてくる。一枚目の写真はそのあたりからカメラを境内に向けちょっと上向きにして撮ったもので、きょうも青空である。

伝通院を右に見て直進すると、やがて突き当たるが、左折し春日通りに向かう。ここを右折すると、三百坂の坂上にいたる。

春日通りに出て近くの信号で横断すると、二枚目のような小路が南に延びている。ここをちょっと歩いて撮ったのが三枚目で、この道の右手一帯は、永井荷風の生家のあったところである(永井荷風生家跡(1)永井荷風生家跡(2)永井荷風生家跡(3))。

道はやがて下り坂になって突き当たるが、そこを右折してふり返って撮ったのが四枚目で、永井荷風生育地の標識が立っている。ここが最初の目的地である(現代地図)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
鈴木理生「江戸はこうして造られた」(ちくま学芸文庫)

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阿佐谷神明宮2013(元旦)

2013年01月01日 | 写真
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