東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

桃園川緑道2013(9月)

2013年09月29日 | 写真

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目黒川(日出橋~中里橋)

2013年09月26日 | 散策

今回は、前回に続いて、目黒川を下流へ歩き、その北東側の千代ヶ崎や権之助坂や行人坂を巡ってから、その反対の南西側の金比羅坂や目黒不動近くの坂を訪れたが、途中、寄り道をしてしまった。

目黒川宝来橋から日出橋 けこぼ坂下方面 駒沢通り鎗ヶ崎方面 皀樹橋の下流 午前中目黒駅下車。

今回も中目黒駅から出発。副都心線と東横線の相互乗り入れがはじまってから新宿方面からのアクセスがよい。

山手通りを横断し直進し、日出橋を渡って、目黒川の左岸を下流に歩く。すぐに宝来橋であるが(現代地図)、そこから上流を撮ったのが一枚目の写真で、日出橋の向こう(上)に中目黒駅のホームが見える。

ここからちょっと進むと、駒沢通りが横切っていて、皀樹(さいかち)橋がかかっている。ここを歩道橋で横断するが、その上で西側を撮ったのが二枚目で、山手通りとの交差点の向こうにけこぼ坂の坂下が見える。

東側を撮ったのが三枚目で、この先は鎗ヶ崎の交差点である。一説によれば、ここが新道坂といわれる(以前の記事)。

四枚目は、皀樹橋のちょっと下流から上流側を撮ったもので、橋と歩道橋が見える。

目黒川田楽橋上流 目黒川田楽橋上流 目黒川散歩道 目黒川中里橋下流 さらに下流に向けて歩き、工事中のため小路のように細くなった所を通り抜けると、田楽橋のちょっと上流にでる(現代地図)。ここを左折していくと、別所坂の坂下である。

一枚目の写真は、そこから川を撮ったもので、アオサギとコサギが見える。この川にもサギがいるようでうれしい。餌となる小魚類がいるのであろう。

二枚目は、田楽橋の近くから上流側を撮ったもので、アオサギが先ほどと同じような所にいるが、コサギは、上流側に飛んでしまい、小さくぽつんと写っている。このあたりから川幅がかなり広くなっている。

ここから三枚目のような川の右岸の散歩道を歩き、しばらくすると、中里橋につく。ここから下流側を撮ったのが四枚目で、川幅が広くまるで大河のようである。ここから、新茶屋坂、茶屋坂方面に向かう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)

「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)

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赤坂見附~四谷三丁目

2013年09月24日 | 坂道

連休のとき外出の帰りに時間があったので、赤坂見附駅で降りて四谷三丁目駅まで歩いた。この間にはたくさんの坂があるが、すべて歩くことはできない。坂下や坂上で写真を撮りながらの坂散策となった。ちょうど夕暮れ時である。

外堀通り紀伊国坂下手前 紀伊国坂下 紀伊国坂下 紀伊国坂中腹 夕方赤坂見附駅下車。

出口Bから地上にでると、外堀通りで、その上に首都高速道路(現代地図)。

ここを西へ進むと、やがて、一枚目の写真のように、遠くに右へ曲がるカーブが見えてくる。

そのあたりが紀伊国坂の坂下である。カーブを曲がると、二枚目のように、ほぼまっすぐに北へ上っている。

歩道が狭くなったところから本格的な上りといった感じになる。三枚目はそのあたりから坂の標柱を入れて坂上側を撮ったものである。

この坂は、何回も来ているが、こんな夕方はたぶんはじめてである。四枚目は、歩道中腹のあたりから坂上側を撮ったものである。 ここはいつも人通りが少ないが、夕方のこの時間、ジョギングをする人がかなりいる。それもこの坂を上る方向に走る人が多いようで、何人もの人に追い越された。

喰違見附から眺めた夕焼け 紀伊国坂上 鮫河橋坂上 朝日橋からの風景 坂中腹の信号のある交差点を渡り、喰違見附跡方面に進み、土手の上から西の方を眺めると、空がちょっと赤くなっている。

一枚目の写真は、そこから撮ったもので、夕焼け空に代々木の高層ビルがよく映えている。

もとの歩道にもどり、さらに進むが、かなり暗くなってきた。二枚目は、坂上近くから坂下側を撮ったものである。

このあたりから迎賓館の門前のあたりが台地の頂上のようで、赤坂見附の谷から上る大きな山塊を形成している。この山の下に丸の内線が通り、先ほどの首都高速道路が貫いている。広い台地の頂上と思って、さらに進むと、横断歩道の向こうに学習院小が見えるが、そこの敷地は一段と高くなっていて、さらに高い所があるようである。

横断歩道を渡り、左折し、ちょっと進むと、鮫河橋坂の下りになる(現代地図)。三枚目は、その途中から坂下側を撮ったもので、坂下がこの山の西側の谷となっている。

坂の途中で右折し、細い坂道を上ると、橋がかかっているが、ここから西側を撮ったのが四枚目の写真で、この下を先ほどの首都高速道路が通っていて、車のランプで明るい。その右側が中央線の線路である。

鉄砲坂下 戒行寺坂下 観音坂下 東福院坂下 橋を渡り、道なりに進むと、下り坂となって、坂下を左折し、ちょっと下ったところが鉄砲坂の坂上である。ここを下り、次を左折し下ると、先ほどの鮫河橋坂下から北へ延びる道路にでる(現代地図)。このあたりの谷底を通る道である。

一枚目の写真は、谷底の道路の坂下から鉄砲坂の坂上側を撮ったもので、もうかなり暗くなっている。

坂下を右折し、北へ向かう。この辺は若葉町の商店街となっていて、坂下にあるスーパー付近はちょっと賑やかであるが、すぐにそうでなくなり、しんとし、ときたま車が通る程度で、まるで真夜中のようである。

ちょっと歩き、左を見ると、戒行寺坂の上りである。この坂下から撮ったのが二枚目で、ここを上って新宿通りへ出ることもできるが、そうせずそのまま進む。

ちょっとすると、三枚目のように、右手に観音坂が見えてくる。さらにしばらく歩くと、東福院坂の坂下の交差点に至る(現代地図)。この坂下から撮ったのが四枚目で、ビルの灯りで坂下が明るい。

円通寺坂下 女夫坂上 さらに進み、くねくね曲がった緩やかな上りを過ぎると、遠くに坂が見えてくる。円通寺坂である。一枚目の写真は、坂下から標柱を入れて撮ったもので、坂上は新宿通りである。

坂上を左折し歩道を西へ歩き、次の左の小路を撮ったのが二枚目で、ここから女夫坂が下っている。

ここからちょっと歩くと四谷三丁目駅である。

今回は、赤坂見附の谷から紀伊国坂上の台地へ上り、そこから西側へ下って、谷底の道を通り、台地の尾根にできた新宿通りまで歩いた。このあたりは、何回か訪れているが、反対に新宿通りから紀伊国坂方面に向かうことが多かったので(たとえば、この記事)、夕暮れ時とあいまって、また別の感覚で散策を楽しむことができた。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)

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けこぼ坂(けころ坂)

2013年09月11日 | 坂道

なべころ坂下の右 けこぼ坂上 けこぼ坂下 けこぼ坂下 前回のなべころ坂の坂下にもどり、坂下の右の坂を上る(現代地図)。

一枚目の写真のように、ゆるめの坂がまっすぐに上っている。突き当たりを右折し、次を左折し、ちょっと勾配のある上り坂を上って、直進すると、庚申道にでる。

ここを右折しちょっと歩くと、広い通りに出る。駒沢通りであるが、このあたりがけこぼ坂の坂上である(現代地図)。山手通りまで下る長い坂である。

二枚目の写真は、そのあたりから坂上側(祐天寺方面)を撮ったもので、ほぼ平坦である。

以下、坂下から写真を並べる。

坂下近くから山手通りとの交差点(現代地図)方向を撮ったのが三枚目で、直進すれば、目黒川、新道坂橋を経て、鎗ヶ崎の交差点へいたる。

四枚目は、坂下の緩いカーブの手前から坂上側を撮ったもので、左側に正覚寺の門が見える。

けこぼ坂下 けこぼ坂下 けこぼ坂中腹 けこぼ坂中腹 一枚目の写真は坂下のカーブの先から坂上側を撮ったもので、この先で左に緩やかにカーブしている。二枚目はそのあたりから坂下側を撮ったもので、まだ緩やかである。

三枚目はさらに進んでカーブの先のあたりから坂上側を撮ったもので、このあたりから勾配が少しずつ付いてくる。四枚目はそのあたりから坂下側を撮ったものである。

目黒区HPに次の説明がある。

「正覚寺から中目黒小学校と目黒区総合庁舎の間を通り、祐天寺に上る坂道がけこぼ坂である。同坂道は祐天寺道の一部であり、古くは下渋谷から別所坂を下り、さいかち橋で目黒川を渡り、この坂道を通って祐天寺前から碑文谷に至る交通の要衝であった。

そのため古くから何回となく急な箇所を切り取る工事を繰り返し、同坂の距離はかなり長くなり、頂上部の勾配も緩やかなものになった。道路面の変化は、両側の土手の法面にも変化を与え、高い法面は崩れやすく、赤土のかたまりがざらざらこぼれ、道幅を狭めていたことさえあったという。この状態を古い目黒の方言で「けこぼ」と称し、名前の由来になったという。けこぼ坂は駒沢通りとなり、現在も主要な交通路である。」

この説明によれば、法面から崩れた赤土のかたまりがざらざらこぼれ落ちた状態を目黒の方言で「けこぼ」といったのが坂名の由来である。

御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 石川は、「けころ」は蹴転ばし、の略語で、江戸天明末期ごろまであった水茶屋の私娼の名称であるとしている。左の御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図に見えるように、坂下の正覚寺の鬼子母神が大きく記され、市民に人気があったことが知られるので、おそらく正覚寺の門前に水茶屋があったのがけころ坂の起こりになったと推測している。

『目黒区史跡散歩』によれば、「けこぼ」とは、赤土の面が崩れて、その痕が浅い洞穴状になって凹んでいる状態をさし、それが「けころ」に転訛したとし、この辺は目黒の観光圏のはずれで、眺望もぱっとせず、水茶屋が開業しても商売にならないとし、水茶屋の存在を否定している(岡崎)。

「けころ坂」の由来が、「けこぼ」の転訛か、水茶屋の私娼の名称か、不明であるが、後者の理由が結局、鬼子母神の存在だけのようで、文献にもなさそうであるので、転訛説が本当らしく思われる。

けこぼ坂中腹 けこぼ坂中腹 けこぼ坂標識 けこぼ坂中腹 一枚目の写真は坂中腹のバス停の手前から坂上側を、二枚目はその先の歩道橋の手前から坂上側を撮ったもので、このあたりから上側で勾配がついている。道の両側に切り通しの名残であろうか、石垣が所々に見える。

三枚目は、一枚目の写真の近くに立っている金属板からなる標識(東京都)を撮ったもので、坂名が見えるが、その上の説明文は判読困難である。「東京23区の坂道」で読むことができるが、上記のHPの説明とほぼ同じである。

中腹の横断歩道を渡り反対側から坂下を撮ったのが四枚目である。

上記の御江戸大絵図を見ると、正覚寺の門前の道を辿ると祐天寺があるので、この道がこの坂で、上記のHPで云う「下渋谷から別所坂を下り、さいかち橋で目黒川を渡り、この坂道を通って祐天寺前から碑文谷に至る」祐天寺道の一部と思われる(ただし、祐天寺の位置が道に対し現在と違う)。別所坂は新富士の近くにある。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、正覚寺・鬼子母神の前から目黒小学校の脇を南西へ延びる道があり、この坂と思われる。昭和16年(1941)の目黒区地図にも同様の道筋が見える。

けこぼ坂上 けこぼ坂上 けこぼ坂上 けこぼ坂上 一枚目の写真は歩道橋の上側から坂上側を、二枚目はさらに上側から坂下側を撮ったものである。

三枚目はその上側から坂上側を、四枚目はさらに上側から坂下側を撮ったもので、このあたりは緩やかになっている。

この坂も、なべころ坂などと同じように台地から目黒川の流域の谷地へと北東に下る坂である。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、400m、22.4m、5.05で、かなり長い坂で(目黒区で新茶屋坂の次に長い)、また、かなりの高低差がある。

今回は、代官山と中目黒の間の鎗ヶ崎から別所坂上まで目黒川の北東の永峰とよばれる台地を歩き、別所坂を下り、目黒川に沿って下流側に歩き、新茶屋坂を上り、その坂上(永峰)から茶屋坂を下り、目黒川を渡って、十七が坂を上り、永峰と反対側の目黒川の南西の台地にいたり、その台地から谷地へと下る馬喰坂なべころ坂、けこぼ坂を歩いた。

中目黒駅から出発し、けこぼ坂下の山手通りから中目黒駅にもどったので、目黒川の両岸の台地と谷地との間にできた坂を巡りながらぐるりと一周したことになる。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)

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なべころ坂

2013年09月06日 | 坂道

なべころ坂下 なべころ坂下 なべころ坂下 なべころ坂下 前回の馬喰坂の坂下で左折する(現代地図)。散歩道の案内標識のある所のちょっと先である。

住宅街の中の細い道を北へ進む。ちょっと広めの道に出たが、そこの歩道にベンチがあったので、近くの自販機で買ったコーヒー缶で一休み。

歩道のちょっと先を左折すると、なべころ坂の坂下である(現代地図)。

その坂下から撮ったのが一枚目の写真で、左側がなべころ坂で、坂下からまっすぐに西へ上っている。

二枚目は坂下からちょっと進んで坂上側を、三枚目はさらに進んで坂上側を、四枚目はそのあたりふり返って坂下側を撮ったもので、このあたりはまだ緩やかである。

なべころ坂中腹 なべころ坂中腹 なべころ坂中腹 なべころ坂中腹 一枚目の写真は、さらに進んで中腹から坂上側を撮ったもので、このあたりから勾配がついてくる。

二枚目はそのさらに上側から坂下側を撮ったもので、坂下の勾配がつきはじめるあたりがよくわかる。

三枚目はさらに進んで坂上側を撮ったもので、この上で左へちょっと曲がっている。

四枚目はその上側から坂下側を撮ったもので、東側の眺望がよく(左右の視界は狭いが)、遠くに近くにビルが見える。

坂上に立っている坂の標識(目黒区教育委員会)に次の説明がある。

「なべころ坂
 昔は鍋が転がるほどの急坂であったので、なべころ坂とよぶようになったといわれる。また、道に粘土が露出した状態を、方言で「なべころ」といったことから、坂名になったともいわれる。」

目黒区HPには次の説明がある。

「中目黒四丁目13番と14番、16番の間の急坂をなべころ(別名 なべごろ)坂という。昔、鍋が転がるほどの急坂であったことからこの名がつけられたとする説と、「なべごろ」とは赤土が水でやわらかくなった状態を示す、目黒の古い方言であったとする説がある。

「なべごろ坂」とする説によると、坂道の両側には古くは耕地があり、坂道は狭く曲がっていた。用途が比較的少なかったためか、改造されることもなく、昔ながらの道路面は表土の黒土層が洗い流されて、赤土層が露出していた。そのため夏の乾燥日には赤土のかたまりがごろごろしていたし、冬の雪の日や春の霜解け、入梅期の雨の日などには赤土がぬかっていたという。」

二つの説が紹介されているが、「なべころ」の方がいかにも坂名らしく、語呂もよい。坂上からほぼまっすぐに下る坂を見ると、鍋がよく転がったのだろうと思ってしまう。

なべころ坂標識 なべころ坂上 なべころ坂上 なべころ坂上 坂上近くまで上ると、左側に植え込みがあるが、ここにステンレス製の箱形の標識らしきものが立っている。その下側は低木の葉や草に隠れているが、よく見ると、一枚目の写真のように説明板がはり付けられている。これでは見逃してしまう。なぜ通常の標柱タイプにしないのか不思議である。

二枚目は坂上近くから坂上側を、三枚目はそのあたりから坂下側を撮ったものである。

坂上の先を撮ったのが四枚目であるが、突き当たり左右の道が庚申道で、左折すれば、馬喰坂の坂上にいたる。

この坂は、横関、石川は紹介していないが、岡崎、山野が紹介している。ところが、岡崎は、「中目黒4-12、天台宗長泉院前を東に下るきわめて短い坂。傾斜もわずか。・・・」と記述し、位置が違う坂を指しているようである。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、この坂と思われる道筋があり、ほぼまっすぐに下っている。現在(現代地図)、馬喰坂が東に下り、庚申道に沿って北西側にある次に東へ下る坂は、この坂であるが、明治地図も同様である。昭和16年(1941)の目黒区地図にも同様の道筋があり、坂下南側に東京ガスのタンクが見える。

この坂も、台地から目黒川の流域の谷地へと東に下る坂で、かなりの急坂であったようである。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、183m、9.8m、4.57で、馬喰坂よりもちょっと緩やかである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)

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馬喰坂

2013年09月04日 | 坂道

馬喰坂上 散歩道案内標識 馬喰坂下 馬喰坂下 前回の十七が坂の坂上から北へ道が延びているが、ここを庚申道という。この道をしばらく歩くと、一枚目の写真のように、ちょっと下り坂となって、その先に四差路が見える(現代地図)。

ここを右折すると、馬喰坂の下りとなる。

二枚目はその交差点の側に立っている案内標識である。そのまま直進すれば、長泉院などを経て駒沢通りにいたる。

以下、坂下から写真を並べる。

三枚目は、坂下から坂上側を撮ったもので、坂下で左にちょっと曲がって、その先で右に大きく曲がっているのが見える。この坂下近くに散歩道の案内標識が立っている(現代地図)。

四枚目は、ちょっと坂上方面に進んでから坂上側を撮ったもので、この坂下のあたりはかなり緩やかである。静かな住宅が続いている。

馬喰坂下 馬喰坂中腹 馬喰坂中腹 馬喰坂中腹 坂下から進むとやがて大きなカーブに近づくが、そのあたりでふり返って坂下側を撮ったのが一枚目の写真である。

二枚目はそのカーブのちょっと手前から坂上側を撮ったもので、右へ緩やかだが大きく曲がっている。このあたりからしだいに勾配がついてくる。

三枚目はそのカーブの先から坂上側を撮ったもので、この上でさらに左へ緩やかに曲がっている。

四枚目はその上側から坂下側を撮ったもので、先ほどのカーブがよく見える。

坂上に立っている坂の標柱(目黒区教育委員会)に次の説明がある。

「馬喰坂(ばくろざか)
 馬の鑑定や売買を行う馬喰(博労・伯楽)と関連させる説と、風雨にさらされて地面に穴のあいた状態を目黒の古い方言で「ばくろ」といったという説がある。」

坂下の案内標識にも同じような説明がある。

目黒区HPに次の詳しい説明がある。

「ばくろ坂は、目黒三丁目と中目黒四丁目の境の坂、永隆寺の南側を東に下る急坂をいい、十七が坂は、目黒三丁目3番の庚申塔の前から南東に下る短い急坂で、その位置は、それぞれ旧田道裏地域の西端と南端にあたる。

この地域の地勢的な特徴は、北から東回りに南にかけて低地が続き、北から西回りに南にかけて高地が続いていることである。したがって、低地と高地の間には当然傾斜地があり、それが西端のばくろ坂、南端の十七が坂なのである。

ばくろ坂は、低地の新寺道から高地の庚申道に通じていた。坂の傾斜は急で、険路であった。そこで切り通しの工事をしたが、それは坂上の路面を切り下げ、その切り土で坂下の路面を高め、坂全体の傾斜を緩めることであった。しかし、頂上部には庚申道が交差していたので、思いきった切り通し工事ができなかった。そのため、路面はいつも風雨にさらされ、大小の穴をあけていたので、人びとはこの坂を「ばくろ坂」と呼んだのだという。

「ばくろ」とは、風雨にさらされ穴のあいた状態を示す、目黒の古い方言だという。」

いずれの説が本当なのか不明であるが、石川は、馬喰坂が赤坂の牛鳴坂と同じように難路を意味し、牛を引く馬喰が苦労した所であるとしている。

坂上の四差路の所が鞍部のように凹んでいるが、その理由が上記HPの説明からわかった。

馬喰坂中腹 馬喰坂中腹 馬喰坂中腹 馬喰坂中腹 左に曲がるカーブの手前から坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、二枚目はカーブを上って坂上側を撮ったもので、このあたりからかなり急になってくる。傾きかけた陽の光がまぶしい。

三枚目は、さらに上ってから坂下側を撮ったもので、坂下側のカーブも見える。さらに上ってから坂上側を撮ったのが四枚目で、標柱と坂上が見える。

この坂は、右へ左へと緩やかだが大きく曲がる二つのカーブが特徴的で、いかにも古くからの道筋であるように感じる。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図に、この坂の道筋が見え、東へ延び、目黒川を渡ってから、茶屋坂と一本異なる道へ続いている。昭和16年(1941)の目黒区地図には、坂名が記され、現在のようなカーブが見える。

現代地図ではさほど大きなカーブでないように見えても実際に見るとかなり大きなカーブである。この違いはやはり実際に歩いてみないとわからない。

馬喰坂上 馬喰坂上 馬喰坂上 馬喰坂上 一枚目の写真は、坂上のちょっと下側の標柱を入れて坂上を撮ったもので、二枚目はさらに坂上側から坂下を撮ったもので、標柱が見える。

三枚目は坂上を撮ったもので、四差路からさらにちょっと上ったところが坂上で、坂上まで上ってからふり返って坂下側を撮ったものが四枚目で、北東方面の眺望がよい。

坂上の四差路の南西角の上側に「馬喰坂上の庚申塔群」の説明パネルが立っているが、実際の庚申塔はないようである。

この坂も、十七が坂と同じように、新茶屋坂茶屋坂のある永峰と呼ばれる台地と目黒川の流域を挟んで反対側の台地から谷地へと下る坂で、そのむかしはかなりの急坂であったようである。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、175m、9.3m、5.08で、そんなに急坂ではなさそうであるが、緩やかで長い坂下を考えると、坂上側はかなりの急坂である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)

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十七が坂

2013年09月02日 | 坂道

目黒川田頭橋 田頭庚申塔 十七が坂下 十七が坂下 前回の茶屋坂の坂下を進み、清掃工場わきの公園に沿って歩くと、一枚目の写真のように、目黒川にかかる田頭橋にいたる(現代地図)。

橋を渡り左側の道を進むと、右手に二枚目の写真のように田頭庚申塔群が見えてくる。ここの説明パネルによれば、この前の道は、青山・麻布方面と目黒不動とを結ぶ古くからの道とのこと。

やがて山手通りにでるが、横断歩道を渡り、左折し歩道をちょっと進んでから右折する。住宅街の狭い道を歩くと、四差路につくが、ここを右折しちょっと歩くと、右手に坂が見えてくる。ここが十七が坂の坂下である(現代地図)。

三枚目の写真は、坂下の手前から撮ったもので、ここから左手の道から分かれるようにして北側へ上っている。 四枚目は、坂下から坂上側を撮ったもので、すぐ上で右にちょっと曲がっているが、おそるべき急坂である。

十七が坂下 十七が坂下 十七が坂下 十七が坂中腹 坂下から上りはじめ、ちょっとすると、かなりの勾配となる。一枚目の写真はそのあたりから坂上側を撮ったもので、二枚目はそのさらに上側から撮ったものである。

三枚目はさらに上側からふり返って坂下側を撮ったもので、下側に見える坂下はかなり緩やかである。四枚目はそのあたりから坂上側から撮ったもので、このあたりから上側がもっとも急である。

坂上に立っている坂の標柱(目黒区教育委員会)に次の説明がある。

「十七が坂(じゅうしちがざか)
 「十七」とは若者をさし、元気な若者たちは回り道をせずに、この急坂を利用したことから名が付いたという説や坂の途中にある板碑型庚申塔に十七人の名が刻まれていることに関連するという説など、由来についてはいくつかの説がある。」

目黒区HPには次の説明がある。

「目黒三丁目5番と18番の間を、長泉院方向へ上る急坂が十七が坂である。

宿山と目黒不動尊を結ぶ庚申道の難関がこの坂越えであったという。そのため、この坂道を利用するのはもっぱら若者ばかりで、老人や子どもは坂下から西方へ迂回して藤の庚申で庚申道に合流する回り道を利用したという。あまりに急であったため、子どもが坂道の途中でころぶと、17歳になったとき不祥事が起きるという話が坂名の由来と伝えられる。

また、坂上の板碑型庚申供養塔には、江戸時代の中目黒の有力者17名の名が刻まれ、あるいはこの碑から十七が坂の名が生まれたともいう。

坂は今でも急で人通りも少なく、沿道に民家の木立が続いている。」

横関は、この坂で十七の娘が殺されていたのを、この坂のそばに葬ったことが坂名の由来という説を紹介している。

石川は、上記の十七の娘云々の記述を『目黒区大観』から引用し、また、十七は「トナ」と読むべきとしている。岡崎も同様の引用をしている。

以上のように、この坂名の由来には、いろんな説があるようであるが、『目黒区大観』が明暦年間(1655~58)にその娘を供養するため供養塔が建てられたと記しており、これがもっとも本当らしく思えてくる。

十七が坂中腹 十七が坂中腹 十七が坂中腹 十七が坂中腹 さらに上るが、一枚目の写真のように、まだかなりの勾配である。二枚目はそのあたりから坂下側を撮ったものである。

三枚目は、さらに上ってから坂上側を撮ったもので、一挙に高度を上げ、ようやく坂上が見えてきた。そのあたりでふり返って、坂下側を撮ったのが四枚目である。意外にも眺望のよい風景が広がっていて、ビルの建て込んでいる都心では望めない景色を楽しむことができる。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図に、この坂と思われる道筋が見え、坂上側(北)に永隆寺と長泉院がある。昭和16年(1941)の目黒区地図にも同じ道筋が見える。

かなりの急坂であるが、坂の感じが急坂で有名な目白台ののぞき坂と似ている。のぞき坂の小型版といった趣であるが、ここも雪が降ったときなどはその上り下りが大変そうである。

十七が坂上 十七が坂上 十七が坂上 十七が坂上 一枚目の写真は、坂上近くから坂上側を撮ったもので、このあたりではかなり緩やかになっている。

二枚目はそのあたりから坂下側を撮ったもので、ここからもかなりよい遠景を望むことができる。

三枚目は坂上の標柱を入れて坂下側を撮ったもので、四枚目は坂上の先(北側)を撮ったもので、右端に標柱が立っている。

ここは、前回までの新茶屋坂茶屋坂のある永峰と呼ばれる台地と、目黒川の流域を挟んで反対側の台地で、ここから谷地へと下る坂であるが、こちら側にもかなりの崖地があったようで、そんな所が急坂となって残っている。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、72m、9.1m、11.5で、短いが急坂であることがわかる。同著の表を見ると、目黒区ではもっとも勾配のある坂である(第二位は別所坂)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)

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