東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

鉄飛坂~呑川~神明坂

2010年04月29日 | 散策

呑川駒沢支流緑道から本流緑道を通って都立大学駅前まで戻るが、まだ時間があったので、東急大井町線を超えた所で開渠になっている呑川まで行くことにする。

しかし、このまま前回と同じ本流緑道を通るのもつまらないので、鉄飛坂の坂上にわきの方から向かうことにする。つまり、尾根づたいに鉄飛坂の頂上を目指す。

駅前からみずほ銀行わきを左折し、旭湯の前を通り進むと、緩やかな上りとなっている。5本目を右折し、道なりに進む。このあたりは平町で、静かな住宅街が続いている。

しばらくすると、かなり勾配のある坂が見えてきて、坂上付近に坂の標柱らしきものが見える。

あそこが坂上、すなわち、頂上であることを直感する。思っていたとおりである。

以前の記事で鉄飛坂について書いたが、そのとき、坂名の由来の参考として石川悌二「江戸東京坂道辞典」に「テッピ」は「山頂、てっぺん」の方言であること及び比較的高所にある屋敷をテッピということが挙げられていたが、それから連想して、鉄飛坂の坂上は、この辺りの山(台地)の最高地点、すなわち、頂上なのではないかと思ったのである。

尾根づたいにアプローチしたが、そのまま頂上(坂上)に至るのではなく、頂上直下ににみごとな傾斜がある。この尾根道はかなりまっすぐになっており、新しい道と思われる。

本来の鉄飛坂の道は上の写真の坂上から右に進み、呑川本流緑道へと下る。せっかく坂上まで来たので鉄飛坂を往復したが、この坂の勾配と長さを改めて感じる。

尾根の方からせり上がるとともに呑川からかなりの勾配で高くなっているので、やはり、坂上は、この台地の最高地点(頂上)であろう。

坂上が四差路で、環七通りの方から緩やかに西側へと上ってきて鉄飛坂となって下る道(写真の道)と、今回たどった尾根の方(写真左側)から南側へ(写真右側)延びる道との交差点である。

四差路の東・北側(写真左側)にあるのが帝釈堂である。鉄飛坂を通り東西に延びる通り(写真の道)が平町(写真左側)と大岡山(写真右側)との境界となっている。

坂上を南側(写真右側)に進む。この道は呑川本流緑道とほぼ平行に延びている。次の西側に延びる道も本流緑道に下るみごとな坂になっている。

静かな住宅街が続く。次第に下り坂になり、やがて右に大きく曲がりながらぐんぐん下り、そのまま進むと本流緑道に至る。このあたりが台地の南端であることがよくわかる。

鉄飛坂の坂上から進んだ南側が大岡山であるが、この地名の由来がなんとなくわかったような気がした。大岡山とは鉄飛坂の頂上付近を北西端とする台地なのであろう。今回、上ってきた頂上北側は一段低くなった台地であったと思われる。そこの地名が平町というのも頷ける。

本流緑道が東急大井町線に突き当たる手前にある地下道を通り地上に出ると、緑道の続きが自転車置き場を兼ねた短い歩道となっている。そのちょっと先で呑川が開渠になっている。

呑川にはある程度の水が流れていたが、近くにあった説明板によると、呑川でも水質の悪化や水量の減少があったので、この対策として、新宿区上落合の落合水再生センター(神田川のそばにある)で高度処理した処理水を利用しているとのこと。神田川や善福寺川についても同じような説明がある。

どの川も、通常時には水不足が問題のようであり、他方、豪雨時には洪水が問題となる。以前の記事のように、やはり緑地面積と樹木の増加による雨水の保水および雨水の浸透による水源涵養が必要なのであろう。

開渠部分の手前にベンチがあり、ここで、一休みしながら、携帯地図を見ると、近くに神明坂というのがあったので、そこに行くことにする。

川に沿って歩き、次の境橋を左折すると、正面にちょっと長めの階段がある。そこを右折し、次を左折して進むと、神明坂の坂下に至る。

坂下と坂上に標柱が立っており、それには次のような説明がある。

「昔、坂のそばに、村の鎮守の神明社があったので、神明坂というようになったと伝えられている。神明社は、現在の石川神社である。」

神明坂は、さほど傾斜はなく短めであるが、むかしの面影を残している感じがする。ちょうど東京工業大学の裏手にあたる所である。

この坂は、石川悌二「江戸東京坂道辞典」、岡崎清記「今昔東京の坂」にはのっていないが、山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」にはちゃんとのっており、帰宅後見たら、この坂から続くさらに別の坂が紹介されていた。この辺りの坂は未だ来ていないので今後の課題である。

坂上に行ってから引き返すと、途中、右手に未舗装の小道が延びているのがよくわかる。ここを進むと、石川神社がある。

先ほどの坂と神社の関係がよくわかる。

神社のわきに大きな樹が二本たっており、一本は「大田区保護樹 シラカシ」のプレートがつけてある(鳥居の後ろにある)。もう一本は「イチョウ」。

神社のわきに抜け道のようなまっすぐな小道があるので、ここを通り抜けると、先ほどの階段の上にでる。右折して進むと、東工大のキャンパスに続いている。キャンパス内を通り抜けて大岡山駅へ。

携帯の歩数計による総距離は15.9km。都立大学駅前から呑川駒沢支流緑道を往復したので、そんなに歩いた感じはしなかったが、かなりの距離になった。

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呑川駒沢支流緑道

2010年04月27日 | 散策

都立大学駅前から戻るようにしてふたたび目黒通りを横断し、前回通った呑川本流緑道を西側に歩く。

この前は桜が咲いていたが、すっかり新緑になって感じが変わっている。

氷川神社へ続く道を越えると、まもなく、呑川駒沢支流緑道の接続地点が右手に見えてくる。

本流緑道からほぼ直角にまっすぐに延びている。

この支流緑道も両側に道路が通っており、その間を歩く。中の遊歩道は本流緑道よりも狭い。

通りを横切るたびに左右を見ると、坂にはなっているが、先ほどの支流緑道よりも傾斜がないような気がする。

静かな住宅街が続く。犬をつれて散歩している人と時たますれ違うが、わたしのように散策している者はいない。

ちょっと大きめの通りを横断すると、煉瓦状の敷石が並べられた歩道となって、おおむらさきつつじがちらほらと咲いている。

ここを通り抜けると、緑道は自由通りで終わる。ここを横断すると一般道になっている。

一般道を進むと、駒沢公園の入口手前に小公園があったので、ここで一休み。水分補給と一枚脱いでの体温調整。

この支流緑道のもとの駒沢川は駒沢オリンピック公園を通り抜けた先を水源とするようである。

菅原健二「川の地図辞典」の地図によれば、水源は、自由通りが目黒区と世田谷区との境界と交わる辺りのようである。先ほど歩き始めた柿の木支流の水源とかなり近い。二つの水源はほほ同じ標高であったように思える。

水源の位置はおおよそわかるが、駒沢公園の様子と、現在の地図をみる限りではもう支流の跡はないと思って、小公園から引き返す。ということで、呑川駒沢支流緑道は呑川柿の木坂支流緑道よりもかなり短い距離である。

支流緑道をふたたび通り、本流緑道で左折し、都立大学駅前を目指す。

この途中、本流緑道にもハナミズキがあった。柿の木坂支流緑道にあったのよりも赤みがかっている。

ハナミズキ(花水木)は、ミズキ科の落葉高木で、春にきれいに咲き、秋には美しく紅葉し、二度楽しめることが人気の理由なのであろう。
(続く) 

参考文献
菱山忠三郎「ポケット版 身近な樹木」(主婦の友社)

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呑川柿の木坂支流緑道

2010年04月26日 | 散策

前回、呑川本流緑道を歩いたとき、支流緑道もあることを知ったので、今回、呑川柿の木坂支流緑道と呑川駒沢支流緑道を歩いた。

午後田園都市線駒沢大学駅下車。

駅前から自由通りを南側に進み、スーパーの先を左折し、4本目を右折し少し歩くと、緑道が見えてくる。道路を横断すると、緑道の出入口である。

ここにかなり大きな石碑が建っている。出入口はこじんまりとしているので、いやでも目立つ。

「目黒区 呑川柿の木坂支流緑道」「昭和五十三年三月完成」と刻んである。

この支流緑道はすでに30年以上の歴史を持っていることがわかる。

この支流緑道は地図で見ると、大きな円弧を描くようにして目黒通りの手前まで緩やかに曲がりながら延びている。その先も都立大学駅近くの呑川本流緑道まで続いている。

呑川柿の木坂支流はその水源が目黒区東が丘一丁目辺りとのことで、この緑道は水源近くから始まっているようである。

始めのうちかなり幅狭な緑道で、水源近くでは小さな小川であったことが想像される。緑道内の無舗装の遊歩道も小道で狭く、一人分ほどの幅である。このため遊歩道を歩く姿を外から見たらなにか滑稽に見えるのではなどと思ってしまう。そういえば遊歩道内を歩いているのはわたしだけである。といっても通行人もわずかであるが。

緑道に沿って左右に一方通行の道路があるが、これは本流緑道と同じである。左右に住宅街が続いており、静かで落ち着いた雰囲気である。

白いしろおおやまつつじがきれいに咲いていたが、赤いおおむらさきつつじはまだつぼみのものも多く、あと一週間ほどで満開となりそうで、連休中はつつじで一杯であろう。

遊歩道はすこしずつ幅が広がり、だんだん慣れてきて違和感がなくなる。いつもの緑道歩きのペースになっている。

ハナミズキ(花水木)がきれいである。青い空にくっきりと映えている。

「柿の木坂あたり」からはじまる遊佐未森が作詞・作曲の「ミント」(アルバム「ECHO」所収)の曲を思い出してしまう。ハナミズキがきれいとも歌う。

この支流緑道の上流は地名が東が丘一丁目であるがまもなく柿の木坂となるから、遊佐はこの緑道の両脇のどこかに住んでいたのであろうか。

遊佐未森は、季節・花・樹木などや風・光・雲・月・空・星・水などの言葉に五感が作用して心象風景を歌い上げるが、そのような歌詞が高音の透きとおった声で歌われると、それがいっそうこころにしみこんでくる。自然志向の歌詞とそれにあった流れるようなメロディと透明感のある声質とがよく調和して独特の世界を創り出している。いずれを欠いても遊佐の世界は成り立たないように思えてくる。

ハナミズキは、別名アメリカヤマボウシで、日本における植栽は、明治45年・大正元年(1912)に当時の東京市からアメリカワシントンD.C.へ桜(ソメイヨシノ)を贈った際、大正4年(1915)にその返礼として贈られたのが始まりとのこと(Wikipedia)。一方、日本には明治中期に渡来したとの説明もある(菱山忠三郎「ポケット版 身近な樹木」)。最近は街路樹として人気らしい。以前何かで読んだことがある。

緑道が通りを横断するたびに、左右の通りを見ると、いずれも緑道に向けて下るみごとな坂となっており、川に沿って谷がよく発達したことがわかる。

桜の木もすっかり新緑となっており、さわやかな風が通り抜ける。

緑道全体が広くなり遊歩道もすこし広がっている。もとの川も流れを集めてだんだんと広くなったのであろう。

目黒通りの手前でいったん分断されるが、この通りを挟んで続き、プランタが置かれたり自転車置き場となったりして、都立大学駅近くで本流緑道に接続している。

目黒通りの信号を渡ってから、遊歩道をたどる前に左折し、柿の木坂に行ってみる。この坂は東横線のガード下あたりからまっすぐで緩やかな上りになっている。むかしは東横線の上を通る急坂であったというが、その面影はない。ガード下のちょっと先の歩道の道路側に柿の木坂の案内板があり、金属製の大きな板に坂名が刻んである。
(続く)

参考文献
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)
岡崎清記「今昔東京の坂」(日本交通公社)

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妙正寺川の坂巡り(3)

2010年04月24日 | 坂道

聖母坂の中腹の信号近くから東側の道に入ると階段があり、これを上って進み、右折すると、久七坂の坂上にでる。

そのまま下ると、左、右とかなり曲がってからまっすぐに下っている。

坂下に標柱があった。その説明は次のとおり。

「『豊多摩郡誌』には、もとは田んぼへ行き来するための道で、急な坂であったと記されている。坂名はゆかりのある村人の名にちなむものであろう。」

むかしは、妙正寺川べりの田んぼは大半が山上の農家のもので、久七坂も住家から田んぼへ下る野良道であったという(石川悌二「江戸東京坂道辞典」)。これと同じ説明が国分寺崖線のハケにある坂にもあった。台地の方に住み低地に田んぼがある土地ではどこでもこのような坂が必要であったわけである。

坂下の通りを東側に進むと、下落合辨戝天があり、さらに進み左折すると、薬王院の山門が見える。

前回は、久七坂を坂下から進み、坂上で右折してそのまま薬王院に入り石段を下った記憶がある。このアクセスもなかなかよく、そのためかしっかりと覚えている。

山門前を右折して少し歩き、氷川神社の裏手近くを左折すると、七曲坂の坂下である。

坂下に標柱が立っているが、次のように説明している。

「折れ曲がった坂であることからこの名がついた(『江戸名所図会』)。古くは、源頼朝が近在に陣を張った時、敵の軍勢を探るためにこの坂を開かせたという伝説がある(『遊歴雑記』)。」

上記の「江戸東京坂道辞典」には、落合でもっとも古い坂とある。

この坂もその名のとおり曲がりくねっているが、霞坂、西坂、久七坂、とみごとにくねくねと曲がっている坂が続いたので、もうあまり感じなくなっている。坂は曲がりくねっているのが普通かと。。。

坂を上り進むと、四差路があるが、ここを右折し、小学校と中学校との間を進むと、相馬坂の坂上にでる。

この坂はこれまでの坂と比べてかなりまっすぐに上下している。

下り方向左側はおとめ山公園で、園内の樹木のために鬱蒼としている。

坂下の標柱には次の説明がある。

「この坂に隣接する「おとめ山公園」は、江戸時代には将軍家御鷹場として一般人の立入りを禁止した御禁止山(おとめやま)であった。この一帯を明治時代末に相馬家が買い取って屋敷を建てた。この坂は新井薬師道から相馬邸に向け新たに通された坂道であるため、こう呼ばれた。」

やはり新しい坂のようであり、まっすぐであることに納得する。坂を往復して坂上からおとめ山公園に入る。

このおとめ山公園も前回訪れており、覚えていたので、右手下側の湧水地へと直行する。

水がしっかりと湧き出ているようで、ちょっと下流側に行くと水が流れていた。今回の坂巡りで始めて湧水にであった。ここは、湧水自然水のガイド本にも紹介されている。

次に、道路を挟んだとなりの公園に行き、中の弁天池を一周してから、東側から出て坂を下って高田馬場駅へ。

今回の街歩きは、前半が妙正寺川散策で、江古田公園手前でちょっとした冒険気分を味わい、後半が妙正寺川の坂巡りで、前回訪れたときの記憶の脆さや確かさがわかり、内面的にも不思議な感覚を感じながらの散策であった。

記事を書いている途中で坂の二つの文献の説明と標柱の位置との違いがわかり、この点がすっきりせず、課題が残った。

川散策と坂巡りの両方であったので総歩行距離はかなり長くなった。携帯の歩数計(家を出てから帰るまでのカウント)で22.3km。前々回の池田山~魚籃坂では12.5km、前回の呑川緑道では13.1km。 この歩数計の精度は不明だが、相対比較のため記した。

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妙正寺川の坂巡り(2)

2010年04月23日 | 坂道

六天坂を進んだ高台から階段を下り新目白通りの歩道を進むと歩道橋がある。これを渡り、歩道を戻るようにして少し歩くと、歩道のわきに市郎兵衛坂の標柱が立っている。

標柱には次のような説明がある。

「『豊多摩郡誌』によれば「市郎兵衛坂 中井道、字不動谷と前谷戸との間にあり」と書かれている。坂名の由来についてははっきりしない。この坂にゆかりのある人名をとったものと思われる。」

標柱を左に見て進むが、緩やかな上りである。曲がっているが、新目白通りにほぼ沿って延びている。道なりに歩いていくと、少し下りになって、ふたたび新目白通りの交差点近くの歩道にでる。この歩道手前にも標柱が立っている。

ところで、石川悌二「江戸東京坂道辞典」、岡崎清記「今昔東京の坂」は、いずれも市郎兵衛坂を一の坂(前回の記事参照)の位置とし、市郎兵衛坂が後の一の坂であるとしている。標柱のある坂には言及していない。この違いの理由はよくわからない。

その昔、標柱のある坂と一の坂とが続いた道であったのかもしれないが、かなり離れており、想像の域をでない。豊多摩郡誌の「中井道、字不動谷と前谷戸」の位置が問題のような気がするが。

さらに、上記の二文献は、前回の記事の六天坂と見晴坂を標柱の位置と逆に説明している。すなわち、石川は、見晴坂を「上落合と中落合の境から、中落合一丁目十二と十三番の間を北に上る坂で、六天坂の西に並んでいる。」とし、岡崎も「見晴坂(中落合1-11,1-14の間) 六天坂の西に平行して北西に上る。」としている。

標柱が指し示す見晴坂は六天坂の「東」であるのに対し、二文献ともに見晴坂を六天坂の「西」とし、地図にも二つの坂が入れ替わって表示されている。標柱が正しいのか、それとも二文献が正しいのか不明である。なお、山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」は六天坂と見晴坂を標柱と同じ位置にしている。

はなしをもとに戻す。

市郎兵衛坂の中間付近に下り坂があったので、これを下り、さらに坂を上って右折して進むと下り坂になり、霞坂の中腹にでる。

標柱の説明によれば、明治時代末に開かれた坂で、坂下は一面の水田だったので、春がすみの立つ、のどかな田園風景が美しかったらしい。現在からは想像できないが。

かなり傾斜のある坂で曲がっている。

中腹にある標柱を左に見て上る坂が霞坂である。(始めに下りてきた坂を霞坂と勘違いしたようである。)
霞坂を上って進み、右折してしばらくすると、西坂の坂上に至る。

この坂上の公園で一休みする。子供たちが元気に遊んでいる。

この坂もかなり曲がりくねりながら新目白通りの近くへと下っている。新目白通りの南側すぐに妙正寺川が流れている。

坂下にある標柱によれば、「『豊多摩郡誌』に「西坂、新宿道、字本村と字不動谷との間にあり」とある。坂名の由来は、この坂が字本村の西に位置するからだという。」とのことで、坂名は至極簡単な理由からついたようである。

ここにも字不動谷の地名がでてきたが、どの辺を指すのだろうか。谷であるから低地と思われるが。

坂下を進み新目白通りの歩道に出てその先を左折すると、聖母坂の上りである。まっすぐに上っており、坂上で目白通りにつながっている。坂名は坂上の聖母病院からついたとのこと。
前回、この坂には来なかったことを思い出す。
(続く)

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妙正寺川の坂巡り(1)

2010年04月22日 | 坂道

四村橋から進むと川沿いの道が遊歩道になっている。新しくなった歩道が多いようである。

やがて葛橋につく。ここから先、川沿いに西武線の下を通る新しい歩道ができていた。線路直下がもっとも低いV字状の坂となった歩道である。川を挟んで落合公園わきのところに続いている。地図を見るとこの歩道が中野区と新宿区の境界になっている。

ちょっと下流の水車橋まで歩いてから、妙正寺川の坂方面に行くことにし、先ほどの歩道に戻り、葛橋を渡る。向かいの坂を上るが、御霊神社に行く道がなく、結局、目白学園の方に向かい大回りして神社に着く。

上流からここまで妙正寺川から上る目立った坂はなさそうであったが、新宿区中井に入ったとたん、川近くから北側に上る板がたくさんある。

神社を見て左側に下る坂が八の坂である。ここから東側に向けて順に七の坂、六の坂、五の坂、四の坂、三の坂、二の坂、一の坂がある。八の坂~五の坂、三の坂は、妙正寺川近くの坂下の通りから北に向けてまっすぐに上っている。

関東大震災後、北側の台地は目白文化村として開発され、文化住宅が多く建ち、東から西に向けて順に一から八の番号をつけて坂名としたとのことである(山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」)。

この辺りには3年半ほど前に訪れている。今回、林芙美子記念館の案内がある坂下の通りから四の坂に向かったとき、左折して正面に坂を見ると、そこが階段であることに驚いた。記念館のことは覚えているが、この階段はまったく記憶にないのだ。記憶の脆さを感じる。

当時はカメラを持参していなかったので、確認のため、岡崎清記「今昔東京の坂」を見ると、ちゃんと石段として紹介されていた。

階段の手前、左側に林芙美子記念館の入口がある。

この階段は上の踊り場から右側に曲がっており、階段の先も上り坂となっている。この坂を上ってから右折し、三の坂に向かい、ここを下り、坂下を東側に進む。

二の坂、一の坂は山手通りの近くだが、一の坂には行けなかった。たぶん前回もここには行っていないような気がする。

一の坂はいったん山手通りに沿って北側に歩きすぐに左手に上る坂のようである。二の坂はかなり曲がっている。

坂下の通りを山手通りのガード下をくぐってさらに東側に進む。

この辺りは、先ほどまでとは違って商店街となっている。

妙正寺川はこの商店街の通りの南側を流れている。

しばらく歩くと、左側に見晴坂の標柱があったので、左折し、ここを上る。

始めはそうでもないが、坂上近く(写真のちょうど人が歩いている辺り)でかなり急になっている。毎日の上下はかなりきつそうである。

見晴坂の坂名について標柱に次のように説明されている。

「この坂上からの眺望は素晴しく、特に富士山の眺めは見事であったという。坂名はその風景に由来するものであろう。なお、坂下の水田地帯は古来より落合蛍の名所として知られた(『江戸名所図会』)。」

上記の山野坂ガイド本には見晴坂の西側に六天坂が示されていたので、坂下の道を戻りちょっと歩くと標柱が立っていた。先ほど歩いたとき見落としたらしい。

六天坂を上り、坂上から南側を見ると、新宿の高層ビル群が見える。

標柱の説明には「昔、この坂上に第六天の祠が建っていたため、こう呼ばれるようになったという。」とある。

坂の中腹に、「第六天」と記された小さな祠があったが、これは後で建てられたものであろうか。

この六天坂と見晴坂もほとんど記憶に残っていない。特に二つの坂をどのように結んで歩いたか覚えていない。

坂上を進むと、やがて、この台地が果てるところに至る。すなわち、近くに山手通りと新目白通りとの交差点があり、左手の下側に山手通りが通っており、そこに下りる階段がある。右に進むと、新目白通りを望む高台に至る。

この付近は、山手通りと新目白通りが切り通しによってつくられ、そのため、台地が削り取られて崖のようになり、台地の果てのようになったのではないだろうか。そんな気がするが。

この新目白通りの歩道に下る階段まで来たとき、記憶が突然よみがえった。前回も確かにこの階段を下っている。記憶の確かさを感じて少々安心する。

正確にいうと、六天坂を進み左手に山手通りを見渡すところで記憶がよみがえる前兆があった。ということは、前回も六天坂を上り方向に進んだのであろうか(確かではない)。

ここまで記憶の脆さと確かさを交互に感じた坂巡りであった。
(続く)

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江古田公園~妙正寺川~哲学堂公園

2010年04月20日 | 散策

妙正寺川と関連して車谷長吉を思い出すたびに文学の世界も捨てたものでもないと思う。わたしは数多ある小説を網羅的に読むようなことはしない(できない)が、それでも時々未知の作家の小説を手に取ることがある。第2の車谷長吉(わたしにとって)かもしれないという期待または幻想があるからである。そのような期待・幻想がわたしを書店や図書館に誘って止まない。

ふたたび川沿いに下流に向け歩くが、いつのまにか水量がかなり増えていることに気がつく。

妙正寺川は、地図でたどるとわかるようにくねくねしているが、特に、平和の森公園のあたりから哲学堂公園にかけてはかなり曲がりくねっている。

公園を過ぎたあたりでは、沼袋駅の近くから曲がり始めちょうど半円分ほどきれいにカーブしている。その途中、新井小学校のところで西武新宿線で道が分断されている。小学校のわきを通り中野通りの踏切を渡って左折しもとの川沿いの道に戻る。

川は先ほどのカーブの先からほぼまっすぐに北側に延びている。そして、北東に曲がり次に南東に曲がるようにして二段階にかなり大きく曲がって哲学堂公園へと延びている。

この北から南東へと大きく曲がったところが最北端で、北側に突き出て岬のようになっている。

北東へ曲がって岬の突端に近づくところに階段があるが、おもしろいことに、左右に並んで二つある。左が幅広で、右が狭く右側へとカーブしている。間にはちゃんとフェンスがあり、なにか互いに意地を張っているようにも思えてくるが、時期的にずれてつくられたのであろうか。上部で同じ道につながっている。

この二つ並び階段は松本泰生「東京の階段」には紹介されていないようである。

左手の階段を上って左側に進むと、そこはこれまでとはちょっと雰囲気の違った空間が形成されていた。

低木であるが木の生い茂った中に入ると、一瞬、道がもう続いていないかもしれないと思わせるほど先の見通しが悪かった。

しかし、こういったところにはますます興味がでてくる。かまわず進むと、裏道のようになっていて、細い道が続いていた。

水たまりがあったのでフェンスにはり付くようにして進む。 ちょうどこのあたりが岬の突端である。かなり下の方で川が流れている。

右側はコンクリートブロックの壁がせまり、左側は川の上のフェンスで、もっとも狭いところは大人一人が通ることのできる程度の幅である。

この小道を進んだ上側(壁の上側)にも散歩道らしき小道があり、そこに続く階段がある。ここは一段低いところにある小道である。

このまま進むと、しだいに道は広くなって江古田公園へと続いている。

公園で北側(川の方)を見ると、新青梅街道が通っており、川には別の大きな川が流れ込んでいる。江古田川である。しかし、この川の水量もかなり少ない。川底中央に刻まれた細い溝の中しか流れていない。

こういった岬のようなところには、中沢新一「アースダイバー」によれば、神社があるはずと思って地図を見ると、北野神社というのがあったが、今回は行けなかった。

江古田公園に向かう途中で思いもかけない野趣にとんだ散歩道(これまでたどった道に比べれば)に出逢えてよかった。これが散歩の醍醐味であろう。大げさだが、荷風のようにいうと、「偶然のよろこびは期待した喜びにまさることは、わたしばかりではなく誰も皆そうであろう。」(「元八まん」)

公園を出てから少し歩くと中野通りに至り、そこの信号を渡ると、左手に哲学堂公園の入口がある。ここは地図探索で知ってはいたが、訪れたのは初めてである。

哲学堂公園は、東洋大学の創設者である哲学者の井上円了が、ソクラテス、カント、孔子、釈迦を祀った「四聖堂」を明治37年(1904)に建設したのがはじまりで、この四聖堂は当初哲学堂とも呼ばれていたが、それがそのまま公園の名になったとのこと(Wikipedia)。

公園内には色んな道がありそうであったので、適当に上ったり下りたりしていたら「經驗坂」という階段にであった。

経験坂とはなかなか意味深である。坂は上と下を結び、一方から高さの違う他方に行くとき通る必要があるが、その高低差を経ることが経験につながるともいえるからである。

この坂は、さすがに、石川悌二「江戸東京坂道辞典」、岡崎清記「今昔東京の坂」、山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」のいずれにも紹介されていない。しかし、坂と命名されているから敬意を表してここに記した次第である。

川沿いの小道に出て進むと、池のあるところにでたが、この上流側に湧水らしきところがあった。その先には大きな池があって、散歩途中の人たちがベンチに座って憩っていた。

公園を出て交差点を渡って、四村橋から川沿いの道を進む。
(続く)

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鷺宮~妙正寺川~平和の森公園

2010年04月19日 | 散策

午後阿佐ヶ谷駅北口からバスで鷺宮駅前下車。

妙正寺川は、以前、水源の妙正寺池から鷺宮駅前まで歩いているので、今回は駅前の八幡橋から下流に向けて歩くことにする。とりあえずの目的地は中野区のはずれ(新宿区の落合公園)である。
 
道路が両側に川沿いに延びている。歩いてしばらくすると、川のフェンスに沿って植え込みが続いているので安心する。

鷺宮駅の上流側では確か緑がまったくないところが続いており、それで、前回はここで川沿い歩きを止めた記憶があったからである。緑がないと殺風景となり、歩いていてもなんとなく楽しくない。

川を見ると水量がかなり少ない。やはり水源の妙正寺池の湧水量が減っているからであろうか。

歩いていくと、植え込みの緑が途切れているところも多い。こうしたところでは舗装の隙間から伸びている雑草でもほっとする。短いが遊歩道となっているところもあり、変化に富むコースではある。

途中、第四中学の手前の太陽橋で途切れているので、左に進みすぐに右折し、中学のわきを通り、川沿いの道路に戻る。ちょっと歩くと、環七通りでまた途切れている。手前の公園でちょっと一休み。暑くなってきたので一枚脱いで体温調整。

歩道橋で通りを越え、住宅地を通って川にでる。洪水対策の工事のため川が見えないところが続いている。

しばらくすると、右手にこんもりとした森が見えてくる。中野区 平和の森公園である。

石段を上り中に入ると、池があって鴨も泳いでいる。さらに奥の一段高くなったところに大きな広場がある。広々としている。

中野刑務所があったところで、現在、この公園と下水処理場になっている。隣接の法務省研修所内に煉瓦づくりの建造物が残っているが、刑務所の正門らしい。

ここが車谷長吉「刑務所の裏」(後の「密告」)の舞台である。

『私のアパートのある位置は、中野刑務所(旧豊多摩刑務所)北側の裏塀の下に妙正寺川が流れていて、その川と西武線の線路とに挟まれた貧民街だった。敗戦直後に建築されたと思われる老朽木造アパートが、細い路地の両側に犇(ひしめ)いていた。』(
車谷長吉「飆風」文春文庫)

これは昭和四十年代の話であると思う。もう40年も前のことである。
 
わたしは車谷長吉を二三年前の一時期かなり熱心に読んだ。きっかけは「
赤目四十八瀧心中未遂」(文春文庫)であった。以前からなんとなく気にかかっていた作家であったが、古本屋の百円コーナーで見つけたので読んでみたのである。おもしろかった。読み始めるとほぼ中断せず一気に読み終わった。久々におもしろい小説を読んだ気がした。その後、文庫本をこんどは新刊で買い込みほとんど読んだ。

公園を出てから沼袋駅方面には行かず川沿いにさらに進む。
(続く)

参考文献
昭和三十年代東京散歩(人文社)

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関東大震災と荷風(2)

2010年04月17日 | 荷風

大正12年(1923)9月1日地震が一応収まった後の荷風は「断腸亭日乗」によると次の如くである。

昼飯をしようと表通りの山形ホテルに行くと、食堂の壁が落ちたため食卓を道路に移しており、2,3人の客が座っていた。食後家に帰っても揺れが止まないので内に入ることができない。庭に座ってびくびくするばかりである。ものすごく曇っていた空は夕方になってしだいに晴れ、半輪の月がでてきた。ホテルで夕食をし、愛宕山に登り、市中の火災の様子を観た。10時過ぎに江戸見坂を上って家に帰ろうとしたら赤坂溜池の火災はすでに葵橋に達していた。河原崎長十郎の一家が来て私の家の外に寝た。葵橋の火は霊南阪を上り、大村伯爵家のとなりでようやく消えた。私の家からわずかに一町(約109m)のところであった。

関東地震の特徴は余震の多さとその大きさであるが、前回の記事武村雅之「関東大震災」の図20によると、本震直後の大きな二回の余震を除いても、3,4時間の内にM6以上の余震が9回も発生している(12時48分の六大余震A3(東京湾M=7.1)も含む)。荷風が山形ホテルでの昼食後家に帰っても中に入れなかったこともうなずける。

赤坂溜池の火災が葵橋から霊南阪を上り大村家のとなりでようやく消え、「吾廬を去ること僅に一町ほどなり」としていることに荷風安堵の程がしのばれる。

市街の火災の様子を観るため愛宕山に登っているが、荷風が持つ観察欲求がよくあらわれている。俗にいえば野次馬根性であるが、作家なればこそのものであろう。

次の日の「日乗」は次のとおり。
大正12年9月2日「昨夜は長十郎と庭上に月を眺めて暁の来るを待ちたり。長十郎は老母を扶け赤阪一木なる権十郎の家に行きぬ。予は一睡の後氷川を過ぎ権十郎を訪ひ、夕餉の馳走になり、九時頃家に帰り樹下に露宿す。地震ふこと幾回なるを知らず。」

知人のところで夕飯をご馳走になって9時頃家に帰ったが、この日も中に入れず外に寝たようである。地震ふこと幾回なるを知らず、とあるように地震から二日目も余震が続いた。

前回の記事のように、9月2日には六大余震にはいる余震(A4,A5)が11時46分、18時27分に発生し、さらにM6以上の余震が4回起きている。

荷風は地震に敏感な質であったらしく、「日乗」に地震があったことがよくでてくる。「新版 断腸亭日乗 第七巻」(岩波書店) に事項索引があるが、「地震」の項にかなり多くの日がのっている。

地震の記録にこまめな荷風が「幾回なるを知らず」とは、もういい加減にしてほしい、うんざりといった心情がかいま見える。

六大余震の最後(A6)は大正13年(1924)1月15日05時50分に発生しているが、その日の「日乗」は次のとおりである。

大正13年1月15日「黎明強震。架上の物墜つ。門外人叫び犬吠ゆ。余臥床より起き衣服を抱えて階下なるお栄の寝室に徃き、洋燈手燭の用意をなす中、夜はほのぼのと明けそめたり。此日軽震数回あり。」

上記の武村の著書に1923年関東地震による旧東京市15区の震度分布図が折り込まれている。これは、著者が各地の深度分布を細かく見るために町丁目ごとに木造住家の全潰率を評価し、震度分布を求めたものである。

震度と木造住家全潰率との関係は次のとおり。

震度    全潰率
5弱以下    0.1%未満
5強           0.1%以上1%未満
6弱           1%以上10%未満
6強           10%以上30%未満
7               30%以上

その麻布区辺りを部分的に拡大した図が下の図である。

この図によると、麻布区市兵衛町一丁目6番地の偏奇館のあるあたり(中央からやや左側の大きい「5-」があるところで、「5-」の右上に「兵」の文字がかすかに見える)は、5-で、震度5弱である。

偏奇館の辺りは洪積台地のためか揺れは小さかった。溜池や古川の近くには震度6強や7が見えるが、軟弱地盤のためとされている。

震度5弱は木造住家全潰率0.1%未満であるので、偏奇館の周囲は火災も上記のように途中で消え、さほどの被害は起きなかったようである。

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関東大震災と荷風(1)

2010年04月16日 | 荷風

大正12年(1923)9月1日関東地方は大地震が発生して大きな災害に見舞われた。いわゆる関東大震災である。

永井荷風は当日の「断腸亭日乗」に次のように記している。

大正12年九月朔「コツ爽雨歇みしが風猶烈し。空折々掻曇りて細雨烟の来るが如し。日将に午ならむとする時天地忽鳴動す。予書架の下に座し嚶鳴館遺草を読みゐたりしが、架上の書帙頭上に落来たるに驚き、立つて窗を開く。門外塵烟濛々殆咫尺を辨せず。児女鷄犬の声頻なり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるが為なり。予も亦徐に逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。書巻を手にせしまま表の戸を排いて庭に出でたり。数分間にしてまた震動す。身体の動揺さながら舩上に立つが如し。門に倚りておそるおそる吾家を顧るに、屋瓦少しく滑りしのみにて窗の扉も落ちず。稍安堵の思をなす。昼餉をなさむとて表通なる山形ホテルに至るに、食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移し二三の外客椅子に坐したり。食後家に帰りしが震動歇まざるを以て内に入ること能はず。庭上に坐して唯戦々兢々たるのみ。物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ、半輪の月出でたり。ホテルにて夕餉をなし、愛宕山に登り市中の火を観望す。十時過江戸見阪を上り家に帰らむとするに、赤阪溜池の火は既に葵橋に及べり。河原崎長十郎一家来りて予の家に露宿す。葵橋の火は霊南阪を上り、大村伯爵家の鄰地にて熄む。吾廬を去ること僅に一町ほどなり。」

「日乗」による地震の記録は次の如くである。
ちょうど昼になろうとしたとき大地が鳴動した。本棚の下に座り嚶鳴館遺草を読んでいたが、本棚から本が頭上に落ち、驚いて窓を開くと、つちぼこりがいっぱいでなにも見えない。女子・鷄・犬の声がひっきりなしに聞こえる。つちぼこりはよその家の瓦が落ちたためである。逃げる準備をする。この時大地が再び揺れた。書巻を手にしたまま表の戸を開いて庭に出る。数分間にしてまた揺れた。船に立っているように揺れる。おそるおそるわが家をかえり見ると、屋根の瓦が少し滑っただけで窓の扉も落ちておらず、ひとまず安心する。

「日乗」によれば、短い時間内に3回大きな地震が起きたことがわかる。
①日将に午ならむとする時天地忽鳴動す。
②時に大地再び震動す。
③数分間にしてまた震動す。

関東大震災を引き起こした関東地震は、実際のところどうだったのであろうか。関東大震災の研究が進んでいるようであり、次の本があったので読んでみた。

 
武村雅之「関東大震災」(鹿島出版会) 
 副題が「大東京圏の揺れを知る」である。

筆者は、全国各地の地震計の記録や様々な人々の体験談などに基づいて関東地震の分析を行っている。

それによると、東京での最初の揺れ(本震)は11時58分44秒つまり59分頃から始まり30~40秒続いた。二回目の揺れは12時1分頃、三回目の揺れは12時3分頃であった。

荷風の「日乗」にある揺れ①~③は、本震、二回目、三回目の揺れに対応しており、本書の分析とあっている。二回目、三回目の揺れは余震であるという。

東京の地震計は本震直後に振り切れており、5分間の揺れの記録がなかったが、著者が調べたところ、岐阜測候所の記録が本震直後の二つの余震を完全に記録していた。これによると、時間差で、二回目は本震の3分後、三回目は本震の4分半後であった。

分析では二回目と三回目との時間間隔は1分半であり、荷風が三回目の揺れを「数分間にしてまた震動す」としているところが興味深い。本震・二回目の揺れが少し収まったころに三回目がきたため本震と二回目との間隔(3分)よりも長く感じたのであろうか。

関東地震のマグニュチュード(M)は、従来、7.9とされていたが、著者による再評価の結果、8.1±0.2(7.9~8.3)であり、従来説は低めであった。

上記のように、本震直後の二回目、三回目の揺れは余震であるが、これらを含めて関東地震には六大余震が記録されている。

下の図は本震の震源断層で大きく滑った部分(斜線で示す)と六大余震の震源位置の関係を示す図(同書の図18)である。

余震A1~A6の発生時刻、震源、マグニュチュード(M)は次のとおり(同書83頁表9)。
A1:23年9月1日12時01分東京湾北部M=7.2
A2:23年9月1日12時03分山梨県東部M=7.3
A3:23年9月1日12時48分東京湾M=7.1
A4:23年9月2日11時46分千葉県勝浦沖M=7.6
A5:23年9月2日18時27分千葉県九十九里沖M=7.1
A6:24年1月15日05時50分丹沢山塊M=7.3

同書によると、▲は本震の震央位置で、小田原の北、松田付近に対応し、ここの地下約25kmで断層すべりが始まり(11時58分32秒)、3~5秒後に小田原付近で第1の大きなすべりに拡大し、その後10~15秒後に三浦半島付近で第2の大きなすべりを発生させた。

六大余震A1~A6の震源位置は、図のように本震で大きくすべった領域を取り囲むように分布しており、著者は、本震の断層面上ですべり残ったところが余震としてすべったのであろう、としている。

関東地震は、最近100年間に太平洋プレートとフィリピン海プレートの潜り込みに伴い日本列島を載せた陸側のプレートとの境界で発生したM8クラスの地震の中では、断層面の広さやすべりの大きさなど、決して最大規模のものではなく、むしろやや小さめの地震であるが、M7クラスの余震が六回も起きており、余震活動は超一級であるという。このため、本震は一級、余震は超一級とされている。
(続く)

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呑川本流緑道と坂道

2010年04月14日 | 散策

目黒区にはいると呑川緑道から上る坂が目立つようになる。

途中、深沢橋のところで右折すると、深沢坂の方に行けたようであるが、後で気がつき、今回は行けなかった。

宮前小学校わきに太鼓坂がある。

緑道から目黒通りへと上る坂であり、なかなか急な坂である。

小学校の壁に貼りつけてある説明板によれば、昔、この坂の斜面が太鼓のような形をしていたので、または、急坂のため太鼓を転がすように人が転げ落ちたので、太鼓坂と呼ばれるようになったとのこと。

説明板の地図には近くの他の坂も示されている。化坂、しどめ坂、氷川坂、谷畑坂、むつみ坂。

関東大震災ころまでこの辺りは閑静な村落で、呑川では鯉、鮒、鰻などがとれ、水車が回り、両岸は水田、その上に畑、それよりも上は竹藪や杉の山で、夜には狐が鳴き、寂しいところであったという。
  
太鼓坂の坂下から進み、次の右手に見える坂がしどめ坂である。

さらに進むと、右手に氷川坂が見え、左側に新しい標柱が立っている。

それによると、坂名は左に進んだところにある氷川神社に由来し、この坂を進み神社前を右折し商店街を通る道は二子道とよばれた古道であるとのこと。

2年前の冬、坂ガイド本にしたがって東横線都立大学駅の周囲の坂巡りにきたことを思い出した。

目黒通りを環七通りに向けて上る柿の木坂から始め、氷川坂はお終いの方で、最後は天神坂を下った。かなり長いコースだった覚えがある。途中に竹林のすずめのお宿緑地公園というのもあった。

目黒通りを横断し、都立大学駅近くになると、緑道は自転車置き場を兼ねているようである。駅前で一休み。

緑道は駅前付近から東から南東に向きを変え、次第に南向きになる。

緑道の真ん中に植栽があり左右に歩道が続いている。

途中、左折すると鉄飛坂の上りとなる。反対に右折すると寺郷坂の上りである。

鉄飛坂の坂下に行ってみたが、かなり長い坂である。(下がそのときに撮った写真である。)

2年前に鉄飛坂にきたとき、呑川緑道に向けてかなり急に下っておりかつ長いことに驚いた記憶がある。そのときのコースで最大の坂であったと思う。

頂上付近に帝釈堂があり、そのわきに庚申塔があった。旧道であったと思われる。

この坂はまっすぐに上下せずに、わずかながらうねっているところが好ましく、古い坂であることを感じさせた。

坂名の由来は、(1)徳川時代初期の鉱山採掘関係のポルトガル人テッペヨースに関連する、(2)「後三年の役」に従軍した碑文谷の豪族が捕虜「鉄の飛」を連れて帰ってこの辺に住まわせた、(3)鎌倉時代の関東武士「鉄飛十郎兵衛」、(4)蒙古襲来のときの金沢殿着到帖にある「鉄飛五郎」、などの諸説があるという。さらに、(5)「テッピ」は「山頂、てっぺん」の方言、(6)比較的高所にある屋敷をテッピというとのこと。

なんとなく、最後の二つのいずれかであるような気がするが、どうであろうか。

緑道歩きは、当然のことながら、谷底を歩き続けることになるが、坂巡りは台地と谷とを上下する。緑道歩きと坂巡りとは谷底の一地点で交錯し、同じ所を通ってもかなり印象が違う。

呑川緑道は鉄飛坂と寺郷坂との間の谷底を通り抜けており、以前の坂巡りでここを横切ったとき、このような緑道とはつゆ知らぬことであった。

この辺りの坂は呑川に向かって下っており、谷底はすべて呑川と考えることができそうである。

ちょっと風がでてきて、桜の花びらが舞う中をさらに進むと、やがて、両脇の道路がなくなり、広い遊歩道となって緑が丘駅近くに至る。ここで遊歩道は東急大井町線で分断されている。

近くに緑が丘駅があるが、都立大学駅まで戻る。

地図を見ると、呑川は大井町線を越えたちょっと先で開渠となり、南側へと流れている。

呑川は、今回歩いた緑道の上流が深沢川で、目黒区に入って呑川本流となり、支流が三つある。上流から駒沢支流、柿の木坂支流、九品仏川。前の二つは、呑川駒沢支流緑道、呑川柿の木坂支流緑道となっている。これらの緑道も訪れてみたい。

九品仏川は緑が丘駅付近で呑川に注いでいるとのことであるが、地図では確認できない。この川は奥沢の浄真寺付近の湧水を水源とし、浄真寺付近から自由が丘駅近くに延びる緑道が地図に見える。九品仏川が暗渠になった所と思われる。

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)

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桜新町~呑川本流緑道

2010年04月12日 | 散策

午後田園都市線桜新町駅下車

駅前に出ると、商店街のさくらまつりでかなりの人出である。水前寺清子がステージに立っていたので人だまりができてなかなか思うように進めないが、何とかサザエさん通りの入口にたどりつく。

この通りを南側に歩くが、商店街となっていてここもにぎやかである。サザエさんの絵があちこちの金属ボックスなどに描かれている。

商店街をしばらく歩くとY字路になっていて、右側に進むと長谷川町子美術館がある。長谷川はこの辺に住んでいたことから1985年に開館したものらしい。これらのことからこの通りをサザエさん通りとしたとのこと。

今回はそちらには行かず、左側に進む。246号線の交差点を渡り、左に進むと、まもなく右手に呑川が見えてくる。

南にまっすぐに延びており、両岸に桜の木が植えられて、木によってはいまが満開のもある。川の両側に道路が続いている。

ここが呑川本流である。呑川源流は下流の世田谷区深沢五丁目の三島公園辺りを水源とする深沢川であると説明されているが、ここからその水源までの関係がよくわからない。昭和三十年代東京散歩(人文社)の昭和31年の地図では現在とほぼ同じ位置から呑川が流れ始めている。

呑川の始めの位置から246号線を挟んだ向こう側を見ると、桜が咲いており、ここからさらに上流がありそうであった。

呑川に沿って歩き始めるが、残念なことに川に水がまったく流れていない。水のない川はやはり不自然である。

しかし、ちょっと下流にある西山橋の上流側で水がたまっていてわずかに流れていた。湧水かもしれない。

ここから下流側は水の流れはほとんどないものの、一応水のある状態となっている。

桜の花びらが水面いっぱいに浮かんでいる。

しばらく歩き、駒沢通りにかかる呑川橋に至る。この呑川橋から暗渠になる。

ここから下流は暗渠になった川が緑道になって遊歩道が続いている。

この暗渠化の工事は昭和45年(1970)から始まり同53年(1978)頃まで続き、緑道や道路に改修されたとのことである。

呑川橋の上流側で水が噴水となって流れ出している。水不足のためどこからか水を導入しているのであろう。鴨が泳いでいる。

水が豊になると、水鳥も集まってきてよい水辺の風景となる。

ここから始まる緑道は、両側または片側に桜の木があり、内側に低木や花などが植えられており、外側両方に道路が続いている。

このスタイルがずっと続く。桃園川緑道などと違うところであり、車は通るが広い感じがする。

この緑道は散歩する人、買い物帰りの人、お出かけふうの人などがよく通り、日常生活に頻繁に利用されているようである。緑道のある街はゆとりができて、住みやすい街となっていると思う。

道路と交差する各所に呑川にかかっていた橋の名を記した石柱が立っている。

白いヒメクチナシや黄色い山吹の花が咲いている。

紫色の花も咲いていたが、説明板によると、ビンカ ミノールである。

呑川本流は南向きから次第に南東方向に流れが変わり、目黒区に変わる前後から東向きになる。

目黒区では緑道が両脇の道よりも高くなっているが、桜の木はずっと続いている。
(続く)

参考文献
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)

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薬王寺~魚籃坂

2010年04月09日 | 荷風

桂坂の標柱を見てから、坂上に向かわずに、右折して高輪二丁目方面に行く。

坂上を右折すると二本榎の通りであるが、直進すると下り坂になり桜田通りを越えて明治学院大学の前を過ぎると桑原坂というよい坂がある。ここを上り八芳園の前を通り坂上を左折すると、きょうの出発点の白金台駅に戻るが、まだ時間があったので、そうせずに、二本榎の北側を目指すことにする。

高輪台小学校の横を進むと、静かな住宅が続いている。この辺りは高輪の台地から少し下の東面に位置すると思われる。北側に進むと行き止まりになったので引き返し、二本榎の通りに面する承教寺の山門にでる。

山門前の「二本榎の碑」の傍らに由来を書いた説明板が立っている。

それによると、江戸時代、東海道の品川宿の手前の丘陵地帯を「高縄手」とよんでおり、そこの寺にあった大木の二本の榎が旅人のよき目標となっていたが、そのうちに、この榎を「二本榎」とよぶようになり、それがそのまま地名になったとのこと。大木の榎は残っていない。

二本榎の通りを北側に進む。途中、左側に桜田通りに下る天神坂と葭見坂があるが、今回、これらの坂には行かない。いずれもよい坂である。

その先にある都営高輪団地の辺りは、肥後熊本藩主の細川家の屋敷があったところで、この中に赤穂浪士の大石内蔵助ら17名が切腹した地が史跡(庭)となって残っている。この団地を少し進み右折すると泉岳寺への近道がある。

やがて伊皿子の交差点に至る。右に第一京浜へと下るのが伊皿子坂で、左に下るのが魚籃坂である。直進すると聖坂の下りとなる。

交差点を渡り、左折し、スーパーの前を通り過ぎて次を右折し少し歩くと、三田 薬王寺である。

「大沼竹渓の墳墓は芝区三田台裏町なる法華宗妙荘山薬王寺のえい域にある。今茲(ことし)甲子の歳八月のある日、わたしは魚籃坂を登り、電車の伊皿子停留場から左へ折れる静な裏通に薬王寺をたずねた。寺の敷地は門よりも低くなっていて、石磴を下ること五、六段。掃除のよく行きとどいている門内には百日紅の花のなお咲き残っているのを見た。墓地は本堂の後から更に石磴を下ってまた一段低いところにある。この三段になった土地の高低は境内におのずからなる風趣をつくっている。」

永井荷風「下谷叢話」の第二の冒頭である。大沼竹渓は大沼沈山の父である(白髭神社と荷風の記事参照)。

薬王寺に入ると、石段を下った低いところに本堂(写真右に屋根が見える)があり、その奥の墓地もさらに少し低くなっている。荷風のときとさして変わっていないようである。

この寺は「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)の高輪辺絵図に見え、魚籃坂から三軒目である。goo明治地図にも見える。

荷風が薬王寺をたずねたのは大正12年(1923)8月24日のことで、断腸亭日乗に次の記述がある。

「午後三田聖阪上薬王寺に赴き、沈山の父大沼竹渓及大沼氏累代の墓を展す。墓誌を写しゐる中驟雨濺来る。本堂に入り住職に面会し、空の霽るゝを待つ。家に帰れば既に黄昏なり。燈前竹渓詩鈔を読む。」

荷風は、この年、森鴎外の伊沢蘭軒の影響からか、外祖父鷲津毅堂のことを書こうとした。

7月27日「小庭の樹木年々繁茂し、今年は書窗炎天の日中も猶暗きを覚るほどになりぬ。毅堂鷲津先生の事蹟を考證せんと欲す。」

八月に入ると、そのための準備が始まっている。

8月19日「曇りて涼し。午後谷中瑞輪寺に赴き、枕山の墓を展す。天龍寺とは墓地裏合せなれば、毅堂先生の室佐藤氏の墓を掃ひ、更に天王寺墓地に至り鷲津先生及外祖母の墓を拝し、日暮家に帰る。」

8月22日「午後驟雨雷鳴。夕餉の後過日谷中瑞輪寺にて聞合せたる大沼氏の遺族を下六番町に訪ふ。」

この二日後に上記のように薬王寺を訪ねている。

8月26日「午前下谷区役所に赴き大沼氏の戸籍を閲覧す。午後堀口大学氏来訪。晩間大久保村母上来り訪はる。」

8月29日「午前下谷竹町なる鷲津伯父を訪ひ追懐の談を聴く。毅堂枕山二先生事蹟考證の資料畧取揃ひ得たり。」

8月31日「終日鷲津先生事蹟考證の資料を整理す。晩餐の後始めて考證の稾を起す。深更に至り大雨灑来る。二百十日近ければ風雨を虞れて夢亦安からず。」

8月末に毅堂・枕山の事跡考証のための資料がそろい考証の原稿を起こした。ところが、次の日関東大震災に襲われ、中断してしまう。結局、11月まで待つことになる。

11月3日「夕暮に至り風忽寒し。鷲津毅堂大沼沈山二家の伝を起草す。題して下谷のはなしとなす。」

以上が荷風が「下谷叢話」に取り掛かるまでの簡単な経緯である。

薬王寺を出てもとの道を戻り、魚籃坂を下る。

この坂は標柱に「坂の中腹に魚籃観音を安置した寺があるために名づけられた。」と説明されている。この寺とは坂の途中に赤い門のある浄土宗魚籃寺のことである。

伊皿子の交差点から桜田通りに向けてまっすぐに下っており、かなり長い坂である。映画にもなった横溝正史「病院坂の首縊りの家」の舞台はここの近くに設定されているとのこと。

坂下で左折し、南北線白金高輪駅へ。

参考文献
永井荷風「下谷叢話」(岩波文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔東京の坂」(日本交通公社)

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洞坂~桂坂

2010年04月08日 | 坂道

東禅寺の山門手前からイギリス公使宿館跡の石柱を左に見て、右の道に入り、道なりに進む。

すぐに洞坂の坂下にいたる。坂の標柱が立っている。

洞坂は、標柱に「ほらさか 法螺坂、鯔坂とも書く。このへんの字(あざ)を洞村(ほらむら)と言った。洞村とは、昔ほら貝が出たとも、またくぼ地だから、洞という等様々な説がある。」と説明されている。

この坂は、「川本三郎 私の東京町歩き」(ちくま文庫)に実に魅力あるところとして描かれている。

『桂坂を品川方面に向かって坂の途中を右に折れると実に不思議な一画がある。時間がとまってしまったような静かな住宅街である。古い木造家屋が並ぶ路地、銀杏の木、お寺の奥にある森、道端の地蔵。路地だけ見ていると下町のようだし、緑豊かな木を見ていると鎌倉あたりのようでもある。いずれにせよ港区にこんな静かな、小さな町があるのは意外も意外である。』

坂下の標柱で左に上りながら大きく曲がり、そこからまっすぐに上り、さらに左に折れてからまっすぐな上りとなる。

坂上を右にほぼ直角に曲がると、わずかに下りの道が桂坂の歩道までまっすぐに続いている。

かなり細い坂で、急であるためか、滑り止めが施されている。

ここには川本の著書により訪問願望が惹起されて2年前の冬に訪れている。

桂坂を下り、東芝山口記念会館の手前を右に曲がり、坂を下った記憶がある。川本がいうように静かな住宅街の印象が残っているが、今回も同じであった。

かなり急で狭く、坂上で直角に曲がりその後二回大きく曲がるので、どんなところかのわくわく感が引き起こされ、また、静かで落ち着いた感じであり、侘びしさもある。わたしのお気に入りの坂の一つである。

こういった坂が散歩コースにあればきっと楽しいに違いないと思う。

今回、川本の同書をふたたび読んでみたが、桂坂の途中を右に折れるとだけあり、特に洞坂とは書いていないことに気がついた。

このため、坂下一帯だけではなく、前回の記事の桂坂の階段を下って進んだ所にある住宅街一帯も含めた全体をいっているのかもしれない。次のように記述されているからである。

『この一画全体が町の奥の奥という秘められた静けさを持っている。こういうところにセカンド・ハウスというか誰にも知られない隠れ家を持てたらいいだろうなと思う。』

坂上を直進し桂坂にでる。

桂坂の標柱には、「むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう。」との説明がある。

この坂はかなり長く、坂下で第一京浜につながり、第一京浜と桜田通りとを結ぶ道となっており、車が頻繁に通る。

ところで、桂坂のもとの坂は坂下に近い正覚寺前を第一京浜に下る細い道であるという。

現代の地図を見ると、確かに第一京浜から西に折れ正覚寺前を南に曲がり桂坂につながる小道がある。

「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)の高輪辺絵図を見ると、袖ヶ浦から西に上り、南にいったん折れてから東禅寺の脇を西に上り、北に折れてからふたたび西に二本榎へと上る無名の坂がある。goo明治地図を見るとほぼ同じ道筋がある。

これがもとの坂と思われるが、その名残りの道が残っているようだ。これを書いていて気がついた。次の機会に是非歩いてみたい。
(続く)

参考文献
岡崎清記「今昔東京の坂」(日本交通公社)
東京23区市街図2005年版(東京地図出版)

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柘榴坂~東禅寺

2010年04月07日 | 散策

抜け道階段の上部から延びる道を直進し、最初の交差点を左折し、北側にしばらく歩くと、大きな通りがカーブするところにでる。

品川駅前の第1京浜から台地に上る広い通りで、ここが柘榴(ざくろ)坂の坂上である。別名、新坂。

「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)の高輪辺絵図に、袖ヶ浦から西に上り、右にいったん折れてからふたたび西に上る無名の坂が見える。明治になって真っ直ぐな坂になってから新坂と呼ばれた。

この辺り一帯と南側が旧高輪南町で、地図を見ると、この地名がついたビルやマンションがある。坂の北側には薩摩藩の高輪屋敷があったとのこと。

永井荷風「断腸亭日乗」大正8年9月27日「秋晴の空雲翳なし。高輪南町に手頃の売家ありと聞き、徃きて見る。楽天居の門外を過ぎたれば契濶を陳べむと立寄りしが、主人は不在なり。猿町より二本榎を歩みて帰る。」

荷風が麻布市兵衛町の偏奇館に移居する前のことである(前の記事参照)。この売家を選ばなかった理由は「日乗」に書かれていない。楽天居とは巌谷小波(いわやさざなみ)宅で坂上西側にあった。猿町とは坂上を北側に進む道の西側一帯にあった白金猿町と思われる。この道を直進すると、二本榎の通りに至る。

柘榴坂の坂上から北側に荷風が通ったと思われる道をしばらく歩く。ここは大きなホテルや議員宿舎などがあり大きな通りになっている。

やがて高輪警察署の手前の高野山東京別院についたので中に入ってみるが特に見るべきものもなさそうなので、すぐに左手の出口からでる。

このでた所の通りが桂坂である。右折し坂を下る。

少し歩き信号を渡ると、すぐ右側に下る階段がある。この階段から東禅寺に至る道が続いていると思って下る。

ここも、松本泰生「東京の階段」に紹介されていた階段であった。高輪・東禅寺裏の階段とある。

桂坂側からいえば、東禅寺に続く階段である。

同書でこの階段の存在は知っていたが、位置がはっきりとわからなかったので、この階段を目にしたとき直感的にここだと思ったがその通りだった。

階段下を左に曲がると、人家が続いており、道が上下し、小さな住宅街となっている。都会の隠れ家的な雰囲気がするところである。

道なりに進むと、人家も少なくなり、下り坂となって、東禅寺の裏手のためか樹木が多く鬱蒼とし、塀が続く薄暗い道となる。ここが都会の中かと思われるほどである。

坂下の交差点に至ると、左手に暗い道が続いていたので、進むと、東禅寺の境内にはいる。

右に曲がると水の音がするので、音のする方に近づくと、管の先から水が流れ出ている。湧水と思われるがどうなのであろうか。

ここは台地の下であるから湧水があっても不思議ではないが、自然水のガイド本にここはのっていないようである。

今回は行けなかったが、地図をみると、お寺の裏側に池があるようである。湧水が水源であろうか。

山門から出ると、そこに「都旧跡 最初のイギリス公使宿館跡」と刻んだ石柱が建っている。

東禅寺は、幕末に初代英国公使オールコックの宿舎としたところである。

東禅寺では、幕末の文久2年(1861)5月に水戸藩脱藩の攘夷派浪士がイギリス公使オールコックらを襲撃し館員が負傷した第1次東禅寺事件がおき、次の年、東禅寺警備の松本藩士がイギリス水兵2人を斬殺した第2次東禅寺事件がおきた。幕末動乱の歴史の一舞台となった所である。

東禅寺山門から第1京浜に向けて緩やかな下り坂になっているが、むかしはその先に江戸湾が見えたという。
(続く)

参考文献
岡崎清記「今昔東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「明治大正東京散歩」(人文社)

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