東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

新坂(淡路町)2013

2013年11月25日 | 坂道

11月はじめ神田古本祭りに行こうと出てきたが、その前に駿河台あたりをぶらぶらしようと、小川町駅で下車した。

新坂下 新坂下 新坂中腹 新坂標柱 地下鉄出口から出て、神田川の昌平橋方面に北へ歩くと、前方左手に近代化された街並みが見えてくるが、ふと、左を見ると、見覚えのある小さな坂が見える。引き込まれるようにして近づくと、新しくなった新坂(淡路町)である(現代地図)。

二年ほど前、この坂に来たとき(以前の記事)、坂下から見て右側(北)が工事中であったが、それが終わって、広々としている。一帯は、北側に大きなビルが建ったが、その周囲の広場・公園のようになっている。

一、二枚目の写真は、坂下から坂上を、三枚目は中腹から坂上を撮ったものである。

坂北側は、以前、淡路町公園で、一段低くなっていて、そのわきを上るので、坂上と公園との高低差がちょっとあったように覚えているが、現在、坂と同じスロープとなってしまい、むかしの面影がなく、すっかり変わってしまった。

坂中腹に新しくなった標柱が立っているが、四枚目の写真のように、次の説明がある。

『新坂
 この坂を新坂といいます。『新撰東京名所図会』には「新坂は維新の後、新たに開かれたる道路なり、昔は観音坂と紅梅坂との間、阿部主計頭の屋敷にして、此処により駿河台に登る通路なかりし、崖の上には今も旧形を存せる彼の練塀の外囲ありしなり、此の練塀を道幅だけ取毀ちて通路を開きたり。故に俗呼んで新坂といえり」とかかれています。維新後とのみかかれその年月は不明です。』

新坂中腹 新坂上 新坂上 飯田町駿河台小川町絵図(文久三年(1863)) 短い坂なので、すぐに坂上である。ここを左折していくと、観音坂の坂上で、右折すると、幽霊坂の中腹である。直進すると、突き当たりの左右が池田坂

一~三枚目の写真は、坂上側から坂下を撮ったものである。

新坂という坂は、都内に多数あり、命名のとき新しければよいので、それだけでは時代がわからないが、ここは明治維新後にできた。

四枚目は、尾張屋板江戸切絵図 飯田町駿河台小川町絵図(文久三年(1863))の部分図である。阿部屋敷の下側(北)に幽霊坂があり、上側に観音坂があるが、この坂はなく、それ以降にできたことがわかる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)

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阿佐谷神明宮~馬橋公園(2013)11月

2013年11月23日 | 写真

阿佐谷神明宮 阿佐谷神明宮 お伊勢の森児童遊園 お伊勢の森児童遊園






阿佐谷神明宮~お伊勢の森児童遊園

A氏の庭 A氏の庭 馬橋公園 馬橋公園

 

 

 
A氏の庭~馬橋公園

馬橋公園 馬橋公園 馬橋公園 馬橋公園






馬橋公園  2013.11.23

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石古坂

2013年11月14日 | 坂道

石古坂下 石古坂下 石古坂下 石古坂下 前回の目黒不動尊の表門(南)から出て、南へちょっと歩き、次の交差点を右折し、しばらくすると道がうねってくるが、その向こうに林試の森公園の入口が見えてくる(現代地図)。

一枚目の写真は、そのあたりから公園入口方面を撮ったもので、このあたりが石古坂の坂下と思われるが、公園入口付近までかなり緩やかな勾配である。

二、三枚目は、公園入口(東門)に近づいてから撮ったもので、右側の入口手前に坂の標柱が立っている。

四枚目は、標柱から坂上側を撮ったもので、緩やかな勾配でまっすぐに南へ上っている。

標柱(目黒区教育委員会)に次の説明がある。

『石古坂(いしこざか)
 その昔石ころが多い坂だったので、石古坂とよぶようになったといわれる。他に、古地図に記された「石河坂」が転じた説などがある。』

石古坂中腹 石古坂中腹 石古坂中腹 石古坂中腹 一枚目の写真は、標柱のちょっと上側の中腹から坂下側を撮ったもので、かなり緩やかに下っている。

二枚目は、公園入口を過ぎてから坂上側を撮ったもので、このあたりからちょっと勾配がつきはじめる。

三枚目はさらに上側から坂上側を、四枚目はそのあたりから坂下側を撮ったものである。二~四枚目のあたりがもっとも勾配があり坂らしくなっている。

この坂について目黒区HPに次の説明がある。

『下目黒3丁目と品川区小山台1丁目の境、都立林試の森公園正門前に「石古坂」というゆるやかな坂がある。

坂の名は、石ころの多い坂だから「石古坂」と、土地の人はいう。また、江戸の「府内場末其他沿革図書」の「中下目黒滝泉辺之図」には、この坂を「石河坂」とあり、そこから転じて「イシコ坂」となったらしいともいわれている。

坂下で米穀商を営む林正雄さんは「以前、この坂は、かなりの急斜面で、大八車なんかが通る時には、ひどく汗を流していました。私も幼いころは、確か、1銭か2銭のだ賃をもらうために、坂下で大八車を待っては、後押しをしたものですよ」

坂下の目黒不動商店街付近には、昭和18年ごろまで、何軒もの芸者屋があり、稽古三味線の音がよく聞けたそうである。また、不動の門前には、待合や料理屋が軒を連らねていたという。

不動門前に比翼塚という石碑がある。これは以前、坂下にあったもので、その碑にまつわる平井権八と小紫の恋物語は、いろいろと脚色され、歌舞伎や人形浄瑠璃で知られ、参拝する男女も多かったという。

俳優の長谷川一夫、大江美智子、萬屋錦之介の兄である中村時蔵など、比翼塚にまつわる芝居をする役者さんたちが、よく芝居の前に供養に訪れたという。』

この坂は目黒区と品川区との境にあるため品川区HPにも紹介され、坂名の由来について次の説明がある。

『名前の由来にはいくつかの説がありますが、一般的には石ころが多い坂だったので「石ころ」が転じて「石古坂」と呼ばれるようになったという説が有力です。他には、近くに「石河(いしこ)」という屋敷があったという説や、飲料に適した清流を「石川(河)」と呼び、付近を流れる羅漢寺川がそうした清流だったという説があります。』

分間江戸大絵図(文政十一年(1828)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 目黒白金図(安政四年(1857)) 官版東京大絵図(明治四年(1871)) 四つの古地図(1800年代以降)の部分図を年代順に並べた。左から順に、分間江戸大絵図(文政十一年(1828))、御江戸大絵図(天保十四年(1843))、尾張屋板江戸切絵図目黒白金図(安政四年(1857))、官版東京大絵図(明治四年(1871))。

一枚目の分間江戸大絵図は、目黒不動尊の表門近くの道に「イケ上」ヘという意味らしきことが記されているだけである。

二枚目の御江戸大絵図は、表門から出てすぐのT字路を左上へ延びてから丸くカーブしている道筋があるが、ここがこの坂かもしれない。

三枚目の尾張屋板目黒白金図は、表門から出てすぐのT字路までしか描いていない。

四枚目の官版東京大絵図は、表門から出て左の方にまっすぐに延びる道を描いているが、その先がちょっとしかない。

 二枚目の御江戸大絵図以外、この坂近くの目黒不動尊を西、南の端に描いているので、この坂は途切れている。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、林業試験場のわきに、この坂の道筋が続いているが、南側は平塚村で途中で途切れている。昭和16年(1941)の目黒区地図にも同様の道筋があるが、その先が品川区のため途切れている。

石古坂中腹 石古坂上 石古坂上 石古坂上 一枚目の写真は、公園から下りてくる階段近くから坂上側を撮ったものである。

二枚目はその上側から坂上を、三枚目はさらに上側から坂上を撮ったもので、坂上近くはかなり緩やかである。

四枚目は坂上近くから坂下側を撮ったものである。

この坂名の由来として、石ころの多い坂だから石古坂、江戸の「府内場末其他沿革図書」の「中下目黒滝泉辺之図」にある「石河坂」から転じてイシコ坂、「石河(いしこ)」という屋敷があった、飲料に適した清流を「石川(河)」と呼んだが、付近を羅漢寺川が流れていた、などが紹介されているが、石ころ説が単純で、そのためもっとも本当らしく思える。

以前、この坂はかなりの急斜面であったとあるが、いまの公園前から上のあたりであろうか。そうだとしたら、改修工事でかなり均したことになる。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、127m、4.9m、2.9で、かなり緩やかである。品川区HPには、延長350m、平均勾配約4.1%(≒2.3°)とあり、距離がかなり長い。この違いは、目黒区は公園入口前の標柱のあたりを坂下とし、品川区は目黒不動尊の表門から出た先の四差路のあたりを坂下としているからであろう。

林試の森公園 林試の森公園 林試の森公園 林試の森公園 坂上から公園入口までもどり、林試の森公園に入る。東西に細長く、東門から入ると、平坦な道が続くが、途中、右手(北側)を見ると、緩斜面になっている。

しばらく歩くと、橋に至るが、下を見ると、立派な谷になっていて、池があって小川が流れている。

一枚目の写真は、その橋の上から撮ったものである。谷に降りてから、小川に沿って歩いて撮ったのが二枚目の写真である。三枚目は、谷から戻る途中に撮ったものである。

四枚目の写真は公園内に建っている記念碑である。

目黒区HPに次の説明がある。

『林業試験場の始まりは、明治11年[1878]、東京府北豊島郡滝野川村西ケ原におかれた樹木試験所である。目黒、品川にまたがって山林局目黒試験苗圃[びょうほ]として発足したのは、明治33年[1900]のことである。荏原郡目黒村大字下目黒字谷戸と同郡平塚村大字戸越字鎗ヶ崎の4万5000坪余りの土地に、研究施設が建てられ、西ヶ原で育てられていた樹木が移植された。』

林業試験場の樹木が残って、公園となったようであるが、そうでなければ、宅地となったはずで、そうだとすると、橋の下の谷地と台地とを結ぶ坂ができ、かなりの急坂になったかもしれないなどと想像してしまう。

東門までもどり、きわめて緩やかな坂を下り、目黒不動商店街を東へ歩き、山手通りを横断し、やがて目黒川わきの散歩道にたどり着いた。ここを上流側に歩き、中目黒駅にもどった。

今回は午前中から歩きはじめ、油面の方へ寄り道などをしたのでかなりの距離になった(20.9km)。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)

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男坂・女坂(目黒不動尊)

2013年11月09日 | 坂道

男坂下 男坂下 男坂上 目黒不動尊 前回の三折坂下から目黒不動尊の境内に入り、木立のある方へ進むと、石段坂が見えてくる(現代地図)。

坂下から撮ったのが一、二枚目の写真である。男坂でかなり急である。

三枚目は、坂上から坂下を撮ったもので、かなりの勾配でまっすぐに上っているだけで、どこの男坂もそうだが単純きわまりない。

四枚目は坂上から本堂を撮ったものである。

瀧泉寺(目黒不動尊)は、坂下に立っている説明パネルによれば、大同三年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とするとのこと。

目黒不動尊 女坂下 女坂下 女坂中腹 一枚目の写真は、本堂の方から男坂の坂上(右)と女坂の坂上(左)を撮ったものである。

女坂を下ったが、坂下から順に写真を並べる。

二枚目の写真は、坂下から撮ったもので、右側が女坂である。

三枚目は、下側の踊り場から坂上側を撮ったもので、この上の踊り場で左に大きく曲がっている。

四枚目は、上側の踊り場から坂下側を撮ったもので、下側の踊り場でちょっと曲がっている。

女坂上 女坂上 一枚目の写真は、上側の踊り場から坂上側を撮ったものである。 二枚目は、坂上から坂下側を撮ったもので、上側の踊り場で大きく方向を変えていることがわかるが、これで女坂らしくなっている。

目黒不動尊の歴史について目黒区HPに次の詳しい説明がある。

『泰叡山瀧泉寺(目黒不動)(天台宗)は寛永寺の末寺で、目黒不動尊縁起によれば、「慈覚大師が少年時代、現在の地に宿をとったとき、神人の夢をみた。その後大師が青年になり、唐に留学して、ある日長安の青竜寺を訪れ不動明王を拝んだところ、それが少年のころ霊夢に感じた神人と同じ姿であった。大師は奇異に感じ、帰朝後さっそく不動尊像を彫刻し、これを目黒の地に安置した」とある。

目黒不動尊縁起によれば「滋覚大師が大同3年(808年)比叡山に向かう途中目黒で宿をとった。その時、不動明王の夢を見たのでその像を彫り、安置した。それが寺の始まりである。」という。

その後大師は天安2年(858年)に堂宇を造営し、自らの手で「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」を棟牘に記した。そこから寺号を「瀧泉寺」と称するようになり、また、貞観2年(860年)に清和天皇より「泰叡」の勅額を賜わり、山号を「泰叡山」と称するようになった。

弘治3年(1557年)に堂塔の修理造営を行ったが、元和元年(1615年)に火災のため、ほとんど焼失してしまった。しかしながら本尊と本尊所持の「天国の宝剣」は奇跡的に難を逃れた。

その後、寛永7年(1630年)に上野護国院の末寺となり、将軍家の保護を受けるようになった。そのきっかけとなったのが、将軍家光が鷹狩りで目黒の辺りに来ていた時、可愛がっていた鷹が行方不明になるということがあり、そこで不動の僧に祈らせたところ無事に戻ってきたという。喜んだ家光は不動を深く尊信し、焼失していた堂塔を再建したという話である。

以来、幕府の保護が厚く、江戸近郊における有数の参詣行楽地となり、門前町もにぎわった。

近くには、行人坂上の夕日が丘などの景観地もあったし、俗に蛸薬師と呼ばれる成就院や、蟠龍寺もある。少し足を延ばせば、名刹祐天寺もある。江戸の三富と呼ばれた富くじが行われたことも、目黒不動繁栄の一因となった。』

江戸図鑑綱目(元禄二年(1689)) 分間江戸大絵図(文政十一年(1828)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 目黒不動尊は、かなり古い歴史を持ち、江戸近郊の有名な参詣行楽地であったためか、次の江戸時代中期から明治初期の各地図にのっているが、いずれにも西の端に描かれている。

以下、それらの目黒不動尊の部分図を年代順に並べた。

左から順に、江戸図鑑綱目(元禄二年(1689))、分間江戸大絵図(文政十一年(1828))、御江戸大絵図(天保十四年(1843))であり、さらに下に、尾張屋板江戸切絵図目黒白金図(安政四年(1857))、官版東京大絵図(明治四年(1871))が続く。

一枚目の江戸図鑑綱目(元禄二年(1689))は、1800年代の他の地図と比べると、かなり古く、不動尊の絵図に男坂しか描いていない。行人坂や大鳥神社が見えるが、金毘羅権現社は描かれていない。

二枚目の分間江戸大絵図は男坂しか描いておらず、三枚目の御江戸大絵図は男坂も描いていない。いずれも絵図は、一枚目の江戸図鑑綱目よりもひかえめである。

目黒白金図(安政四年(1857)) 官版東京大絵図(明治四年(1871)) 江戸名所図会 目黒不動尊 江戸名所図会 目黒不動尊 一枚目の尾張屋板目黒白金図、二枚目の官版東京大絵図は、いずれも男坂しか描いていない。

三、四枚目は、江戸名所図会にある目黒不動尊の挿絵左半分、右半分であるが、右の挿絵中央に本堂があり、その下左側に男坂、右側に女坂がかなり精緻に描かれている。

左の挿絵中央左寄りに裏門が見え、その向こうに通行人がたくさん描かれた道が見えるが、ここが前回の三折坂に相当するところと思われ、裏門のすぐ右で大きく折れ曲がったところは、坂上側の大きなカーブかもしれない。

江戸時代からかなり後になるが、散歩を好んだ永井荷風はこのあたりにも出没している。

大正八年(1919)10月9日の「断腸亭日乗」に次の記述がある。

「十月九日。小春の空晴渡りぬ。陋屋の蟄居に堪えず歩みて目黒不動の祠に詣づ。惣門のほとりの掛茶屋に憩ひて境内を眺むるに、山門の彼方一帯の丘岡は日かげになりて、老樹の頂き一際暗し。夕日は掛茶屋の横手なる雑木林の間に低くかゝりて、鋭く斜に山門前の平地を照したり。雑木林の彼方より遥に普請場の物音聞ゆ。近郊の開け行くさまを思ひやりては、滝の落る音も今は寂しからず。大国[黒]家の方よりは藝者の三味線も聞え出しぬ。此の地も角筈十二社境内の如く俗化すること遠きにあらざるべし。掛茶屋を去らむとする時、不図見れば、この家の女房とおぼしく年は二十二三、丸髷に赤き手柄をかけ、銘仙の鯉口半纏を着たる姿、垢抜して醜からず。余は何とはなく柳浪先生が傑作の小説骨ぬすみ、もつれ糸などの人物叙景を想ひ起したたり〔想起しぬ〕。帰途羅漢寺を訪ひ、道をいそぐに、十六夜の月千代ヶ崎の丘阜上り昇るを見る。路傍の草むらには虫の声盛なり。」

この日、荷風は、小春の空がよく晴れわたり、築地の狭い家(偏奇館に移る前)にとじこもっていることに我慢ならなくなって(以前の記事)外出し、歩いて目黒不動尊を訪れた。掛茶屋で休みながらの風景の描写がよい。日が傾いてきたようで、「夕日は掛茶屋の横手なる雑木林の間に低くかゝりて、鋭く斜に山門前の平地を照したり」。掛茶屋の女房と思われる二十二三の女が丸髷に赤き手柄をかけ、銘仙の鯉口半纏を着たる姿、垢抜して醜からず、と好意を持って描いている。その帰り、千代ヶ崎の丘から十六夜の月が上り、草むらからはさかんに虫の声がした。

続いて、大正十年(1921)9月6日に次の記述がある。

「九月六日。綾部致軒愛児を喪ふとの報あり。午後唖々子の来るを待ち、倶に天現寺畔の寓居を訪ひ吊辞を陳ぶ。白金雷〔電〕神山の麓を過ぎ、権之助阪を下り目黒不動祠の茶亭に憩ひ、浅酌黄昏に至る。」

この日、井上唖々子と一緒に天現寺近くの友の家に行き弔辞を述べ、それから白金雷神社の麓を経て権之助坂を下って、目黒不動尊の茶亭で憩った。南麻布の天現寺から目黒不動尊まで歩いたようで、かなりの距離であるが、「日和下駄」の著者ならば、苦もなかった。それでも、急な行人坂ではなく緩やかな権之助坂を下っているのは、いかにも慎重な荷風らしいと思ってしまう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
「新版断腸亭日乗」(岩波書店)

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三折坂

2013年11月07日 | 坂道

三折坂上 三折坂下 三折坂下 三折坂下 前回の金毘羅坂下から南側の歩道を上ると、まもなく、目黒寄生虫館が見えてくるが、その手前を左折し南へ歩く(現代地図)。

南へまっすぐに延びる道をしばらく歩くと、一枚目の写真のように、左側に目黒不動の境内裏手付近が見えてくる。この先が三折坂の坂上である。

以下、坂下から写真を並べる。

二枚目の写真は、目黒不動の西側の横門近くの平坦な所から坂上側を撮ったもので、右に大きく曲がると坂の上りとなる(現代地図)。

三枚目は、坂下の曲がり近くから坂上側を撮ったもので、曲がるとすぐに勾配がつきはじめる。標柱が坂の左端に立っている。

四枚目は、まっすぐに上っている坂中腹を坂下から撮ったもので、坂下側は標柱のあたりからカーブしていることがわかる。

三折坂下 三折坂下 三折坂下 三折坂中腹 一枚目の写真は、標柱のあたりから坂下側を撮ったもので、坂下のカーブが見え、その向こうから上二枚目の写真を撮った。

二枚目は標柱を入れて坂上側を撮ったもので、この中腹がこの坂の主要部分であり、勾配もかなりある。

三枚目は、標柱のちょっと上側から坂下側を撮ったもので、四枚目はそのあたりから坂上側を撮ったものである。

坂下近くに立っている標柱には次の説明がある。

『三折坂(みおりざか)
三つに折れ曲った形状から三折坂とよばれるようになった。また、目黒不動への参詣者が、この坂を降りていくので、「御降坂」とよんだともいわれる。』

目黒区HPに次の説明がある。

『目黒不動(瀧泉寺)の裏山の辻に、甘藷先生(青木昆陽)の墓所を示す道標が立っている。

そこから、同寺の仁王門に向かって、S字状に下る坂道がある。三折坂といい、左手の背丈ほどに積まれた石がきの上には、ササやクヌギがうっそうと生い茂り、右手には住宅が建ち並ぶ、心なしか落ち着きのある道である。坂を下ると、右側のマンション前に、わき水が出ている。

縁日や10月の甘藷祭りともなると大勢の参拝客でにぎわう。』

分間江戸大絵図(文政十一年(1828)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 目黒白金図(安政四年(1857)) 官版東京大絵図(明治四年(1871)) この坂は、目黒不動の西門から裏手にかけて上下するので、江戸時代後期から明治初期の目黒不動近くの部分図を年代順に並べてみた。

左から順に、分間江戸大絵図(文政十一年(1828))、御江戸大絵図(天保十四年(1843))、尾張屋板江戸切絵図目黒白金図(安政四年(1857))、官版東京大絵図(明治四年(1871))。

一枚目の分間江戸大絵図は、目黒不動と鎮護大明神(金毘羅権現社)とをかなり接近させて描いているが、その間の道に金毘羅坂があるとして、その道は、西側に突き当たり南に進む他ない一本道であり、その先で不動尊の裏手から西へ続いている。このあたりがこの坂かもしれない。

二枚目の御江戸大絵図は、鎮護大明神(金毘羅権現社)前の道と目黒不動をつなぐ道が見えず、行人坂から西へずっと延びる道が不動尊の裏手から西へと丸く描かれているが、このあたりにこの坂があったと思われる。

三枚目の尾張屋板目黒白金図は、金毘羅権現社前の道から南へ延びる道が描かれ、その道が西側へとそのまま延びているが、このあたりがこの坂と思われる。

四枚目の官版東京大絵図は尾張屋板とほぼ同様である。

以上のように、いずれの地図にも、この坂に相当すると思われる道筋があるが、坂名の由来である折れ曲がった形状があらわれる程度まで精度よく(あるいは誇張して)描かれていない。ただ、分間江戸大絵図が、不動尊の裏側でほぼ直角に曲がり、その下側でも曲がっているので、この坂をよくあらわしているのかもしれない(金毘羅社の位置は別の問題)。

三折坂中腹 三折坂中腹 三折坂中腹 三折坂上 一枚目の写真は、坂中腹から坂上側を撮ったもので、坂上側の大きなカーブが見えてくる。

二枚目は、その上側から坂下側を撮ったものである。

三枚目は、坂上側のカーブを坂下側から撮ったもので、みごとなカーブを描きながら曲がって、しかもかなり勾配もある。

四枚目は、坂上側のカーブを曲がってから坂上側を撮ったもので、この先で右にわずかに曲がっている。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、金毘羅坂のある目黒道から南に延びた道の先にこの坂の道筋が続いていて、二つのカーブが見えるが、いまもある坂上と坂下のカーブであろう。昭和16年(1941)の目黒区地図にも同様のカーブが見える。

三折坂上 三折坂上 三折坂上 三折坂上 一枚目の写真は、坂上側のカーブを曲がってちょっと上ってから坂下側を撮ったものである。

二枚目は、そのあたりから坂上側を撮ったもので、かなり緩やかになっている。

三枚目はそのさらに上側から坂下側を、四枚目はさらに上って坂上の小さなカーブを曲がってから坂下側を撮ったものである。

この坂は、その名のとおりの三つの大きな折れ曲がりはないが、その名に恥じない坂下と坂上の大きなカーブと、中腹の勾配のあるスロープと、不動尊側の樹木と石垣とによって風情のあるよい坂となっている。このあたりの散歩コースに組み入れたいと思ってしまう。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、154m、7.9m、4.9で、意外と勾配が大きくない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)

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善福寺川(2013)11月

2013年11月05日 | 写真

善福寺川2013.11.4 善福寺川2013.11.4 善福寺川2013.11.4 善福寺川2013.11.4

 

 

 

 

善福寺川の相生橋から和田堀池の間で撮影

2013.11.04

 善福寺川2013.11.4 善福寺川2013.11.4 善福寺川2013.11.4 善福寺川2013.11.4

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油面(目黒)

2013年11月04日 | 散策

油面交差点 油面地蔵通り入口 油面子育地蔵尊 油面地蔵通り 前回の金毘羅坂の坂上を西へ進むと、次の交差点が見えてくる(現代地図)。

一枚目の写真のように油面(あぶらめん)の交差点である。二枚目は交差点から延びる油面地蔵通りである。

以前、このあたりの地図を眺めていると、この「油面」という地名を見つけ、おもしろい地名と思った。この地名が小学校や公園についている。それ以来気になっていたところであったが、今回、金毘羅坂上から近いとわかったので、交差点を渡って、油面地蔵通りを北へ歩いた。

三枚目は、その途中にあった油面子育地蔵尊である。傍らの説明パネルによれば、もともとは目黒通りの交番近くに立っていたが、昭和9年(1934)に道路拡張のためここに移されたという。

四枚目は、子育地蔵尊からさらに北のところで撮ったもので、昭和を感じさせる街並みになっているが、閉じている店もあるようで、ちょっと元気がないように感じる。

油面通り 油面通り東側坂下 永隆寺 馬喰坂上 油面地蔵通りを北へさらに歩くと、油面通りに出たので、ここを右折し、東へ歩く。静かな住宅街が続くが、ちょっと下り坂となったところで撮ったのが一枚目の写真である。

二枚目は、その坂下近くで撮ったもので、ここはちょっと複雑な五差路になっている(現代地図)。

五差路を東へ進むと、ちょっとした上り坂となって、やがて左手に、三枚目のように、永隆寺の門前が見えてくる。ここをさらにちょっと進むと、四枚目のように、馬喰坂の坂上である。

油面の地名について目黒区HPに次の説明がある。

『「油面[あぶらめん]」は、衾[ふすま]・碑文谷[ひもんや]などとともに、初めての人にはまず読めそうにない地名の一つ。もとは、現在の中町一丁目に、同二丁目、中央町二丁目の一部を加えた一帯の旧字名だが、その名は、油面[あぶらめん]小学校、油面[あぶらめん]公園をはじめ、商店街通りや交差点、バス停などに今も残り、「住区」の名称ともなっており、その長い歴史に新たな一ページを加えている。

さて、「油面[あぶらめん]」の地名は、多くの地名の例に漏れず、土地の産物にちなむもの。江戸時代の中ごろから、この辺り一帯では菜種の栽培が盛んとなり、絞った菜種油は芝の増上寺や、その流れをくむ祐天寺の灯明用として使われていた。この油の奉納に付随して、絞油業に対する租税が免除されていたらしく、油製造により税が免ぜられている村、すなわち「油免」が、いつしか「油面[あぶらめん]」となったと伝えられる。

ただし、「面」については、韓国などで、村長のことを面長といっているように、「村」の意味とする説もあり、この説によれば、「油面」は、単に「油のとれる村」の意味となる。

なお、菜種の栽培は昭和の初めごろまで行われ、開校当時(大正14年)の油面小学校は、菜の花畑と竹やぶ、雑木林に囲まれた、畑の中の学校だったという。路線バスが商店街や住宅地を縫うように走る今日の町並みからは、想像もできない風景である。』

この地名は、江戸中期ごろからこの辺りで盛んに栽培された菜種から絞った菜種油に由来するとのことで、そんな説明に接すると、なんだそうかと、ちょっと興ざめしてしまう。

永隆寺西側 十七が坂下への道 十七が坂下への道 十七が坂下 坂上から引き返したが、永隆寺のあたりから西側の坂下を撮ったのが一枚目の写真である。緩やかな勾配でまっすぐに下っている。

馬喰坂上の永隆寺方面は、そのまま台地が続くと思っていたが、そうではなく、すぐに下り坂で、馬喰坂上から永隆寺門前にかけてちょうど山の頂上付近といった方がよく、頂上が分水嶺となっている。坂下から上ると坂上に台地が広がるといった単純な地形ではなく、すぐに下りになるという変化の激しいところである。

坂下を鋭角に左折し、細い道を道なりに南へ、東へと歩く。その途中で撮ったのが二、三枚目の写真で、三枚目のように下り坂となっているところもあって、ちょっと下りながら進む。 四枚目は、この小道の終点の手前から撮ったもので、その先を左折すると、十七が坂の上りとなる(現代地図)。

油面通りを東に進むと、永隆寺、馬喰坂上へと続くことがわかったので、その手前(坂下の五差路)を南方面に進めば、十七が坂下へと続く道があるはずと思って歩いたが、はたしてそうだった。前回この坂を訪れたとき、坂下から左に入る小道があることを覚えていたせいもある。

十七が坂下 十七が坂下 小道を右折しちょっとのところでふり返って撮ったのが一枚目の写真で、十七が坂が右に曲がりながら上っている。

二枚目は、ちょっと曲がりくねった坂下を進み、途中、ふり返って坂上側を撮ったもので、このあたりが十七が坂の坂下であるといってもよいのかもしれない。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、永隆寺の坂下に変則的な四差路があり、そこから南へ、東へと延びる道がこの小道と思われ、その四差路のあたりを流れる川が十七が坂下の近くを通って目黒川へと流れ込んでいる。四差路のずっと西側に字油面の地名が見える。

昭和16年(1941)の目黒区地図にも同様の道筋があるが、変則的四差路は、現在のような五差路になっており、油面の地名はなく、中目黒四丁目になっている。

坂下の道を直進し、左に曲がりながら道なりに進むと、山手通りの歩道に出るが、ここを右折し、ちょっと歩くと、目黒通りとの交差点で、先ほどの金毘羅坂下である。ちょうど目黒通りの北側の地域(油面地蔵通りの東側、油面通りと十七が坂下の南側)をぐるりと一周りしたことになる。江戸時代までこの一帯に金毘羅社があった。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)

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