東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

富士見坂(西日暮里)

2012年07月29日 | 坂道

富士見坂上 富士見坂上 富士見坂上 富士見坂上 前回の地蔵坂上から神社の境内を通って諏訪台通りにもどり、南へちょっと歩くと、右手に富士見坂の坂上が見えてくる。

一、二枚目の写真は坂上から撮ったもので、三枚目はちょっと下ったところから坂上を撮ったものである。坂上に二枚目のように坂の標識が立っていて、次の説明がある。

「富士見坂(ふじみざか)
 坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。
 都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。
  荒川区教育委員会」

ここは、都内に数ある富士見坂の内で、いまでも、富士山を眺望できるところという。四枚目は富士を望めると思われる方向を撮ったもので、手前の二つのビルの間、その向こうのビルの右わき近くに見えると思われる。そのような写真を新聞で見たことがある。山手線の新大久保駅と高田馬場駅との間に建設が計画されているビルが完成すると、ここからも富士が見えなくなると問題になっているらしいが、最近、3・11大震災のためビル建設計画の変更があるかもしれないとの報道があった。

富士見坂上 富士見坂中腹 富士見坂中腹 富士見坂中腹 この坂は、坂上でちょっと曲がってから、一枚目の写真のように、ほぼまっすぐに西へ下っている。坂上でちょっと勾配があるが、坂下に行くにつれ、次第に緩やかになる。上野台地の西向き斜面にできた坂である。

中腹から坂下の左側(南)は法光寺で、その煉瓦造りの壁がよく目立ち、石板からなる坂地面とあいまって独自の雰囲気をつくっている。 ここは、一見、歩行者専用道のように見えるが、車道である(以前の記事)。

尾張屋板江戸切絵図 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))にはこの坂はのっていない。近江屋板にもないが、妙隆寺、修性院が見える。明治十一年の東京実測地図を見ると、諏訪神社のちょっと南に、この坂と思われる道がある。寺と寺の間に江戸時代から細い坂道があったのかもしれない。

富士見坂中腹 富士見坂下 富士見坂下 富士見坂下 三、四枚目は坂下から坂上を撮ったもので、四枚目の右上の坂の標識がよく目立っている。

富士は、秋から冬の空気が澄んでいる晴れた日が見頃とのことである(荒川区HP)が、条件が重ならないとなかなか見えないと思われる。

富士見坂、潮見坂(汐見坂)、江戸見坂横見坂などは、坂からの眺望が坂名となったものであるが、それはむかしのことで、それらの眺望はすでに失われている。しかし、ここだけは、奇跡的にまだ見ることができ、その意味で貴重なところである。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)

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地蔵坂(西日暮里)

2012年07月28日 | 坂道

諏訪台通り 諏訪神社境内 諏訪台から東側 諏訪台説明板 前回の御殿坂下からもどり坂上の先の経王寺の角を右折すると、一枚目の写真のように細い道(諏訪台通り)が北へまっすぐに延びている。途中、左に富士見坂が見えるが、通り過ぎ、その先の諏訪神社(諏方神社)の境内に入る。二枚目は以前に境内を撮ったものである(2007年11月)。

境内の東端に行くと、三枚目のようにちょっと眺めのよいところがある。近くに立っている四枚目の説明板によれば、この諏訪台は古くから景勝の地であった。諏訪台は上野台地の東端北側に位置し、上野台地は、東京の山の手とよばれる台地の中でもっとも東に位置する。ここから東側は平坦な土地が広がっているから、眺望がよかった。現在は、ビルが乱立しているが、そういったむかしの眺望がちょっとだけ感じられる。直下に山手線と京浜東北線が走っている。

地蔵坂上 地蔵坂上 地蔵坂下 地蔵坂下 上記の諏訪台の眺望のよい所から左(北)の方へ行くと、一枚目の写真のように、直下に地蔵坂が見え、坂の向こうにJR西日暮里駅のホームが見える。この坂は階段坂で、二枚目のように境内の端からいったんちょっと東へ下るが、すぐに左に直角に曲がってから崖地を横切るようにしてほぼまっすぐに北へ下っている。

三枚目の写真以降は、坂下から順に並べるが、三枚目は最下段から坂上を撮ったもので、ここの横にガードができていて、中を通り抜けると、西日暮里駅東側の方に出ることができる。谷中方面との間の近道になっている。二枚目はそのちょっと上から坂上側を撮ったもので、この上でちょっと右に曲がっている。

二枚目の写真のように坂上に坂の標識が立っているが、次の説明がある。

「地蔵坂
この坂はJR西日暮里駅の西わきへ屈折して下る坂である。坂名の由来は、諏方神社の別当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名な地蔵尊が安置されていることにちなむという。
  荒川区教育委員会」

地蔵坂下 地蔵坂中腹 地蔵坂中腹 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 一、二枚目の写真から坂上が見えるが、突き当たりの上が諏訪台の眺望のよい所である。三枚目は途中から坂下側を撮ったもので、ここは崖地であることがよくわかる。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図を見ると、経王寺のわきをまっすぐに北へ延びる道が諏訪台通りで、大八大明神と植木ヤとの間の道がこの坂と思われる。坂下の川は音無川で、この上流の動坂下近くで藍染川が分岐している。近江屋板を見ると、諏訪明神のわきの道に△チソウサカ、とある。

鉄道ができる前の明治十一年の東京実測地図を見ると、浄光寺と諏訪社との間に、東から北向きに変わる道があり、さらに北東へと向きを変えて新堀村の方へ延びているが、この北東へ向いている所が崖地になっている。この崖地も前回の御殿坂と同じように鉄道ができたときに現在の崖の所まで削られたのかもしれない。もしそうだとすると、この坂は往古の道筋とかなり違っていることになる。

地蔵坂中腹 地蔵坂上 地蔵坂上 地蔵坂上 一枚目の写真は途中から坂上側を、二枚目は坂上から坂下を撮ったものである。三枚目は直角に曲がってから坂上を、四枚目はこの曲がりを坂上から撮ったものである。この坂は以前の記事でもちょっとだけ紹介した。

坂名の由来は、標識にあるように、諏訪神社の隣の浄光寺の地蔵尊が江戸六地蔵の第三番として知名であったためとされている(石川)。

この坂は、神社の境内の外れから隠れるように下っており、谷中の方から西日暮里駅の東側に出ることができるので、ちょっと意外性のある坂である。同名の坂は、都内に何カ所かあり、たとえば、神楽坂上近くや東向島にある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)

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御殿坂(日暮里)

2012年07月27日 | 坂道

経王寺門前 経王寺 経王寺 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 前回の七面坂上を右折し、日暮里駅方面に東へちょっと歩くと、左側に一、二枚目の写真の経王寺がある。門前に立っている説明板によると、明治維新のとき慶応四年(1868)の上野戦争で彰義隊をかくまったため、新政府軍の攻撃を受けたが、いまも山門にはそのときの銃弾の痕跡が残っているとのことなので、山門を見たら、確かにそれらしき孔があちこちにある。三枚目はそれを撮ったものである(これもそのときの痕と思われるが)。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図を見ると、七面堂のあった延命院の向かい(東側)に経王寺があり、その隣に本行寺がある。これらの位置関係は現在も同じである。

本行寺門前 本行寺 説明板 御殿坂上 御殿坂上 一枚目の写真は経王寺の隣の本行寺の門前で、二枚目はその説明板である。この寺には、幕末に幕府側で活躍した永井尚志や江戸時代の儒学者で漢詩人の市河寛斎の墓がある。数年前に、永井尚志、その子孫の永井壯吉(永井荷風の同名異人)のお墓を訪ねて来たことがあるが、結局、見つけられず、むなしく帰った覚えがある。荒川区の案内によれば、永井尚志の墓には案内板が立てられていているようである。

本行寺からちょっともどり、御殿坂の坂上から歩いてきた方向(西側)を撮ったのが三枚目の写真で、人力車が客待ちをしている。四枚目は坂上から坂下を撮ったもので、中程度の勾配で下り、坂下側で左に緩やかにカーブしている。両側の街路樹で道路は鬱蒼としている。

この坂も、台東区谷中七丁目と荒川区西日暮里三丁目との境界になっていて、北側の経王寺や本行寺は荒川区である。

御殿坂下 御殿坂下 御殿坂下 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 一枚目の写真は、坂下近くで坂下側を撮ったもので、坂下の先、右が日暮里駅北口である。二、三枚目は坂下から坂上側を撮ったもので、坂下近くに坂の標柱が立っている。駅に近いので、このあたりは人通りが多い。

標柱には次の説明がある。

「御殿坂 文政十二年(一八二九)に成立した『御府内備考』には、「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根岸」の誤写の可能性がある。明治五年『東京府志科』には、長さ十五間(約二七・三メートル)幅二間(約三・六メートル)とあるが、現在の坂の長さは五十メートル以上あり、数値が合致しない。以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの坂にあったからといわれるが、根拠は定かではない。」

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図(上の図よりも広域)を見ると、本行寺前の道が御殿坂と思われるが、上記の標柱の説明によれば、いまよりももっと下の急坂で、この急坂は鉄道ができたとき消滅した。近江屋板には、本行寺のちょっと下に、△コテンサカ、とある。鉄道ができる前の明治十一年の東京実測地図を見ると、本行寺の前の道が天王寺のわきを通ってから急に曲がり崖を谷に向けてまっすぐに下っているが、長さはさほどない。この崖の所にできた坂がむかしの御殿坂かもしれない。

御殿坂下 御殿坂下 一枚目の写真は、坂下から坂上側を撮ったもので、二枚目は坂上側から坂下側を撮ったものである。

坂名の由来は、坂下の御隠殿によるとされているが、上記四枚目の尾張屋板に、川に沿った先に御隠殿が見える。また、別名を乞食坂というが、これは寺院の多い場所で、その横町とか裏道にある坂に多い名で、鉄道ができる前はこの坂の下の方に乞食小屋があったという(横関)。

この坂は、上記のように、むかしの急坂であった御殿坂ではなく、その上の坂がその名を引き継いでいるようである。

この坂は、上野台地の東側にできているが、東側は山手線など線路が通っているため、現在、むかしの地形がどこまで残っているのか。上四枚目の尾張屋板の上側(東)に芋坂があるが、この坂がかろうじて線路を挟んで東西に残っている程度のように思われる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)

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七面坂(谷中)

2012年07月25日 | 坂道

岡倉天心宅跡 七面坂下 七面坂下 七面坂下 前回の蛍坂を遠景できる広場からもどり右折し北へ進むと、途中、一枚目の写真のように、岡倉天心宅跡・旧前期日本美術院跡のある公園を右に見て、さらに進むと、やがてT字路に至るが、ここを右折すると、七面坂の坂下である。

二枚目は坂下から坂上側を撮ったもので、かなり緩やかに東へ上っている。右側の塀の向こうは長明寺である。三枚目は坂下から上って左にちょっと折れ曲がる手前から坂上側を撮ったものである。四枚目はそのあたりから坂下側を撮ったものである。この坂道は日暮里駅方面へ抜ける道のためか、車の交通量が多い。

坂下を右折せずそのまま直進すると、すぐ次の四差路の左右が人通りの多い谷中銀座の通りである。人通りだけを考えると、この坂は裏道、脇道のようになっている。

七面坂中腹 七面坂中腹 七面坂中腹 七面坂中腹 一枚目の写真は中腹の折れ曲がりから坂上側を撮ったもので、二、四枚目は、さらに進んでから坂上を撮ったものである。このあたりは坂下よりも勾配がついているが、中程度といったところである。三枚目は、そのあたりから坂下側を撮ったもので、坂下の寺に墓とたくさんの卒塔婆が見える。

この坂は、ちょうど、台東区谷中五丁目と荒川区西日暮里三丁目との境界になっていて、坂下から見て台東区側の右端(南側)に坂の標識が立っていて、その反対側に荒川区の標識が立っている(二枚目、下一枚目の写真に写っている)。前者には次の詳しい説明がある。

「七面坂(しちめんざか)
 宝暦年間の『再校江戸砂子』に「宗林寺前より七面へゆく坂」とある。宗林寺(台東区谷中三-一〇)は坂下にあるもと日蓮宗の寺、七面は坂上の北側にある日蓮宗延命院(荒川区西日暮里三-一〇)の七面堂を指す。七面堂は甲斐国(山梨県)身延山久遠寺の西方、七面山から勧請した日蓮宗の守護神七面天女を祀る堂である。
 坂は『御府内備考』の文政九年(一八二六)の書上によれば、幅二間(約三・六メートル)ほど、長さ五十間(約九十メートル)高さ二丈(約六メートル)ほどあった。
 なお宗林寺は『再校江戸砂子』に、蛍の所在地とし、そのホタルは他より大きく、光もよいと記され、のちには、境内にハギが多かったので、萩寺と呼ばれた。
  平成六年三月        台東区教育委員会」

七面坂上 七面坂上 七面坂上 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 一枚目の写真は、坂上側から坂下を撮ったもので、二枚目はそのあたりから坂下を撮ったもので、坂上側では緩やかになっていることがわかる。坂上で谷中銀座から御殿坂へと続く通りと合流する。三枚目は、さらに坂上側から坂下を撮ったものである。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図を見ると、蛍沢のあった宗林寺の前の道を右折し東へ進む道がこの坂である。坂上北側に延命院七面とある。下三枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図には七メンとあるだけで、近江屋板には同じ位置に七面社とある。

この延命院は現在、坂上の谷中銀座からの通りの北側にあるが、この坂はこのあたりが坂上であったのであろう。

『御府内備考』の「谷中之一」の総説に、「七面坂 御殿坂の通りにて西へ下る坂を云、」とある。上記の標識で引用の説明は七面前町の書上である。

七面坂上 七面坂上 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 一枚目の写真は、坂上から東側を撮ったもので、谷中銀座からの通りの向こうに延命院の参道らしき所が見える。二枚目は谷中銀座からの通りを横断し坂上を撮ったもので、この坂上は谷中銀座からの通りに吸収されたように見える。

『江戸名所図会』に、七面大明神社が「同所延命院といへる日蓮宗の寺に安置す。開山日長人、万治三年[1660]庚子正月十六日、夢中に霊告を得て、後勧請すといへり。」と説明されている。立願には、面七つ、また鏡七つをかけるという習慣があった。八百屋お七の母親が新願をこめ、一女を得て、お七と名付けたという伝説があるという。

麻布十番の近くにも同名の坂がある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸名所図会(五)」(角川文庫)

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蛍坂(三年坂)

2012年07月23日 | 坂道

三崎坂上から北への小路 観音寺の築地塀 蛍坂上 蛍坂上 前回の三崎坂上近く明王院の東わきの細い道に入る。この小路は北へまっすぐに延びている。この小路の進行方向北側を撮ったのが一枚目の写真である。三崎坂も善光寺坂と同じように車の交通量が多い方なので、こういった小路に入るとほっとした気分になる。

やがて突き当たるが、そこを右折して撮ったのが二枚目である。観音寺の築地塀(泥土をつき固めてつくった塀)が道に沿って延びている。

ここを引き返し(先ほどの突き当たりを左折した方向)、ちょっと進んでから撮ったのが三枚目の写真で、樹木でちょっと鬱蒼としている突き当たりを右折すると、蛍坂の坂上である。そこを右折して坂下側を撮ったのが四枚目である。ほぼまっすぐに北へ延びているが、坂下へと進むと、すぐかなり狭くなる。こういった狭い坂道が都内に残っているのは珍しい。たとえば、小日向の鼠坂も狭いが、この蛍坂よりも広く、階段坂である。

蛍坂上 蛍坂上 蛍坂上から下る階段 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 一枚目の写真は坂上からちょっと歩いてから、ふり返って坂上を撮ったもので、二枚目は、そのあたりから坂下側を撮ったものである。このあたりはまだ緩やかである。

この坂は、坂下に向かって左側(西)は崖で、右側はコンクリート塀となっているが、坂上の崖側は樹木でいっぱいで森のようになっている。この西側の崖には、三枚目の階段がつくられていて、坂上から広場の方へ下ることができる。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図に、上中央に観音寺があり、その前の上下(東西)に延びる道が先ほどの築地塀の道で、そこを下(西)へ行くと突き当たるが、この本宗寺の角を右折した道がこの坂と思われる。その道を左(北)へ進むと、下(西)への道が二本平行にあるが、一番下二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))には一本だけである。近江屋板も一本である。明治地図(明治四十年)にも一本しかない。

三枚目(尾張屋板)の安立寺(近江屋板、横関による)の角を曲がって西へ下る道が上記の階段から続く道で(そうだとするとかなり急な坂道)、その北の酒井屋敷の角を曲がって西へ下る道がこの坂であろうか。あるいは、現在の坂下の曲がり角の先から北へさらに延びる道があったのか。戦前の昭和地図(昭和十六年)には二本あるが、中間の道は坂下途中で途切れている(初音町四丁目)。

蛍坂中腹 蛍坂中腹 蛍坂中腹 蛍坂中腹 一枚目の写真は、ちょっと下ってから坂上を撮ったもので、かなり狭くなっていることがわかる。二枚目はそのあたりから坂下を撮ったもので、坂下で突き当たり、左に直角に折れ曲がっている。三枚目はさらに下ってから撮った坂上で、四枚目は坂下の突き当たり角から撮った坂上である。このあたりでちょっと勾配がついている。

四枚目と下一枚目のように、坂下の角に蛍坂(ほたるざか)と記した標柱が立っている。古くなったため説明文が薄くなったり消えたりして全文の判読は不能であるが、その一部によれば、坂名は、このあたりにあった蛍沢に由来するようである。このあたりは江戸時代の蛍の名所であった(横関)。

蛍沢について『御府内備考』の「谷中之一」の総説に次の説明がある。

「蛍沢
むかしは流も広く、蛍もことの外多かりしと、されど谷中のうちに二カ所あり、三崎妙林寺の辺をむかしはすべて云、今も妙林寺の内に蛍沢之池と云ところわづかにのこれり、又日暮里宗林寺の辺も蛍沢といへり、ここも蛍の多くむれ飛よりかく名付るよし、【江戸志】」

上記の説明によれば、蛍沢とよばれる所は、三崎妙林寺の辺(すべて)と、日暮里宗林寺の辺の二ヶ所あった。 上三枚目の根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図には、大圓寺(大円寺)の方から延びてくる道にこの坂下がつながっているが、そこの左側(北)に宗林寺があり、そのあたりを日暮里というとある。一カ所はこの宗林寺であるが、もう一つの三崎の妙林寺はどこかわからない。位置的には、谷戸川(藍染川)の流域と思われるが、それに該当しそうなのが、三崎坂下の方から行って川を渡ってすぐのところにある妙蓮寺で、ちょうど千駄木坂下町の向かいである。一番下二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))では、この寺は「メウリンジ」となっている。近江屋板を見ると、千駄木坂下町の町屋の裏側(北)で川に沿った所に「此辺蛍沢ト云」とある。『江戸名所図会』に日登山妙林寺は法住寺の西、小川を隔ててあり、と挿絵とともに紹介されている。上三枚目の根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図に三崎坂下に法住寺があり、その川の向かいにある「妙蓮寺」は、妙林寺の誤りのようである。

蛍坂下 蛍坂下 蛍坂下 蛍坂下 一、三枚目の写真は坂下の角を左折してから坂下(西側)を撮ったものである。二枚目はそこをちょっと下ってから上の曲がり角を撮ったもので、四枚目はさらに下ってから撮ったもので、曲がり角からちょっと急に下っているが、距離は短い。

坂名(蛍坂)は、上記のように、近くの蛍沢に由来するが、この北にある七面坂と三崎坂との中間にあるので、中坂ともいった。横関によれば、中坂は新坂と同義であるので、この坂は、二つの坂の後にできたと思われる。

また、この坂はお寺に囲まれていたので、三年坂ともよばれ(横関)、この坂でころぶと三年以内に死ぬという迷信があり、同名の坂が都内に数カ所ある(以前の記事)。

蛍坂遠景 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 江戸名所図会 蛍沢 坂下を西へ進み突き当たりを左折し、次を左折してから前方(東側)を見ると、一枚目の写真のように広場の向こうに森が見え、そのわきに先ほどの階段が見えるが、その上に蛍坂が横に延びている。その上に墓地が見える。この坂は、上野台地の西端の一部に、崖地を横切るようにしてできた坂であることがわかる。このため、坂道を拡幅しようとしてもできず、いまも狭いままとなっていると思われる。その意味で、むかしから続く形態(坂の狭さ)を残している所である。

三枚目は、『江戸名所図会』にある蛍沢の挿絵で、これをながめていると、このあたりの往古の風景が思い浮かぶようである。挿絵上部の文章は次のとおり。

「蛍沢
谷中宗林寺の境内にあり。また妙林寺の池をも蛍沢と唱ふ。すべてこの辺、蛍の光、他に勝れたり。
 草の葉を落つるより飛ぶほたるかな 芭蕉」
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸名所図会(五)」(角川文庫)
「新訂 江戸名所図会5」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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永久寺(仮名垣魯文の墓)

2012年07月22日 | 散策

永久寺門前 永久寺 仮名垣魯文説明板 前回の三崎坂上についたとき、仮名垣魯文(かながきろぶん)の墓があるという永久寺を思い出した。以前の記事で次の永井荷風の『断腸亭日乗』昭和16年(1941)10月27日の記事を引用したからである。

「十月廿七日、晴れて風あり。午後散歩。谷中三崎町坂上なる永久寺に仮名垣魯文の墓を掃ふ。団子坂を上り白山に出でたれば原町の本念寺に至り山本北山累代の墓及大田南畝の墓前に香花を手向く。南畝の墓は十年前見たりし時とは位置を異にしたり。南岳の墓もその向変わりたるやうなり。寺を出で指ヶ谷町に豆腐地蔵尚在るや否やを見むと欲せしが秋の日既に暮れかかりたれば電車に乗りてかへる。」

荷風は、この日、三崎坂上の永久寺に仮名垣魯文の墓を掃苔し、それから三崎坂を下り、団子坂を上り白山にでて、原町の本念寺に至った。荷風は「谷中三崎町坂上」とし「三崎坂」としていないが、この坂名はあまり一般的でなかったのだろうか、そんな疑問が生じる。

坂上をちょっと進むと、永久寺はすぐの所にあった。一枚目の写真は坂上から門前を撮ったものである。境内に入ると、正面右側に二枚目のように説明板が立っている。三枚目は、その拡大である。今回は境内の説明板までで、仮名垣魯文の墓には行けなかった。

根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 左の尾張屋板江戸切絵図 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図を見ると、三崎坂上に永久寺がある。

仮名垣魯文についてはほとんど知らなかったが、上記の荷風の日乗の記述に加え、森鷗外(鴎外)の『細木香以』に次のような記載があったので、今回、記事にした。細木香以は、江戸時代後半のいわゆる大通(遊芸に通じた大趣味人)の一人である。

「子之助は此年十二月下旬に継母の里方鳥羽屋に預けられた。これは新宿、品川二箇所の引手茶屋に借財を生じたためである。子之助時に二十歳であった。
 然るに竜池の遊所通は罷んでも、子之助のは罷まなかった。天保十三年三月の頃から五分月題(さかやき)の子之助は丁稚(でっち)兼吉を連れて、鳥羽屋を出で、手習の師匠松本、狂歌の宗匠梅屋鶴寿等を訪ふことになったが、その帰途には兼吉を先に還らせて、自分は劇場妓楼に立ち寄った。兼吉は綽号(あだな)を鳥羽絵小僧と云った。想うに鳥羽屋の小僧で、容貌が奇怪であったからの名であらう。即ち後の仮名垣魯文である。」(五)

子之助(ねのすけ)は主人公香以で、せっせと遊所に通っていたところ、同じく父竜池もそうだったが、父はあることで止めた。子之助は止めず、引手茶屋に借金をつくったため継母の里の鳥羽屋に預けられた。その鳥羽屋の丁稚で子之助のお供をした兼吉が後の仮名垣魯文である。ただ、これだけのことだが、鴎外がさりげなく書いているので、かえって気にとまった。
(続く)

参考文献
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「鴎外選集 第六巻」(岩波書店)
「芥川龍之介全集1」(ちくま文庫)

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笠森お仙の碑(大円寺)

2012年07月21日 | 荷風

三崎坂から大円寺 大円寺門前 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 前回の三崎坂を上り中腹の信号の所を左折すると、一、二枚目の写真のように大円寺の門前が見える。ここに永井荷風による笠森お仙の碑があるということで寄り道をした。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図に、坂下の藍染川のわきに大圓寺(大円寺)が見えるが、境内にカサモリイナリ(笠森稲荷)がある。

荷風の日記「断腸亭日乗」大正8年(1919)4月24日に次の記述がある。

「四月廿四日。某新聞の記者某なる者、先日来屢[しばしば]来りて、笠森阿仙建碑の事を説き、碑文を草せよといふ。本年六月は浮世絵師鈴木春信百五十年忌に当るを以て、谷中の某寺に碑を立て法会を行ひたしとの事なれど、徒に世の耳目をひくが如き事は余の好まざる所なれば、碑文の撰は辞して応ぜず。」

荷風は、鈴木春信の百五十年忌にあたって、新聞記者から笹森お仙の碑文を書くように頼まれたが、このときには、これを辞している。続いて、6月7日に次のようにある。

「六月七日。笹川臨風氏に招かれ大川端の錦水に飲む。浮世絵商両三人も招がれて来れり。鈴木春信百五十年忌法会執行についての相談なり。」

上記の臨風笹川種郎からも頼まれたらしく、6月10日には次の記述がある。

「六月十日。一昨日錦水にて臨風子にすゝめられ余儀なく笠森お仙碑文起草の事を約したれば、左の如き拙文を草して郵送す。
     笠森阿仙碑文
 女ならでは夜の明けぬ日の本の名物、五大洲に知れ渡るもの錦絵と吉原なり。
 笠森の茶屋かぎやの阿仙春信の錦絵に面影をとゞめて百五十有余年、矯名今に
 高し。本年都門の粋人春信が忌日を選びて阿仙の碑を建つ。時恰大正己未の年
 夏滅法鰹のうめい頃荷風小史識。」

以上のようにして、笠森お仙碑文ができたが、上記の日乗の記述からみる限り、荷風にとってあまり気乗りのしない起草であったようである。碑文の最後の「時あたかも大正己末(つちのとひつじ)の年夏滅法鰹のうめい頃」の「めっぽうかつおのうめいころ」というのがおかしく、ちょっと投げやりな感じにもとれる。

笠森お仙の碑 笠森お仙の碑 説明板 笠森お仙については、次のようなことが知られている。

・笠森 お仙(かさもり おせん、1751年(宝暦元年) - 1827年2月24日(文政10年1月29日))は、江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘。明和年間(1764年-1772年)、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋お藤(やなぎや おふじ)と人気を二分し、また二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およし(つたや およし)も含めて江戸の三美人(明和三美人)の一人としてもてはやされた。

・1763年(宝暦13年)ごろから、家業の水茶屋の茶汲み女として働く。当時から評判はよかったという。

・1768年(明和5年)ごろ、市井の美人を題材に錦絵を手がけていた浮世絵師鈴木春信の美人画のモデルとなり、その美しさから江戸中の評判となり一世を風靡した。お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたという。

・1770年(明和7年)2月ごろ、人気絶頂だったお仙は突然鍵屋から姿を消した。お仙目当てに訪れても店には老齢の父親がいるだけだったため、「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行した。お仙が消えた理由についてさまざまな憶測が流れたが、実際は、幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもある倉地甚左衛門の許に嫁ぎ、9人の子宝に恵まれ、長寿を全うしたという。享年77。

・現在、お仙を葬った墓は東京都中野区上高田の正見寺にある。

(以上、wikipediaから引用)

一枚目の写真は、大円寺境内にある笠森お仙の碑で、碑文は、上記のように荷風の撰による。二枚目は、その上側部分で、「笠森阿仙乃碑」という文言が読みとれる。三枚目はその説明文である。

秋庭太郎によれば、この碑文に関しては、後日談があるようで、荷風は、昭和12,3年ごろ菅原明朗とこの碑を見たとき、「うっかり碑文なんか書くもんじゃない」と菅原に述懐したという。

日乗を見ると、たとえば、昭和13年5月24日に菅原等と車で人を送って谷中に行き、墓地を歩み上田柳村(敏)の墓を拝したとあるが、このときなどであったかもしれない。

秋庭は、阿仙の茶屋は天王寺中の笠森稲荷に在ったので、春信や阿仙の碑はむしろここに建碑すべきであったとし、荷風は建碑後に、阿仙茶屋所在のゆえよしを知って、菅原にそう述懐したのか、あるいは撰文を拙なりとしたのか、そのいずれかであったろう、としている。(尾張屋板の大円寺にカサモリイナリとあるが、お仙のいた茶屋は天王寺中門際にあった。)

ところで、上記のように、明和七年(1770)2月ごろ、お仙がとつぜん鍵屋から姿を消し、代わりに老齢の父親が出ていたので、「とんだ茶釜が薬罐に化けた」という言葉が流行した。茶釜は美人を意味し、薬罐は禿頭の老爺である。これに関連し、横関は、都内の数カ所にあるお化けの出るような薄気味悪い所であった薬罐坂(小日向の薬罐坂目白台の薬罐坂杉並の薬罐坂など)の由来につき、本来、狐の異名説のある「野干(やかん)」であるべきところ、当時の流行語であった薬罐(やかん)を使って、薬罐坂と書いたのではないか、と推測している。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(上)」(岩波現代文庫)

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三崎坂

2012年07月18日 | 坂道

団子坂下 三崎坂下 三崎坂下 三崎坂下 前回の真島坂下を右折し、ちょっと歩くと、突き当たるが、ここが三崎坂の坂下である。ここを左折し、ちょっとすると、不忍通りの団子坂交差点である。一枚目の写真のように、不忍通りの向こうに団子坂の坂下が見える(以前の記事)。

三崎坂下や不忍通りのあたりが根津谷で、団子坂は本郷台地へ上り、三崎坂は三浦坂善光寺坂と同じく上野台地へ上る。三崎坂は団子坂と根津谷をはさんで相対している。

交差点から引き返し、坂下から坂上側を撮ったのが二、三枚目の写真である。二枚目のように坂下で右にちょっと曲がってから途中までほぼまっすぐに延びており、三枚目のあたりからかなり緩やかであるが上りはじめている。

四枚目はちょっと歩いてから坂下側を撮ったものである。坂下は、商店が多く、観光客など人通りが多い。谷戸川(藍染川)の跡が坂の通りを横切っており、ここから下流が蛇のようにくねっているためか、へび道と呼ばれ、上流側がよみせ通りとなっていて、ここも人通りが多い。

三崎坂下 三崎坂中腹 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 一枚目の写真は坂下途中から坂上側を撮ったもので、緩やかな勾配がついている。二枚目はそこからさらに進んだ中腹から坂上側を撮ったもので、このあたりになるとだいぶ勾配がついている。

坂上側に標柱が立っているが、それには、次の説明がある。

「三崎坂(さんさきざか)
「三崎」という地名の由来には諸説あるが、駒込・田端・谷中の三つの高台にちなむといわれる。安永二年(一七七三)の『江戸志』によると、三崎坂の別名を「首ふり坂」といい、三十年ほど以前、この坂の近所に首を振る僧侶がいたことにちなむという。」

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、右側(北)坂下に大円寺のある道筋がこの坂で、左側(南)に三崎町の町屋がある。坂下には、藍染川が流れ、その向こう(西)に千駄木坂下町の町屋が見える。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図では、この坂が大円寺と三崎町の町屋との間を上(東)へ上っているが、坂下の先で千駄木坂下町の町屋の西に団子坂が見える。現在の不忍通りは、藍染川よりも西(団子坂)よりであることがわかる。団子坂交差点から東へしばらく坂はほぼ平坦であることの理由がこれである。近江屋板を見ると、坂名はないが、坂マーク△が記されている。

三崎坂中腹 三崎坂中腹 三崎坂中腹 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 一、三枚目の写真のように、中腹で左に緩やかにカーブしている。二枚目はそのあたりから坂下を撮ったものである。このあたりの北側に大円寺がある。この寺に永井荷風による碑文の刻まれた笠森お仙の碑があるが、これは、後で紹介する。

四枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図であるが、坂下の大円寺と三崎町の町屋との間の道筋がこの坂で、上(西)に団子坂が見える。

この坂は『御府内備考』の「谷中之一」の総説に次のように説明されている。

「三崎坂
三崎町の坂たり、【江戸志】云、此坂を世に首ふり坂といふは、三十年ばかり以前首をふる僧此坂のほとりに居しゆえ俗にかく呼べりと、」

上記の標柱の別名「首ふり坂」の説明はこの御府内備考を参考にしたものであろう。

同じく「三崎町」の書上に次の説明がある。

「一 三崎坂 幅二間余、長二丁半程、高さ二丈程、」 これによれば、幅3.6m、長さ272m、高さ6mほどの坂であったが、かなり長い坂で、いまも、坂下の平坦なところから坂上の平坦部分までその程度の長さがあると思われる。

三崎坂中腹 三崎坂中腹 三崎坂上 三崎坂上 一枚目の写真は中腹から坂下を撮ったもので、二枚目は中腹から坂上を撮ったもので、この南側の歩道に上記の標柱が立っている。三、四枚目は坂上側で撮ったもので、このあたりで左に緩やかに曲がっている。

このあたりの坂上になると、坂下のごちゃごちゃして賑やかな感じから一転して静かな雰囲気となる。

この坂は、この南側にある善光寺坂と似た感じで、どちらも坂下は緩やかで途中から勾配がついてくるが、緩やかな曲がりはこの坂の方が多い。同じように根津谷から上野台地へ上る坂であるから似てくるのであろうか。

三崎坂上 三崎坂上 三崎坂上 三崎坂上 一、三枚目の写真は、坂上から坂下側を撮ったもので、曲がってからまっすぐに上っている。二、四枚目は坂上を撮ったもので、このあたりでは、ほぼまっすぐになっている。

三崎という地名は、『新撰東京名所図会』では、他所では三崎と書いてミサキと読むのが通例で、ここももとはミサキで、往古は不忍池につらなる水系の岬であったのであろうとする(石川)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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善福寺川(尾崎橋~宮下橋)2012(7月)

2012年07月16日 | 写真

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あかじ坂~真島坂

2012年07月11日 | 坂道

あかじ坂下 あかじ坂下 あかじ坂中腹 あかじ坂周辺地図 前回の三浦坂下のT字路を右折し、北へ歩き、次の四差路を右折すると、あかじ坂の坂下である。

一、二枚目の写真のように、中程度の勾配でまっすぐに北東へ上っている。道幅もほぼ一定できっちりとした感じで、先ほどまでの三浦坂善光寺坂とはちょっと違うイメージがあり、二枚目のように石垣がまた別の風情をつくっている。

三枚目は、中腹から坂下側を撮ったもので、坂下の先は、藍染大通りを通って不忍通りに至り、そこを横断すると、根津神社の参道で、その先が新坂(S坂)である。根津谷をはさんで上野台地のあかじ坂と本郷台地の新坂とが向かい合っている(向こうの坂は見えないが)。

四枚目は、坂下近くに立っていた街角案内地図の一部で、あかじ坂があり、その上(南)に三浦坂がみえる。

この坂は、尾張屋板江戸切絵図(前回の部分図)を見るとわかるように、江戸時代にはない。実測東京地図(明治十一年(1878))を見るとまだないが、明治地図(明治四十年(1907))にはあるので、明治中頃にできたのであろうか。

あかじ坂中腹 あかじ坂中腹 あかじ坂上 あかじ坂上 一枚目の写真は中腹から坂上を、二枚目は坂上から坂下を撮ったものである。三、四枚目は坂上であるが、このあたりになるとかなり緩やかである。

あかじ坂は、石川、岡崎、山野では、赤字坂となっている。また、あかぢ坂と表記する場合もある。

石川によれば、坂下から坂上までの西側一帯に、明治末から昭和のはじめにかけて相場師の渡辺治右衛門の広大な屋敷があった。明治四十一年大垣から東京に進出し、株式仲買店をひらいて巨富を得たが、昭和二年(1927)の金融恐慌によって破産した。浅草精光寺に寄寓して同五年寂しく没した。赤字坂の名は渡辺治右衛門が破産したころにつけられた町の人々の皮肉な呼び名である、としている。

上記の四枚目の街角案内地図をよく見ると、「あかじ坂」の近くに、坂の説明文らしきものが貼り付けてある。途切れているが、明治坂(あかじ坂)、渡辺銀行、明治屋治右衛門などの文言がみえる。

このちょっとおもしろい坂名は、大金持ちから破産してさみしい境遇に落ち込んだ相場師を揶揄する庶民の感情からついたもので、このような謂われのある坂名も珍しい。

森鷗(鴎)外は、三崎坂と相対する、根津谷から本郷台地へと上る団子坂上の観潮楼と称した住居に住んでいた(以前の記事)。明治三十五年(1902)判事荒木博臣の長女志げと結婚したが、双方とも再婚であった(以前の記事)。志げは、上記の明治屋こと渡辺治右衛門の息子勝太郎(二代目渡辺治右衛門)の前妻であったという(石川)。

真島坂上 真島坂上 真島坂上 真島坂周辺地図 赤字坂の坂上手前を左折し、北へちょっと歩くと、「あかぢ坂一帯 一時集合場所」の標識が立っている。そのまま進み、突き当たりを右折し、次を左折し、ちょっと歩くと、左手に坂が見えてくる。一枚目の写真のように、真島坂の坂上である。左に坂上を見て、直進すると三崎坂の中腹である。

一、二枚目のように、ほぼまっすぐに中程度の勾配で西へ下っている。三枚目は、坂上からちょっと下り坂上側を撮ったもので、ここを右折して直進すれば、先ほどのあかじ坂上にいたる。

四枚目は、三崎坂の坂下近くに立っていた街角案内地図の一部で、あかじ坂の斜め上(北)に真島坂がある。

この坂は、山野、「東京23区の坂」にはあるが、石川、岡崎には紹介されていない。

真島坂中腹 真島坂中腹 真島坂下 真島坂下 一枚目の写真は中腹から坂上を、二枚目は中腹から坂下を撮ったものである。三、四枚目は坂下から撮ったもので、坂下側で少し幅広となっている。静かな住宅街の坂である。

この坂もあかじ坂と同じように、江戸、明治初期にはないが、明治地図(明治四十年(1907))にはあるので、あかじ坂などと同じころにつくられたのであろうか。

この明治地図を見ると、三浦坂の北側からあかじ坂、真島坂付近一帯が真島町となっているので、坂名はこの地名に由来するのであろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)

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三浦坂

2012年07月10日 | 坂道

三浦坂上 三浦坂上 三浦坂上 三浦坂中腹 前回の善光寺坂上の信号のちょっと手前で左折して横道に入り、狭い道を北西へと歩く。さきほどまでの車の多い通りから一変して静かな寺町の小路の散歩となる。やはりこういった小路の方が落ち着いた雰囲気で散策を楽しむことができる。

やがて、T字路に出るが、ここを左折すると、一枚目の写真のように、細い道が延びている。これぞ裏道といった雰囲気でこういった道に出くわすとうれしくなってしまう。ここが三浦坂の坂上である。かなり緩やかに下っている。ちょっと進んでからふり返って撮ったのが二枚目である。このあたりから坂は急に傾斜している。三枚目は坂上から坂下側を撮ったもので、四枚目はちょっと下ってから坂上を撮ったもので、かなりの勾配であることがわかる。

この坂は『御府内備考』の「谷中之一」の総説に次のように説明されている。

「三浦坂
 三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり、一名中坂と称す、」

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 一枚目は、尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図であるが、善光寺坂とほぼ平行な道筋がその斜め上(北)に見えるが、これが三浦坂である。ミウラサカ、とあり、坂の北側に三浦備後守の下屋敷がある。坂名はこれに由来する。近江屋板にも、△ミウラサカ、とある。

二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図には、坂名はないが、三浦ビンゴ(備後)邸があり、その南側の道筋がこの坂である。

この坂は、これよりも北側の三崎坂と善光寺坂との間にできた坂であるので、御府内備考にもあるように中坂ともよばれた。

三枚目は、尾張屋板江戸切絵図 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))で、ここにも三浦坂が見える。坂わきは三浦志摩守邸となっている。

上記の各江戸絵図には、坂下に川が流れているが、谷戸川(藍染川)で、この下流で不忍池へ流れ込んでいる。

『新撰東京名所図会』には、「三浦坂は真島町の東方西畔より領玄寺前に上る坂路をいふ。もと三浦志摩守の邸ありしに因る。一名中坂といふ」と記されている(石川)。

三浦坂中腹 三浦坂下 三浦坂下 三浦坂下 一枚目の写真は、中腹から坂下側を撮ったもので、坂下側に猫グッズかなにかの猫関係の店があり、このため、この坂下は賑わっていることがある。以前来たときもそうであった。

二~四枚目は、坂下側から坂上を撮ったもので、坂下側ではかなり緩やかになっている。となりの寺院からの樹木でちょっと鬱蒼としている。このため、四枚目のように坂下から坂上が見えない。

この坂は江戸から続く坂であるが、坂上側で部分的にかなり急になっているところなどは、これまで坂を平均化する工事などがなされてきていない証しのように想われ、このため、坂を下ると、かなりむかしの原形をとどめているような気がしてくるから不思議である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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玉川上水(万助橋~浅間橋)2012(7月)

2012年07月09日 | 写真
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善光寺坂(谷中)

2012年07月04日 | 坂道

善光寺坂上 善光寺坂下 善幸寺坂下 善光寺坂下 前回の三段坂上を左折し、北へ歩くと、まもなく四差路にでるが、ここを左折すると、善光寺坂の坂上である。そのあたりから坂下側を撮ったのが一枚目の写真である。遠く、根津谷の向こうに本郷台の建物が見える。坂を下り引き返したので、坂下から順に写真をならべる。

この坂は、言問通りにあり、坂下の先で不忍通りと交差する。二枚目は坂下から西側の交差点方面を撮ったもので、このあたりはほぼ平坦である。三枚目は交差点から不忍通りをはさんでその先の弥生坂(以前の記事)を撮ったものである。言問通りは、東大農学部そばの本郷通りの交差点(本郷弥生)から東へ延びているが、弥生坂を根津谷へと下り、そこから善光寺坂を上野台地へと上っている。

交差点から引き返すが、このあたりは、むかしながらの商店が多く、地元の人、買い物客、観光客など人通りが多い。

四枚目は交差点からちょっと入った坂下から坂上を撮ったもので、このあたりからかなり緩やかであるが、勾配がつきはじめる。

善光寺坂下 善光寺坂下 善光寺坂中腹 善光寺坂中腹 一枚目の写真のように、しだいに勾配がついてくるが、まだ緩やかである。この坂はほぼまっすぐに坂下の先の交差点から東へと上っている。ちょっと上り、坂下側を撮ったのが二枚目である。三枚目は信号のある交差点から坂上側を撮ったもので、このあたりから上がもっとも勾配があるが、それでも中程度といったところである。四枚目は、さらにちょっと上り、坂下側を撮ったもので、このあたりで坂らしくなっているのがわかる。

坂上左側(北)歩道わきに坂の標識(下二枚目の写真)が立っている。次のような詳しい説明がある。

「善光寺坂(せんこうじざか)        台東区谷中一丁目五番
 谷中から文京区根津の谷に下りる坂には、この坂と北方の三浦坂・あかぢ坂とがあり、あかぢ坂は明治以後の新設である。
 善光寺坂は信濃坂ともいい、その名は坂上の北側にあった善光寺にちなむ。善光寺は慶長六年(一六〇一)信濃善光寺の宿院として建立され門前町もできた。寺は元禄十六年(一七〇三)の大火に類焼して、青山(現港区青山三町目)に移転し、善光寺門前町の名称のみが明治五年まで坂の南側にあった。
 善光寺坂のことは、明和九年(一七七二)刊行の『再校江戸砂子』にも見え、『御府内備考』の文政九年(一八二六)の書上には「幅二間(約三・六メートル)、長さ十六間(約二九メートル)、高さ一丈五尺(約四・五メートル)ほどとある。
  平成七年三月                 台東区教育委員会」

善光寺坂中腹 善光寺坂説明板 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 一枚目の写真は、信号のところからさらに上側から坂下を撮ったものである。信号から上がちょっと道幅が広くなっている。この通りはかなり車の交通量があり、車の通らない坂を撮るには、ときどき立ち止まって車の流れが途切れるのを待たなければならない。

三枚目は、尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図で、左側(南)の不忍池の方からの道が清水坂を通って直角に屈曲しながら延びて突き当たってから、上(西)へと延びる道があるが、これが善光寺坂である。道沿いに善光寺前町の町屋が細長く続き、坂下に天眼寺が見える。この寺は現在もある。

尾張屋板には坂名も坂マークもないが、近江屋板には、△ゼンコウシサカ、とある。

四枚目は、御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図で、これには坂名も坂マークもないが、坂下に、天ガンジ、とあり、この前の道がこの坂である。

『御府内備考』の「谷中之一」の総説に次の説明が引用されている。

「善光寺坂
 一名信濃坂ともいへり、むかし青山の善光寺此前にありしゆえの名なり、【江戸紀聞】」

上記の標識の説明にもあるように、善光寺は慶長六年(1601)信濃善光寺の宿院として建立され、元禄十六年(1703)の大火で焼け、宝永二年(1705)青山に移転したが、坂名はそのまま残ったということらしい。同じように寺の移転後もそのまま坂名が残っている例として、麹町の善国寺坂や麻布市兵衛町の幸国寺坂(長垂坂)などがある。

上記の標識が引用している『御府内備考』の書上は、善光寺前町についてのものである。

以上のように、この坂は、江戸から続く坂である。

善光寺坂上 善光寺坂上 善光寺坂上 善光寺坂上 一、二、三枚目の写真は坂上のちょっと下から坂上を撮ったもので、四枚目は坂上から坂下側を撮ったものであるが、坂上近くになると緩やかになる。

横関によれば、善光寺の旧地は、坂北側の王林寺の右手、本光寺、上聖寺、妙情寺、信行寺のあるところだったという。

善光寺は、現代地図を見ると、表参道駅の近く港区北青山三丁目にある。

同名の坂が文京区小石川の伝通院の東にある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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