東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

蛙坂

2011年03月31日 | 坂道

蛙坂手前 蛙坂下 蛙坂下 蛙坂中腹 釈迦坂下を右折し丸の内線のガード下を通り抜けて、藤坂の方からの道を横断し左折すると、稲荷神社があるが、この先を曲がると蛙(かえる)坂の坂下である。ここに貞静学園短大の門がある。坂下は緩やかであるが、中腹で右にちょっと曲がるあたりから勾配がきつくなり、上側で左に大きく曲がってから、少し緩やかになって上る。谷からいっきょに小日向の台地に上るためかなり急である。坂上の途中から東側を見ると、丸の内線が下に見える。

ここを直進すると、左手に切支丹屋敷跡の石柱が立っており、その先を左折したところが切支丹坂上である(以前の記事参照)。

坂の上側の大きく曲がるところに説明板が立っているが、前回、この説明板を撮影していたら車がきたらしく警笛がなるまで気がつかなかった。この坂は、特に曲がりの部分では写真を撮るのも車を運転するのも要注意である。

蛙坂中腹 蛙坂中腹 蛙坂上側 蛙坂上側 上記の説明板には次の説明がある。

「蛙坂(復坂) 小日向一丁目23と25の間
「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず」(改撰江戸志)
 『御府内備考』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので、里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。
 なお、七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂に通じている。
  文京区教育委員会 平成12年3月」

別名の復坂は、かえるざかと読み、横関に別書きとある。

蛙坂上 蛙坂上 蛙坂上 蛙坂上側 尾張屋板江戸切絵図を見ると、徳雲寺の西を下る釈迦坂の南に緩やかな弧を描いている道があるがここと思われる。南側で急にまっすぐになっている。近江屋板もそうなっているが、坂マークがない。

上の説明にある清水谷とはどこを指すのだろうか。この坂下あたり一帯は茗荷谷と思っていたがそうでもないらしい。『御府内備考』の小日向の総説に「清水谷は茗荷谷のむかいの方、御簞笥町の裏なり、【改撰江戸志】」とある。切絵図をみると、徳雲寺の北に小日向清水谷町とあり、その道を挟んで向こう側が小石川御簞笥町となっている。その清水谷町は、これから行く藤坂の上の方にあり、谷という感じがないので、ちょっとイメージがつかみきれない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)

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釈迦坂

2011年03月30日 | 坂道

釈迦坂上 釈迦坂上 釈迦坂上 釈迦坂中腹 団平坂上から公園のわきを通って春日通りへ出て、通りを西側へ横断し、その近くから通りの裏道に入る。南東方向へ進むと、やがて釈迦坂の坂上に至る。ちょうど徳雲寺の西側裏手である。むかしからの坂なのであろうか、中腹から下側で二度ほど大きく曲がっている。勾配は中腹から上側でちょっときつめである。

石垣風の壁が両わきに続いている。坂下側はまっすぐに下っているが、ちょうど丸の内線と平行になっている。

この坂を通ると、すれ違うのはいつも老人である。前回、ここを上って帰途についたが、そのときもそうだった。このような道を知っているのはこの土地の老人だけということなのであろうか。

釈迦坂中腹 釈迦坂中腹 釈迦坂中腹 釈迦坂中腹 坂中腹に立っている説明板には次のようにある。

「釈迦坂 文京区小日向4-4 徳雲寺裏
 春日通りから、徳雲寺の脇を茗荷谷に下る坂である。
 『御府内備考』によれば、「坂の高さ、およそ一丈五尺(約4m50cm)ほど、幅6尺(約1m80cm)ほど、里俗に釈迦坂と唱申候。是れ徳雲寺に釈迦の石像ありて、ここより見ゆるに因り、坂名とするなり。」
 徳雲寺は臨済宗円覚寺派で、寛永7年(1630)に開山された。『新撰江戸志』に寺伝に関する記事がある。
 境内に 大木の椎の木があった。元禄年間(1688~1704)五代将軍綱吉が、このあたりへ御成の時、椎木寺なりと台命があった。そこで、この寺を椎木寺と呼ぶようになった。後、この椎の木は火災で焼けてしまったが、根株から芽が出て、大木に成長した。明治時代になり、その椎の木は枯れてしまった。椎木寺が椎の木を失ったことは惜しいことである。
 徳雲寺の境内には六角堂があり、弁財天が祀られ、近年小石川七福神の一寺となっている。
  文京区教育委員会 平成14年3月」
 

釈迦坂下側 釈迦坂下側 釈迦坂下側 釈迦坂下 尾張屋板江戸切絵図を見ると、徳雲寺の西側に道があるがここであろうか。近江屋板にも同じ道筋があり、坂マーク△がある。

徳雲寺は夏目漱石の菩提寺であるという。漱石は小説『門』にあるように青年期に禅門に心を寄せ、鎌倉の円覚寺に参禅したことがあり、葬儀は円覚寺山主の釈宗演の引導によってこの寺で執り行われたとのこと(石川)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)

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啄木終焉の地~団平坂

2011年03月29日 | 坂道

啄木終焉の地 啄木終焉の地 啄木終焉の地 説明板 播磨坂の西側の歩道を下り、信号を左折し、次を左折し、少し歩くと、左手にマンションが建っているが、その出入口に「石川啄木終焉の地」の説明板が張り付けてある。右の写真がその説明板であるが、啄木は、明治44年(1911)8月に本郷からこの地の借家(小石川区久堅町74番46号)に移り、翌年4月にここで病没した。 26歳の若さだった。

以前は石碑が立っていたらしく、何年か前に吹上坂や播磨坂に来たときに訪ねたが、ちょうど工事中で、一時的に撤去している旨の張り紙がしてあった。ちょうど左の写真の電柱の裏あたりである。

ところで、啄木(明治19年)と荷風(明治12年)はほぼ同時代生まれで、啄木は荷風の書いたものを読んでいたらしい。明治42年(1909)1月15日の啄木の日記に「金田一君から五十銭借り、一時頃北原君を訪うて原稿の約束をした。・・・それから大久保余丁町の永井荷風氏を訪ねてみたが留守。」とあるが、両者は一度も会わず無縁であったという。秋庭太郎は、啄木は友人の金田一京助から五十銭の借金をしたその日に余丁町の宏大な永井邸を訪ねたが、貧苦に明け暮れていた啄木には貧富の差、境遇の相違というものを強く感じたに相違ないと書いているが、両者の境遇は雲泥の差で、荷風は裕福な官僚の子息で外国にも行けたのに対し、啄木は貧困にあえいだ生涯であった。

団平坂下 団平坂下 団平坂下 団平坂下 啄木終焉の地からもとの道に引き返し、左折し、次を左折し、南西へ向かう。左の写真はその途中から撮ったもので、中央に見える交差点から上が団平坂と思われる。区立小石川図書館の前をまっすぐ緩やかに上る短い坂で、坂上に竹早公園がある。図書館前に立っている説明板には次の説明がある。

『団平坂(丹平坂・袖引坂) 小石川5-9と10の間
 「町内より東の方 松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗団平坂と唱候 右は先年門前地之内に団平と申者舂米(つきまい)商売致住居仕罷候節より唱始候由申伝 年代等相知不申候」と『御府内備考』にある。
 団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。
 何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名の付いた坂は珍しい。
 この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって四か所目である。明治45年(1912)4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。
   椽先(えんさき)にまくら出させて
   ひさしぶりに
   ゆふべの空にしたしめるかな 石川啄木(直筆ノート最後から2首目)
 文京区教育委員会 平成5年3月』

団平坂説明板 団平坂上 団平坂上 この付近の地図 尾張屋板江戸切絵図を見ると、前回の播磨坂の記事に出てきた山岡家と高橋家の前のタカシヤウ丁(鷹匠町)とある道を西へ向かい、その突き当たりから右折して下る坂で(右の写真参照)、坂下の突き当たりは松平播磨守の広い屋敷であった。近江屋板にも山岡家と高橋家があり、その前の道の突き当たりを右折したところに、△タン平サカとある。

上記の説明板で引用する『御府内備考』は清岸寺門前の書上であるが、同じく御簞笥町仲町の書上には、「右鷹匠町と相唱候御武家屋敷境横町より松平播磨守様御屋敷え下り候坂にて、里俗袖引坂と相唱申候」とある。

横関は、この袖引坂の別名が団平坂であったとしている。御府内備考では同じ坂であっても説明する地域で坂名が変わっているが、同じ時代に二つの坂名が存在したということであろうか。

坂上の公園のわきを通って、春日通りへ出る。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
秋庭太郎「永井荷風傳」(春陽堂)
「大日本地誌大系御府内備考第二巻」(雄山閣)

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極楽水~播磨坂

2011年03月28日 | 坂道

播磨坂下 播磨坂下 播磨坂下 播磨坂下 吹上坂下を左折すると、すぐに播磨坂の坂下で、吹上坂とほぼ平行に上っている。ここは吹上坂よりも広く、中央分離帯が散歩道になって両側が一方通行の車道である。真ん中の散歩道は広く、桜並木となってゆったりとした散歩ができる。吹上坂と同じく、坂上は春日通りにつながり、坂下は千川通りである。途中わずかに曲がっているが、ほぼまっすぐな中程度の勾配の坂である。

坂上(東側)歩道わきにあった説明板には次の説明がある。

『環三通り桜並木の由来   文京区小石川4・5丁目の境 播磨坂
 かつて、このあたりは常陸府中藩主松平播磨守の上屋敷で、坂下には千川(小石川)が流れ、「播磨田圃」といわれた田圃があった。戦後できたこの坂は、播磨屋敷の跡地を通り、「播磨田圃」へ下る坂ということで、「播磨坂」とよぶようになった。
 坂の桜並木は、戦後間もない昭和22年、地元の人たちが植えたのがはじまりである。昭和28年には小針平三氏他、有志からの苗木寄贈により桜並木が生まれた。その後、並木植樹帯の整備がすすみ、平成7年には装いを新たにした桜並木が完成した。
 昭和43年には「桜まつり」が地元町会・婦人会の協力で開始され、今日まで桜の名所として区民に親しまれている。』 
 

極楽水入口 極楽水弁才天 播磨坂の中央の散歩道を上るが、ここは途中わきに出ることができないので坂下にもどり、東側の歩道を上る。少しで左側にマンションの入口が見えてくるが、そのわきに極楽水の説明板が張り付けてある。次の説明がある。

「極楽水(ごくらくすい)  文京区小石川4-16 小石川パークタワー敷地内
 ここは、了誉聖冏上人(りょうよしょうけいしょうにん)が、応永22年(1415)伝通院の元ともなった庵を結んだ所で、後に吉水山宗慶寺の境内となった。現在の宗慶寺は、すぐ下にある。
 『江戸名所記』に、「小石川吉水の極楽の井は、そのかみ 伝通院の開山了誉上人よし水の寺に おわせし時に、竜女形をあらわして上人にまみえ奉り、仏法の深き旨を求めしかば、上人はすなわち 弥陀の本願、他力の実義を ねんごろにしめし賜うに その報恩としてこの名水を出して奉りけり」とある。
 現在の極楽水は、小石川パークタワーの手によって近代風に整備されたものである。
 文京区教育委員会 平成5年10月」

マンションのわきへ入ると、樹木で鬱蒼とした庭風の敷地内に、極楽水弁才天の小祠があり、そこから階段でちょっと上がったところに、「極楽水(この下)」の標識が立っている。現在、湧き水はなく、涸れており、正確には極楽水跡であろう。ここを進むと、吹上坂の歩道に出るが、宗慶寺のちょっと上側である。

極楽水 極楽水 「江戸名所図会」には、宗慶寺と極楽水が次のように説明されている。

「吉水山宗慶寺 同じ所三町ばかり西北にあり。朝覚院と号す。浄土宗にして伝通院に属せり。本尊阿弥陀如来は恵心僧都の作なり。相伝ふ、伝通院の了誉上人、応永22年乙未この地に至り、隠栖の地を卜し草庵を葺きてこゝに居せらる。側に清泉あり。洛陽の祖跡を追慕し、これを吉水と号く。則ち当寺これなり。」

これに続く括弧書きに、「江戸名所記」の上記の説明を引用しているが、これは付会(こじつけ)の説で、下谷幡随意院の妙竜水の事跡と混同している、としている。

「極楽水(境内、本堂の前にある井を云ふ。上に屋根を覆ふ。吉水(よしみず)と号くるものこれなり。この辺をすべて極楽水と唱ふるは、この井に依つて名とすといへり。或人云ふ、極楽水は松平播磨候の藩中にあり。旧(むかし)は石川山善仁寺の境内なりと云ふ。)」

極楽の井は、吉水といい、後に松平播磨守の上屋敷内に入ったという。宗慶寺・極楽水の挿絵ものっているが、本堂の手前に屋根のある極楽水の井戸が描かれている。通行人のいる門前の道が吹上坂の一部と思われる。本堂の裏側がいまの播磨坂の方であろう。

上記のように、極楽水は、地名になっており、永井荷風もそのように使っている。たとえば、「断腸亭日乗」大正13年「四月二十日。・・・御薬園阪を下り極楽水に出で、金冨町旧宅の門前を過ぐ。・・・」とある。

播磨坂中腹 播磨坂中腹 播磨坂中腹 播磨坂中腹 極楽水跡から播磨坂の歩道にもどり、左折し、坂上に向かう。広い坂であるので、情緒はないが、樹木が植えられた真ん中の散歩道の存在が唯一、味気なさを和らげている。ないよりはずっとましである。

春日通りの信号を渡り散歩道に入る。

上記の説明板にあるように、ここは、戦後にできた道らしい。江戸切絵図を見ると、坂下側は松平播磨守の屋敷で、上側は武家地であった。明治地図、戦前の昭和地図になく、昭和31年の23区地図にある。この坂のあたりは、下側が久堅町、上側は竹早町であった。

坂上側に立っている旧町名案内によれば、竹早町の由来は、旧町名の一つ、簞笥町の「簞」の字を分解して上下に分けて、竹早のよい名とした、昔は竹の多い土地であったから、などの説があるとのこと。

播磨坂上 播磨坂上説明板 坂上から散歩道に入ると、「高橋泥舟(1835~1903) 山岡鉄舟(1836~1888) 旧居跡 小石川五丁目1」の説明板が立っている。次のような説明がある。

「泥舟は槍術の大家山岡静山の弟で、母方の実家である高橋家を継ぎ、25歳のとき幕府講武所の師範となる。鉄舟は剣術を北辰一刀流の千葉道場に通い、槍を静山に習った。鉄舟は旗本小野家の出身であるが、静山の妹英子と結婚し、山岡家を継いだ。
 二人は、文久二年(1862)12月、清河八郎の呼びかけで、近藤勇らが参加し結成された浪士隊の取締役を幕府から命ぜられ、上洛するが、清河の攘夷尊王の策謀が発覚し、江戸に帰府した。
 慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、官軍が江戸に迫ると、泥舟は前年に大政奉還した元十五代将軍徳川慶喜に恭順を説き、身辺警護に当たった。鉄舟は勝海舟の使者として、駿府の官軍参謀の西郷隆盛に会い、江戸城無血開城への道を開いた。
 海舟、泥舟、鉄舟を維新の三舟と呼び、維新の重要な役割を担った。」

右の写真は、説明板にのっている地図で、尾張屋板江戸切絵図にある高橋家、山岡家が示されている。狭い屋敷であり、裕福ではなかったようである。これは勝海舟なども同じであった。

播磨坂上 播磨坂上 播磨坂上側 坂上の横断歩道にもどり、散歩道から西側の歩道に出る。上の右写真の地図にあるように、石川啄木終焉の地へ行くために坂を下る。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

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吹上坂

2011年03月25日 | 坂道

吹上坂上 吹上坂上 吹上坂上 吹上坂上 三百坂下を左折してまっすぐに延びる道を西へ進むと、やがて信号のある大きな交差点に至るが、この両側で上下するのが吹上坂である。交差点を左折するとすぐに、坂上であるが、この西側に説明板が立っている。文京区の例の車道側に大きく坂名を、その歩道側の裏面に説明文を標示したものである。

坂上を直進すると春日通りにでて、その交差点の向こうは庚申坂へと続く。坂を北へ下ると坂下は千川通りにつながる。千川通りは、むかし小石川(千川)が流れ、谷筋であり、この坂は春日通りの通る小石川台地とその北側の谷とを結ぶ。坂はかなり長く、坂上側は中程度の勾配であるが、坂下側でかなり緩やかになる。この長さから小石川台地の広さがわかる。

広い通りになっているが、高いビルが乱立していないためか、なにかちょっと昭和の名残りがあるようなレトロな感じがするところである。何ヶ箇所かでわずかに曲がりながら全体してはほぼまっすぐに下っている。

吹上坂中腹 吹上坂中腹 吹上坂中腹 吹上坂中腹 坂上に立っている説明板には次の説明がある。

『吹上坂(ふきあげざか)  小石川4-14と15の間
 このあたりをかつて吹上村といった。この土地から名づけられたと思われる。「吹上坂は松平播磨守の屋敷の坂をいへり、」(改撰江戸志)。
 なお、別名「禿坂」の禿(かむろ)は河童に通じ、都内六ヵ所にあるが、いずれもかつては近くに古池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名である。
 この坂も善仁寺前から宗慶寺極楽水のそばへくだり、坂下は「播磨たんぼ」といわれた水田であり、しかも小石川が流れていた。
 この水田や川は鷺の群がるよき場所であり、大正時代でもそのおもかげを止(とど)めていた。
   雑然と鷺は群れつつおのがじし
        あなやるせなき姿なりけり  古泉千樫(1886~1927)』

尾張屋板江戸切絵図を見ると、三百坂下り通りを西へ進み、松平播磨守の屋敷のある南北方向がずれている変則の四差路を右折し、北へ善仁寺、宗慶寺の方に続く道があるが、ここが吹上坂と思われる。近江屋板にも同じ道筋があり、坂マーク△がある。

吹上坂下側 吹上坂下側 吹上坂下宗慶寺 『御府内備考』の小石川の善仁寺門前の書上に次のようにある。

「一坂 長三拾間、幅貳間半、右當町北の方松平播磨守様御屋敷脇、宗慶寺前に有之候、右御屋敷内に有之候極楽水、高き所より涌出吹上水とも申候に付、其近邊を地名に申候故吹上坂と唱申候、」

上記によれば、極楽水を吹上水とも呼んだので、それから吹上坂となったとしている。

また、禿坂ともいったが、これは、新宿の靖国通り近くの禿坂などと同じく、近くに古池や川などがある坂であるが、ここには坂下に小石川が流れていた。

坂下側に宗慶寺があるが、切絵図には、この中に極楽水がある。現在、大きなマンション脇の庭の中にその跡が残っている。

吹上坂下 吹上坂下 吹上坂下千川通り この坂のあたりが田山花袋「蒲団」の冒頭にでてくる。

「小石川の切支丹坂から極楽水に出る道のだらだら坂を下りようとして渠(かれ)は考えた。」

「縞セルの背広に、麦稈帽、藤蔓の杖をついて、やや前のめりにだらだらと坂を下りて行く。時は九月の中旬、残暑はまだ堪え難く暑いが、空には既に清涼の秋気が充(み)ち渡って、深い碧の色が際立って人の感情を動かした。肴(さかな)屋、酒屋、雑貨店、その向こうに寺の門やら裏店の長屋やらが連って、久堅町の低い地には数多の工場の煙突が黒い煙を漲(みなぎ)らしていた。」

切支丹坂とは、いまの庚申坂のことである。主人公は、ここを上り、春日通りを横断してこの坂を下って、数多の工場の1つに通って、地理書の編輯を手伝っていた。「蒲団」は明治40年(1907)9月発表であるから、当時のこの坂の雰囲気がわかる。この坂の近辺を久堅町といった。

右の写真は坂下の千川通りである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
田山花袋「蒲団・一兵卒」(岩波文庫)

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三百坂

2011年03月22日 | 坂道

三百坂上 三百坂上 三百坂中腹 三百坂中腹 真珠院前の坂を下り、次の四差路を左折し、次を左折すると、三百坂の坂下である。道になりに進み坂上まで行く。坂上がちょうど竹早高校の北門である。ここから引き返すが、緩やかに北へまっすぐに下っており、かなり長い。下側でちょっと勾配があり、坂下で右に曲がりふたたびまっすぐに下っている。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、伝通院の西側に、三百サカ、があり、まっすぐに下り、坂下で、いまのように右に曲がっている。近江屋板にも、△三百サカとある。

江戸から続く坂としてはやや平凡であるが、坂下側に石垣があり、曲がりの付近に風情がわずかに残っている。

三百坂下 三百坂下 三百坂下 坂の途中、石垣の前に少々古くなった説明板が立っており、次の説明がある。

「三百坂(三貊坂)
 『江戸志』によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。松平家では、新しく召抱えた「徒(かち)の者」を屋敷のしきたりで、早く、しかも正確に、役立つ者かどうかをためすのにこの坂を利用したという。 主君が登城のとき、玄関で目見えさせ、後衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから、家人たちは「三貊(さんみゃく)坂」を「三百坂」と唱え、世人もこの坂名を通称とするようになった。
      文京区教育委員会  昭和55年1月」

横関は、『砂子の残月』という本にある、この坂のそばに百々百右エ門の屋敷があったので三百坂と呼んだという説を紹介し、三貊坂という別名については、安政ころの、作者不詳の『戯作者小伝』の「恋川好町」の小伝の中に、「小石川三貊坂極楽水上光円寺に葬る、・・・」とあるという。 

三百坂下 三百坂下を左折した道 江戸切絵図には、坂下を左折してまっすぐに延びる道に、三百サカ下トヲリ、とある。右の写真は坂下を左折してからこの道を撮ったもので、まっすぐに西へ延びている。左側は学校の運動場、右側は住宅街で、静かな一帯である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)

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伝通院~大黒天~無名坂

2011年03月21日 | 坂道

伝通院 伝通院 善光寺坂を上り直進すると、右手が伝通院である。中に入るが、工事中でちょっと荒れた雰囲気である。

伝通院は、慶長14年(1609)に創建され、徳川家康の生母於大の方の墓所で、二代将軍秀忠の娘千姫などの墓もあるとのこと。

尾張屋板江戸切絵図(東都小石川絵図)を見ると、伝通院はひときわ大きく描かれており、表門は、現在の安藤坂上と春日通りとの伝通院前交差点のあたりにあり、現在の門は中門であった。

永井荷風は、随筆「伝通院」で次のように回想している。

「寺院と称する大きな美術の製作は偉大な力を以てその所在の土地に動しがたい或る特色を生ぜしめる。巴里(パリ)にノオトル・ダアムがある。浅草に観音堂がある。それと同じように、私の生れた小石川をば(少くとも私の心だけには)あくまで小石川らしく思わせ、他の町からこの一区域を差別させるものはあの伝通院である。滅びた江戸時代には芝の増上寺、上野の寛永寺と相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの伝通院である。
 伝通院の古刹は地勢から見ても小石川という高台の絶頂でありまた中心点であろう。小石川の高台はその源を関口の滝に発する江戸川に南側の麓を洗わせ、水道端から登る幾筋の急な坂によって次第次第に伝通院の方へと高くなっている。東の方は本郷と相対して富坂をひかえ、北は氷川の森を望んで極楽水へと下って行き、西は丘陵の延長が鐘の音で名高い目白台から、『忠臣蔵』で知らぬものはない高田の馬場へと続いている。
 この地勢と同じように、私の幼い時の幸福なる記憶もこの伝通院の古刹を中心として、常にその周囲を離れぬのである。
 諸君は私が伝通院の焼失を聞いていかなる絶望に沈められたかを想像せらるるであろう。外国から帰って来てまだ間もない頃の事確か十一月の曇った寒い日であった。ふと小石川の事を思出して、午後(ひるすぎ)に一人幾年間見なかった伝通院を尋(たずね)た事があった。近所の町は見違えるほど変っていたが古寺の境内ばかりは昔のままに残されていた。私は所定めず切貼した本堂の古障子が欄干の腐った廊下に添うて、凡そ幾十枚と知れず淋しげに立連った有様を今もってありありと眼に浮べる。何という不思議な縁であろう、本堂はその日の夜、私が追憶の散歩から帰ってつかれて眼った夢の中に、すっかり灰になってしまったのだ。」

荷風は、自分の生れた小石川を他の地域から異ならせるのは滅びた江戸時代から続く伝通院の存在であるとし、幼い頃の幸せな記憶はここが中心となっている程である。帰国して間もない頃、久しぶりに訪ねたその夜に灰燼に帰したことを驚きをもって記している。

伝通院前 大黒天 大黒天 大黒天座像説明板 伝通院を背にして右側の歩道を歩くと、すぐに大黒天の門前である。門前の説明板によると、大黒天信仰は8世紀に我が国に伝わり、以来、大国主命伝説と習合して寺院の食堂(じきどう)に祀ると繁栄を招くといわれ、江戸時代になって民間信仰となって広まり農神として祀られ、七福神の一つとのこと。

江戸切絵図には、現在と同じ場所に、三国傳来大黒天、とあり、伝通院内にあった。

ここは、ときどき、荷風の「断腸亭日乗」にでてくる。 昭和8年(1933)「正月元日。晴れて暖なり。午後雑司谷墓地に徃き先考の墓を掃ふ。墓前の蠟梅馥郁たり。先考の墓と相対する処に巌瀬鷗所の墓あればこれにも香華を手向け、又柳北先生の墓をも拝して、来路を歩み、護国寺門前より電車に乗り、伝通院に至り、大黒天に賽す。堂の屋根破損甚し。境内の御手洗及び聖天の小祠も半朽腐し丸太にて支えたり。瓦は尽く落ちトタン板にて処ゝ修繕をなしたるまゝなり。・・・」  

無名坂法蔵院前 無名坂真珠院前 真珠院説明板 無名坂下 伝通院前から荷風生家跡や今井坂(新坂)へ前回に続いてもう一度行き、そこからもどり、三百坂に行こうとしたが、道を間違え、一本東側の道に入ってしまった。しかし、ここに少しうねりながら下る無名の坂があった。坂の左(西)に法蔵院、真珠院がある。

江戸切絵図に、位置が異なるが宝蔵院というのがあり、これがそうなのであろうか。真珠院はいまと同じ位置にある。門前の説明板によれば、於大の方の生家である水野家の墓所があるという。

坂を下る途中で、道を間違ったことに気がついたが、坂下から坂上を見たら、未来社という聞いたことのある出版社の看板が眼に入った。
(続く)

参考文献
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)

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善光寺坂

2011年03月11日 | 坂道

善光寺坂下 善光寺坂下 善光寺坂下 善光寺坂下 蒟蒻閻魔を出て左折し北へ商店街を通り、信号を左折する。このあたりも商店街で、人の往来も比較的多く、活気あるように思った。ちょっと歩くと、善光寺坂の坂下である。この坂下を左折すると、前回の六角坂下になる。

上に見える善光寺まではほぼまっすぐ中程度の勾配で上っている。門前で少し曲がり、その上側でまた曲がってから坂上に至るが、途中みごとにうねっている。

ここは以前二度ほど訪れたことがあり、そのときからよい坂という印象があるが、今回もそうであった。車もときたま通る程度で、落ち着いて静かな坂である。

坂上の先に伝通院があるが、昔この坂のふもとに伝通院裏門があった。

善光寺坂中腹 善光寺坂中腹 善光寺中腹 善光寺門前 坂の中腹まで上ると、善光寺の門前であるが、その横に坂の説明板が立っている。次の説明がある。

『善光寺坂(ぜんこうじざか)  小石川2丁目と3丁目の間
 坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長7年(1602)の創建と伝えられ、伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院(えんじゅいん)と称した。明治17年(1884)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院となった。したがって明治時代の新しい坂名である。坂上の歩道のまん中に椋(むく)の老木がある。古来、この木には坂の北側にある稲荷に祀られている、澤蔵司(たくぞうす)の魂が宿るといわれている。なお、坂上の慈眼院の境内には礫川(れきせん)や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。
   "一しぐれ 礫(つぶて)や降りて 小石川" はせを(芭蕉)
 また、この界隈には幸田露伴(1867~1947)・徳田秋声(1871~1943)や島木赤彦(1876~1926)、古泉千樫(1886~1927)ら文人、歌人が住み活躍した。』

善光寺坂中腹 善光寺坂中腹 善光寺坂中腹 尾張屋板江戸切絵図を見ると、小石川(千川)から西への道があり、そのさきで六角坂下に続く道をあわせているが、そのちょっと西側に伝通院の裏門がある。裏門から道が西へとほぼまっすぐに延び伝通院の中門へ続いている。途中、裏門のすぐわきに、縁請院とあるが、これが伝通院の塔頭(たっちゅう)であった縁受院であろうか。その上に、八幡宮を挟んで、慈眼院・沢蔵主稲荷が見える。

近江屋板を見ると、この坂には沢蔵司稲荷しかのっておらず、うねった道が伝通院へと続いている。

現在、坂下から善光寺の門前までまっすぐに上っており、江戸切絵図もそうなので、坂下から善光寺までも江戸からの道と思ったが、明治地図を見ると、善光寺の門前まで上る道が坂下から直進せずに、上りに向かって右斜めに上り、途中で左に大きく曲がってから門前に至る。上の門前の写真のように、現在も門前に向かって右に延びる道が残っており、こちらの方が江戸からの道と思われ、説明板の位置がこの道筋になっているのもそのためかもしれない。次に訪れたらこの道も歩いてみたい。

坂下側で上記の問題があるものの、この坂は、坂名こそ明治になってからのものであるが、伝通院の中にあった坂で、江戸から続いているものと思われる。

善光寺坂上側 善光寺坂上側 善光寺坂上側 善光寺を過ぎると、右側に沢蔵司稲荷・慈眼院の石垣が続いて風情のある坂道となっている。その石垣の先に沢蔵司稲荷・慈眼院の門前の階段がある。

「江戸名所図会」に、伝通院裏門の挿絵がのっているが、裏門から入ると、右手に塔中とあり、正面に八幡の社がある。このわきを通る道がこの坂であろうか。裏門の手前に、左(南)への道があり、その道に上側(西)から合流する道が見えるが、これが六角坂下と思われる。八幡宮は廃社となっている。

さらに、「澤蔵主稲荷社」の挿絵がのっており、稲荷社の鳥居から階段を下りた道に通行人がいて、その先に、茶屋があり、伝通院が見える。この道筋が現在の坂道であろう。稲荷の後ろの方に山が描かれているが、これは小石川の谷の向こうの白山台であろうか。

善光寺坂上側 沢蔵司稲荷門前 沢蔵司稲荷説明板 善光寺坂上側 「江戸名所図会」の伝通院のところに、澤(多久)蔵主稲荷の社について、「往古狐、僧に化け自ら多久蔵主と称して、夜な夜な学寮に来たり法を論ずといへり。のちに稲荷に勧請して当寺の護法神とせり。」という説明がある。これでは、説明が不十分であるが、左の写真の説明板を読むと、もう少しわかる。沢蔵司(たくぞうす)という修行僧にまつわる伝説らしい。

坂上の門前に大木が立っているが、これが説明板にある椋の老樹であろう。

永井荷風「伝通院」に、「夕暮よりも薄暗い入梅の午後牛天神の森陰に紫陽花の咲出る頃、または旅烏の啼き騒ぐ秋の夕方沢蔵稲荷の大榎の止む間もなく落葉する頃、私は散歩の杖を伝通院の門外なる大黒天の階(きざはし)に休めさせる。」とある。この大榎は椋のことと思われるが、沢蔵稲荷と大木は、昔からセットになって有名だったのであろう。

善光寺坂上 善光寺坂上 善光寺坂上 善光寺坂上 坂上近くに、以前坂下から来たとき、右側に「幸田」という表札のある、幸田露伴の旧居と思われる家があったが、今回は気がつかなかった。

右の写真のように椋の大木の先も緩やかな上り坂となっているが、ここも善光寺坂に入るのか不明であるが、坂上側から来れば、ここもそうだと思ってしまう。

水上勉は、富坂二丁目に住んでいたころを回想して、次のように書いている。

「伝通院から少し坂になった道の左側に竹を編んだ長い塀のあるのが幸田露伴邸、そのさらに左手の低みの家並みの中に野間宏邸があるはずで、文学青年の私には、この眺望はいつもまばゆい空の下にあった。」
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
水上勉「私版東京図絵」(朝日文庫)

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蒟蒻閻魔(こんにゃくえんま)

2011年03月09日 | 散策

蒟蒻閻魔門前 蒟蒻閻魔 蒟蒻閻魔のお供物 木造閻魔王座像説明板 六角坂下を進み、突き当たりを左折しすぐに左折すると善光寺坂の坂下であるが、ここは後にし、突き当たりを右折する。この道をそのまま南へ進めば前回の堀坂下で、さらには富坂下に至る。次を左折し、千川通りで右折し南へ進む。やがて、右手に、源覚寺の門前の「こんにゃくゑんま」と刻まれた石柱が見えるが、通り過ぎてその先のコンビニによる。

蒟蒻閻魔のいわれとして、右の写真のように次の説明がある。

「源覚寺に伝わる閻魔像で、閻魔堂に安置されている。右眼が黄色く濁っているが、閻魔王が信心深い老婆に己の右眼を与え、老婆の感謝のしるしとして"こんにゃく"を供えつづけたという言い伝えがある。このことから、眼病治癒の『こんにゃく閻魔』として庶民の信仰を集めた。」

もどって、境内に入り、私も眼病持ちのためあやかってコンビニで買った蒟蒻を供えてお参りをする。写真のようにたくさんの蒟蒻が供えられている。いまのはビニール袋に入っているのでそのまま供えることができるが、そんなものはなかった昔はどうしていたのだろうかなどとつまらぬことを考えてしまう。(写真をあらためて見ると、桶が写っているので、ここに入れていたのであろう。)

永井荷風は『日和下駄』「第二 淫祠」で、「淫祠は大抵その縁起とまたはその効験のあまりに荒唐無稽な事から、何となく滑稽の趣を伴わすものである。」とし、民間信仰の例をいくつか挙げているが、ここも入っている(以前の記事参照)。

江戸切絵図を見ると、「源覚寺 コンニャク閻魔」とあり、門前には小石川(千川)が流れ、北隣の町屋が「小石川源覚寺門前」となっている。

蒟蒻閻魔近くの商店街 蒟蒻閻魔近くの商店街 善光寺坂下の手前 源覚寺を出て左折し、ちょっと歩くと、むかしながらの商店街が続いている。このあたりは建物がほとんどビルであるが、そんな中で懐かしい雰囲気のある一角になっている。

旧町名は、初音町であるが、水上勉「私版 東京図絵」(朝日文庫)によると、水上はこのあたりに住んだことがあった。

「初音町のこんにゃくえんまの前の酒屋の路地奥に借家を見つけて、また本郷へ越した。
 こんにゃくえんまは、富坂に住んだころから馴染んでいたし、初音町は都電の停留所もあって会社へも便利だった。都電通りからこんにゃくえんまに至るT字路の商店街で、ほとんど生活物資が買えた。えんま堂の前には市場もあった。」

水上勉は、富坂二丁目の高台の礫川小学校の近くにも住んでいたことがあったが、その後、松戸に越してからここに移ってきた。それまでは洋服の行商をやりながら小説も書いていたが、ここで、その洋服売りをやめて作家生活一本に入った。この初音町の家で、行商で歩いたため水虫になった足を石炭酸の入ったバケツに突っ込みながら少年時代を思い出して書いたのが「雁の寺」であるという。

商店街の先を左折すると、正面に善光寺坂が見えてくる。
(続く)

参考文献
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)

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六角坂

2011年03月08日 | 坂道

富坂上から北へ延びる道 上富坂教会 上富坂教会 六角坂上 堀坂上の突き当たりを右折する。この道は富坂上から北へまっすぐに延びる道で、ここを少し歩くと、上富坂教会前のT字路で、教会の前を過ぎると、やがて六角坂の坂上に至る。

尾張屋板江戸切絵図を見ると、堀坂上を右折し、北へ進んだところに小石川上富坂町があり、このあたりがいまの教会のあたりであろうか。 さらに進むと、左側(西)に六角越前守の屋敷がある。坂名はこれにちなむと思われるが、坂名はのっていない。近江屋板にはちゃんと、△六カクサカ、とある。

六角坂上 六角坂上 六角坂途中 六角坂は中程度の勾配でまっすぐに下り、下側で右に大きく曲がってから東へまっすぐに下っている。距離はさほどないが、下側でほぼ直角に曲がる点が特徴的である。

坂下側に説明板が立っているが、車道側に坂名、その裏の歩道側に説明を記した文京区でよく見るタイプのもので、次の説明がある。

「六角坂(ろっかくざか)
 六角坂は上餌差町より伝通院の裏門の前に出る坂なり、古くより高家六角氏の屋敷の前なる坂故にかくいへり」(『改撰江戸志』)とある。
 『江戸切絵図』(万延2年(1861)の尾張屋清七板)をみると、この坂が直角に曲がっているあたりに、六角越前守の屋敷があったことがわかる。
 餌差町は、慶長年間(1596~1615)、鷹狩りの鷹の餌となる小鳥を刺し捕らえることを司る「御餌差衆」の屋敷がおかれた所である。近くに歌人・島木赤彦が下宿し、『アララギ』の編集にあたった「いろは館」があった。」

六角坂途中 六角坂説明板 六角坂下側 六角坂下側 横関に「坂の修繕と堀坂」という一章がある。それによると、江戸時代、大火、地震、大暴風雨などで坂が破損し、坂を修繕する必要があるとき、その分担が決められており、それを"持"(もち)とよび、誰が分担するかで、町方持、武家持、寺方持、大名の一手持などといった。

たとえば、西富坂(富坂)は水戸邸のそばの坂なので水戸家の一手持、安藤坂は安藤邸と町方の分担持、大日坂は久世邸と竜興寺と妙足院の分担持、前回の堀坂は堀内蔵助の一手持であったという。この六角坂は武家持であったとあるから、六角邸やその近くの武家の持であったのであろう。

六角坂下側 六角坂下側 六角坂下 六角坂下 曲がってからは緩やかに坂下へと下っている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)

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堀坂(宮内坂・源三坂)

2011年03月07日 | 坂道

堀坂下 堀坂下 堀坂中腹 富坂を下り途中左折し北へ進むと、やがて突き当たるが、その両側でほぼまっすぐに上下するのが掘坂である。富坂とちょうど平行な位置にある。坂の北側が工事中で、白い壁がいかにも工事中の感じにさせる。そのためか、坂がちょっと荒れている。以前来たときはもう少し落ち着いた感じであった。坂下に下ると、突き当たりであるが、裏道が南北に延びている。坂を上るが、下側で勾配がちょっときつめである。坂上側に掘坂の説明板が立っており、次の説明がある。

『掘坂(宮内坂・源三坂)  小石川二丁目3と21の間
「堀坂は中富坂町の西より東の方。即ち餌差(えさし)町に下る坂をいふ。もと其の北側に堀内蔵助(2300石)の邸ありしに因れり。今坂の中途に"ほりさか"と仮字にてしるしたる石標あり。此坂は従来宮内坂又は源三坂と唱へたるものにて。堀坂といへるは其後の称なりといふ」(『新撰東京名所図会』)
 この場所の北側に旗本堀家の分家利直(後に利尚、通称宮内)の屋敷があったことから、この坂は別名「宮内坂」と名づけられた。また、当地の名主鎌田源三(げんぞう)の名から「源三坂」ともいわれた。「堀坂」という名称は、文政(1818~30)の頃、堀家が坂の修理をして「ほりさか」と刻んだ石標を建てたことからいわれるようになった。
 坂下に"こんにゃくえんま"の伝説で名高い「源覚寺」がある。』

堀坂中腹 堀坂中腹 堀坂中腹 尾張屋板江戸切絵図には、富坂の北に、ほり坂、とあり、坂北側に掘内蔵助の屋敷がある。坂南側は、坂下から小石川下富坂町、小石川中富坂町、小石川上富坂町となっている。坂下に善雄寺、その北隣に源覚寺がある。近江屋板も同じで、△ホリサカ、とある。富坂から北へ三本の道が延び、その先に堀坂があるが、これはいまも同じで、このあたりの道筋は江戸から続くものである。

『御府内備考』の小石川の総説に次のようにある。

「源三坂は同所より源覚寺といへる浄土宗の寺のすぐ下る坂をいふ、此處の名主鎌田源三といへるものゝ宅あればなり、昔は宮内坂ともいへり、その故は堀左衛門督の一属なる宮内といへる人の屋鋪、此處にありしかは其頃かくいへりと、寛文の江戸圖を見るに堀氏の人こゝにおるよし也、今も堀氏の屋敷あるは昔のまゝなるべし、【改選江戸志】」

坂名を古い順に並べると、宮内坂、源三坂、堀坂となる。横関によれば、坂北側には堀家が代々住んでいて、坂の普請を一手に引き受け、堀宮内の名から宮内坂とよばれていたが、その後、名主が自らの名をつけ源三坂となった。文政五年(1822)ころ坂普請が終わると、堀家は、坂の上下二箇所に「堀坂」と刻んだ石標を自ら建てた。先祖の名にちなむ宮内坂が、いつの間にか、他の坂名になっていたので、坂の修復工事完成の機会に、今度は「堀坂」というはっきりした名前にして標示したということらしい。このように、江戸時代に、自分の名を坂名にし、その名を強いるなどということは全く珍しいことであったという。

人名のついた坂の名は、その坂に関係の深い人の徳望、叡智、武勇、親切などにあこがれて、民衆が自然に声を合わせて、その坂の名としたのであって、自分で自分の名を、自分の屋敷のそばの坂に命名したのではない、と横関は強調している。横関は、江戸の坂は、江戸の庶民、江戸っ子が名前をつけたとするので、それからいうと、この坂はかなり特殊な例なのであろう。

堀坂石標 堀坂上側 堀坂上側 堀坂上 現在、坂上側に、左の写真のように、石標が立っている。石標に刻まれた文字のうち、「さ」の字ははっきりしているが、他の字がちょっとわからない。「東京23区の坂道」に、この石標の写真があるが、それを見ると、「ほりざか」と読めるようである。この写真を見てから、左の写真を見ると、「ほ」が見えるような気がしてくる。これが、堀家が文政五年ころに建てたという石標なのであろう。

横関に、昭和30年代と思われる坂下からの写真がのっているが、いまと比べると、もっと風情のある坂だったことがわかる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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礫川公園~富坂(2)

2011年03月04日 | 坂道

富坂下 富坂下側 富坂下側 礫川公園から北側へ出ると、富坂の坂下である。春日通りを西へ上る坂であり、広い道路がまっすぐに上っている。傾斜は中程度であるが距離があるので、高低差はかなりある。歩道も広い。途中、歩道左の公園側に春日局の銅像、その説明板や小石川町の旧町名案内や富坂の説明板などが次々と並んでいる。

小石川の地名は、千川(小石川、礫川)や江戸川(神田上水)や高台から流れる細流は砂や小石や礫が多かったことに由来する。春日の地名の由来は、三代将軍家光の乳母であった春日局が家光から拝領した土地とのことで、江戸切絵図を見ると、富坂下のさきに春日町とある。

富坂下側 富坂中腹 富坂中腹 富坂の説明板には次のようにある。

『富坂  春日一丁目と小石川二丁目の間
「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし町より春日殿町へ下る坂、元は此処に鳶(とび)多くして女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と「紫一本」にある。鳶が多くいたので、鳶坂、転じて富坂となった。
 また、春日町交差点の谷(二ヶ谷、にがや)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。そして、伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂ともいう。都内に多くある坂名の一つである。
 この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、"アララギ"の編集にあたっていた。
  「富坂の冬木の上の星月夜 いたくふけたりわれのかへりは」
      島木赤彦(本名 久保田俊彦 1876~1926)』 
 

富坂中腹 富坂中腹 富坂上 横関によると、本当の昔の富坂は、この坂の南、旧歩兵工廠内に消えてしまったらしい。現在、伝通院前の方から来くると、坂上の信号のあたりで左にちょっと曲がってから、まっすぐに下っているが、むかしは、ここで曲がらずにまっすぐに下っていた。いまの富坂は新富坂というべきとのこと。

明治地図を見ると、現在の曲がった後のまっすぐな道筋と、曲がらずに続いた先で何回か曲がりながら下る道筋とがある。その坂下南側は陸軍工廠で、その東側に陸軍砲兵工科学校がある。現在の礫川公園の中あたりに坂道があったのであろうか。

横関に西富坂の坂上からの写真(昭和30年代頃)がのっており、いまと同じようにまっすぐに下っているが、眺望が全然違い、東富坂の向こうまでよく見える。現代の坂は何回も書いたように眺望をまったく失っているが、それはあたかも現代が未来の見通しをまったく失っていることに通ずるような気がする。高い壁があちこちにそびえ立っているのである。思い過ごしであろうか。

富坂上 富坂上 富坂中腹 富坂中腹 東京は故郷でないので、どこに出かけても、むかしの想い出が残るところもなく、まるで異邦人のように歩き回るだけである。それでも長く同じ地域に住んでいると、少しずつ想い出が蓄積されていく。そんな中で、この富坂は悲しい記憶につながるところである。もう十年近く前であるが、畏友が悲しいことに突然亡くなり、葬儀がこの近くの上富坂教会で行われたのであった。地下鉄の駅から出て、富坂下の交差点を渡り、富坂の北側の歩道を上ったことを覚えている。坂が急に感じられた。

坂を下るが、途中で左折し北側へ向かう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)
幸田文「父・こんなこと」(新潮文庫)

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礫川公園~富坂(1)

2011年03月02日 | 散策

前回に続いて、文京区小石川台地の主に春日通りの北東側の坂を巡った。伝通院のある側である。前回は春日通りの南西側で、ちょうど春日通りが分水嶺となっている。この位置関係は、北側に津の守坂や暗闇坂、南側に円通寺坂や女夫坂がある四谷あたりの新宿通りと同じである。

礫川公園 礫川公園 礫川公園 午後後楽園駅下車。

4a出口から出ると、眼の前が礫川公園である。富坂下の南側に広がる公園で、西の上側へ続いている。

礫川(れきせん)とは、小石川の別名で、千川ともいい、上流では谷端川(やばたがわ)といった(以前の記事参照)。長崎村の粟島神社(現・豊島区要町二丁目14番)の弁天池が水源とされ、千川上水の分水を合わせて南流し、小石川台地と白山台地との間の小石川の谷を流れ、水戸徳川家上屋敷内(現東京ドーム)を通り、水道橋の下流で神田川に注いでいた。現在、暗渠化され、千川通りとなっている。公園のちょうど東側が千川通りで、千川通りはこのあたりが始点(終点)のようである。この礫川(小石川)が公園名のいわれであろう。

尾張屋板江戸切絵図(東都小石川絵図)を見ると、安藤坂上を右折し、東へ延びる道があるが、ここが富坂で、坂南側は広く水戸屋敷になっている。北から坂下に流れてきた川に、小石川大下水ト云、とある。ちょうど坂下で東側からの流れが合流する。近江屋板も同様で、坂に坂マーク(△)がある。

ハンカチの木 ハンカチの木 ハンカチの木説明パネル 公園内でハンカチの木というのを見つけた。正確には、前に一度来て、そういうのがあったなと思い出して見つけたというべきだが。

右の写真にあるように、木の前に立っている説明パネルに『幸田文ゆかりの「ハンカチの木」』とある。次の説明がある。

『「ハンカチの木」は、19世紀中頃中国に滞在したフランス人宣教師アルマン・ダビットによって、四川省の西境で発見され、発見者にちなんで、ダヴィディアと命名された。白い花びらのように見える部分は、大小たれさがった苞であり、これがあたかもハンカチを広げたように見えることから和名「ハンカチの木」と名づけられた。なお、別名「ハトノキ」とも呼ばれる。
 一科一属一種といわれている珍しい木で、落葉高木、花は雌雄同株の丸い花序え、白い苞片に守られているように見える。4~5月に花をつけ、5月初旬が見頃である。
 作家の幸田文(1904~1990)が小石川植物園の山中寅文(東京大学農学部技術専門員)から譲りうけたこの「ハンカチの木」は、長女で随筆家の青木玉の庭に仮り植えされていたものである。平成14年(2002)12月、多くの方々に見ていただきたいという青木玉の好意により、ここ礫川公園に移植された。
 平成16年(2004)は幸田文生誕100年にあたる。
 文京区教育委員会  平成16年4月』

ハンカチの木とは、上記のように、白い花びらのように見える大小たれさがった苞がハンカチを広げたように見えることからその名がついたとのこと。植物名としてはおもしろい名である。5月初めが見頃とのことで、忘れなかったら来てみたい。

幸田文は幸田露伴の娘である。『父 -その死-』の「菅野の記」の書き出しに、「なんにしても、ひどい暑さだった。それに雨というものが降らなかった。あの年の関東のあの暑さは、焦土の暑さだったと云うよりほかないものだと、私はいまも思っている。」とある。昭和22年の夏のことである。これを読んだのが、あの暑い日が続いた去年の夏の終わりごろであったので、妙にこの部分を覚えている。それで、ここに記した。暑い夏であっても、過ぎてしまえばなんということはないが、杉花粉症の人にとっては、まさにこれから前年夏の暑さの影響がでるいやな季節となる。

説明パネルの右に、その娘青木玉の「緑のある木」という文がのっているが、そのハンカチの木が庭に根付いてから開花するまで20年が過ぎたとのことで、母はついにそれを見ることができなかった。その残念さが伝わってくる。
(続く)

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庚申坂(切支丹坂)

2011年03月01日 | 坂道

庚申坂下 庚申坂途中 荒木坂からの道の突き当たりを右折し、トンネルに入り、ここを通り抜けると、前面に階段が見えてくる。水道通りから延びている谷道を横断すると、上り口である。かなりの傾斜で上っており、途中方向を変えている。まわりの地形や傾斜を見ると、その昔、崖につくった階段のような印象を受ける。坂上を進むと、春日通りで、その反対側は吹上坂の坂上である。小日向の鼠坂や関口の胸突坂などと同じように、真ん中に手摺りのある階段坂であるが、こちらの方が階段幅が広く堂々とまっすぐに上っている。

坂上に立っている文京区教育委員会の説明板に次の説明がある。

『庚申(こうしん)坂「小日向第六天町の北、小石川同心町の界を東より西へ下る坂あり・・・・・略・・・・・この坂を切支丹坂というは誤りなり。本名 "庚申坂" 昔、坂下に庚申の碑あり・・・・・・・・」 『東京名所図会』
 庚申信仰は庚申(かのえのさる)の日(60日ごと)人が眠ると三尸(さんし)の虫が人の体から出て天にのぼり天帝にその人の罪を告げるというところから、人びとは一晩中夜明かしをした。この信仰は中国から伝わり、江戸時代に盛んになった。従ってキリシタン坂はこの坂の地下鉄ガードの向側の坂のことである。
 「・・・・・・両側の藪の間を上る坂あり・・・・・・これが真の切支丹坂なり」 『東京名所図会』
        とぼとぼと老宣教師ののぼりくる
          春の暮れがたの切支丹坂  (金子薫園)』

『御府内備考』には次の説明がある。

「庚申坂は切支丹坂の東の方のけはしき坂なり、江戸志云、今井坂又丹下坂ともいへり、切支丹屋敷へゆく坂なれは俗に切支丹坂といふ、丹下坂といふはむかし本多丹下という人の屋敷ありしゆへなり、今井坂といふは中比今井何某の屋敷ありしといふ、本名は庚申坂なり、坂のおり口に古来の榎二株ありて、享保の頃までは庚申の碑ありしゆへの名なり、今はこの碑なければ庚申坂の名をしる人まれなり、然ども松平大学頭の家にては庚申坂と今もいふなりと云々、【改選江戸志】」

上述のように、庚申坂は、今井坂、丹下坂、切支丹坂の別名があり、『江戸志』、『東京名所図会』では、本名は庚申坂であるとしている。

庚申坂途中 庚申坂途中 『新撰東京名所図会』には次のようにあるという(石川)。

「小日向第六天町の北、小石川同心町との境を東より西へ下る坂あり、切支丹坂といふ、今此坂を切支丹坂と云ふは誤れり、本名庚申坂、昔坂下に庚申の碑あり。庚申坂の西小溝に架したる橋を渡りて、両側藪の間を茗荷谷町男爵津軽邸前へ上る坂あり、無名坂の如く称すれど、是れ真の切支丹坂なり。坂の上に往時切支丹屋敷ありたり、故に此名に呼ぶなり」

横関は、この坂を切支丹坂とし、別名を庚申坂、丹下坂、今井坂としている。話がすこしややこしくなるが、横関は、切支丹屋敷にちなむ切支丹坂は、小日向一丁目の旧切支丹屋敷外囲の坂で、入口のところから右回りに裏門のほうへ上った坂で、今はない、としている。

石川は、小日向一丁目14、24の間を西の方へ上る坂を切支丹坂とよんでいるが(前回の記事の切支丹坂)、それは近来のことで、明治時代は、この庚申坂を切支丹坂とよんでいたが、上記の『新撰東京名所図会』を引用し、現在切支丹坂とよぶ坂が本来の切支丹坂であるとしている。岡崎も石川とほぼ同様である。

切支丹坂、庚申坂の坂名と位置に関し、石川説、岡崎説、教育委員会説ともに、『新撰東京名所図会』(東京名所図会)の説に従っている。

明治時代、切支丹坂とは庚申坂のことであるとすると、前回の記事の荷風「日和下駄」の切支丹坂もこの庚申坂のように思われる。そう解すると、荷風が書いた「第一に思出すのは茗荷谷の小径から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さえ気味の悪い切支丹坂が斜に開けそれと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い坂が小日向台町の裏へと攀(よじ)登っている」の意味がよくわかる。本名が庚申坂である切支丹坂と向かい合っている、小日向台町の裏へ上っている山道のような細い坂こそが、『新撰東京名所図会』でいう両側藪の間を茗荷谷町男爵津軽邸前へ上る坂で、現在、切支丹坂とよんでいる坂であるように思われてくる。

上記のことから、江戸末期の江戸切絵図がこの坂をキリシタンザカとしたことは、当時からそう呼んでいたことの証と思われる。

横関説は、いまのところよくわからない。山田野理夫「東京きりしたん巡礼」(東京新聞出版局)に、切支丹屋敷付近の四時代(延宝、元禄十四年、宝永二年、享保十一年)の各江戸地図がのっており、切支丹屋敷の変遷がわかるが、それらには、現在切支丹坂としているあたりに道がある。これが切支丹坂かもしれないが、確証がない。同著に、キリシタン坂として、現在切支丹坂とされている坂が写真入りで紹介され、この坂を示す石標が大正七年東京府によって建てられ、銅板が嵌め込まれていたが、いまは除かれている、とある。

庚申坂上 庚申坂上 岡崎が、夏目漱石「琴のそら音」(明治38~39年作)にこの坂がでてくることを紹介している。明治の頃の様子がよくわかるので、以下、引用する。

「竹早町を横ぎって切支丹坂へかゝる。何故切支丹坂と云ふのか分らないが、此坂も名前に劣らぬ怪しい坂である。坂の上へ来た時、ふと先達(せんんだっ)てこゝを通って「日本一急な坂、命の欲しい者は用心ぢゃ用心ぢゃ」と書いた張札が土手の横からはすに徃来へ差し出て居るのを滑稽だと笑った事を思ひ出す。今夜は笑ふ所ではない。命の欲しい者は用心ぢゃと云ふ文句が聖書にでもある格言の様に胸に浮ぶ。坂道は暗い。滅多に下りると滑って尻餅を搗(つ)く。険呑(けんのん)だと八合目あたりから下を見て覘(ねらひ)をつける。暗くて何もよく見えぬ。左の土手から古榎が無遠慮に枝を突き出して日の目の通はぬ程に坂を蔽ふて居るから、晝(ひる)でも此坂を下りる時は谷の底へ落ちると同様あまり善い心持ではない。榎は見えるかなと顔を上げて見ると、有ると思へばあり、無いと思へば無い程な黒い者に雨の注ぐ音が頻りにする。此暗闇な坂を下りて、細い谷道を傅って、茗荷谷を向へ上って七八丁行けば小日向臺町の余が家へ帰られるのだが、向へ上がる迄がちと気味がわるい。」

この切支丹坂とは、いま庚申坂とよんでいる坂のことで、明治時代にはかなり急で通行の困難な坂であったらしい。階段坂に改修された理由であろう。「榎は見えるかなと顔を上げて見ると」とあることから、この頃も榎があったようである。「此暗闇な坂を下りて、細い谷道を傅って、茗荷谷を向へ上って七八丁行けば小日向臺町の余が家へ帰られるのだが、向へ上がる迄がちと気味がわるい」とあるように、「向へ上がる迄がちと気味がわるい」道が、荷風がいう山道のような細い坂へ続く道と思われる。そして、ここが上記のように現在切支丹坂とする坂であるかもしれない。

坂上に上って振り返ると、眼下に、車輌基地内の電車が見え、その向こう西の方を見ると、ちょっと茜色に染まった夕焼け空が見える。説明板のわきに老人が座って同じように夕焼けを見ている。

坂を下り、ふたたびトンネルをくぐり、切支丹坂を上り、右折し、切支丹屋敷跡の石柱を右に見て進み、蛙坂を下り、釈迦坂を上って茗荷谷駅へ。これらの坂は次回に。

携帯による総歩行距離は12.9km。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
「漱石全集 第三巻」(岩波書店)

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