東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

霞坂

2012年03月30日 | 坂道

霞坂上 霞坂上 霞坂上 霞坂上側 前回の西坂上にある西坂公園でちょっと一休み。ここまで休憩なしであったのでちょうどよい。携帯地図を見て、前回は、西から東へ向かい、西坂上から下ったことを思い出す。

坂上のまっすぐな道を北西へ落合一小方面に進み、一本目を左折しちょっと歩くと、一枚目の写真のように、霞坂の標柱が立っている。以前はここには立っていなかったと思う。二枚目は、ふり返って東北方向を撮ったものである。三枚目のように、霞坂上近くはまだ急ではない。

上記の標柱には次の説明がある。

「霞(かすみ)坂
 明治時代末に開かれた坂で、『豊多摩郡誌』には「大字下落合里俗中井より小学校前に開穿(かいせん)したる新坂なり」とある。
 この坂下は一面の水田だったので、春がすみの立つ、のどかな田園風景が美しかったという。」

霞坂上側 霞坂中腹 霞坂中腹 霞坂中腹 上四枚目、 一、二枚目の写真のように、ちょっと下り、左に少し曲がると、かなりの勾配となる。まっすぐに下ると、右からの道が合流する。そこにも、三枚目のように、標柱が立っている。以前は、この道からこの坂に来たのであった。ここから、四枚目のように同じくかなり急にまっすぐに下っている。

中村の測定による傾斜角は11°で、かなりの勾配であることがわかる。ここもまだ落合崖線の一部なのだろうか。

明治四十四年(1911)の豊多摩郡落合村の地図を見ると、落合小学校の手前(南)にこの坂道と思われる道があるが、はっきりしない。昭和十六年(1941)の淀橋区の地図では、現在の坂道があり、坂下に新目白通りの予定線が見える。この地図と上記の明治地図を比べると、上記の明治の道はこの坂道のようである。この明治地図の作成のときにはできていたのであろう。

霞坂中腹 霞坂下側 霞坂下 霞坂下 二、四枚目の写真のように、坂下で左に曲がってから新目白通りの歩道に出る。下側もかなり急である。

石川に『新編若葉の梢』(海老澤了之介著 昭33年(1958))の文が紹介されているが、次は、その文を含む「落合土橋」の記事の一部である。

「この橋(落合土橋)あたりの春の景色は、霞んで遠近に雉子の声さえきこえ、若葉の色萌え出で鶯が鳴き、いと麗(うらら)かである。初夏のころのこの辺を打ち過ぎれば、まづ時鳥(ほととぎす)の声が聞こえはじめる。早苗がここかしこに見えわたり、かきつばた・あやめ・菖蒲が、川添いに咲いており、目高や鮒漁どる里の子等もあまた見える。夕暗ごろともなれば、蛍がむらがり飛ぶ。落合の蛍はことのほか光が大きく、四方から集まる男女は、青竹の葉の付いたのを持って追い、蚊やりくゆらす山本の、根岸の里の片庇(かたひさし)、暮るるをおそしと競い立つ有様は、昼の田唄とあわせて面白き風情、忘れられぬ景色である。秋の初雁や名月もこの里に風趣を添える。まことに花に紅葉にまた雪に、四季とりどりのこの里の風情は、筆にもつくし難い有様である。」

江戸名所図会 落合惣図は、『江戸名所図会』の挿絵である落合惣図の左半分である(右半分は七曲坂の記事)。

右端に薬王院が見え、中央付近が久七坂のあたり、その左が西坂のあたりであろうか。その下側に水田が広がり、霞んだように描かれているが、かつてこのあたりで見られた霞んだ田園風景からついた坂名のようである。
(続く)

 参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市十五区・近傍34町村㉕北豊島郡長崎村・豊多摩郡落合村全図」(人文社)
「昭和十六年大東京三十五区内淀橋区詳細図」(人文社)
中村雅夫「東京の坂」(晶文社)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

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西坂

2012年03月29日 | 坂道

聖母坂下 聖母坂中腹 西坂下 西坂下 前回の久七坂下を右折し、西へ進むと、新目白通りと北からの道との交差点にでる。聖母坂の坂下で、ここから北へまっすぐに上っている。坂上の先は目白通りであるので、新旧目白通りを結ぶ道である。ここも落合崖線にできた坂であろうが、平均化されており、緩やかに上っている。

この坂道は、交通量があり、これまでの坂、これから行く坂と感じがまったく違うので、上らずに、交差点を横断し、西坂に向かう。

一、二枚目の写真は、以前(2010年4月)来たときに撮った聖母坂の坂下、中腹である。そのとき坂中腹から東に向かい、小階段を上り、久七坂上にでた。

交差点を渡り、新目白通りの裏手の道を西へちょっと進むと、三枚目のように、西坂の坂下に至る。四枚目はちょっと上ってから坂下を撮ったものである。

西坂下 西坂中腹 西坂中腹 西坂中腹 一枚目の写真のように、西へ緩やかに上ってから、二、三枚目のように右に左に曲がりうねりながらちょっと急になる。中村の測定による傾斜角は7.5°である。ここもまた落合崖線の一部であろう。

坂下と坂上側に標柱が立っている。次の説明は、以前来たとき坂下に立っていた標柱の説明である。

「西坂(にしざか)
『豊多摩郡誌』に「西坂、新宿道、字本村と字不動谷との間にあり」とある。
 坂名の由来は、この坂が字本村の西に位置するからだという。かつて坂上にあった徳川男爵邸の庭園は、ボタンや菊の時期に一般公開され、この坂のあたりも賑わったという。」

明治四十四年(1911)の豊多摩郡落合村の地図を見ると、聖母坂も新目白通りもないので、どの道かちょっと迷ってしまうが、この坂道に相当すると思われる道がある。興味深いのは、この坂上と聖母坂あたりにあった道との間に川が流れていることで、ここは谷地であったと思われる。現在の聖母坂の西側である。

昭和十六年(1941)の淀橋区の地図では、現在とほぼ同じで、新目白通りはまだであるが、予定線が見える。坂の右(東側)に徳川別邸がある。

西坂中腹 西坂中腹 西坂上 西坂上 中腹で二度ほどうねってから、三、四枚目の写真のように、坂上に近づくと、緩やかになる。

石川によれば、この坂は、七曲坂と並んで古道で、もとの落合村と中井村の村境であった。明治末まで坂道が狭く、雑木や笹が両崖に茂ってもの寂しかったが、徳川家が坂側の台地に別荘を建て、続いて近衛家もその向かい側を別荘地としたために坂道が拡げられたという。

坂上東側に西坂公園があるが、徳川邸の一部であったのであろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市十五区・近傍34町村㉕北豊島郡長崎村・豊多摩郡落合村全図」(人文社)
「昭和十六年大東京三十五区内淀橋区詳細図」(人文社)
中村雅夫「東京の坂」(晶文社)

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久七坂

2012年03月28日 | 坂道

下落合野鳥の森公園 野鳥の森公園北側の坂 久七坂上 久七坂上 前回の七曲坂下を右折し、西へ向かうと、野鳥の森公園の案内が見えてくるので、右折し、ちょっと進むと、一枚目の写真のように、下落合野鳥の森公園の入り口がある。中に入り、池の周りを歩き、上側から出ると、その先に、二枚目のように、かなりの勾配のある無名の坂がある。ちょうどこのあたりはおとめ山の方から延びている落合崖線の一部である。

坂上を左折し、右折したりして、薬王院の周囲を歩き、その南西の端から西へ進み、突き当たりを左折すると、三枚目のように、久七坂の坂上である。坂上はまだ緩やかであるが、中腹はかなりの勾配がある。四枚目は、ちょっと下ったところから坂上(北側)を撮ったものである。

坂下に立っている標柱には、次の説明がある。

「久七(きゅうしち)坂
『豊多摩郡誌』には、もとは田んぼへ行き来するための道で、急な坂であったと記されている。
 坂名はゆかりのある村人の名にちなむものであろう。」

『豊多摩郡史』には「久七坂 村道元耕作道 字本村に属す、急坂なり」とある。

前回の七曲坂と違って、資料が少なく、坂名の由来などもはっきりしない。石川でも引用文献が上記の『豊多摩郡史』で、これは大正五年(1916)刊行であり、明治およびそれ以前の資料はほとんどないようである。これは、この坂がもっぱら農道としてだけ利用されてきたからかもしれない。しかし、それはそれで歴史があったと思われるのであるが。

久七坂上側 久七坂上側 久七坂中腹 久七坂中腹 坂を下ると、一~四枚目の写真のように、かなり急になるとともに、やや左に緩くカーブしている。さらに下ると、三枚目、下一枚目のように、右にかなり曲がる。このあたりまでがもっとも勾配がきつい。

中村によれば、この坂の傾斜角は12°で、前回の七曲坂は5°である。東京23区でもっとも急とされるのぞき坂が15.5°であり、これからもかなりの勾配であることがわかる。坂上の台地と坂下の田圃や畑との間を往復するため最短距離にまっすぐに坂をつくったのであろうか。落合崖線にできた急坂である。

明治四十四年(1911)の豊多摩郡落合村の地図を見ると、薬王院の西側にこの坂道があり、ちょっとうねりながら北へ上っている。昭和十六年(1941)の淀橋区の地図もほぼ同じである。現在の道筋とほぼ同じと思われる。

久七坂下側 久七坂下側 久七坂下 久七坂下 一枚目の写真の大きなカーブを曲がると、次第に緩やかになって、ほぼまっすぐに南へと下っている。

坂下を直進すると、新目白通りで、横断し、妙正寺川にかかる落合橋を渡ると、西武新宿線の下落合駅がある。その南側に神田川が流れている。

石川に『新宿区史』にある次の古老談が紹介されている。

「中井の辺から落合の台地を流れる妙正寺川の周辺は一面の田だったし、少し高くなった所は畑、他は山だ、山といっても柴などの雑木が大部分で薪を拾っていた。」

明治の頃の話であろうか。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市十五区・近傍34町村㉕北豊島郡長崎村・豊多摩郡落合村全図」(人文社)
「昭和十六年大東京三十五区内淀橋区詳細図」(人文社)
中村雅夫「東京の坂」(晶文社)

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七曲坂

2012年03月25日 | 坂道

七曲坂手前(東側) 七曲坂下 七曲坂下側 七曲坂下側 前回の相馬坂下を右折し、西へ向かい、ちょっと歩くと、一枚目の写真のように、正面左手に氷川神社が見えてくる。

神社のわきを進み、神社の裏手を通りすぎるとすぐ右折する道がある。二枚目は、その道を撮ったもので、ここが七曲坂の坂下である。その名のとおりうねうね曲がりながら上っている。

坂下からほぼまっすぐに上るが、ちょっとすると、右に緩やかに曲がっている。そして、ふたたびまっすぐに上ったかと思うと、左に大きく曲がる。まっすぐの道も、どことなくカーブしているように感じる。別名、七囲坂(ななめぐりさか)。

以前来たとき、坂下と中腹のカーブの付近に標柱が立っていたが、現在、新しくなって、坂上にだけ立っている。次の説明がある。

「七曲坂(ななまがりさか)
 折れ曲がった坂であることからこの名がついた(『江戸名所図会』)。古くは源頼朝が近在に陣を張った時、敵の軍勢を探るためにこの坂を開かせたという伝説がある(『遊歴雑記』)。」

上記の『江戸名所図会』の記述は、次のとおりである。

「七曲坂 同じ所より鼠山の方へ上る坂をいふ。曲折ある故に名とす。この辺は下落合村に属す。」

落合ではもっとも古い坂道で(石川)、他の坂は、江戸時代からあったとしても無名であったようである。源頼朝伝説について横関は懐疑的である。

七曲坂中腹 七曲坂中腹 七曲坂中腹 七曲坂中腹 一、三枚目の写真のように、中腹の左に大きく曲がるところがこの坂のポイントで、しかも勾配もかなりある。カーブしながら高度を上げ、その前後で、くねくねと曲がっている。

この辺りの谷地と台地との境を落合崖線とよぶらしく、この崖線は前回のおとめ山から西へ延びている。ここから西にある坂はこの崖線にできた坂で、この七曲坂よりも急なところが多い。

大正五年(1916)刊行の『豊多摩郡史』に次のようにある。

「七囲り坂 馬場下通 御禁止(おとめ)山の麓にあり、大字下落合丸山と同村本村の中間にあり、曲所七ヶ所より成れる坂路にして昔より本名を得たるが、明治三七年に開穿して交通の便に資せり」

明治四十四年(1911)の豊多摩郡落合村の地図を見ると、中腹あたりの道筋がいまと違い、左に曲がってから、そのすぐ上(北側)で右へほぼ直角に曲がっている。これに対し、昭和十六年(1941)の淀橋区の地図では、いまとほぼ同じ道筋である。上記の明治三七年の開穿後にも、改修工事があったものと思われる。

七曲坂中腹 七曲坂上側 七曲坂上 七曲坂上 中腹の大カーブをすぎると、二枚目の写真のように、しだいに緩やかになって、坂上の四差路に至る。三枚目がその四差路であるが、左側に上記の標柱が立っている。四枚目は、標柱をいれて坂下側を撮ったものである。

ここを右折し進むと、前回の相馬坂上、おとめ山公園に至る。

この坂は、田郁の時代小説『出世花』の「見送り坂暮色」に登場し、次は、その冒頭である。

「下落合は坂の村だ。しかし、源頼朝が拓いた、という伝承の残る七曲坂の他は、ほとんどが無名の坂ばかりであった。
 その七曲坂は、氷川社の裏手から、名の通りにうねうねと身をくねらせて山中深く伸びている。途中、御留山を避けて西へ入る脇道があり、その道を上った先に、お縁の暮らす青泉寺はあった。したがって、青泉寺に運び込まれる亡骸は、必ずこの脇道を通ることになる。
 七曲坂を行く土地の者は、戸板に乗せられた骸が通るたび、静かに道を譲り、葬列が左に折れて上って行くのを頭を垂れて見送るのが常であった。それゆえに、いつしかこの脇道は「見送り坂」と呼ばれるようになっていた。」

主人公お縁(正縁)は、偶然のことから住職とその弟子の正念のいる青泉寺で成長し、湯灌(ゆかん/死体を洗い清めること)を手伝うようになり、やがて、湯灌を専門とする毛坊主となる。三昧聖(さんまいひじり)ともよばれるが、この方が、けなげな少女お縁によくあう。

七曲坂上 七曲坂上 七曲坂上(西) 七曲坂上(西) 上記の四差路を直進すると、緩やかで勾配はほとんどないが、坂の続きで、一枚目の写真のように、くねくねしながら北へ延び、やがて、目白通りに至る。

二枚目は四差路を直進してすぐにふり返って四差路と坂下を撮ったもので、三枚目は四差路から西側を撮ったもので、西へと道が延びている。

『出世花』でいう「御留山を避けて西へ入る脇道」とは、三枚目の西へ延びる道と思われる。

四枚目は、四差路を左折し、西へ延びる道を進み、その途中、進行方向を撮ったもので、下一枚目は、さらにその先の公園のわきで撮ったものである。「その道を上った先に、お縁の暮らす青泉寺はあった」とあるので、青泉寺はこの辺りに設定されたと思われ、この道が「見送り坂」であるが、この坂名は作者の創作であろう。

七曲坂上(西) 七曲坂上 江戸名所図会 落合惣図 江戸名所図会 落合蛍 上四枚目、一枚目の写真のように、西へ延びる道に沿って静かな住宅が続いており、しだいにやや北へ方向を変え、やがて、目白通りに出る。ここを右折し、しばらく歩道を歩き、スーパーの手前(下落合3-12と14の間)で右折する。ほぼ平坦な道が南へ先ほどの四差路まで続くが、まっすぐではなく、うねっている。

二枚目は、四差路に近づいてから進行方向(南側)を撮ったものである。横関はこの坂を目白通りまで上るとし、このあたりの曲折も「七曲」に含まれると考えている。

三枚目は、『江戸名所図会』の挿絵で、落合惣図(右半分)である。四枚目は、同じく落合蛍(右半分)である。

落合惣図を見ると、中央右に、神田川(江戸川)にかかる田島橋が見え、その左に氷川明神がある。氷川明神社は『江戸名所図会』に「田島橋より北、杉林の中にあり」とあるが、杉林の中に鳥居と小さな社殿が見える。その上側一帯にあるこんもりとした山が御留山で、その左側、氷川明神の斜め上に、何回もうねりながら上へと続く山道が見える。これが七曲坂であろう。

上記の『江戸名所図会』に「鼠山の方へ上る坂」とある鼠山(寝ず見山)とは、上側左のちょっとこんもりとした山であろうか。このあたりは紅葉の名所であったという(横関)。

『出世花』の「見送り坂」は、その鼠山の直下から左へと延びている。ここをお縁が歩き、その前をお縁がひそかに慕う正念も歩いている。そんな光景が眼に浮かぶようである。

落合蛍は、落合惣図と反対方向から見た図で、上側左に田嶋橋が見え、その右側に氷川明神がある。その手前の田圃のわきに提灯や団扇を手にした人々が集まっている。蛍狩りの風景である。図の上にある文は、次のとおり(ただし、「永正十三年~」は左半分にある)。

「落合蛍 この地の蛍狩りは、芒種[6月5日頃]の後より夏至[6月22日頃]の頃までを盛りとす。草葉にすがるをば、こぼれぬ露かとうたがひ、高くとぶをば、あまつ星かとあやまつ。遊人暮るるを待ちてここに逍遙し壮観とす。夜涼しく人定まり、風清く月朗らかなるにおよびて、はじめて帰路をうながさんことを思い出でたるも一興とやいはん。 永正十三年[1516]正月、後奈良院後撰『何曾』 秋の田の露おもげなるけしきかな 蛍」

現在とはまったく違った風景が広がっている。たかが200年ほど前であるが、かつてそんな風景が存在したことが不思議なような気もしてくる。この間、われわれは何を得て何を失ったのだろうか。つい、そんな疑念がわき上がってしまう。

四差路からそのまま坂を下り、先ほどの坂下までもどる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)
「新訂江戸名所図会4」(ちくま学芸文庫)
「東京市十五区・近傍34町村㉕北豊島郡長崎村・豊多摩郡落合村全図」(人文社)
「昭和十六年大東京三十五区内淀橋区詳細図」(人文社)
田郁「出世花」(祥伝社文庫)

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おとめ山公園~相馬坂

2012年03月22日 | 坂道

豊坂上~おとめ山公園の間の道 おとめ山公園 おとめ山公園 おとめ山公園 前回の豊坂上を道なりに進むと、南北へ延びるちょっと広い通りに出る。ここを南へ進むと、途中、道の真ん中に、老木がそびえ立っている所があって、道が左右に分かれてふくらんでいる。ちょっとめずらしい光景なので、一枚目の写真のように、シャッタを押してしまった。

南へ進むと、やがて突き当たるので、右折し、左折、右折すると、階段の上にでる。階段下、道を挟んで向こう側がおとめ山公園である。二枚目は、その出入口である。三、四枚目のように、入口から入ったところから一段低い位置に大きめの池があり、そのまわりをぐるりと一周できるようになっている。傾斜地にできた公園で、両わきにある道は南へ下りる坂である。

この公園については新宿区のホームページに次のように紹介されている。

「おとめ山公園は落合崖線に残された斜面緑地です。
 江戸時代、おとめ山公園の敷地周辺は、将軍家の鷹狩や猪狩などの狩猟場でした。一帯を立ち入り禁止として「おとめ山(御留山、御禁止山)」と呼ばれ、現在の公園の名称の由来となっています。
 大正期に入り、近衛家・相馬家が広大な庭園をもつ屋敷を造成しました。のちに売却され、森林の喪失を憂えた地元の人たちが「落合の秘境」を保存する運動を起こし、昭和44年(1969)にその一部が公園として開園しました。湧水・流れ・池・斜面樹林地からなる自然豊かな風致公園となっています。」

おとめ山とは、「乙女山」ではなく、将軍家の鷹狩などの狩猟場で一帯を立ち入り禁止としたため「御留山」とされたことに由来するらしい。

おとめ山公園 おとめ山公園 おとめ山公園 おとめ山公園 西側からいったん出て道路を横断し、公園にふたたび入る。こちら側の方が広い。中に入るとまもなく流れができていて、それに沿って歩くと池がある(一枚目の写真)。さらに進むと、湧水の源泉らしき所があり、水たまりはあるが、ほとんど流れ出ていない。

西側の出口近くで、左(南側)を見ると、二枚目のように、木立とフェンスとの間に道ができている。山道のようになっているので、思わずそちらに向かってしまう。登ると、三枚目のようにちょっとした頂上になっていて、西側に小学校のグランドが見える。ここから、左(東)へとさらに山道が続いていたので、ちょっと歩いてみる。四枚目のように、東屋などがあって、そのわきに山道が延びている。

南の方にビルがときおり見え、都会の風景が広がっているものの、ちょっと異次元空間に迷い込んだような気分になる。思わず、擬似的ではあるが、山歩きを楽しむことができた。

相馬坂上 相馬坂上 相馬坂からおとめ山公園 相馬坂中腹 おとめ山公園から出たあたりが、相馬坂の坂上である。左折して坂上付近を撮ったのが一枚目の写真である。そこからちょっと下ってからふり返り、坂上を撮ったのが二枚目である。このあたりはまだそんなに急ではない。

この辺りから左側(東)を見上げると、三枚目のように、先ほど登った頂上のあたりが見えるが、これから、この坂は、おとめ山を切り開いた坂であることがわかる。

昭和十六年(1941)の淀橋区の地図を見ると、おとめ山公園一帯は、相馬邸となっていて、かなり広い屋敷であり、その西側に南北に延びる道がある。この南側が相馬坂であろう。相馬邸の南に、藤稲荷という神社があるが、これをたよりに、明治四十四年(1911)の地図を見ると、このあたりは字丸山となっていて、大きな屋敷もなさそうで、この坂もない。石川に、明治末年か大正初年に開かれたらしいとある。

坂上から下へ向かいちょっと曲がるが、それからほぼまっすぐに南へ下っている。

相馬坂中腹 相馬坂中腹 相馬坂下 相馬坂下 中腹のあたりから勾配がちょっとついてきて、下側で中程度の勾配となる。坂下に標柱が立っていて、次の説明がある。

「この坂に隣接する「おとめ山公園」は、江戸時代には将軍家御鷹場として一般人の立入りを禁止した御禁止山(おとめやま)であった。この一帯を明治時代末に相馬家が買い取って屋敷を建てた。この坂は新井薬師道から相馬邸に向け新たに通された坂道であるため、こう呼ばれた。」

この坂は、かつて訪れたことがあるが、そのときは、落合の坂を西から東へめぐり、最後にここに来てから、おとめ山公園に向かったのであった(以前の記事)。

今回は、そのときとは逆に、ここから西へ向かう。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「昭和十六年大東京三十五区内淀橋区詳細図」(人文社)
「東京市十五区・近傍34町村㉕北豊島郡長崎村・豊多摩郡落合村全図」(人文社)

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豊坂(目白駅近く)

2012年03月19日 | 坂道

豊坂下 豊坂下 豊坂下 豊坂中腹 目白駅近くの山手線わき西側の道を北へ進み、突き当たり(目白駅への細い道があるが)を左折し、さらにすぐ左折すると、一枚目の写真のような小路がある。ここが豊坂の坂下である。南へ上る小坂で、勾配は中程度といったところ。

細い坂道で、裏通りのような好ましい雰囲気であるが、駅近のため通行人が思いのほかたくさん通る。下一枚目の写真のように、坂下の向こうに目白駅ホームが見える。

坂下は、前回の記事の山手線わき西側の道の坂上と同じレベルで、坂上は、目白通りの通る目白台地と同じ標高と思われる。目白台地のちょっと下にできた谷と台地を結ぶ坂である。

標識はないが、豊島区のホームページに次の簡単な説明がある。

「豊坂
 目白駅から左手に階段があり、さらに真っ直ぐ進むと、目白稲荷神社があります。神社に面した坂道です。」

豊坂中腹 豊坂上 豊坂神社 尾張屋板江戸切絵図(雑司ヶ谷音羽絵図) 上四枚目、二枚目の写真のように、目白豊坂稲荷神社と記した表示板が坂上の神社のブロック塀に張り付けてある。これが坂の標識代わりになっている。三枚目は神社正面を坂から撮ったものである。

この神社は、「猫のあしあと」というホームページに次のように紹介されている。

「豊坂稲荷神社の創建年代は不詳です。現学習院構内から当地へ遷座、当地は豊坂に面していることから豊坂稲荷神社と呼ばれています。」

四枚目の尾張屋板江戸切絵図(雑司ヶ谷音羽絵図(安政四年(1857))の部分図は、その左端あたりが現在の目白駅近辺であるが、この坂に相当するような道はないようである。近江屋板も同じである。これらの江戸切絵図に稲荷神社が見えるが、これが学習院構内にあったものなのであろうか。

いつもの明治地図や戦前の昭和地図を見ると、ちょうどこのあたりから西側は、掲載範囲外でのっていない。そこで、昭和十六年(1941)の淀橋区の地図を見ると、目白駅の西北にこの坂があり、神社マークもある。昭和31年の23区地図も同じである。戦前にはできていたが、いつ開かれたものかちょっと不明で、坂名の由来もわからない。

豊坂上 豊坂上 豊坂上 豊坂上 この坂は、二、三枚目の写真のように、神社前の先で右に曲がり、続いて左に曲がると、四枚目のように、平坦な目白台地でまっすぐに南へ延びている。

この坂は、いつもの坂の参考本(横関、石川、岡崎、山野)のいずれにものっていないが、「東京23区の坂道」にはちゃんと紹介されている。

ところで、目白通りをここから東へ進み、日本女子大学の東端の交差点を右折し、南へ向かうと、神田川方面に下る坂があるが、ここも豊坂という。こちらの方が有名で、横関などにも紹介されており、みごとなクランク状の坂道である。以前、この豊坂など目白台あたりの坂巡りの記事を書いたとき、上記の豊島区のホームページで目白駅近くに別の豊坂があることを知った。それ以来、訪れてみたいと思っていた坂である。
(続く)

参考文献
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「昭和十六年大東京三十五区内淀橋区詳細図」
(人文社)

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哀悼 吉本隆明

2012年03月17日 | 吉本隆明

きのうの朝、パソコンを立ち上げメールを見ると、京都の三月書房からメールが入っていて、それにより吉本隆明が死去したことを知った。1月に肺炎にかかり、日本医科大付属病院に入院していたところ、3月16日午前2時13分に亡くなったという。

高齢であったので、遠くない将来にこういったときがくると覚悟していた。しかし、いざなると、単なる一読者ではあるが、やはりショックであり、それがまだ続いている。その明け方、ちょっと大きめの地震で起きてしまったが、そのときすでに亡くなっていたと思い返すと、それを知らせるものだったなどというらちもない思い込みに陥るほどである。平成8年(1996)伊豆の海岸での水泳事故のときも同じであったが、その後、一命をとり止めたので、その衝撃感は和らいだのであったが。

その前日、仕事帰りによく行く書店によって、ちょうど、吉本本を二冊購ったところだった。そのうちの一冊は、石川九楊(書家・評論家、京都精華大学教授)との対談本『書 文字 アジア』(筑摩書房)で、もう20年も前の対談であるが、新刊である。吉本の発言を読むと、言語について基本的で重要な考えが随所にあらわれる。

「言語以前の言語
 吉本 ・・・〈言語以前の言語〉、つまり人間で言いますと胎内にあるときから生まれて一歳ぐらいまでのあいだが要するに〈言語以前の言語〉の段階です。歴史的に言うならば、未開・原始のある時期までがたぶん〈言語以前の言語〉ということになる・・・」(29~30頁)

言語を考えるとき、言語以前の言語から入るという、根源的な方法が示されている。もとへもとへとたどり、初源的なところまで突きつめる。

「内臓の言葉と感覚の言葉
 吉本 言葉というものを考えるときにですね、言葉以前の言葉というところまで考えを突きつめていきましてね。結局いちばん確からしいと思えるから、そう考えるようになったんですが、言葉以前の言葉を考えれば、〈内臓の言葉〉と〈感覚の言葉〉というところまでいっちゃうのです。〈内臓の言葉〉というのは、ぼくが『言語にとって美とはなにか』を書いたときに、自己表出といったものです。内臓の言葉以前の言葉というのと、感覚の言葉つまり語感からつくられていく言葉以前の言葉というのが、結局は両方は違うんだということ。そのふたつが綯い交ぜ(ないまぜ)の状態になって表出されてくるということ。言葉以前ということを考えていけば、そうなっちゃうんじゃないかと思ったのですけどね。・・・」(53~54頁)

吉本が云うところの自己表出とは内臓の言葉であり、そうだとすると、指示表出は感覚の言葉ということになる。発生学的な解剖学の三木成夫の考えから根拠を得たという。三木は、『胎児の世界-人類の生命記憶』(中公新書)などの著者で、吉本がたびたび引用するので、かなり前だが読んでみた。これで個体発生は系統発生の繰り返しという考えがあることを知った。人類史を考える上で、きわめて根源的な世界が広がっている。

「自然観と言語
 吉本 ・・・この人たち(ソシュールやヤコブソンのこと/引用者註)の言語観や言語論の背後に何かあるのかというと、もちろんやはり自然ということについての観念があるかもしれない。また自然ということの観念の背後に何があるかというと神という概念があるかもしれない。そうすると、この人たちにとっては神があって、自然というのは神がつくったものだ、もちろん人間もその被造物のひとつだということになる。そうすると、どうしても神というものが出てくる。つまり一神教の神ですね。これでいけば、どう考えたって、「れ」なら「れ」をどう書こうと意味は「れ」なんだ、また白で書こうが黒で書こうが、色つきで書こうが「れ」は「れ」だという観点になっちゃうような気がするんですよ。ところが、日本語みたいな、あるいはまたある特異な自然観をもっているところの言語では、自然ということと人間ということとが同じになっちゃうし、あらゆるものが、神というものでさえ自然と同じになってしまう。自然の動きが全部神と同じだということになって、滝が落ちていれば滝津姫だとかね、神の名前になってしまう。自然物すべてに神がくっついてくるみたいな世界になってしまうと、その世界では言葉というのは具象性から離れられないということになってしまうし、この特質がなければ少なくとも仮名文字の書というのはどうしても成り立たないのではないでしょうか。そこだと言語観自体もそうならざるをえないということに思えてくるのですね。そこがどうしても、ソシュールの言語観でも、ヤコブソンの言語観でやられても、どうも納得できないのですね。だから、日本の自然観は特殊というのではなくて、日本と同じ共通の自然観というのは環太平洋的にあるんでしょうけれども、そういうところの自然観は言語観と結びつくし、それはどうしても具象性とどこまでいっても切り離せないから、やっぱり、つまり「れ」は「れ」じゃないか、記号は記号じゃないかとどうしてもいけない。言っても言えなくはないけど、何かそれじゃおもしろくはないなといますかね、何か余っちゃうな、残っちゃうなという、どうもそこじゃないかという気がしますね。自然現象を擬人化してしまうようなところというのは、文字あるいは言語感覚や書くということが具象性から離れられないということと関わっているのじゃないかなという感じがするんですけどね。だから、ぼくらも言語以前の言語というのを考えてきたら、どうもその問題と引っかかってきたんですね。神という意識がないならば、性ということになって、背後には父がいるんですね。こちらの日本語という言葉の場合には背後に母がいるみたいなことになっちゃって、どこまでいってももうべったりということになるんですね。イメージと言葉との共通に通用する理論をなんとかしてやりたいと考えてきたんですけどね。」(59~61頁)

ソシュールやヤコブソンの言語観に対する違和感を突きつめて考え、自然と神との関係の違いに至っている。向こうは自然のみならず人間でさえ神の被造物であるが、日本を含む環太平洋的な自然観では、自然と人間が同じで、自然がなんでも神となる。滝があれば滝津姫である。このような自然現象の擬人化は、文字・言語感覚や書くことに具象性がついて離れないことになるとする。

この後、角田忠信(1926~)の日本人の脳についての研究から次のようなことを云っている。

日本人とかポリネシアの人たちに母音の「あ」と発音させると、ちゃんと左の脳で考え、ヨーロッパ人とか中国人とかは右の脳で感じる。ポリネシア語圏に属する人々は日本人も含めて全部左の脳の言語脳といわれる部分で感じるように、風の音や鳥のさえずりまで人語に近いことをしゃべっているように聞こえてしまう語圏と、そうじゃない語圏がある。

きわめて興味のある視点である。これから上記の自然現象の擬人化が起きるのだとすれば、日本人を含めてポリネシア語圏に属する人々の自然観、宗教観は、本源的なもので、そう簡単に変わるものではなく、そこから考えはじめるべきであるということになる。

本著では、主題の「書」に関し、いろんな人の書をそれぞれの視点から論じているが、特に、良寛、岡本かの子、高村光太郎についてのものが、その本質に肉薄しているようでおもしろかった。これらの人(特に、岡本)のことをさらに知りたくなってしまう。

以上、新刊本に対する簡単な感想であるが、それにしても、吉本は、表現に関する論点になると、つねに根源的な考察をすることにあらためて気がつかされる。そして、それは、これに限らず、彼がとりあげるどんな分野でもそうである。いってみれば、平面的な思考に対し、別の根本的な思考軸をうち立て、立体的な思考から不知の対象に切り込んでいく。この思考の魅力から離れられそうにない。

吉本は亡くなったが、少なくともわたしにとっては膨大な著書が残されている。荷風のいい方をまねて、余生はこれらの書物を読んで過ごしたいという気分であるというのは大げさであろうか。

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のぞき坂~目白駅近く

2012年03月16日 | 坂道

今回は、雑司が谷駅近くののぞき坂から西へ向かい、おとめ山公園に行き、その西側の落合にある坂を巡った。途中、目白駅近くの豊坂を初めて訪れた。

のぞき坂上 のぞき坂上 のぞき坂中腹 のぞき坂中腹 午後副都心線雑司が谷駅下車。

3番出口から出ると、眼の前が目白通りで、ここを横断し、そのまま南に入る道に向かうと、一枚目の写真のように、のぞき坂の坂上である。二枚目の写真は、坂上から坂下を撮ったものである。坂上からのぞき込むほど急な坂ということからついた名と思われる。崖をそのまままっすぐな坂道にしたような感じである。別名が、胸突坂、眼鏡坂(中村)。前者は、上りのとき胸が地面に突くほど急であることに由来するが、後者の謂われは不明である。

東京23区でもっとも急な坂であろう(ただし、石段坂以外で)。いつ見てもみごとな傾斜である。スキー場のジャンプ台のようにも見えてくる。ここは何度かきて、以前に記事にしたが、そのときは、ここから東へ向かった。

三枚目、下一枚目は、中腹から坂上を撮ったものであるが、見上げる感じで、坂上に青空がわずかに見え、山頂を見ているようでおもしろい。中腹から坂下を見ても四枚目のように、かなりの勾配である。ことしも何回か雪が降ったが、雪で斜面が凍ったときには上り下りは大変であろうと思う。

のぞき坂中腹 のぞき坂下 尾張屋板江戸切絵図(雑司ヶ谷音羽絵図) 明治通り 二枚目のように、坂下から見上げると、全体がよくわかる。目白台地と神田川(江戸川)流域に広がる谷底との高低差が一目瞭然である。

三枚目は、尾張屋板江戸切絵図(雑司ヶ谷音羽絵図(安政四年(1857))の部分図であるが、この坂の東にある宿坂が見える。坂下に金乗院がある道である。そのさらに東にヒナシサカ(日無坂)が見える。この宿坂の西に道があるが、これがのぞき坂に対応する道かどうか不明である。

近江屋板も同じであるが、この方がまっすぐに下っているので、いまと似ているようにもみえる。いずれにしても、江戸切絵図に見える江戸末期にあった道は、急で誰でもが通ることのできる坂道ではなかったように想像される。

坂下をちょっと進み、左手に高南小学校があるところを右折し、都電荒川線の線路を横断し、明治通りにかかる歩道橋で反対側に渡る。その近くの歩道から明治通り(北側)を撮ったのが四枚目の写真である。上り坂になっているが、かなり下側から上りになっているので、のぞき坂のような勾配はない。

学習院下通り 学習院下通り 目白駅近く 目白駅近く 明治通りから西側に向かう道に入る。学習院下通りというらしいが、現代地図を見ると、かなりうねって西へと延びている。一、二枚目の写真は、その途中で撮ったものである。ここは、坂下の谷沿いにできた道で、北側が学習院大学であるが、構内には北の目白台地に向かって上る坂(南へ下る坂)があると思われる。

やがて山手線のガード下に至るが、ここをくぐり、右折すると、三枚目のように、上り坂となっていて、右上に山手線が通っている。先ほどと同じく目白台地への坂である。四枚目は坂上近くで、右手が目白駅のホームである。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
中村雅夫「東京の坂」(晶文社)

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善福寺川(尾崎橋~神通橋)2012(3月)

2012年03月13日 | 写真
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京都の坂(4)

2012年03月12日 | 坂道

三年坂下 三年坂下 前回の五条坂で今回の京都の坂の記事は終わる予定であったが、ちょうど、三年坂(産寧坂)について参考となる資料が二つ見つかったので、それらを紹介する。(二枚の写真は今回訪れた三年坂の坂下である。)

『京都地名研究会「京都の地名 検証 2」(勉誠出版)』

同書(125~127頁)は、三年坂について始めに、次のように紹介している。

「三年坂は清水寺の楼門のやや西北、清水寺と五条坂との交差点付近から北の方向に向かって下る坂である。その勾配のきつさは、清水寺の上方から流れ出す轟川によって、長い歳月をかけて削られたことによる。現在は四五段の石段の両側に瓦屋根の土産物屋や旅館が並んで、独特の情緒をかもし出している。数ある京の観光地の中でも指折りの名所だろう。」

三年坂が出てくる資料として明暦四年(1658)成立の『京童』があり、そこに、この坂の名が大同三年(808)に造成されたことに因み、また、子安の塔に続く坂なので、産寧坂というとも云われるとあるという。安産信仰を集めた泰産寺の子安の塔に至る坂という意味らしい。泰産寺は、天平二年光明皇后によって建立されたといわれ、清水寺楼門前にあったが、明治末に本堂南側の錦雲渓に移転した(いまの三重の塔)。

三年坂は産寧坂の訛伝(誤って伝わること)であり、その本源は泰産寺・子安の塔である。前回の記事のように、ガイド本は産寧坂から三年坂となったとするが、これが通説らしい。

光明皇后の安産伝説と別の『子安物語』という泰産寺周辺で伝わった物語を引用し、この坂を、中世後半以降、いわば生と死の交差する地点だったとユニークな視点でとらえている。

安産祈願の「産寧坂」と死に至るという「三年坂」とはもともと結びつきやすかったとするが、これは、そういった視点に立つとよく理解できる。

正徳四年(1714)成立の『都名所車』にある、ここで転んだ老僧が人々の心配をよそに、あと二年は安心だと笑ったという逸話と、万が一転んだ場合の魔除けとなる瓢箪を売る店は現存することが紹介されているが、いずれも、三年坂の俗信を笑い飛ばすかのようである。

都名所図会(清水三年坂) 都名所図会(清水三年坂) 『市古夏生・鈴木健一 校訂「新訂 都名所図会 一~五」(ちくま学芸文庫)』

同書は、秋里籬島著の『都名所図会』およびその続編の『拾遺都名所図会』からなる。前者の底本は、安永九年(1780)刊行の初版を基に記事、挿絵に修正を施した天明六年(1786)刊行の再刻本で、後者は天明七年刊行の初版の吉野屋版である。

一、二枚目は、拾遺巻之二(「新訂 都名所図会 四」)にある清水三年坂の挿絵である。一枚目(左)に、石段の三年坂の中腹から下が描かれ、坂下に流れているのが上記の轟川で、坂上左手に延びる道は、清水寺へ至る清水坂であろう。

二枚目(右)には、中腹から上が描かれ、坂上右手が清水坂下側で、上側が五条坂であろう。坂下に窯が並び煙が上っているが、清水焼と思われる。

この絵を見ると、江戸名所図会の挿絵と同じ描き方のようで、これが当時の伝統的な技法なのであろうか。

また、巻之三(「新訂 都名所図会 二」)の本文に次のようにある。

「八坂 といふは、北は真葛原、南は清水坂までの惣名なり。その中に八つの坂あり。祇園坂・長楽寺坂・下川原坂・法観寺坂・霊山坂・山ノ井坂・清水坂・三年坂等なり。」

今回の清水坂三年坂は、上記のように八坂に含まれるが、他の坂の現状はどうなっているのか興味のあるところである。

鴨川(松原橋下流) 鴨川 鴨川(四条大橋下流) 鴨川(三条大橋下流) 前回の五条坂から五条通を西へ進み鴨川の辺にでて、五条大橋のちょっと上流から鴨川の岸辺を三条大橋まで歩いた。一~四枚目の写真はそのときに撮ったものである。

道路から一段下がった位置に川に沿った散歩道ができていて、親水的な雰囲気で川沿い散歩を楽しむことができるようになっている。

この川は、東京でいえば、隅田川に相当するかもしれないが、こちらの方がかなり水はきれいで、散歩道もすべてをコンクリートで覆っていないのがよい。カモメがたくさん浮かんだり飛んでいる。アオサギらしきものもいた。

ジョギングの人や同じように散歩する人と時たますれ違うだけで、静かな散歩が楽しめる。先ほどの坂巡りで人混みの中にいる気分であったので、ここでゆったりした気分になれた。時間があればもっと上流まで歩きたかったが、いずれまた。

参考文献
「文庫地図 京都 2012年3版」(昭文社)
「散策&鑑賞 京都編 2011年度版」(ユニプラン)

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京都の坂(3)

2012年03月10日 | 坂道

五条坂上 五条坂上 五条坂中腹 五条坂中腹 前回の二年坂から三年坂上まで戻り、そこの変則的四差路の左側を撮ったのが一枚目の写真である。ここから南西へ下るのが五条坂で、この四差路で清水坂と合流する(案内地図参照)。一枚目は五条坂の坂上である。

二、三枚目の写真のように、坂上からほぼまっすぐ下っており、勾配は中程度から緩やかめといったところである。四枚目の写真の中腹から下側でちょっとうねっている。

タクシーが列をなして並び、坂下から清水寺に向かう観光客が上ってきて、坂上からも下りてきて、こちらの方がメインの通りとなっているようで、となりの清水坂よりも騒がしい。

坂名は、坂下で五条通につながり、五条通から上る坂であることからついたのであろうか。

五条坂中腹 五条坂中腹 茶わん坂下 五条坂下 一枚目の写真に中腹にある四差路が写っているが、だらだらと下る坂道がまだ続く。この坂も清水坂と同じく清水山のふもとの斜面にできた長い坂道であることがわかる。

一枚目の写真の四差路を左折した道が清水新道で、別名が茶わん坂である。携帯地図を見ると、清水寺の手前までほぼまっすぐに上っている。

二枚目の写真はその四差路のあたりから五条坂上側を撮ったもので、三枚目の写真は茶わん坂の坂下を撮ったものである。二つの坂の間の角に茶わん坂と刻まれた石標が建っている。そのわきに、右 清水ちか(道)の石標もある。こちらの清水新道を通って清水寺に行く人も多い。

幕末京都再現地図(慶応四年(1868))を見ると、三寧坂上と清水坂と五条坂の四差路があり、そこからこの坂が下っているが、茶わん坂(清水新道)はない。明治以降に開かれたのであろう。茶わん坂の謂われは不明である。(清水焼の地であり、それからついたのかもしれない。)

五条坂下 五条坂下 五条坂立札 五条通(五条坂) やがて坂下の東大路通に出るが、そのあたりで坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、二枚目は横断歩道を渡ってから坂下を撮ったもので、交差点の標識が五条坂となっている。

ここから五条通りの歩道に出て西へ向かうとすぐのところに、三枚目の写真の立札が立っている。

この写真を撮ってから、京都駅を出発してから歩き続けたので、近くの喫茶店に入って休憩する。清水焼の展示もしている店である。

上記立札は、五条坂の標識となっていて、坂について次の説明がある。

「五条坂(ごじょうざか)
 この立札の建っている辺りを中心にして、西は大和大路通まで、東は坂を登って清水坂に至るまでのなだらかな坂道を五条坂という。・・・」

上記立札の説明によれば、西の大和大路通までをも五条坂というとある。四枚目の写真は、五条通の歩道を西へちょっと歩き、そこからふり返って撮ったものである。このあたりも五条坂というのであれば、上記で坂下としたところは中腹となる。しかし、現在、五条坂は上記の交差点で分断されており、五条通の広い道に吸収され、どこが坂道であったのかわからないようにみえる。
(続く)

参考文献
「文庫地図 京都 2012年3版」(昭文社)
「散策&鑑賞 京都編 2011年度版」(ユニプラン)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)

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京都の坂(2)

2012年03月08日 | 坂道

三年坂上 三年坂上 三年坂中腹 三年坂中腹 清水寺からもどり前回の清水坂を下り、変則的な四差路を右折すると、三年坂の坂上である(案内地図参照)。石段坂で、まっすぐに北へ下っている。

一~四枚目の写真のように、この坂も観光客でいっぱいである。清水寺からの帰りまたはこれから向かうと思われるが、どんどんあふれるばかりである。この混雑は、この先の二年坂まで続いている。

坂名であるが、産寧坂とも書くようである。ガイド本によれば、清水の子安観音(安産祈願)にちなみ、産むに寧(やす)い坂からきているという。これが、いつの間にか、この坂で転ぶと三年で死ぬという三年坂の名になり、おまけに転んでも死なないまじないの瓢箪屋ができて観光名所になったりしたとある。これは、東京にたくさんある三年坂の由来と逆である。

杉並神楽坂我善坊谷霞が関市ヶ谷の三年坂で記事にしたように、横関によれば、その坂で転ぶと三年で死ぬという迷信・俗信がこの坂名の由来である。東京では、これを嫌って、産寧坂、三延坂、三念坂などに改められたたり、さらに「三年」を嫌って、鶯坂、蛍坂、淡路坂、地蔵坂のように別の名に改められたものもあるという。

三年坂下 三年坂下 三年坂下 三年坂下 石段坂のため、急で、いっきょに高度を下げるが、坂下も観光客のための土産物屋や喫茶店などが並んでおり、たくさんの人が行き交う。

横関は、市ヶ谷駅近くの三年坂につき、寛永十三年にあらたに開かれたため三年坂と名付けたという年号由来説について、江戸の坂の名は、ほとんど江戸っ子が付けたもので、寛永十三年にできたから三年坂というような名前の付け方はしなかった。これはいかにも上方趣味で、江戸っ子好みではない。もしそうだとすると、五年坂や七年坂や九年坂もあってよいはずだが、そういう坂はないとしている。

京都の坂については、京都には三年坂(産寧坂)のほかに、二年坂(二寧坂)というのがあり、三年坂から霊山へつづく道の、三年坂同様の石段の坂である、とあるだけで、これ以上のことは書いていない。

幕末京都再現地図(慶応四年(1868))を見ると、清水寺の下側(西)に、三寧坂とあり、清水寺のすぐ西側に子安観音がある。現在の携帯地図には、産寧坂とある一方、現在、坂下近くに、清水三年坂美術館というのがある。

この坂名が、産寧坂(三寧坂)が先なのか、または、三年坂が先なのか、よくわからない。横関は、一般論としてであるが、こうした俗信は、かなり古い昔から行われ、しかも日本全国にわたって流行し、信仰されたもので、地名としても、いたるところに、その根強い民俗的信仰の記録を残しているのである、としているように、やはり東京などと同じように、その俗信に基づく三年坂が先のように思われる。しかし、資料が少ないという実感が一方にあり、いまのところ、単なる憶測にすぎない。

二年坂上 二年坂上 二年坂下 二年坂下 三年坂下を道なりに進むと、やがて、右に二年坂の坂上が見えてくる(案内地図参照)。といっても、人通りが多いので、坂上をはっきりと見ることもできない。この坂もたくさんの人が下るので、それでようやくわかる。ここも石段坂であるが、先ほどの三年坂よりも緩やかである。

三枚目の写真のように、坂下に「京の坂みち二寧坂」と刻んだ石標が建っており、その反対側に、四枚目の写真のように、二寧坂(二年坂)と記した立て札が立っている。携帯地図やガイド本では二年坂となっている。

二年坂の由来はわからないが、二寧坂とあるのを見ると、三寧坂(産寧坂)からの連想で、無理矢理つけたような気もしてくる。上記のように、横関は、東京には二年坂はないとしている。

二年坂下 二年坂下 一年坂上 一年坂下 二年坂下をそのまま直進すると、左折する道の角に、三枚目の写真のように、「京の坂みち一念坂」と刻まれた石標が建っている。

この道に入って歩いてみたが、ほんのわずかな勾配があるだけで、坂道という感じはしない。しかし、石畳の道で、歩いていてなんとなく情緒が感じられてよい雰囲気となっている。

前回の清水坂は、清水山のふもとの斜面にできた清水寺に至る長い坂みちであるが、今回の三年坂は、その斜面を尾根とし、尾根の途中から谷に下る急斜面にできた坂というおもむきがある。こういった感じの坂は、東京には多く、この点でなじみの坂という気がする。二年坂もまた、さらに谷に下る傾斜面にできた坂である。
(続く)

参考文献
「文庫地図 京都 2012年3版」(昭文社)
「散策&鑑賞 京都編 2011年度版」(ユニプラン)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)

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京都の坂(1)

2012年03月05日 | 坂道

先々月、用事があって関西に出かけたが、その帰りに京都によってちょっと街を歩いた。いわゆる観光名所だけを巡るのも味気ないなどと思いながらガイド本や地図をめくっていると、坂を見つけたので、京都の坂巡りとなった。ブログ趣旨から外れるが、めったに行かないので、坂巡りの番外編として記事にする。

京都タワー 西本願寺近く 西本願寺 東本願寺 一枚目の写真の京都駅前の京都タワーを見上げてから出発。

まず、西本願寺と東本願寺が駅から比較的近いので行ってみた。二枚目の写真のように、西本願寺に向かう途中、狭くまっすぐな通りを歩いたが、街並みが古く、いかにも京都らしい雰囲気を醸し出していると思った。駅に近いところにこういった通りがあるのは驚きであり、歴史を感じる。東京には、こういった街並みはたぶん残っていないと思われる。

ところで、本願寺といえば、開祖が親鸞であるが、なぜ東西にわかれているのか、かねてから疑問に思っていた。おそらく過去の一時期の主導権争いかなにかの末そんなことになったのだろう程度の認識であった。ちょっと調べると、江戸初期の慶長7年(1602)、後継者をめぐる内紛から分裂して、東西両本願寺ができ、それ以来、西は「本願寺派」、東は「大谷派」と俗称されているとのことである。詳しいことはわからないが、やはり人をめぐる争いで、教義をめぐる争いではないらしい。

高瀬川 高瀬川 五条大橋 五条通り北側 東本願寺から東へ向かい、しばらく歩くと、五条通の南側であるが、一、二枚目の写真のように、高瀬川が流れている。きれいな水で、川底が浅いためもあるが、底まではっきり見える。この東側に流れている鴨川よりも高いところを流れており、後述のように、開削された堀である。森鷗外の短篇小説「高瀬舟」の背景で、次は、その冒頭である。

「高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞(いとまごひ)をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであつた。それを護送するのは、京都町奉行の配下にゐる同心で、此同心は罪人の親類の中で、主立つた一人を大阪まで同船させることを許す慣例であつた。これは上へ通つた事ではないが、所謂大目に見るのであつた默許であつた。」

「さう云ふ罪人を載せて、入相(いりあひ)の鐘の鳴る頃に漕ぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を両岸に見つつ、東へ走つて、加茂川を横ぎつて下るのであつた。」

むかしは、加茂川(鴨川)を東へ横切ったらしいが、現在は、十条通の上流で鴨川に合流している。

鷗外は高瀬川について「附高瀬舟縁起」で次のように記している。

「京都の高瀬川は、五条から南は天正十五年に、二条から五条までは慶長十七年に、角倉了以が掘ったものださうである。そこを通ふ舟は曳舟である。原来たかせは舟の名で、其舟の通ふ川を高瀬川と云ふのだから、同名の川は諸国にある。」

天正十五年(1587)、慶長十七年(1612)までに開削された。京都と伏見の間の物流のための運河としてつくられたものらしい。

清水坂下 清水坂下 清水坂下 清水坂中腹 高瀬川から鴨川の西岸に出て上流側の五条大橋を撮ったのが上の三枚目の写真である。

五条大橋を渡って、五条通の北側の細い道を東へ向かう。上の四枚目はその途中で撮ったものである。 この道から六波羅裏門通に出て、東へ進み、突き当たりの階段を上ると、東大路通に出る。ここを左折し歩道を北へ進み、次の信号を右折すると、一枚目の写真のように、清水坂の坂下である。わずかに曲がりながらほぼ東へ上っている。

信号のある交差点の反対側(坂下の西側)を撮ったのが二枚目の写真で、交差点から西へ鴨川の方へ下っている。この坂路も清水坂に含まれるのか不明であるが、ここから坂を上る。

このあたりでは、緩やかにほぼまっすぐに上っている。両側は民家が続き、標高的には山の中腹といった感じである。このあたりではすっかりいつもの坂道散歩の気分になっている。坂上の山門までかなりの距離がある。

資料がなく、はっきりしたことはわからないが、清水寺に至る坂であるから、この名があると思われる。

清水坂中腹 清水坂付近地図 清水坂上側 清水坂上側 一枚目の写真のように、坂中腹で石垣があらわれたりして、下側とちょっと雰囲気が違ってくる。この先に立っている案内地図を撮ったのが二枚目の写真である。ここを左折していくと、三年坂の坂下に至ることがわかる。また、三枚目の写真の先の四差路を右折して下る坂が五条坂である。

四枚目の写真のように、四差路(変則的であるが)の先は、両側が土産物屋になっている。右側の駐車場までタクシーが上ってくるようで、ここから先、坂上側で観光客がかなり増える。清水坂を上る観光客はかなり少ないようで、人通りが少ない訳がわかった。坂を上るにしても、五条通につながる五条坂の方が多い。

坂下からこの四差路までは人通りはそんなに多くなく、ゆったりとした坂道散歩が楽しめるが、それもここまでである。

変則四差路を左折すると三年坂の下りである。そこに下一枚目の写真のように、京の坂道と刻まれた石標が建っている。ここは後で来ることにして、そのまま坂を上る。

清水坂上側 清水坂上 清水坂上 清水寺近くから 坂上側は、二枚目の写真のように人通りが多くなって、にぎやかになる。三枚目の写真のように、坂上の土産物屋の先に山門が見えてくる。

階段を上り、山門を通りすぎた先から京都市内を撮ったのが四枚目の写真である。中央に京都タワーが見える。携帯地図を見ると、清水寺の東の方に、清水山という標高242.3mの山があるが、その下側に清水寺があるので、標高は150m程度であろうか。京都駅が50mとすると、約100mほどの標高差ということになる。ちょっと調べたが、寺の標高はわからない。

この坂は、鴨川の辺から清水山に向かって緩やかに上る斜面にできた坂のようで、このため、かなり長い坂となっているのであろう。東京23区にはこのような長い坂はないと思われる。
(続く)

参考文献
「文庫地図 京都 2012年3版」(昭文社)
「散策&鑑賞 京都編 2011年度版」(ユニプラン)
「鷗外選集 第五巻」(岩波書店)

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