東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

三段坂

2012年06月30日 | 坂道

清水坂から三段坂下への道 三段坂下 三段坂下 三段坂中腹 前回の清水坂の坂上を右折すると、東京芸大のわきを通って上野桜木の寛永寺の方へ行くことができるが、そうせず、そのまま直進すると、一枚目の写真のように、細い道が下っている。この小坂を下って二本目を右折すると、三段坂の坂下である。

二枚目は、右折してすぐ坂上側を撮ったもので、二車線の広めの通りがまっすぐに延びている。さきほどまでの清水坂などよりも広く、新開の道であることがわかる。三枚目は、そこからちょっと歩いてから撮ったものである。

四枚目は、坂中腹から坂下側を撮ったもので、左側に坂の標柱が立っていて、次の説明がある。

「三段坂(さんだんざか)
『台東区史』はこの坂について、「戦後、この清水町に新しい呼名の坂が、十九番地から二十一番地にかけて屋敷町の大通りに生れた。段のついた坂なので三段坂と呼ばれている。」と記している。戦後は第二次大戦後であろう。清水町はこの地の旧町名。この坂道は明治二十年(一八八七)版地図になく、同二十九年版地図が描いている。したがって、明治二十年代に造られた坂道である。」

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 三段坂中腹 三段坂中腹 三段坂上 一枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、清水坂の道は、上野山内と松平伊豆守の下屋敷との間を坂上からさらに二回直角に曲がって谷中へと続いている。この坂のある通りは、松平邸の中で、まだできていない。

明治実測地図(明治十一年(1878))にもまだないが、明治地図(明治四十年)には見える。標柱の説明のとおり、坂は明治二十年代にできたと思われるが、坂名は戦後のものらしい。このため、横関には説明がない。

標柱に「段のついた坂なので三段坂と呼ばれている」(台東区史)との説明があるので、標柱の上側から坂下方面を撮った二枚目の写真を見ると、坂下の向こうに小さな下りがあることがわかる(自転車の二人がいるあたり)。つまり、これまでの坂下の長い通りの先に、さらに下った坂下がある。

上二枚目の写真をもう一度見ると、先ほどの清水坂の方からでた交差点のあたりがこの坂下側のスロープのようであるが、かなり緩やかである。

三枚目は坂上を、四枚目は坂上から撮ったものである。三段坂の三段というのは、この坂上を上段、その下のかなり長い道を中段、さらにその先の緩やかな坂の下側を下段としたものであろう。ということで、この坂は、坂上側の短いスロープだけの小坂と思っていたが、そうではなく、坂下側の第2のスロープを含めた全体としてかなり長い坂である。文字通りの三段の坂が静かな住宅街の広めの通りにできている。岡崎には、サフラン坂ともよばれたとある。

坂下の突き当たりを左折すると、清水坂下の信号のあるT字路の交差点、鴎外荘ホテルの方で、右折すると、善光寺坂の坂下近くにでる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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清水坂(池之端)

2012年06月28日 | 坂道

今回は、上野池之端の清水坂からはじめて谷中方面に向かい、西日暮里駅近くの地蔵坂まで行き、そこからちょっともどり富士見坂を下った。上野台地にできた坂を巡ったが、このあたりも名坂が多い。

森鴎外旧居跡 森鴎外旧居跡 森鴎外旧居跡説明板 森鴎外旧居跡 午後地下鉄千代田線根津駅下車。

不忍通りを南へちょっと歩き、横断し、東へ向かい、突き当たりを左折すると、鴎外荘の名のあるホテルがある。一枚目の写真はホテルを南側から撮ったもので、この道の右側(東)は、上野動物園である。

ホテルの入口わきに、二枚目のように、森鴎外居住之跡と刻んだ石柱と台東区教育委員会の説明板が立っている。三枚目はその説明板を撮ったものである。鷗外(鴎外)は、明治二十二年(1889)三月に西周夫妻の媒酌で海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、五月末下谷上野花園町の赤松家持家に移居した。鴎外二十七歳の時である。説明板にあるように、その家がいまも残されているが、四枚目はそれを撮ったものである。

鴎外は、翌年、一月に「舞姫」を発表したが、それは、ドイツ留学から帰国した(1888)後、エリーゼが来日した事件の自分なりの決着をつけるものであった。その年の九月、長男於兎が出生し、十月、この家を出て、千駄木町五十七番地に移り、登志子と離婚した。この移転先には、明治二十五年(1892)一月に千駄木町二十一番地に転居するまで住んだ。この千駄木町五十七番地の家には、後年、夏目漱石が居住した(以前の記事)。

清水坂下手前 清水坂下 清水坂曲がり 清水坂下 鴎外荘ホテルを左に見て、北へ進むと、一枚目の写真のように、T字路の信号が見えてくる。このT字路を右折すると、清水坂の坂下である。二枚目は信号のところから撮ったもので、坂下からまっすぐにかなり緩やかに上っている。

信号から進むと、まもなく、突き当たりで、左に小さな円弧を描くようにしてほぼ直角に曲がっている。この曲がりはこの坂のもっとも特徴的な所である。三枚目はその曲がりの手前から撮ったもので、このあたりから少しであるが、勾配がついてくる。

四枚目は曲がりの手前から坂下を撮ったもので、突き当たりを左折すると、先ほどの鴎外荘ホテルの方である。

上野公園内の清水観音堂へと上る階段坂も清水坂であるが、これは「きよみず」坂とよばれる。

清水坂曲がり 清水坂曲がり 清水坂曲がり 清水坂中腹 カーブをちょっと進むと、一枚目の写真のように、ちょっといびつだが、丸く曲がっている。二枚目はさらに進んで撮ったもので、カーブの向こうに坂上が見えてくる。

この道は、抜け道のためかどうかわからないが、かなり車が通る。歩道が狭いので、その都度、端に寄ってやり過ごしてから写真を撮らなければならない。

三枚目はカーブを曲がってから坂下側を撮ったもので、角に坂の標柱が写っている。四枚目はそこから坂上側を撮ったもので、中程度よりも緩やかな勾配でまっすぐに西北へ上っている。

標柱には次の説明がある。

「清水坂(しみずざか) 坂近くに、弘法大師にちなむ清泉が湧いていたといわれ、坂名はそれに由来したらしい。坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、この付近を清水谷と称していた。かつては樹木繁茂し昼でも暗く、別名「暗闇坂」ともいう。」

清水坂中腹 清水坂中腹 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 東都下谷絵図(文久二年(1862)) 一枚目の写真は、カーブの先の中腹あたりから坂上を撮ったもので、坂の右側は上野高校である。二枚目は坂下を撮ったものである。

三枚目は、尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図であるが、不忍池の右側(北)に湖畔から谷中の方へ入る何度か直角近くに曲がっている道がある。この江戸切絵図と明治実測地図(明治十一年(1878))とを見比べると、清水坂は、湖畔から何度か曲がって最初に直角に曲がる前後と思われる。

近江屋板を見ると、上記とほぼ同じ道筋があり、池の方から来て最初に直角に曲がる直前の道に坂マーク△がある。

四枚目は、尾張屋板江戸切絵図 東都下谷絵図(文久二年(1862))の部分図で、左の不忍池から右へと延びる道があるが、この坂は、上端からはみ出したためか、描かれていないようである。その先に、清水門があるが、ここが標柱の云う寛永寺の清水門であると思われる。

この坂は、上記の江戸絵図から推測すると、江戸から続く坂と思われる。

清水坂上 清水坂上 清水坂上 清水坂上 一、二、四枚目の写真は坂上を撮ったもので、坂上近くになるとかなり緩やかになる。三枚目は坂上近くから坂下を撮ったものである。

江戸名所図会の「清水稲荷社」に次のような記述がある。

「・・・又『江戸名所記』の説に弘法大師東国遊化の砌(みぎり)、武蔵国にてひとつの小坂に(東叡山西の麓、清水門の坂これなりといへり。)かかり給ふ頃、老女の水桶を戴きて行くあり。大師かの水を乞ひたまふ時、老女の云(いわ)く、この辺に水なく遠くこれを汲む由まうしければ、大師憐(あわれ)み独鈷を以って加持したまひければ、その所に清泉湧出す。その傍らに当社を勧請し給ひけるといふ。」

このような弘法大師伝説は全国至るところにあるが、ここでは、その清泉がこの坂名や清水谷や清水門の由来となっている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「江戸名所図会(五)」(角川文庫)

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代々木公園2012(6月)

2012年06月22日 | 写真
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大石内蔵助等切腹の地~泉岳寺

2012年06月21日 | 散策

大石内蔵助等切腹の地 切腹地石標 芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861)) 泉岳寺への近道 前回の葭見坂の坂下から坂上へもどり、すぐに左折し、ちょっと歩くと、一枚目の写真のように、左手に史跡らしきものがある。門で閉ざされているが、中は庭園風になっている。ここが忠臣蔵で有名な赤穂浪士の大石内蔵助等十七名が切腹した地であるという。

ここに二本榎通りから来るときは、団地入口にある二枚目の石標が目印になる。今回は葭見坂上から来たが、この坂上からはかなり近い。団地の敷地の奥に位置し、静かなところである。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、この切腹地を含む一帯は、細川越中守の中屋敷で、熊本藩細川家である。以前の記事のように、吉良邸への討入後、大石内蔵助等は、この高輪の細川家に預けられてここで切腹した。討ち入りの翌年、元禄十六年(1703)二月四日のことであった。

二本榎通りに出て左折し、ちょっと歩いたところで右折し小路に入る。四枚目のように緩やかな下り坂となっているが、ここが泉岳寺への近道である。

泉岳寺への近道 泉岳寺門前 赤穂浪士墓 赤穂浪士墓 上記の坂を下り、道なりに歩くと、一枚目の写真のように、かなり細い道になり、やがて、泉岳寺に着く。二枚目は門前を撮ったものである。

第一京浜にある都営浅草線の泉岳寺駅から歩いてくると、上り坂となって、そのまま道なりに歩くと、伊皿子坂であるが、最初の上りの後、左手に進むと泉岳寺の門前に至る。

上記の尾張屋板江戸切絵図に、細川家の近くに「義士四十七人ハカアリ」と記された泉岳寺が見える。近江屋板にも、万松山泉岳寺 義士四十七人ノ墓、とある。大石等の預けられた細川家からかなり近い。坂下は海沿いの旧東海道であり、むかしは江戸湾の眺めがよかったのであろう。

この寺は内が意外に広く、奥の方に歩いていくと、ちょっと小高くなったところに、三枚目のように、四十七士の墓がある。四枚目の正面(角のところ)にある大きいのが大石の墓である。 大石を含む十七名は、上記のように細川家に預けられたが、他の者達は、松山藩松平家に十名、長州藩毛利家に十名、岡崎藩水野家に九名が預けられて、各家で切腹した。墓の配置は、四家に預けられた者達毎に分けられている。

水野邸跡は泉岳寺駅の次の三田駅近くにある。松平邸跡は三田の綱坂の近くにあるイタリア大使館の敷地、毛利邸跡は六本木のテレビ局の敷地になっている。

この近くの聖坂の記事で紹介した功運寺は、中野に移って、萬昌院と合併して、現在、萬昌院功運寺となっているが、ここに、忠臣蔵の敵役の吉良上野介の墓がある。萬昌院は天正二年(1574)半蔵門の近くに開かれたが、吉良の墓はその寺にあったという。

参考文献
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「お江戸探訪「忠臣蔵」を歩く」(実業之日本社)

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明治神宮花菖蒲2012

2012年06月18日 | 写真
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葭見坂

2012年06月17日 | 坂道

葭見坂上の先 葭見坂上 葭見坂上 葭見坂上 前回の天神坂の坂下から坂上へもどり、二本榎通りを左折し、すぐに次を左折する。右手に団地がある道を西北に進む。

一枚目の写真はその途中に進行方向を撮ったもので、ここをまっすぐに歩く。まもなく、二枚目のように、右手に高松中の門が見えてきて、左に坂が見える。ここが葭見坂の坂上である。

坂上は、三枚目のように、緩やかであるが、ちょっと下ると、四枚目のようにかなり急になる。

この坂は、天神坂のすぐ東北側にある。標柱は立っていないが、天神坂の標柱に「葭原が見えるので葭見(よしみ)坂・吉見坂ともいったという説もあるが北方の坂か。」とあるように、葭見坂は、この坂と考えられている。

葭見坂中腹 葭見坂中腹 葭見坂中腹 葭見坂中腹 一枚目の写真は坂上からちょっと下ってから坂上を撮ったもので、二枚目は坂下側を撮ったものである。このあたりから勾配が急になり、左にわずかに曲がっている。このあたりから下は道幅が狭い。

三、四枚目は、ぐんぐん下って、途中でふり返って坂上側を撮ったものである。わずかであるが右へ左へと曲がっており、むかしもこうであったのだろうと想ってしまう。

石川は、この坂のいわれについて、次の二つの文献を挙げている。

『東京府志料』の三田君塚町の条に「葭見坂 町の西辺を北へ下る、白金村の畑地昔は葭原なりしを坂より見下せしよりかく名付くと云伝ふ」と記され、『東京地理沿革志』も天神坂は町南を白金台町に下る坂とし、「又町の西辺を北へ下る坂を葭見坂と云ふ、白金村の畑地昔は葭原なりしを坂より見下せし故の名なり」とある。

両文献とも明治以降のもので、白金村の畑地はむかし葭原であったが、これを坂より見下ろしたため葭見坂というとしているが、この説明は、前回の天神坂で引用した御府内備考とほぼ同じである点がちょっと気になる。天神坂の東北側の小さな区画が旧君塚町である。

葭見坂中腹 葭見坂下 芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) さらにちょっと下ると、上二枚目の写真のように、左に曲がっているが、そこを曲がってから撮ったのが一枚目である。ここから先は、かなり緩やかに下り、もう坂下といってよいほどである。まっすぐに進み、次の角を右に曲がるが、曲がる前にふり返って坂上側を撮ったのが二枚目である。

石垣が接近しているためか道がかなり狭くなっているように感じるが、実際そうで、人と自転車程度しか通ることができない。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、天神坂わきの三田南代地丁と広い細川越中守の屋敷との間に、細く緑色の部分があり、その先の北側が広がって四角状になっているが、ここに、此辺樹木谷ト云、とある。しかし、この坂に相当する道筋がない。四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))には谷も道も見えない。

近江屋板に、ほぼ同じ位置に、樹木谷ト云、とあるが、ここと三田南代地丁の北辺との間に細い道筋が見え、その先が天神坂下とつながっている。この道筋がこの坂と思われる。

樹木谷は、同名が他にもあり、たとえば神田明神近くの樹木谷坂や麹町の善国寺坂の近くにもあった。地獄谷とよばれたが、それからの転訛(呼び名変更)といわれる。

葭見坂下 葭見坂下 葭見坂下 葭見坂下 一枚目の写真は、上記の坂下の角を曲がってから、さらに坂下側を撮ったもので、二枚目は、そこからまっすぐに進んでふり返って撮ったものである。このあたりは、もう坂下で、勾配はほとんどない。その先で左にちょっと曲がっているが、その曲がりの先を撮ったのが三枚目で、桜田通りが見える。突き当たりを左折すると、天神坂下である。四枚目は、さらに進んでふり返って撮ったものである。

明治実測地図(明治十一年(1878))を見ると、君塚町の北側に、天神坂下につながる細い曲がった道筋があるが、この坂と思われる。明治地図(明治四十年(1907)にも戦前の昭和地図(昭和十六年(1941))にも見える。

この坂は、上記の近江屋板から推測すると、江戸末期にはできていたが、その道は崖を下るような険しい所だったように思われる。

高輪台地には、第一京浜へと東に下る柘榴坂や桂坂や伊皿子坂、桜田通りへと西に下る天神坂や魚藍坂、北へ下る聖坂のように二車線の広い坂道がメインの道としてある一方、洞坂やこの葭見坂のように、車も通れず曲がりくねった細い坂道がある。これらの大きな坂道よりも曲がって細い坂の方がいかにも坂らしく、ひっそりとした感じで、よい印象が残る。そして、この坂は両側に住宅が迫っているが洞坂よりもむかしの雰囲気を残しているような感じがする。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「大日本地誌大系御府内備考 第四巻」(雄山閣)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)

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善福寺川緑地アジサイ2012

2012年06月14日 | 写真
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森内名人防衛(第70期将棋名人戦)

2012年06月14日 | 将棋

第70期将棋名人戦7番勝負第6局で森内俊之名人が挑戦者羽生善治二冠(王位・棋聖)に勝ち、通算4勝2敗となり、名人位を防衛した。

今期の名人戦は、第五局まで先手が勝ち、先手必勝パターンが続き、この第六局で先手(羽生)が勝つと、第七局目の振り駒で結局名人が決まるのか、などと思っていたが、後手の森内が勝ち、これで防衛を決めた。後手で勝って防衛を決めたのだから、気分的には快勝であったと想われる。

今期の名人戦の勝敗と戦型は次のとおり。

1 先手 森内○(相矢倉)
2 先手 羽生○(角換わり)
3 先手 森内○(急戦矢倉)
4 先手 羽生○(相矢倉)
5 先手 森内○(横歩取り)
6 後手 森内○(角換わり)

今期は、先手の5勝1敗(前期は先手の5勝2敗)。
過去の対戦成績は森内52勝64敗(勝率0.448)で、先手が51勝21敗(勝率0.708)。羽生先手で25勝9敗、森内先手で26勝12敗。

この20年間の名人戦7番勝負の結果は次のとおり(将棋連盟HP)。

51 1993 米長邦雄 4-0 中原 誠
52 1994 羽生善治 4-2 米長邦雄
53 1995 羽生善治 4-1 森下 卓
54 1996 羽生善治 4-1 森内俊之
55 1997 谷川浩司 4-2 羽生善治
56 1998 佐藤康光 4-3 谷川浩司
57 1999 佐藤康光 4-3 谷川浩司
58 2000 丸山忠久 4-3 佐藤康光
59 2001 丸山忠久 4-3 谷川浩司
60 2002 森内俊之 4-0 丸山忠久
61 2003 羽生善治 4-0 森内俊之
62 2004 森内俊之 4-2 羽生善治
63 2005 森内俊之 4-3 羽生善治
64 2006 森内俊之 4-2 谷川浩司
65 2007 森内俊之 4-3 郷田真隆
66 2008 羽生善治 4-2 森内俊之
67 2009 羽生善治 4-3 郷田真隆
68 2010 羽生善治 4-0 三浦弘行
69 2011 森内俊之 4-3 羽生善治
70 2012 森内俊之 4-2 羽生善治

名人戦で二人はこれまで7回対戦しており、今回で、森内の4勝3敗。森内が勝ち越した。

上の表からわかるように、第60期将棋名人戦(2002)で森内が当時の丸山名人から奪取して以来、森内(7期)・羽生(4期)の二人で名人を独占している。トータルの名人獲得は、二人とも同じで、7期。

20年前、中原・米長戦で米長が悲願の名人になったが、翌年、羽生に奪取されてから、名人は、羽生、佐藤(康)、丸山、森内という、いわゆる羽生世代が独占している(ただし、谷川が1期獲得)。

こうしてみると、森内は、羽生世代の中でも大器晩成型であることがわかる。

その森内は、将棋は先手必勝の信念があり、いつか、タイトル戦のテレビ解説で登場したとき、先手・後手のことを聞かれると、先手が断然いいです、とうっとりとしたような表情で語っていたことを思い出す。

森内・羽生戦は、特に先手の勝率がよく、上記のように7割を超えている。

先手・後手のごくわずかな微差をごく少しずつ広げていき、途中、誤らずに勝ちにつなげるのであろうか。極小微差をわずかずつ拡大する技術を身につけたのであろうか。そんなイメージがあるが、へぼ将棋ファンからみると、実に不思議な世界である。

将来、もし、将棋の先手必勝パターン(たとえば先手▲7六歩からはじめると、どんな変化でも先手が勝つ)が確立されると(あり得るかどうかは別として)、先手▲7六歩で、後手投了ということになる。それはまったく味家のない世界に違いないが、そういったつまらない妄想に陥ってしまう。

渡辺明二冠(竜王・王座)が自身のブログで、今期名人戦第4局の後、次のコメントを書いていた。

『名人戦第4局は▲羽生二冠が勝って2-2のタイ。ここまで先手番4連勝。その有利さを説明するのは難しいのですが、先手の時は「一度間違えてもまだ大変」という実感はあります。すなわち「ミスの数が同じなら先手勝ち」ということは言えるかもしれません。判定ドローならチャンピオン防衛、みたいな。加えて「トップ同士+持時間9時間」という条件だとミスが最小限に抑えられるから、より先手が勝ち易い、ということなのでしょうか。同じ2日制でも8時間の竜王戦、王位戦、王将戦でここまで先手有利と取り上げれられることは少ないので8と9の1時間の違いが大きいのかもしれません。』

先手有利に関し、これがトッププロの平均的な見方なのであろうと思った。持ち時間の長い将棋では、ミスが最小限になるというのは、やはり、先手必勝的なイメージをトッププロは持っているようである。どちらかといえば先手の方がよい程度のことかもしれないが、要するに、「最善手」を指し続ければ、先手が勝つということであろう。

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天神坂(高輪)

2012年06月13日 | 坂道

高輪一丁目階段上 高輪一丁目階段下 高輪一丁目 無名坂 高輪一丁目 無名坂 前回の洞坂から桂坂(新)上の交差点に出て右折し二本榎通りを北に進む。まもなく、左手に小路があったので入ると、一枚目の写真のように、狭い階段が西へ下っている。こういった階段を下ると、何処に続いているのかとちょっとどきどきしてしまう。高輪台地の西側で高輪一丁目である。二枚目は階段下側から上側を撮ったものである。階段下左側(南)のあたりは寺の墓地である。

階段下は突き当たりで、右折して進むと、三枚目のように無名坂の坂下にいたった。坂下から見て左側に階段がつくられているが、なかなかユニークである。四枚目は坂上から撮ったものである。高層マンションがよく目立っている。

二本榎通りから小路に入って狭い階段を下ったら、思いもかけず階段付きの無名坂に行きついたが、こういった坂との出会いもよいものである。

天神坂上 天神坂上 天神坂上 天神坂上 上記の無名坂から二本榎通りにもどり、次のT字路を左折すると、ちょっと広めの道が北西へ延び、平坦な道が続く。まもなく、下り坂になるが、ここが天神坂である(現代地図)。

一枚目の写真は坂上の手前から、二枚目は坂上にかなり近づいてから撮ったもので、坂上近くに立っている標柱が写っている。三、四枚目は標柱の坂下側から坂上側を撮ったもので、突き当たりが二本榎通りである。

標柱には次の説明がある。

「てんじんざか むかし坂の南側に菅原道真の祠(ほこら)があったためにいう。葭原が見えるので葭見(よしみ)坂・吉見坂ともいったという説もあるが北方の坂か。」

天神坂中腹 天神坂中腹 芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) この坂は、一枚目の写真のように、まっすぐにかなりの勾配で北西へ下っている。二枚目は中腹から坂上を撮ったもので、かなりの傾斜があることがわかる。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861))を見ると、二本榎通りを北~東北へ向かい、廣岳院の角を左折すると、北西へ延びる道筋があるが、ここがこの坂と思われる。坂下側の南に興臺寺(コウダイジ)、松久寺があり、さらに坂下の南には、加藤清正の位牌や像が祀られている清正公覚林寺がある。近江屋板もほぼ同様であるが、坂マーク△がある。四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))もほぼ同様である。いずれにも坂名は記されていない。

三、四枚目の江戸絵図に、この坂の北側に道に沿って細く延びた三田南代地丁があるが、『御府内備考』(文政十二年(1829))の三田之三にある南代地町の書上に次の説明がある。

「一坂 登り凡貮丈五尺程  当町前通り中程より北之方え下り候坂ニ而当時者白金村畑ニ有之候場所往古葭野原に有之候よし右を坂上より見下し候ニ付里俗葭見坂と唱来候由申伝候」

御府内備考にもこの坂名はあらわれないばかりか、葭見坂という名がでてくる。上記の標柱にある別名はこの説明によるものであろうか。石川や岡崎や山野は、この坂のすぐ北にある別の坂を葭見坂とよんでいる。

天神坂中腹 天神坂下 天神坂下 天神坂下 一、三枚目の写真は坂下を撮ったもので、坂下の先に見える広い道は桜田通りである。ここを横断してちょっと進み、左折すると、日吉坂である。二、三枚目のように坂下にも標柱が立っている。二、四枚目のように坂下から坂を見上げると、かなり急に感じる。

横関は、この坂を旧丹波町の曹洞宗松久寺前の坂で、松久寺には天満宮があるとしている。これにこの坂名は由来するように思えるが、これ以上の説明はない。また、御府内備考のように、葭見坂をこの坂の別名としている。

『江戸名所図会』に、松久寺にあったという花城(はなき)天満宮が挿絵とともに紹介されている。

江戸名所図会 花城天満宮 左の図が花城天満宮の挿絵であるが、説明は次のとおり。

「花城天満宮 同所南の方にあり。松久寺といへる禅林に安置す。神体(御長三寸八分。)菅公の御作なりといへり。相伝ふ、仁和二年菅公四十二歳にならせ給ふ春、除厄の為に自ら彫刻し給へり。又云ふ、この像は延喜元年太宰帥に左遷せられ、彼地に至り給ふ頃、河内国土師里に存す御叔母君の方へ立ち寄らせ給ひ、御記念にとて奉せられし肖像なりとぞ。(文禄の頃、加藤家の臣山田氏某より当寺に安置し奉りけるとなり。)」

これによれば、松久寺にあった花城天満宮には、菅原道真の作と伝えられる御長三寸八分の神体が安置されていたという。

挿絵には、境内にある天満宮が描かれ、その門前に通行人とともに道が描かれているが、この道が天神坂で、このあたりは坂下ということになる。となりの光臺院が坂上側の高台に見える。坂下南には現在も光台院がある(現代地図)。

この天満宮が横関のいう天満宮で、天神坂という坂名は、この天満宮に由来するものと思われるが、上記の標柱にある菅原道真の祠とは、この天満宮にあったのであろうか、あるいは、その祠のあったところに天満宮を建立したのか、などと疑問がでてくる。

松久寺は道路拡張のため寺域を失ったので鎌倉に移転したという。

明治地図(明治四十年(1907))には坂下の桜田通りはまだないが、戦前の昭和地図(昭和十六年(1941))にある。上記の道路拡張とは桜田通りの拡張のことであろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「大日本地誌大系御府内備考 第四巻」(雄山閣)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

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善福寺池2012(6月)

2012年06月11日 | 写真
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洞坂

2012年06月08日 | 坂道

芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 東禅寺参道 東禅寺山門 前回の柘榴坂の坂下から品川駅前の交差点にもどり左折し、第一京浜の歩道を北へ向かう。まもなく左手に上り坂が見えてくるが、この先に高輪プリンスホテルがあり、そこに向かう坂で、さくら坂という(「東京23区の坂道」)。この坂が一枚目の尾張屋板江戸切絵図 芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861))や二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))に見える道筋とどう関係するのか、興味のあるところである。

さくら坂下からさらに北へしばらく歩き、桂坂下のずっと手前で左折すると、遠くに東禅寺の山門が見えてくる。この参道をちょっと進んでから撮ったのが三枚目の写真で、山門が見える。四枚目は東禅寺の山門で、右に立っている石柱には「都旧跡 最初のイギリス公使宿館跡」と刻まれている(以前の記事)。

この寺のわきを通り抜け裏側に進むと、住宅地があり、やがて階段があり、それを上ると桂坂の上側にでる(以前の記事)。

江戸名所図会 東禅寺(左) 江戸名所図会 東禅寺(右) 東禅寺は、上一枚目の江戸切絵図や二枚目の御江戸大絵図を見ると、その上の高野寺とともに広い敷地を持っていたことがわかる。

臨済宗妙心寺派の別格本山。慶長十四年(1609)、伊東祐慶が嶺南崇六を開山に招聘して、現在の東京都港区赤坂に創建し、寛永十三年(1636)、現在地に移転した。眼前に東京湾が広がることから海上禅林とも呼ばれた(wikipedia)。

赤坂の米国大使館とホテルオークラの間にある霊南坂の近くに、江戸初期、この寺があり、開山が嶺南であったのでこの坂を嶺南坂とよんだが、後に霊南坂と改められた(横関)。 

一、二枚目は江戸名所図会にある東禅寺の挿絵である。右に本堂が見え、その後ろに崖が見える。左に山門が見え、その海側には町屋が並んでいて、この海岸縁の道は東海道であろう。参道に描かれている木は松であろうか。背景にある山々は高輪台地であろう。いかにものんびりとした風景が描かれている。

この挿絵には、これから行く右手にある洞坂や桂坂は描かれていない。

洞坂下 洞坂下 洞坂下 洞坂下 東禅寺の山門を見て右(東北)の道に入り、道なりに進むと、一枚目の写真のように、洞坂の坂下か見えてくる。坂下のところで左に曲がってから、本格的な上りになり、三枚目のように中程度の勾配でほぼまっすぐに上っている。

ここは、以前の記事のように、何回か訪れているが、このときは第一京浜の方から東禅寺が見えたので、この坂が思い出され、引き込まれるようにしてきてしまった。

一~四枚目の写真のように、曲がりの左端に坂の標柱が立っているが、次の説明がある。

「ほらざか 法螺坂・鯔坂とも書く。このへんの字(あざ)を洞村(ほらむら)と言った。洞村とは、昔ほら貝が出たともまたくぼ地だから、洞という等様々な説がある。」

洞坂中腹 洞坂中腹 洞坂中腹 洞坂中腹 標柱のある曲がりを上ると、一枚目の写真のように、次の左への曲がりが見えてくる。二枚目は曲がりのあたりから坂下を撮ったものである。この曲がりを左に曲がると、三枚目のようにほぼまっすぐに上っているが、この曲がりの前後が最も勾配がきつい。四枚目は曲がってから坂下を撮ったものである。

坂下から坂上に向けてずっと右側(桂坂側)がコンクリートの直立壁で、このため、細い坂道がいっそう狭く感じるが、これがこの坂の特徴にもなっている。

洞村(ほらむら)について『御府内備考』(文政十二年(1829))の高輪之一の総説に次の説明がある。

「洞村 土人ほら村と唱ふ東禅寺の南の方にて下高輪村民居住の辺をすべていへり窪き地なれば洞と名付しならん江戸志に螺の出たる所と書しはその據をきかず」

窪地なので洞と名づけられたとの説に横関も本当であろうとしている。上記の江戸絵図や江戸名所図会の挿絵に東禅寺山門よりも海側に町屋が見えるが、このあたりを洞村といったのであろう。

上記の江戸絵図にはこの坂が見えない。明治地図を見ると、実測東京地図(明治十一年(1878))にはないが、明治四十年(1907)の地図には東禅寺から桂坂へ抜ける道があり、この坂と思われる。戦前の昭和地図(昭和十六年(1941))にもはっきりと見え、階段マークが示されている。

洞坂上 洞坂上 洞坂上 洞坂上 二番目の曲がりをすぎてまっすぐに上ると、ようやく坂上である。一枚目の写真は坂上から坂下を撮ったものである。

坂上は突き当たりで直角に右に曲がっているが、ここを曲がってから坂上を撮ったのが二枚目である。ここにも標柱が立っている。この坂上から桂坂まで緩やかにまっすぐに下っている。三枚目は坂上から桂坂側を撮ったもので、桂坂の石垣が見える。四枚目は桂坂側から坂上を撮ったもので、緩やかな上りであることがわかる。

この坂は、桂坂の南側の崖にできた坂で、東禅寺のわきから桂坂の上側までかなりの高低差を屈曲しながら上っているため、実際に歩くと、かなり上ったという感じのするところである。

曲がりが多く、狭く勾配があり、ひっそりとした住宅街、坂下は静かな寺の門前、坂上はさらに別の坂に続く、というように坂の好ましい要素をいくつも持っており、好きな坂の一つである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「大日本地誌大系御府内備考 第五巻」(雄山閣)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「江戸名所図会(一)」(角川文庫)

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柘榴坂(新坂)

2012年06月06日 | 坂道

前回、桂坂聖坂を紹介したが、高輪台地の他の坂をいくつか紹介する。写真は以前(2011年9月)撮ったものである。

柘榴坂下 柘榴坂下 柘榴坂中腹 柘榴坂中腹 品川駅前の交差点で第一京浜を横断すると、そのまま西へまっすぐに延びる道があるが、ここが柘榴(ざくろ)坂である。横断してちょっと歩くと、一枚目の写真のように、緩やかな上り坂となる。

坂両側に大きなホテルなどがあるためか人通りも車も多く、賑やかなところである。坂上は、右折すると、台地の尾根道で北へと延びて二本榎通りに続いている。かつての浜辺から台地の上までかなりの高低差があるが、勾配は中程度よりも緩やかなので、かなり長い坂となっている。

一枚目に写っている横断歩道の先に、二枚目のように坂の標柱が立っている。このあたりがちょうど坂下になっている。標柱には次の説明がある。

「ざくろざか 坂名の起源は伝わっていない。ざくろの木があったためか。江戸時代はカギに曲り、明治に直通して新坂と呼んだ。」

芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 一枚目は、尾張屋板江戸切絵図の芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861))の部分図であるが、海岸に沿う東海道から高山稲荷の所を西へ入る道があり、途中、クランク状(カギ)に曲がってから、まっすぐに西へ台地まで延びている。これが江戸末期の柘榴坂である。坂の北側が薩州殿となっているが、薩摩藩の下屋敷である。坂を挟んで反対側が有馬中務大輔で、久留米藩の下屋敷である。右端に前回の桂坂がある。

二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))にも、薩摩藩屋敷と久留米藩屋敷との間に西へ延びる道があるが、これがこの坂である。これにも途中カギの曲がりがあるが、位置が尾張屋板とちょっと違い、坂下側にある。これにも右端に桂坂がある。

近江屋板を見ると、カギの曲がりがやや坂上側に位置し、坂マーク△が坂上側にあり、坂下の稲荷前から上側がちょっと曲がっている。実測東京地図(明治十一年(1878))にはちょうど中ほど付近にカギの曲がりがあるので、尾張屋板があっているようである。

明治地図(明治四十年(1907))にはまだ現在のような道はない。戦前の昭和地図(昭和十六年(1941))では現在のようになっている。新坂ともよばれるが、明治以降にできたためそうよばれた。 現代地図を見ると、第一京浜の品川駅前の交差点から南へちょっとの所に高山神社があるが、ここが尾張屋板にある高山稲荷とすると、旧道はこの前を西へ延びていたことになる。

柘榴坂中腹 柘榴坂中腹 柘榴坂中腹 柘榴坂中腹 一~四枚目の写真は坂中腹で撮ったものである。まっすぐに上下しているが、途中勾配がかなり緩やかになる部分がある。まったくの当てずっぽうだが、そのあたりまでが新道で、それから上が旧道かもしれない。

この坂は、以前、島津山の方から高輪へ抜ける近道を通って、坂上に出た記憶がある(以前の記事)。そのときは、この坂を下らず、台地上の道を北へ桂坂上まで歩いた。この坂はそのとき以来の課題であったが、このときようやく歩くことができた。

永井荷風「断腸亭日乗」に次の記述がある。

大正八年(1919)「九月廿七日。秋晴の空雲翳なし。高輪南町に手頃の売家ありと聞き、徃きて見る。楽天居の門外を過ぎたれば契濶を陳べむと立寄りしが、主人は不在なり。猿町より二本榎を歩みて帰る。」

この坂の両側が高輪南町で、この日、荷風はこのあたりに売家を見に来た。ちょうど、麻布市兵衛町の偏奇館へ移る前で、引っ越し先をさかんに探していたときである(以前の記事)。

柘榴坂中腹 柘榴坂上 柘榴坂上 柘榴坂上 坂上近くにT字路の交差点があり、二、三枚目の写真はそのあたりから坂上を撮ったものである。坂上は、右折で、そのまま北へと続くが、反対に左折すると、細い道が南へ延びている(北側一方通行)。この小路を進むと上記の高輪への近道にいたる。

上記のT字路の交差点から南へ道が延びているが、これが上記の尾張屋板などにも見え、古くからの道のようで、御殿山の方へ続いている。今回、気がついたが、江戸切絵図に御殿山の方に鉄砲坂が見える。これは今はない坂とされている(横関)が、いつかその跡を訪ねてみたい。ただ、現代地図を見ると、このあたりは、鉄道(山手線など)や大きな道路が通っていて、ほとんど期待できないようであるが。

四枚目の写真のように、坂上にも標柱が立っている。このあたりから坂下までもどった。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)

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聖坂

2012年06月03日 | 坂道

聖坂上の先 聖坂下 聖坂下 聖坂下 前回の済海寺の裏手から小路を通って先ほどまでの通りにもどる。さっき入った亀塚公園のところから約100mほど北へ進んだだけで、かなりの回り道をしたことになるが、これを厭っては散歩の楽しみもない。一枚目の写真は、そのあたりから北側を撮ったもので、ここからちょっと歩くと聖坂の坂上である(現代地図参照)。

坂上から下ったが、以下、坂下から写真を並べる。坂下の信号を右折すると、三田通りの広い通りにでる。二枚目はその信号のちょっと坂側から坂上を撮ったものであるが、このあたりはかなり緩やかで坂といった感じはしない。

坂下から進むと、信号のある交差点のところで左にちょっと曲がっているが、その信号の手前から撮ったのが三枚目で、曲がりの手前あたりから徐々に勾配がついているのがわかる。 四枚目は曲がりのところから坂上を撮ったもので、ここからまっすぐに中程度の勾配で南へ上っている。四枚目、下一、二枚目の歩道わきに坂の標柱が見えるが、次の説明がある。

「ひじりざか 古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂と呼んだという説もある。」

聖坂下 聖坂下 芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 一枚目の写真は標柱を入れて坂上を撮ったもので、二枚目は標柱の上側から坂下を撮ったものである。二枚目の信号の交差点を坂上から行って左折すると、汐見坂である。

三枚目は、尾張屋板江戸切絵図の芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861))の部分図であるが、済海寺の北に、多数の横棒の坂マークとともに聖坂とあり、その西側に功運寺(コウウンジ)がある。四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))もほぼ同様で、ヒジリサカとある。近江屋板には、△聖リ坂、とある。尾張屋板と近江屋板には、功運寺の北わきの道に汐見坂とある。

この坂は、江戸から続く坂であることがわかるが、天和二年(1682)成立とされる『紫の一本』には次のようにある。

「聖坂 三田の三町目より二本榎の道筋、光雲寺と云ふ寺の上の坂を云ふ。」

紫の一本でいう光雲寺とは、上記の江戸切絵図にある功運寺と思われる。この寺は、現在、この坂にはない。上記の江戸絵図に坂下に三田三丁目がある。

聖坂中腹 聖坂中腹 聖坂中腹 聖坂中腹 一~四枚目の写真は坂中腹で撮ったものであるが、まっすぐに上下している。この坂は、二車線の道であるが、先ほど通った桂坂と違って、交通量が意外に少ない。そのため歩いていてゆったりとした感じとなる。

『御府内備考』(文政十二年(1829))の三田の総説には次の説明がある。

「聖坂 三田功運寺門前の坂をいふ江戸鹿子に聖坂といへるは昔高野ひちり住居して開きし坂ゆへなりといふ此高野聖の住居と云は今の芝二本榎高野在番屋敷の事にやこは高野山の出張役所なればしかとなへしならんたゞその地の相隔る事凡十町にも及びたれば鹿子にしるすごときの傳へにては齟齬せり功雲寺門前町方の書上には高野聖の通行の為に開きしとのみみへたり此往来則二本榎より三田三丁目の方への直路なり。」

坂名の由来は、江戸鹿子が高野聖の住居があったからとするが、それが二本榎の高野在番屋敷とすれば離れすぎているとし、功運寺門前町方の書上には高野聖の通行のため開かれたとある。その功運寺門前の書上には次のようにある。

「一聖坂 凡登り百間余巾貳間四尺五寸 右者町内中程に而三田臺町より芝二本榎通りえ之往還ニ御座候右者往古高野聖と歟[か]申僧蹈[踏]開候坂故聖坂と唱候伝得共書留等無御座候」

高野聖が踏み開いたとあるが、書き留められたものなどはないとしているので、伝聞のようである。

江戸名所図会 聖坂(左) 江戸名所図会 聖坂(右) 高野聖(こうやひじり)とは、中世において、高野山から諸地方に出向き、勧進と呼ばれる募金のために勧化、唱導、納骨などを行った僧をいう。高野山における僧侶の中でも最下層に位置付けられ、一般に行商人を兼ねていたという(wikipedia)。

桂坂上南側に高野山別院があるがここと関係があるのだろうか。尾張屋板江戸切絵図、御江戸大絵図にも見える。いずれにしても、この坂は、江戸中期から記録があることから、高輪台地の古い坂といえそうである。

高輪台地は東西に短く南北に長い山であり、東側の海岸沿いの東海道の迂回路としてこの台地の道が利用されたように想像されるが、この台地を南へ向かうとき、まず北側の尾根にできた聖坂を上った。東西に細い台地であるから、その中間の尾根に坂ができたのは必然であったように思われる。このことは坂上から延びる二本榎通りにも当てはまる。

一、二枚目は江戸名所図会にある聖坂の挿絵で、左に聖坂とその坂上が見え、坂は段々になっている。海岸近くには樹木が見え、その向こうの江戸湾には何隻もの船が浮かんで、遠くに見えるのは房総の山々であろう。右には、聖坂上東側に済海寺が見え、西側には功運寺がある。

聖坂上 聖坂上 聖坂上 聖坂上 坂上近く西側にクウェート大使館があり、その南端あたりが坂上である。四枚目の写真のように、坂上にも標柱が立っている。

この坂は永井荷風の日記「断腸亭日乗」にも何回かでてくる。

大正十二年(1923)「八月廿四日。午後三田聖阪上薬王寺に赴き、沈山の父大沼竹渓及大沼氏累代の墓を展す。墓誌を写しゐる中驟雨濺来る。本堂に入り住職に面会し、空の霽るゝを待つ。家に帰れば既に黄昏なり。燈前竹渓詩鈔を読む。」

大正十三年(1924)「正月五日。今日もまた晴れたり。午後伊皿子の魚籃寺を訪ひ、其境内より台町裏通に出でたれば、薬王寺を訪ひ、大沼竹渓の墓を掃ふ。聖阪の古刹功運寺を尋しがいつか廃寺となりしが如し。他日調査すべし。夜小雨。三更に至って霽れる。」

荷風は、関東大震災(1923)の前後、大沼沈山や鷲津毅堂のことを調べていたが、その一環として伊皿子坂上近くの薬王寺に来ている(以前の記事)。功運寺を尋ねたが、すでに無かった。明治地図(明治四十年(1907))にはのっている。現在、中野区上高田四丁目に同名の寺があるが、ここが移転先のようである。同寺のHPによると、大正11年(1922)三田から移ったとあるので、荷風が訪ねたのは移転後まもなくのことであった。

昭和十二年(1937)「三月四日。好く晴れて日の光の強烈なること夏の日の如し。午後三田台裏町なる薬王寺に徃き大沼竹渓の墓を帚ふ。十年前来り見し時と異るところなし。本堂の階前に垂絲梅紅白二株ありて正に花のさかりなり。聖坂を下る。坂の中腹に古きペンキ塗の洋館二三箇処あり。いずれも洋人の家にして明治年間の名残なるべし。田町に出で電車にて土州橋に至り、それより浅草公園を歩む。銀座に来りて夕餉を食すれば夜は早くも初更に近し。この夜さくら屋喫茶店閉店のためいつもの諸子皆来り会す。蛍の光を合唱して後一同拍手してわかれ去る。」

この日、荷風は、久しぶりに薬王寺の大沼竹渓の墓参りに来たが、10年前と変わらなかった。帰りは聖坂を下ったが、中腹に二三の古いペンキ塗の洋館があり、洋人の家で明治の名残りであろうとしている。

昭和十六年(1941)「三月十三日。くもりて風なし。来客を避けんとて午後門を出でしがさし当り行くべきところも無ければ、ふと思出づるがまゝ三田台町の済海寺を尋ね見たり。維新前仏蘭西公使の駐在せし寺なればなり。魚籃坂上の道を左に曲りたる右側に在り。石塀に石の門あり。堂宇は新しきものにて門墻と同じく一顧の値もなけれど、墓地より裏手の崖には老樹欝蒼として茂りたるに、眼下には三田八幡かと思はるる朱塗の神社より高輪の町を望み、猶品川湾をも眺め得るなり。墓地には久松松平家累世の墓石多く立ちたり。来路を歩むに妙庄山薬王寺の門前に来りたれば墓地に入りて大沼竹渓の墓を掃ひて香花を手向けたり。本堂の階前に一株の垂糸梅今を盛りと花咲きたり。魚籃坂を下り久しく行きて見ざりし物徂徠の墓を豊岡町の長松寺に尋ねたり。二十年前慶応義塾に勤務せし比折々此寺の門前を過ぎ石段の上に見事なる松の老樹ありしを見しが、今は枯れてその切株を残すのみなり。聖坂下より斜に三田四国町通に出る道路取ひろげられたり。タキシを倩ひ、土州橋に至り浅草公園に行きし時日暮れとなりたれば、米作に入りて夕飯を喫し、オペラ館楽屋を訪ふ。偶然永井智子菅原明朗と共に来るに遇ふ。帰途春雨霏々。」

荷風は、来客を避けようと外出したものの、行く所もなかったが、ふと思いついて済海寺を尋ねた。幕末にフランス公使館であったからである。この日も、帰りに薬王寺にも行き大沼竹渓の墓参りをしてから、魚籃坂を下り荻生徂徠の墓を長松寺に尋ねた。この寺は魚籃坂下の東にある。聖坂下より三田四国町へ行く道が広げられていた。かつて慶応義塾の教授をしていたのでこのあたりのことはよく知っていた。

その済海寺の墓地裏手の崖からの眺めがよく、老樹が鬱蒼として茂り、眼下には三田八幡、高輪の町、品川湾も見えたが、上記の江戸名所図会のような風景であったのだろうか。前回の記事で、思わず行きついた(上りついた)済海寺の裏の台地の端からの眺めとは全然違っているようで、現在とは比べようもない。荷風は『日和下駄』「第十 坂」で次のように書いているが、この時代、九段坂や聖坂や霞ヶ関坂に上れば、かなりよい眺めであった。

「そもそも東京市はその面積と人口においては既に世界屈指の大都である。この盛況は銀座日本橋の如き繁華の街路を歩むよりも、山の手の坂に立って遥はるかに市中を眺望する時、誰が目にも容易く感じ得らるる処である。この都に生れ育ちて四時の風物何一つ珍しい事もないまでに馴れ過ぎてしまったわれらさえ、折あって九段坂、三田聖坂、あるいは霞ヶ関を昇降する時には覚えずその眺望の大なるに歩みを留めるではないか。東京市は坂の上の眺望によって最もよくその偉大を示すというべきである。」

聖坂下から汐見坂、安全寺坂、蛇坂などに行く予定であったが、突然雷鳴がとどろき、しばらくすると、ぽつぽつきたので、諦めて田町駅へ。

携帯による総歩行距離は9.4km。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「大日本地誌大系御府内備考 第四巻」(雄山閣)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「江戸名所図会(一)」(角川文庫)

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亀塚公園~元和キリシタン遺跡

2012年06月01日 | 散策

幽霊坂上と亀塚公園との間 亀塚公園近くの階段 階段上からの風景 階段踊り場から上 前回の桂坂上から二本榎通りを北に進む。この通りは高輪台地の山の尾根づたいにできた道で、東西の分水嶺になっている。

しばらく歩くと、しだいに下りになって伊皿子坂上にいたる。ここを右折し下ると、泉岳寺の門前であるが、そうせず、坂上を左折し、魚籃坂の坂上に至る。その近くを右折すると、まもなく左手に薬王寺が見えてくる。そのまま進むと、先ほどの二本榎通りと合流し、ちょっと歩くと、左手に幽霊坂上がある。一枚目の写真は、その坂上の先から撮ったもので、この先に亀塚公園がある。この公園から第一京浜に下ることができる。

公園の奥(東)へ歩いていくと、二枚目のように階段の上にいたるが、ここが第一京浜への近道である。谷側がちょっと見える(赤い車の辺り)が、かなりの高低差があることがわかる。

三枚目は、階段からの風景で、崖が見える。四枚目は、階段をまっすぐに下って、踊り場から上を撮ったものである。公園から崖にかけて緑がいっぱいである。

階段下から上 ビル裏手の丘 芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 階段を下りてから、上側を撮ったのが一枚目の写真である。そこからさらに下りる階段があるが、そちらに行かず、御田八幡神社の境内に向かい、そこから第一京浜の歩道に出た。

歩道を左折し、ちょっと歩くと、ビルのわきから公園ふうのところが見えるので、そこに行ってみる。ちょっとした丘になっていて、その先は、台地の直下にできた崖である。二枚目はその丘を撮ったもので、斜面に芝桜が咲いている。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、海岸からちょっと入ったところに三田八幡神社があり、そのとなりに知福寺があり、近くの東海道から赤羽橋へ延びる三叉路に元札の辻とある。四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))にはその寺はない。近江屋板では忠福寺になっていて、同じところに、元札ノ辻ト云、とある。札の辻は、現在もこの近くの交差点の名になっている。

元和キリシタン遺跡 元和キリシタン遺跡説明板 エレベータ上からの風景 エレベータ上からの風景 丘の端に行くと、一枚目の写真の「都旧跡 元和キリシタン遺跡」と刻まれた石柱が立っている。そのわきに、二枚目の説明板がある。ここが元和九年(1623)にキリシタンが処刑された地である。

家光は三代将軍になったその年、十一月十三日(1623年12月4日)、キリシタン50人を火焙りの刑にした。この刑は放火などに係る者に限られていたが、キリシタンに最も重い罪科を課した。その刑のあと、そのまま、焼屍体は三日二晩、晒された。その場所が、札の辻、界隈の浄土宗智福寺の寺領内とされている。上三枚目の尾張屋板江戸切絵図にある知福寺である。一枚目の石柱の根元に、智福寺境内と刻まれているように見える。

キリシタン遺跡から南へ延びる道があるので、そちらに行くと意外なものが立っている。エレベータである(上の丘の写真に写っている)。これにのって上り、外に出ると、三、四枚目のように、そこは台地の端で、北東の眺めがよい。下を見ると、先ほどの芝桜のあたりが見える。高輪台地とかつて海岸であった谷との高低差がかなりあるようで、山の上にいる感じとなる。ここは、済海寺の裏手で、ここから先ほどの通りにもどる。済海寺は上記の江戸絵図にも見えるが、安政六年(1859)から明治三年(1870)までフランス公使館が置かれていた。

意外なところにエレベータがあったが、以前に階段でもあったのだろうか。そうだとしたらかなり急であったに違いないと思われるのだが。
(続く)

参考文献
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
山田野理夫「東京きりしたん巡礼」(東京新聞出版局)

コメント (4)
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