東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

神田川~淀橋

2010年06月30日 | 散策

善福寺川と神田川との合流地点から川に沿って歩くが、川沿いの壁が高すぎて川の流れは見えない。

しばらく歩くと富士見町駅につく。駅前の道路を挟んだところにあるのが富士見橋である。

右の写真は富士見橋から下流側を撮ったものである。

ここから先、神田川沿い散歩となる。といっても、ここから下流の新橋までは川沿いの散歩道はない。

駅前の道路を東側に進み、中野通りを越え、寿橋を渡り、右折する。

この道を進むが、道路を横断するたびに右折して橋まで行き、川を眺める。これを繰り返していると、中野新橋駅近くの新橋につく。

新橋は、赤い欄干が目立つところであったが、現在、橋の上下流が工事中で、あまりぱっとしない。

橋のたもとに工事中の細い路ができているので、進むと、左の写真のようにすぐに川沿いの散歩道にでる。

ここを下流側に歩くが、川沿いの散歩道は淀橋まで続いている。4年ほど前、山手通り下流から上流(善福寺川)へ歩いたことがあったが、部分的にしか散歩道はなかったような記憶がある。

新橋~淀橋間の川沿い散歩道は最近になって開通したものと思われる。

新橋の下流の桜橋から下流側を撮ったのが右の写真である。

この辺りは、改修が終わったばかりなのか、護岸壁が新しく、ほぼ垂直になっている。

壁面は表面に化粧板が取り付けられてコンクリートがむき出しになっていないが、垂直護岸は前回の記事の傾斜護岸と比べてやはり味気ない感じがする。

散歩道は新しいためか、大きな樹木はなく、夏の日ざしの強いときの散歩には適さないと思われる。反対に、いまの気候からは想像しにくいが、冬の風のないときの日溜まり散歩などにはよいかもしれない。

左の写真は、花見橋のちょっと下流側の散歩道を撮ったものである。遠く右側に都庁のビルが見える。

途中、中ノ橋近くの小さな公園で一休み。この公園は桜の木で木陰ができているため休憩にはちょうどよい。ペットボトルの水をごくごくと飲み、空となる。

さらに進むと、川沿いに心地よい風が吹いてくる。この季節、こんな風が続くと街歩きも楽しいが、すぐに止む。

やがて山手通りに至るが、信号を渡る前にコンビニがあったのでペットボトル(水)を調達する。きょう二本目であるが、これ以上必要となると、街歩きには適さない気候と判断できそうな気がする。

山手通りを横断すると、長者橋である。長者橋というのは、この辺りに伝わる中野長者(鈴木九郎)伝説によるものであろう。この伝説といまの新宿との関わりについて中沢新一が「アースダイバー」で絶妙な語り口で描いている。伝説と歴史がからみ合って現在によみがえるようである。

さらに進むと、淀橋につく。

写真は淀橋から西側(上流側)を撮ったものである。

淀橋は、旧名面影の橋、姿見ずの橋ともいう。

ここは青梅街道が通っており、通行量が多いところである。

神田川は、ここからさらに続くが、5月に下流の下落合の辺りの新堀橋から淀橋まで歩いたので(以前の記事参照)、きょうの神田川散歩は、ここでおしまいとする。

今回の神田川散歩で、中野新橋駅近くの新橋から下落合の新堀橋まで神田川沿いの散歩が楽しめることがわかった。
(続く)

参考文献
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

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宮下橋~神田川との合流地点

2010年06月29日 | 散策

和田堀池から少し歩くと、宮下橋である。

右の写真は宮下橋の上流側から撮ったものである。ここを右折していくと大宮神社の門前に至る。

宮下橋はBOACスチュワーデス殺人事件で知られている。昭和34年(1959)3月、日本人女性客室乗務員(当時27歳)が扼殺死体で発見されたのが宮下橋のすぐ下流であった。この事件は松本清張「黒い福音」で有名である。

宮下橋を通る道路を渡ると左手に調節池がある。善福寺川が増水したときに一時的に貯留する目的とのことで、通常時は、野球場になっている。

宮下橋から下流側は、先ほどまでと違って高い樹木がなく、明るい感じとなるが、これからの季節は日差しがきつくなりそうである。

少し歩くと、ふたたびシラサギに遭遇する。きょう三回目である。上流側で見かけたものと思われるが、この辺りでシラサギを見かけたのはこれが始めてである。見ていたら突然飛んだ。

しばらく歩くと、済美橋のすぐ上流で川幅が拡がっている。集中豪雨時の増水対策らしく、その下流側では、対岸が親水公園のようになっている。

さらに、その下流側は、左の写真のように池のように拡がっているが、下流側ですぐ川幅がもとに戻って狭くなっている。

下流側に歩くと、川の工事のため熊野橋で行き止まりとなる。迂回して本村橋まで行くと、川全体が作業台で覆われており、川がまったく見えなくなっている。川のわきを通って堀之内橋まで行くが、そこから先も工事中で、川沿いの道は通行不能である。

堀之内橋から方南通りに向け一般道を進むが、途中左側に川へと向かうと思われる道があったので、左折し進んでみると、仮設の階段と橋がある。この階段を上ると、橋を渡る手前に、川に沿った小道へと下る階段がある。ここを下りて小道を進むと、環七通りにでる。途中、覆いで囲まれた川側から工事音が聞こえてくる。

川からずれた位置にある横断歩道を渡り、川まで戻ると、そこが和田堀橋である。ここから下流側に向けてまっすぐに進む。しばらく歩くと、駒ヶ坂橋につく。

この橋を左折すると、駒ヶ坂の坂下である。

右の写真のように、緩やかにまっすぐに上っている。坂上が南側で、直進すると方南通りに至る。

この坂は、むかしの中野雑色村の西隅にかかり、坂下の小名を駒ヶ崎と称したところから駒ヶ坂というとのことである。

この橋の下流側が和田広橋であり、善福寺川にかかる橋としては最後の橋である。ここから善福寺川と神田川との合流地点が見える。

橋から合流地点の近くまで進む。

左の写真はそこで撮った合流地点である。写真下側が善福寺川で、右上側から斜めに流れてくるのが神田川である。

ここで善福寺川は終わりである。

上記のように、善福寺川は、現在、熊野橋と和田堀橋(環七通り)との間は工事中で、川沿い散歩はできない。
(続く)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道事典」(新人物往来社)

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善福寺川~和田堀公園

2010年06月28日 | 散策

善福寺川を下流に向けて歩いた。以前の記事のように5月末に上流側に歩いたので今回は下流側を目指す。といってもこのコースは近くのなので何回も歩いている。

歩き始めてまもなく、尾崎橋の上流側にシラサギがいた。この辺りでシラサギを見かけるのは珍しい(わたしにとってであるが)。

きょうは、下流側で、このシラサギと二回遭遇した。

尾崎橋の少し下流側で見かけたが、右の写真はそのとき撮ったものである。

尾崎の地名に関し、尾崎橋のたもとに立っている説明板によると、上流に向かって左側の台地が尾崎と呼ばれており、「おさき」とは突き出した台地の先端(小崎)を指す古い地名で、発掘された石器や土器また住居址からみて、この台地には約八千年前から人が住んでいたことが知られているとのこと。

ここは、中沢新一「アースダイバー」にもでてくる。いまでも「みさき=岬」のかっこうをとどめているところとして紹介され、そのみさきの突端に近い辺りに古い神社(熊野神社)があり、そこは縄文の古い遺跡の跡であるとする。地図を見ると、確かにこの辺りは岬の形をしている。

さらに少し下流側に歩いたところで撮ったのが左の写真である。

川がちょっとうねって見えるところで、よい撮影ポイントである。

護岸が垂直壁でなく、傾斜し開いた形をしている。このためか、開放感のある川の風景となっており、親水的でもある。

善福寺川緑地公園の上流からしばらくはこのような形になっているようである。

この辺りから雨がぽつぽつ降ってきたが、結局、たいした降りにならずにすむ。

しばらく歩いていると、両岸ともに緑が濃くなってくる。

和田堀公園と大宮神社に近づいてきたためである。

右の写真は、御供米橋の上流側から撮ったものである。この辺りから下流側はかなり鬱蒼としている。

この辺りはいつの季節に訪れても、その樹木の多さに圧倒される。これからの季節は濃い樹影ができ、涼しい感じとなる。

御供米橋を渡っても大宮神社に行くことができるが、その間もかなりよい散歩道になっている記憶がある。

橋から少し進むと左側に和田堀池が見えてくる。

左の写真は川側から撮ったものである。

池の中にできた小島は樹木でいっぱいであり、池の中央に噴水ができている。

ここから少し下流側で掃除をしていた人と話をしたが、この辺りにはカワセミやコイサギがいるとのことで、よく見かけるといっていた。
(続く)

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呑川源流

2010年06月26日 | 散策

蛇崩川緑道の散策の後、帰宅のため田園都市線桜新町駅まで歩いたが、その途中、駅の南側の国道246号線まで行くことにした。

4月に呑川本流緑道に来たとき、246号線の南側の際から歩き始めたが、246号線を挟んだ上流側がどうなっているのか疑問だったからである。

駅の出入口わきの狭い通りを南側に進むと、次第にかなり緩やかであるが下り坂になり、やがて246号線の歩道につく。

この歩道にかかっているのが右の写真のように新桜橋である。

橋上流側に川底が見える空間ができているが、緑色のネットで覆われている。

ネットの間からのぞき込むと、左の写真のように、少しであるが川底に水が溜まっている。

水がわずかに流れているようである。

 (写真の周囲の緑はネットである。)

ちょうど246号線を挟んで向こう側(南側)高速の下に空間ができているが、その空間の下から呑川が開渠して南に延びており、両岸に桜の木などが植えられている(上記の以前の記事参照)。

この呑川の上流に新桜橋が位置するので、呑川はこの橋の上流から流れている。

新桜橋から同じ道を北側(上流側)に引き返す。

そのすぐ上流側から右の写真のように遊歩道らしき歩道がしばらく続いている。

車道側に植え込みがある。

この遊歩道は地図上ではわからない。

車道が狭いから、このような歩道があると歩きやすいが、ここも呑川源流(近く)を暗渠化したものと思われる。

左の写真のように途中で、車止めがありこの歩道が終わる。

歩道が終わった辺りが呑川の源流か、さらに上流があるのか不明である。

そのまま進み桜新町駅までもどる。

携帯の歩数計による総距離は15.5km。

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蛇崩川緑道(4)

2010年06月25日 | 散策

弦巻通りの歩道から右折して入った緑道は、先ほどまでと同じように両側に植え込みのある細い散歩道となっている。

持参した携帯地図(文庫判 1/1万 東京23区 2004年1月 昭文社)を見ると、このあたりは川となっているので、比較的最近に緑道となったのであろう。

少し歩くと、右の写真のように、緑道は車道のわきの歩道となる。

この歩道で目立つのはおもしろい形の車止めである。鋼管製で湾曲し、鋼製円板が取り付けられた端面が斜め上を向いている。このためか、車止めらしくなっている。

これから先、鋼管製の円柱なども立ち、おもしろいデザインの緑道である。

車道が終わり、ふたたび緑道だけとなる。

左の写真のように、緑道のわきに人工の小川が流れている。人工のものでも水の流れがあるとなんとなく楽しい。

緑道を進むと、やがて、世田谷区教育会館前に至るが、この前にちょっと大きめの池がある。

樹木でちょっと鬱蒼としており、夏の暑い日に涼むにはちょうどよいかもしれない。

左に池を見ながら水の流れのある緑道をさらに進むと、車道にでて緑道が終わる。

右の写真は、終点近くで反対側(東側)を撮ったものである。

緑道の出入口の傍らに説明文や地図が刻まれた金属製プレートが立っているが、それによると、このプロムナードのせせらぎの下には、馬事公苑の方から流れる自然の川があるとのことである。

蛇崩川の水源は緑道の出入口のさらに西側の馬事公苑のあたりであるということであろうか。

緑道の出入口の向かい側にバスの営業所があるが、地図には、この西側に川の跡らしき破線が見える。しかし、その先はないようで、現在、たどれるのはそこまでのような気がする。この川の跡らしきところは帰宅後大きな地図を見て気がついたため、今回は行けなかった。

左の写真は、緑道の出入口わきの金属製プレートにある蛇崩川の古地図である。太い線が蛇崩川であるが、右上端の諏訪山と、左下端の駒繋神社との間で蛇崩川はかなり蛇行していることがわかる。現在の緑道はこれほどうねっていないので、その後の水路の改修によるものであろう。

池のあるところまでいったん戻り、そこから一般道にでて、田園都市線桜新町駅へ。

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蛇崩川緑道(3)

2010年06月24日 | 散策

国道246号線を緑道からずれたところの信号で横断する。

歩道を進み緑道の再開地点まで戻る。

右の写真はその緑道の再開地点から撮ったものである。ここから緑道をちょっと進むと、左手に「蛇崩川緑道」と書いた案内板が立っている。

さらに進むと円山公園のあたりに丸山橋の案内板がある。この案内板は緑道の車止めを兼ねているようである。

少し歩くと、左の写真のように、上記と同じ形状の大和橋の案内板がある。

続いて、郷之橋、鎌倉山橋、駒留橋の同じ形状の案内板がある。

駒留橋のところで緑道が中断し、環七通りの高架下の信号を渡る。

ここで、右側の駒留公園の方にうっかり進んでしまい、途中で気がついて戻る。

環七通りの高架を背にして左手の方に進むと緑道が再び見えてくる。

右の写真は、環七通り高架下の先、緑道が再開した地点近くから西側を撮ったものである。

かなり狭い散歩道がずっと続いている。

途中に、橋名が印刷されたシートを貼りつけた金属製の低いポールが何カ所かに立っている。順に、向橋、小泉橋、駒沢橋、親和橋と続く。

途中小泉公園を通り抜けたが、ここのベンチで一休みする。

親和橋でこれまでのスタイルの緑道がいったん終わる。

左の写真のように、親和橋から先(西側)では緑道が歩道のわきにできている。

車道が弦巻通りで、西に向かい右の歩道のさらに右側が緑道となっている。

このため、車道の右側には歩道が二本あるようなおもしろい形になっている。

写真左下に石柱が見えるが、これには「親和橋を偲ふ」と刻んである。だれによるものかは不明。

歩道と緑道が平行して延びる通りをまっすぐに西側に進む。

途中、金属製の高い標識ポールが立っているが、ここに橋名が印刷されたシートが貼りつけられている。南天神橋、弦向橋、向山橋、下前山橋、坂下橋と続く。

弦向橋のポールの傍らに蛇崩川緑道の説明板を貼りつけた低い石柱が立っている。ここに、蛇崩川にフタをしてつくった散歩道で、地下には現在下水道の幹線が通っていると説明がある。

坂下橋というのがあるので、道路を挟んで左側を見ると、上り坂が見える。この坂下ということであろうか。

坂下橋の先で、歩道と緑道が平行して延びる通りが終わる。

坂下橋の先の横断歩道を渡ると、右の写真のように右手に緑道ができている。

写真左側が弦巻通りの歩道である。
(続く)

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蛇崩川緑道(2)

2010年06月23日 | 散策

緑道をさらに進むと、川端橋につく。

このあたりのベンチで一休み。暑いのでペットボトルの水がおいしい。

この緑道にはベンチが短い間隔で設置されており、好きなときに休憩できてなかなかよい。

やがて、蛇崩下橋を経て、蛇崩橋に至る。右の写真のように標柱が立っている。この標柱は諏訪山橋からずっと同じ形状である。

この蛇崩橋を通る道には、以前、坂巡りで来たことがある。緑道を右折すると、野沢通りに半兵衛坂(はんべえさか)があり、左折すると、謡坂(うたいさか)に至るが、これらの坂を訪れたときである。

謡坂まではちょっと距離があるので、比較的近い半兵衛坂に行くことにする。

緑道を蛇崩橋で右折し進み、野沢通りを右折すると、半兵衛坂の坂下である。

坂下の信号のあたりからまっすぐに上っている。

歩道を上ると、坂上側に標柱が立っている。

車がひっきりなしに通り、坂下の信号でつまってしまい、車なしの写真が撮れない。左の写真は標柱の立っている坂上側から撮ったものである。

標柱の説明によれば、江戸時代、この辺りに清水半兵衛を名乗る旧家があったため、半兵衛坂と呼ぶようになった。この道路は昭和15年(1940)の幻の東京オリンピックの際に整備されたので、通称「オリンピック道路」とも呼ばれるとのこと。

この説明で戦前に東京オリンピック(夏季)が計画されていたことを思い出した。日中戦争の影響により日本政府が開催権を返上したため開催されなかった。また代替地のヘルシンキでの開催も第二次世界大戦により行われなかった(Wikipedia)。

蛇崩橋からしばらく歩くと、いつのまにか、片側が車道に変わっている。ちょうど目黒区から世田谷区に変わった辺りである。

梅雨時の花である紫陽花(あじさい)がたくさん咲いているところにつく。ピンク色の花がきれいである。

今回の緑道歩きでもっとも目立った花はやはり紫陽花である。

このあたりで緑道が道路を横断するたびに、左右を見ると、特に左側が坂になっているところが多い。まっすぐに川に向けて下っている。

やがて左手に公園が見えてくると、そのとなりに駒繋神社(こまつなぎじんじゃ)がある。

境内に入ってみたが、すぐにもどり緑道を進むが、神社の下のあたりは神社の樹木で少々鬱蒼としている。

しばらく歩くと、緑道は両側に埋め込みのある細い道になる。

こんな感じの散歩道がまっすぐに続く。やがて国道246号線でいったん分断される。
(続く)

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蛇崩川緑道(1)

2010年06月22日 | 散策

午後東横線中目黒駅下車。

蛇崩川(じゃくずれがわ)は世田谷区弦巻あたりを水源とし、東側へと流れ、目黒区に入り中目黒駅近くで目黒川に合流している。

現在は暗渠化され、その上が蛇崩川緑道となっている。この緑道を合流地点から水源を目指して西側に歩いた。

中目黒駅前の山手通りを右側で横断し、そのまま直進すると、目黒川にかかっている日乃出橋に至る。このすぐ下流側に蛇崩川が目黒川に注ぐ合流地点がある。

橋を渡り右折し、少し歩くと、右の写真のように対岸から合流地点が見えるが、蛇崩川からの流れはほとんどないようである。ここも水不足になっているのであろうか。

引き返し、橋を渡り、左折して進むと、先ほどの合流地点が反対側(蛇崩川側)から見える。

山手通りをふたたび渡り、駅横の公園風のところを進み、道路を渡り、左折し(直進すると自転車置場の方に進んでしまう)、すぐに右折して進むと、小さな公園がある。

公園の中を進み、左の写真のように両側にフェンスのある狭い道を通り抜ける。こういった道があると散歩が楽しい。

この道・公園(あるいは横の自転車置き場への道)、さきほどの駅横はともに、もと蛇崩川であろう。

上記の狭い道をでて、東横線のガード下を通り抜け、左折して進むと、ようやく緑道らしい道が見えてくる。

上記の緑道を少し進むと、右の写真のように緑道が道路脇にできており、まっすぐに延びている。

緑がだいぶ濃く、ようやく緑道らしくなってきた。

写真中央右に見えるように蛇崩川緑道の説明パネルが立っている。

これを見ると、以前は、蛇崩川は先ほどのガード下から先、写真の狭い道付近、目黒川との合流地点まで開渠であったようである。

また、ガード下を通り抜けたあたりに二三橋という橋があったようである。そのような痕跡は見えなかったが。

やがて諏訪山橋に至る。左の写真のように標柱が立っている。

先ほどの説明パネルの立っているあたりから諏訪山橋までの間の北側一帯を諏訪山とよんだらしい。

ここから緑道は、両側に民家やマンションがある道に変わる。車道がないので、以前に歩いた呑川本流緑道その支流緑道とは違った感じとなる。民家やマンションの間の散歩道となるので、杉並の桃園川緑道とちょっと似た感じである。

緑道を通り抜ける風がさわやかで暑くなった身に気持ちよい。

緑道は右の写真のように両脇が植え込みの緑でいっぱいになっている。所々に花も咲いている。

しばらく進むと、「蛇崩川と佐藤佐太郎」という説明パネルが壁に貼りつけられている。

それによると、蛇崩川は、かつては大変な暴れ川で谷も深く、古老の話によると、烏森神社あたりでは千尋(せんじん)の谷だったという。このあたり一帯の旧地名でもあった「蛇崩」の名は、川が蛇のようにうねって流れていたから、とか、両岸を深く浸蝕しそこに土砂が崩れていたからなどの説がある。

昭和48年(1973)に暗渠化工事が完成し、この川が散歩道に変わった。このあたりに住んだ歌人の佐藤佐太郎(明治42年~昭和62年)は、晩年ここをよく散歩し、蛇崩の地にちなんだ作品が残っているという。

烏森神社は上記の諏訪山にある神社と思われる。
(続く)

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安養寺坂~念仏坂~暗闇坂

2010年06月19日 | 坂道

永井荷風旧居跡の説明板のある歩道を進む。そのまま余丁町の大きな通りを道なりに進むと、歩道の左に小さな祠が立っている。

右の写真の右下に見えるように青峰観音と刻まれた小さな石碑が建っている。

前回の記事のように、明治8年(1875)に江戸時代の小伝馬町の牢獄が市谷監獄(はじめは市谷獄所といった)に移された。その当時、まだ斬首刑が残っており、このあたりに斬首の処刑場があったといわれているようである。高橋お伝も明治12年(1879)1月この獄所で処刑されたという。

台町の坂上十三番の八百屋の裏庭に通称八百屋観音という小さな観世音像が祀られていたらしく、この八百屋観音が現在の青峰観音であろう。

青峰観音(八百屋観音)は刑死者を弔うためのものと思われるが、いつだれが建てたものであろうか。

このまま余丁町の通りを進めば、台町坂に至るが、そうせず引き返し、次を右折し狭い道を進む。

やがて住吉公園の手前あたりから下りになるが、ここが安養寺坂である。

坂上側と坂下に標柱が立っている。

この坂も古くからの坂らしく緩やかにうねっており、坂下に向け左に湾曲している。

標柱の説明によると、『新撰東京名所図会』に「安養寺坂は念仏坂の少しく北の方を西に大久保余丁町に上る坂路をいふ。傍に安養寺あるに因れり。」とある。安養寺は浄土宗知恩院末の寺院で、もと市谷左内町富士見坂のあたりにあった。そこが明暦二年(1656)、尾張藩上屋敷となるため現在の地に移ったという。

安養寺は、この坂の坂下に向かって右手にあるが、この坂からは見えない。この坂を下り、右折し、あけぼのばし通り商店街を進むと、右に安養寺の石柱の門とともに寺に至る道がある。

坂下を右折し、途中、左折すると、念仏坂の坂下になる。

石段からなり、かなり急で、途中左側に曲がると、さらに急になって坂上に至る。

むかしもかなり急で、途中、曲がっているので、危険な所だったように想われる。

坂上は、すぐに車道で車がよく通り、せわしない所で、ゆっくり写真も撮っていられない。坂下はそうでもないが。

坂下に標柱が立っており、途中の踊り場に低い石柱が立っている。

標柱の説明によると、『新撰東京名所図会』では、昔この坂に老僧がいて昼夜念仏を唱えていたことにちなむという。また、この坂は左右を谷に臨み、屈曲しており、危険だったので、仏名を念じて往来する人がいたことにちなむともいう。

 『新撰東京名所図会』は、「されども明治以前まで乞食僧の木魚を鳴らして念仏し居るを目撃したり者あれば、前説真なるがごとし。」としているとのこと。

永井荷風は、「日和下駄」「第十 坂」の最後に、念仏坂のような石段の坂について次のように書いている。

「市ヶ谷谷町から仲之町へ上る間道に古びた石段の坂がある。念仏坂という。麻布飯倉のほとりにも同じような石段の坂が立っている。雁木坂と呼ぶ。これらの石級(せききゅう)磴道(とうどう)はどうかすると私には長崎の町を想い起すよすがともなり得るので、日和下駄の歩みも危くコツコツと角の磨滅した石段を踏むごとに、どうか東京市の土木工事が通行の便利な普通の坂に地ならししてしまわないようにと私は心窃(ひそか)に念じているのである。」

左の写真は、ことし1月に撮影した、荷風のいう麻布飯倉の雁木坂である。両坂とも普通の坂に地ならしされずにすんだようである。

坂下から進み、左折しさきほどの商店街を進むと、住吉町の大きな交差点にでる。

右側から大きな通りが下っており、交差点はその坂下である。ここが台町坂である。

さきほどまでの余丁町の通りであり、右の写真の歩道を上って進むと、上記の青峰観音、荷風の旧居跡に至る。

goo地図の明治地図を見ると、安養寺のすぐ北側まで市谷監獄の敷地があり、この通りと坂はない。

市谷監獄は市谷谷町にあり、その後、市谷監獄が閉鎖されてから、一部が台町となり、この通りと坂ができたと思われる。

靖国通りを横断し、そのまま進むと、新坂の坂下に至る。

まっすぐに上下している。

新宿区荒木町と舟町との間を南側に上る坂であり、坂上を進むと外苑東通りに至る。

このあたりにあった寺が明治初年に廃絶し、その後、寺の地所を削り取って切り通しにしたのがこの新坂であるとのことである。

新坂というのは、都内のあちこちにあり、新しいといっても、当時のことであり、江戸時代にできた新坂もあるようである。

例えば、白山通り近くの本郷一丁目の新坂(石段)は外記坂ともよばれる江戸時代の坂である。

新坂の坂下を右折して進むと、いったん靖国通りにでるが、すぐに左に入る道があり、上り坂となる。ここを上ると、左手に道が続き左側に標柱が立っている。右手に靖国通りに下る階段があり、ここにも標柱が立っている。

このあたりが暗闇坂(くらやみざか)である。

右の写真は、暗坂(暗闇坂)の標柱を坂上側から撮ったものである。中央左寄りに階段の降り口と標柱が見える。

明治地図には、さきほど通った写真右手に下る坂はなく、当時は標柱の前を下り現在石段となったところを下っていたと想われる。

標柱には次の説明がある。四谷北寺町に出る道で、坂の左右に樹木が繁って暗かったためこの名がついた(『再校江戸砂子』)。別名「くらがり坂」ともいう(『江戸名勝志』)。江戸時代、坂上一帯は多くの寺院が並び、四谷北寺町と呼ばれていた。

荷風は同じく「日和下駄」で、この暗闇坂を次のように書いている。

「坂はかくの如く眺望によりて一段の趣を添うといえども、さりとて全く眺望なきものも強(あなが)ち捨て去るには及ばない。心あってこれを捜らんと欲すれば画趣詩情は到る処に見出し得られる。例えば四谷愛住町(よつやあいずみちょう)の暗闇坂、麻布二之橋向の日向坂(ひゅうがざか)の如きを見よ。といった処でこれらの坂はその近所に住む人の外はちょっとその名さえ知らぬほどな極めて平々凡々たるものである。しかし暗闇坂は車の上らぬほど急な曲った坂でその片側は全長寺の墓地の樹木鬱蒼として日の光を遮り、乱塔婆に雑草生茂る有様何となく物凄い坂である。二の橋の日向坂はその麓を流れる新堀川の濁水とそれに架った小橋(こばし)と、斜に坂を蔽う一株の榎との配合が自ら絵になるように甚だ面白く出来ている。」

現在の暗闇坂は荷風のいうような物凄い坂ではない。

左の写真は、同じく1月に麻布二の橋近くの日向坂を坂下側から撮ったものである。荷風のいうような風情はないが、坂上側はお寺や大きい古風な建物が続き、静かなところである。

暗闇坂の坂上をまっすぐに進むと、やがて新宿通りにでる。左折して四谷三丁目駅へ。

携帯の歩数計による総距離は13.4km。

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道事典」(新人物往来社)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)

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抜弁天~監獄署跡~断腸亭跡

2010年06月18日 | 荷風

久左衛門坂の坂上の先から横断歩道を渡ると、厳島神社・抜弁天がある。

抜弁天は、大久保通りから分かれた職安通りと余丁町の通りとの角の狭いところにある。

庶民から信仰され、江戸六弁天の一つとのこと。

この参道を通り抜けたので抜弁天の名がついたのであろう。いまもこの参道はちょっとした近道になっていて信号のある角をショートカットできる。

永井荷風はこの近くに住んでいた。以前の記事(荷風偏奇館に至るまで)のように、父久一郎が余丁町に千数百坪の地所に大きな屋敷を買い入れ、明治35年(1902)5月に移り、大正7年(1918)12月まで住んだ。牛込区大久保余丁町79番地(現新宿区余丁町14番地)である。

荷風の日記「断腸亭日乗」に次のような記載がある。
「大正六年十二月十九日 抜弁天の縁日を歩み白瑞香一鉢を購ひ窗外に植ゆ。」

抜弁天をでて左折し余丁町の通りをちょっと進むと、歩道わきに坪内逍遙旧居跡の説明板が立っている。

坪内逍遙は、明治二十二年(1889)から熱海の双柿舎へ居を移す大正九年(1920)まで余丁町に住んでいたとのこと。

しばらく歩き、途中、横断歩道を渡ると、余丁町児童公園がある。中を通り抜けると、奥側の一段低くなった富久町児童遊園の片隅に石碑が立っている。

石碑には、「刑死者慰霊塔」と中央に大きく刻まれ、右上に「東京監獄市ヶ谷刑務所」とあり、左下に「昭和三十九年七月十五日建之 日本弁護士連合会」とある。

この辺り一帯に明治のころから市谷監獄と東京監獄があった。

市谷監獄(市ヶ谷刑務所とも)は江戸期の小伝馬町の牢屋敷の後身として明治8年(1875)に設置され昭和12年(1937)に閉鎖。東京監獄は明治36年(1903)に設置。

上記の石碑はこれらの監獄で刑死した者の慰霊碑で弁護士連合会が建てたものである。

goo地図の明治地図を見ると、市谷監獄と東京監獄はかなり広かったようである。監獄の裏手に、道を挟んで余丁町がある。

荷風は明治42年(1909)発表の「監獄署の裏」で次のように書いている。

「処は、市ヶ谷監獄署の裏手で、この近所では、見付の稍々大きい門構へ、高い樹木がこんもりと繁つて居ますから、近辺で父の名前をお聞きになれば、直ぐにそれと分りませう。」

「変りのないのは、狭い往来を圧して聳立つ、長い監獄署の土手と、其の下の貧しい場末の人の生活とです。
 私の門前には、先づ見るも汚らしく雨に曝らされた獄吏の屋敷の板塀が長くつづいて、其れからが例の恐しい土手は、いつも狭い往来中を日陰にして、猶其の上に鼬一匹も潜れぬやうな茨の垣が其の刺を伸ばして居ます。」

監獄は板塀に囲まれさらに土手があったようである。

この監獄に明治43年(1910)の大逆事件で逮捕された幸徳秋水や管野すが等が拘置された。この事件で起訴された二十六名の裁判は非公開で進められ、明治44年1月に判決が出て幸徳・管野以下24名が死刑であった。判決の翌日、死刑判決を受けた者のうち12名が無期懲役に減刑されたが、残る12名は一週間後に処刑されてしまった。東京監獄で執行されたという。

大逆事件は、当時からフレーム・アップの噂が高かった。荷風は大正8年(1919)発表の「花火」で次のように書いた。

「明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら、折々四谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走つて行くのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折程云ふに云はれない厭な心持のした事はなかつた。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙してゐてはならない。小説家ゾラはドレフユー事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言はなかつた。わたしは何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の藝術の品位を江戸作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来やうが桜田御門で大老が暗殺されやうがそんな事は下民の与(あづか)り知つた事ではない──否とやかく申すのは却て畏多い事だと、すまして春本や春画をかいてゐた其の瞬間の胸中をば呆れるよりは寧ろ尊敬しやうと思立つたのである。」

荷風も直感的に冤罪であることを見抜いていたようであるが、なにもできず、そのことについて良心の苦痛と羞恥を感じ、このため、自らの藝術の品位を江戸作者の程度にまで引下げるしかないとした。

大逆事件は荷風以外にも徳富蘆花や石川啄木などに大きなショックを与えたようである。徳富蘆花は一高生に頼まれた演説会で政府を批判し、石川啄木は「われは知る、テロリストのかなしき心を」の有名な詩を残した。

公園の中で子供たちが元気に遊んでおり、上記の石碑のわきの狭い空間に隠れてかくれんぼをしている。子供の無邪気さはいつの時代にも心和むものがある。

公園からでて横断歩道を渡り、右折し、次を左折する。

左の写真は、その左折したところの通りで、右側一帯が荷風の旧宅があった新宿区余丁町14番地であり、通りの奥に東京女子医科大学の茶色の建物が見える。

余丁町の大きな通りに戻り、左折し、少し歩くと、ビルの左端に永井荷風旧居跡の説明板が立っている。

荷風はこの余丁町の屋敷内に離れをつくり、そこを「断腸亭」と称した(上記の以前の記事参照)。
(続く)

参考文献
「荷風全集 第六巻、第十四巻」(岩波書店)
隅谷三喜男「日本の歴史22 大日本帝国の試練」(中公文庫)

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下戸塚坂~箱根山~久左衛門坂

2010年06月17日 | 坂道

夏目坂の坂上を右折し道なりに進む。途中、歩道わきに紫陽花がきれいに咲いている。

道幅が狭くなったところを直進すると、下戸塚坂の坂下に至り、右側に標柱が建っている。

それによると、江戸時代、この地は武家屋敷などで占められ、町名はつけられず、この坂も無名坂であった。明治五年(1872)下戸塚町となったことにより、この坂も下戸塚坂と呼ばれるようになった。

右の写真は、坂上の標柱を下側から撮ったものであるが、坂上近くでかなり勾配が大きくなっていて幅狭である。

坂上で大久保通りに接続するが、ここを右折する。

大久保通りをしばらく歩くと、右側に公園の案内が見えてくる。

右折すると、入口あたりでも樹木で鬱蒼としている。夏の暑い日差しを避けるのにはよいと思われる。

公園の中に入り進むと、大久保通り側は高台のようで、すこし下りながら歩く。やがて、箱根山の登り口が見えてくる。ここを登ると、すぐに頂上である。

頂上は意外に広く円形で中央に腰掛けがあり、ここで、一休みする。新宿西口の高層ビル群が見える。

登山口は、頂上の周囲3箇所にあるが、西側の階段は、左の写真のようにかなり長い。

以前の記事で紹介したように、ここは、東京23区内の超低山のうちの最高峰である。

頂上に埋め込まれた石のプレートに44.6mと刻まれている。しかし、東京23区内で海抜高度がもっとも高いのは、ここではなく、世田谷区の小田急線祖師谷大蔵駅付近の54mであるらしい。

写真の西側の階段から下りると、その地点からさらに下の道が見える。下の方からみると、かなり高い山に見えるであろう。

登り口のわきに立つ箱根山の説明板によると、この地は寛文8年(1668)尾張徳川家の下屋敷となり、戸山荘と呼ばれ、元禄年間に廻遊式築山泉水庭が完成した。明治7年(1874)から陸軍戸山学校用地となった。陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を函根山、箱根山と呼ぶようになった。

下りたところから周りを歩くと、「箱根山 陸軍戸山学校址」の石碑が立っている。

箱根山を背にして坂を下ると、もっとも低い地点と思われる所につく。戻るようにして公園の周囲を進み、途中、公園の中に入り、適当に歩いていると、明治通りにでてしまう。

新宿側に戻り、大久保通りとの交差点を渡り、左折して進みスーパーの前をすぎると、右側に椎の木坂の下りがある。

坂上の標柱によると、かつて尾張藩戸山屋敷(現在の戸山ハイツ)の内に椎の大木があり、この坂道を覆っていたため、椎木坂の名がついた。古くは、この辺りが砂利取場で、東西に上る二つの坂があったことから向坂とも呼ばれた(『新撰東京名所図会』)とのこと。

大久保通りにほぼ平行にまっすぐに下っている。 この坂を下り、直進すると、やがて椎木坂の標柱が見えてくる。そこを進むと、上りになり、坂上でふたたび大久保通りの歩道にでる。

標柱の説明のとおりここも椎木坂である。

坂を下り、低地となった道を左折し、南側にまっすぐに進み、突き当たりを左折し進むと、久左衛門坂(きゅうざえもんさか)の坂下にでる。標柱が立っている。

ここを左折し、右折し、さらに右折すると、石段からなる梯子坂(はしごさか)が見える。

坂上に立っている標柱によると、坂道が急で、あたかも梯子を登るようであったため梯子坂と名づけられた(『新撰東京名所図会』)とのことである。

同じような説明が「豊多摩郡誌」にもあるらしい。

現在、階段となっている坂は、むかしは急坂であったところが多いのであろう。

坂下をすぐに左折すると、久左衛門坂の中腹にでるが、ここを左折し、すぐに右折し、道路下のトンネルを抜けて西向天神方面に進む。

天神下の道を進むと、左に上る階段があるが、ここが山吹坂である。途中左側に大きく曲がっている。ここにも太田道灌の山吹伝説があるようである(以前の記事参照)。この伝説は各地(荒川区町屋や横浜市金沢区)にある。

坂上にある標柱によると、この坂上の大聖院境内にある「紅皿の碑」にちなみ、こう呼ばれるようになった。紅皿は太田道灌の山吹の里伝説で、雨具がないことを古歌に託して、道灌に山吹一枝を捧げた女性である。

古歌とは後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の(蓑)一つだに なきぞ悲しき」である。

山吹の里伝説とは、太田道灌が鷹狩りにでかけたとき俄雨になったので、蓑(みの)をかりに貧しい家に行くと、出てきた若い女性(紅皿)が蓑ではなく山吹の花一輪をさしだした。道灌はその意味がわからず、怒りながら雨の中を帰ったが、このことを家来に話すと、家来が上記の歌を引き、その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹にたとえたという意見をし、それを聞いた道灌は己の不明を恥じ、それからは歌道に精進するようになったという。ちょっとできすぎのような気がする。もっとも伝説とはそういうものであるが。

境内をもとに戻るようにして進み、階段を下り、久左衛門坂の中腹に戻る。右折し、坂を上ると、坂上にも標柱が立っている。

この坂は、むかしからの坂らしく、うねりながら上下しており、左の写真は坂上から撮ったが、坂下が見えない。

標柱の説明によると、この坂は、徳川家康の江戸入府以前から大久保に居住していた島田家の草創久左衛門が新しく開いた坂であったためこう呼ばれたという。先ほどの梯子坂はこの坂の裏道にあたる。

久左衛門は、市ヶ谷左内坂の名主島田左内の兄にあたり、兄弟そろってその名が坂名となったとのこと。
(続く)

参考文献
貝塚爽平監修「新版 東京都 地学のガイド」(コロナ社)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)

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漱石山房通り~夏目坂

2010年06月16日 | 坂道

漱石公園をでて右折し、漱石山房通りを進む。早稲田通りにでるところにも漱石山房通りの標柱が立っている。

「明治大正東京散歩」(人文社)の明治地図を見ると、現在の漱石山房通りに相当する道があり、古くからの道のようである。

早稲田通りにでて左に進み、次の信号を左折すると、夏目坂の坂下で、ここから夏目坂通りが南側に延びている。

少し進むと、左側の狭い所に、夏目漱石誕生之地の石碑が立っている。その後ろに説明板もある。

夏目漱石は、慶応三年(1867)一月五日(太陽暦二月九日)、ここ江戸牛込馬場下横町(現新宿区喜久井町1番地)で生まれた。

父小兵衛直克と母ちゑ(千枝)の五男三女の末子で、本名金之助。漱石の誕生日と生まれた時刻によると大泥棒となるという迷信から、それを避けるには金の字や金偏のつく字がよいとのことで、金之助と命名されたという。

漱石は生家のあたりや実父について「硝子戸の中」(大正四年)で次のように書いている。

「此町は江戸と云つた昔には、多分存在してゐなかつたものらしい。江戸が東京に改まつた時か、それともずつと後になつてからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父が拵えたものに相違ないのである。
 私の家の定紋が井桁に菊なので、夫にちなんだ菊に井戸を使つて、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、又は他のものから教はつたのか、何しろ今でもまだ私の耳に残つてゐる。父は名主がなくなつてから、一時区長という役を勤めてゐたので、或はそんな自由も利いたかも知れないが、それを誇にした彼の虚栄心を、今になつて考えて見ると、厭な心持は疾くに消え去つて、只微笑したくなる丈である。
 父はまだ其上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目といふ名をつけた。不幸にして是は喜久井町ほど有名にならずに、只の坂として残つている。然し此間、或人が来て、地図で此辺の名前を調べたら、夏目坂といふのがあつたと云つて話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立つているのかも知れない。」

夏目家は、江戸町奉行支配下の町方名主で、神楽坂から高田馬場あたりまでの十一ヵ町を支配していた。

勢力があったようで、漱石の父が「喜久井町」の町名を夏目家の定紋の井桁に菊にちなんでつけ、「夏目坂」の命名も漱石の父がしたようである。この坂はもともと豊島坂といった。

夏目坂は、まっすぐに上下し、緩やかだが、坂上側で勾配が若干大きくなる。

標柱が坂下、中腹、坂上(反対側)に立っているが、これにも上記と同様の漱石の父のことが説明されている。

右の写真は坂上から撮ったものである。信号の合間に車のない坂の写真が撮れた。

漱石は、生後まもなく四谷の古道具屋(八百屋説もある)に里子に出されたが、すぐに連れもどされた。その後、四谷太宗寺門前の名主塩原昌之助・やすの養子となった。

上記の「硝子戸の中」に次のように描かれている。

「私は其道具屋の我楽多と一所に、小さい笊の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝されてゐたのである。それを或晩私の姉が何かの序(ついで)に其所を通り掛つた時見付けて、可哀想とでも思つたのだろう、懐へ入れて宅へ連れて来たが、私は其夜どうしても寝付かずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいふので、姉は大いに父から叱られたそうである。
 私は何時頃其里から取り戻されたか知らない。然しぢき又ある家へ養子に遣られた。それはたしか私の四つの歳であつたように思う。私は物心のつく八九歳迄まで其所で成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起つたため、再び実家へ戻るような仕儀となった。
 浅草から牛込へ遷された私は、生れた家へ帰つたとは気が付かずに、自分の両親をもと通り祖父母とのみ思つてゐた。さうして相変らず彼らを御爺さん、御婆さんと呼んで毫も怪しまなかつた。向でも急に今までの習慣を改めるのが変だと考えたものか、私にそう呼ばれながら澄ました顔をしてゐた。
 私は普通の末ツ子のように決して両親から可愛がられなかつた。是は私の性質が素直でなかつた為だの、久しく両親に遠ざかつてゐた為だの、色々の原因から来てゐた。とくに父からは寧ろ苛酷に取扱かはれたという記憶がまだ私の頭に残つてゐる。それだのに浅草から牛込へ移された当時の私は、なぜか非常に嬉しかった。そうして其嬉しさが誰の目にも付く位に著るしく外へ現はれた。」

少々長いが、漱石の幼年時代の哀しき回想である。この幼児体験が漱石の良くも悪くも原点なのであろう。

左の写真は前回記事で紹介した漱石公園の中に立っている夏目漱石終焉の地の説明板である。

写真の左奥にある石塔は、説明板によると、俗称「猫塚」と呼ばれているが、これは「吾輩は猫である」の猫の墓ではなく、漱石の没後遺族が家で飼っていた犬や猫、小鳥の供養のために建てたもので、昭和28年の漱石の命日にここに復元されたものとのことである。

漱石は、明治36年(1903)に帰国後明治40年(1907)まで千駄木や本郷に住んだが、最終的に実家の近くに戻ったようである。漱石山房があった漱石公園から夏目坂の坂下まで5,6分ほどである。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
新潮日本文学アルバム「夏目漱石」(新潮社)
漱石全集 第十七巻(岩波書店)

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宝竜寺坂~滝の坂~漱石公園

2010年06月15日 | 坂道

焼餅坂を下り、市谷柳町の交差点の手前を右折し進む。この道は、外苑東通りと平行だが、高台にあり、西側の景色がよくみえる。

突き当たりを左折すると、宝竜寺坂である。

石段がまっすぐに下っている。

坂下は外苑東通りである。

坂下に標柱が立っている。それによると、昔、この辺りは七軒寺町という寺町で、この坂の上に宝竜寺という寺があったためこう呼ばれた。また明治頃、寺の樹木が繁り、淋しい坂であり、幽霊が出るといわれたため、幽霊坂とも呼ばれたとのことである。

明治時代に坂上あたりに宝竜寺があったようである(「明治大正東京散歩」(人文社))。

中村雅夫「東京の坂」(晶文社)という坂の写真集に宝竜寺坂がのっているが、現在のように改修される前で、ちょっとあれた感じであり、標柱が幽霊坂となっている。

坂上を直進し、一本目を左折すると、細い路がまっすぐに続いている。

次第に緩やかな下りとなるが、大願寺のあたりからの下りを滝の坂というらしい。

坂下は早稲田通りである。

右の写真は大願寺前から坂下を撮ったものである。

大願寺前からは短い坂である。

goo地図の尾張屋版江戸切絵図に、若狭小浜藩主酒井若狭守の広い屋敷が見え、その西側に大願寺がある。

その屋敷の西方の窪地が竹藪で、「やぶした」と呼ばれ、邸内の池からの流水が小滝となって流れ落ちていたとのことで、滝の坂の坂名は、これに由来するらしい。

坂下を左折し進み、早稲田通りと外苑東通りとの弁天町の大きな交差点を左折し、外苑東通りを戻るようにして進み、1つ目の信号を渡る。

そのまま直進する道が漱石山房通りであり、左の写真のように標柱が立っている。

漱石山房通りを進むと、やがて右側に漱石公園が見えてくる。

入り口左側に新宿区立漱石公園の碑があり、その奥に漱石の胸像が建っている。

夏目漱石は、この公園あたりに(早稲田南町七番地)、明治四十年(1907)九月二十九日から大正五年(1916)十二月九日に死去するまで住み、ここを漱石山房と呼んだ。漱石終焉の地であることから漱石公園となったのであろう。

右側に新宿区内の漱石散歩道の紹介パネルが立っている。

紹介パネルのわきにある石のブロックに座って一休み。

曇りで日ざしは強くないが暑く、ペットボトルのウーロン茶がおいしい。

漱石公園は奥の方に続いており、変則的な形だが、かなり広い。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔東京の坂」(日本交通公社)

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銀杏坂~試衛館跡~焼餅坂

2010年06月14日 | 坂道

午後大江戸線牛込柳町駅下車。

東口から外苑東通りを大久保通りとの交差点(市谷柳町)から南側に進む。

2つ目の信号を左折すると銀杏坂の坂下である。

緩やかでまっすぐな上りである。

標柱の説明によると、この坂道の北側に旗本久貝家の屋敷があり、屋敷内に銀杏稲荷という社が古くからあったので銀杏坂と呼んだという(「御府内備考」)。御神木の銀杏の大木があったのが坂名の由来らしい。

地図を見ると、この辺りには古い地名が残っており、銀杏坂は市谷薬王町にある。ここに元禄のころ薬王寺の添地があったためだが、明治維新のときに薬王寺がなくなり地名だけが残ったとのこと。

坂上の標柱のある交差点を左折し、突き当たりを左折し、一本目を右折して進むと、左側に試衛館跡の標柱が立っている。

標柱の説明によると、幕末に新撰組局長として知られる近藤勇の試衛館(しえいかん)が市ヶ谷甲良屋敷内(現市谷柳町25番地)のこのあたりにあったとのことである。

試衛館は、天保10年(1839)、近藤勇の養父である天然理心流三代目近藤周助が創設し、文久元年(1861)、四代目を勇が継いだ。道場には、すでにのちの新選組の中核をなすメンバーが顔を連ねており、門弟として土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、食客として永倉新八、原田左之助、藤堂平助、斎藤一などがいたらしい(Wikipedia)。

近藤勇などが中山道を西へと京を目指して出発したのが文久3年(1863)2月であるから、ここで、後にそのような役割・運命が待ち受けることなどつゆ知らず、ひたすら剣術の腕をみがいていたのであろう。

左の写真は試衛館跡の奥から道側を撮ったものである。

この階段はかなり古びており、試衛館跡をいっそう風情あるものにしている。この階段は松本泰生「東京の階段」にも紹介されている。


 この試衛館跡の道を挟んだ向こう側の地名は、市谷甲良町(こうらちょう)である。

市谷甲良屋舗(いちがやこうらやしき)は、元禄十三年(1700)、幕府作事方棟梁甲良豊前が拝領した。甲良氏は幕府直属の大工の棟梁で、元禄元年(1688)に日光東照宮の大修築をなしとげた名匠であったとのこと。

試衛館跡を左に見て直進すると、大久保通りであるが、この左右が焼餅坂である。

通りを横断すると、中腹のあたりに、柿の木坂妙義坂と同じ大きな坂の説明板が立っている。赤根坂ともいう。

さきほどの市谷柳町の交差点からまっすぐに上っているが、勾配はある方と思われる。

このあたりにむかし焼き餅を売る店があったことによるらしい。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
本間信治「江戸東京地名事典」(新人物往来社)

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杉並の三年坂

2010年06月11日 | 坂道

杉並区にも三年坂がある。

花見のときに訪れた。再訪であるが、そのときの短い散策記である。

五日市街道と善福寺川とが交差する尾崎橋を東から西に渡り、五日市街道から離れる道を直進する。左にコンビニを見て歩き、突き当たりを右折し、すぐ左折すると、三年坂の坂下である。

坂下から撮った左の写真で、右手が杉並二小で、左手が宝昌寺である。

かなり狭く、そんなに長い坂ではない。

坂上に立っている説明板によると、むかしは小学校側は崖であったようである。

横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)の「三年坂にまつわる俗信」によると、三年坂と呼ぶ江戸時代の坂が旧東京市内に六ヵ所ばかりあり、いずれも、寺院、墓地のそば、または、そこから見えるところの坂である。三念坂とも書く。

昔、この坂で転んだものは、三年のうちに死ぬというばからしい迷信があった。お寺の境内で転ぶとすぐにその土を三度なめないと三年のうちに死ぬという迷信があり、坂はころびやすい場所であるので、お寺のそばの坂は、特に人々によって用心された。こうした坂が三年坂と呼ばれたとのことである。

右は坂上からの写真であり、右側がお寺である。

ここも寺のそばにある坂であるから三年坂の要件を満たしている。

坂上の説明板に上記の横関と同じ説明があり、「当地のこの坂も、ほぼ同様のいい伝えが残されており、かつては、尾崎橋から宝昌寺北へ一直線に上がる坂で成宗村の村境に位置していたと思われます。
 明治時代のころの地図でみますと、崖端を直線で登る車馬の通行困難な急坂で、宝昌寺のうっそうとした森と杉二小の崖に挟まれた昼でも暗い、気味の悪い物騒な感じのする所だったようです。
 そこで、人々は、坂の行き来に用心が必要だと言うことから三年坂の名をつけたのではないでしょうか。」

説明板は上記のように無難な結論にまとめている。

坂上で接続する道は鎌倉街道(写真の左の道路)で、杉並のミニバスすぎ丸(阿佐ヶ谷駅~浜田山駅)が通り、近くに三年坂というバス停がある。

現在は、そんなに暗くもなく物騒な感じもせず、尾崎橋とバス通りとの近道となっているようである。

東京の「三年坂」は次のとおりである。
①台東区谷中五丁目の観音寺の築地塀の奥にある坂(別名蛍坂)
②新宿区の神楽坂の途中から本多横町の通りを筑土八幡に向けて下る坂
③神楽坂駅近くの早稲田通りから下る江戸川橋通りの坂(別名地蔵坂)
④千代田区霞ヶ関の財務省南側の坂
⑤千代田区五番町の市ヶ谷駅近くの坂
⑥港区の我善坊谷坂を下り直進し左折して上る坂(三念坂)

横関は、現在、まわりにお寺やお墓がなくとも、三年坂と名がついている限り、そのむかしはあったはずとしている。

例えば、霞ヶ関の三年坂は、江戸絵図にも寺はないが、徳川家康の入国以前までさかのぼると、この辺りの高台は大きな寺院や墓地でふさがっていたようであるとしている。

確かに、goo地図の尾張屋版江戸切絵図を見ると、虎之御門近くに三年坂があるが、その周囲に寺院はない。

坂名から過去の施設(寺や墓場)を判断できる例である。

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)

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