東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

三鷹駅跨線橋(2023)-太宰治 最後の聖地-

2023年12月28日 | 文学散歩

三鷹駅の西にある中央線などの線路を跨ぐように南北方向にかけられた跨線橋が解体・撤去されることになった(ここここここの記事)。

昭和4年(1929)に建てられ、90年以上経ち、老朽化したためという。2023年12月から工事が始まるとあるが、12月中旬でまだで、本格的には来年(2024)からであろう。通行はすでに制限されているが、まだ現存し、地上から眺めることができる。

ここは、太宰治の最後のといってよい聖地である。

そう思って、この跨線橋には三鷹に太宰散策に来たときに何回か訪れ、橋の上からの眺望を楽しんだ。高さ5m程度で、現在、それよりもずっと高い建物がたくさんあるが、太宰が生きた当時は、そんな建物は近隣になくひときわ目立ち眺望がよかったであろう。

この跨線橋はこれまで太宰関連の次の記事にした。
太宰治と三鷹(続き)
禅林寺(太宰治の墓)~三鷹駅西の跨線橋
桜桃忌(2016)
三鷹駅跨線橋 跨線橋案内パネル 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋






左から1,3~5枚目の写真は、この跨線橋を10月に撮ったもので、以下も同様。

三鷹駅南口を出て右折し、階段を下り、そのまま線路沿いに西へちょっと歩くと、跨線橋の階段が見えてくる(1枚目)。2枚目は、以前、この階段下付近に立っていた三鷹市による太宰案内パネルで、この跨線橋の南・東側の階段を下る太宰の写真が掲示されているが、1枚目の写真は同じ辺りを撮ったもの。

この跨線橋は、太宰関連でいうと、上記の写真などで有名となったものと思われる。

太宰関連でなくとも、100年近くの歴史があるので、むかしから住んでいる人には懐かしいスポットとなっているのであろう。

ところで、太宰が三鷹に住むようになった経緯を知りたいと思い、ちょっと調べたら次のようなことであった。それは太宰の結婚と関係し、その結婚には井伏鱒二が深く関わっていた。
三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋




太宰治は、昭和14年(1939)1月8日杉並区清水町の井伏鱒二宅で井伏夫妻の媒妁により石原美知子と結婚式を挙げた。山田貞一、宇多子夫妻(石原家名代)、斎藤文二郎夫人、中畑慶吉(津島家名代/津島家に出入りする呉服商)、北芳四郎(津島家に出入りする洋服仕立業)などが出席した。

前年7月中旬、中畑慶吉、北芳四郎が太宰の結婚相手の世話を井伏鱒二に依頼した。その頃、井伏の中学同期で仲のよかった高田類三の弟高田栄之介が東京日日新聞の記者で井伏宅に出入りしていたが、甲府支局勤務時に知り合った斎藤須美子と婚約をしていた。井伏はその縁で知り合いになった斎藤文二郎夫人せいによい相手はいないか問い合わせをし、せいからその話を聞いた娘須美子は知り合いの甲府高等女学校二年後輩の石原愛子に、適齢の姉美知子がいると母せいに告げたことからこの結婚話が始まった。

9月13日太宰は、井伏が滞在していた山梨県南都留郡河口村御坂峠の天下茶屋に行き、以後60日ほど、この茶屋の二階に滞在した。同月18日の日曜日午後、井伏の付き添い、斎藤せいの案内で、甲府駅の北5分位の所にあった石原家を訪問し、石原美知子と見合いをした。太宰はただちに結婚を決意した。美知子は、昭和4年(1929)3月甲府高等女学校を卒業し、同年東京女子高等師範学校文科に進学し、昭和8年(1933)卒業し、同年都留高等女学校の教諭となっていた。

10月中旬石原美知子が天下茶屋を訪れた。10月24日太宰は、井伏宛に、二度と破婚はしない旨を記した誓約書を送った。11月6日石原家で、井伏鱒二、斎藤文二郎、せいの立ち会いで、美知子の叔母2人を招き、婚約披露の宴が催された。11月16日御坂峠を降りて、石原家と斎藤家との中間辺りの、甲府市西堅町93番地の素人下宿寿館に止宿した。こののち、太宰は、歩いて10分位の石原家に毎日のように行き、手料理を肴に銚子3本ほど空けて帰った。12月24日石原美知子は県立都留高等女学校を退職した。12月25日斎藤せいが石原家に結納金20円を納めた。太宰は、明けて、昭和14年(1939)1月6日甲府市御崎町56番地の借家に移転した。

1月の結婚式後、甲府市の借家に居住していたが、5月上旬、東京近郊への転居を計画した。6月2日美知子とともに貸家を捜すために上京し、国分寺、三鷹、吉祥寺、西荻窪、荻窪と捜し歩いたが、手頃な家が見つからなかった。吉祥寺の三鷹よりの麦畑に六軒の新築中の家があったが、家賃が高かったので、家主に交渉したところ、6月末に近くにもう少し安い家賃の家を三軒たてる話を家主から聞き、それに期待して、その頃再訪しようと思い、甲府に帰った。7月15日上京し、三鷹に新築中の三軒の貸家のうちもっとも奥の家を契約した。家賃は24円/月。

9月1日甲府から、東京府北多摩郡三鷹村下連雀113番地の借家に移った。

以降、昭和20年(1945)の4~8月頃の甲府や青森の生家への疎開の時期を除いて、昭和23年(1948)6月に亡くなるまで三鷹に住んだ。(以上、山内祥史「太宰治の年譜」を参考にした。)

甲府から上京し、国分寺~荻窪の辺りをさがし、結局、三鷹の新築の貸家に落ち着いた。御坂峠の天下茶屋に行く前には昭和12年(1937)6月20日から杉並区天沼一丁目213番地鎌滝富方の貸部屋にいて、それ以前の昭和8年(1933)2月から荻窪周辺に住んでいたので(ただし、昭和10年4月~11年11月入院や船橋に転居)、この辺りには土地勘があり、井伏宅も近く、その貸家しかなかったようではあるが、妥当な選択だったように思える。
三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 田村茂「素顔の文士たち」表紙




この跨線橋を背景にした太宰治の写真が5枚残されている。それらの5枚は、写真家田村茂(1906~1987)が昭和23年(1948)2月23日三鷹で太宰を撮影した27枚の一部で、そのうちの1枚が上述の階段を下る写真で、もう1枚が左から5枚目の田村茂の写真集「素顔の文士たち」表紙にある、橋の上で眺めている写真である。これらの2枚を含めた27枚は、同写真集に掲載されており、はなはだ興味深い写真である。

田村茂は戦後の一時期、東京都三鷹市に住んでおり、同じ三鷹に居住の太宰とは一緒によく飲みに行く間柄であったという(wikipedia)。

上記の27枚の撮影コースは、玉川上水(3枚)から始まり、跨線橋(5枚)、両者の行きつけであった飲み屋「千草」(5枚)、再び玉川上水(3枚)、三鷹駅近くの踏切前(3枚)、古書店(3枚)と続き、最後は山崎富栄の下宿先で、最晩年の太宰の仕事場であった部屋(5枚)となっている(wikipedia)。同写真集に掲載された順と同じで、最後の1枚が物思いにふけるドアップの有名な写真である。その死のわずか四ヶ月程前で、最後の写真であったかもしれない。

参考文献
山内祥史「太宰治の年譜」(大修館書店)
田村茂「素顔の文士たち」(河出書房新社)
「新潮日本文学アルバム 太宰治」(新潮社)

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