東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

善福寺川新緑(2015)

2015年04月30日 | 写真

善福寺川新緑 善福寺川新緑 善福寺川新緑 善福寺川新緑 善福寺川新緑 善福寺川新緑 善福寺川新緑 善福寺川新緑 善福寺川新緑 善福寺川新緑

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御殿坂(大坂、富士見坂)

2015年04月29日 | 坂道

大塚窪町公園 前回の白鷺坂上から引き返し、坂中腹で右折し南へちょっと歩くと公園がある(現代地図)。かなり歩いたので、ここで冷たい缶ジュースを飲みながら休憩する。

左の写真はこの公園で撮ったもので、新緑の樹木で日陰となっているのがうれしい。

公園を出て、突き当たりを左折し、次を右折し、しばらく南へ歩く。右手に森が見えてくるが、先ほど訪れた占春園の方向である。

先ほど通った湯立坂下に出て、左折し、次の千川通りで右折する。

御殿坂下 御殿坂下 御殿坂下 御殿坂下 千川通りの歩道を南へ歩く。休日のため車は少ない。しばらく歩き、播磨坂下・吹上坂下を過ぎてから、一本目を左折し、小路を通り抜けると、小石川植物園前に出る。ここを右折し、ちょっと歩くと、御殿坂の坂下である(現代地図)。ところが、久しぶりに来て、驚いてしまった。坂の雰囲気がまるきり変わっている。

坂下から坂上側を撮ったのが一、二枚目の写真で、左手(西)が小石川植物園であるが、左手側に広い立派な歩道ができている。以前は、歩道は狭く、歩き難かったような記憶がある。植物園側に道を拡幅したのであろう。

文京区白山二丁目15番と白山三丁目7番との間を北へ上る。

坂下のちょっと上側から坂上側を撮ったのが三枚目で、上の方で右に曲がっているのが見える。 さらにその上側から坂下側を撮ったのが四枚目で、坂下に坂の標識が立っている(一枚目にも写っている)。

御殿坂中腹 御殿坂中腹 御殿坂中腹 御殿坂中腹 そのあたりから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、上の方でかくっと右に曲がっている。その上の方から坂下側を撮ったのが二枚目である。

そのあたりから坂上側を撮ったのが三枚目で、かくっと曲がってからほぼまっすぐに中程度よりもやや緩やかな勾配で上っている。

その曲がりの上側から坂上側を撮ったのが四枚目である。この坂は、左手(西)が坂下から坂上までずっと植物園の樹木で濃い緑になっている。

この坂は「御府内備考」の小石川之一の総説に次のように説明されている。

『御殿坂は戸崎町より白山の方へのほる坂なり、この上に白山御殿ありし故にこの名遣れり、むかしは大坂といひしや、【改選江戸志】 享保の頃此坂の向ふに富士峰能く見へし故に富士見坂ともいへり、近世木立おひ茂りて富士など見へきにあらず、【江戸志】』

白山御殿とは、五代将軍綱吉が上州館林城主の頃の下屋敷で、後に御薬園になった。

以上の説明は、坂の標識にも引用されている。

富士見坂、大坂の別名の他、御殿表門坂ともいった(横関)。大坂の由来は不明のようである。

御殿坂中腹 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 東都小石川絵図(安政四年(1857)) 東都駒込辺絵図(安政四年(1857)) さらにちょっと上ってから坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、このあたりからだと坂下は見えない。

二枚目は、御江戸大絵図(天保十四年(1843))のこのあたりの部分図で、ヲヤクエン(御薬園)の側にコテンサカ(御殿坂)と記され、多数の横棒からなる坂マークが描かれている。

三枚目は、尾張屋清七板江戸切絵図の東都小石川絵図(安政四年(1857))の部分図であるが、コテンサカと記された道の左側(西)は松平駿河守の屋敷になっている。坂下には現在もある安閑寺が見え、坂下近くに小石川戸崎町の町屋が見える。その東側に太郎兵エ山ト云、とある。この坂の東にある伊賀坂を調べたとき、この太郎兵衛山というのがでてきた。現在の御殿坂下を左折した東側付近であろうか。

また、喜運寺に豆腐地蔵とあるが、永井荷風がこのあたりを訪れたとき、この地蔵のことを記している(以前の記事)。

四枚目は、尾張屋清七板江戸切絵図の東都駒込辺絵図(安政四年(1857))の部分図(右下隅)であるが、ゴテン坂とあり、その左側は御薬園である。

御殿坂中腹 御殿坂中腹 御殿坂中腹 御殿坂中腹 さらに坂を上って坂上側を撮ったのが一枚目の写真、そのあたりから坂下側を撮ったのが二枚目である。

さらに上側から坂上側を撮ったのが三枚目、そのあたりから坂下側を撮ったのが四枚目である。

「御府内備考」の戸崎町の書上には次のようにある。

『一坂 登壹町半程、幅貳間半より四間程、
 右町内北の方前通より白山御殿跡え往来の坂にて御殿坂と相唱申候、尤古来白山御殿之有候に付右の通唱来申候、武家方幷當町組合持ちに御座候』

この坂は、上り一町半程(長さ約160m)、幅二間半~四間程(幅約4.5~7m)で、持ち(補修などの負担)は武家と戸崎町組合の共同であった。

この書上には太郎兵衛山も上げられていて、戸崎町の東北山手の方に太郎兵衛という百姓がいたので、太郎兵衛山と称した、約三町(300m)ほどの場所であった、とある。太郎兵衛とは、豪農であったのだろうか。

御殿坂上 御殿坂上 御殿坂上 御殿坂上 さらに上るとしだいに緩やかになり、一枚目の写真のように坂上が見えてくる。

さらに進み進行方向を撮ったのが二枚目で、前方に平坦になった坂上が見える(現代地図)。そのあたりからふり返って坂下側を撮ったのが三枚目である。

坂上をさらにちょっと歩き、進行方向を撮ったのが四枚目で、ここをさらに北東へ進むと蓮華寺坂上で、その坂上近くで右折すると伊賀坂方面である。この蓮華寺坂の別名が御殿裏門坂である。

同名の坂(御殿坂)が、日暮里駅近く築土八幡神社裏手にある。

坂上からもどり、千川通りを横断し、播磨坂を上り、茗荷谷駅へ。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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白鷺坂

2015年04月28日 | 坂道

白鷺坂下 白鷺坂下 白鷺坂下 白鷺坂下 前回の猫又坂下の近くから反対側の坂を撮ったのが一枚目の写真で、この坂が白鷺坂である。猫又坂下で千川通りを横断し、そのまま進む。

不忍通りを西へ上る坂で、千川通り(千川谷)を挟んで猫又坂と相対する。文京区大塚三丁目44番と大塚四丁目1番との間を上る(現代地図)。

左側(南)の歩道を上るが、その上りはじめ坂上側を撮ったのが二枚目で、不忍通りの広い道路で緩やかな上りとなって上側で右に緩やかに曲がっている。

坂を上り、その上側近くから坂上側を撮ったのが三枚目で、坂の先が平坦になっているのがわかる。

さらに上ってからふり返って撮ったのが四枚目で、坂下の向こうに猫又坂の下側が見える。

白鷺坂中腹 白鷺坂中腹 白鷺坂中腹 白鷺坂中腹 そのあたりから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、この先は、かなり先まで平坦になっているので、ここが坂上で、この坂はここまでかと思ってしまう。

さらに進んでから坂上側を撮ったのが二枚目で、前方で緩やかに右にカーブし、その先がふたたび緩やかであるが上りとなっているのが見える。

カーブの近くまで歩いてから坂上側を撮ったのが三枚目で、信号のある交差点のあたりから緩やかに上っている。

そのあたりからふり返って坂下側を撮ったのが四枚目で、はじめの坂の上が見え、そこからずっと平坦にこちらまで延びていることがわかる。

不忍通りは、日本女子大近くで目白通りから東へと延び、動坂下などを通り、その先でしだいに南へ向きを変え、不忍池わきの上野二丁目付近に至るが、その間に多くの坂がある。西から順に挙げると次のとおり。

 清戸坂:西から東に向かって、目白台地を下る
 富士見坂:小石川台地へ上る
 白鷺坂:小石川台地を下る
 猫又坂:本郷台地へ上る
 神明坂:本郷台地を下る

白鷺坂中腹 白鷺坂中腹 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 雑司ヶ谷音羽絵図(安政四年(1857)) 信号のある交差点を渡る前に坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、次の坂が緩やかに上り、その途中で右に緩くカーブしている。

交差点を渡った所に街角案内地図が立っているが、これに、交差点の近くに白鷺坂と小さな字で表示されている。

交差点を渡りその上側まで歩いてから坂下側を撮ったのが二枚目である。

三枚目は、御江戸大絵図(天保十四年(1843))のこのあたりの部分図で、小石川台地の頂上から千川(小石川)谷に下り橋を渡ると猫又坂へつながる道があるが、坂下側の周囲には武家屋敷も町屋もまったく描かれていない。

四枚目は、尾張屋清七板江戸切絵図の雑司ヶ谷音羽絵図(安政四年(1857))の部分図(この切絵図の右上隅)であるが、この坂下から坂上近くまでは範囲外で他の絵図にもない。この部分図はこの坂上を示すのみであるが、この坂の向こうに富士見坂がある。この図では富士見坂上は行き止まりで、右折し、ちょっと先を左折する道がある。

不忍通りがまだ整備されていない時期の明治地図(明治40年)を見ると、坂上はこの絵図とほぼ同じで、千川谷へ下る道が細く示されている。これよりも古い東京大絵図(明治4年)も同じである。

上記の江戸絵図や明治地図を総合すると、富士見坂上でクランク状に曲がった先から西に千川谷へと下っていた細い道が、この坂の原型と思われる。

坂下付近に伊達宇和島藩の下屋敷があったが、明治以降、荒廃し、その一帯は樹木が鬱蒼とし、白鷺の集巣地になったという。ここを訪れ白鷺に魅せられた歌人・小泉千樫が白鷺を題材として短歌をつくった。そんなこともあって、大正から昭和にかけて白鷺坂と名付けられたという(山野、岡崎)。ただ、その伊達宇和島藩の下屋敷は、上記の江戸絵図には見えない。

この坂は、いつもの横関、石川に紹介されていないが、比較的最近つけられた坂名であるためであろう。

白鷺坂上 白鷺坂上 白鷺坂上 白鷺坂上 さらに坂を上って坂上側を撮ったのが一枚目の写真、そのあたりから坂下側を撮ったのが二枚目である。

春日通りと交わる坂上を撮ったのが三枚目で、向こうからバスが富士見坂を上ってくるのが見える。

そのあたりから坂下側を撮ったのが四枚目で(現代地図)、反対側の歩道に本伝寺の山門が見える。本伝寺は上記の絵図に描かれている。

この坂は、坂下側の千川通りとの交差点から坂上側の春日通りとの交差点までとすると、二段に分かれてかなり長く、大きな通りにあることもあって、ちょっと疲れる坂である。

この近くの音羽通りの目白坂下に鷺坂という似た名の坂がある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「明治の東京」(人文社)
「東京の道事典」(東京堂出版)

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猫又坂(猫股坂、猫貍坂)

2015年04月23日 | 坂道

猫又坂下 猫又坂下 猫又坂下 猫又坂中腹 前回の氷川坂下を右折し、千川通りの一本裏道を北西へ進む。しばらく歩くと大きな通りの坂下近くに出る。不忍通りで、この坂が猫又坂である(現代地図)。

右折してそのあたりから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、坂下側を撮ったのが二枚目である。一、二枚目に写っているが、ここに坂の標識が立っている。

坂下は千川通りとの交差点であるが、三枚目は、千川通りを渡った反対側から坂上側を撮ったものである。ほぼまっすぐに北東へと上っている。文京区仙石二丁目6番と仙石三丁目1番との間を上る(現代地図)。

一、二枚目の歩道をちょっと上ってから坂上側を撮ったのが四枚目で、坂下近くはかなり緩やかであるが、このあたりではちょっと勾配がついている。

猫又坂中腹 猫又坂中腹 猫又坂中腹 猫又坂中腹 さらに上って坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、交差点の手前で緩やかになった坂下が見える。(反対側の歩道から坂下側を撮った下一枚目の写真も同じで、交差点の向こうは、これから行く白鷺坂である。)

そのあたりから坂上側を撮ったのが二枚目である。ここに写っている細い上り坂が旧坂である(山野、石川、岡崎)。上記の標識の説明のように、不忍通りのいまの坂は、大正11年(1922)頃開通し、むかし坂は東側の崖のふちを通り千川にかかる猫又橋につながっていた。

三枚目は、反対側の歩道下側から坂上側を撮ったもので、旧坂付近が写っているが、むかしの坂の断面が(一部かもしれないが)見えるようで、はなはだ興味深い。新坂ができた後、旧坂がこんな形で残っているのは少なくとも23区内ではきわめて珍しい。

もとにもどって旧坂の所からちょっと上って坂上側を撮ったのが四枚目で、右の壁は旧坂の崖の石垣である。

猫又坂中腹 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 東都小石川絵図(安政四年(1857)) 江戸名所図会 猫股橋 二枚目は、御江戸大絵図(天保十四年(1843))の猫又坂周辺の部分図で、三宅屋敷と池田屋敷との間の道が旧坂である。

三枚目は、尾張屋清七板江戸切絵図の東都小石川絵図(安政四年(1857))の部分図で、この坂のあたりは範囲外であるが、千川のところ(左上)に、此水上猫股橋と記されている。

四枚目は江戸名所図会の猫股橋の挿絵で、本文に次の説明がある。

『猫股橋 同じ所西の方、小石川の流れに架せり。『南向亭茶屋』に云く、昔大木の根木の股を以って橋にかへて、架したる故にこの名ありとぞ。
 按ずるに、東国の里俗、木の根を根ッ子と唱ふ。この説可ならん。又神田松下町の小路を、俗にねこや新道と唱ふるも、材木屋多く住んで根木を売る家多きが故にしかいえり。』

南向亭茶屋説では、むかし大木の根木の股を橋としてかけたので、猫股橋となったが、上記の標識には『続江戸砂子』の橋近くに出た化け狸の伝説が引用されている。猫貍とは妖怪の一種という。いずれにしても、坂名は橋の名からきている。

猫又坂上 猫又坂上 猫又坂上 猫又坂上 さらに坂を上って坂上側を撮ったのが、下から順に一~三枚目の写真である。坂上もほぼまっすぐに北東へ延びている。

反対側の歩道に渡りちょっと下ってから坂下側を撮ったのが四枚目で、先ほどの旧坂の断面がよく見える。

東都駒込辺絵図(安政四年(1857))の部分図を見ると、三宅対馬守の屋敷と池田甲斐守の屋敷との間の道があるが、これが旧坂である。近江屋板には、三宅屋敷と池田屋敷との間の道に、△子コマタサカとあり、そのわきに、此下猫股橋、と記されている。

上記の御江戸大絵図や東都駒込辺絵図を見るとわかるが、むかしの坂は、現在のようにまっすぐに延びず、坂上で右折し東の方へ延び、氷川坂上の先の方とつながっていた。この道は坂上を右折した通りで現存するようである(現代地図)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

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三宅坂~北の丸公園(2015)

2015年04月18日 | 写真

青山通り 三宅坂 三宅坂 三宅坂 半蔵濠 千鳥ヶ淵 北の丸公園 千鳥ヶ淵 田安門 九段坂

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氷川坂(簸川坂)

2015年04月16日 | 坂道

網干坂下 簸川神社前 簸川坂下 簸川坂下 湯立坂を下り、千川通りを横断し、そのまま北東へちょっと進むと、一枚目の写真のように、網干坂下である(現代地図)。右手は小石川植物園。

坂下を左折しちょっと歩くと、二枚目のように、簸川神社前で、そのまま進み階段を上ると本殿がある。

引き返し、左折し神社を右手に見て北西へ進み、次を右折すると、氷川坂(簸川坂)の坂下である(現代地図)。文京区千石二丁目9番と10番との間を上る。

坂下から撮ったのが三枚目、そのちょっと上から撮ったのが四枚目で、まっすぐに北へ上っている。かなりの勾配があり、このため、右手に手摺りが備え付けられている。坂上はちょうど神社の裏手にあたる。

簸川坂下 簸川坂下 簸川坂中腹 簸川坂中腹 坂をちょっと上り坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、下の通りを左折すればさきほどの神社方面である。

さらにちょっと上り坂上側を撮ったのが二枚目、さらにその上から坂上側を撮ったのが三枚目、さらに進んで坂下側を撮ったのが四枚目である。

この坂は、坂上に立っている標識に次のように説明されている。

『氷川坂(簸川坂)
 氷川神社に接した坂ということでこの名がつけられた。氷川神社の現在の呼称は簸川神社である。坂下一帯は明治末頃まで「氷川たんぼ」といわれ、千川(小石川)が流れていた。洪水が多く、昭和9年(1934)暗渠が完成し、「千川通り」となった。神社石段下には千川改修記念碑がある。』

上記の標識の説明によれば、この神社は、小石川、巣鴨の総社として江戸名所の一つで、もとは現在の小石川植物園の地にあったが、白山御殿造営のため、元禄十二年(1699)この地に移された。

簸川坂中腹 簸川坂中腹 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 東都小石川絵図(安政四年(1857)) さらに上って坂上側を撮ったのが一枚目の写真、さらにその上から坂上側を撮ったのが二枚目である。

三枚目は、御江戸大絵図(天保十四年(1843))の氷川神社周辺の部分図。四枚目は、尾張屋清七板江戸切絵図の東都小石川絵図(安政四年(1857))の部分図である。

三枚目の御江戸大絵図で、松平大学屋敷わきの湯立坂の坂下を進み、千川(小石川)にかかる橋(祇園橋)を渡りそのまま進むと、四差路があり、その先は網干坂であるが、その左に氷川とあるのが氷川神社、四差路を左折し、次を右折した道がこの坂である。

四枚目の江戸切絵図もほぼ同じで、氷川社とあり、四差路を左折した先を右折した道がこの坂である。千川の流域に緑色に描かれた田があるが、これが上記の標識にある氷川たんぼであろう。

この江戸切絵図には、氷川社の左に別当極楽水宗慶寺とあり、道を挟んで、小石川宗慶寺門前の町屋が描かれている。極楽水宗慶寺は、千川の下流、南側に描かれている。「御府内備考」の小石川乃四の宗慶寺門前の書上に次の記述がある。

一飛地町内間口拾貳(十二)間、裏行拾六間餘、
 右は小石川村の内氷川明神下に有之候、

上記の江戸切絵図の氷川社前の町屋が「御府内備考」に飛地として記されている。

東都駒込辺絵図(安政四年(1857)) 簸川坂上 簸川坂上 簸川坂上 一枚目は、東都駒込辺絵図(安政四年(1857))の部分図で、下右にアミホシサカ(網干坂)とあり、その左に氷川宮とあるのが氷川神社、その左の上に延びる道がこの坂上で、此ヘンヒカワダイト云、とある。

近江屋板を見ると、坂名はないが坂マーク△が記されている。

二枚目は、坂上近くから坂上方面を撮ったもので、この先を氷川台といった。以前はじめて網干坂を訪れたとき、坂を上り坂上で左折し次を右折して、この写真の向こう側からこの坂にやってきた。

この坂は、この写真やその下側の写真(上記の二枚)を見るとわかるように、崖地をこのあたりからまっすぐに掘削してつくりあげたような趣がある。

その坂上から坂下側を撮ったのが三枚目、坂上を上記の標識を入れて撮ったのが四枚目で、この右を進めば神社境内である。

江戸名所図会 小石川氷川明神絵図 江戸名所図会 小石川氷川明神絵図 江戸名所図会に、この氷川明神社の説明として、「祭る神、武州大宮の氷川明神に同じ。」「極楽水宗慶寺の持にして、祭祀は九月十日なり。」「当社は千有余年を経る所の宮社にして、八幡太郎義家公奥州下向の時、当社に参籠ありしと云ひ伝ふ。中古荒廃して形ばかり残りしを、伝通院の開山了誉上人、この地の幽邃を愛し庵を結んで聖冏庵(しょうけいあん)と号け、この地に閑居ありし頃、宮居を重修ありしとなり。」などと記されている。

左は、江戸名所図会の氷川明神社、聖冏庵の旧跡、祇園橋の挿絵である。一枚目の上に氷川明神の本社が描かれ、その下側に氷川たんぼがあり、その手前に千川が流れ、祇園橋がかかっている。湯立坂はこの橋の手前側である。

この坂は本社の裏手で木々に隠れているが、よく見ると、坂の一部がここを上る人物とともに描かれている。

二枚目には、氷川たんぼなどと、神社の階段や鳥居が描かれているが、その右の山道が網干坂であろう。

祇園橋については「御府内備考」に次の説明がある。

『祇園橋は小石川氷川社の前七八間の土橋也、【江戸鹿子】祇園橋は猫また橋のならびなり、いかなる故にかく名あることを詳にせず、或は云、氷川の神社はもと素盞烏[嗚]尊(すさのおのみこと)を祭るゆへに此橋を祇園橋といへりと、是は付会の説に近し、別に故あらん、【改選江戸志】』

上記の東都小石川絵図とこの挿絵をながめていると、当時の風景がなんとなく思い浮かんできて楽しい。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
鈴木理生「江戸はこうして造られた」(ちくま学芸文庫)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

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占春園

2015年04月14日 | 散策

占春園 占春園 占春園 東都小石川絵図(安政四年(1857)) 前回の湯立坂を下り、坂下のくねくねと曲がるあたりで左折し公園に入り、内をうろうろすると、占春園(せんしゅんえん)という標識が立っている(現代地図)。

それによると、このあたりは、幕末までの二百年ほどの間、水戸藩第二代藩主の徳川光圀(水戸黄門)の弟、徳川頼房の四男松平頼元を藩祖とする陸奥守山藩松平家の上、中屋敷であった。占春園は、この屋敷内にひらかれた庭園の名残りという。

園内に入ると、樹木で鬱蒼としていて、池などもあって野趣に富んだ景観をつくりだしている。樹木の葉が新緑で瑞々しく美しい。そんなに広くはないが、しばらく歩き回っていると、どこか深山の森の一角にいるような錯覚に陥ってしまう。

占春園 占春園 占春園 湯立坂上 しばらく園内を散策してから上の方に進むと、筑波大学のキャンパスのわきで、そこから出ると、さきほどまでの湯立坂の坂上である。

四枚目の写真は、そのあたりから坂下側を撮ったもので、坂の北側は、大学わきの法面に植えられた樹木により緑が濃くなっている。それに負けじと南側にも大樹が茂っている。占春園に行ってからふたたびこの坂にくると、ここは、緑の濃い占春園の延長のように思えてくる。

湯立坂と占春園を組み合わせて大学の周囲をぐるりと一周するのは、なかなかよい散策コースになりそうである。
(続く)

参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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湯立坂

2015年04月13日 | 坂道

今回は、文京区小石川の湯立坂と、この周囲のいくつかの坂を紹介する。訪れたのは昨年(2014)の新緑(五月)の頃である。

湯立坂上 湯立坂下 湯立坂下 湯立坂下 午後丸の内線茗荷谷駅下車。

駅を出て春日通りを横断し、左折し、すぐ右折する。そのまままっすぐに進むと、前方に信号が見え、その背後に森が見える。

そのあたりから撮ったのが一枚目の写真で、湯立坂の坂上である(現代地図)。左側は筑波大学のキャンパスで、この坂はそのわきを北東へ千川通りへと下る(小石川五丁目19番と大塚三丁目30番との間を下る)。

この坂は春日通りの通る小石川台地から下るが、北東側の白山台地から千川通りへと下る網干坂(あみほしざか)と千川通りを挟んで相対する(現代地図)。千川通りは千川(小石川)を暗渠にしてできた道路である。この川の流域が両台地の間で谷地になっている。

写真を坂下から順に並べる。

この坂を下って千川通りを横断してから振り返って坂下を撮ったのが二枚目で、この信号のある交差点からしばらくはほとんど平坦で、まっすぐに南西へ延びている。

次の信号の交差点から坂上側を撮ったのが三枚目で、この先あたりからわずかにであるが上り勾配となっている。坂上側にちょっと歩いてから坂下側を撮ったのが四枚目である。 二~四枚目に見えるように、この坂下の西北(大学側)は、坂に沿って細長い公園になっている。

湯立坂下 湯立坂下 湯立坂中腹 湯立坂中腹 坂上側に進むと、右にちょっと曲がっているが、そのちょっと手前から坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、上側でさらに左へとカーブしている。

二枚目は、そのちょっと先から坂下側を撮ったもので、三枚目は、ちょっと進んで左へのカーブの手前から坂上側を撮ったものである。四枚目は、そのあたりから坂下側を撮ったものである。

これらの写真からわかるように、坂下側で右へ左へと二回みごとにカーブしている。

この坂は、湯坂、幽霊坂の別名がある(横関)。暗闇坂とも(石川、岡崎)。「御府内備考」には湯坂として次の説明がある。

『湯坂
湯坂は安藤家の屋敷のわき、松平大学頭屋敷の向を下る坂なり、里人の説に、往古はこの坂の下は大河の入江にて、氷川の明神へは河を隔てゝ渡ることを得ず、故に此所の氏子とも此坂にて湯花を奉りしより坂の名となれり、【江戸志】 案に此辺させる河ありしことはきゝもおよばず、又湯花などいふは近き世の事なるべし、すへてうけかひかたき説なり、【改選江戸志】』

江戸志によれば、この坂の下は大河の入り江で、この坂にて湯花を奉ったので坂の名となったとあるが、湯花を奉るということは湯立てを行うことである(横関)。

湯立とは、禊(みそぎ)の一種で、神前で湯を沸かし、巫女がその熱湯に笹の葉を浸して自分の身や参拝人にふりかけるもので、湯の音で占いもする(広辞苑)。

ところが、改選江戸志は、この辺に河があったことなどは聞いたことがなく、又湯花などいうのは近い世の事で、すべて受け入れ難い説であると、かなり否定的である。

この坂と相対する網干坂は、むかし、坂下の谷は入江で舟の出入りがあり、漁師がいて網を干したというのが坂名のいわれとされているが、江戸期以前には小石川が日比谷入江(いまの皇居平川門のあたり)に流れ込み、その入江から4~5kmほど上流がこのあたりであるが、大河であるかは別として、往古に河が流れていたといえそうである。

御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 東都小石川絵図(安政四年(1857)) 湯立坂下から南へ上る坂 湯立坂 標柱 一枚目は、御江戸大絵図(天保十四年(1843))の湯立坂周辺の部分図である。二枚目は、尾張屋清七板江戸切絵図の東都小石川絵図(安政四年(1857))の湯立坂周辺の部分図である。

これらの絵図を見ると、松平大学頭屋敷のわきに千川(小石川)へと下る道があるが、この坂と思われる(二枚目には、坂下の先の橋を渡った向こうに「アミホシサカ」がある)。上記の江戸志の説明には、安藤家の屋敷のわき、松平大学頭屋敷の向を下るとあるが、安藤屋敷の向かい、松平屋敷のわきであると、上記絵図と合う。

驚いたことに、近江屋板を見ると、松平屋敷のわきの道を下り坂下近くで右折し南へ延びる道があるが、この道に、△ユサカ、とある。この道は、上記の二つの絵図にも描かれている。(御江戸大絵図には、この道のわきに、キリシタンヤシキ(切支丹屋敷)とあることにもちょっと驚いてしまう。)

千川通りから入って次の信号を左折すると、三枚目のように南へと上る坂道があるが、この坂が近江屋板のユサカとある坂道のような気がする。

近江屋板は、これまでの経験から坂をこまめに表示しているという信頼があるので、ついこちらが本来の湯坂かと思ってしまうが、本当のところ、どちらかはよくわからない。

四枚目は坂上に立っているこの坂の標柱の写真である。この面には、上記の御府内備考の江戸志の記述が記されている。

湯立坂中腹 湯立坂中腹 湯立坂中腹 湯立坂中腹 さらに上り上側のカーブに近づいてから、坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、緩やかに上る坂の両わきが樹木の緑でいっぱいである。

そのあたりから坂下側を撮ったのが二枚目で二つのカーブが見える。

ちょっと進んで反対側(南)の歩道から坂上側を撮ったのが三枚目でほぼまっすぐに上っている。そのあたりから坂下側を撮ったのが四枚目である。

このあたりから坂上側を眺めると、緑のトンネルのようになっていて、この坂は新緑の頃が特に美しい。両側がこのように緑でいっぱいの坂は東京23区内ではここだけのような気がする。

湯立坂中腹 湯立坂中腹 湯立坂中腹 湯立坂中腹 さらにちょっと上側から坂上側を撮ったのが一枚目の写真、その反対側(南)の歩道から坂上側を撮ったのが二枚目、北側にもどってちょっと上側から坂上側を撮ったのが三枚目、そのあたりから坂下側を撮ったのが四枚目である。

よく晴れて五月の強い陽の光が濃くなった新緑に差し込んだり反射したりしてコントラストが鮮やかである。

この季節、晴れた日に、この坂を上ると、緩やかにまっすぐにかなりの距離を上る坂道の形態とあいまって新緑の美しさがいっそう映えてくるのであるが、そう思うにつけ、この坂が本当に湯坂であるかどうかの議論はどうでもよくなってくる。こちらの方が本当の湯坂となってほしいような気分になってしまう。

湯立坂中腹 湯立坂中腹 湯立坂上 湯立坂上 さらに上側から坂上側を撮ったのが一枚目の写真、そのあたりの反対側(南)の歩道から坂下側を撮ったのが二枚目である。

さらにちょっと上側から坂上側を撮ったのが三枚目、そのあたりから坂下側を撮ったのが四枚目である。

三枚目に小さく写っているが、南側の歩道の坂上側に旧磯野家住宅の標識が立っている。実業家の磯野敬(1868~1925)が建設した住宅で、明治末期から大正初期にかけての邸宅建築であるという。坂の南側は、かつてはこの邸宅の庭木が南側の緑の壁をつくっていたと思われ、それがいまに至るまで残存している。

湯立坂上 湯立坂上 湯立坂上 湯立坂上 南側の歩道の坂上側から坂下側を撮ったのが一枚目の写真、そのあたりから坂上を撮ったのが二枚目である。

北側の歩道にもどってその上側から坂下側を撮ったのが三枚目で、坂上から坂下側を望む風景もなかなかの絶景である。

そのあたりから坂上を標柱を入れて撮ったのが四枚目で、ここを右側へ進めば、筑波大学のキャンパス方面である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
鈴木理生「江戸はこうして造られた」(ちくま学芸文庫)

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善福寺川4月(2015)

2015年04月05日 | 写真

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