東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

安保坂~自証院坂

2011年02月04日 | 坂道

安保坂上 安保坂上 安保坂下 安保坂下 茗荷坂上を右に進むと、靖国通りと外苑西通りとの交差点で、外苑西通りはここが終点である。この交差点から靖国通りを富久町の交差点まで下る坂が安保坂である。靖国通りの広い通りが緩やかにカーブしながら東へ下っている。勾配は中程度といったところ。この坂の南側に茗荷坂の記事ででてきた源慶寺がある。

写真は交差点を北側に渡ってから撮ったものである。交通量が多いので、車が途切れるまで待つ必要がある。

ここは昭和の新坂で、坂名は安保清種(あぼきよかず)・海軍大臣が住んでいたことにちなむという(山野)。

靖国通りは、坂下の富久町の交差点から上ると、ほぼそのままの高度で西へと新宿区役所前方面に至るので、この坂下が市谷八幡町あたりから続く谷(低地)の終わりのようである。

自証院坂下 自証院坂下 自証院坂上 自証院門前 坂下からそのまま東へ少し歩き一本目を左折すると、自証院坂の坂下である。まっすぐに南へ上っており、ちょっと勾配がある。坂を上ると、坂上右側に自証院(自證院)の門前が見える。

尾張屋板江戸切絵図(牛込市谷大久保絵図)を見ると、自證院が大きく描かれ、「自證院 俗ニ コブ寺ト云」とある。しかし、現在の坂と対応する道がわからない。自證院の敷地はいまよりもかなり広かったらしく、源慶寺と道を挟んで接している。そして、前回の茗荷坂下からまっすぐに東へ延びる道があり、これに沿って自證院の敷地が続いている。近江屋板もほぼ同様である。この東に延びる道を現在の靖国通りと考えると、現在、自証院坂とする坂は、自證院の敷地内になってしまう。

明治地図を見ると、靖国通りから北への道があり、坂上が自証院でほぼ行き止まりである。戦前の昭和地図では現在とほぼ同じになっている。

上記のように、この坂が江戸時代から続くものか不明である。横関と石川は、この坂を取りあげていないが、このあたりのことが理由であろうか。

『江戸名所図会』に鎮護山自証院が次のようにある。市谷の西の方、道より右側にある(土俗、ここを饅頭谷という)。円融寺と号する。天台宗にして東叡山に属す。尾張藩主徳川光友の夫人千代姫(家光の次女)母(側室お振の方)の菩提のために開創された。世に、ふし寺・こぶ寺といわれるが、建物をことごとく種々の節やこぶのある木を集めて造立したので、こう云われる。

図会には自證院の挿絵もあり、広大な敷地が描かれているが、門前を通る道が現在の靖国通りに相当するところであろうか。

岡崎によれば、小泉八雲が坂西側の成女学園のあたりに、明治29年(1896)から35年に大久保に移るまで住んだとのことで、付近の風景を愛してよく散歩し、寺の住職とも懇意であったという。明治地図の注には、自證院の森が伐採されたことを嫌って引っ越ししたとある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 無名坂~茗荷坂 | トップ | 禿坂~瓶割坂 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

坂道」カテゴリの最新記事