東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

鳥好きの柳田国男

2023年04月05日 | 読書

国男13歳 民俗学者で「遠野物語」などで有名な柳田国男(1875~1962)は、姫路からちょっと離れた田園地帯で生まれ、82歳のときに口述し後に出版された『故郷七十年』の「最初の文章」で次の幼き時代の思い出を語っている。

(写真は13歳の国男)

『私の幼い時書いたもので一つだけ奇抜な、文学的なものがある。姫路のお城の話で、父から聞いて非常に感動させられたものである。それをあのころ行われていた雅文体にして書いたもので、原本は見当らないが、こんな話であった。
 姫路のお城の中にある松の木に鶴が一番つがい巣を作っていた。よく見ると一羽の鶴が病気になってちっとも動かない。それは雌鶴らしく、もう一羽の雄鶴らしいのが度々巣を出て行っては帰り、帰りしていたが、そのうちいつの間にか、とうとう出て行ったきり帰って来なかった。「やっぱり鳥なんていうものは仕様がないものだ、いくら仲が好くても……」こんなことを人々はいっていたそうだ。ところが残ってねていた雌らしい方が木から落ちて死んでしまった。と、その後へもう一羽の鶴が帰って来た。そして巣に雌鶴がいないので大きな声で啼いたというのだ。そして口から何かを下の方へ、落してしまった。それを誰かが拾ってみたら朝鮮人蔘だったという、悲しい物語であった。
 何だかあまりよく出来すぎた話だけれども、非常に感激して歌を詠んだのをよく憶えている。十五歳の時の歌で、
   いく薬求めし甲斐もなかりけり常盤の島を往き来りつつ
というのであった。「いく薬」という言葉はよくあるが、つまり活く薬、すなわち良薬のことである。その歌が賞に入って、これはいい歌だなんていわれたのが嬉しかったので、物語も書いたものらしい。これがおそらく私のいちばん早い文章だったかと思う。
 あんな話は嘘だと思うが、私は姫路にいなかったにかかわらず、そういう話をたくさん聞いていた。鶴の話は父から聞いたように思う。』

柳田自身が言うようによく出来すぎた話で嘘かもしれないが、柳田少年(正確には松岡少年)が感動したこともまた事実である。こういった話に感応し、心が動く心性を持っていた。これが晩年までよく覚えていたゆえんであろう。

柳田は、『野草雑記・野鳥雑記 野草雑記』で次のように少年時代から鳥好きであることを自ら認めている。

『鳥は旧友川口孫治郎君の感化もあり、小学校にいた頃からもうよほど好きであった。十三歳の秋から下総の田舎にやって来て、虚弱なために二年ほどの間、目白や鶸[ひわ]を捕ったり飼ったりして暮した。百舌[もず]と闘ったこともよく覚えている。雪の中では南天の実を餌にして、鵯[ひよどり]をつかまえたことも何度かある。雲雀[ひばり]の巣の発見などは、それよりもずっと早く、恐らく自分が単独に為なし遂とげた最初の事業であって、今でもその日の胸の轟[とどろき]が記憶せられる。小鳥の嫌いな少年もあるまいが、私はその中でも出色であった。川口君の『飛騨の鳥』、『続飛騨の鳥』を出版して、それを外国に持って行って毎日読み、人にも読ませたのは寂しいためばかりではなかった。少なくとも私の鳥好きは持続している。』

子どもの頃からずっと鳥好きであったことがわかる。いろんな思い出の鳥を挙げているが、当時の子どもが鳥と遊んだ様子の記録となって興味深い。

鶴の話に感動した鳥好きの松岡少年は、その数十年後、次のような逸話を残している。

大正14年(1925)50歳
『7月5日 布佐に行き、両親の三十年祭を執り行う。このころ、我孫子に住む杉村楚人冠の「白馬城」と名づけた自宅を訪れ、森や池を散策し、池の金魚を狙うカワセミを嫌う楚人冠に対してカワセミを擁護する。』(柳田国男「年譜」)

カワセミカワセミ(翡翠、川蝉)は、生きた小魚やエビやザリガニなどを餌とするが、金魚も食べるようである。

川、池、沼などに出没し、チィ、チーと独特の鳴き声で鳴き、直線的にかなりのスピードで飛ぶ。水辺の手頃な枝や杭や石などに止まって水の中をよく見つめ、狙いを定めて水中に飛び込んで長いくちばしで捕獲する。捕えた小魚などを枝や石に叩きつけて弱めてから丸呑みをする。青色の背中や頭、橙色の胸や腹がよく目立つ、あでやかな色彩の小鳥である。

幼いころ鶴の話に感動した鳥好きの柳田の心性は、後年までしっかりと残っていたようで、このときは小鳥であったが、生きるのに必死なカワセミを擁護した。

柳田は、カワセミをめぐる楚人冠に対する意見を『野草雑記・野鳥雑記 野鳥雑記』の「翡翠の歎き」で詳述している。

杉村楚人冠(すぎむらそじんかん/1872~1945)は、新聞記者、随筆家、俳人。愛鳥者であるが巣箱主義であると、柳田はちょっと揶揄する調子で次のように書いている。

『彼の我孫子の村荘は園は森林の如く、晴れたる朝に先生斧を提げて下り立ち、数十本の無用の樹を斫[き]り倒すと、その中に往々にして自然の鳥の巣を見出すという実状なるにもかかわらず、更に邸内に総計十二箇の巣箱を配置し、その箱の板にはヘットなどを塗り附けて、いとも熱心に雀以上の羽客を歓迎しているのである。』

『カワセミという奴ばかりは、実際困るのだといっている。巣箱の大屋さんから、あの飄逸[ひょういつ]なる尻尾[しっぽ]のない鳥だけが、疎[うと]まれているのである。それはまたどうしてかと尋ねて見ると、池に飼ってある魚を狙って、始末にいけないという話であった。』

柳田は、次のようにカワセミを評価し、その由来を論じている。

『水豊かなる関東の丘の陰に居住する者の快楽の一つは、しばしばこの鳥の姿を見ることである。あの声あの飛び方の奇抜[きばつ]なるは別として、その羽毛の彩色に至っては、確かに等倫[とうりん]を絶している。これは疑う所もなく熱帯樹林の天然から、小さき一断片の飛散[とびち]ってここにあるものである。魚類ならばホノルルの水族館の如く、辛苦して硝子の水槽の中に養わざる限りは、常に西海の珊瑚暗礁[さんごあんしょう]の底深く隠れ、銛[もり]も刺網[さしあみ]もその力及ばず、到底東部日本の雪氷の地方まで、我々に追随し来る見込はないのだが、独[ひと]りカワセミだけは多分我々の先祖の移住に先だち、夙[つと]にこの島国に入り来って異郷の風物と同化し、殊[こと]にそのおかしな嘴[くちばし]と尻尾とを以て、遠くから存在を我々に知らしめ、これによって寂しい太陽の子孫たちを慰安し、永く南方常夏[とこなつ]の故郷を思念することを得せしめるのである。』

我々の先祖よりも先に熱帯地方からやって来たとし、それゆえ、寂しい太陽の子孫である我々を慰め、南方の故郷をおもわせるのだ、としている。

以下、延々とカワセミ擁護の論陣を張っている。

参考文献
「柳田国男全集 別巻1 年譜」筑摩書房
新潮日本文学アルバム 柳田国男
青空文庫

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「根府川の海」(茨木のり子)

2015年08月29日 | 読書

根府川の海

根府川
東海道の小駅
赤いカンナの咲いている駅

たっぷり栄養のある
大きな花の向こうに
いつもまっさおな海がひろがっていた

中尉との恋の話をきかされながら
友と二人ここを通ったことがあった

あふれるような青春を
リュックにつめこみ
動員令をポケットに
ゆられていったこともある

燃えさかる東京をあとに
ネーブルの花の白かったふるさとへ
たどりつくときも
あなたは在った

丈高いカンナの花よ
おだやかな相模の海よ

沖に光る波のひとひら
ああそんなかがやきに似た
十代の歳月
風船のように消えた
無知で純粋に徒労だった歳月
うしなわれたたった一つの海賊箱

ほっそりと
蒼く
国をだきしめて
眉をあげていた
菜ッパ服時代の小さいあたしを
根府川の海よ 忘れはしないだろう?

女の年輪をましながら
ふたたび私は通過する
あれから八年
ひたすらに不適なこころを育て

海よ

あなたのように
あらぬ方を眺めながら・・・・・・。 

茨木のり子詩集(岩波文庫) これをはじめて読んだとき、よい詩と思った。

「中尉」「動員令」「燃えさかる東京」「菜ッパ服時代」などの言葉から、いつの時代を背景にしたものかわかる。大正十五年(1926)6月12日生まれだから十代後半の青春のとき。

この詩を書いたときのことを次のように述べている(「「櫂」小史」)。

『たまたまその日は、成人の日で休日。夫と一緒に新宿へ映画「真空地帯」を観に行くことになっていたが、一寸待ってもらって、原稿用紙に向い、十分位で、ちゃらちゃらと書いたのが「根府川の海」である。既に私の心のなかに出来上っていたとも言えるが、今ではもう、あんなふうに気楽には書けなくなってしまっている。』

「はたちが敗戦」というエッセイで自らの青春をふり返って次のように書いている。

『太平洋戦争に突入したとき、私は女学校の三年生になっていた。全国にさきがけて校服をモンペに改めた学校で、良妻賢母教育と、軍国主義教育とを一身に浴びていた。
 退役将校が教官となって分列行進の訓練があり、どうしたわけか全校の中から私が中隊長に選ばれて、号令と指揮をとらされたのだが、霜柱の立った大根畑に向って、号令の特訓を何度受けたことか。

  かしらアー・・・・・・右イ
  かしらアー・・・・・・左イ
  分列に前へ進め!
  左に向きを変えて 進め!
  大隊長殿に敬礼! 直れ!

 私の馬鹿声は凛凛とひびくようになり、つんざくような裂帛[れっぱく]の気合が籠るようになった。そして全校四百人を一糸乱れず動かせた。指導者の快感とはこういうもんだろうか? と思ったことを覚えている。
 そのために声帯が割れ、ふだんの声はおそるべきダミ声になって、音楽の先生から「あなたはあの号令で、すっかり声を駄目にしましたね」と憐憫とも軽蔑ともつかぬ表情で言われた。いっぱしの軍国少女になりおおせていたと思う。声への劣等感はその後長く続くことになるのだが。』

愛知県立西尾女学校卒業後、昭和十八年(1943)、東京蒲田にあった帝国女子医学・薬学・理学専門学校の薬学部(現、東邦大学薬学部)に入学した。その東京での学生生活について次のように書いている。

『昭和十八年、戦況のはなはだかんばしからぬことになった年に入学して、間もなく戦死した山本五十六元帥の国葬に列している。その頃から誰の目にも雲行き怪しくなってきて、学生寮の食事も日に日に乏しく、食べさかりの私たちはどうしようもなくお腹が空いて、あそこの大衆食堂が今日は開いていると聞くと誘いあわせて走り、延々の列に並び京浜工業地帯の工員たちと先を争って食べた。『娘十八番茶も出花』という頃、われひとともに娘にあるまじきあられもなさだった。食べものに関する浅ましさもさまざま経験したが、今、改めて書く元気もない。
 それでも入学して一年半くらいは勉強出来て、ドイツ語など一心にやったが、化学そのものはちんぷんかんぷんで、無機化学、有機化学など私の頭はてんで受けつけられない構造になっていることがわかって、「しまった!」と臍[ほぞ]かむ思いだった。教室に座ってはいても、私の魂はそこに居らず、さまよい出でて外のことを考えているのだった。全国から集まった同級生には優秀な人が多く、戦時中とは言っても、高度な女学校教育を受けていた人達もいて、落差が烈しく、ついてゆけないというのは辛いことで、私は次第に今でいう〈落ちこぼれ〉的心情に陥っていった。』

『昭和二十年、春の空襲で、学生寮、附属病院、それと学校の一部が焼失し、毛布を切って自分で作ったリュックサックに身のまわりのものをつめて、ほうほうのていで辿りついた郷里は、東海大地震で幅一メートルくらいの亀裂が地面を稲妻型に走っており怖しい光景だった。激震で人も大勢死んだが、戦時中のことで何一つ報道されてはいなかった。』

『なにもかもが、しっちゃかめっちゃかの中、学校から動員令がきた。東京、世田谷区にあった海軍療品廠という、海軍のための薬品製造工場への動員だった。「こういう非常時だ、お互い、どこで死んでも仕方がないと思え」という父の言に送られて、夜行で発つべく郷里の駅頭に立ったとき、天空輝くばかりの星空で、とりわけ蠍[さそり]座がぎらぎらと見事だった。当時私の唯一の楽しみは星をみることで、それだけが残されたたった一つの美しいものだった。だからリュックの中にも星座早見表だけは入れることを忘れなかった。』

『八月十五日はふうふうして出たが、からだがまいって、重大放送と言われてもピンとこなかった。大きな工場で働いていた全員が集まり、前列から号泣が湧きあがったが、何一つ聴きとれずポカンとしていた。自分たちの詰所に戻ってから、同級生の一人が「もっともっと戦えばいいのに!」と呟くと、直接の上司だった海軍軍曹が顔面神経痛をきわだたせ、「ばかもの! 何を言うか! 天皇陛下の御命令だ!」それから確信を持って、きっぱりとこう言ったのだ。「いまに見てろ! 十年もたったら元通りになる!」』

その翌日、友人と二人、東海道線を無賃乗車で、郷里に辿りついた。郷里は愛知県幡豆郡吉良町(現、西尾市吉良町)。

茨木のり子詩集(思潮社) 長々と引用したが、これを読んでから、詩をもう一度読むと、その背景がよく理解できたので、この詩がぐっとわかるようになる。

東京に出てきてから、郷里との間をなんどか往復した。昭和二十年の春の空襲とは、4月15・16日の城南京浜大空襲であろうか。燃えさかる東京をあとに郷里に向かったとき、海軍療品廠への動員令をポケットに東京にもどるとき、戦争に負けた次の日に、通った東海道線の小駅(現代地図)。そこに咲いていた赤いカンナの花。そのむこうにひろがるまっさおな海。

戦後八年を経てから、その蒼い時代を回想するとき、まっさおな海と赤い花がまっさきに心に浮かぶ。

「お互い、どこで死んでも仕方がないと思え」という父の言葉が実感としてせまる時代、生と死のはざまにいた時代、そんな現実がたしかにあった青春のときが、赤く咲いたカンナと、大きな花の向こうにひろがっていたまっさおな海から誘発されて、心の中に忽然とよみがえる。いや、赤い花とまっさおな海がそんな時代を象徴するものとして心の奥底にずっと存在し続けたというべきか。

 「沖に光る波のひとひら
  ああそんなかがやきに似た
  十代の歳月
  風船のように消えた
  無知で純粋に徒労だった歳月
  うしなわれたたった一つの海賊箱」

「沖に光る波のひとひら」は、ちっぽけだがかがやく青春とその純粋性を象徴している。遠近感のある心象風景が十代の年月とみごとに同期している。しかし、それでも心の奥に残る悔恨が「うしなわれたたった一つの海賊箱」にこめられている。うしなわれたものが、一つかもしれないが、たしかにあった(はず)という思いから逃れられない。

 「ほっそりと
  蒼く
  国をだきしめて
  眉をあげていた
  菜ッパ服時代の小さいあたしを
  根府川の海よ
  忘れはしないだろう?」

軍国少女であったことを否定もせず肯定もせずにありのままえがいている。そんな時代がたしかに存在したことの再確認を根府川の海にせまっている。

自らが存在した時代と自らがおかれた環境をことさら強調も無視もせず、そのまま過去を見つめる視点に立っているといえるが、それだけではない。この詩人が戦後の一点に立ったとき、そのさきにかすかにともる灯火の方を見ていたことが、さらに次のように続くことでわかってくる。

 「女の年輪をましながら
  ふたたび私は通過する
  あれから八年
  ひたすらに不適なこころを育て

  海よ

  あなたのように
  あらぬ方を眺めながら・・・・・・。」

上記の海軍軍曹の話し(感嘆符の多い!)でエッセイ「はたちが敗戦」の戦前が終わり、戦後のはじめに次のように書いている。

『戦後、あわただしく日本が一八〇度転回を試みようとしたとき、私個人もまた、一八〇度転換を遂げたかった。つまり化学の世界から文学の世界へ―変わりたかったのである。
 敗戦後、さまざまな価値がでんぐりかえって、そこから派生する現象をみるにつけ、私の内部には、表現を求めてやまないものがあった。』

敗戦後すぐに、表現の世界を志向していたことがわかる。

この詩が書かれるまでの、この詩人の戦後を簡単にたどると次のとおり。

・昭和二十一年(1946)4月大学再開、9月繰り上げ卒業。卒業により薬剤師の資格を得たが、自らを恥じ、この世界から別れた。

・昭和二十四年(1949)医師、三浦安信と結婚。

・昭和二十五年(1950)詩誌「詩学」の投稿欄に詩の投稿をはじめる。茨木のり子のぺンネームを用いた。選者が村野四郎で「いさましい歌」が採用された。その後も投稿をした。

・昭和二十八年(1953)詩学社から新人特集に載せる詩の依頼があり、それで、成人の日に出かける前にすらすらと書いたのが「根府川の海」。その後、同じ投稿をしていた川崎洋から同人誌の誘いを受け、二人ではじめたのが「櫂」である。

ところで、詩集をぱらぱらとめくってこれが眼にとまったのは、その地名のためである。鴎外詩「沙羅の木」に石材名(根府川に産する輝石安山岩)としてでてくる。

 沙羅の木
  褐色の根府川石に
  白き花はたと落ちたり、
  ありとしも青葉がくれに
  見えざりしさらの木の花

参考文献
「現代詩文庫 20 茨木のり子詩集」(思潮社)
谷川俊太郎選「茨木のり子詩集」(岩波文庫)
「茨木のり子集 言の葉 1~3」(ちくま文庫)
後藤昭治「清冽 詩人茨木のり子の肖像」(中公文庫)
「鴎外選集 第十巻」(岩波書店)

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森鴎外と芥川龍之介

2012年09月10日 | 読書

森鷗外(鴎外)は、史伝『細木香以』を次のように書きはじめている。

「細木香以(ほそきこうい)は津藤である。摂津国屋(つのくにや)藤次郎である。わたくしが始めて津藤の名を聞いたのは、香以の事には関していなかった。香以の父竜池(りゅうち)の事に関していた。摂津国屋藤次郎の称(となえ)は二代続いているのである。」

鴎外は、少年の時に読んだ為永春水の人情本に出てくる、情け知りで金持ちで、相愛する二人を困難から救い出す津藤さんと云う人物を憶えていた。仲間から実在の人物と教えられたことも。

京橋南築地鉄炮洲絵図(文久元年(1861)) もともと新橋山城町の酒屋で、竜池の父伊兵衛が山城河岸を代表する富家としたが、竜池の代で酒店を閉じ、二三の諸侯の用達を専業とした。香以は文政五年(1822)生まれの摂津国屋の嗣子で、小字を子之助(ねのすけ)と云った。二代目津藤である。

鴎外が住んだ団子坂の家は、香以に縁故のある家であった。これを見いだしたのは家を捜して歩いていた鷗外の父であったが、これがこの史伝を書くきっかけになっている。

『わたくしが香以の名を聞いたのは、彼の人情本によって津藤の名を聞いたのと、余り遅速は無かったらしい。否あるいは同時であったかも知れない。その後にはこの名のわたくしの耳目に触れたことが幾度であったか知れぬが、わたくしは始終深く心に留めずに、忽ち聞き忽ち忘れていた。そしてその間竜池香以の父子を混同していた。
 それからある時香以と云う名が、わたくしの記憶に常住することになった。それは今住んでいる団子坂の家に入った時からの事である。
 この家は香以に縁故のある家で、それを見出したのは当時存命していたわたくしの父である。父は千住で医業をしていたが、それを廃めてわたくしと同居しようとおもった。そして日々家を捜して歩いた。その時この家は眺望の好い家として父の目に止まった。
 団子坂上から南して根津権現の裏門に出る岨道(そばみち)に似た小径(こみち)がある。これを藪下の道と云う。そして所謂藪下の人家は、当時根津の社に近く、この道の東側のみを占めていた。これに反して団子坂に近い処には、道の東側に人家が無く、道は崖の上を横切っていた。この家の前身は小径を隔ててその崖に臨んだ板葺(いたぶき)の小家であった。
 崖の上は向岡から王子に連る丘陵である。そして崖の下の畠や水田を隔てて、上野の山と相対している。彼小家の前に立って望めば、右手に上野の山の端(はな)が見え、この端と向岡との間が豁然(かつぜん)として開けて、そこは遠く地平線に接する人家の海である。今のわたくしの家の楼上から、浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆の見えるのは、この方角である。
 父はこの小家に目を著けて、度々崖の上へ見に往った。小家には崖に面する窓があって、窓の裡(うち)にはいつも円頂の媼(おうな)がいた。「綺麗な比丘尼」と父は云った。

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 父は切絵図を調べて、綺麗な比丘尼の家が、本(もと)世尊院の境内であったことを知った。世尊院は今旧境内の過半を失って、西の隅に片寄っている。
 父はわたくしを誘(いざな)って崖の上へ見せに往った。わたくしはこの崖をもこの小家をも兼て知っていたが、まだ父程に心を留めては見なかったのである。眺望は好い。家は市隠の居処とも謂うべき家である。そして窓の竹格子の裡には綺麗な比丘尼がいた。比丘尼はもう五十を越していたであろう。もし媼をも美人と称することが出来るなら、この比丘尼は美人であったと云いたい。
 父はわたくしの同意を得てから、この家を買おうとして、家の持主の誰なるかを問うことにした。団子坂の下に当時千樹園と云う植木屋があった。父は千樹園の主人を識っていたので、比丘尼の家の事を問うた。
 千樹園はこう云った。崖の上の小家は今住んでいる媼の所有である。媼は高木ぎんと云って、小倉と云うものの身寄である。小倉は本(もと)質屋で、隠居してから香以散人の取巻をしていたが、あの家で世を去った。媼は多分あの家を売ることを惜まぬであろうと云った。』

『千樹園が世話をして、崖の上の小家を買う相談は、意外に容易く纏まった。高木ぎんの地所は本やや広い角地面であったのを、角だけ先ず売ったので、跡は崖に面した小家のある方から、団子坂上の街に面した方へ鉤形に残っている。その街に面した処に小さい町家が二軒ある。一つは地所も家も高木のもので、貸店になって居り、一つは高木の地所に鳶頭の石田が家を建てて住んでいる。ぎんは取引が済んでこの貸店に移った。』

鴎外一家が団子坂の崖の上の家(後の観潮楼)に住むことになるまでの顛末がよくわかる。観潮楼跡が後に、いまの鴎外記念図書館となったが、その土地の角が民家となっていることの理由もわかる。あまり関係ないことだが、鴎外も、その父も、その円頂の比丘尼にかなり強い印象が残ったようである。鷗外の美人好みは父親譲りか、などと思ってしまう。

『香以は明治三年九月十日に歿した。翌四年の一周忌を九月十日に親戚がした。後に取巻の人々は十月十日を期して、小倉是阿弥の家に集まって仏事を営み、それから駒込願行寺(がんぎょうじ)の香以が墓に詣でた。この法要の場所は即崖の上の小家であったのである。』

小倉(是阿弥)は香以の取り巻きの一人で、香以は明治三年(1870)9月10日に亡くなっているが、その一周忌の法要を他の取り巻きの人たちと行ったのがこの家であった。是阿弥は高木氏で団子坂上の質商で、小倉は屋号であるという。その妻がぎん、すなわち、きれいな比丘尼である。

 『この話を自分は母から聞いた。母はそれを自分の大叔父から聞いたと云つている。話の真偽は知らない。唯大叔父自身の性行から推して、かう云ふ事も随分ありさうだと思ふだけである。
 大叔父は所謂大通(だいつう)の一人で、幕末の芸人や文人の間に知己の数が多かつた。河竹黙阿弥、柳下亭種員、善哉庵永機、同冬映、九代目団十郎、宇治紫文、都千中、乾坤坊良斎などの人々である。中でも黙阿弥は、「江戸桜清水清玄」で紀国屋文左衛門を書くのに、この大叔父を粉本にした。物故してから、もう彼是五十年になるが、生前一時は今紀文と綽号された事があるから、今でも名だけは聞いている人があるかも知れない。――姓は細木、名は藤次郎、俳名は香以、俗称は山城河岸の津藤と云つた男である。』 (大通とは、遊芸に通じた大趣味人。)

芥川龍之介「孤独地獄」(大正五年二月)の冒頭である。これから龍之介の母は細木香以の姪であったことがわかるが、その「母」は正確には「養母」である。

龍之介は、明治二十五年(1892)3月1日生まれで、その10月末生母ふくが突然発狂したため、ふくの兄である伯父芥川道章の家(本所小泉町)に預けられた。その後、明治三十七年(1904)12歳のとき芥川家と養子縁組がなったので、道章が養父、その妻儔(とも)が養母である。

鴎外は、「細木香以 十四」の最後に芥川龍之介のことを次のように書いている。

『わたくしはその後願行寺の住職を訪はうともせずにいて、遂に香以の裔の事を詳にせぬままに、この稿を終ってしまった。頃日高橋邦太郎さんに聞けば、文士芥川龍之介さんは香以の親戚だそうである。もし芥川氏の手に藉(よ)ってこの稿の謬(あやまり)を匡(ただ)すことを得ば幸であろう。』

そして、鴎外は龍之介から手紙をもらい、また来訪を受けた。香以伝には補記があるが、そこに龍之介について次の記述がある。

『香以伝の末にわたくしは芥川龍之介さんが、香以の族人だと云うことを附記した。幸に芥川氏はわたくしに書を寄せ、またわたくしを来訪してくれた。これは本初対面の客ではない。打絶えていただけの事である。
 芥川氏のいわく。香以には姉があった。その婿が山王町の書肆伊三郎である。そして香以は晩年をこの夫婦の家に送った。
 伊三郎の女を儔(とも)と云った。儔は芥川氏に適いた。龍之介さんは儔の生んだ子である。龍之介さんの著した小説集「羅生門」中に「孤独地獄」の一篇がある。その材料は龍之介さんが母に聞いたものだそうである。この事は龍之介さんがわたくしを訪ふに先だって小島政二郎さんがわたくしに報じてくれた。
 わたくしはまた香以伝に願行寺の香以の墓に詣もうでる老女のあることを書いた。そしてその老女が新原元三郎という人の妻だと云った。芥川氏に聞けば、老女は名をえいと云う。香以の嫡子が慶三郎で、慶三郎の女がこのえいである。えいの夫の名は誤っていなかった。』

香以には姉がいて、その婿伊三郎の娘が儔(とも)で、龍之介の養母である。ところが、上記のように鷗外は香以伝の補記で「龍之介さんは儔の生んだ子である。」と書いていることにちょっと驚いてしまう。これは、龍之介が鴎外に語ったことなのか、小島政二郎が鴎外に報じたことなのか、あるいは鴎外の誤解によることなのか、色々と疑問が出てくるが、どうしてそうなったのかわからない。龍之介自身は、自分を生んだのは儔(とも)でなかったことは、当然に知っていたと思われるので、龍之介が語ったことではないような気がする。ただ、儔(とも)が養母であることは云わなかった(それを語っていれば、鴎外も上記一文は書かなかったはずである)。

龍之介の短篇小説集「羅生門」が出版されたのが、大正六年(1917)5月で、鷗外の香以伝は同年9月19日から10月13日まで「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」に掲載され、その補記は大正七年1月1日「帝国文学」二十四ノ一に載った。これらから推定すると、龍之介が鴎外に手紙を出し、訪れたのは、大正六年の秋であろう。

龍之介によれば、細木は、正しくは「さいき」と訓むが、「ほそき」とよぶ人も多いので、細木氏自身も「ほそき」と称したこともあったという。 

ところで、鷗外の香以伝の補記から、もう一つわかったことがある。香以の嫡子(跡つぎ)が慶三郎で、その娘がえいで、そのえいは新原元三郎の妻となった。「新原」は龍之介の実家の姓であるので、ちょっと調べたらすぐに判明したが、元三郎は龍之介の叔父であった。すなわち、実父敏三の弟である。二人の結び付きは、儔(とも)の仲介によるという。「新潮日本文学アルバム」に、幼いころの龍之介が実父敏三、叔父元三郎と一緒に写った写真が載っている。別の写真にはえいが小学生くらいの龍之介などと写っている。

龍之介と香以との間には、香以が養母の叔父というだけでなく、実父方の叔父の妻が香以の孫であったという関係もあった。

以上、たまたま読んだ鴎外の「細木香以」から龍之介の母や龍之介と香以との関係に至った。ちょっと重箱の隅的なことで、すでに常識化したことかもしれず、また、このような親族関係は、別に取り立てて珍しいことではなく、世間にはよくあることかもしれないが、気に留まったのであえてブログの記事にした。

参考文献
「鷗外選集 第六巻」(岩波書店)
「芥川龍之介全集 1」(ちくま文庫)
「新潮日本文学アルバム 芥川龍之介」(新潮社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
森啓祐「芥川龍之介の父」(桜楓社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八百屋お七のふくさ

2012年05月16日 | 読書

円乗寺参道 八百屋お七の墓 大円寺門前 ほうろく地蔵 文京区白山の坂巡りのとき、浄心寺坂下の円乗寺(一枚目の写真)にある八百屋お七の墓(二枚目の写真)、その坂上の先の旧白山通り北の大円寺(三枚目の写真)にあるお七に因む焙烙(ほうろく)地蔵(四枚目の写真)を訪ねた。

森鷗外の史伝の一つに『澀江抽斎』がある。澀(渋)江抽斎(文化二年(1805)~安政五年(1858年))は、江戸時代末期の医師、考証家、書誌学者である。この史伝に「八百屋お七のふくさ」というのが出てくるが、忘備のため、ここに書き留める。

「五郎作は又博渉家の山崎美成(よししげ)や、画家の喜多可庵(かあん)と往来していた。中にも抽斎より僅に四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、疑を質(ただ)すことにしていた。五郎作も珍奇の物は山崎の許へ持って往って見せた。
 文政六年[1823]四月二十九日の事である。まだ下谷(したや)長者町で薬を売っていた山崎の家へ、五郎作はわざわざ八百屋お七のふくさというものを見せに往った。ふくさは数代前に真志屋(ましや)へ嫁入した島と云う女の遺物である。島の里方を河内屋半兵衛と云って、真志屋と同じく水戸家の賄方(まかないかた)を勤め、三人扶持を給せられていた。お七の父八百屋市左衛門は此河内屋の地借(じかり)であった。島が屋敷奉公に出る時、穉(おさな)なじみのお七が七寸四方ばかりの緋縮緬(ひぢりめん)のふくさに、紅絹裏(もみうら)を附けて縫ってくれた。間もなく本郷森川宿のお七の家は天和二年[1682]十二月二十八日の火事に類焼した。お七は避難の間に情人と相識になって、翌年の春家に帰った後、再び情人と相見ようとして放火したのだそうである。お七は天和三年三月二十八日に、十六歳で刑せられた。島は記念(かたみ)のふくさを愛蔵して、真志屋へ持って来た。そして祐天上人から受けた名号をそれに裹(つつ)んでいた。五郎作は新にふくさの由来を白絹に書いて縫い附けさせたので、山崎に持って来て見せたのである。」(その二十三)

真志屋五郎作は、抽斎と交わりのあった好劇家で、神田新石町の菓子商で水戸家の賄方を勤めた家であった。この家には、数代前に嫁入した島という女の遺物に八百屋お七のふくさというのがあり、島が屋敷奉公に出る時、幼なじみのお七が縫ってくれたものという。

祐天上人から受けた名号をそれにつつんでお七の形見として大事にした島、百年以上前のふくさの謂われを白絹に書いて縫い附けさせた五郎作、これらのことをこういった史伝に書き残した鷗外まで、その間二百年余り。この史伝のほんの短い挿話であるが、一つの物語ができあがっている。もちろん、主人公は島とお七である。

参考文献
「鷗外選集 第六巻」(岩波書店)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芥川龍之介と忠臣蔵(2)

2011年09月25日 | 読書

芥川龍之介に「或日の大石内蔵之助」という短篇小説がある。或日というのは、大石内蔵之助が、吉良邸への討ち入りの後、高輪の細川家に他の同志十六名とともに預かりの身であったときである。

内蔵之助は、快い春の日の暖かさの中、安らかな満足の情があふれるのを感じる。もちろん本意を遂げたからであるが、そういった平安の心にさざ波が生じる。小さな出来事をきっかけにして、そこから心が乱れてしまう。内蔵之助の内面を芥川流に描き出している。

討ち入りに余りにも過剰に反応する世間、その世間話を伝える細川家の家臣で赤穂浪士の接伴係の一人である堀内伝右衛門、それを面白がり話題にしようとする早水藤左衛門、しかしそれを聞いて不愉快になる内蔵之助。

『「手前たちの忠義をお褒める下さるのは難有いが、手前一人の量見では、お恥しい方が先に立ちます」
 こう云って、一座を眺めながら、
「何故かと申しますと、赤穂一藩に人も多い中で、御覧の通りここに居りまするものは、皆小身者ばかりでございます。尤も最初は、奥野将監などと申す番頭も、何かと相談にのったものでございますが、中ごろから量見を変え、遂に同盟を脱しましたのは、心外と申すより外はございません。その外、進藤源四郎、河村伝兵衛、小山源五右衛門などは、原惣右衛門より上席でございますし、佐々小左衛門なども、吉田忠左衛門より身分は上でございますが、皆一挙が近づくにつれて、変心致しました。その中には、手前の親族の者もございます。して見ればお恥しい気のするのも無理はございますまい」』

これは、一同の会話が不愉快な話になるのを阻むためとっさに内蔵之助が語ったこと、というのがこの小説の設定である。

しかし、上記の大石内蔵之助の話をきっかけに、変心して同盟を脱した者に対する同志達の罵りがはじまると、接伴係の伝右衛門までもが同調して同じように憤る有様である。大石独りが変心した彼等を心の内で擁護する。彼等の変心の多くは自然すぎる程自然であった。気の毒な位な真率(まじめで率直なこと)である。そして、「何故我々を忠義の士とする為には、彼等を人畜生としなければならないのであろう。我々と彼等の差は、存外大きなものではない。」

話はさらに別の望まぬ方向にそれて、一年程前の内蔵之助の京都島原や橦木町での遊蕩さえも仇の細作(スパイ)の目を欺くためと絶賛されてしまう。しかし、内蔵之助は、そのような遊びの中に「復讐の挙を全然忘却した駘蕩たる瞬間を味わった」ことを否定できない。「彼の放埒の全てを、彼の忠義を尽す手段として激賞されるのは、不快であると共に、うしろめたい。」

大石は、変心した者に対しては寛容の心を持ち、彼等と大きな差はないとまで思い、遊蕩三昧の京都時代のことは本気でもあったことを否定せず、うしろめたさもあるという、きわめて人間性に富んだ人物、あるいは、それ以上に内省する者として描かれている。

明治42年(1909)刊行の福本日南「元禄快挙録」は、その題名からもわかるように、忠臣蔵礼賛・讃美に貫かれている。善と悪の二極が存在し、絶対的な善が悪・敵の存在によりいっそう浮かび上がるという構図である。善はもちろん赤穂浪士で(それゆえ、義士、義徒)、敵は仇討ち対象の吉良上野介だが、それ以上の存在である悪は、変心した背盟の七十四名の輩である(それゆえ、七十四醜夫)。

芥川のこの短篇は、大正6年(1917)8月15日作であるが、当時、日南のように赤穂浪士を義士・義徒とし正義とする風潮が一般的であった中でどう受けとめられたのであろうか。その内容からかなり特異なものとされたに違いない。特に背盟者に対する大石の寛容な心持ちなどは、日南などによる礼賛史観、それの裏返しの裏切者罵倒史観からすればまったく認められない。彼等と大きな差はないなどとすることは、あり得ず、理解を超えたものであったと想われる。

芥川は、大石の心を多面的に描き、その内面に肉薄することで、善・正義という一方向で平板な視点から大石という人物像を解放した。旧来の大石像を壊そうとした。芥川によってはじめて忠臣蔵物語は善悪二元論を越える地平に達したのである。

数年前にこの短篇を読んだとき、さほどの違和感を感じなかったが、元禄快挙録をその後に読むと、両者の刊行の時期はさほど離れていないのに、その違いに愕然とするほどである。

吉田精一は芥川文学の材源、出典の考察で、『主として「堀内伝右衛門覚書」か。福本日南「元禄快挙録」も参看か。』としている。真山青果もこの短篇はその覚書が題材であるとしている。堀内伝右衛門覚書とは、上記の細川家の接伴係であった伝右衛門によるメモである。その覚書を日南も参考としており、「二六五 細川邸における内蔵助」に、上記の内蔵之助による「皆小身者ばかりで・・・」の語りと同じセリフが出てくる。すなわち、『「・・・。そのうちには拙者親族さえ交りおり、寔(まこと)に御恥かしい次第でおざりまする」と慨然たるものこれを久しゅうした。』というのがそれであり、恥ずかしい次第であると大石が憤り嘆いたとしているが、これを芥川は、上記のように、嫌な話の方向転換のための方便から語ったことという位置づけに変えた。これから始まって、変心した者達と大きな差はないとするにまで至るのである。

芥川が題材にしたという堀内伝右衛門覚書自体がすでに赤穂浪士礼賛の立場に立つ者によるもので、それから壊しにかかったことは、伝右衛門の描き方から想像される。日南は、その著書でさかんに史実に忠実に描くとしているが、その史実自体がそういう主観性の強いものに基づくから、忠臣蔵讃美になることは当然のことであった。この意味で、芥川は当時の世間一般の忠臣蔵感のみならず堀内覚書に象徴される江戸元禄という過去をも俎上に載せなければならなかったのである。
(続く)

参考文献
芥川龍之介「戯作三昧・一塊の土」(新潮文庫)
芥川龍之介全集1(筑摩書房)
福本日南「元禄快挙録(上)(中)(下)」(岩波文庫)
真山青果「元禄忠臣蔵(下)」(岩波文庫)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏目鏡子述 松岡譲筆録「漱石の思い出」

2011年08月27日 | 読書

雑司ヶ谷霊園の記事で、荷風の「断腸亭日乗」昭和2年(1927)9月22日の次の記事を引用し夏目漱石についてちょっと触れた。

「九月廿二日 終日雨霏々たり、無聊の余近日発行せし改造十月号を開き見るに、漱石翁に関する夏目未亡人の談話を其女婿松岡某なる者の筆記したる一章あり、漱石翁は追蹤狂とやら称する精神病の患者なりしといふ、又翁が壮時の失恋に関する逸事を録したり、余此の文をよみて不快の念に堪へざるものあり、縦へ其事は真実なるにもせよ、其人亡き後十余年、幸にも世人の知らざりし良人の秘密をば、未亡人の身として今更之を公表するとは何たる心得違ひぞや、見す見す知れたる事にても夫の名にかゝはることは、妻の身としては命にかヘても包み隠すべきが女の道ならずや、然るに真実なれば誰彼の用捨なく何事に係らず之を訏きて差閊へなしと思へるは、実に心得ちがひの甚しきものなり、女婿松岡某の未亡人と事を共になせるが如きに至っては是亦言語道断の至りなり、余漱石先生のことにつきては多く知る所なし、明治四十二年の秋余は朝日新聞掲載小説のことにつき、早稲田南町なる邸宅を訪ひ二時間あまりも談話したることありき、是余の先生を見たりし始めにして、同時に又最後にてありしなり、先生は世の新聞雑誌等にそが身辺及一家の事なぞ兎や角と噂せらるゝことを甚しく厭はれたるが如し、然るに死後に及んで其の夫人たりしもの良人が生前最好まざりし所のものを敢てして憚る所なし、噫何等の大罪、何等の不貞ぞや、余は家に一人の妻妾なきを慶賀せずんばあらざるなり、是夜大雨暁に至るまで少時も歇む間なし、新寒肌を侵して堪えかだき故就眠の時掻巻の上に羽根布団を重ねたり、彼岸の頃かゝる寒さ怪しむ可きことなり、」

「漱石の思い出」文庫本カバー 漱石未亡人の談話を女婿松岡譲が筆記した文が、雑誌「改造」に十三ヶ月にわたって掲載され、それが後にまとめられ「漱石の思い出」として出版された。これまで複数の出版社から出版されたが、現在、左のように、文春文庫で読むことができる。夏目鏡子述 松岡譲筆録「漱石の思い出」。
松岡譲の夫人が漱石・鏡子の長女筆子である。

漱石の若いときの失恋話と追跡狂のことが最初の「一 松山行」にのっているが、これを荷風も読んだのであろう。

漱石が大学を出たころ、牛込の喜久井町の実家を出て、小石川の伝通院近くの法蔵院に間借りをしていた。そのころ、トラホームになって毎日のように駿河台の井上眼科にかよっていたが、そこの待合でよく落ち合う美しい若い女がいて、背のすらっとした細面の美しい女で、気立てが優しくしんから深切であり、漱石好みであったという。漱石はあの女ならもらってもよいと思いつめて独りぎめしていたらしい。どうしてそのような話になったかわからないが、その人の母の挙動に漱石は我慢ならなくなって、それでひと思いに東京がいやになって松山に行く気になったという。(松山行きとは、明治28年、突如高等師範学校を辞し、伊予松山中学校教員として赴任したこと。)

そのときのことらしいが、突然実家に帰って兄に、「私のところへ縁談の申し込みがあったでしょう」と尋ね、そんな申し込みに心当たりはないが、目の色がただならぬので、「そんなものはなかったようだった」と簡単にかたづけると、「私にだまって断るなんて、親でもない、兄でもない」とえらい剣幕であったという。兄も辟易しながら、「いったいどこから申し込んで来たのだい」となだめながら訊ねても、それには一言も答えないで、ただむやみと血相をかえて怒ったまま、ぷいと出て行ってしまった。

その後、結婚し、英国留学し、帰国後、千駄木にいたころ、家族、妻に乱暴をするので、困った妻が兄に相談すると、兄は、上記の法蔵院時代のことを思い出して、「それでやっとわかった。なぜあの時金ちゃんがあんなにぷりぷりしていたんか、わたしには長いことまるで合点が行かなかったんだが、するとそういう精神病があの人のうちに隠れていて、それが幾年おきかにあばれ出すんだね」

その後精神病学の呉さんに診てもらうと、それは追跡狂という精神病の一種だろうといわれたという。

「一 松山行」には、かいつまめば、以上のような話がのっている。

その後にも似たような話がのっている。たとえば、「二一 離縁の手紙」に、同じく千駄木の家にいたとき、漱石の書斎が向かいの下宿屋の学生の部屋から見下ろされるような位置にあったが、その部屋で毎晩学生が本を読むとき音読するのが学生の習慣で、そこにときどき友達が遊びに来て、大きな声で話をする。それが漱石の耳にはいちいち自分の噂や陰口のように響いた。高いところから始終こちらをのぞいて監視している。朝、漱石が出かけるころ、学生も出かけ、漱石の後をついて行く。あれは姿は学生だが、実際は自分をつけている探偵に違いない、などと決めつけていた。そして、朝起きて洗顔し、朝御飯の前に書斎の窓の敷居の上にのって、学生の部屋の方に向かって、「おい、探偵君。何時に学校へ行くかね」とか、「探偵君、今日のお出かけは何時だよ」などと怒鳴るのだという。

これらは、もちろん、漱石の思い込み、妄想(被追跡妄想)であった。しかし、よく考えてみれば、このようなことは、どんな人にでも条件さえそろえば起きうることかもしれない(その条件というのがよくわからないが)。あるいは、そのような環境にあるとき、そのような行動に移る前に人のこころの中で絶えず反復されることかもしれない。その結果、こころの内で止まり、行動には結びつかなかったということもあるに違いない。異常などと他人のことのように云う前に自分を省みれば思いあたることも多いのではないだろうか。

しかし、そのような感想がある一方で、上記のような漱石と兄とのやりとりや兄の話を読むと、兄の方が常識人で、しっかりしていると思わざるをえない。やんちゃな弟を兄がやんわりと受けとめている。漱石を「金ちゃん」とよんでいるのもおかしい。そんなふうに漱石をよぶことができたのは、この兄などの兄弟だけであったかもしれない。

荷風は、上記の日乗で、漱石の失恋話と追跡狂のことを暴露した夏目未亡人について憤慨しているものの、その内容についてはなんの感想も記していないが、特に、追跡狂について人間にはそういう性癖・性行があったり思いもよらぬ行動をとる場合があることを暗黙の内に了解したのではないだろうか。荷風だって同じような思い込みをすることがあったと思われるからである(たとえば、以前の記事参照)。

作家の死後、その未亡人が夫のことを書くことがよくあることかどうかわからないが、小説「邪宗門」などで知られる高橋和巳の死後、その夫人で同じ作家の高橋たか子が夫について色々と書いていたことを思い出した。主に夫婦間の金銭や酒にまつわる話が印象に残っているが、こういった話は、単なる一読者に対し、そういう一面があったのかと驚かす効果があることは確かである。他方、作家といえども生身の人間であるから色んな奇っ怪な挙動があってもおかしくないことも確かではある。

「漱石の思い出」の最後に、漱石の墓の話がでてくるが、これは、西洋の墓でもなく日本の墓でもなく、安楽椅子にでもかけたような形にしたものらしく、一周忌に間に合うかどうかの時に急いでつくり、漱石の戒名と夫人の戒名とを並べてほったとある。以前の記事で、漱石の墓には夫人の鏡子の戒名も刻んであるから比較的新しいものと書いたが、そうではなく、夫人の生前に墓ができていた、ということである。また、漱石の墓が大きいのは上記のようなことが理由らしい。

参考文献
永井荷風「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
高橋たか子「高橋和巳の思い出」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」

2010年07月03日 | 読書

この間、サッカーWCの日本対デンマーク戦を見ようと思って早めに寝たら、キックオフの時間よりもかなり早く眼が覚めてしまった。それで、村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」(文春文庫)を読んだが、以下、それの簡単な感想である。

この本で、村上春樹は走ることが好きであることがよくわかった。いや、好きというよりも、ほとんど生活そのものといったほうがよい。毎日走ることを心がけたら、走るのはごく当たり前の習慣になったと書いている。

本格的に日々走るようになったのは、専業小説家としてやっていこうと決めた前後かもしれないと回想しているが、書くという行為と走るという行為が自身の中で分かちがたく結びついたのであろう。どちらも単調(たぶん)だが人にはいえない(いう必要のない)共通の快楽を発見したのかもしれない。

わたしは走ることはしないから走ることについてさほど興味を覚えないが、この作家の力量はそんな者でも引きつけて読ませてしまう。それでもやはり走ること以外の部分(脇道)におもわず引き込まれてしまう。

例えば、知識を身につけることについて次のように書いている。

『小学校から大学にいたるまで、ごく一部を例外として、学校で強制的にやらされる勉強に、おおよそ興味が持てなかった。・・・、勉学を面白いと思ったことはほとんど一度もなかった。』
「社会人」になってから、『自分が興味を持つ領域のものごとを、自分に合ったペースで、自分の好きな方法で追求していくと、知識や技術がきわめて効率よく身につくのだということがわかった。』

要は、自分が(本当に)やろうとしたことしか身につかないということであろう。村上はこうして翻訳技術も自己流で身につけたと語っている。ここに、学校とはなにか、教育となにか、のような深遠な問題を解決に導く重要な鍵が潜んでいるのかもしれない。

『たくさんの水を日常的に目にするのは、人間にとって大事な意味を持つ行為なのかもしれない。・・・。しばらくのあいだ水を見ないでいると、自分が何かを少しずつ失い続けているような気持ちになる。それは音楽の大好きな人が、何かの事情で長期間音楽から遠ざけられているときに感じる気持ちと、多少似ているかもしれない。』

村上はボストンに住み、チャールズ河のほとりをよく走っているようで、それの感想である。

水を見ながら走る。季節による風の向きの変化を感じて走る。村上が、自分という存在が、『川の水と同じように、橋の下を海に向けて通り過ぎていく交換可能な自然現象の一部に過ぎないのだ』というとき、それは、水と風を感じながらスピードにのって走り、それにより水や風などの自然と一体化し自然の一部となること、そして、その恍惚感をあらわしているのだ。

この本にチャールズ河の写真が載っているが、河畔によさそうなランニングコースが続いているようである。コンクリート護岸などないようで、きわめて親水的な風景が写っている。この多湿多雨な極東の地域とは風景が違っているようである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎誠三「戦災の跡をたずねて」

2010年03月12日 | 読書

「戦災の跡をたずねて」(アグネ技術センター)は、副題を-東京を歩く-とし、東京の『戦災の跡』を紹介するが、哀しみをともなうガイド本である。筆者自身の痛恨の戦災体験をもとに本書ができたからである。

東京は、第二次世界大戦中に米軍により昭和19年(1944)11月24日のマリアナ基地からの初空襲以降百回以上の空爆を受けたが、特に以下のように昭和20年3月10日、4月13日、4月15日、5月25日に大規模な空襲を受けた。

3月10日には0時7分深川地区への空爆から始まり、その後、城東地区にも爆撃が開始された。0時20分には浅草地区や芝地区(現・港区)にも爆撃が開始された。死亡・行方不明者は10万人以上といわれ、一回の空襲で東京市街地の東半分、東京35区の3分の1以上の面積(約41km²)が焼失した。

4月13日には王子・赤羽地区を中心とした城北地域が、15日には大森・蒲田地区を中心とした城南地域が空襲・機銃掃射を受け死傷者4千人以上、約22万戸もの家屋が焼失した。さらに5月25日には、それまで空襲を受けていなかった山の手に470機ものB29が来襲した。これにより死傷者は7千人以上、被害家屋は約22万戸と3月10日に次ぐ被害となった。(Wikipedia)

筆者の自宅は、旧牛込区と淀橋区の境、淀橋側に50mほど入ったところ(現新宿七丁目)にあったが、4月13日深夜投下された焼夷弾により焼き尽くされた。

20年間東京の戦災遺跡を求めてカメラに収めたとのことで、それが本書となった。

永井荷風は大正9年(1920)5月麻布市兵衛町の洋館に居を構え、これを偏奇館と称したが、偏奇館は3月10日の大空襲で焼亡した。このことも本書で紹介されている。

断腸亭日乗3月9日「天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、・・・麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くがきり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ、・・・近づきて家屋の焼倒るるを見定ること能はず、唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり、・・・」

荷風はいったん避難した後、戻ってきて偏奇館から上る火炎を見たようである。荷風は事実を客観的に語っているが、二十六年住み馴れた家と多くの蔵書を失った痛恨の一大事であった。これは筆者の想いにつながる。

荷風はこの後代々木の杵屋五叟宅で避難生活を送るが、同じく4月13日「晴天、夜十時過空襲あり、爆音砲声轟然たり、人皆戸外に出づ、路傍に立ちて四方の空を仰ぎ見るに省線代々木駅の西南方に当り火焔天を焦す、明治神宮社殿炎上中なりと云、又新宿大久保角筈の辺一帯火焔の上るを見る、・・・」このとき大久保にあった著者の家も炎上したのであろうか。

本書に紹介されている戦災の跡は、イチョウなどの樹木と、石垣、石碑、石像、石灯籠、敷石、墓石などの石に残っているものが多い。本書で、戦災を受けた地域の大木、神社、寺には焼かれた跡が残っている可能性があることを知った。

イチョウは火災に強く、防火樹としても植えられたらしい。イチョウの大木で木肌や中心部が焼かれても元気な姿で残っているものがあるという。1月に麻布山善福寺に行き、戦災にあった善福寺公孫樹も見たが、焼かれた跡には気がつかなかった。昭和20年5月25日の空襲によるものらしい。

各地の戦災の跡は、本書で紹介されてからも、すでに10年以上たっている。どれだけの跡がいまなお残っているであろうか。重い記録であるが、街歩きの度に思い出さざるを得ないであろう。

本書の付録として東京空襲記録や全国主要都市の戦災一覧などがのっているが、米軍は広島・長崎への原爆投下を含め空襲による攻撃を繰り返し無差別に行ったことがわかる。本書で紹介の戦災の跡はその爪痕を何十年後にもなお残している。酷い記憶はいつまでも消え去ることがないかのように。しかし、人々の記憶はやがて消滅してしまう。戦災の跡もやがて消え去るかもしない。そうした中で本書はガイド本というよりも戦争を記憶する貴重な記録というべきかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

廣田稔明「東京の自然水124」

2010年03月11日 | 読書

東京の『自然水』のガイド本である。紹介の自然水は前回の「東京湧水せせらぎ散歩」の湧水と共通するが、この「東京の自然水124」(けやき出版)の方が多い。

紹介されている多くの都内の湧水のうち、特に印象に残ったのが小日向の今宮神社付近の石垣と元麻布のがま池である。

今宮神社付近の石垣の湧水は道そばであるが、以前はかなり水量があったという。今宮神社を訪れたとき気がつかなかった。そういえば、鷺坂を下り右折し神社に向かった通りの右側が石垣であったが、そこかもしれない。

元麻布のがま池は意外なところにある。涸れないから湧水があるのであろう。

左は1月に撮ったがま池の写真である。

がま池は本村町の高台の窪地で江戸時代五千石の旗本山崎主税助治正の屋敷があったところである(小沢信男、冨田均「東京の池」)。goo地図の江戸切絵図を見ると、池は示されていないが、山崎主税助の屋敷がある。

復刻版「戦前昭和東京散歩」(人文社)では、かなり大きく示されており、現在よりも相当広かったと思われる。この戦前の地図を見ると、蟇(がま)池には橋があり、周囲には道が一周し、階段も見え、散歩に適していたようにも思えるがどうだったのであろうか。また、近くの麻布中學との間に小さな池がある。この一帯には他にも湧水があったのであろう。

がま池は中沢新一「アースダイバー」で知った。「その都心部に涌き出してくる温泉や湧水池などは、そういう大地が空中に向かって吐息を吐く、大事な呼吸口なのだ。」と中沢はいう。確かに呼吸口は大切である。

麻布山善福寺に至る道の途中にある柳の井戸も紹介されている。

左は1月に撮った写真である。水が溜まっているのでわずかにでも湧き出るのであろう。

正面の説明板には、大正12年(1923)の関東大震災や昭和20年(1945)の空襲による大火災のとき、この良質な水が多くの人の困苦を救ったとある。

本書は飲み水の基本は自然水であるとし、自然水を新鮮な順から並べると、雨水、湧水、地下水、地上水(河川水)、池水(湖沼水)。自然水の選び方は、流れている水、空中水とするが、要するに、流れ落ちる水である。

水汲みの人気スポットであるところはその旨紹介されているが、いずれも郊外である。いつか出かけて、子供の頃ごくりと飲んだ冷たい清水でのどを潤してみたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村弘毅「東京湧水せせらぎ散歩」

2010年03月10日 | 読書

東京の『湧水』のガイド本である。
善福寺川の湧水は、この「東京湧水せせらぎ散歩」(丸善)と、廣田稔明「東京の自然水124」(けやき出版)で知った。いずれも写真主体であるため眺めるだけでも楽しめる。湧水の位置もわかりやすく紹介されている。

 「東京湧水せせらぎ散歩」には、国分寺崖線の湧水がお鷹の道・真姿の池から等々力渓谷まで19カ所紹介されている。

武蔵野台地で多摩川により形成された河岸段丘の低位面を立川段丘・立川面、高位面を武蔵野段丘・武蔵野面とよび、立川面と武蔵野面とを分けるのが国分寺崖線(こくぶんじがいせん)である。これを武蔵野の方言で「ハケ」とか「ママ」などとよぶ。(Wikipedia)

1月の世田谷の坂巡りと関連するが、国分寺崖線の湧水の19カ所の内、成城三丁目緑地は世田谷通りを砧小の方からきて砧中学で右折して上った病院坂付近の緑地で崖からの湧水があり、大蔵三丁目公園は千川に沿った歩道わきにあった公園である。

世田谷区国分寺崖線発見マップを見ると、国分寺崖線のおおよその位置がわかり、世田谷の多摩川に近い坂はほとんど国分寺崖線にあるものと思われる。昨年12月の坂巡りと上記の1月とをあわせて国分寺崖線に沿って歩いたことになる。なるほど長いはずである。改めて地図をみると、喜多見の不動坂から先にも行ってみたくなってしまう。

本書によれば、東京の湧水は700を越えるが、その数字も湧水量も年々減少傾向にあるという。緑地面積と樹木の増加による雨水の保水および雨水の浸透による水源涵養の必要性が強調されている。

ところで、わざわざ善福寺川の湧水を見に行ったようにわたし自身がなぜ湧水にこだわるのか考えていたら、むかしの記憶が突然よみがえった。わたしは山と川の田舎で生まれ育ったが、子供のころ山などで遊んでのどが渇いたとき、よく湧水(清水とよんでいた)でうるおした。このような経験は誰にでもあると思う。そのような清水をいまでも二カ所思い出すことができる。斜面や崖にあった。冷たい清水をごくりと飲んで渇きをいやしたおさないころの記憶が湧水へと本能的に向かわせるのかもしれない。そうだとしたら何十年後にも影響を及ぼす水の記憶とはげにおそろしいものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中村みつを「お江戸超低山さんぽ」

2010年03月09日 | 読書

東京の『山』というと、最高峰雲取山や高尾山や奥多摩の山を思い浮かべてしまうが、「お江戸超低山さんぽ」(書肆侃侃房)が紹介するのは、そういった山ではなく、東京23区内の山である。「超低山」のタイトルがおかしく、これにひかれて思わず買ってしまった。著者はイラストレーターで、山の案内図がよいため登ってみたくなる。

十一峰が紹介されているが、最高峰は戸山公園にある箱根山である。標高44.6m。最低山は品川富士で標高約6m。ただし、登り口の標高との関係で実感的高さは単純に標高に比例しないかもしれない。

西郷山は、目黒の西郷山公園で、西郷隆盛の弟で海軍大臣も務めた西郷従道の別邸があったことに由来する。従道は兄を招くためこの地を得て庭園と邸宅を構えたとのことだが、隆盛は西南戦争で敗れ訪れることはなかった。旧山手通り方面から行けば、登るようなピークはなくほぼ平坦であるが、目黒川方面から行けば、坂道でなく「山道」を登らなければならず、なるほど山である。なお、坂は上るでよいが、山はやはり登るである。ここは西側の眺望がよい。夕焼けを見てみたいところである。

道灌山近くの富士見坂もあるが、ここも日暮里駅から諏訪台通りを通って行けば、そのまま坂上に至るので、山という感じはしない。したがって、坂下からか、西日暮里駅から行かないと山の実感はない。この坂でいつかのんびり遠方を眺めていたら、突然車が坂を上ってきたのにはびっくりした。ここは車道である。坂上からさらに進み諏方神社に入ると、右手に展望のよいところがある。東側の眺望がよく、眼下に山手線などの電車が通る。ここから西日暮里駅方面に下る坂が地蔵坂(階段)である。近くの浄光寺の地蔵尊から名がついた。

千駄ヶ谷富士と品川富士はいわゆる富士塚である。江戸時代に富士山信仰がさかんになり、富士講をつくって富士山に登ったが、登れない人のためにつくられたのが人造富士、富士塚である。本書によると、都内に残っている50ほどの富士塚の内、千駄ヶ谷富士が最も富士の姿をとどめているとのこと。千駄ヶ谷の将棋会館近くの鳩森八幡神社内にある。坂巡りの途中立ち寄り登った記憶がある。品川富士は第1京浜そばの品川神社にある。かつて北品川を訪れたとき御殿山方面に進みここには行けなかった。

紹介の中で知らない山があった。池田山(標高29m)。東五反田五丁目にあり、備前岡山藩主池田家の下屋敷の一部が池田山公園となったとのこと。超低山といえども、山であるから、登山口から登りに行きたい。いきなり頂上では興ざめである。アプローチの仕方が問題のようである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松本泰生「東京の階段」

2010年03月08日 | 読書

東京のガイド本はたくさんでているが、地域ごとに名所・名跡などを網羅的に案内するものが伝統的に多いようである。他方、特定の分野にこだわったガイド本もあり、なかなかユニークなものも多い。このような中で知っているものを私的体験を交えて紹介する。

まず、『坂』に関しては、山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)が
以前の記事のように坂巡りの必携本である。

『階段』という意外な分野があることを、松本泰生「東京の階段」(日本文芸社)で知った。副題が、都市の「異空間」の楽しみ方、となっている。

階段は、坂の親戚、変形バージョンみたいなものであるが、この本を書店で見たとき、その発想がおもしろいと思った。階段でこれだけまとめたものはこれしかないような気がする。

坂が階段になっているものも多い。この本は写真がカラーで大きいので、めくりながら、かつて訪ねた坂名のついた階段を思い出した。

飯倉の雁木坂、我善坊谷の三念坂(三年坂)、赤坂の丹後坂、市谷柳町の宝竜寺坂、抜弁天近くの梯子坂、西片の曙坂、茗荷谷の庚申坂、関口の胸突坂、目白台の日無坂、西日暮里の地蔵坂、湯島の実盛坂、関口台の七丁目坂、市谷仲之町の念仏坂、音羽の鼠坂、本郷の炭団坂、田端の不動坂、目黒の別所坂(最上部のみ階段)、谷中銀座の夕やけだんだん、市谷の浄瑠璃坂近くの芥坂など。いずれもよい坂である。

小日向の八幡坂、目白台の小布施坂、牛込神楽坂の袖摺坂、本郷一丁目の新坂などがないようで、坂好みからするとちょっと残念であるが、坂名の有無に関わらず魅力ある階段を多く紹介する目的から仕方がないのであろう。

名のない階段の内で、市谷柳町の試衛館跡の階段、念仏坂の反対側の市谷台町から下る階段、本郷の菊坂わきの階段、荒木町の階段などを坂巡りの途中で通って覚えているものの、知らないところがほとんどである。

坂の中でわたしの体験上こころひかれるのは、車が通らないような狭く細い坂で、むかしながらの雰囲気をわずかにでも残したところである。高輪の洞坂、偏奇館跡近くの道源寺坂・我善坊谷坂、狸穴の鼠坂、小日向の鷺坂などである。上記の坂名のある階段もこれと同じ特徴があるものが多く、同じようにこころひかれる。行ったことのない階段にもそのような雰囲気のあるところが多いに違いない。本書の写真の効果であろうか、興味をそそられて訪れてみたい名のない階段が多く、これから街歩きの楽しみの一つになりそうな予感がする。

なくなった階段として荷風の偏奇館跡そばの階段が紹介されているが、これが
消失前の偏奇館跡を知らない者にとってはもっともよかった。三枚の写真が載っているが、階段が古びていて寂れた感じでむかしの雰囲気がよくあらわれた貴重なものである。この写真の風景を見ていると、消失の事実を知ったときの以前の感情がふたたび湧いてくるようである。

ところで、この階段と消失前の偏奇館跡との位置関係がよくわからない。筆者の松本氏が管理する
Site Y.M.建築・都市徘徊に同じ写真とともに六本木1丁目地区の鳥瞰CGがのっているが、これによれば、階段は全体としてほぼ北向きに上下し、この階段の少し南に偏奇館跡があったとある。しかし、どの辺から下る階段なのか、いつ頃できたのか不明である。手持ちの資料だけではわからなかった。いずれまた調べてみたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青山士

2010年02月12日 | 読書

岩淵水門の記事にでてきた荒川放水路完成記念碑の碑文が印象に残っていたので青山士(あきら)に関する資料を探したら次の本とサイトがあった。

 高崎哲郎「〈評伝〉技師 青山士 その精神の軌跡」(鹿島出版会)
 
土木学会図書館青山士アーカイブス

高崎の本により青山の前半生を簡単にたどってみる。
「青山士は明治11年(1878)9月23日、静岡県豊田郡中泉村に、青山徹・ふじ夫妻の三男として生まれた。中泉村は明治29年磐田郡に編入され、昭和15年(1940)見付町と合併し、現在は磐田市中泉である。」

生家は静岡県の旧家で、祖父の宙平の代で分家したが、分家した青山家が宙平の才覚で産をなしたようである。六人兄弟で、兄二人、姉、弟二人の4番目である。「長男、次男が養子となり、名目上の跡継ぎとなる。東京帝国大学工学部卒。内村鑑三の無教会主義クリスチャン。昭和38年(1963)3月21日死亡。享年84。」

明治29年(1898)東京府立尋常中学(のちの府立一中、現日比谷高校)を卒業し、一浪の後、第一高等学校に入学し、寮の同室に浅野猶三郎がいた。浅野は、内村鑑三の跡を歩んで後年無教会主義伝道師となるが、青山の人生行路を決定づけたとある。

「明治維新以降、キリスト教、中でもプロテスタント系のそれほど青年知識層に大きな影響を与えた宗教はない。これは昭和期のマルクス主義思想の影響に匹敵すると言っても過言ではない。文明開化の高揚の中で、キリスト教の世界に接近し、そこで「神」や宣教師と教会の世界に触れることにより、西洋に直接行ってみることのできない、つまり洋行のできない多くの青年たちも、近代文明や近代市民社会がどんなものであるかを感得した。信仰よりも西洋文明が青年たちをキリスト教に近づけさせたとも言える。」

「内村鑑三は札幌農学校第二期主席卒業生で、在学中にアメリカ人宣教師メリマン・C・ハリスから洗礼を受けクリスチャンとなった。」「内村の札幌農学校入学は明治10年(1877)9月であり、翌年青山が生まれた。」内村の同期には新渡戸稲造や廣井勇(いさみ)らがいて、廣井は青山の大学時代の恩師となる。

高崎は、内村鑑三が明治27年7月にキリスト教徒第六夏期学校で講演した「後生への最大遺物」(明治30年発行)が青山を内村の門に向かわせたことは間違いない、としている。この本は岩波文庫「後生への最大遺物 デンマルク国の話」で読むことができる。

「後生への最大遺物」で内村は、人間が後世に遺すことのできる遺物は勇ましい高尚なる生涯であるとし、勇ましい高尚なる生涯とは、この世の中は悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずること、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去ることである。

どうやら、これが内村の信仰の内実のようである。神は絶対的なものとしてつねにあり、これを信じることは神が支配する理想の世の中を信じることにつながる。内村の絶対的な神を前提とする理想論こそ青山を引きつけたものではないだろうか。この本で内村は箱根用水などの土木事業についてかなり言及しており、高崎によれば、同書が土木技師青山を生み出した。

内村は明治33年(1900)10月「聖書之研究」を発刊し、青山は東京帝大土木工学科入学後、この定期購読者になると同時に毎週日曜日午前10時から新宿角筈のクヌギ林の中の内村邸での「聖書講読会」に欠かさず出席した。このグループには小山内薫、大賀一郎(ハスの研究者)、浅野猶三郎らがいた。

「聖書之研究」第25号74頁にある青山の次の「感想録」(祈文)が紹介されている。

「在さざる時なく、亦所なく、万事を知り、為し能わざることなき愛なる父の神よ、私は実に汚れに穢れたるものでありまして、此の感想録を書くに当りましても尚お飾って書かんとしたものであります。又感じたこと以上のことを書いたかも知れません。どうぞ願わくはこれ等多くの罪より私を洗い潔め給え、又どうぞ我等に汝の真理を伝うる貴き器となりし諸先生方及び諸兄姉方を祝し給いて益々裕かに彼等の上にあなたの聖霊と恩寵とを下し給わんことを、又私は爾(あなた)の真理の説明者たるのみならず、爾の御業の真の証明者たるべきことを感じ、又爾に倚る喜びを感ずるものであります。どうぞ此の感を取去ることなく如何なる悪魔の剣も之を切り去ることなき様御守りあらんことを、又此の賤しきものをも爾の器となし給いて爾の為め、我国の為め、我村の為め、我家の為めに御使い給わんことを、又私は信仰弱きものであります。故に或は悪魔の誘いの為めに、あなた、あなたの御子及び師又は兄弟を売るに至らんことを恐るるものであります。・・・」

「聖書之研究」同号にある、青山の「感想録」に対する内村の「註」も紹介されている。

「斯かる祈を捧げ得る人が工学士となりて世に出る時に天下の工事は安然(ママ)なるものとなるべく、亦其の間に収賄の弊は迹(あと)を絶たれ、蒸汽(ママ)も電気も真理と人類との用を為すに至て、単に財産を作るの用具たらざるに至らん、基督教は工学の進歩改良にも最も必要なり」

青山は絶対なる神を前にして一見弱々しく自らの罪と信仰弱きことの許しを請うているが、これが内村の好みにあったのだろうか、土木工学を目指す青山を、単に財産を作るためでなく真理と人類のために、と励ましている。さらに、工学の進歩は真理と人類のためにこそあるべきことを示唆している。こういった理想論は、キリスト教を背景にしてもしなくとも、若い者を魅了するものである。理想論を信じるにたる明治という時代背景の下でしか成り立ち得なかったものとしても。

かくして真理と人類のためという大きな理想を持つに至った青山は、パナマ運河開削工事に参加すべく、明治36年(1903)8月11日、単身で横浜港から発つ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島崎藤村「飯倉附近」

2010年02月06日 | 読書

「大東京繁昌記・山手篇」の一篇で、植木坂の記事のときにでてきたので、平凡社ライブラリーのもので読んでみた。底本が東京日々新聞社編『大東京繁昌記・山手篇』初版(昭和3年(1928)12月、春秋社)。

飯倉町とは、江戸時代から明治初年までの飯倉10か町の総称(本間信治「江戸東京地名事典」)。10か町とは、飯倉一~六丁目、飯倉永坂町、飯倉狸穴町、飯倉片町、飯倉六本木町。現在の麻布台1~3丁目、麻布永坂町、麻布狸穴町、六本木5丁目の辺りであろう。

島崎藤村は、大正7年(1918)10月に西久保桜川町(現虎ノ門一丁目)から飯倉片町33番地に移っているので、移転から数年以上たってから書いたものであろうか。前の記事にもあったが、自宅近くのことを次のように書いている。

「南に浅い谷の町をへだてゝ狸穴坂の側面を望む。私達の今住むところは、こんな丘の地勢に倚って、飯倉片町の電車通りから植木坂を下りきった位置にある。どうかすると梟(ふくろう)の啼声なぞが、この町中で聞える。私の家のものはさみしがって、あれは狸穴の坂の方で啼くのだろうか、それとも徳川さんの屋敷跡の方で啼くのだろうか、と話し合った。東京の人の言草に「麻布のキが知れない」ということがある。それは何の意味ともよく分らないが、すくなくも下町の方に住む人達の中には今だに藪だらけの高台のように麻布の奥を考えているものもあるらしい。そういう人達ですら、梟の話ばかりは信じまいかと思う。もしこの地勢について幾つかの横町を折れ曲って行って見ると、あるところは一廓を成した新しい住宅地のごとく、あるところは坂の上下にある村のごとく、鶏の声さえ谷のあちこちに聞えるようなのが、この界隈の一面である。野鳥のおとずれさえこゝではそうめずらしくない。」

「鼠坂は、私達の家の前あたりから更に森元町の方へ谷を降りて行こうとするところにある細い坂だ。植木坂と鼠坂とは狸穴坂に並行した一つの坂の連続と見ていゝ。たゞ狸穴坂の方はなだらかに長く延びて行っている傾斜の地勢にあるにひきかえ、こちらは二段になった坂であるだけ、勾配も急で、雨でも降ると道の砂利を流す。こんな鼠坂であるが、春先の道に椿の花の落ちているような風情がないでもない。この界隈で、真先に春の来ることを告げ顔なのも、毎年そこの路傍に蕾を支度する椿の枝である。」

飯倉はふくろうの啼き声が聞こえる地であったようである。新しい住宅地や鶏の声が聞こえる坂の上下にある村のようなところもあり、野鳥のおとずれもあったらしい。住宅地も増えていた頃だったかもしれないが、未だ牧歌的な雰囲気が残っていたようである。

永井荷風が住んでいた偏奇館は飯倉から近く、「断腸亭日乗」大正9年11月29日に「近巷岨崖の雑草霜に染みたるあり。既に枯れたるあり。竹藪には鳥瓜あまた下りたり。時に午鶏の鳴くを聞く。景物苑然として村園に異ならず。」とあるように、ここでも鶏の鳴声が聞こえたようである。

徳川さんの屋敷跡とは、電車通りを挟んだ飯倉町六丁目にあった徳川邸の跡であろう。飯倉附近で最も広い邸宅で、震災後、逓信省(旧郵政省)に売渡したとあるので、現在、麻布郵便局のある辺りと思われる。

飯倉片町の電車通りから下った植木坂から鼠坂までの間は平坦で、全体として二段であるだけに、勾配が急だといっているが、いまもそのようである。藤村は、鼠坂を下りて森元町(現東麻布二丁目)にでかけ、そこには贔屓にした焼芋屋や泥鰌屋や床屋があり、知った顔に逢え気の置けないところが好きだったようである。下町の親和性が藤村を引きつけたのであろう。

荷風は、大正12年11月頃から南葵文庫というところを頻繁に利用しているが、飯倉の徳川邸の中の一角にあったことを今回、始めて知った。南葵文庫は、「図書総数十万余、主として日本歴史、日本地理、国文学などに関する図書が多かった」とあり、荷風は、武鑑などを閲覧しているが、当時執筆中の下谷のはなし(後の「下谷叢話」)のためだったと思われる。

「私は目黒のI君から書いてよこして呉れた我善坊のことで、この稿を終るとしよう。我善坊は正宗白鳥君の旧居のあったところであり、この界隈での私の好きな町の一つでもある。I君から貰った手紙の中には、次のように言ってある。」
「我善坊町は、実に静かな落ち着きのある谷底の町です。此処は昔は与力屋敷であって、其の当時は盗賊や罪人を追跡するには、此の町へ追い込むようにしたものであると言います。我善坊へ追込みさえすれば、地勢上捕縛するに便利であるし、与力屋敷のことゝで其処には与力達が待ち構えているし、大抵の犯罪者は難なく逮捕されたものであると言います。これも昔から我善坊に住んでいる古老の話を其のまゝ茲に御伝えいたします」。

我善坊町は、藤村も好きな町とあり、当時から静かで落ち着いたところだったようである。最近も歩いてきたが、いまも、かすかにその雰囲気が残っているようにも感じられる。いつまで残るのであろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする