東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

荷風と写真(7)

2020年04月19日 | 荷風

荷風は、前回の記事のような「奇事」の写真撮影ばかりでなく、もとのように風景も撮影している。

昭和12年(1937)
「二月十八日。春風嫋々たり。近巷の園梅雪の如し。午後写真機を提げ小石川白山に赴き、肴町蓮久寺に亡友唖唖子の墓を帚ひ、団子坂上に出で鷗外先生の旧邸を撮影す。阪を下り谷中墓地に至り、五重塔のほとりに上田敏先生の墓を拝し、また鷲津家の墓に詣で、瑞輪寺に行きて枕山大沼先生の墓に香花を供ふ。市営バスに乗り上野に出で、それより銀座に飰して家に帰る。」

この日(2月18日)、春風がそよそよと吹いた。近隣の園の梅が雪のようである。午後写真機を持ち小石川白山に行き、肴町の蓮久寺に亡友井上唖唖子の墓を掃い、団子坂上に出で鷗外先生の旧邸を撮影した。坂を下り谷中墓地に至り、五重塔のほとりに上田敏先生の墓を拝し、鷲津家の墓に詣で、瑞輪寺に行き大沼枕山先生の墓に香花を供えた。市営バスに乗り上野に出で、それより銀座で夕食をとり家に帰った。

この日は、団子坂上の鷗外旧邸などを撮影したが、その散歩コースが興味深い。

白山上の蓮久寺(井上唖唖子の墓)→団子坂上(鷗外旧邸)→谷中墓地(五重塔近くの上田敏の墓→鷲津家の墓)→瑞輪寺(大沼枕山の墓

白山上から大観音通り団子坂三崎坂経由で谷中墓地までほぼ一本道である。荷風の散歩コースのうち、親友や尊敬する人々の旧邸や墓を集中して訪ねることができる点で特筆すべきコースである。鷗外だけは墓がこの辺にないので、旧邸訪問であった。

(鷗外の墓は向島の弘福寺から三鷹の禅林寺に移転していたが、禅林寺には昭和18年10月に行っている(以前の記事))。

「二月十九日。隂晴定りなし。朝十時頃起出で、自ら朝飯の仕度する中早くも午となる。二時過ぎ家を出づ。谷町より溜池あたりの道路には小学校の生徒整列して麻布聯隊満州よりの帰陣を歓迎せむとす。幸にして電車は運転せり。銀座より浅草公園を散歩し、燈刻家にかへる。笄阜子の書に接す。写真焼附の後金水の小説廊の花笠をよむ。暁三時初て眠るを得たり。」

次の日、朝10時頃起きて自分で朝飯の仕度をしていると早くも昼となった。2時過ぎに家を出た。谷町から溜池あたりの道路には小学生が整列して麻布連隊の満州からの帰陣を歓迎しようとしていた。幸いにして電車は運転していた。銀座から浅草公園を散歩し、夕方に家に帰った。笄阜子の書をながめた。写真の焼き付け後に金水の小説「廊の花笠」を読んだ。明け方3時なってようやく眠りについた。

10時頃に起き、自炊で朝飯をとり、2時過に外出し銀座、浅草を巡って帰宅した。荷風の気ままな生活ぶりがわかる。谷町から溜池かけて小学生が整列し満州から帰ってきた麻布連隊の歓迎準備をしていたが、電車が動いていたことに安堵した。荷風はこの頃、ちょっと不眠症気味であったようである。

「二月廿一日日曜日 快晴の空雲翳なし。午後笄町長谷寺の墓地を歩む。門内は本堂建て直しの最中なり。古き渋塗の門に普陀山の額あり。大正三四年のころ写真うつしに来りし時見しところに異ならず。旧観喜ぶべし。墓地には徃年の如く松杉鬱然、昼猶暗く、鴉のなく声深山に在るが如き思あらしむ。・・・」 長谷寺門前

この日(2月21日)、快晴で、笄町の長谷寺の墓地を歩いたが、古い渋塗の門に掲げてあった普陀山の額を見て、大正三四年のころ写真撮影に来たときと同じであることに喜んでいる。

左の写真は、10年ほど前に撮った長谷寺(港区西麻布二丁目)の門前である。

「三月十九日。晴れたる空には雲の影もなけれど風猶冷にして彼岸に入りし心地もせず。朝の中庭を掃き、昼過より写真機を提げて葛西町を歩み、濹東を過ぎて銀座にに夕餉を食す。燈下東関紀行続々紀行文集をよむ。」

「三月廿一日日曜日 快晴。春風嫋々たり。正午起床。写真機を提げて墨陀の木母寺に至り鵬斎が観花碑をうつす。堀切橋をわたり放水路に沿ひ歩みて四木に至り、玉の井を過ぎて浅草より銀座に出で、夕餉を食す。不二店地下室を窺見しがいつもの諸子も在らざれば物買ひて家にかえる。」

鵬斎観花碑 3月19日は、晴れた空に雲の影もないが風が冷たかった。昼過ぎから写真機を持ち葛西町を歩み、濹東を過ぎて銀座に行き、夕食をとった。

続いて、21日は、快晴で春風がそよそよと吹いた。正午に起床し、写真機を持ち、濹東の木母寺に至り亀田鵬斎の観花碑を写した。堀切橋をわたり放水路に沿って歩いて四木に至り、玉の井を過ぎて浅草から銀座に行き、夕食をとった。

左の写真は、8年ほど前に木母寺で荷風が鵬斎の観花碑という題墨田堤桜花の詩碑を撮ったものである。

「四月廿四日。快晴。写真焼付に半日を費す。丸善より冬の蠅代金十四円を送り来る。日高笄阜君書を寄す。燈刻自炊の夕餉を食して後銀座富士地下室に徃く。千香女史安東酒泉の諸子に会ふ。杏花子廿六日招飲の電話あり。」

「四月廿五日日曜日。細雨烟の如く新緑更にこまやかなり。午前写真製作。午後二階の几案を下座敷に移す。大正九年この家に来りし当初には二階を書斎となせしが、・・・」

4月24日、25日には、写真焼付に半日を費す、午前写真製作と記している。

荷風は、2月3日、28日にW生・美代子の夫婦と奇事の写真撮影をし(前回の記事)、所謂ポルノ写真の撮影をしていたわけであるが、その一方、いつものように散歩に出かけ、団子坂や葛西町や濹東の木母寺に行き、鷗外旧邸や観花碑の写真を撮っている。どちらも好みで、日常の一部として自然なことのようにしていると感じられる。

参考文献 「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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荷風と写真(6)

2019年07月15日 | 荷風

前回の記事のように、二台目の新しいカメラを手に入れた荷風は、次の日から使い始めている。

昭和12年(1937)
「二月二日。隂。晏起午に近し。晩間空晴る。銀座に飰して後玉の井伊藤方を訪ふ。昨夜購ひたるカメラの撮影を試む。」

この日(2月2日)、曇り、遅く起きると昼近かった。夕方空が晴れた。銀座で夕食をとった後玉の井の伊藤方を訪れ、昨夜購ったカメラの撮影を試みた。

購入した次の日、早速、新しいカメラで試写しているが、夕食後の暗くなってからである。夜間撮影や室内撮影といった暗いところでの撮影で、荷風の意図がわかってくる。

「二月三日。快晴の天気立春の近きを知らしむ。午後銀座に徃き食料品を購ひて帰る。霊南坂を登るに坂上の空地より晩霞の間に富士の山影を望む。余麻布に卜居してより二十年未曾て富士を望み得ることを知らざりき。家に至るに名塩君来りカメラ撮影の方法を教へらる。夜八時W生其情婦を携来る。奇事百出。筆にすること能はざるを惜しむ。此日より当分自炊をなす事とす。一昨日下女去りて後新しきものを雇入るゝには新聞の募集の広告をなすなど煩累に堪へざるを以てなり。W生帰りて後台処の女中部屋を掃除し、夜具敷きのべて臥す。畳の上に寐るも久振りなれば何ともなく旅に出でたるが如き心地なり。」

この日(2月3日)、快晴で立春が近いことを知らせる天気である。午後銀座に行き食料品を買って帰った。霊南坂を登ると坂上の空地より夕焼けの間に富士の山影が望まれた。余は麻布に居を構えてから二十年未これまで富士山を望み得ることを知らなかった。家に帰ると名塩君が来てカメラ撮影の方法を教えてくれた。夜八時W生がその情婦を連れて来た。奇事が百出したが、筆にすることが残念ながらできない。この日より当分自炊をなす事とした。一昨日下女が辞めた後新しい人を雇い入れることには新聞の募集の広告を出すなど煩わしさに堪えられないためである。W生が帰った後台所の女中部屋を掃除し、夜具を敷いて臥した。畳の上に寝るのは久振りなので何となく旅に出たような心地である。

続いてその次の日、夜八時W生とその情婦が来て奇事百出となったが、筆にすること能はざるを惜しむなどと記すのみで、それが何であるか、不明である。

この日の、新しいカメラを斡旋した名塩によるカメラ撮影方法の説明、下女が辞めたことなどは、奇事百出に関連している。帰宅のとき霊南坂上から夕焼けの間に富士の山影が見えたが麻布に住んでから20年以上も経つのに知らなかった、畳の上で寝るのは久しぶりであるなどと記し記述量が増えていることは、なんとなくそれを期待した気分の高まりをあらわすかのようである。

上記の「奇事百出」とはなにかにつき、このちょっと後の2月28日の日乗に次の記述がある。

「二月廿八日。空よく晴れしが風寒し。沈丁花さき初めたり。晡下美代子来る。倶に銀座に行き不二店に茶を喫す。美代子は五時頃富士見町のもみぢといふ待合に客と逢引の約束あればそれをすませ八時頃再びわが家に来るべしとて電車に乗る。余はフイルムを購ひ家にかへり夕飯の仕度をなす程に美代子の情夫W生まづ来たり、ついで美代子来る。写真撮影例のごとし日曜日

この日(2月28日)、フィルムを購入し家に帰り、夕飯の仕度をすると、W生、美代子の夫婦がやってきて、いつもの写真撮影をしたとあるので、2月3日も写真撮影をしたことは確実である。

どんな撮影なのか、秋庭は、偏奇館内においていかなる写真撮影がなされたかは想像に難くない、としているが、要するに、二人の痴態を撮影したのである(川本)。

「偏奇館閨中写影」カバー 世の中にはもっと想像力を逞しくする人がいるようで、たとえば、亀山巌は、その著「偏奇館閨中写影」で、荷風は撮影するだけでなく自らも被写体となって渡辺の亭主(W生)にカメラを持たせたことが想像できるとしている。

W生と美代子について前々年(1935)4月5日の日乗に次の記述があるが、こんなことがその想像の元になっているのかもしれない。

昭和十年(1935)
「四月五日。烈風大雨晡下に至りて霽る。美代子と逢ふべき日なればその刻限に烏森の満佐子屋に徃きて待つほどもなく美津[代]子は其の同棲せる情夫を伴ひて来れり。会社員とも見ゆる小男なり。美津子この男と余とを左右に寐かし五体綿の如くなるまで婬楽に耽らんといふなり。七時頃より九時過ぎまで遊び千疋屋に茶を喫して別れたり。空よく晴れたれど風再び寒し。市兵衛町宮様塀外の桜満開となる。但し昨来の風雨に花の色全く褪せたり。」

W生は、この頃の日乗に渡辺生などとしてもよく登場し、二人で食事をしたり、玉の井に出かけたりしてよく付き合っていた。人を選り好みする荷風が気に入ったことは、私家版「濹東綺譚」を贈呈していることからもわかる(昭和12年10月18日)。一体何者なのか、秋庭は、この夫婦の正体は不明であったとしているが、亀山は、名古屋で古本屋を開いていたが自演自作の艶技写真を密売した廉で捕まってから東京に出てきた者と推理している。これが事実とすれば、「奇事あり」の写真撮影にはW生の経験による提案や助言があったといえそうである。荷風がよく付き合った所以かもしれない。

「二月六日。春隂風静なり。眠よりさむれば日は午なり。晡下浅草散歩。雨に値ふ。地下鉄道にて銀座に至れば道路乾きたるまゝにて雨ふりし様子もなし。不二あいすに夕飯を喫してかへる。写真現像夜半に至る。」

「二月九日。晴れてさむし。困臥日暮に至る。夜銀座さくら屋に徃く。入谷の竹下氏病既に痊えて来るに逢ふ。空庵歌川子と梅輪に一茶してかへる。写真焼付暁四時に及ぶ。」

2月6日に写真現像、続いて、9日に写真焼付けを夜遅くまでやっている。写真焼付は初めて出てきたが、もちろん、奇事の撮影分である。

「私家版「濹東綺譚」の寫眞機」カバー 荷風は、新しいカメラでそんな写真撮影を続けて行っているが、これでは、自家現像・焼付しかできなかったはずである。自家現像は、現像店が当時なかったからと思ったが(以前の記事)、佐々木桔梗の著書によれば戦前にDP店(現像店)があったようである。同時代を生きた人の証言なので、そうなのであろう。ただ、荷風が自家現像・焼付をしたのは、そんな人目をはばかるような写真であったからばかりでなく、現像・焼付に慣れていたからと思われる。亀山も当時カメラを趣味とする人は誰でもやったこととしている。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)
秋庭太郎「永井荷風傳」(春陽堂書店)
川本三郎「荷風と東京『断腸亭日乗』私註」(都市出版)
佐々木桔梗「私家版「濹東綺譚」の寫眞機」(プレス・ビブリオマーヌ)
亀山巌「偏奇館閨中写影」(有光書房)

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荷風と写真(5)

2019年06月27日 | 荷風

荷風は、昭和12年(1937)2月、前年10月に購入したばかりなのに新しいカメラを購入した。

「二月一日。隂。午後丸の内に用事あり。又空庵子を築地に訪ふ。名塩君周旋のカメラを購ふ参百拾円也 晡下玉の井に徃き一部伊藤方を訪ふ。帰途雨雪こもごも至る。  [欄外朱書き]旧十二月廿日」

秋庭太郎 考証永井荷風(下)カバー 秋庭太郎 考証永井荷風(下)カバー この日(2月1日)、荷風は、名塩の斡旋により、カメラを購入した。丸の内の用事とは、この代金を銀行から引き出すことであったのかもしれない。名塩とは、非売品の私家版「濹東綺譚」の印刷所である京屋印刷の主人名塩武富である。

このカメラは、前年10月に購入したローライコードよりも高級機のローライフレックスであった(以前の記事)。価格は前回の三倍の310円であった。現在の貨幣価値に換算すると、約80万円程度で、かなりの高額であるが、いまでもライカなどにはこの程度に高価な機種がある。

秋庭は、ローライコードを買って間もないのに、新しく高級機を購入したのは、前回のカメラでは室内や夜間撮影が能くし得なかったからであるとしている。前回の記事のように、この年(1937)1月荷風自らが写真の現像をはじめているが、前年12月5日の吉原仲之町の夜間撮影や12月26日の芸姑の室内撮影などの現像結果がおもわしくなかったのであろうか。

「濹東綺譚の汽車・煙草・本」 佐々木桔梗は、「私家版「濹東綺譚」の寫眞機」で、前回の記事にある、1月21日の日乗の「玉の井に遊ぶ。奇事あり。」、帰宅後の「写真を現像して暁二時に至る。」の記述から、室内で「奇事あり」の撮影をし、その写真を現像したが露出不足かピンボケなどでよくない結果であったと推量し、一台目のローライコードの性能に見切りをつけ、その後、すぐ、「キュウペル」あたりの常連に相談し、明るいレンズの二台目のカメラを入手したとしている。

ところで、荷風が相次いで入手した二台のカメラの機種について日乗には記述がないが、前述のとおりであることは秋庭太郎「考証 荷風荷風(下)」による。しかし、それ以上の具体的説明はない。これについては上記佐々木桔梗の著書が詳しい。

同著によれば、当時ローライコードと名のつくものは四種類、ローライフレックスは細分すると計七種類あって、単にローライコード、ローライフレックスでは意味をなさないとし、当時のカメラ店カタログに記載の価格と荷風の購入額との比較などから荷風の購入した具体的機種を次のように推定している。

一台目が「ローライコード」I型(通称金ピカ)ツアイス・トリオターF4.5(75ミリ)新コンパー付で程度のよい中古品。

二台目が「ローライフレックス」スタンダード型カールツアイス・テッサーF3.5(75ミリ)新ラピッドコンパー付で新品同様の中古品。

二台目は、他にF3.8やF4.5のものもあったが、もっとも明るいレンズの付いた機種を選んだはずとしている。当時荷風は室内撮影を目論んでいたことを考えると、妥当な見方である。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)
川本三郎「荷風と東京『断腸亭日乗』私註」(都市出版)
佐々木桔梗「私家版「濹東綺譚」の寫眞機」(プレス・ビブリオマーヌ)

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荷風と写真(4)

2019年05月25日 | 荷風

最新の写真機を手に入れた荷風は、昭和11年(1936)11月(荷風と写真(2) 荷風と写真(3))に続いて12月~昭和12年1月にも撮影に出かけている。

「十二月初二。快晴。微風南より来り暖気五六月の如し。去月半ごろより暖気連日かくの如し。正午日高氏来訪。二時過写真機を携へて中洲より亀戸に至り更に白髯橋に出づ。日漸く没す。墨堤を歩むも河風寒からず外套の重きを覚ゆるほどなり。銀座食堂に夕餉を食してかへる。」

昭和地図(昭和16年) この日(12月2日)、快晴で、午後二時過に写真機を持って中洲より亀戸に至り、さらに白髯橋(左の昭和16年地図の左上端)に出ると、陽がようやく沈んだ。墨堤を歩いても河風が寒くなく、外套が重く感ずるほどである。銀座食堂で夕食をとって帰った。

「十二月初五。快晴。風なし。午後庭に出で落ち葉を焚く。夜銀座より吉原に徃き仲之町を撮影してかへる。」

この日(12月5日)、快晴で、風がなかった。午後庭に出で落ち葉を焚いた。夜銀座より吉原に行き仲之町を撮影して帰った。

「十二月七日。快晴。午後土州橋の病院に徃き、それより葛西橋に至る。写真撮影二三葉なり。境川停車場より五ノ橋通にて電車を降り、三ノ輪行のバスに乗りかへ、寺島町二丁目に至り、それより曳舟通の岸を歩む。寺島警察署あり。水を隔てゝ林亭演藝館といふ幟を出したる寄席あり。中村播磨蔵市川某などの幟も立てられたり。迂回したる小径を歩み行く中玉の井四部の裏に出でたり。自働車にて銀座に出で夕餉を食してかへる。」

この日(12月7日)、快晴で、午後土州橋の病院に行き、そこから葛西橋に至り、写真を二三枚撮影した。境川停車場で電車に乗り五ノ橋通で降り、三ノ輪行のバスに乗り換え、寺島町二丁目に至り、そこから曳舟通の岸を歩くと、寺島警察署があった。自動車で銀座に出て夕食をして帰った。

「十二月九日。晴渡りて風なし。年末に至り新聞記者出版商人等の来訪するもの多からむことを虞れ、昼飯を食して後直に写真機を携へ亀戸に至り、大嶋町羅漢寺前大通を歩み、薄暮銀座に出で、不二氷菓店に飰して早く家にかへる。」

昭和16年城東区部分図 この日(12月9日)、晴れ渡り、風がなかった。年末になり、新聞記者や出版商人等の来訪が多くなることをおそれ、昼飯を食べてすぐに写真機を持ち亀戸に至り、大島町羅漢寺前大通(左の昭和16年地図の羅漢通)を歩み、夕暮れに銀座に出て、不二アイスで食して早く家に帰った。

「十二月十日。今日も好く晴れて風なく暖気春のごとし。午前読書春水人情本午後写真機を携へ浅草公園に行く。観音堂すぐ後方噴水の前方に書家百瀬元耕の碑蜀山人撰文の石あるに心づきたり。文化十二年の日附なり。噴水の後方に桜癡居士福地先生の碑芳川顕正撰文あり。いづれも今日まで心づかざりしものなり。晡時土州橋病院に立寄り注射八回目銀座に飰して帰る。」

この日(12月10日)もよく晴れて風がなく暖さが春のようであった。午前読書(春水人情本)で、午後に写真機を持ち浅草公園に行った。夕方に土州橋病院に立寄り、銀座で食して帰った。

「十二月廿六日。隂後に晴。午後散歩。晩間烏森に飰す。藝妓閨中の艶姿を写真に取ること七八葉なり。」

この日(12月26日)、曇りのち晴。午後に散歩し、暮れてから烏森で食した。芸姑の閨中の艶めかしい姿を写真に七八枚撮った。

この日の日乗は、字数が少ないが、これまでの風景と違って、芸姑の艶姿を撮影したことを記している。荷風の撮影対象が風景ばかりでなかったことがわかる。

「十二月三十日。晴。東北の風強し。午後土州橋の病院に徃き注射をなし、乗合バスにて小名木川に抵る。漫歩中川大橋をわたり、其あたりの風景を写真にうつす。小名木川くさやと云ふ汽舩乗場に十七八の田舎娘髪を桃われに結ひ盛装して桟橋に立ち舩[ふね]の来るを待つ。思ふに浦安辺の漁家の娘の東京に出で工場に雇はれたるが、親の病気を見舞はむとするにやあらむ。然らずば大島町あたりの貧家の娘の近在に行きて酌婦とならむとするなるべし。五ノ橋の大通に至りて乗合バスを待つに、若き職工風の男その妻らしき女に子を負はせ、二人とも大なる風呂敷包を携へ三輪行の車の来るを待つ。凡てこのあたりの街上のさま銀座とは異なりて何ともつかず物哀れにて情味深し。燈刻尾張町に至りさくら家にて広瀬女史に逢ふ。宮崎萬本の二氏来りたれば共に鳥屋喜仙に登りて夕餉を食す。帰宅の後春水の三日月お専をよむ。切店の光景を描写したる一章最妙なり。」

昭和16年日本橋区部分図 「放水路」小名木川 この日(12月30日)、晴れで、東北の風が強かった。午後土州橋の病院に行き注射をし、乗合バスにて小名木川に至った。ぶらぶらと歩き中川大橋をわたり、そのあたりの風景を写真にうつした。

荷風のかかりつけの病院が土州橋(一枚目の昭和16年地図参照)の近くにあり、日乗によく登場するが、この日は、病院の後、バスで小名木川(左の地図に中洲の対岸に河口がある)に出て、そこから中川大橋(現代地図)をわたった。

昭和13年(1938)発行の小説随筆集「おもかげ」に所収の随筆『放水路』に何枚かの写真が載っているが、二枚目はその内の小名木川の写真である。この日に撮ったものか不明だが、そのように想像することも一興である。

昭和12年(1937)
「正月八日。晴。午後土州橋に徃く。注射既に一回を余すのみなりといふ。銀座不二氷菓店に飰して再び街上に出れば燈火忽燦然たり。喫茶店さくら屋にていつもの諸子に逢ふ。帰宅の後始めて写真現像を試む。」

年が明けて1月8日、晴れ。午後土州橋の病院に行き、銀座の不二アイスで食した。帰宅の後始めて写真現像を試みたとあるのが目新しい。これまでは写真撮影のことを記すのみで、その後の写真の現像のことなどはなんの記述もなかった。荷風自ら現像を行ったこと(自家現像)にちょっと驚いてしまう。

「一月十五日。晴れて暖なれば写真機を提げ午後小塚原より京水バスに乗りて西新井橋に到る。中千住より橋南に至る新道路既に開通せり。路傍に榎の古木二三株残りたり。橋畔の堤上には蜜柑、川魚、自転車用品、古着等売るものあり。塩鮭の頭と骨とを売るもあり。忽にして日は晡ならむとす。帰路白髯橋をわたり玉の井に少憩して後、夕飯を銀座に喫し終れば夜は早くも初更に近し。さくら屋に立寄るに沢田秋庭二君の来るに会ふ。秋庭氏は二十余年前三田文学の寄稿家なりき。其後多摩河畔に花園をひらき専菊と桜草とをつくると云ふ。又沢田君のはなしに目下好評の活動写真桑港の震災なるものを見たりしに、人物の服装市街の光景悉く震災当時のものに非らず、皆現代の風俗なり。」

「放水路」西新井橋 この日(1月15日)、晴れて暖ったので写真機を持ち、午後、小塚原より京水バスに乗って西新井橋に行った。中千住より橋南に至る新道路がすでに開通していた。路傍に榎の古木が二三株残っていた。橋のたもとの堤上には蜜柑、川魚、自転車用品、古着等売るものがあった。塩鮭の頭と骨とを売るもあった。たちまち夕暮れになった。

左は、同じく『放水路』に載っている西新井橋の写真であるが、これもこの日に撮ったものか不明。

「一月十六日。晴天。朝の中電話の鳴ること二三回なり。家に在らば訪問記者に襲はるゝが如き心地したれば、昼飯を喫して直に写真機を提げて家を出づ。浅草に至るに土曜日と藪入を兼ねたる故にやおびたゞしき人出なり。堀切橋に至り堤防を歩む。微風嫋々たること春日の如し。綾瀬川の水門に夕陽を眺め、銀座に来りてさくらやに憩ふ。安藤歌川の二氏あり。倶に晩餐を不二あいすに喫す。この夜銀座街上酔漢多く、処処に嘔吐するものあり。十一時帰宅。枕上松亭金水作山々亭有人(ありんど)補綴(ほてい)の中本『三人娘手鞠唄』を読む。金水は元治甲子に没したるものゝ如し。芳年の挿絵あり。」

「放水路」堀切橋 この日(1月16日)、晴天。朝に電話が二三回鳴った。家にいると記者が訪ねてくるような気がしたので、昼飯を食べて直に写真機を持って家を出た。浅草に行くと土曜日と藪入が重なったためか多くの人出であった。堀切橋に行き堤防を歩いた。微風がそよそよと吹き春の日のようであった。綾瀬川の水門に夕陽を眺めてから、銀座に来てさくらやで憩った。

左は、『放水路』の堀切橋の写真であるが、これもこの日に撮ったものか不明。

「一月廿一日。同雲暗淡たり。午後執筆。燈刻W生の電話にうながされ、雨中尾張町富士あいす店に徃き、共に晩餐を喫して後玉の井に遊ぶ。奇事あり。十一時過車にてかへる。家に至らんとするころ雨は雪となれり。写真を現像して暁二時に至る。」

この日(1月21日)、灯りを点すころW生の電話でうながされて雨の中尾張町の不二アイスで晩餐をとった後玉の井で遊んだ。奇事があった。11時過ぎ車で帰った。家に着く頃雨が雪になった。写真を現像すると午前2時になった。

昭和12年(1937)になると、荷風は自家現像をはじめているが、当時、カメラを趣味とする人はきわめて少なく、写真現像をサービスする現像店はまだなかったのであろう(参考記事)。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)
永井荷風「おもかげ(復刻版)」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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荷風と写真(3)

2019年03月23日 | 荷風

荷風は、昭和11年(1936)11月、前回の記事の9日に続いて、数回写真機を持って外出している。以下その日乗を引用する。

「十一月十二日。天気牢晴。正午窓前蝶の舞ふを見たり。一は白一は黄なり。立冬の節を過ること数日にして蝶を見るは珍しきことなり。午後写真機を携へ、小石川金剛寺阪上に至り余が生れたる家のあたりを撮影す。蜀山人が住みたりし鶯谷に至りて見しが陋屋立て込み、冬の日影の斜にさし込みたれば、そのまゝ去りて伝通院前より車に乗りて帰る。燈刻尾張町不二アイスに飯す。帰宅後執筆。
 〔欄外墨書〕金冨町四十五番地赤子橋 」

この日(11月12日)、荷風は、小石川金剛寺坂上に至り、金富町の生家跡を訪ね、その辺りを写真撮影した。坂上近くの鶯谷に至ったが陋屋が立て込み、冬の日影が斜にさし込んでいたので、そのまま立ち去った。西向きの地で日が傾いたため逆光で写真撮影を諦めたのかもしれない。

「十一月十六日。小石川服部坂上に黒田小学校とよぶ学校あり。余六七才のころ通学せしことありき。今より五十二三年前の事とはなるなり。然るに右学校にてはこの事を探索し今夏七月ごろ寄附金を募集のため校員を遣し来りしことありき。余之に応ぜざりしに、昨夜またもや勧誘員を銀座金春新道喫茶店きゆうぺるに派遣し、演芸会の切符を売付けむと、余の来るを待ちゐたりし由。右茶店より通知の電話あり。余は事の善悪に係らず、現代人の事業には一切関係することを欲せざれば、いづれも知らぬ振にて取り合はざるなり。此日薄晴。風なく暖なれば墨堤に赴き木母寺其他二三個所の風景を撮影し、堀切より四ツ木に出で、玉の井に小憩し、銀座に飰して家にかへる。」

この日(11月16日)、やや晴れ、風がなく暖かかったので、墨堤に行き、木母寺(現代地図)など二三箇所の風景を撮影し、堀切より四ツ木に行き、玉の井で一休みし、銀座で夕飯を食して家に帰った。

「十一月十八日。曇りて蒸暑し。午後三菱銀行に徃き、それより電車にて今戸橋に至り山谷堀の景を撮影すること二三枚。日本堤を越え田町の袖摺稲荷及び山谷の合力稲荷に賽す。いづれも震災後の仮普請なり。遊郭に入りて見るに仲の町に菊花を植ゑたれど花少なく虎の門の縁日などよりも見劣りしたり。角町の角に藝者検番出来、二階にて仲の町藝者大勢何やら総踊のようなものを稽古せり。水道尻に出で公園の池畔に休む。震災前の大門の焼残りたるを庭の一隅に据ヘたり。新に世直し地蔵尊を立てたり。日未だ暮れざれば田中町より橋場に出で、白髯橋をわたり玉の井に至り鎌田方に少憩し、銀座に出でゝ家にかへる。」

昭和地図(昭和16年) この日(11月18日)、曇りで蒸し暑かった。午後三菱銀行に行き(前日に朝日新聞記者から「濹東綺譚」の原稿料を小切手で受け取っている)、そこから電車で今戸橋に至り山谷堀の風景を二三枚撮影した(左の昭和16年地図参照)。日本堤を越え田町の袖摺稲荷(現代地図)と山谷の合力稲荷(現代地図)に参詣した。

「十一月二十日。快晴雲翳なし。午後本所五ノ橋自性院に徃き境内の景を撮影して後大島町の大通を歩む。日は忽ち晡なり。白髯三ノ輪行のバスを見たれば之に乗りて寺嶋町に至りいつもの家に少憩し、銀座に飯して家にかへる。」

この日(11月20日)、快晴で雲一つなかった。午後本所の五の橋の自性院(現代地図)に行き、境内の風景を撮影してから、大島町の大通りを歩いた。たちまち夕方になり、白髭三ノ輪行きのバスが来たので、これに乗って寺嶋町に行き、いつもの玉の井の家で休憩し、銀座で夕飯をとって家に帰った。

「十一月廿四日。快晴。午後浅草千束町大音寺に徃き墓地を撮影す。近鄰の人らしき男あり。梵字を石一面に刻したる墓を指さし山谷の鰻屋重箱の墓なりと言ふ。又倒れたる石の中の一ツをば吉原の町名主の墓なりと教へたり。されど法名のみにて俗名を刻せざれば明確ならず。銀座に出でふじに飰してかへる。」

この日(11月24日)、快晴で、午後、浅草千束町の大音寺(現代地図)に行き墓地を撮影した。この後、銀座に出て、不二アイスで食して家に帰った。

「十一月三十日。快晴。風なし。午後玉の井に徃きて路地の光景を撮影す。浅草公園を過る時燈影忽燦爛[さんらん]たり。銀座不二あいすに夕餉を食し、喫茶店さくら屋にて諸氏に逢ふ。この夜霧深し。」 

荷風撮影の玉の井 この日(11月30日)、快晴で風がなかった。午後、玉の井に行って路地の光景を撮影した。浅草公園を過ぎるとき灯が美しく輝いていた。銀座の不二アイスで夕食をし、喫茶店さくら屋にて諸氏に会った。この夜霧が深かった。

この日も玉の井の路地を撮影した。左の写真は、昭和12年(1937)4月に刊行された私家版「濹東綺譚」に収められた荷風撮影の玉の井の写真である。この日の撮影かは不明であるが、そうかもしれない。

以上のように、11月9日の玉の井に続いて、12日、16日、18日、20日、24日、30日とあちこちへ撮影に出かけている。まとめると、次のようになるが、玉の井などの墨東・下町が主で、山の手は小石川の生家の辺のみとなっている。当時の荷風がどこに関心を持っているかよくわかる。

11月9日 玉の井やその周辺
 12日 小石川金冨町の生家の辺り
 16日 墨堤の木母寺
 18日 今戸橋から山谷堀
 20日 本所の五の橋の自性院
 24日 浅草千束町の大音寺
 30日 玉の井

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「新潮日本文学アルバム 23 永井荷風」(新潮社)

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荷風と写真(2)

2019年02月14日 | 荷風

荷風は、11月になると、さっそく、前回の記事のように入手した写真機(ローライコード)を持ってあちこち撮影に出かけている。

断腸亭日乗を見ると、まず、昭和11年(1936)11月9日に次の記述がある。

「十一月九日。小春の天気限り無く好し。晏起。執筆二三葉。日は忽午なり。写真機を携へ玉の井に赴けば三時に近し。一部に属する路地に入り鎌田花といふ表札出したる家を訪ひ、二階の物干より路地を撮影すること五六回なり。然れども老眼甚機械の目盛を見るに便ならず、果して能く撮影することを得たるや否や。四時過路地を出で、東武線玉之井駅西側なる某氏の廃園の垣に沿ひて歩む。垣の破れ目より庭を窺ふに大なる池あり。蘆荻の葉は枯れ楓樹半ば紅となりたれど見る人もなく、林下の四阿は其屋根も破れ傾きたるさま廃趣言ひ難し。破垣の間に山茶花咲出でたるさま亦捨てがたき眺めなり。門には表札なく傍なる巡査派出所も朽廃するに任かせたり。歩むこと一二町、曹洞宗法泉寺の門前に至る。寺の生垣見事なり。老僧墓地の落葉を掃き居たり。又歩むこと一町ばかり、白髯明神の祠後に出づ。鳥居をくゞり外祖父毅堂先生の碑を見る。大正二三年の頃写真機を弄びし時この碑及び白髯の木橋を撮影せし事ありき。其図今猶家に蔵せり。地蔵阪に至り京成バスの来るを待つ間新に建てられし地蔵尊の碑を見る。浅草雷門に至れば燈火忽燦爛[さんらん]たり。銀座食堂に入りて夕飯を食す。栄螺子の壷焼味佳し。茶店久辺留に立寄りしが千香女史来るのみなれば十時頃出でてかへる。燈下また草稿をつくる。

この上のない好い小春日和で、遅く起き、原稿を二三枚書くと、もう昼であった。写真機を持って玉の井に行くと三時に近かった。一部に属する路地に入り鎌田花という表札を出した家を訪ね、二階の物干より路地を五六回撮影した。しかし老眼のため写真機の目盛を見るのが不便で、はたしてちゃんと撮影できたかどうか心配である。

写真撮影まで流れるような記述で、新しく入手した最新の写真機を持っての外出にちょっと興奮しているように思えてくるが、これは、新しいカメラやレンズを持って撮影に出かけるときに現代の写真愛好家も感じるであろうわくわく感と同じである。老眼云々の心配もそんな気分から来ているようにも思われてくる。

最初の撮影地を玉の井にしたことは、「濹東綺譚」の原稿をちょうど書き終えたときだったことと無関係ではない。荷風は、このちょっと後に「濹東綺譚」の掲載先を朝日新聞に決めているが、それとは別に、私家版の出版も企て、それに玉の井の写真を掲載するつもりだったようである。 

荷風写真 玉の井小路 左の写真は、荷風撮影とされる「ぬけられます」とある玉の井の路地を写したもので、この日に撮影したのではないかと推定されているが、「ぬけられます」にちゃんとピントが合っている。ここは「濹東綺譚」にある次の部分から有名になっている。

「わたくしは脚下の暗くなるまで石の上に腰をかけていたが、土手下の窓々にも灯がついて、むさくるしい二階の内がすっかり見下されるようになったので、草の間に残った人の足跡を辿って土手を降りた。すると意外にも、其処はもう玉の井の盛場を斜に貫く繁華な横町の半程で、ごたごた建て連った商店の間の路地口には「ぬけられます」とか、「安全通路」とか、「京成バス近道」とか、或は「オトメ街」或は「賑本通」など書いた灯がついている。」

荷風筆玉の井画賛 左の二枚目は、荷風作の「ぬけられます」の灯影を描いた絵で、「里の名を人の問ひなば白露の玉の井ふかき底といはまし」という画賛がある。この「ぬけられます」とある光景は、荷風に大きな印象を残したようで、「濹東綺譚」の上述の描写や上記自賛のある絵につながっている。

荷風は、この後、廃園の垣に沿って歩き、破れて傾いた屋根に廃趣を感じ、破垣の間に山茶花が咲いた様子も捨てがたいとしている。次に、曹洞宗法泉寺の門前に至るが、寺の生垣が見事で、老僧が墓地の落葉を掃いていた。さらに、白髯明神の祠後に出て、鳥居をくゞり外祖父毅堂先生の碑を見た(白鬚神社と荷風)。大正二三年の頃写真機を持ってこの碑や白髯の木橋を撮影したことがあるが、その写真はまだ家に所蔵している。地蔵坂に至り京成バスを待つ間に新しく建てられた地蔵尊の碑を見た(東向島の地蔵坂)。

この日はいつもと違って、玉の井からはじめてその付近をかなり歩き回り、日乗の記述もちょっと増えている。このあたりにも荷風のこの日の高揚感が現れている。白鬚神社に至り外祖父毅堂の碑を見て大正二三年(1913~4)の頃の写真撮影を思い出している。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

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荷風と写真(1)

2019年01月30日 | 荷風

永井荷風「おもかげ」扉部分 永井荷風が戦前に写真撮影を好んでしていたことは、その日記「断腸亭日乗」などからよく知られている。昭和13年(1938)発行の小説随筆集「おもかげ」には荷風撮影の写真が載っている。主に都内の風景であるが、撮影したのは風景写真ばかりではなかったようである。

断腸亭日乗を見ると、昭和11年(1936)10月26日に次の記述がある。

「十月廿六日。午後より時々驟雨あり。草稿を添削す。夜久辺留に徃く。安藤氏に託して写真機を購ふ金壱百四円也

この日、荷風は、銀座の喫茶店キュウペル(久辺留)で写真機通の安藤英男に依頼して104円でローライコードの写真機を購入した。この額は、当時の国家公務員の初任給75円から現在の貨幣価値に換算すると、約25万円程度で、今のデジタル一眼カメラの中でも中~上位機を購うことができる。カメラの値段は当時も現在もあまり変わっていないといえそうである。

ちょうど玉の井へ頻繁に出かけていた頃で、この前日に玉の井を舞台にした小説「濹東奇譚」を脱稿している。

ローライコードとは、1933年(昭和8年)ドイツのカメラメーカーのフランケ&ハイデッケ社から発売された縦長の二眼レフカメラで、下側の撮影レンズと上側のファインダーレンズとが連動し、シャッター内蔵の下側のレンズで被写体像をフィルムに露光し、上側のレンズからの被写体像をミラーで反射して上側のスクリーンに結像するが、これを撮影者は上からのぞき込むようにして見て構図とピントを確かめる。

同社は、これに先立って、1929年(昭和4年)同型の二眼レフカメラであるローライフレックスを発売していた。ネガサイズ6×6cmの117ロールフィルムを用い、ピントフードを折りたたむと箱形となって、1914年以前の二眼レフと比べると1/4の大きさで小型軽量のため携帯し易いことなどから、大ヒットしたという。この機能やレンズや外装の一部を簡略化した廉価版が荷風の入手したローライコードであった。

荷風は、大正初め1912~1914)すでに写真機を手にしていたが、それは多分大きく、この小型軽量化し携帯に便利なローライコードの入手を喜んだであろう。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)
永井荷風「おもかげ(復刻版)」(岩波書店)
神立尚紀「図解・カメラの歴史」(講談社)
マイケル・プリチャード/野口正雄 訳「50の名機とアイテムで知る図説カメラの歴史」(原書房)

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大黒屋(京成線八幡駅近く)

2018年02月26日 | 荷風

先日、市川市文学ミュージアムで開催された永井荷風展に出かけたとき、京成線八幡駅近くの大黒屋という食堂に寄ってみようと思った。ここは、荷風が最晩年に食事によく来たところで、それにあやかってか、メニューに荷風セットというのがあった。以前にそれを食したことがあったが、今回も、そこで昼食にしようと思い立ったのである。

荷風の日記「断腸亭日乗」を見ると、昭和33年(1958)7月23日に次の記述がある。

「七月廿三日。風雨歇まず。小林来話。正午近く風雨も静になりたれば駅近くの大黒屋に飰す。」

荷風は、前年(1957)三月に京成線八幡駅近くの新居に移転し、大黒屋はすぐ近くであるため、よく訪れたようで、昭和33年、34年の日乗にもかなり登場する。なにを食したかは記していないが、たとえば、昭和33年(1958)「十月二日。隂。正午浅草。大黒屋晩酌。」とあるように、荷風は、この頃、夕飯のとき、少しだが酒を飲むようになっていた。

大黒屋跡 大黒屋跡 大黒屋跡 大黒屋跡 大黒屋跡




ところが、今回、出かける前にネットで検索をすると、大黒屋は昨年に閉店したとの情報に接した。それを確かめようと、当日、地下鉄新宿線の本八幡駅から京成線方面に向かった。駅出口から出るとまもなく京成線の踏切で、超えて右折すると、すぐに大黒屋の建物があるが、四枚目の写真のように、やはり、昨年(2017)7月に閉店した。一、二枚目のように、「大人の学び舎 大黒屋」というのに変わっていた。学習塾らしい。

三、五枚目は、大黒屋を入れて八幡駅、京成線方面を撮ったものであるが、それは、看板がまだ残っていてももはや荷風の通った食堂の大黒屋ではない。荷風にちなむ風景がまた一つ失われた思いである。こうして想い出の場所が次第に姿を消していく。これも時の流れなのであろうか。

大黒屋の荷風セット 大黒屋 大黒屋 大黒屋近くの踏切 大黒屋




荷風は、昭和34年(1959)4月30日の朝自宅で亡くなっている。その前日の日乗は「四月廿九日。祭日。隂。」と簡単に終わっているが、ここで食事をした。カツ丼に上新香と菊正一合を頼むのが常であったが、この日も午前11時ごろ、大黒屋に赴き、一級酒一本とカツ丼をきれいに平げて帰宅した(秋庭太郎)。これが荷風最後の食事・飲酒であったかもしれない。

一枚目の写真は、十年ほど前、大黒屋で食べた荷風セットである。カツ丼と酒一本にお新香と味噌汁がついていた。カツ丼と酒一本の組み合わせは、ちょっとユニークであるが、荷風がよく注文したのを店がよく覚えていたからできたメニューであろう。荷風最晩年の好みであった。大黒屋の閉店に伴い、これを再現したメニューも消滅した。

二、三枚目の写真は、そのときに撮った店のショーウインドー、四枚目は近くの京成線の踏切、五枚目は、二枚目にも写っている荷風が通っていた頃の大黒屋である。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風」(岩波書店)

コメント (3)
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永井荷風展(市川市 2018)

2018年02月19日 | 荷風

荷風展チラシ(表) 荷風展チラシ(裏) 市川市文学ミュージアムで開かれていた永井荷風展に行った(一、二枚目の画像は、そのチラシの表・裏)。

知ったのは昨年(2017)の東京人12月号に載っていた広告からだが、このところの寒さにかまけて延び延びになっていた。昨年秋から開催されていたが終わり近くになってようやく出かけたのである。

「荷風の日記「断腸亭日乗」起筆百年を記念して」、とあるが、たしかに断腸亭日乗は大正六年(1917)9月16日から始まっている。その第一巻のはしがきに次の一文が載っている。

『此断腸亭日記は初大正六年九月十六日より翌七年の春ころまで折々鉛筆もて手帳にかき捨て置きしものなりしがやがて二三月のころより改めて日日欠くことなく筆とらむと思定めし時前年の記を第一巻となしこの罫帋本に写直せしなり以後年と共に巻の数もかさなりて今茲昭和八年の春には十七巻となりぬ
 かぞへ見る日記の巻や古火桶
 五十有五歳 荷風老人書 (荷風印)』

荷風の手帳が展示されていた。そこまでは確かめなかったが、上記のような手帳だったのであろうか。

市川時代の荷風が愛用していた買物カゴも展示されていたが(二枚目にその写真がある)、戦後の物不足と、見かけはもう余り気にしなくなった荷風の心情がしのばれる一品である。

荷風展は、たしか十年ほど前に世田谷文学館で開かれたと思うが、それ以来の企画のような気がする(記憶に誤りがなければ)。こういった展示会では、様々なものが展示されるため、あまり記憶に残らないが、そのときは、昭和11年(1936)一月三十日の断腸亭日乗の該当部分が開かれて展示されていたのが記憶に残っている。過去に関係のあった女性を列挙した有名な箇所である。

今回のサブタイトルが「荷風の見つめた女性たち」であるが、その女性たちの多くはそこに記載されている。中でも断腸亭日乗にもっともよく登場し、荷風のこころを捉えたのは、関根歌であろう。

戦後、荷風は、市川に住み、随筆「葛飾土産」などからわかるように、散策好きをここでも発揮し、あちこち歩いている。市川での住居は四箇所にわたっているが、京成線八幡駅近くが終焉の住まいである。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
「東京人 特集 永井荷風」⑫december 2017 no.390(都市出版)

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怖るべき昭和の子供

2017年08月30日 | 荷風

子供が起こした事件について昭和11年(1936)4月13日の永井荷風の日記「断腸亭日乗」は次のような衝撃的な新聞記事を紹介している。

『四月十三日。夜来の雨やまず、近鄰の桜花満開となる。楓の若芽も亦舒びたり。終日執筆。雨歇まず。夜に入り強風起る。
此日の東京日々の夕刊を見るに、大阪の或波止場にて、児童預所に集りゐたる日本人の小児、朝鮮人の小児が物を盗みたりとてこれを縛り、さかさに吊して打ちたゝきし後、布団に包み其上より大勢にて踏み殺したる記事あり。小児はいづれも十歳に至らざるものなり。然るに彼等は警察署にて刑事が為す如き拷問の方法を知りて、之を実行するは如何なる故にや。又布団に包みて踏殺す事は、江戸時代伝馬町の牢屋にて囚徒の間に行はれたる事なり。之を今、昭和の小児の知り居るは如何なる故なるや。人間自然の残忍なる性情は古今ともにおのづから符合するものにや。怖るべし。怖るべし。呼嗚[嗚呼]怖るべきなり。』

昨夜以来の雨がやまない。近隣の桜の花が満開となった。楓[かえで]の若芽ものびている。終日執筆。雨が止まず、夜に入って強風が吹いた。
この日の東京日々新聞夕刊を見ると、大阪のある波止場で児童預所にいた日本人の小児が、朝鮮人の小児が物を盗んだからとこれを縛り、さかさに吊るして打ちたたいた後、布団に包みその上より大勢で踏み殺したという記事があった。小児はいづれも十歳に満たないものである。しかるに彼等が警察署で刑事がなすような拷問の方法を知ってこれを実行するのは何故なのか。布団に包んで踏み殺す事は、江戸時代伝馬町の牢屋で囚人の間で行われたことである。これを今、昭和の小児が知っているのは何故なのか。人間の自然の残忍な性格は昔と今ともにひとりでに一致するものだろうか。怖るべし。怖るべし。ああ怖るべきなり。

にわかには信じ難いような新聞記事であるが、その記事の掲載自体は本当であろう。荷風は、その犯人たちが10歳以下の小児であったことに加え、朝鮮人の小児を縛り、さかさに吊るして打ちたたいた後、布団に包みその上より大勢で踏み殺すという殺害方法に戦慄している。人をさかさに吊るして打ちたたくことは、警察署で刑事がなす拷問の方法とするが、たとえば、その3年前の昭和8年(1933)2月に作家小林多喜二が逮捕され、築地警察署で拷問により虐殺された。そんなことが荷風の念頭にあったのか。布団に包んで踏み殺すことは、江戸時代伝馬町の牢屋で囚人の間で行われたとしているが、いまでも映画やテレビの時代劇でそういうシーンを見ることがある。

10歳以下の小児の行為であっても、大局的にはやはり民族蔑視の社会の影響ないし反映とみることができる。しかし、これはそれだけではすまない問題を内包しているように感じる。その犯行の異常な態様からいってであるが、これと比べれば、前回の記事の児童等の悪行などは文字通り幼稚な行為であるともいえる。

小児たちが警察署で刑事がなす拷問の方法を知って実行するのは何故なのか、江戸時代伝馬町の牢屋で布団に包んで踏み殺すことをいまの昭和の小児が知っているのは何故なのか、と荷風はこれらに最大の疑問を呈し、その現実や歴史に思いを馳せたのか、人間の自然の残忍な性格は昔と今ともにひとりでに一致するものだろうか、としている。怖るべしのくり返しに荷風が受けた衝撃の大きさがあらわれているといえる。

たしかに平成の世になっても、子供による凶悪な事件が起き、その歴史性や歴史的連続性を感じざるを得ないようなことがある。平成9年(1997)に発生した14歳の中学生による神戸連続児童殺傷事件のとき、そのむかし日本で行われていた刑罰を想起させるようなことがあった。本人の意識・無意識に関わらずその犯行の一部はむかしの刑罰をそっくりそのまま実行したものであった。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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荷風の子供嫌い(2)

2017年08月18日 | 荷風

偏奇館周辺地図(昭和16年) 前回のことから三年後、荷風は、ふたたび子供の悪行を目撃する。昭和5年(1930)1月の断腸亭日乗に次の記述がある。

『正月初八 晴れて寒気甚し、昏黒三番町に徃かむとて谷町通にて電車を来るを待つ。悪戯盛の子供二三十人ばかり群れ集り、鬼婆鬼婆と叫ぶ、中には棒ちぎれを持ちたる悪太郎もあり、何事にやと様子を見るに頭髪雪の如く腰曲りたる朝鮮人の老婆、人家の戸口に立ち飴を売りて銭を乞ふを、悪童等押取巻き棒にて地を叩きて叫び合へるなり、余は日頃日本の小童の暴戻なるを憎むこと甚し、この寒き夜に、遠国よりさまよひ来れる老婆のさま余りに哀れに見えたれば半円の銀貨一片を与へて去りぬ、三番町に至るに小星家に在らず、已むことを得ず銀座に出でオリンピアに飰して空しく家に還る、』

晴れて寒さが厳しい。暗くなってから三番町に行こうと谷町通で電車を待っていると、悪戯盛の子供二三十人ばかりが群れ集り、鬼婆鬼婆と叫んでいた。中には棒切れを持つ悪がきもいた。何事かと様子を見ると、頭髪が真っ白で腰の曲がった朝鮮人の老婆が人家の戸口に立ち飴を売り金銭を乞うが、悪童等は押しながら取り巻き、棒で地面を叩いて叫びあっている。私はふだん日本の児童が乱暴極まりないことをはなはだしく憎んでいる。この寒い夜に、遠い国からさまよい来た老婆の様子が余りに哀れに見えたので、半円の銀貨一枚を与えて立ち去った。

荷風は、三年前と違って対象が自分でなく朝鮮人の老婆であったものの、またもや悪童どもの悪さか、と直感し、その有様を見て、「余は日頃日本の小童の暴戻なるを憎むこと甚し」と記すが、これは、だから余は子供が大嫌いなのだ、という主旨であろう。

多数群れた悪童たちが朝鮮人の老婆を叫び合いながらなじっていたが、このような朝鮮人に対する子供たちのふるまいが大人の世界・社会の反映であることは疑いがない。大人たちと同じことをしてなぜ悪いのかということである。市民の自警団による朝鮮人虐殺が起きた関東大震災(1923)は、わずかその六年半前のことであった。

荷風は、気難しい人のように見えたと想像されるが、哀れに見えた老婆に半円の銀貨を与えたように、弱い者や困っている人には老若男女の別なくやさしくする面を持っていた。1945年3月10日の東京大空襲のことを記した3月9日の日乗に次の記述がある。

「時に七八歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通に出で溜池の方へと逃しやりぬ」(全文→以前の記事

この空襲のため荷風の長年の住居であった偏奇館が焼亡し、一帯は火災で荷風も避難していたが、道に迷った女の子と老人に親切にも道案内をしている。荷風は博愛主義者でも宗教者でもなかったが、弱い者にはめっぽうやさしかったことがわかる。

この日、荷風は三番町のお歌のところに行ったが、お歌がいなく、やむを得ず銀座に出て、オリンピアで夕食をとり空しく家に帰ったと記している。悪童どもの悪さを目撃して気が滅入っていたのに、お歌も不在で、散々な日となって、その空しさが伝わってくる。

この荷風の日乗の記述から子供のふるまいを通してであるが、戦前の民族差別のいったんがかいま見える。これはいまなお日本社会に厳然として残っている問題である。この十年近くの間に、この民族差別をあおることを目的とするデモ行進を都内で何回か偶然に目撃したが、嫌悪感しか覚えなかった。人は具体的な関係にある人間を嫌いになったり憎んだりする存在であることは否定し得ないが、特定の民族一般を憎悪するように仕向ける政治的主張は誤りである。そして、その対象がいつも何故か近隣のアジア民族である不可解さには慄然とせざるを得ない。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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荷風の子供嫌い(1)

2017年08月16日 | 荷風

荷風@偏奇館 永井荷風が嫌いな者は、軍人・巡査と子供・女学生だった。軍人は威張ってばかりいたからであるが、大正8年(1919)9月22日の断腸亭日乗に「折から窓の外に町の子の打騒ぐ声、何事かと立出でて見るに、迷犬の自働車にひかれたるを、子供等群れあつまりて撲ちさいなむなり。余は町の悪太郎と巡査の髭面とを見る時、一日も早く家を棄てて外国に徃きたしと思ふなり。」(全文→以前の記事)とあるように、粗暴な子供を嫌っていた。

昭和2年(1927)1月の「断腸亭日乗」に次の記述がある。

『正月六日 晴れて暖なり、柳北先生の硯北日録七巻を写し終りぬ、余すところ投閑日録日毎之塵其他十数巻あり、卒業の日猶遠しといふべし、薄暮銀座に赴かむとて簞笥町崖下の小径を過るに、一群の児童あり余の行き過るを見て背後より一斉に余が姓名を連呼す、驚いて顧るや群童又一斉に拍手哄笑して逃走せり、其状さながら狂人或は乞食の来るを見て嘲罵するものと異る所なし、そもそも近隣の児童輩何が故に余の面貌姓名を識れるにや、是亦吾文筆浮誉の致す所にあらずして何ぞや、虚名の禍此に至つて全く忍ぶ可からざるものあり、世の雑誌新聞記者の毒筆の如きは余之を目にせざるを以て猶忍ぶことを得べし、近隣の児輩が面罵に至っては避けむと欲するも其道なし、浩歎に堪えざるなり、余常に現代の児童の兇悪暴慢なることを憎めり、窃に余が幼時のことをを[を]回想するに、礫川の街上に於て余は屢芳野世経中村敬宇南摩羽峯等諸先生を見しことあり、余は猶文字を知らざる程の年齢なりしかど敬虔の情自ら湧来るを覚え首を垂れて路傍に直立するを常とせり、然るに今の児輩の為す所は何ぞや、余は元より学識徳望両つながら当時の諸先生に比較すべきもの有るなし、近郊の児童に面罵せらるゝも敢て怪しむに足らず、然りと雖苟も文筆に従事するの士を見て就学の児童等路頭に狂夫を罵るが如き行をなすに至つては、一代の文教全く廃頽して又救ふべからざるに至れることを示すものにあらずや、是父兄の罪歟、国家教育の到らざるが故歟、余は之を知らず、余は唯老境に及んで吾が膝下に子孫なきを喜ばずんば非らざるなり、此夜独銀座風月堂に抵り黙々として食事を終り帰途酒肆太牙楼に登る、日高邦枝二氏既に在り、成弥生田林の三氏亦踵いで来り会す、此夜生田翁帰途渋谷の妓と会盟の約あり家に帰らずとて意気頗昂然たり、此口小寒、』

この日、晴天で暖かだったが、衝撃的なことがあった。暮れかかった頃、銀座に行こうと、崖下の小径を過ぎるとき、多数の児童が私の通り過ぎるのを見て背後から一斉に私の姓名を連呼した。驚いてふり向くと、群童が一斉に拍手し大笑いして逃走した。その有様はまるで狂人や乞食が来るのを見てあざけりののしるものと異なるところがない。そもそも近隣の児童はどうして私の容貌と姓名を知っているのか。これはまた、わが文筆の浮ついた評判がもたらすものに違いない。虚名のわざわいがここに至っては我慢することができない。世の雑誌や新聞記者の毒筆はこれを目にしないことで忍ぶことができるが、近隣の児童による面と向かってのののしりは避けようと思ってもその方法がなく、大いに嘆くしかない。私はいつも現代の児童の残忍で人を恐れずに乱暴なことを憎んでいる。ひそかに自分の幼時のころを回想すると、礫川の街で私はしばしば芳野世経・中村敬宇・南摩羽峯等の諸先生を見たことがあり、まだ自分は文字を知らない年齢であったが、深く敬う心が自然と湧くのを覚え首を垂れて路傍に直立するのが常であった。しかるに今の児童の為す所作は何だろうか。私は元より学識も徳望もともに当時の諸先生に比較すべきものはない。近隣の児童に面罵されてもとくに不思議ではない。しかしながら文筆に従事する士を見て就学の児童等がみちばたで狂人をののしるような行いをなすに至つては、当代の文教は全く退廃し、救うことができないほどになったことを示すものではないだろうか。これは父兄の罪か、国家教育の到らざるためか、わからないが、私はただ老境に及んで自分に子孫がないことを喜ばずにはいられない。・・・

子供の世界は、大人の世界から独立した一種独特の雰囲気を持っていることもあるが、大人の世界とそっくりそのままの世界を作っていることも多い。子供たちは、もちろん、荷風が何者であるかなど知らない。しかし、親などから聞いた話からそのような行為に及んだ。それは大人の世界が保障してくれると思い込んでいるから、遠慮などせず残酷なこともいってしまう。

荷風は、働かずに暮らしていける財産を持ち、気が向いたとき原稿を書けばよい高等遊民であった。仕事に出かけることもないが、夕方になると、ぶらりと銀座など夜の街にくり出すのを常としていた。夜遅く帰ってきて朝もかなり遅い。そんな気ままな独身生活を送っていた。そんな生活を近隣の住民はどのように見て噂したかは想像に難くない。そんな親たちの噂話を聞きかじった子供たちがなした所作であったろう。

荷風研究家の秋庭太郎は、荷風のこの日の不愉快さは、「黙々として食事を終り」の文字によく表白されているとし、偏奇館の主人の行状は隣近所の大人子供の別なく口の端にのぼっていたことはこの一事を以てしても分かると記している。しかし、現象をみれば確かにそうであろうが、やはり子供は大人の言動から影響を受けてそのような行為に及んでいる。

荷風は「然りと雖苟も文筆に従事するの士を見て就学の児童等路頭に狂夫を罵るが如き行をなすに至つては、・・・」と記しているが、児童のそのようなふるまいは、常軌を逸したもので、異常であることは確かである。その児童の父兄の世界について、荷風がたとえ近隣の人々と大きく違った日常を送り働かずに遊んでいるように見えても、それが何故に非難や嘲笑の対象にならねばならないのか。近隣は何も迷惑をうけていないのだから放っておけばよいのではないか。そういった疑問が残るが、やはり菊池寛が文芸春秋で「今日かくの如き社会に於て財産を唯一の楯として勝手に振舞ふといふ事ハ許すべからざる卑怯である」(以前の記事)などと荷風を非難したのと本質的に同じ感情が元になっている。

荷風が遭遇した事を現代の人はもちろん笑うことはできない。こういったことは形や対象や程度の違いはあってもいまなおこの社会に宿命のようにして残存しているからである。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考證 永井荷風」(岩波書店)

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荷風日の丸の旗を購う

2016年07月24日 | 荷風

永井荷風(1932)




永井荷風の日記「断腸亭日乗」の昭和10年(1935)2月3日に次の記述がある。

「二月初三。前夜の微雨いつか雪となる。午後に至って歇む。終日困臥為すことなし。燈刻銀座に行き銀座食堂に飰す。三越百貨店に入り日の丸の旗 竹竿つき一円六十銭 を購ふ。余大久保の家を売りてより今日に至るまでいかなる日にも旗を出せし事なく、また門松立てし事もなし。されど近年世のありさまを見るに[此間約三字切取、約十字抹消]祭日に旗出さぬ家には壮士来りて暴行をなす由屢耳にする所なり。依って万一の用意にとて旗を買ふことになせしなり。余はまた二十年来フロツコートを着たることなし。礼服を着用せざる可からざる処へは病と称して赴くことなかりしなり。余は慶応義塾教授の職を辞したる後は公人にあらず、世を捨てたる人なれば、礼服をきる必要はなきわけなり。されどこれも世の有様を見るに、わが思ふところとは全く反対なれば残念ながら世俗に従ふに若かずと思ひ、去月銀座の洋服店にてモーニングコートを新調せしめたり。代金九十余円なり。」

荷風は、この日、夕方になってから銀座に出かけ、夕食をとった後、三越に行き日の丸の旗を購入した(竹竿つきで一円六十銭)が、その理由がおかしい。大久保の家を売ってから今日に至るまでいかなる日にも旗を出すことはなく、また門松を立てた事もないが、この頃祭日に旗を出さない家に壮士が来て乱暴を働くことをよく耳にするので、万一の用意に買ったというのである。荷風はじつに用意のよい人であったが、そういう乱暴狼藉を働く者をもっとも嫌ったせいでもある。

昭和10年(1935)のことであるが、同年に美濃部達吉の天皇機関説を攻撃する事件が起き、次の年(1936)に2・26事件が起き、その次の年(1937)7月に盧溝橋で日中両軍が衝突し、12月には日本軍が南京を占領している。

壮士とは、血気盛んな男、政治運動に関わる書生などの男、一種のごろつき、などの意味があるが、いま、あまりきかない言葉である。祝日に日の丸の旗を出さなくともそんな男が押しかけてくることもない。祝日に日の丸の旗を出す家などほとんど見かけたことがなく、もう戦前の古いことと思ったが、ちょっと考えると、そうではなく、いま、その壮士の役は、自治体の教育委員会が担っている。もっともこちらは、国歌斉唱の方で、卒業式などの学校行事のとき、国旗に向かって起立して国歌を斉唱することを生徒や教師に強制している。時々、教師が起立などを拒否したという理由で教育委員会が懲戒処分をし、その処分の取り消しなどを求める訴訟が起き、その裁判の判決が報道される。起立して国歌を斉唱することを強制するのであるから、荷風の時代と場所がちょっと違うだけで本質的に同じである。その頃はごろつきの男が押しかけて来て乱暴をしたが、この頃は教育委員会が懲戒処分という手段によって乱暴をする。

教師の国歌斉唱起立拒否というのは、歴史的に特に第2次世界大戦のとき(それにいたるまでに)君が代や日の丸が象徴的に果たした役割や戦争に加担した教育体制を批判的にとらえる見解・思想に基づく場合がほとんどと思われる。それにはもっともな理由があるので、その思想を尊重し、国歌斉唱起立拒否を認めるべきである。

ところで、国歌斉唱が行われる場に起立しない教師や生徒がいたとしても、なんの問題も生じないことは自明である。学校長や教育委員会などがいたずらに問題を大きくしているだけではないのか。国歌斉唱が教育現場に教師の懲戒処分という大きな問題を持ち込んで対処しなければならないほどの重要なテーマとはどうしても思えない。教育行政に恣意的な意図が感じられるが、無駄なことである。

吉本隆明「背景の記憶」カバー(宝島社)




吉本隆明が小学生のとき看護婦との交流を回想した「小学生の看護婦さん」(「背景の記憶」所収)という随筆に興味深い記述があるので、以下、引用する。

『そういう看護婦さんの一人は、祭日の式典で、その頃慣例になっていた"御真影"(天皇の写真)遙拝のとき決して敬礼しなかった。最敬礼のとき、うわ眼つかいで様子を見まわすと、その看護婦さんだけが、いつも静かに頭を下げずにいた。そのころは、少しけげんに思っただけだったが、後年考えてみると、確固としたキリスト教の信者だったのだとおもう。戦後になってから、その面影の看護婦さんから異性の優しさ以外のものも受けとった。』

吉本は、大正13年(1924)11月生まれであるので、荷風の日乗と同じ昭和10年(1935)の前後のことであろうが、驚くべきは、戦前の学校教育の中でもっとも厳格に行われたに違いない「御真影」遙拝のとき、頭を下げず敬礼をしない人がいたことである。天皇の肖像写真が学校の火事で焼失したというだけで、校長が自殺をした時代のことであるから、かなり勇気のあるふるまいである。「いつも」静かに頭を下げずにいた、とあるので、吉本少年は、何回か同じシーンを目撃したのであろうが、それでも式典は問題なく進んでいるようである。

「戦後になってから異性の優しさ以外のものも受けとった」と記しているが、個人の信仰の強さやその信仰の背景に思いをめぐらせたのであろうか。「確固としたキリスト教の信者」の存在は、戦後の吉本に少なからず影響を与えたように思える。聖書を読み、教会に通い、さらには原始キリスト教の成立を反逆の倫理から論じた「マチウ書試論」を書いている。確固とした存在が吉本をして聖書や教会に向かわせるきっかけになったのかもしれない。

自分の信仰から天皇の肖像写真などに敬礼できない。現在の問題では、自分の思想から起立し国歌斉唱などできない。こういった考えに対し、戦後の現在でも、日本では、おそらく違和感を持つ人が多いとおもわれる。少なくともそういった考え方に多くの人はなじまない。強制的国歌斉唱は受け入れても、それを拒否する思想は受け入れない。こういった根拠不明な特性を日本の社会は総体として持っているような気がする。その結果、個人の思想や信仰よりも御真影遙拝や国歌斉唱の方がずっと優先すると考えてしまう。これは戦前・戦後で変わりがない。このような特性・構造は解明されるべきではないのか。

国歌斉唱起立拒否に賛成でも、そうでもなくても、懲戒処分など嫌だから起立をするのかもしれない。ちょうど荷風が乱暴者が押しかけて来るのを忌避するため日の丸の旗を購ったように。ここでよく考えると、吉本隆明が「最後の親鸞」で書いたように、「その世界は、自由ではないかもしれないが、観念の恣意性だけは保証してくれる」。どんなに強制があっても、一人一人が内面で感じたり思考することの中まで何人も立ち入ることはできない。その問題を発展させたり、批判したり、その歴史を考えたりすることはまったくの自由で、だれにも止められない。むしろ、そういったことがあると、観念の自由性が内部によみがえるのを感じるかもしれない。だれでも自由にそこから出発することができる。

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
吉本隆明「背景の記憶」(宝島社/平凡社)
「吉本隆明が語る戦後55年⑤」(三交社)
吉本隆明「親鸞〈決定版〉」(春秋社)

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永井荷風と菊池寛

2016年05月08日 | 荷風

永井荷風の代表作である『墨東奇譚』(昭和12年(1937)4~6月の東京・大阪「朝日新聞」夕刊に発表)に次のような一節がある(「五」の最終節)。

『ここにおいてわたくしの憂慮するところは、この町の附近、もしくは東武電車の中などで、文学者と新聞記者とに出会わぬようにする事だけである。この他の人達には何処で会おうと、後をつけられようと、一向に差閊[さしつかえ]はない。謹厳な人たちからは年少の頃から見限られた身である。親類の子供もわたくしの家には寄りつかないようになっているから、今では結局憚[はばか]るものはない。ただ独[ひとり]恐る可べきは操觚[そうこ]の士である。十余年前銀座の表通に頻[しきり]にカフエーが出来はじめた頃、ここに酔を買った事から、新聞という新聞は挙[こぞ]ってわたくしを筆誅[ひっちゅう]した。昭和四年の四月『文藝春秋』という雑誌は、世に「生存させて置いてはならない」人間としてわたくしを攻撃した。その文中には「処女誘拐」というが如き文字をも使用した所を見るとわたくしを陥れて犯法の罪人たらしめようとしたものかも知れない。彼らはわたくしが夜窃[ひそか]に墨水をわたって東に遊ぶ事を探知したなら、更に何事を企図するか測りがたい。これ真に恐るべきである。』 (操觚の士:文筆家)

文藝春秋(文芸春秋)は菊池寛が大正12年(1923)に創刊した雑誌である。それに荷風を攻撃する記事が載ったということだが、世に生存させて置いてはならない人間とは、ちとおだやかでない。両者の間になにがあったのかと思わせる一方、そのような表現にはどうしようもなく暗いものを感じてしまう。

もともと永井荷風と菊池寛は仲が悪かった。というよりも荷風が菊池を嫌っていた。荷風は明治12年(1879)東京生まれ、菊池寛は明治21年(1888)香川県生まれで、荷風が9歳ほど年上。

荷風びいきの当ブログとしては、荷風の日記「断腸亭日乗」から菊池寛や文芸春秋についての記述をみてみる。

大正14年(1925)9月23日に次の記述がある。

「九月廿三日。午前春陽堂主人和田氏来訪。文士菊池寛和田氏を介して予に面会を求むといふ。菊池は性質野卑奸猾、交を訂すべき人物にあらず。・・・。」(全文→以前の記事

菊池寛の方から春陽堂の和田氏を介して荷風に面会を求めたが、菊池は野卑(下品)で奸猾(悪賢い)で交際するような人物ではないと、荷風は断った。菊池寛が「断腸亭日乗」に登場するのはこの日がはじめてであるが、荷風はこのときすでにこのように評価していた。しかし、この記述では両者の間になにがあったのかわからない。ずっと疑問だったが、岩波文庫の永井荷風著「下谷叢話」の成瀬哲生による次の解説に接し、その疑問が氷解した。

『「下谷のはなし」に対して、菊池寛が「自分の名前」『文芸春秋』大正十三年三月・高松市菊池寛記念館『菊池寛全集』第二十四巻所収)と題して、「現代文人の無学無文字を嘲[あざけ]っている荷風先生にして、肝心の姓名を誤書するに至っては沙汰の限りである。」と菊池五山(菊池寛の遠祖の実弟)が菊地五山と誤書されていることを取り上げて批難した。』

荷風著「下谷のはなし」(後に「下谷叢話」に改題)にあった誤記(菊池五山→菊地五山)を取り上げ、菊池寛が荷風を攻撃する記事を文芸春秋(大正十三年(1924)三月)に載せた。このことが両者不仲の原因(の一つ)と思われるが、こういったことがあると、荷風は、相手とは決して和解しない。たとえ自分の誤記のせいであっても、そのような者を許さない。これは徹底している。たとえば、手紙などでそっと教えてあげたら、荷風は感謝し、そのことを日乗などに書いたかもしれず、以降の展開はまったく違ったであろうが、菊池寛の性格からしてそのようなことはありえなかったであろう。

以降、菊池寛や文芸春秋のことが時々日乗に登場するが、そのたびに悪し様に記述している。

同年10月24日に次の記述がある。

「十月廿四日。晡時太陽堂の中山豊三訪ひ来り、プラトン社発行の雑誌に従前の如く寄稿せられたしとて、頻に礼金のことを語り、余の固辤するをも聴かず、懐中より金五百円一封を出して机上に置き去れり。近来書賈及雑誌発行者の文人に向つて其文を求むる態度を見るに、恰大工の棟梁の材木屋に徃きて材木を注文するが如し。そもそも斯くの如き悪風の生じ来りしは独書賈の礼儀を知らざるに因るのみならず、当世の文人自らその体面を重せず、膝を商估の前に屈して射利を専一となせるに基くなり。されば中山の為す所も敢て咎むべきにあらず。悪むべきは菊池寛の如き売文専業の徒のなす所なり。」

太陽堂の中山豊三が訪れて、雑誌に寄稿してくれと、しきりに礼金のことを語り、断っても聴かないで、懐中より金五百円一封を出して机上に置いていった。荷風は、このような無礼な態度に怒っているが、それは、発行人の礼儀知らずのためだけでなく、当世の文人自らその体面をおもんぜず、膝を商人の前に屈して利益を第一にするからである。そうすると中山の所業もあえて咎めるべきではない。憎むべきは、菊池寛のような売文専業の者がなすふるまいであると、終いには、菊池寛の悪口になっている。

同年11月13日には次の記述がある。

「十一月十三日。紙巻煙草値上げとなる。敷嶋一袋二十本入十五銭なりしが、このたび十八銭となれり。最初煙草官営となりし当時は敷嶋一袋たしか八銭なりしと記憶す。その後十銭となり、十二銭となり、遂に二倍の価となりぬ。予家に在る時は巻煙草を喫せず。長煙管にて刻煙草を喫するが故、敷嶋の値上はさしてわが生計には影響せず。この日風雨終日歇まず。窗外落葉狼籍たり。鹿塩秋菊君訪来りて、雑誌歌舞伎に掲載すべき俳句を需めらる。十句ばかり持合せの駄句を録して責を塞がぬ。三時頃雑誌文藝春秋の記者斎藤某、主筆菊池なる者の書簡を持参し面会を求む。来意を問ふに予の草稾を獲たしと言ふ。菊池は曾て歌舞伎座また帝国劇場に脚本を売付け置き、其上場延期を機とし損害賠償金を強請せしことあり。品性甚下劣の文士なれば、その編輯する雑誌には予が草稾は寄せがたしとて、くれぐれも記者の心得違ひを戒め帰らしめたり。」

文芸春秋の記者が主筆菊池の書簡を持参し面会を求めてきた。用件を聞くと、(荷風の)原稿が欲しいとのことだが、菊池はかつて歌舞伎座や帝国劇場に脚本を売りつけ、その上場の延期を機として損害賠償金をゆすったことがあった。品性はなはだ下劣の文士なので、それが編集する雑誌(文芸春秋)などに原稿は書くことはできないと、記者に心得違ひをいさめて帰した、とある。前回に続き、菊池側から荷風へ接触してきて、文芸春秋に掲載する原稿を求めたのであるが、荷風は拒絶している。菊池寛側からしてみれば、和解へと歩み寄ろうとしたのかもしれないが、荷風は受けつけない。

(本題と関係しないが、上記の紙巻煙草の値上げの記述から、荷風は自宅では煙管(キセル)できざみ煙草を喫していたことがわかる。)

その数年後、昭和4年(1929)3月27日に次の記述がある。

「三月廿七日細雨糠の如し、雨中の梅花更に佳なり、大窪詩仏の年譜を編む、晡時中洲に徃く、帰途人形町にて偶然お歌に会ふ、市川団次郎待合の勘定百円ばかりを支払はざるにより、催促のため辯護士を伴ひ明治座楽屋に赴きし帰りなりと云ふ、銀座通藻波に飰す、春雨夜に入りて猶歇まず、風また加はる、お歌自働車を倩うて帰る、是日偶然文藝春秋と称する雑誌を見る、余の事に関する記事あり、余の名声と富貴とを羨み陋劣なる文字を連ねて人身攻撃をなせるなり、文藝春秋は菊池寛の編輯するものなれば彼の記事も思ふに菊池の執筆せしものなるべし、」

この日、偶然、文芸春秋を見たら、自分に対する人身攻撃の記事があり、自分の名声と富・地位をねたみ、卑しい言葉を連ねているが、文芸春秋は菊池寛が編集をするので、これは菊池が書いたに違いないとしている。

前回のことから四年ほどしてから、文芸春秋に掲載された荷風への人身攻撃の記事をたまたま読んで、菊池が書いたに違いないと決めつけている。荷風の富とは、父から相続した財産(以前の記事)で、荷風は資産家であった。これがために荷風はよくねたみに類した攻撃を受けたようである。

上記の記事に憤慨した荷風は、次の日の日乗に「菊池寛に与るの書」を書いたとある。菊池に対する反駁の文であろうが、その内容には触れていない。

「三月廿八日快晴の空薄暮に至つて曇る、菊池寛に与るの書を草す、夜半雨、是日午後小波翁門下の俳師雪松子来りて独活[うど]一束を贈らる、井の頭湖畔の村荘にて自ら栽培せしものなりと云、」

さらに、同年4月5日には次の記述がある。

「四月初五昨夜酒館太牙にて聞きたる事をこゝに追記す、酒館の女給仕人美人投票の催ありて両三日前投票〆切となれり、投票は麦酒一壜を以て一票となしたれば、一票を投ずるに金六拾銭を要するなり、菊池寛某女のために百五拾票を投ぜし故麦酒百五拾壜を購ひ、投票〆切の翌日これを自動車に積み其家に持帰りしと云ふ、是にて田舎者の本性を露したり、」

酒館太牙で女給の美人投票があり、ビール一壜が60銭で一票であった。菊池寛は某女のために150票を投じたが、そのビール150壜は自動車に積んで家に持ち帰ったと云うが、これで田舎者の本性があきらかになった。あんな記事を書いた菊池の悪口だったら、こんなつまらないことでも書き連ねる。荷風の意地が伝わってくる。

それから七年後、昭和11年(1936)7月2日に次の記述がある。

「七月初二。雨ふりてはまた歇む。文藝春秋社活版刷の手紙にて、同社賞金授与に関し推選すべき出版物の事を問来れり。同社は昭和四年四月その雑誌文藝春秋の誌上に於て、甚しく余が事を誹謗したり。然るに今日突然手紙にて同社営業の一部とも云ふべき事を問合せ来る。何の意なるや解すべからず。文藝春秋の余に対する誹謗の文には左の如きものあり。
 一今日荷風の如き生活をしてゐる事は幸福な事でも又許すべき事でもない。かくの如く社会に対して冷笑を抱いてゐ、社会に対して正義感を燃焼させないとしたなら当然社会は彼を葬ってもいゝ。
 一今日かくの如き社会に於て財産を唯一の楯として勝手に振舞ふといふ事ハ許すべからざる卑怯である。
 一其他くだらぬ事のみなれば畧[略]して識さず。」

この日、文芸春秋社から手紙で同社賞金授与に関し推選すべき出版物の事を問い合わせてきた。同社は昭和四年四月文芸春秋の誌上で自分の事をはなはだ誹謗したのに、今日突然手紙にて同社営業の一部とも云うべき事を問合せてきたが、どんな意味かわからない、と書き、その文芸春秋の荷風に対する誹謗の文を挙げている。

すなわち、今日荷風のような生活をしていることは幸福な事でもまた許すべき事でもない。このように社会に対して冷笑を抱き、社会に対して正義感を燃焼させないとしたなら当然社会は彼を葬ってもいい。今日このように社会で財産を唯一の楯として勝手に振舞ふといふ事は許すべきでなく卑怯である。

上記の昭和4年(1929)3月27日の日乗の記述だけでは昭和四年四月の文芸春秋の誌上にどんな誹謗の文が載ったのか不明だが、これでだいたいのことが推測できる。七年もの前の駄文をよく憶えていたものと思うが、それだけ、荷風は衝撃を受けたのだろう。二つの文を書いて、ばかばかしくなったのか、その他くだらぬ事だけなので略して書かないとして終わっている。

荷風の生活を許せないなどとしているが、それは、荷風の余裕のある暮らしぶりにけちをつける意図であろうか。上述のように荷風は父の遺産により働かなくとも生活できたが、それが許せない。勝手に振る舞うことが面白くない。なんだかこれまでの菊池の私憤がこめられているようである。

社会に対して正義感を燃焼させないとしたなら当然社会は彼(荷風)を葬ってもよい旨の文だったらしいが、正義感の押し売りで、それがないなら社会から葬れとは、昭和四年(1929)当時でもずいぶんひどい言い方である。これから、荷風は『墨東奇譚』で上述のように、文芸春秋は世に「生存させて置いてはならない」人間としてわたくしを攻撃したと記したのだろうか。

ちょうどその後、次の昭和11年(1936)9月20日の記述のように墨東奇譚を書きはじめ、上記のことを書く機会がやってきた。やられっぱなしから反撃するにはちょうどよいタイミングである。

「九月二十日日曜日 今にも大雨降来らむかと思はれながら、暗く曇りし空よりは怪し気なる風の折々吹き落るのみにて、雨は降らず、いつもより早く日は暮れ初めたり。晡下家を出て尾張町不二あいす店に飰す。日曜日にて街上雑遝甚しければ電車にて今宵もまた玉の井の女を訪ふ。この町を背景となす小説の腹案漸く成るを得たり。驟雨濺ぎ来ること数回。十一時前雨中家に帰る。
 〔欄外朱書〕墨東奇譚起稿」

また、冒頭に引用の『墨東奇譚』の一節に、『十余年前銀座の表通に頻にカフエーが出来はじめた頃、ここに酔を買った事から、新聞という新聞は挙ってわたくしを筆誅した。』とあるが、これに関連して、昭和4年(1929)10月8日に次の記述がある。

「十月初八日 雨、午後日高氏来訪、頃日青山高樹町に居を卜す、徳富蘆花旧居の跡なりと云ふ、是日大阪朝日新聞社書を寄せて揮毫を請ふ、其辞頗鄭重なり、盖文士の書画を徴集し之を売却して賑恤の資に当つ可と云ふ、朝日新聞は平素事ある毎に余の私行を訐[あば]き毫も斟酌する所なし、曾て余が銀座の酒舗に出入するや虚構の事を掲げて漫罵せしが如きは其の一例なり、是朝日新聞社の平素余に対して好意を抱かざる事を証明するものと謂ふ可し、然るに一たび人の声援を請はむとするや諂言(へつらう)を呈すること幇間の如し、余は固より新聞紙の褒貶を念頭に置くものにあらず、然れども其の為す所豹変常なきを見ては不快の感禁ずべからざるを以て、其の郵書については捨てゝ荅へず、」

朝日新聞もかつて荷風が銀座の酒舗に出入したことで偽りの記事を載せて罵ったようであるが、そのことを上記一節の文は指している。『墨東奇譚』の掲載紙が同じ新聞だったためだろうか、朝日の名を書いていないが、文芸春秋の名は、積極的に記した。遠慮などしない。それだけ荷風の恨みは深かった。

これ以降、墨東奇譚を読んだ読者は、文芸春秋はひどいことを書くものだという悪い感想をたいていは抱いてしまう。かくして荷風は文芸春秋への復讐をなしとげたのである。荷風の死した後にもなおそれは続き、復讐劇は墨東奇譚が読まれる限りこれからもずっと続く。

ところで、その雑誌の発行する出版社は、現在も存続し、そこが発行する週刊誌は、ときたま物議をかもす記事を掲載するようであるが、そのルーツは、上記のような荷風に関わる件といえるかもしれない。そうとすると、同社は、創業者菊池寛以来の悪しき伝統を引き継いでいる。この意味で、菊池が荷風にしかけた争いは、現在の原形をなし、すぐれて現代的な問題なのである。

ついでに、もう一社(出版社)の週刊誌も同じ傾向にあるが、「断腸亭日乗」大正13年(1924)11月24日に次の記述がある。

「十一月廿四日。午前新潮社の番頭来りて拙稿の出版を請ふ。固く之を辞す。新潮社は予が三田文学を編集せし時雑誌新潮にて毎号悪声を放ちしのみならず、森先生に対しても人身攻撃をなしたり。又先生易簀[えきさく/人の死]の際にも更に甚しく罵詈讒謗[ばりざんぼう/そしる]をなしたり。余いかで斯くの如き悪書店よりわが著作を出版する事を得べきや。」

新潮社の社員が荷風の原稿の出版を望んできたが、固辞した。新潮社は荷風が三田文学を編集していた時雑誌新潮で毎号悪口を言い放つだけでなく、森鴎外先生にも人身攻撃をした。また先生が亡くなった際もさんざん謗った。どうしてこのような悪書店から私の著作を出版できようか、とかなり悪く評価している。

これらの週刊誌は現在も問題となる記事を載せてよく話題になるが、たとえ事実であっても決して掲載しない記事があることに注意すべきである。たとえば、その出版社に関係するベストセラー作家の醜聞などは決して掲載しないし、場合によってはもみ消しに走ることもあるだろう。掲載の基準があいまいでいい加減なのである。万が一読むときはその程度のものとして読むべきであろう。

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
永井荷風「墨東奇譚」(岩波文庫)
永井荷風「下谷叢話」(岩波文庫)

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鷲津毅堂の墓

2016年03月30日 | 荷風

鷲津毅堂肖像 根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856)) 前回の芋坂から鷲津毅堂の墓を訪ねようと谷中墓地に向かった(現代地図)。

道なりに4~5分ほど歩いてから左に墓地へ入ってすぐの右手にあり、意外にも簡単に見つかった。乙8号の10(東京都谷中霊園案内図)。

以前、街歩きをはじめて間もないころ谷中に来たとき、かなり探したが見つからなかったのに、今回はあっけないほど簡単であった。前回は東側から霊園の中に入って探したのであるが、この芋坂から続く道沿いからのアクセスの方がはるかにわかりやすい。

鷲津毅堂は永井荷風の外祖父(以前の記事)。

荷風の日記「断腸亭日乗」大正12年(1923)8月19日に次の記述がある。

『八月十九日。曇りて涼し。午後谷中瑞輪寺に赴き、枕山の墓を展す。天龍寺とは墓地裏合せなれば、毅堂先生の室佐藤氏の墓を掃ひ、更に天王寺墓地に至り鷲津先生及外祖母の墓を拝し、日暮家に帰る。』

このころ、荷風は、江戸末期から明治初期に活躍した漢詩人の大沼枕山や鷲津毅堂などの伝記・事績の考証・執筆を企て(「下谷のはなし」、後の「下谷叢話」)、枕山・毅堂のことをさかんに調べていたが、この日、谷中の瑞輪寺に行き、大沼枕山の墓をお参りしてから、墓地が裏合わせである三崎町天龍寺の毅堂夫人佐藤氏の墓、さらには天王寺墓地の毅堂とその後妻(外祖母)の墓をお参りした。

二枚目の尾張屋清七板江戸切絵図(根岸谷中日暮里豊島辺絵図(安政三年(1856)))に、天王寺、瑞輪寺、天龍寺が描かれている。

鷲津毅堂の墓 鷲津毅堂の墓 一、二枚目の写真は鷲津家の墓地で、正面中央の墓に 「司法權大書記官従五位勲五等鷲津宣光墓」とあり、鷲津毅堂の墓である。左が「鷲津宣光配佐藤氏之墓」で、先妻の墓、右が「鷲津宣光後配川田氏之墓」で、後妻の墓である。

鷲津家を幽林から記すと、幽林の三男名は混、字は子泉、松隠と号し、丹羽村の鷲津家を継いだが、松隠の隠居後、松隠の嫡子徳太郎が家学を継いだ。徳太郎、名は弘、字は徳夫、益斎と号し、その家塾を有隣舎と名づけた。益斎には妻磯谷氏貞との間に三人の子があり、伯は通称郁太郎後に貞助また九蔵、名は監、字は文郁、号を毅堂といった。

幽林の長男典が大沼枕山の父で、家を継がず江戸に出て、大沼又吉の養子となった。竹渓と号して化政の頃江戸の詩壇に名を知られた詩人であった。

文政元年(1818)三月十九日生まれの捨吉(枕山)が、天保六年(1835)鷲津氏の家塾に寄寓していた時、郁太郎(毅堂)は十一歳であった(下谷叢話 第四)。

弘化三年(1846)正月十五日、本郷丸山から起こった江戸大火で、昌平黌の校舎と寄宿舎は灰燼となった。この時鷲津毅堂は既に江戸にあって昌平黌に学んでいた。毅堂が江戸に到着した日は詳でないが、弘化二年の冬より以前ではない。

これより先毅堂は天保十三年(1842)十一月二十八日に父益斎を喪った。それから三年後、弘化元年、二十歳の時、先考の遺命を奉じて伊勢安濃津に赴き、藤堂家の賓師猪飼[いかい]敬所について主として三礼の講義を聴いていた。猪飼敬所は当時博学洽識を以て東西の学者から畏敬せられていた老儒で、頼山陽の『日本外史』などは予め敬所の校閲を俟って然る後刊刻せられたといわれていた。毅堂は敬所に従って学ぶこと一年ばかりにして弘化二年十一月十日にその老師を喪った。

毅堂は、安濃津の藩校有造館では学術が盛んであったが、この地に留まらず空しく尾州丹羽の家に還った。母磯貝氏はその子の学成らずして中途に還り来ったのを知り、折から雪の降っていたにもかかわらず家に入ることを許さなかった。母は愛児が安濃津に行こうとした時、紅白の小帛[こぎれ]を毅堂の著衣の襟裏に縫いつけ、これを母の形見となし名を成すまでは決して家の閾を履んではならぬと言いきかせた。毅堂は雪の夕わが家の門を鎖され、ここに翻然として志を立て蔭ながら直に東遊の途に上った。かくて毅堂は元治元年四十歳の時、暫時帰省する日まで、凡二十年の間慈母の面を排することができなかった。

毅堂は生涯深く母の恩を感じ、晩年雪を見るごとに子弟門生に向ってその身の今日あるを得たのは、母のよく情を押えて雪夜家に入る事を許さなかった故である。もし慈君の激励に会わずばその身は碌々として郷閭[きょうりょ/故郷の村]に老いたのであろうと語っていた。これは下谷の鷲津氏の家について聞き得たことである。

以上は、「下谷叢話」(第十五)からの引用である。荷風は、さらに、鷲津毅堂母子の逸事の如きは特に記すべき価なきものかも知れない。大正十二、三年の世にあってたまたまこれを聞くに及んで、そのままこれを棄去るに忍びない心地がした、と書いているが、この2015,6年の現代ではどうであろうか。

弘化三年(1846)中秋の頃、横山湖山と枕山は例年のとおり隅田川に舟を泛[うか]べたが、新たに鷲津毅堂ら三名が加わった、とあることから、枕山と毅堂とのつき合いがはじまっていることがわかる。

安政五年(1858)七月、毅堂の妻佐藤氏みつが没し、谷中天竜院に葬られた。この墓を荷風は訪れているが、その後、現在のように谷中墓地に改葬されたのであろう。

毅堂は継室川田氏美代を娶ったが、その年月を詳にしない。文久元年(1861)九月四日に次女恒が生まれた。

「恒は明治十年七月十日神田五軒町の唐本書肆の主人林櫟窓の媒介で、毅堂の門人尾張の人永井匡温に嫁した。恒は今ここにこの下谷叢話を草しているわたくしの慈母である。」(下谷叢話 第三十)

参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
永井荷風「下谷叢話」(岩波文庫)

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