東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

左内坂(杉並)の坂名の由来

2024年04月06日 | 坂道

かなり前に「左内坂(杉並)」の記事で杉並区堀ノ内三丁目8番地と13番地との間にある小坂(現代地図)を紹介した。左はその坂の中腹付近の写真(2013年4月撮影)で、坂上に向かって左に左内坂教会がある。そのHPによると、創立は1932年(昭和7年)7月11日である。
左内坂(杉並)中腹

この坂名の由来について市ヶ谷にある同名の坂と同じように名主のような人名かもしれないのようにその記事に書いた。最近、これについて次のコメントがあった。

『左内坂教会は市ヶ谷の左内坂にあった左内坂教会が堀ノ内に移転してきたのです。左内坂教会・左内坂幼稚園の前の坂がその内いつしか左内坂と呼ばれるようになったようです。』

このコメントについて大いに興味を覚えたが、いろいろと忙しいことがあって、年をとると2つ以上のことを並行して行うことも難しいせいもあり、おまけにちょっと時間ができて戦前の牛込区市ヶ谷の地図から調べたら、左内坂教会が示された地図を発見できず、ようやく文献に市ヶ谷の左内坂教会の記載を見つけ、次のことがわかった。

昭和5年(1930)牛込区市谷左内町付近地図 市ヶ谷の左内坂にかつて左内坂教会が存在した。創立は明治7年(1874)7月11日、住所は市谷左内町二九。

左は、昭和5年(1930)の牛込区市谷左内町付近の地図で、外堀通りの「市谷見附」駅の右すぐ左折する道筋が北へ延びているが、これが左内坂で外堀通りから上る。坂上辺りに市谷左内町「29」番地が見えるが、左内坂教会は示されていない。

創立が明治7年(1874)7月11日とかなり古い。明治政府は、当初、徳川幕府のキリシタン禁制を踏襲したが、米国などからの外圧や条約改正等のためこれを断念し、明治6年(1873)2月19日キリシタン禁制の高札を撤去した。その翌年に設立されているので、日本のキリスト教会の草分け的な存在といってもよさそうである。しかし、左内坂教会についてのさらなる文献は見つけることができず、左内坂教会が市谷左内町から杉並堀ノ内に移転した経緯や理由は不明である。

一つ注目されるのは、新旧の左内坂教会の創立日が同じ(7月11日)であることで、これは偶然の一致ではなく杉並の現教会の創立を元の教会の創立日にあわせたためのように感じられ、この創立日一致が、移転の事実を裏付ける証左のように思われる。

市ヶ谷の左内坂の坂上にあった左内坂教会が戦前杉並の現在地に移転し、その教会名を引き継ぎ、そこにたまたま坂(本家本元の左内坂よりもかなりの小坂)があったため、その坂が左内坂とよばれるようになったというのが、左内坂(杉並)の坂名の由来のようである。

そうだとすると、大変おもしろい坂名の付き方である。坂にある施設の名称がその坂名で、その施設が移転し、移転先でもその坂名の施設名を使用したが、そこに坂があったため、その坂にその施設の坂名がついてしまった、ということで、他の同じ例がすぐに浮かばない。この点でユニークな坂ともいえそうである。

なお、上記地図の同番地に東京学院があるが、東京学院は、アメリカ北部バプテスト(キリスト教プロテスタントの一教派)が1895年(明治28年)9月10日に築地居留地に設立した男子校で、1899年(明治32年)9月14日に東京学院と名称変更し、同年10月28日に牛込区市谷左内坂町29番地に移転した。関東学院の源流の一つ(wikipedia)。東京学院と左内坂教会との関係は不明。市谷左内坂町は、明治期までの町名で、明治44年に消滅し、市谷左内町となった。

ところで、日本キリスト教団所属の都内の教会の中で坂名が付いた教会として、左内坂教会以外に、十貫坂教会、鳥居坂教会、麻布南部坂教会、霊南坂教会、行人坂教会、柿ノ木坂教会、上富坂教会などがある。

参考文献
「新宿区史」昭和30年3月 新宿区役所
「地図で見る新宿区の移り変わり 牛込編」1982年 東京都新宿区教育委員会
海老沢有道・大内三郎「日本キリスト教史」(日本基督教団出版局)
本間信治「江戸東京地名辞典」(新人物往来社)
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)

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九段坂下(2017)

2017年07月10日 | 坂道

前回の千代田区役所から出て、交差点を渡り、九段下の交差点に向かう。

九段会館 九段坂下 途中、九段会館前を通るが、ここは、旧軍人会館で、昭和11年(1936)の2・26事件のとき戒厳司令部が置かれた。昭和9年(1934)にできたかなり古い建物で、3・11(2011)東日本大震災で被害を受けたため、現在、使用されていない。名前は知っていたが、この建物を実際に見るのははじめてのような気がする。

まもなく九段下の交差点に至るが、ここは九段坂の坂下である。二枚目の写真は、交差点を左折したところにある地下鉄の出入口付近から坂上を撮ったものである。この坂は靖国通りにあり、坂上を左折すると田安門である。

九段坂下 九段坂下 坂下側に進み、九段下の交差点を横断するが、この坂は進行方向(東側)にまだわずかであるが下りになっている。横断して歩くと、地下鉄出入口、さらにバス停があるが、その辺りがもっとも低い(現代地図)。

一枚目の写真はバス停前の辺りを撮ったもので、その向こうは首都高速の下の俎橋であるが、この橋に向かってわずかに上りになっている。

はじめてこの坂にきたとき、靖国通りと目白通りとの交差点(九段下)から上ったため、交差点の辺りを坂下として記事にしたが、この辺りを坂下とした方がよかった。二枚目の写真は、そのバス停の辺りから坂上側を撮ったもので、この辺りから見ると、この坂がいっそう長く感じられる。

「江戸の坂 東京の坂」カバー写真 飯田町駿河台小川町絵図(文久三年(1863)) 横関英一著「江戸の坂 東京の坂」は坂愛好者のバイブル的存在であるが、一枚目は、そのちくま文庫版のカバー写真で、次の註がある。

「東京九段坂」明治26年 画像提供 国立国会図書館『写真の中の明治・大正』

現在の九段下の交差点の辺りから撮ったものであろうか。道はかなり広いが、現在はもっと広い。道の右端に屋敷の塀が見え、坂上左側の淵際に街路樹が見える。道いっぱいに広がってたくさんの人が往来をしている。いちばん手前の女性がなにかを背負っていて、下駄を履いている。その左にちょっと離れて子供がいるが、その後ろに横顔の見える若い男は裸足である。荷車を引いている(押している)人が多く見えるが、この坂の上りには難渋したであろう。傘を差している人もいる。右手の白い服の男は警官であろうか。当時の人々や坂の様子がわかる貴重な写真である。地図ではわからない。

二枚目は、尾張屋清七板の飯田町駿河台小川町絵図(文久三年(1863))の部分図である。田安門の下側(北)に九段坂が表示されている。小笠原加賀守の屋敷や水野監物の屋敷などの角の四差路が現在の九段下の交差点付近であろうか。

橋を渡って神保町方面に向かい、古本屋街をうろうろしたが、収穫なし。東京堂で柴田哲孝「下山事件 暗殺者の夏」(祥伝社文庫)を購い、神保町駅へ。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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天狗坂

2017年04月08日 | 坂道

天狗坂近く 天狗坂近く 天狗坂近く 天狗坂下 天狗坂下




前回南平坂上を左折し、坂を下り、坂下の鉢山交番前の四叉路を左折し、東へ向かう。ここを直進すると、かめやま坂の上りで、そのまま進めば代官山方面にいたる。

ちょっと歩くと、T字路があり、ここを左折すれば、先ほどの鞍部のある四叉路。道なりに歩き、桜丘郵便局前の交差点を越えてさらに進む。この道がこのへんの谷底でないことが、右側に道よりも低いところがときおり見えることでわかる。休日のためか車も人も少なく、静かである。

しばらくすると、右手にまっすぐに下る坂が見えてくるが、ここを下る(現代地図)。一枚目の写真はその坂上から撮ったもので、二枚目は坂下を左折し、ちょっと歩いたところで、右手に小さな公園がある。このへんは渋谷区鶯谷町で、むかしからの地名が残っている。鴬(ウグイス)の鳴いていた谷だったと想像されるが、地名は、直接的にはかつてあった鴬橋に由来するという。

さらに直進し、次を右折し、ちょっと進むと、三枚目のようにかなり緩やかだが上りとなっている。その向こうに四枚目のように通りが見え、その先に食い違っているが、坂下付近が見えてくる。ここが天狗坂である(五枚目)。四、五枚目の坂下の通りは、かめやま坂の坂上の一商前の四叉路を左折してきた道である。

天狗坂下 天狗坂下 天狗坂中腹 天狗坂中腹 天狗坂中腹




天狗坂は、その通りからまっすぐに南へ上る小坂である。渋谷区猿楽町2番と3番との間(現代地図)。勾配も中程度よりも緩やかといった感じで、坂下に車止めが見え、歩行者専用である。かなり短く、30m程度。

以前、初めて訪れたとき、あまりにも単調な上りの小坂で、その意外感からちょっと驚いた覚えがある。もっと風情のある坂でも無名の坂が多いのにと思うが、要するに、それだけで坂名の有無は決まらないということである。

戦前(昭和16年(1941))の昭和地図を見ると、先ほど下った坂から公園わきを通りこの坂上までの道筋があるので、戦前からできていたことがわかる。 

天狗坂上 天狗坂上 天狗坂車止め 天狗坂上 天狗坂標識




坂上近くの車止めにこの坂名が刻まれている(一、三枚目の写真)。坂上右側の塀わきに坂の標識が立っていて、次の説明がある(五枚目の写真)。

『天狗坂  猿楽町5番
 この坂を、天狗坂といいます。岩谷松平(号を天狗、嘉永二年~大正九年 一八四九~一九二○)は鹿児島川内に生まれました。明治十年に上京し、間もなく銀座に、紙巻煙草の岩谷天狗商会を設立し、その製品に金天狗、銀天狗などの名称をつけ、「国益の親玉」「驚く勿れ煙草税金三百万円」などの奇抜な宣伝文句で、明治の一世を風靡しました。
 煙草の製造に家内労働を導入するなど当時としては画期的、独創的な工夫をしました。
 明治三八(一九○五)年煙草専売法が実施されると、この付近の約四万三千平方メートル(一万三千坪)の土地に、日本人の肉食による体質の向上を考えて、養豚業を始めるなど、国家的な事業に貢献しました。晩年、岩谷天狗がこの地に住んだことから、この坂の名が生まれました。  渋谷区教育委員会』

坂名は、明治時代に紙巻煙草で有名な岩谷松平(天狗)に由来する。晩年にこの地に住み、その旧居跡を岩谷天狗山とよんだが、この坂の近くなのであろう(明治のたばこ王 岩谷松平)。

坂上はT字路になっていて、そのまま直進すると八幡通りで(ここを右折すれば代官山方面、左折すれば並木橋方面)、すぐに右折したところに庚申塔などの案内標識が立っている。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
竹内誠編「東京の地名由来辞典」(東京堂出版)
「東京地名考 上」(朝日文庫)

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間坂上~南平坂上

2017年04月03日 | 坂道

間坂上~南平坂上 間坂上~南平坂上 間坂上~南平坂上 間坂上~南平坂上 間坂上~南平坂上




前回の間坂の坂上から南平坂を目指す(現代地図)。ここから先、この坂上からどんな道筋が南平坂まで延びているのかと想うとわくわくした。こんなふうに感じながら街歩きをするのも久しぶりである。

いきなり坂上からほぼまっすぐに中程度の勾配で下る坂になっている。やがて左に曲がるが、やや大きいカーブでその先も下りながら曲がっているようでその先が見えない。くねくねと曲がっていて楽しい。

間坂上~南平坂上 間坂上~南平坂上 間坂上~南平坂上 間坂上~南平坂上 間坂上~南平坂上




左に曲がり次に右に曲がって下っていくと、やがて坂下が見えてくるが、驚いたことにここが鞍部で、おまけに四叉路になっている。つまり、間坂上から下ってきた道が直進方向(西側)の南平坂に向かってふたたび上り坂になっていて、左右の道は左(南)から右(北)へ緩やかであるが上り坂になっている。間坂上から南平坂上までの途上には二つの無名の坂とその間に鞍部が存在し、そこを緩やかな勾配の坂道が横切っている。この坂も無名である。

上五枚目の写真は四叉路を右折し、坂上側から坂下を、下一枚目は左折し坂下側から坂上を撮ったもので(今年になってから撮影)、坂上を進むと246号線である。

この鞍部に直交する坂は、道玄坂の坂上周辺に広がる台地からちょっと傾斜した南緩斜面にあり、ここに間坂上からと南平坂上から二つの坂が下ってきて合流している。ここはかつて南へと延びていた谷筋であったように思われてくる。

間坂上~南平坂上 間坂上~南平坂上 間坂上~南平坂上 間坂上~南平坂上 間坂上~南平坂上




四叉路を通り過ぎるとふたたび上り坂で、まっすぐに緩やかに上っている。南平台町5番と6番との間を西へ上る(現代地図)。

途中、ふり返ると、さきほどの間坂上から下ってきた坂下と四叉路が見える。

戦前の地図(昭和16年)や戦後の地図(昭和31年)には、間坂上から南平坂上までの道があり、渋谷駅近くの間坂下から南平坂上まで戦前から続く道筋であったことがわかる。

間坂上~南平坂上 間坂上~南平坂上 間坂上~南平坂上 南平坂上 南平坂中腹




やがてかなり緩やかになって、ちょっと右へ左へとカーブすると、坂上で、正面に聖ヶ丘教会が見える(現代地図)。ここで南平坂の坂上と合流し、四枚目の写真はその坂上を、五枚目はその中腹を撮ったものである。

岡崎が南平坂の項で『南平台町四、五の間をカーブしながら下る無名坂がある。坂上に溢れる木の繁みが美しい。』と記述しているが、その無名坂がこの坂と思われる。

渋谷駅近くの246号線わきから間坂を上り、その坂上からいったん下り、ふたたび上って南平坂上にいたったが、期待にたがわずはなはだ興味深い道筋であった。

前回、道玄坂経由で南平坂を訪れたが、今回の道筋でアクセスすると、かなり静かな坂道散歩となる。賑やかで騒々しい道玄坂を避けたいときにはこちらがよく、しかも凹凸の変化に富んだコースである。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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間坂(渋谷)

2017年03月29日 | 坂道

昨年秋に渋谷の坂巡りをし、何回か記事にした。その後も出かけたのであるが、記事にするのが遅れた。南平坂の記事を書いたとき、この坂につながる坂らしき道があることに気がつき、それから、ここが気になっていた。

間坂下 間坂下 間坂下 間坂中腹 間坂中腹

 

 

 

 地下鉄の渋谷駅から地上に出ると、駅周囲は工事中であるため、景観がかなり変わっており、一瞬方向を失うが、歩道橋の上り口を見つけ、246号線方向に向かう。246号線を越えて歩道橋から降りると、近くにそこから分岐した道があり、一車線の緩やかな上り坂になっている(現代地図)。ここが間坂である。渋谷区桜丘町24番と25番の間を南西へ上る。

この坂は、いつもの坂の本にはないが、ホームページ「東京23区の坂道」に紹介されている。「あいださか」と読む。このHPには渋谷のもう一つの間坂も紹介されている。スペイン坂近くにあるが、こちらは「まさか」とのこと。

間坂中腹 間坂中腹 間坂中腹 間坂中腹 間坂中腹

 

 

 

 坂下からしばらくはあまり特徴のない坂だが、ニッポンレンタカーのところで、左に緩やかにカーブしその上で右にまたちょっとカーブしている。ここまではビルの谷間の坂道といった感じであったが、ここから上側は左右に歩道が広くできており、ゆったりとしている。坂の途中で雰囲気がかなり変わるが、こんな坂も珍しい。右手(北側)にある高層ホテルの裏手(坂側)が公園風になっていて、そちら側が広めに感じられるせいでもある。このホテルの裏側にはもう一つ歩道があり、246号線の歩道につながっているが、坂道になっている。

渋谷は坂が多く、道玄坂宮益坂が代表的であるが、これだけではなく、いたるところに坂があることはちょっと渋谷を散策すると実感できる。無名の坂が多いようであるが、ここは坂名がある。(あまり知られていないようであるが。)

間坂中腹 間坂中腹 間坂中腹 間坂中腹 間坂中腹

 

 

 

坂中腹の左側に日本経済大学があり、この上側で緩やかに右に曲がっているが、そこから上はほぼまっすぐに中程度の勾配で上っている。休日であったためか、人通りが少なく、繁華街の道玄坂宮益坂などとはまったく違う静かな雰囲気である。

坂名のいわれは不明であるが、間坂「あいださか」の名から連想すると、すぐ近くの246号線(または道玄坂)となにかとの間(並列)、または、246号線とその先のなにかとの間(直列)にあることから命名されたのであろうか。

坂と坂との間に新しい坂ができると、そこを中坂と命名するのが江戸期以来の伝統である(たとえば、九段坂冬青木坂の間の中坂)。ここははっきりしないが発想が似ているように思われる

間坂上 間坂上 間坂上 間坂上 間坂上

 

 

 

 しだいに勾配が緩やかになって、ちょっと右にカーブし坂上にいたるが、ここが四差路になっていて、右折すると、246号線である。坂下の246号線からここまでかなりの距離があるが、坂上が道玄坂上と同じ標高とおもわれ、道玄坂と同様に長い坂である。

戦前の地図(昭和16年)や戦後の地図(昭和31年)を見ると、この道に相当する通りがあり、現在、この間に246号線ができたため、かなり変わっているが、渋谷駅近くから南西へ延びていた。とくに、戦前の地図では、この道はこのへんの主要な道路であったように見える。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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夕やけ坂

2016年11月24日 | 坂道

夕やけ坂下 夕やけ坂下 夕やけ坂下 夕やけ坂中腹 夕やけ坂中腹




内記坂の坂上側の四差路を坂上から右折し東南へ進む(現代地図)。こちら側は先ほどの人通りの多い坂上と違った雰囲気で、静かな住宅街が続く。

やがて坂の上にいたる。ここが夕やけ坂で、長谷戸小学校のわきをまっすぐに下る。

写真を坂下から並べる。

渋谷区恵比寿西一丁目18番と19番の間を西へ上る(現代地図)。恵比寿公園前の信号のあるT字路の交差点のところで、左側が公園になっている。

夕やけ坂中腹 夕やけ坂中腹 夕やけ坂上 夕やけ坂上 夕やけ坂上




この坂は、標識が立っていないが、冨田「東京坂道散歩」やHP「東京23区の坂道」に紹介されていたので、以前から訪れたいと思っていたところである。調べたら内記坂に近いことがわかったので、今回の予定に入れた。

坂名は、童謡「夕やけこやけ」に由来する。小学校のわきに立っている石碑の説明にあるように、この歌は、中村雨紅が作詞、草川信が作曲で、草川は音楽学校を卒業してすぐ大正六年(1917)4月に長谷戸小学校の音楽教師となって、昭和二年(1927)4月まで勤務したが、その間に多くの歌を作曲した。そのうちの一つが「夕やけこやけ」。

上りはじめはかなり緩やかであるが、右に大きく曲がってから、小学校のわきでかなりの勾配となる。ちょうどそのあたりに上記の石碑が立っている。

坂上から夕陽が見えるのだろうか、それを確かめられなかったのが少々残念であった。

坂下から恵比寿駅へ。

参考文献
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
冨田均「東京坂道散歩」(東京新聞出版局)

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内記坂

2016年11月21日 | 坂道

渋谷山手線沿い 猿楽橋への階段 猿楽橋 渋谷山手線沿い




代官坂上から小路を通り抜けて八幡通りを右折し、北へ歩く。途中、信号で左折し、天狗坂を下り、右折し、そのまま道なりに右の方に歩いていくと、やがて、先ほどまでの八幡通りの猿楽橋のガード下に出る。この辺から山手線沿いに道が延びている(現代地図)。ガードをくぐり抜け、南へ歩く。

内記坂下 内記坂下 内記坂下 内記坂中腹 内記坂中腹




やがて恵比寿西一丁目の交差点(五差路)にいたるが、ここを右折し、代官町方面に向かい、すぐに左折する(現代地図)。そのまま道なりに進むと、前方にかなり緩やかだが、坂下が見えてくる。そのあたりから撮ったのが一枚目の写真で、ここが内記坂である。

渋谷区恵比寿西二丁目17番と恵比寿西一丁目30番との間を西へ上る(現代地図)。坂の標識は立っていない。

緩やかな坂下から左に大きく曲がりながら上り、しだいに勾配がついてくる。低層のビルが坂の両側に続く。

内記坂中腹 内記坂中腹 内記坂中腹 内記坂上 内記坂上




カーブしながら上ると、勾配が緩やかになって、ちょっと大きな四差路があるが、ここを越えた坂上側はかなり緩やかである。この坂は実質的にはこの交差点をちょっと越えたあたりまでである。

坂上のあたりは、ちょうど代官山駅の東側。裏山といった感じで、人通りがちょっと多いが落ちついた山の手の雰囲気がする。

この坂は江戸時代から続くことが横関の説明からわかる。横関によれば、明和九年(1772)ころの江戸地図に、下渋谷のところに松平備前守の下屋敷があるが、その屋敷の南わきの道路に、坂の印とともに「ナイキ坂」とあるという。そして、ナイキ坂というのはゲキ坂(外記坂)と同様に、官職名の呼称からできた坂の名で、この坂の側にかならずナイキ(内記)を名のる人が住んでいて、その名前が坂の名になったとする。

たしかに本郷一丁目にある外記坂(新坂)は、この坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があったことが坂名の由来である。

分間江戸大絵図(文政十一年(1828)) 手持ちの江戸地図のうち、分間江戸大絵図(文政十一年(1828))を見ると、ナイキ坂が示されていることがわかった。左図がその部分図であるが、横関に載っている明和九年(1772)ころの江戸地図と似ている。この中央右側に斜めに流れている川が渋谷川(右側が上流)で、その上流近くに宮益坂(ミヤマス丁)が見え、その先で渋谷川にかかる橋が富士見橋、そこから上(西)に延びる道が道玄坂。ミヤマス丁の左斜め下にある八幡神社が金王八幡、その前が古くには鎌倉街道とよばれた八幡通り、その先にかかる橋が並木橋、その下流にかかる橋が庚申橋である。庚申橋近くの下シブヤ丁の道を左(西)にちょっと進み、右折した先の道に坂の印(多数の横棒)が示され、そのわきに「ナイキ坂」とある。その右(北)に松平山城の下屋敷があるが、内記とよばれる武家屋敷はない。

横関は、さらに宝暦七年(1757)の江戸大絵図、寛延三年(1750)の江戸絵図を見て、後者の江戸絵図に、「松平丹後守抱[かかえ]ヤシキ」の近くに「横山内記抱屋舗」を発見している。松平丹後守は宗教で、松平備前守治茂の兄。しかし、寛延三年(1750)の江戸絵図で横山内記の屋敷のある前の道は、金王八幡の方から延びる八幡通りになっている。宝暦七年(1757)の江戸大絵図でも松平丹後守の屋敷が八幡通りの前で、これら二つの絵図ではナイキ坂は八幡通りにあるが、これらは誤りで、三つの絵図の中でもっとも新しい明和九年(1772)ころの江戸地図が正しい位置を示しているとしている。これら三つの絵図の部分図が横関に載っている。

さらに、その後の分間江戸大絵図(文政十一年(1828))は、明和九年(1772)ころの江戸地図と同じ道筋を示しているが、この横関の結論を裏付けているといえそうである。

寛延三年(1750)の江戸絵図の横山内記は、横山内記清章といい、当時定火消の頭で、のちに西の丸御小姓組の番頭となり、采地四千五百石取りの大身の旗本であったという。

現代地図を見ると、渋谷川の庚申橋から西へ進み、山手線を横切ると、恵比寿西一丁目の交差点であるが、ここを左から二本目の道に南へ進み、次を右折すると、内記坂へいたるが、この道筋が、上記の分間江戸大絵図(文政十一年(1828))にある、庚申橋から西側に進み右折し、その先にナイキ坂とある道筋と合うように見える。

御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 当ブログでは、江戸地図として、尾張屋清七板江戸切絵図と御江戸大絵図(天保十四年(1843))をよく引用するが、前者は道玄坂より西側の絵図がなく、左図は上記の分間江戸大絵図(文政十一年(1828)の部分図と対応する後者の部分図である。これからわかるように、渋谷川の上側(西)には道と山以外はなにも描かれていない。この絵図(天保十四年(1843))よりも古い分間江戸大絵図(文政十一年(1828)やもっと古い明和九年(1772)ころの江戸地図の方が詳しい。なんとも不思議な感じがするが、江戸終期には、これら古い絵図に描かれている武家屋敷が消滅したということであろうか。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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代官坂(2)

2016年10月28日 | 坂道

代官坂(2) 代官坂(2) 代官坂(2) 代官坂(2) 代官坂(2) 代官坂(2)




代官坂(1)の坂下を右折し、代官通りを南へほんのちょっと歩くと、右手に小路があり、その先に階段坂が見える。

ここがもう一つの代官坂で(山野)、前回の代官坂(1)に対し代官坂(2)とした。ここも標識は立っていない。渋谷区代官山町12番と14番との間を西へ上る(現代地図)。

となりの代官坂(1)は中央にステップのあるタイプであるが、ここは普通の階段坂。ただし、踊り場がたくさんできている。まっすぐではなく、微妙に曲がっている。

代官坂(2)

代官坂(2) 代官坂(2) 代官坂(2) 代官坂(2) 代官坂(2)




家と家との間の小路にあるため、かなり狭く感じる階段であるが、上下するとき、どこかの異次元空間に赴くような錯覚に陥ってしまいそうである。

街の中に独特の景観をつくりだしている。坂下から見たのと、坂上から見たのでは、まったく違う眺めになっているのがおもしろい。

となりの階段坂も含めて、この付近の迂回路になっているように見えるが、このような回り道は、日常の中で非日常を感じさせる貴重な存在のような気がする。

戦前(昭和16年(1941))の昭和地図を見ると、八幡通りと代官通りとを結ぶ道があるが、この坂のある小路と思われる。代官坂(1)の方は、途中で途切れていたが、ここはちゃんとつながっている。

階段を上り、小路を通り抜けて八幡通りに出る。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
竹内誠編「東京の地名由来辞典」(東京堂出版)

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代官坂(1)

2016年10月27日 | 坂道

かめやま坂上の都立第一商高前(現代地図)からそのまま、東南へ代官山駅方面に進む。

都立第一商高前の交差点を右折し、西へ歩き、旧山手通りを横断すると、上村坂上で、坂を下れば目黒川方面。左折すると、鴬谷町と猿楽町との間の通りで、後で行く天狗坂下方面。

代官坂(1) 代官坂(1) 代官坂(1) 代官坂(1) 代官坂(1)




やがて代官山駅入口の交差点にいたる。ここを横断し、左へ進み、八幡通りを北へ歩く。そのまま進めば、山手線を越え、明治通りの並木橋の交差点を渡ると、八幡坂下であるが、そのずっと手前、代官山町11番と12番との間を右折する(現代地図)。

小路がまっすぐに延びている。入り口近くにカフェなどがあるが、中に入ると静かな住宅街で、駅前の喧噪さはない。やがて階段坂の上にいたるが、ここが代官坂で、坂下に見えるのが代官通り。標識は立っていない。

渋谷区代官山町10番と12番との間を西へ上る(現代地図)。

写真を坂下から並べる。

コンクリートのスロープの真ん中にステップができているが、階段坂でときたま見かけるタイプで、ここにはないが手摺りがあるものが多い(たとえば、西片の曙坂や本郷の外記坂や小日向の鼠坂)。中程度の勾配でまっすぐに上っている。

代官坂(1) 代官坂(1) 代官坂(1) 代官坂(1) 代官坂(1)




この坂名は代官山という地名からきているが、この地名は、そのむかしこのあたりは山林地で、その山林が代官所の管轄林であったことに由来する。

石川によれば、代官山と称した地域は中・下渋谷にわたるかなり広範囲だったが、昭和三年(1928)一月、渋谷代官山の一部が代官山とされ、その前年の十月、東横電鉄の渋谷橋~目黒間が開通し、代官山駅ができたこともあって、代官山の名称はこのあたりに限定されてしまった。

石川は、古くからの坂ではなく、昭和初年ごろからいわれはじめたと推測している。ところが、戦前(昭和16年(1941))の昭和地図を見ると、八幡通りから入る小路と、代官通りから上るかなり短い道とが示されているが、その間が途切れている。地図にもない小径があったのか、それともその間に別のものがあったのか、不明である。

坂下の代官通りに出ると、なんとなくなつかしい感じがし、下町のような雰囲気を醸し出している。このすぐ東側を東横線が通っていたが、最近、渋谷駅から代官山駅の手前まで地下化されている。

この坂下のすぐとなりにもう一つ階段坂があるが、これを代官坂とする説もある(山野)ため、今回の坂を代官坂(1)とし、次に代官坂(2)に行く。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
竹内誠編「東京の地名由来辞典」(東京堂出版)

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かめやま坂

2016年10月25日 | 坂道

かめやま坂下 かめやま坂下 かめやま坂下 かめやま坂下 かめやま坂中腹




南平坂の坂下は、鉢山橋交番前の交差点であるが、そのまま南へ上る坂が続く。これがかめやま坂である。

一枚目の写真は南平坂下近くからかめやま坂を撮ったもの、四枚目はこの坂の中腹から坂下を撮ったもので、その向こうが南平坂

坂下から中程度よりも緩やかな勾配でまっすぐに南へ上っている。標柱などの標識はない。渋谷区鉢山町2番と10番の間を南に上る(現代地図)。

坂に沿って樹木が並び、かなり背の高いのもあるが、片側だけだったり、途切れ途切れだったりで、このため、明るい感じがする。先ほどまでの南平坂は鬱蒼とし、ちょっと暗く、陰の感じであるが、それと比べるとこの坂は陽である。両坂を通り抜けると陰陽の変化を感じる。

この坂を下って坂下で左折すると、旧山手通り方面で、西郷山公園の近く。右折すると、桜丘町と鶯谷町との間を通って山手線方面。

かめやま坂中腹 かめやま坂中腹 かめやま坂中腹 かめやま坂中腹 かめやま坂上




この坂は、勾配のある部分は意外に短く、上ってまもなくかなり緩やかになり、そのまま長く延び、都立第一商高前まで続く。このあたりではほとんど平坦であるが、ふり返ると、坂下側に向けてほんの少し勾配がついているのがわかる。

この坂は、岡崎、山野に紹介されているが、坂名の由来は岡崎、山野ともに不明としている。坂の形状(亀の背)によると推測する説があるが(この記事)、確かにその形に似ている。

かめやま坂と南平坂は坂下の底部(V字谷)を挟んで対向しているが、このような坂は他にもある。たとえば、赤坂の薬研坂や三番町の御厩谷坂。これらは向き合う二つの坂が同じ坂名となっているが、一番町の永井坂・袖摺坂は向き合っていても違う坂名となっているので、この坂と同じである。

かめやま坂上 御江戸大絵図(天保十四年(1843))




戦前(昭和16年(1941))の昭和地図には、南平坂から続くこの坂の通りがあり、坂下には鉢山派出所、坂上には府立第一商業が見えるので、いまと同じである。

二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))には、宮益町から渋谷川を越えて上(西)へと延びる通りが描かれている。ここが道玄坂で、その左側(南)に描かれている山のあたりが、南平坂と同じようにこの坂のある台地と谷であったのであろう。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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南平坂

2016年10月17日 | 坂道

今回は、渋谷の道玄坂を上り、そこから南平坂などをめぐり、恵比寿方面にいたった。

道玄坂下 道玄坂中腹 道玄坂上 道玄坂上




午後渋谷駅下車。

北口から出て左手に進み駅前の交差点を渡ると、道玄坂下で、この坂の左側(南)の歩道を上る。交差点から坂下にかけてたいへんな人混みで、早足で歩こうとすると、ぶつかってしまいそうになる。しかし、坂を上るにつれてだんだんと混雑が解消していく。

宮益坂からはじまって道玄坂を上る通りは、かつての相模街道(大山街道)の始まりで、そのため江戸期の宮益坂(富士見坂)は茶店酒亭で賑わったらしいが(江戸名所図会の挿絵)、いまもこの両坂を含めた通りは、渋谷のメインストリートといってよく、にぎやかである。

坂上近くにちょっと古めの標柱が立っている(四枚目の写真)。

南平坂下 南平坂下 南平坂下 南平坂下 南平坂中腹




道玄坂上近くの標柱が立っている交番前交差点を左折し(現代地図)、しばらく歩くと、国道246号線の歩道にいたる。ここを右側に進んだところにある地下道で横断する。地下道の右側出口から地上に出て、そのまま歩道を直進し、二本目を左折する(現代地図)。ちょうどこのちょっと先で道玄坂上が国道246号線と合流する。

そのまま道なりに歩いていくと、右手に聖ヶ丘教会が見えてくるが、このあたりが南平坂の坂上である。

ちょっと下ると、中程度の勾配でまっすぐに下っている。渋谷区南平台町4番と9番の間を南へ下る(現代地図)。

道玄坂のような標柱などは立っていない。坂下から写真を並べる。

この坂下から別の坂(かめやま坂)がそのまま南へと上っているので、坂下はいわばV字谷の谷底である(四枚目の写真はかめやま坂側からこの坂を撮ったもの)。

南平坂中腹 南平坂中腹 南平坂中腹 南平坂中腹 南平坂上




この坂は、両側に邸宅のような住宅・建物が並んでいて静かで、坂に沿ってかなり高く伸びた樹木が並んでいる。よくある商店街や住宅街やビル街などの坂道に比べて静寂で落ちついた雰囲気になっている。賑やかな道玄坂から来たので、いっそう静かな感じがする。坂の両側に緑が多い点で小石川の名坂である湯立坂とちょっと似た雰囲気である。

ところが、そんな感じで坂を歩いていると、その静寂が、突如、破られる。車が何台も続いてやってきて坂を下るのである。この坂は、抜け道になっているのかもしれない。それが、信号の関係か、ぱたりと止まる。これが繰り返されるが、車がそんなに連続しないこともあり、全体としては、やはり静かで雰囲気のよい坂である。

坂名は、地名(南平台町)に由来するが、その南平台という地名の由来がよくわからない。戦前(昭和16年(1941))の昭和地図には、この地名があるので、戦前からの地名である。石川は、南平台町は、昭和三年(1928)に渋谷南平台と同豊沢の一部とを合して南平台と称した高台であるとしている。

南平坂上 南平坂上 東都青山絵図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843))




坂上は、道玄坂上から続く台地であるが、ここは、宮益坂上の東側に広がる赤坂・麻布台地と渋谷川を挟んで対峙している。

三枚目は、尾張屋清七板江戸切絵図の東都青山絵図(安政四年(1857))の部分図で、渋谷川の橋のそばに道玄坂と記されているが、ここがこの地図の西端で、そこから先は描かれていない。

四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))には、宮益町から渋谷川を越えて上(西)へと延びる通りが描かれている。ここが道玄坂であるが、その左側(南)には駒場にかけて山が描かれている。この坂の一帯はそんな山の南斜面であったのであろう。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

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レンガ坂(中野)

2016年09月30日 | 坂道

レンガ坂 レンガ坂 レンガ坂 レンガ坂




JR中野駅近くのカメラ店に行った帰り、南口付近に新しそうな感じの坂を見つけた。ちょうど1年ほど前のことである。

中野通りを北口側から南へ向かい中央線のガード下をすぎてすぐの所を右折すると、この坂で、歩行者専用。

坂下の出入口にアーチ型門のようなものが立っているが、その上、横方向に「RENGA ZAKA」と表示されている。同じものが坂上の出入口にも立っている。

レンガ敷きの通りとなっていて、このため、レンガ坂となっているようである。中野区中野三丁目35番と36番のビルとビルの間の小路を中野通りの歩道わきから西へ上る(現代地図)。

レンガ坂 レンガ坂 レンガ坂 レンガ坂




坂下側でちょっと勾配があるが中程度よりも緩やかで、勾配のあるところもそんなに長くはなく、ここを上ると、かなり緩やかになるまっすぐな小坂である。坂下から坂上の出入口までそんなに距離はない(90m程度)。

坂下から上るとすぐに飲食店街となっていて、夕方近くであったためか、人通りが多かった。

この坂がいつできたのかちょっと調べたがわからなかった。上記の「RENGA ZAKA」の下に「EST.2002 NAKANO RENGAZAKA STREET」とあることから、2002年にできたのであろうか。(その年にこの門ができてそう命名された?)

インターネット検索をすると、中野レンガ坂の○○、と宣伝する飲食店が多くヒットした。坂名というのは有名になると一目(一声)で場所がわかるが、そういった坂名の持つ効果を上手く利用している。

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南郭坂

2016年09月24日 | 坂道

南郭坂下 南郭坂下 南郭坂下 南郭坂下 南郭坂下




八幡坂下で左折し、明治通りの歩道を南へ進む。このあたりの明治通りは渋谷川に沿ってできている。しばらく歩き、東三丁目の信号のある交差点を左折する(現代地図)。ここが南郭坂の坂下であるが、しばらくほとんど勾配がない道が続く。渋谷川の谷から赤坂・麻布台地に東へ上る坂。

先ほどまでの明治通りとは違って、交通量が少なくかなり静かである。 

南郭坂下 南郭坂中腹 南郭坂中腹 南郭坂中腹 南郭坂中腹




しばらく歩くと、道が膨らんだ所でちょっと右に曲がっているが、このあたりからしだいに上りとなる。中程度よりも緩やかな勾配である。渋谷区東二丁目10番と東三丁目6番の間を東へ上る。

まっすぐに上ると、広尾高等学校前の交差点の北西角に(現代地図)、渋谷区教育委員会による「服部南郭別邸跡」の標識(下一枚目の写真)が立っている。

この標識にこの坂について次の記述がある。

『この場所は、南郭の別邸があったところで邸前にある坂道は、昔から南郭坂あるいは富士見坂と呼ばれてきました。』

このあたりから西の方角に富士山が見えたらしく、別名が富士見坂。

服部南郭別邸跡標識 南郭坂中腹 南郭坂中腹 南郭坂上 南郭坂上




標識の立っているあたりは坂の中腹である。ここに江戸中期の儒学者・漢詩人の服部南郭(1683~1759)の別邸(「白賁塾」)があったとのことであるが、本邸は芝赤羽橋の付近にあったと思われる。

永井荷風は、大正十二年(1923)12月30日の「断腸亭日乗」に『十二月三十日。晴天旬に及ぶ。午後赤羽橋に服部南郭が旧居の跡を尋ねしが得ず。・・・』と記している(全文→この記事)が、このあたりには来ていないようである。

下二枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))を見ると、宝泉寺の上(北)に渋谷川から右(東)へ延びる道がある。ここがこの坂の道筋と思われる。途中、左折し北へ向かうと氷川神社があるが、現在とほぼ同じである。この左折する所から東側へちょっと進んだあたりに渡辺備中守の屋敷があるが、この付近に南郭の別邸があったのであろうか。下三枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))もほぼ同じ。

南郭坂上 東都青山絵図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843))




広尾高等学校前の交差点を東へ渡ってもちょっと上りが続くが、しだいに緩やかになって平坦になり、山種美術館前の交差点に至る。

石川は大正3年(1914)刊の『渋谷町誌』を引用し、これに、下渋谷二百七十七番地貴族院議員杉田定一氏の別宅の辺を南郭屋敷といい、南郭の別荘は現に存在し、その末裔の服部元吉氏が居住し、そこは杉田氏の背後の草葺屋根の家屋・土蔵である旨の記述があった。その番地を手持ちの資料では確認できなかったが、南郭の別邸の存在は、この文献あたりをもとにしているようである。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)

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八幡坂(渋谷)

2016年09月22日 | 坂道

八幡坂(渋谷)上 八幡坂(渋谷)上 八幡坂(渋谷)中腹 金王八幡神社 八幡坂(渋谷)中腹




金王坂下(東側)で六本木通りを横断し、左折し、緩やかな上りの歩道をしばらく歩くと、信号のある渋谷二丁目の交差点に至るが、ここを右折すると、八幡坂の坂上である(現代地図)。

坂上からしばらくかなり緩やかに下り、金王神社前の信号のところから本格的な下りになって、ほぼまっすぐ南へ明治通りの並木橋の交差点へと下っている(現代地図)。坂下は渋谷区渋谷三丁目14番と東一丁目26番の間。

宮益坂金王坂と同じく、赤坂・麻布台地から渋谷川の谷へと下る。

八幡坂(渋谷)中腹 八幡坂(渋谷)中腹 八幡坂(渋谷)中腹 八幡坂(渋谷)下 八幡坂(渋谷)下




坂中腹の西側に金王八幡神社があるが、坂名はこれにちなむのであろう。都内には、同名の坂(千駄ヶ谷西小山早稲田戸越銀座小日向)が何箇所かにあるが、坂名のいわれはどこも同じである。

昭和地図(昭和16年、昭和34年)を見ると、この坂のある通りは、北側が青山学院の西で宮益坂上の先の青山通りに接続し、南側が代官山駅まで延びていて、この通りに沿って、北から南へ八幡通一丁目~三丁目(旧町名)と細長く区割りされていた。これから、この坂を含む道は八幡通りとよばれていたと思われる。

下二枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))を見ると、金王八幡宮前(東南)の道が渋谷川の谷から上り、坂上で北西へとカーブしながら方向を変え、仙石屋敷と松平屋敷の間を延びて、宮益坂(富士見坂)上から延びる道につながっている。この渋谷川の谷から北へ上る道筋は、現在の道とまったく同じであることから(現代地図)、この坂が遅くとも江戸時代から続くことがわかる。下三枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))でもまったく同じである。近江屋板も同じ。

八幡坂付近街角案内地図 東都青山絵図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 江戸名所図会 金王八幡社 江戸名所図会 金王八幡社




一枚目の写真は、坂下付近に立っている街角案内地図の拡大である。ここに八幡坂と記されているが、坂の標識は立っていない。

この坂は、山野、「東京23区の坂」に紹介されているが、不思議なことに、横関、石川、岡崎にはない。江戸切絵図にもその道筋がはっきりと示されているにもかかわらず、どうしてないのか疑問であるが、要するに、坂名が記された文献がなかったのであろう。たとえば、「御府内備考」の東福寺門前(金王門前)の書上には坂の文字さえもない。

金王八幡神社について江戸名所図会の本文に『渋谷八幡宮 中渋谷にあり。この所の産土神とす。祭礼は八月十五日なり。・・・』と説明がある。四、五枚目は、その挿絵であるが、参道につながる道が横方向に描かれている。これがこの坂であろう。

金王八幡宮のHPには『当八幡宮は、第73代堀河天皇の御代、寛治6年正月15日(1092)鎮座いたしました。・・・』と説明がある。これからすると、この坂は江戸期よりも古くから存在していた可能性がある。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
「大日本地誌大系 御府内備考 第三巻」(雄山閣)

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金王坂

2016年09月19日 | 坂道

金王坂上 金王坂中腹 金王坂中腹 金王坂下 金王坂下




宮益坂の坂上を右に進むと、そこからまっすぐに下る中央分離帯のある広い通りがあるが、ここが金王坂で、青山通り(国道246号線)である。

坂上が宮益坂上と共通で、渋谷川の谷へと中程度の勾配で下っている。渋谷区渋谷二丁目14番と16番の間を南へ下る(現代地図)。

赤坂・麻布台地を東から西へと延びてきた青山通りがこの坂を下り、坂下で六本木通りと合流し、その先(西側)から玉川通り(国道246号線)となる。

かつての本道は、宮益坂を下り、渋谷川を横断し、道玄坂を上っていたが、現在、宮益坂上で別れ金王坂を下る別ルートとなって、道玄坂上で合流している。

金王坂下 金王坂中腹 金王坂中腹 金王坂上 金王坂上




昭和地図(昭和16年)を見ると、この坂とほぼ同じ位置に道があり、昭和34年版にも同じようにあるので、その後、改修されて、青山通りが宮益坂からこの坂に移されたのであろう。

坂上東側に、渋谷駅東口町会・渋谷二丁目町会・渋谷第一町会・渋谷宮益町会による標柱(昭和54年5月建立)が立っている。それに次の説明がある。

『明治、大正、昭和と波乱万丈の過程を経て市区改正、町名変更に伴ない先輩諸氏の築かれた幾多の功績をたたえ、由緒ある金王の地名を保存し、ここに金王坂と命名する。』

坂名は、坂下の東にある金王八幡神社にちなむ(岡崎)。いかにも、むかしからの坂名に感じられるが、上記の説明には昭和54年(1979)に金王坂と命名したとあるので、これ以降、この坂名となったようである。新しい坂名のせいか、横関、石川には紹介されていない。

東都青山絵図(安政四年(1857)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 尾崎豊モニュメント 尾崎豊モニュメント




一枚目の尾張屋清七板の東都青山絵図(安政四年(1857))には、宮益丁の中の道(富士見坂)の下(南)に、渋谷川方面に下る道があるが、この道が現在の坂とどう関係するのかわからない。二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))もほぼ同じ。

坂下の歩道橋東側の上から続く一角に、尾崎豊(1965~1992)のレリーフ像からなるモニュメントがあるのに気がついた(三、四枚目の写真)。別にファンではないが、その落書きの様子からファンにとっては大切な聖地のように感じられた。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「東京の道事典」(東京堂出版) 

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