東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

庚申坂(切支丹坂)

2011年03月01日 | 坂道

庚申坂下 庚申坂途中 荒木坂からの道の突き当たりを右折し、トンネルに入り、ここを通り抜けると、前面に階段が見えてくる。水道通りから延びている谷道を横断すると、上り口である。かなりの傾斜で上っており、途中方向を変えている。まわりの地形や傾斜を見ると、その昔、崖につくった階段のような印象を受ける。坂上を進むと、春日通りで、その反対側は吹上坂の坂上である。小日向の鼠坂や関口の胸突坂などと同じように、真ん中に手摺りのある階段坂であるが、こちらの方が階段幅が広く堂々とまっすぐに上っている。

坂上に立っている文京区教育委員会の説明板に次の説明がある。

『庚申(こうしん)坂「小日向第六天町の北、小石川同心町の界を東より西へ下る坂あり・・・・・略・・・・・この坂を切支丹坂というは誤りなり。本名 "庚申坂" 昔、坂下に庚申の碑あり・・・・・・・・」 『東京名所図会』
 庚申信仰は庚申(かのえのさる)の日(60日ごと)人が眠ると三尸(さんし)の虫が人の体から出て天にのぼり天帝にその人の罪を告げるというところから、人びとは一晩中夜明かしをした。この信仰は中国から伝わり、江戸時代に盛んになった。従ってキリシタン坂はこの坂の地下鉄ガードの向側の坂のことである。
 「・・・・・・両側の藪の間を上る坂あり・・・・・・これが真の切支丹坂なり」 『東京名所図会』
        とぼとぼと老宣教師ののぼりくる
          春の暮れがたの切支丹坂  (金子薫園)』

『御府内備考』には次の説明がある。

「庚申坂は切支丹坂の東の方のけはしき坂なり、江戸志云、今井坂又丹下坂ともいへり、切支丹屋敷へゆく坂なれは俗に切支丹坂といふ、丹下坂といふはむかし本多丹下という人の屋敷ありしゆへなり、今井坂といふは中比今井何某の屋敷ありしといふ、本名は庚申坂なり、坂のおり口に古来の榎二株ありて、享保の頃までは庚申の碑ありしゆへの名なり、今はこの碑なければ庚申坂の名をしる人まれなり、然ども松平大学頭の家にては庚申坂と今もいふなりと云々、【改選江戸志】」

上述のように、庚申坂は、今井坂、丹下坂、切支丹坂の別名があり、『江戸志』、『東京名所図会』では、本名は庚申坂であるとしている。

庚申坂途中 庚申坂途中 『新撰東京名所図会』には次のようにあるという(石川)。

「小日向第六天町の北、小石川同心町との境を東より西へ下る坂あり、切支丹坂といふ、今此坂を切支丹坂と云ふは誤れり、本名庚申坂、昔坂下に庚申の碑あり。庚申坂の西小溝に架したる橋を渡りて、両側藪の間を茗荷谷町男爵津軽邸前へ上る坂あり、無名坂の如く称すれど、是れ真の切支丹坂なり。坂の上に往時切支丹屋敷ありたり、故に此名に呼ぶなり」

横関は、この坂を切支丹坂とし、別名を庚申坂、丹下坂、今井坂としている。話がすこしややこしくなるが、横関は、切支丹屋敷にちなむ切支丹坂は、小日向一丁目の旧切支丹屋敷外囲の坂で、入口のところから右回りに裏門のほうへ上った坂で、今はない、としている。

石川は、小日向一丁目14、24の間を西の方へ上る坂を切支丹坂とよんでいるが(前回の記事の切支丹坂)、それは近来のことで、明治時代は、この庚申坂を切支丹坂とよんでいたが、上記の『新撰東京名所図会』を引用し、現在切支丹坂とよぶ坂が本来の切支丹坂であるとしている。岡崎も石川とほぼ同様である。

切支丹坂、庚申坂の坂名と位置に関し、石川説、岡崎説、教育委員会説ともに、『新撰東京名所図会』(東京名所図会)の説に従っている。

明治時代、切支丹坂とは庚申坂のことであるとすると、前回の記事の荷風「日和下駄」の切支丹坂もこの庚申坂のように思われる。そう解すると、荷風が書いた「第一に思出すのは茗荷谷の小径から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さえ気味の悪い切支丹坂が斜に開けそれと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い坂が小日向台町の裏へと攀(よじ)登っている」の意味がよくわかる。本名が庚申坂である切支丹坂と向かい合っている、小日向台町の裏へ上っている山道のような細い坂こそが、『新撰東京名所図会』でいう両側藪の間を茗荷谷町男爵津軽邸前へ上る坂で、現在、切支丹坂とよんでいる坂であるように思われてくる。

上記のことから、江戸末期の江戸切絵図がこの坂をキリシタンザカとしたことは、当時からそう呼んでいたことの証と思われる。

横関説は、いまのところよくわからない。山田野理夫「東京きりしたん巡礼」(東京新聞出版局)に、切支丹屋敷付近の四時代(延宝、元禄十四年、宝永二年、享保十一年)の各江戸地図がのっており、切支丹屋敷の変遷がわかるが、それらには、現在切支丹坂としているあたりに道がある。これが切支丹坂かもしれないが、確証がない。同著に、キリシタン坂として、現在切支丹坂とされている坂が写真入りで紹介され、この坂を示す石標が大正七年東京府によって建てられ、銅板が嵌め込まれていたが、いまは除かれている、とある。

庚申坂上 庚申坂上 岡崎が、夏目漱石「琴のそら音」(明治38~39年作)にこの坂がでてくることを紹介している。明治の頃の様子がよくわかるので、以下、引用する。

「竹早町を横ぎって切支丹坂へかゝる。何故切支丹坂と云ふのか分らないが、此坂も名前に劣らぬ怪しい坂である。坂の上へ来た時、ふと先達(せんんだっ)てこゝを通って「日本一急な坂、命の欲しい者は用心ぢゃ用心ぢゃ」と書いた張札が土手の横からはすに徃来へ差し出て居るのを滑稽だと笑った事を思ひ出す。今夜は笑ふ所ではない。命の欲しい者は用心ぢゃと云ふ文句が聖書にでもある格言の様に胸に浮ぶ。坂道は暗い。滅多に下りると滑って尻餅を搗(つ)く。険呑(けんのん)だと八合目あたりから下を見て覘(ねらひ)をつける。暗くて何もよく見えぬ。左の土手から古榎が無遠慮に枝を突き出して日の目の通はぬ程に坂を蔽ふて居るから、晝(ひる)でも此坂を下りる時は谷の底へ落ちると同様あまり善い心持ではない。榎は見えるかなと顔を上げて見ると、有ると思へばあり、無いと思へば無い程な黒い者に雨の注ぐ音が頻りにする。此暗闇な坂を下りて、細い谷道を傅って、茗荷谷を向へ上って七八丁行けば小日向臺町の余が家へ帰られるのだが、向へ上がる迄がちと気味がわるい。」

この切支丹坂とは、いま庚申坂とよんでいる坂のことで、明治時代にはかなり急で通行の困難な坂であったらしい。階段坂に改修された理由であろう。「榎は見えるかなと顔を上げて見ると」とあることから、この頃も榎があったようである。「此暗闇な坂を下りて、細い谷道を傅って、茗荷谷を向へ上って七八丁行けば小日向臺町の余が家へ帰られるのだが、向へ上がる迄がちと気味がわるい」とあるように、「向へ上がる迄がちと気味がわるい」道が、荷風がいう山道のような細い坂へ続く道と思われる。そして、ここが上記のように現在切支丹坂とする坂であるかもしれない。

坂上に上って振り返ると、眼下に、車輌基地内の電車が見え、その向こう西の方を見ると、ちょっと茜色に染まった夕焼け空が見える。説明板のわきに老人が座って同じように夕焼けを見ている。

坂を下り、ふたたびトンネルをくぐり、切支丹坂を上り、右折し、切支丹屋敷跡の石柱を右に見て進み、蛙坂を下り、釈迦坂を上って茗荷谷駅へ。これらの坂は次回に。

携帯による総歩行距離は12.9km。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌体系 御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
「漱石全集 第三巻」(岩波書店)

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