東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

戒行寺坂~闇坂

2010年09月30日 | 坂道

観音坂を往復し、坂下を左折しもとの通りを進み、次を右折すると、戒行寺坂(かいぎょうじざか)の坂下である。

これまで左側に上る坂であったが、ここは反対側で、坂上は、前回の須賀神社と同じ台地である。

右の写真は坂下から撮ったものである。途中で一部細くなっているが、ほぼまっすぐに上っている。坂上の戒行寺門前のあたりからみると、若干曲がって見える。坂の勾配はさきほどの観音坂と同じくらいか。

下左の写真のように、坂上の戒行寺の前に標柱(写真右側)が立っている。それには次の説明がある。

「戒行寺の南脇を東に下る坂である。坂名はこの戒行寺にちなんでいる(『御府内備考』)。別名「油揚坂」ともいわれ、それは昔坂の途中に豆腐屋があって、質のよい油揚げをつくっていたからこう呼ばれたという(『新撰東京名所図会』)。」

坂下の通りは、岡崎が訪れた当時は、ごたごたした商店街であったらしいが、いまはそうではなくすっきりして、むしろ商店街なのに商店が少なく、もの寂しい感じがするほどである。人口が減っているのだろうか。上右の写真のように古めかしい床屋があるが、閉店中であった。

尾張屋版江戸切絵図に戒行寺がみえ、現在の戒行寺坂の道に、南寺丁、とあるが坂マークが付いていない。近江屋版をみると、坂を示す三角印△がある。ここも、昔からお寺が多かったところのようである。

「江戸名所図会」に妙典山戒行寺が次のようにのっている。

「同所(四谷)南に隣る。日蓮宗にして延山に属せり。寛永の頃までは、麹町一丁目の御堀端にありて、常唱題目修行の庵室なりしが、近隣宮重氏、庵主と共に力を合わせて遂に一寺とす。当時の日貞師は、山本勘助晴幸入道道鬼斎が孫にて、延山日悦上人の徒弟なり。当寺は明暦に至りこの地に遷さる。総門の額に妙典山と書せしは、朝鮮国李彦の書なり。この所の坂を戒行寺坂、又その下の谷を戒行寺谷と唱へたり。」

江戸名所図会に、このあたりの日宗寺、戒行寺、汐干観音を含む風景の挿絵があるが、これに戒行寺の正面に上る長い二層の石段坂がみえる。これは、いまの戒行寺坂ではなく、近江屋版江戸切絵図をみると、観音寺坂下から通りを横切って戒行寺の正面へ上る道に坂の三角印△があるが、この坂であるとされている(岡崎)。

なお、この挿絵には、前回の観音坂が記されており、その右手奥に汐干観音とある。

坂上を直進し、左手の永心寺の先を左折すると、闇坂(くらやみざか)の坂上である。

曲がったところから坂はみえないが、この角に標柱が立っている。

標柱から狭い小路が続いており、ちょっと歩くと、坂下が見える。

右の写真は坂上から撮ったものである。細い坂がかなりの勾配で下っている。上記の標柱には次の説明がある。

「この坂の左右にある松巖寺と永心寺の樹木が繁り、薄暗い坂であったため、こう呼ばれたという(『御府内備考』)。」

近江屋版江戸切絵図をみると、この道に坂を示す三角印△があるが、坂名はない。別名が乞食坂、茶の木坂であるとのこと(岡崎、横関)。

横関は、むかしから知られている乞食坂として、日暮里の御殿坂、牛込岩戸町の袖摺坂、四谷南寺町の暗闇坂(闇坂)、雑司ヶ谷の小篠坂の四つをあげ、乞食坂というのは、かならず寺院の多い場所で、その横町とか裏町にあるとしている。昔はことに寺院の前は乞食の稼ぎ場所であり、坂は、その通路や休憩場所であり、いつも寂しいところで、人の往来が少ないところにあったという。

左の写真は坂下から撮ったものである。坂下に下るが、急傾斜を実感できる。坂下に若葉公園があるが、ここで一休みする。

坂を上りもとの坂上の通りにもどる。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)

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観音坂

2010年09月29日 | 坂道

須賀神社の女坂下から元の通りにでて右折し進む。このあたりは実にお寺が多い。地図をみると一目瞭然だが、坂巡りをしていてもよくわかる。次の坂も両側にお寺がある。

しばらくすると、左側に細い坂が見えてくる。観音坂の坂下である。まっすぐに上っている。前回の東福院坂ほどではないがそれでもかなりの勾配がある。

右の写真は坂下から撮ったものである。写真左に見えるように、ちょっと上った所に標柱が立っているが、それには次の説明がある。

「この坂の西脇にある真成院の潮踏(塩踏)観音に因んでこう名付けられた。潮踏観音は潮干観音とも呼ばれ、また、江戸時代には西念寺の表門が、この坂に面していたため西念寺坂ともいう。」

尾張屋版江戸切絵図をみると、西側に真成院、蓮乗院、安楽寺が並んでおり、東側に西念寺があり、その間に道があるが、坂マークはない。近江屋版には坂を示す三角印△がある。

左の写真は坂上から撮ったものである。坂上にも標柱が立っている。坂名は、要するに、真成院の観世音が名高かったことによる(石川)。

「江戸名所図会」に潮干観世音菩薩について次のようにある。

「同所(四谷)南寺町戒行寺の裏の坂口、真言宗錦敬山真成院にあり。この本尊は越後国村上義清が守仏(まもりぶつ)にして、その末流村上兵部入道道楽斎、大阪御陣の時、上杉景勝に従ひ、奥州米沢よりかの地に赴く。後江戸に帰り、当寺に収むるといへり。(或人云く、この本尊を潮踏観世音とも号く。村上天皇護身の尊像なり。依って村上肥後守頼清常に崇信し、その後堂宇を造り安置す。大阪御陣のみぎり、村上覚玄斎、当寺第三世看心の授与し、当寺に安ずといふ。)
本尊聖観音(作者詳ならず。一尺ばかりの石の上に立たせ給ふ。この台石、潮の盈虚(みちひ)には必ず湿るゝとなり。)」

「新編江戸誌」には、いにしえに海上に出現した霊仏のため潮踏の観音といい伝えられ、潮満ちると岩坐に潤いを生じ、潮干になると元のようになる、のように記してあり、別名の潮踏坂、潮干坂は、みなこの観音に由来するという(石川)。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

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東福院坂~須賀神社

2010年09月28日 | 坂道

円通寺坂からの通りを緩やかに下って進むと、ほぼ平坦になるが、左側にかなりの勾配の坂が見えてくる。

東福院坂の坂下である。別名が、天王坂、須賀坂である(岡崎)。

右の写真は坂下から撮ったものである。坂下に立っている標柱(写真左端に見える)は、東福院坂(天王坂)となっており、次の説明がある。

「坂の途中にある阿祥山東福院に因んでこう呼ばれた。別名の天王坂は、明治以前の須賀神社が牛頭(ごず)天王社と称していたためこの辺りが天王横町と呼ばれていたことによる。」

尾張屋版江戸切絵図をみると、東福院があり、その前の道に坂マーク(多数の横棒)がみえる。近江屋版には坂を示す三角印△がある。坂上側に、天王ヨコ丁、とある。

左の写真は坂上から撮ったものである。かなりの勾配で下っていることがわかる。

坂上西側に東福院があり、標柱も立っている。

東側に愛染院があり、門前の説明板によると、江戸時代の盲目の学者で「群書類従」の編者として有名な塙保己一の墓がある。

「新撰東京名所図会」に「須賀坂は、須賀神社の前を東北の方に下る石磴(いしざか)をいふ。もとは天王阪といへり。」とあり、もとは石段坂であったというが(岡崎)、北東に下る、というのが疑問である。この坂は南に下るからである。

坂を下りそのまま直進すると、すぐに須賀神社の石段下につく。

右の写真は石段を下から撮ったものである。ここが須賀神社男坂である。かなり急な石段で、二箇所の踊り場がある。

坂上に立つと、東福院坂が見え、向かい合っている。

坂上を右折すると、ちょっと広めの広場があり、その先に鳥居が立っている。鳥居の手前を右折すると、須賀神社女坂があり、ここを下る。

尾張屋版江戸切絵図をみると、東福院坂の方から行って右折した先に、稲荷山 宝蔵院 天王社、とある。近江屋版には、稲荷山 天王社、とある。いずれにも坂マーク(多数の横棒、三角印△)があるが、現在の女坂と思われる。

左の写真は女坂の下から撮ったものである。

女坂のわきにある由緒書きには、須賀神社はもと稲荷神社で、稲荷社は往古よりいまの赤坂一ツ木村の鎮守で清水谷にあったが、その後、寛永十一年(1634)江戸城外堀普請のため当地に移された、とある。

「江戸名所図会」に四谷牛頭天王社の挿絵がのっており、手前に石段が見えるが、女坂と思わせるほど緩やかな階段が描かれている。

中沢新一「アースダイバー」の地図をみると、縄文海進期には、須賀神社のあたりは洪積台地で、神社は海を望む突端近くにある。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)

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女夫坂~円通寺坂

2010年09月27日 | 坂道

今回は新宿区内の坂巡りで新宿通りの南側へ(若葉、須賀町、南元町など)。

午後四谷三丁目駅下車。

3番出口からでて新宿通りを東に進み、一本目を右折する。そこが女夫坂の坂上である。細い路地で、緩やかに下っている。

右の写真は坂上から撮ったものである。この坂は南側にいったん谷底まで下ってからまた緩やかに上っている。南側の坂の方が緩やかでかつ短い。

二つの坂が合している形状から女夫坂(めおとざか)とよばれたらしい(山野)。

横関は夫婦坂(めおとざか)と書き、一つの名を二つの坂に利用した巧妙な名のつけ方であるとしている。同じ種類の坂名として相生坂があるという(以前の記事参照)。

江戸切絵図をみると、円通寺の西側に、忍原ヨコ丁、とあるが、ここがこの坂のようである。坂の三角印はない。

このあたりは、江戸初期、原野であったが、寛永17年(1640)武州忍の城代高木筑後守がここに住み市街地にしたことに因んで忍原(おしはら)と名づけられ、忍原横町となったとのことである(岡崎)。

南側に進み、丸正のビルのある角を左折し、道なりに歩いていくと、左に曲がり、そのまま直進すると、大きな通りにつながるが、ここが円通寺坂の坂下である。

新宿通りに向けてまっすぐに上っている。さきほどの女夫坂とほぼ平行である。

左の写真は坂下から撮ったものである。坂下に標柱が立っているが、それには次の説明がある。

「新宿通りから、四谷二丁目と三丁目の境界を南に円通寺前に下る坂。坂名は、この円通寺に因むものである。」

同名の坂が赤坂にあり、以前の記事で紹介したが、坂名も同様の理由からつけられたようだ。ちなみに、円通寺坂というのはこの二つしかないようだが、ちくま学芸文庫の近江屋版江戸切絵図につけられた索引をみると、円通寺、円通院はこれら以外にも都内にまだある(あった)ようである。

坂を上るが、さきほどの女夫坂よりも勾配がきつい。右の写真は坂上から撮ったものである。

江戸切絵図をみると、この通りが法ソウジヨコ丁となっており、その西側に円通寺がある。坂の東側に法蔵寺があるが、それが横町の名になったようだ。

坂を下って引き返すと、円通寺坂からの通りから右に分かれる道があり、ここを先ほど通ってきたが、江戸切絵図をみると、当時は円通寺坂からの道はここで西側に曲がっており、さきほどの忍原ヨコ丁の道につながっていたようである。

下左の写真はそこから円通寺坂からの通りを撮ったものであるが、ここから下側の若干の区間は後で開かれたものであろう。

左の写真のように、かなり曲がりながら緩やかに下っており、この通りが、途中で若二商店街となって、さらに中央線、首都高速のガード下をくぐり抜けて青山御所わきの南元町の交差点まで延びている。

今回の坂巡りは、円通寺坂からの通りを谷筋として考えると、わかりやすく、これから行く坂は、ほとんどこの谷から左または右に上るものである。

中沢新一「アースダイバー」の地図をみると、縄文海進期には、この通りにほぼ沿って南元町の交差点のあたりから円通寺坂の途中まで海が延びていたようである。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
新創社編「東京時代MAP 大江戸編」(光村推古書院)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)

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渋谷界隈散策

2010年09月25日 | 散策

渋谷の東急百貨店(本店)にジュンク堂と丸善の書店ができたというのでいってみた。渋谷駅からちょっと歩くところである。この後この界隈をちょっと散策した。

ワンフロアいっぱいに書架がおかれているが、思ったほど広くない。全体としては新宿の紀伊国屋やジュンク堂の方が広いと思う。こういった新しい書店ができると、新刊本でも普通の書店では売り切れの文庫本でも入るのか、よく売れたらしく、岩波文庫が並ぶ本棚には空きができていた。萩原朔太郎作 清岡卓行編「猫町」(岩波文庫)を買う。これはでも最近増刷のものである。

ここをでてから松濤の方に行ってみる。高級住宅街のようで、また、坂も多い。渋谷は、道玄坂や宮益坂が有名であるが、それだけでなく、無名の坂もたくさんある。渋谷駅のハチ公前のあたりが谷底で、その周りが山であったのであろう。どの方面に行っても坂があるようである。

右の写真は鍋島松濤公園の中の池を撮ったものである。水車が回っている。時々水の流れが止まるが、ふたたび流れ出し、水車が回転をはじめる。ここは湧水池であったようである。

公園を出てまわりを見渡すと、四方から坂が下っている。公園の上の方から入ったので気がつかなかったが、ここは谷底であったことがわかる。公園は谷から坂上にかけてつくられている。

この公園は、紀伊徳川家の下屋敷の払い下げを受けた鍋島家が明治9年に茶園を開いて「松濤」の銘で茶を売り出したところらしい(渋谷区HP区立公園参照)。

ここから神泉駅の方に行ってみる。円山町との境の道を南に歩いていくと、井の頭線踏切の手前左に古いアパートがあるが、ここが東電OL殺人事件の現場である。この事件がおきた当時さほど関心を持たなかったが、その後、佐野眞一の著書(新潮文庫)を読んでその真相(の一部であろうが)を知って驚いた覚えがある。この犯人とされて無期懲役の確定したネパール人はやはり冤罪ではないか。被害者の定期券が犯人のまったく知らない土地(巣鴨)から発見されたが、これは犯人とするにはいかにも不合理な事実である。

近くから円山町の方に行こうとすると階段を上らなければならないことから、先ほどの通りも谷筋にあったことがわかる。円山町の道玄坂地蔵尊をちょっと探すと見つかる。

『江戸名所図会』の「神仙水」には次の説明がある。「八幡の西にあり。相伝ふ、往古空鉢仙人この谷に入りて、不老長生の仙丹を練りたりし霊泉なり。故に神仙谷とも云ふとなり。鉢山といふは、法道仙人の鉢、この所に自ら飛来る故に号とすとなり。」八幡とは金王八幡社で、霊泉は、農民の共同浴場であったともいわれ、神泉弘法の湯として、大正ごろまで市民の遊楽地として栄えたとのこと。

東急百貨店の前の通りにもどり、その北側の井の頭通りに行く。その通りを左折し、東急ハンズのある交差点を右折すると、オルガン坂の坂下である。左の写真は坂上から撮ったものである。短いが坂下側でちょっと勾配がある。

この坂は以前にも坂巡りとしてきた覚えがあるので、山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」で調べたが、オルガン坂そのものが紹介されていない。それで、「東京23区の坂道」をみると、ここにのっていた。はっきり覚えていないが、これを閲覧して以前も訪れたのであろう。

同サイトによると渋谷区ホームページ・タウンガイドに紹介されているとのことで、調べてみると、渋谷区HPの「通りの名前」にのっていた。次の説明がある。

「井の頭通り東急ハンズ前の交差点からパルコ前交差点へ上がる坂道。通りの周辺に音楽関係の店が多かったところから命名されたようです。東急ハンズ前の階段がオルガンの鍵盤に見えるから、という説もあります。」

坂上から、近くにスペイン坂というのがあったことを思い出したので、行ってみる。ちょっと歩くが、坂上から坂下まで下りる。坂下は先ほど通った井の頭通りである。そこから入る小路であるが、入り口に「スペイン通り」の金属板が貼りつけられた大きめの黒い石がおいてある。ここから引き返す。

緩やかに上る狭い道が続くが、右の写真はその途中で撮ったものである。スペイン坂と刻まれた小さな石柱(写真右下)がレストランの入り口に立っている。この先で左に曲がり階段となる。

どこから来てどこに行くのだろうかと思うほど人通りが多い。狭いせいもあるが、それにしてもたくさんの人が通る。写真を撮ろうにもシャッターチャンスがなかなかめぐってこない。上右の写真もようやく途切れたときに撮った。

上記の渋谷区HPの「通りの名前」に次の説明がある。

「パルコパート1裏から井の頭通りへと下る坂道。喫茶「阿羅比花(あらびか)」の店主、内田裕夫氏は、写真で見たスペインの風景に心ひかれ、店の内装をスペイン風に統一していました。昭和50年にパルコからこの坂の命名を依頼されたときには、迷わずこの名をつけたそうです。命名後、近所の人たちも協力して、建物を南欧風にしました。」

渋谷は同じ繁華街でも新宿あたりとはかなり違う印象を受けるが、それは、坂があるせいかもしれないなどと思ってしまう。坂下から坂上に向かうときなにか未知のものを予感させる雰囲気があるからである。

坂上を進み、先ほどのオルガン坂の通りを横断して北に向かう。そうすると、さきほどまでの喧噪とは一転して人通りが少なくなり静かである。ちょっとほっとするが、この急激な変化がおもしろい。渋谷の特徴の一つかもしれない。直進すると、区役所に突き当たるので、右折し、渋谷区役所前の交差点を左折する。

しばらく歩くと、東京法務局渋谷出張所・渋谷税務署が左側にあるが、その西隣の角に、左の写真のように、二・二六事件慰霊像が立っている。

ここは、以前の記事のように、事件の青年将校らが処刑された刑場のあった代々木の陸軍刑務所の一角である。以前も訪れたことがあるが、花がいつも供えられている。ちょうどNHK放送センターと相対している。

この角を左折してすぐの壁面に石板からなる説明板があるが、それには次のようにある。この因縁の地を選び、刑死した20名(永田事件の相澤三郎中佐を含む)、自決2名、さらに重臣、警察官其の他事件関係犠牲者一切の霊を慰めかつ事件の意義を記念するために事件30年記念の日に慰霊像を建立した。その最後に、「昭和四十年二月二十六日 佛心會代表 河野司 誌」とあるが、仏心会とは、事件の遺族会のことで、河野氏は、事件に加わり自決した河野壽大尉の兄である。

中沢新一「アースダイバー」の地図をみると、縄文海進期に、渋谷駅前から宇田川に沿って広く海で、そこから西側に鍋島松濤公園の池のあたりまで、また神泉駅の南側まで延びている。NHKから代々木公園のあたりは洪積台地である。

渋谷区役所前の交差点に戻り、ここを渡って、NHKの前を通り、代々木公園のわきを通って原宿駅へ。

携帯による総歩行距離は9.3km。

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
蜂巣敦・山本真人「殺人現場を歩く」(ちくま文庫)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
河野司 編「二・二六事件 獄中手記・遺書」(河出書房新社)

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諏訪坂~赤坂見附

2010年09月24日 | 坂道

中坂からもどり、貝坂を横切り、突き当たりを左折する。

広めの道路がまっすぐに南側に延びている。前回の記事の貝坂通りと平行な通りである。西側の赤坂プリンスホテル旧館の前を過ぎると下りになるが、ここが諏訪坂である。まっすぐに下っている。

右の写真は坂の中途に立っている標柱を坂上側から撮ったものである。標柱には次の説明がある。

「この坂を諏訪坂(すわざか)といいます。『新撰東京名所図会』には「北白川宮御門前より。赤坂門の方へ下る坂を名く。もと諏訪氏の邸宅ありしを以てなり。」とかかれています。また、別の名を達磨坂(だるまざか)ともいわれていますが、旧宮邸が紀州藩であり、その表門の柱にダルマににた木目があったため達磨門とよばれ、その門前を達磨門前、坂の名も達磨坂と人々は呼んだそうです。」

旧北白川宮邸が現在の赤坂プリンスホテルであるという。

尾張屋版江戸切絵図をみると、紀伊屋敷の東側の通りに、達磨門前マイト云、とあり、その赤坂門側に、諏訪坂、とある。この紀伊屋敷は紀尾井坂の紀伊屋敷である。

前回の記事の貝坂から延びる道側に諏訪主の屋敷がみえる。一方、近江屋版には、坂の東側に諏訪一学の屋敷がみえる。

いずれが坂の名となった諏訪邸であるかわからないが、屋敷の位置としては近江屋版の方であると思われるがどうなのであろうか。

左の写真は坂下から撮ったものである。勾配は中程度といったところで、坂の長さはさほどない。坂下は青山通りにつながっている。

達磨門の由来について、上記の説明に続いて、「或書には門前の地中より木製の達磨の立像を発掘し青山玉窓寺に納め其の紀念として左右の門扉に達磨を彫刻せしを以て達磨門と名つく云々とあれど斯は附会の説なるべし」とあるとのことである(石川)。附会とはこじつけること。

坂下を右折すると下り坂となるが、途中右側に赤坂見附跡の標柱が立っている。

右の写真のように標柱のそばや後ろには石垣が残っているが、ここが赤坂門のあった赤坂見附の跡である。

江戸城外濠には、ここ以外に、前回の喰違見附、四谷門のあった四谷見附、市ヶ谷門のあった市ヶ谷見附などがあり、見張りの番兵をおいていた。喰違見附は門と石垣を使わなかったが、他は門と石垣によって造られていた。写真のように、現在残っている石垣は、その一部であろう。

ところで、後で気がついたのであるが、上記の赤坂見附跡のある坂道は富士見坂である。後日、また訪れてみたい。

坂を下り赤坂見附駅へ。

今回の携帯による総歩行距離は13.3km。

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)

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貝坂~中坂

2010年09月23日 | 坂道

清水谷坂上の交差点を右折しまっすぐに進むと諏訪坂に至るが、ここは後に行くことにし、直進し、次の交差点を右折し進むと、貝坂の坂上である。

右の写真は坂上から撮ったものである。短いがやや勾配があり、まっすぐに下っている。

写真右に写っている標柱には次の説明がある。

「この坂を貝坂といいます。『江戸名所図会』には"この地は昔よりの甲州街道にして、その路の傍にありし一里塚を土人甲斐塚と呼びならはせしとなり。或説に貝塚法印といえるが墓なりともいいて、さだかならず"とかかれていますが、貝塚があったというのが現在定説になっています。」

『江戸名所図会』の上記説明は「貝塚」から引用しているが、その冒頭に貝塚を「すべて麹町の辺りの総名なり。」と説明しているように、赤坂一ツ木を含めてこのあたり一帯を広く貝塚とよんだらしい(以前の記事参照)。

坂名の由来は貝塚古墳があったことによるらしい。中沢新一「アースダイバー」の地図をみると、縄文海進期には坂下あたりまで桜田門の方から海が進入していたようで、坂上一帯は広く洪積台地である。

左の写真は坂下から撮ったものである。この坂の勾配のあるところは短いがこの一帯は、坂下や坂上と比べてなぜか飲食店が集中している。この通りはずっと下の方まで貝坂通りとよぶようである。

江戸切絵図をみると、清水谷坂上の森木丁を進み、次の四差路を右折したところに、カイサカ、とあり、その通りを南にまっすぐに進むと三べ坂に至る。現在も貝坂通りを進み青山通りを横断すれば三べ坂上であるので、このあたりは江戸の道がそのまま残っているようである。

上右の写真左端に小さく四角形の黒い石板が写っているが、これには、「麹町貝坂 高野長英 大觀堂學塾跡」と刻まれている。幕末の蘭学者で医者の高野長英が天保元年(1830)11月に神崎屋、松本良甫・佐藤泰然等の斡旋により麹町貝坂に居を定め塾を開いたが、その塾跡を記すものである。

長英はこの塾で洋学の講義をし、訳述著書に従事したが、門弟等を養う程の収入を得ることが困難であったので、医業をも営んだという。

貝坂下を左折し(上左の写真の右側)、少し進むと、緩やかな下りとなるが、ここが中坂である。

右の写真は坂上から撮ったものである。坂上側に標柱が立っているが、文字が薄く、説明文が読みにくい。

標柱の説明文を撮影した写真をパソコン上で拡大してようやく読み取ることができるが、中ほどに判読不能のところがある。以下は、「東京23区の坂道」を参考にさせていただきながら読み取ったものである。

「この坂を中坂といいます。元禄四年(一六九一)の地図にはまだ道ができていませんが、宝永(一七○四)以降の図を見ると町屋ができ、現在の道路の形とほとんど違いがないことがわかります。中坂の名称についての由来については、はっきりしませんが、中坂をはさんで北側に町屋、南側に武家が並んでいる形をみると、中坂の名称のおこりはあんがいこのへんにあるのかもしれません。」

左の写真は坂下側から撮ったものである。

坂下は、最高裁判所の裏側(西側)の通りにつながる。

尾張屋版江戸切絵図をみると、貝坂の途中から北側に延びる道があるが、これが中坂と思われる。坂下に向かい左側(北側)が馬場になっている。近江屋版もそうである。
(続く)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
高野長運「高野長英傳」(岩波書店)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)

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清水谷公園~清水谷坂

2010年09月22日 | 坂道

紀尾井坂下の交差点を渡り、直進すると清水谷坂であるが、右折して進むと、右の写真のように、清水谷の標柱が立っている。

江戸切絵図にあるシミヅダニから延びる通りである。ここをまっすぐ進むと、赤坂見附駅近くの弁慶橋に至るが、その手前に清水谷公園という小さな公園がある。

公園の入り口付近に立っている説明板によると、周囲から清水が湧き出して通行人に喜ばれていたことが清水谷の由来らしい。谷底であることから地下水が湧出していたのであろうか。説明板の近くに湧水が復元されているが、自然湧水ではなさそうである。

『江戸名所図会』に清水坂がでてきて(その位置は前回の記事のとおりであろうが)、清水谷について、「清水谷と唱ふるもこの辺の事なり。この所の井を柳の井と号(なづ)くるは、清水流るゝ柳蔭といへる、古歌の意をとりてしかいふとなり。」とある。

古歌とは、「道のべに清水流るる柳蔭しばしとてこそ立ち止まりつれ」(新古今、夏、西行)であるらしい。その古歌から柳の井と名づけられた井戸があったようで、湧き水が勢いよく流れ出ている挿絵がのっている。今年のような暑い夏には水のあるよい休息の地であったのであろう。

公園の中の池を左に見て南側に歩くと、左の写真のように、大きな石碑が立っている。大久保利通碑である。

その前に立っている説明板によると、明治11年(1878)5月14日朝、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺されたのがここ麹町清水谷であった。清水谷坂を下り、紀尾井坂に上ろうとしたところで暗殺されたという(石川)。紀尾井坂の変とよばれている。

以下、色川大吉「日本の歴史21 近代日本の出発」(中公文庫)からの引用である。

「大久保利通はその日、五月十四日午前八時半から宮中で開かれる元老院会議に出席するため、早朝、裏霞ヶ関の自宅を二頭だての馬車で出発した。いまの清水谷公園のある、淋しい清水谷にさしかかったところを襲われた。護衛はなかった。
 待ち伏せた者は、石川県の士族島田一郎・長連豪ら五名で、かれらは大久保の乗馬に一刀をあびせ、馬丁を斬り殺し、馬がたおれて傾いたところを、左右両側から馬車の中を二刀三刀と刺しつらぬいた。大久保が息も絶えだえにはいだし、ひょろひょろと歩いたところを乱刀にて斬りつけ、ついにとどめを刺したという。」

島田一郎らが宮内省に呈上した斬姦状は、その斬姦の理由として明治政府の失政五ヵ条をあげ、第一は、公議を途絶し、民権を抑圧し、以て政治を私し、第二は、法律を私する、であり、第二の例として、黒田清隆が酩酊して妻を斬り殺し、たまたま川路利良がその場に居合わせたのに、政府は不問に付したことを述べているという(色川)。

いまも立っている大きな碑は、説明板によれば、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち(西村捨三、金井之恭、奈良原繁ら)が彼の威徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようと動き、明治21年(1888)5月に完成した(台座も含めると高さ6.27mにもなる)。しかし、単に威徳をしのび業績を称えるためだけにこのような石碑を建設したとは思えない。彼らを取り巻く政治的状況の中でなにか別の政治的意図があったと想像されるが。

公園を出て右折し、紀尾井坂下の交差点に戻り、ここを右折する。ここが清水谷坂であるが、ほぼ平坦である。ちょっと歩くと、標柱が立っているが、その手前から坂上側を撮ったのが右の写真である。信号の先あたりから緩やかな上りとなっている。

この坂は、つづめてシダニ坂またはシタン坂ともいう(石川、岡崎)。標柱の説明が読めなかったので、以下は、岡崎からの引用である。

「元禄四年(1691)の地図をみると、麹町通りから直接下る坂のように見えますが、それ以後の地図は現景とほぼあっているようです。」

尾張屋版江戸切絵図をみると、紀尾井坂からまっすぐ延びる通りがあるが、坂の名や坂を示す三角印はない。近江屋版には坂名はないが坂を示す三角印がある。

中沢新一「アースダイバー」の地図をみると、紀尾井坂の中腹から上一帯が洪積台地で、縄文海進期には、弁慶橋の方から清水谷公園をへて清水坂の中腹あたりまで、また、清水谷坂上近くまで海であった。これは、いまの地形からも推定できる。
(続く)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)

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喰違見附~紀尾井坂

2010年09月21日 | 坂道

紀伊国坂の坂上は迎賓館につながるが、その手前の信号を渡り、東に向かう。ここは、右に弁慶濠が見え、左がテニスコートなどであるが、窪んでいるので、もとは濠であったのであろう。

ここが喰違見附である。説明板が立っているが、右の写真は説明板を後ろにして撮った喰違見附の跡である。

その説明によれば、喰違見附とは、江戸初期の慶長17年(1612)に甲州流兵学者の小幡景憲によって縄張りされたと伝えられる、江戸城外郭門の一つで、土塁を前後に延ばして直進を阻むという戦国期以来の古い形態の虎口(城の出入口)構造とのこと。通常の江戸城の城門は枡形門という石垣を巡らしたものだそうである。

喰違見附は、門と石垣を使わず、土塁を互い違いに築いて敵の直進を阻むようにしたもので、見張りの番所をおいたところらしい。ここは、江戸城外濠の中ではもっとも高い地形であるという。

喰違見附の跡を直進し、右折すると、紀尾井坂の坂上である。かなりの勾配でまっすぐに下っている。

左の写真は坂中腹から坂上側を撮ったものである。写真左の標柱には次の説明がある。

「この坂を紀尾井坂といいます。『新撰東京名所図会』には「喰違より。清水谷公園の方へ。下る坂を稱ふ。」また「紀尾井坂は紀伊家、尾張家、井伊家の三邸此所に鼎立し在りしを以て名つく」とかかれています。このあたりが紀尾井坂と呼ばれているのも左記の理由からです。また坂下が清水谷なので清水谷坂の別の名もあったといいます。」

江戸切絵図を見ると、喰違から入って紀尾井坂の坂上の右側に井伊掃部頭、左側に尾張殿、坂下右側に紀伊殿、とある。これらの屋敷の頭文字に由来する坂名である。

石川、岡崎は、別名、(清水谷坂ではなく)清水坂としている。

横関によると、清水坂は、別の坂で、紀尾井町と麹町五丁目境の坂路、すなわち、清水谷から、上智大学の東側の坂を、新宿通りへ出る道筋をいうとしている。

右の写真は紀尾井坂下から坂上を撮ったものであるが、その清水坂は、写真右を進んだところと思われる。今回は行けなかったが。

江戸切絵図には、その坂に相当するところに、シミヅダニ、とある。
(続く)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
横関英一「続 江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)

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紀伊国坂

2010年09月20日 | 坂道

青山通りを東に向かい、信号を渡ると、前回記事の豊川稲荷がある。境内に入り参道の横にある豊川稲荷縁起を見ると、愛知県豊川閣の東京別院で大岡越前守忠相が守護神として信仰したとある。

参道を出て左折し九郎九坂を下る。坂下で弾正坂と交わるが、そのまま進むと、外堀通りにでる。

歩道を左折すると、このあたりが紀伊国坂の坂下である。左の写真はこの歩道で坂上を撮ったものである。勾配は中程度でまっすぐに上っているが、途中、左にわずかに曲がっている。

写真左が青山御所で、右が外堀通り、その上が首都高速である。写真左に見える標柱には次の説明がある。

「きのくにざか 坂の西側に江戸時代を通じて、紀州(和歌山県)徳川家の広大な屋敷があったことから呼ばれた。赤坂の起源とする説がある。」

この坂は、紀の国坂、紀国坂、赤坂、茜(あかね)坂の別名があるとのこと(岡崎)。

この坂は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『怪談』にある「むじな」で知られている。以下、その冒頭部分である。

「東京の赤坂通りに、紀ノ国坂という坂がある―これは、紀伊の国の坂という意味である。なぜ、紀伊の国の坂と呼ばれているのか、その理由(わけ)は知らない。この坂の片側には、昔から、深い、たいへんひろい濠があって、高い青々とした土手の上は、どこかの屋敷の庭につづいている。そして、道の反対側は、御所の長い、高い塀が、ずっと延びている。街燈や人力車のなかった頃は、このあたりは夜ふけになるとたいへん淋しかった。そのため、おそくなった通行人たちは、陽が沈んでからは、ひとりで、この紀ノ国坂をのぼるくらいならむしろ、幾マイルも回り道をしたのであった。
 それはみな、そのあたりに、むじながよく出たからである。
 むじなを最後に見た人は、京橋界隈の、さる年をとった商人で、もう死んで三十年にもなる。これはその人の話したとおりである。」

むじなにまつわる怪談話である。むじなとは、アナグマの異称で、混同して、タヌキをムジナと呼ぶこともある(広辞苑)。

『怪談』は明治37年(1904)出版で、その最後に見た人が見たのは江戸末期と思われる。尾張屋版江戸切絵図の赤坂繪圖(1861)などを見ると、この坂は濠と広い紀伊屋敷とで挟まれており、なにもないさみしいところのようで、なにかがでそうな雰囲気であったのであろう。

「むじな」はのっぺらぼうがでてくる怪談で、人間と野生動物が共生し対等な関係にあった時代の話と思っていたら、いまも同じようなむじなを見たという話があるらしい。

右の写真は坂上側の信号を渡る途中で坂下を撮ったものである。

現代は、大きな通りとなって、東側には首都高速も通っているので、交通量は多い。しかし、首都高速の東側は弁慶壕で、西側(写真右側)は御所であり、人通りは少ないと思われ、夜ともなればいまでもさみしいところであろう。

『紫の一本』には次のようにある。

「紀之国坂 赤坂風呂屋丁の横丁より、赤根山へ登る坂を云ふ。今紀の国のお屋敷と成るゆゑ、紀之国坂と云ふなり。赤根山へ登るゆゑ、この坂を赤坂といひたるゆゑ、今この近所を赤坂と云ふなり。」

赤坂の地名の由来を述べているが、他にこの地が赤土だからという説もあるらしく、また、坂上に茜が生えていたので赤根山と呼んだという説もある(岡崎)。
(続く)

参考文献
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
上田和夫訳「小泉八雲集」(新潮文庫)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
木原浩勝 中山市朗「新耳袋 第一夜」(角川文庫)
新創社編「東京時代MAP 大江戸編」(光村推古書院)
鈴木淳 小道子校注・訳「近世随想集」(小学館)

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新坂~高橋是清翁記念公園

2010年09月18日 | 坂道

稲荷坂下を右折し進み、道なりに左に曲がって二本目を右折すると、新坂の坂下である。右の写真は坂下から撮ったものである。細い坂がまっすぐに上っているが、勾配はさほどきつくない。

写真左側に写っている標柱に次の説明がある。

「しんざか できた当時は、新しい坂の意味だったが、開かれたのは古く、元禄十二年(一六九九)である。しんさかとも発音する。」

新坂というのはあちこちにあり、そのうちの一つである。(以前の記事参照。)

尾張屋版江戸切絵図を見ると、イナリ坂の北西側近くに、志んサカ、とあり、北西方向に上っている。坂下から見て右側に青山備前守の屋敷があるが、これから青山通りの名がついたのではと思うが。また、近江屋版には、シン坂、とある。

左の写真は坂上の標柱から坂下側を撮ったものである。

石川によれば、坂上のほうは戦前から上流人士の邸宅が多く、坂下は町屋であったらしい。

岡崎は長い坂であるとしているが、左の写真の坂上の標柱まではさほどではない。しかし、そこから青山通りにでるまでは確かに長い。ここも、以前は、坂の途中であったのかもしれないが、現在は、ほほ平坦で、坂という感じはしない。この平坦な道となったところの右側にカナダ大使館がある。

青山通りにでて右折し、大使館の前を通り過ぎると、右手に樹木の多い公園が見えてくる。高橋是清翁記念公園である。公園入り口の説明板によれば、この公園は、日本の金融界における重鎮で大正から昭和初期にかけて首相、蔵相などをつとめた政治家高橋是清(1854~1936)の邸宅があったところである。赤坂表町といった。

高橋是清は、昭和11年(1936)2・26事件のとき蔵相であったが、青年将校に襲われてこの邸で亡くなっている。高橋邸を襲撃したのは近衛歩兵第三聯隊の中橋基明中尉が指揮する第七中隊の137名であった。近衛歩兵第三聯隊は、前回の記事のように、一ツ木公園の近くのTBSのあたりにあったから、高橋邸まではすぐで10分程度である。26日午前5時一斉決行の示し合わせであったので4時50分に営門を出発した。三分坂上から北西への通りを進んで青山通りにでたのであろうか。そうだとすると、円通寺坂上と稲荷坂上を通り過ぎ薬研坂を下り上ったことになる。

この地は昭和13年(1938)10月に東京市に寄附され、昭和16年に東京市が公園として開園した。第二次世界大戦のときの空襲により高橋所縁(ゆかり)の建物は焼失したが、母屋はお墓のある多磨霊園に移されていたため残り、現在は都立小金井公園にある江戸東京たてもの園へ移されているとのことである。

右の写真は園内を撮ったものである。この和風庭園はほぼ当時のままの姿で残されているとのことで、銅像、石像や石灯籠が配置され、樹木で鬱蒼とし木陰ができて涼しい。

ところで、2・26事件の決起将校らに対して、7月5日に軍法会議の判決(死刑17名、有罪76名)がでて、その後すぐ7月12日に中橋中尉ら15名に死刑が執行された。刑場は代々木の陸軍刑務所の北西に造られた。その場所は、現在、渋谷税務署になっており、その西側角に遺族によって二・二六慰霊像が建立されている。その前の道路を挟んで北側にNHK放送センターがある。

決起将校の出撃拠点の一つ近衛歩兵第三聯隊のあったところは後にTBSとなり、刑場前が後にNHKとなった。偶然の一致とはいえ、なにか因縁めいたものを感じてしまう。そういえば、青山通りを西に向かえば渋谷へ至る。

公園をでて右折しちょっと歩くと歩道橋がある。この歩道橋上から東側を撮ったのが左の写真である。

手前の大きな道路が青山通りで、信号下のあたりが薬研坂上であり、右側が薬研坂の下り(停車中の白い車の後ろ)である。写真奥側に延びる通りを進むと、前回の弾正坂上で、さらに行くと、牛鳴坂上に至る。

江戸切絵図などを見ると、この通りが江戸時代からあった道のようで、写真左へと延びる現在の青山通りは、後に開かれたのであろう。
(続く)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
太平洋戦争研究会編 平塚柾緒「二・二六事件」(河出文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
新創社編「東京時代MAP 大江戸編」(光村推古書院)

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二つの稲荷坂

2010年09月17日 | 坂道

三分坂から二つの稲荷坂に行ったが、両坂は、ちょっと紛らわしい位置にある。三分坂上から青山通りに向かう通りを途中、右折すると一の稲荷坂の坂上があり、同じ交差点を左折して進んだところに別の稲荷坂があるからである。

三分坂上の通りを直進すると、まもなく右手に前回訪れた円通寺坂上が見えるが、通りから坂上まで距離があるため坂下は見えない。

この通りの歩道右手に立っている円通寺坂の標柱を過ぎると、信号のある交差点があるが、ここを右折すると、稲荷坂の坂上である。信号をさらに直進すると前回の薬研坂上である。

この坂は、赤坂4-13と14の間を北東に下る。すなわち、前回の黒鍬谷に下る坂で、円通寺坂とほぼ平行に延びている。

右の写真は、坂上から少し下り右に曲がったところから坂下を撮ったものである。この坂はある程度の勾配があり、上りは少々きつい。

せっかく黒鍬谷の上まできたので、坂を下り直進すると、むかしながらの民家も建っていてなつかしく、ほっとする感じもしてくる。やがて、前回訪れた丹後坂下に至る。ここを確認できたので、ここから引き返す。

途中、丹後坂と平行に台地に上る階段があった。また、円通寺坂の坂下の通りに続く横道が何カ所かあったが、中央に向けて緩やかに傾斜してV字谷になっているところが見えた。

左の写真は、坂上のちょっと手前で坂上側を撮ったものである。左側に稲荷が見えるが、これが末広稲荷である。

この坂には標柱はないようであるが、これから稲荷坂の名がついたと思われる(岡崎、石川)。

尾張屋版江戸切絵図を見ると、黒鍬谷の南西側に、末廣稲ナリ、とある。また、近江屋版には、末廣稲荷、とある。

岡崎、石川はともに、この坂は明治以降に開かれた坂であろうとしているが、江戸切絵図の両方に、稲荷前に道があり、近江屋版には上り方向の三角印があり、そうではなさそうである。

この末広稲荷について、『赤坂区史』は「もと麻布坂下町にあったもので、府内備考によれば、元禄四年までは東の片町はずれにあったが、御用地に召上げられ、同五年坂下町に社地を給せられ、坂下町草分の鎮守に付、同六年古跡除地とせられた。・・・」と記しているとのことである(石川)。

坂上に戻り、通りを横断して南西方向の通りに進む。ほほ平坦な道であり、途中クランク状の道を通り、しばらくすると、次の稲荷坂の坂上である。

右の写真は坂上から撮ったものであるが、この位置から坂下はまだ見えない。坂下が見えるところで道路工事をしていた。坂上一帯は旧赤坂台町である。

ここを進むと、傾斜が少しきつい下りとなる。ほぼまっすぐに下っている。

坂下に標柱が立っているが、それには次の説明がある。

「いなりざか 坂下北側に円融院があり、その境内の稲荷への門があったための坂名。坂上に江戸城中清掃役の町があり掃除坂ともいう。」

尾張屋版江戸切絵図を見ると、イナリ坂が見え、坂下に、円通寺、とあり、その中に、稲荷、とある。坂上両脇に、御掃除之者町屋敷が見える。また、近江屋版には、坂名はないが、上りの三角印があり、坂下に、円通院、とあり、その坂側に、旭イナリ、とある。

左の写真は坂下から撮ったものである。坂下一帯は旧新坂町である。

『赤坂区史』には、「臨済宗円通院は嘉永の切絵図にイナリ円通院と記され、附近の御掃除の衆を檀家となし、その境内の稲荷(旭飛稲荷、一名御供稲荷)とともに著名の寺院であったらしい」とあるとのこと(石川)。

中沢新一「アースダイバー」の地図を見ると、両坂の坂上は洪積台地であり、この台地から始めの稲荷坂は北東側に下り、その坂下は縄文海進期に黒鍬谷同じ海域にあり、次の稲荷坂は南西側に下り、その坂下は三分坂下や氷川坂下と同じ海域にあった。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)

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三分坂~一ツ木公園

2010年09月16日 | 坂道

本氷川坂下から赤坂通の赤坂五交番前の交差点を目指す。

交差点を渡ると、緩やかな上りとなって、このあたりが三分坂の坂下である。前方で大きく右に曲がっている。

右の写真は、右に曲がってから坂上を撮ったものである。まっすぐにかなりの勾配で上っている。荷車が上れぬ急坂だったが、40年ほど前に改修して傾斜を緩めて延長したとのことである(石川)。いまも急坂であるが、昔はもっと傾斜がきつかったらしい。

写真左に写っている標柱には次の説明がある。

「さんぷんさか 急坂のため通る車賃を銀三分(さんぷん:百円余)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。さんぶでは四分の三両になるので誤り。」

この坂は急であったので車賃に割増料金を加え、それが銀三分であったらしい。横関、岡崎によれば、分は重量の単位の「分」(ぷん)で、三分は、銀一匁(3.75g)の十分の三である。金一両を銀六十匁とすると、銀三分は江戸銭価で二十文となるとのこと。

横関は、三分を三ブとすると、金一両の四分の三となり、車賃の割増料金にしては高すぎるとしている。この横関説は標柱の説明と同じである。

上右の写真の坂下左側が報土寺の門前で、標柱のわきに築地塀(練塀)が見える。

報土寺には江戸時代の怪力力士で知られる雷電為右衛門のお墓がある。お寺の中に入り左側をまっすぐに進むとある。

門前の説明板によると、明和四年(1767)信州小諸在大石村に生まれ、天明四年(1784)弟子入りをし、寛政二年(1790)から引退までの二十二年間のうち当時最高位の大関の地位を三十三場所保ち、二百五十勝十敗の大業績を残し、文政八年(1825)江戸で没したとのこと。

この坂と報土寺は江戸切絵図に見える。道としては坂下からまっすぐに長く延びているようにも見えるが、上記のように、短い距離で急に上る坂であったようだ。

報土寺のわきをまっすぐに上り、左に曲がる前にそのまま道路を横切ってから、坂下側を撮ったのが上左の写真である。坂上から見てもかなりの急坂であることがわかる。最終的には左に大きく曲がりちょっと上ると信号があり、そこが坂上である。

その坂上に行く前に、上左の写真の左側に進むと、一ツ木公園の入り口である。

この公園は、上右の坂下の写真からわかるように、坂下から直立する崖上の台地にある。坂下の赤坂通から公園までかなりの高低差がある。

下右の写真は公園の奥側から入り口側を撮ったものである。子どもが遊ぶには充分な広さである。

公園の入り口近くにある公園附近沿革案内には次の説明がある。この案内の横にこの付近の江戸切絵図がついている。

「この公園の附近は、江戸時代、広島藩松平(本姓浅野)家の下屋敷であった。
 一ツ木の地名は、むかし、奥州街道がこの地を通過し、人馬の往来が絶えない。それで一継村といったのを鎮守氷川神社の神木が一本の銀杏の大木であったことから、一ツ木と読み改めたという説などがある。
 この高燥の台地には、維新後、明治26年(1893)5月20日、近衛歩兵第三聯隊が移転してきた。赤煉瓦3階兵舎は町の名物でもあった。
 この公園の部分は、その聯隊に隣接する近衛第二旅団司令部跡である。その後日清、日露をはじめ、いくつかの戦争をへて、昭和20年(1945)この台地の聯隊が姿を消したのちは、現代を象徴する東京放送などの登場となった。昭和34年3月25日港区立公園として開園した。」

いくつかの興味あることが書かれている。以前の記事で疑問であった一継の由来、一継から一ツ木となった理由(説)などであるが、その神木とは、前回の記事の銀杏の巨樹と思われる。また、近衛歩兵第三聯隊がこの近くにあったとのことだが、ここは、昭和11年(1936)2・26事件のとき青年将校の出撃拠点の一つであった。

中沢新一「アースダイバー」の地図を見ると、三分坂上の東(TBS側)が洪積台地となっており、縄文海進期に、三分坂上の近くが海との境界であったようである。ここの南側対岸が氷川神社の近くである。三分坂上の東側が岬状に突き出ており、その突端がちょうど山王日枝神社と海を挟んで相対している。

中沢は、日枝神社と向かい合っているこちら側の岬の高台にもなにか重要な古代の聖地があったに違いないとし、その場所を探すと、TBSの敷地が浮かび上がり、この推測が正しいとすると、TBSは大地の記憶を抹殺した上につくられた情報資本の拠点であり、記憶を滅ぼして、情報という偽物につくりかえる現代的な作業にいそしむ人々の拠点であるとする。なかなかおもしろく興味を覚える視点である。
(続く)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)

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氷川神社~本氷川坂

2010年09月15日 | 坂道

氷川坂上からちょっと下り左折すると、氷川神社の参道である。階段を上り境内に入ると、樹木で鬱蒼としている。その中心付近にある銀杏の木を撮ったのが左の写真である。

古木のようで、前に立っている説明板によると、目通り(地上1.5mの高さ)の幹径約2.4m、幹周約7.5mの推定樹齢400年の巨樹とのことである。

氷川神明社(現在の氷川神社)について『江戸名所図会』には次のような説明がある。

「赤坂今井にあり。(この所を世に三河台といふ。天和の頃松平参河守様御屋敷なりし故に名とす。)別当は聖護院派の触頭にして、大乗院と云ふ。祭神当国一宮に相同じ。赤坂の総鎮守にして、祭礼は隔年六月十五日、永田馬場山王権現と隔年に修行す。(『江戸名勝志』、『惣鹿子』等の草紙に、当社元一木村にありしを、享保十五年己酉(1730年4月26日)、今の地に遷座、社を御造営ありと云々。)・・・」

『江戸名勝志』、『惣鹿子』などによれば、この神社は、もとは一ツ木村にあったが、享保十五年(1730)、八代将軍吉宗が老中水野和泉守忠之に命じ、今の地に移り、造営されたらしい。

江戸切絵図を見ると、いつもの尾張屋版に氷川明神が見え、近江屋版には「赤坂鎮守 氷川明神社 祭礼六月十五日 山伏 大聖院」とある。

永井荷風は、氷川神社を初めて(たぶん)訪れたときの感想を大正8年(1919)11月1日「断腸亭日乗」に次のように記述している。

「十一月朔。赤坂氷川町の売家を見る。其の途次氷川神社の境内を過ぐ。喬木鬱蒼たること芝山内また上野などにまさりたり。市中今尚かくの如き幽邃(ゆうすい)の地を存するは以外の喜びなり。夕刻家に帰るに慈君の書信あり。去年の此頃は人をも世をも恨みつくして、先人の旧居を去り寧溝壑(こうがく)に填せむことを希ひしに、いつとはなく徃時のなつかしく思い返さるる折から、慈君のたよりを得て感動する事浅からず。返書をしたため秋雨街頭のポストに投ず。終夜雨声淋鈴たり。」

荷風は、このとき、築地からの引っ越し先を探しており、この日、赤坂方面にきて、氷川神社の境内を通りすぎたが、喬木鬱蒼とし、幽邃(ゆうすい)の地であることに驚いている。その後もたびたびここを訪れているようである。荷風のころは今よりもいっそう樹木で鬱蒼としていたのであろう。

氷川神社を正面から出て右折し、直ぐ右折し、神社わきの西側の通りをまっすぐに進むと、本氷川坂の坂上である。 上右の写真は坂上から撮ったものである。

写真左に写っている標柱には次の説明がある。

「もとひかわざか 坂途中の東側に本氷川明神があって坂の名になった。社は明治十六年(1883)四月、氷川神社に合祀された。元氷川坂とも書いた。」

この坂は、前回の記事の転坂の標柱に「一時盛徳寺横の元氷川坂もころび坂といった」とあるように、始めは緩やかに下るが、少し右に曲がってからかなり急である。

左の写真は、下りの二回目の曲がり付近から坂上を撮ったものであるが、特に、この曲がりまでかなりの勾配がある。

この坂は、坂上から下りて左の写真のところで左に大きく曲がって緩やかになり、そのまま進み右にまた大きく曲がると、そのまま一般道になるような雰囲気で、このあたりが坂下と思うと、さらに下側に続いており、下右の写真のように、その先の通りにでる手前に標柱が立っていた。

このように元氷川坂はかなり曲がりくねった長い坂で、特に坂下からアクセスしたときはわかりにくいかもしれない。

こういった坂は開発でよく分断されて一部しか残らない場合も多いが、この意味でこの坂は貴重な存在である。

近江屋版江戸切絵図には、氷川明神社の西となりに「聖徳寺 今井鎮守 元氷川社」が見える。

尾張屋版江戸切絵図には聖徳寺とあるだけであるが、その隣りが勝麟太郎(海舟)となっている。

元氷川坂の近くに勝海舟が住んでいたことは、石川や岡崎などに書かれているが、尾張屋版江戸切絵図にその屋敷がはっきりと示されていることがわかった。

明治元年(1868)五月、上野彰義隊の残党が集まっているとの噂で、官軍の市中取締隊が氷川神社に押し寄せて、近くの武家屋敷に乱入して家人を殺傷し、逃げかくれたものがいるといって神社を焼き払った。このとき、官兵は勝の邸にも踏み込んだが勝は不在だったという(石川)。

上右の写真は坂下の標柱を右に見て本氷川坂の上り始め付近を写したものであるが、この写真の標柱を背にして坂下を右折すると、すぐのところの店のわきに、下左の写真のように、勝海舟邸跡の標柱が立っている。

明治後の勝邸はいまの赤坂6丁目6番の氷川小学校跡のところにあったとのことであるが、そこは、南部坂から転坂に向かうとき、右手に当たるところである。勝海舟「氷川清話」はこの氷川の地名に因むものであろう。
(続き)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)

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転坂~氷川坂

2010年09月14日 | 坂道

南部坂上を直進し、突き当たりを左折すると、転坂の坂上である。左側に標柱が立っている。

右の写真は坂上から撮ったものであるが、まっすぐに下っている。

標柱の説明には次のようにある。

「ころびざか 江戸時代から道が悪く、通行する人たちがよくころんだために呼んだ。一時盛徳寺横の元氷川坂もころび坂といった。」

坂を下る途中、中ほどに突然勾配が急になる部分があったが、ここが転びやすかったところかもしれないなどと思ってしまうほど急に変化している。

『御府内備考』には、「一坂 右町内(氷川僧屋敷)北の方横町にこれあり、赤坂新町四丁目に出候道にて、古来右横町狭く左右より立木多く茂りこれあり、日当り申さず所にて道敷甚悪敷、往来の者多く転び候に付、自然と俚俗転坂と唱へ来り申候」とあるとのこと。

江戸切絵図を見ると、南部坂上を進み突き当たり左右の道が赤坂新町四丁目に出る通りのようである。現在と同じく、突き当たりを左折したところが転坂と思われる。

左の写真は坂下から撮ったものであるが、坂下にも標柱が立っている。

ところで、この坂は坂上を進むと氷川公園のある通りにあり、赤坂6-5と6-9との間に位置するが、横関は、赤坂6-8、6-9の間の坂としている。そこは、赤坂教会を右に見て氷川坂の中腹に下る坂のようである。南部坂から行くと、二本目を左折する。

これを書いていて気づいたので、今回はこの坂を通らなかったが、横関が住所表記を誤っただけなのだろうか。江戸切絵図にこの坂の道はないが。

横関の著書「続 江戸の坂 東京の坂」に、この赤坂の転坂の写真がのっているが、これが、横関の著書にある住所のところの坂なのか、それとも、現在標柱の立っている坂なのか、不明である。写真の坂は狭く、途中、右側に蕎麦屋かなにかの看板(無量?)が見える。土地の古老に聞けばわかるかもしれない。

転坂下を左折すると、氷川坂の上りとなる。

右の写真は左折したあたりから坂上を撮ったものである。まっすぐに上っている。

そのまま上っていくと、右手に氷川神社の参道がみえ、さらに上ると、左手に標柱が立っている。次の説明がある。

「ひかわざか 八代将軍吉宗の命で建てられた氷川神社のもと正面に当たる坂である。」

『東京府志料』はこの坂を無名坂とし、明治初年ごろまでは無名坂に扱われていたようだが、土地の人たちが伝えるところによると氷川坂とよびならわしており、昭和5年の赤坂区全図には氷川坂とあるとのこと(石川)。

ところで、標柱にある「氷川神社のもと正面に当たる坂」とはどういう意味であろうか。現在、坂上を右折し進んだ道の途中が神社の正面に当たるが、昔は、氷川坂の途中から入った正面に神社があったのであろうか。

左の写真は坂上から撮ったものである。まっすぐに突き当たり(赤坂6-4)まで下っているようである。

中沢新一「アースダイバー」の地図を見ると、南部坂から氷川神社のあたり一帯は洪積台地で、縄文海進期には転坂や氷川坂下のあたりは海である。この辺全体を見ると、岬状になっており、氷川神社のあるあたりは海との境に近く、中沢のいう霊性の強い場所である。

二三年前にこのあたりの坂巡りにきているが、そのときは、確か、今回と逆のコースであった。三分坂のほうからきてちょっと道に迷い、氷川神社に出て、本氷川坂を往復し、氷川坂を下り、転坂、南部坂へと歩いた記憶がある。
(続く)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)

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