観音坂を往復し、坂下を左折しもとの通りを進み、次を右折すると、戒行寺坂(かいぎょうじざか)の坂下である。
これまで左側に上る坂であったが、ここは反対側で、坂上は、前回の須賀神社と同じ台地である。
右の写真は坂下から撮ったものである。途中で一部細くなっているが、ほぼまっすぐに上っている。坂上の戒行寺門前のあたりからみると、若干曲がって見える。坂の勾配はさきほどの観音坂と同じくらいか。
下左の写真のように、坂上の戒行寺の前に標柱(写真右側)が立っている。それには次の説明がある。
「戒行寺の南脇を東に下る坂である。坂名はこの戒行寺にちなんでいる(『御府内備考』)。別名「油揚坂」ともいわれ、それは昔坂の途中に豆腐屋があって、質のよい油揚げをつくっていたからこう呼ばれたという(『新撰東京名所図会』)。」
坂下の通りは、岡崎が訪れた当時は、ごたごたした商店街であったらしいが、いまはそうではなくすっきりして、むしろ商店街なのに商店が少なく、もの寂しい感じがするほどである。人口が減っているのだろうか。上右の写真のように古めかしい床屋があるが、閉店中であった。
尾張屋版江戸切絵図に戒行寺がみえ、現在の戒行寺坂の道に、南寺丁、とあるが坂マークが付いていない。近江屋版をみると、坂を示す三角印△がある。ここも、昔からお寺が多かったところのようである。
「江戸名所図会」に妙典山戒行寺が次のようにのっている。
「同所(四谷)南に隣る。日蓮宗にして延山に属せり。寛永の頃までは、麹町一丁目の御堀端にありて、常唱題目修行の庵室なりしが、近隣宮重氏、庵主と共に力を合わせて遂に一寺とす。当時の日貞師は、山本勘助晴幸入道道鬼斎が孫にて、延山日悦上人の徒弟なり。当寺は明暦に至りこの地に遷さる。総門の額に妙典山と書せしは、朝鮮国李彦の書なり。この所の坂を戒行寺坂、又その下の谷を戒行寺谷と唱へたり。」
江戸名所図会に、このあたりの日宗寺、戒行寺、汐干観音を含む風景の挿絵があるが、これに戒行寺の正面に上る長い二層の石段坂がみえる。これは、いまの戒行寺坂ではなく、近江屋版江戸切絵図をみると、観音寺坂下から通りを横切って戒行寺の正面へ上る道に坂の三角印△があるが、この坂であるとされている(岡崎)。
なお、この挿絵には、前回の観音坂が記されており、その右手奥に汐干観音とある。
坂上を直進し、左手の永心寺の先を左折すると、闇坂(くらやみざか)の坂上である。
曲がったところから坂はみえないが、この角に標柱が立っている。
標柱から狭い小路が続いており、ちょっと歩くと、坂下が見える。
右の写真は坂上から撮ったものである。細い坂がかなりの勾配で下っている。上記の標柱には次の説明がある。
「この坂の左右にある松巖寺と永心寺の樹木が繁り、薄暗い坂であったため、こう呼ばれたという(『御府内備考』)。」
近江屋版江戸切絵図をみると、この道に坂を示す三角印△があるが、坂名はない。別名が乞食坂、茶の木坂であるとのこと(岡崎、横関)。
横関は、むかしから知られている乞食坂として、日暮里の御殿坂、牛込岩戸町の袖摺坂、四谷南寺町の暗闇坂(闇坂)、雑司ヶ谷の小篠坂の四つをあげ、乞食坂というのは、かならず寺院の多い場所で、その横町とか裏町にあるとしている。昔はことに寺院の前は乞食の稼ぎ場所であり、坂は、その通路や休憩場所であり、いつも寂しいところで、人の往来が少ないところにあったという。
左の写真は坂下から撮ったものである。坂下に下るが、急傾斜を実感できる。坂下に若葉公園があるが、ここで一休みする。
坂を上りもとの坂上の通りにもどる。
(続く)
参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
鈴木棠三・朝倉治彦校注「江戸名所図会(三)」(角川文庫)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)