東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

網干坂

2012年04月30日 | 坂道

網干坂下 網干坂下 網干坂下 網干坂下側 前回の一行院坂から網干坂を下って帰ることにし、坂上から南西を目指して歩く。このあたりは白山台地の北寄りにあたるが、白山台地は独立した山ではなく、ここからさらに北の方で、妻恋坂・清水坂の方から延びる本来の本郷台地と一緒になる。いわば、白山台地は本郷台地から岬のように突き出ている。これは、中沢新一「アースダイバー」(講談社)の縄文海進期の地図を見るといっそう明らかである。

網干坂の坂上につく。今回、この台地の東側にある坂を巡ったが、この坂はそれらとは反対側の千川(小石川)の流れていた谷へ下っている(千川の谷の西側が小石川台地)。この坂は小石川植物園の西端に位置し、東端にあるのが御殿坂である。

この坂はかなり長く、坂上側でちょっとカーブしているが、それからほぼまっすぐに下っている。勾配は中程度であるが、それも長く続くとかなりの上りになる。この坂は二回目で、はじめに来たとき、坂下から上り、なにかもっと暗い感じがしたが、晩秋の遅い時間だったからかもしれない。

坂上から下ったが、写真は坂下から坂上へとならべた。

一~三枚目の写真は坂下から撮ったもので、中腹のあたりまでほぼまっすぐに上っている。坂下から見て右側(東)の塀の向こうが小石川植物園である。

網干坂下側 網干坂中腹 網干坂中腹 網干坂中腹 一枚目の写真の坂上側のさらに上の方で、二枚目の写真のように右に緩やかに曲がっている。坂下に坂標識が立っているが、次の説明がある。

「網干坂(あみほしざか)   白山三丁目と千石二丁目の境
 白山台地から千川の流れる谷に下る坂道である。小石川台地へ上る「湯立坂」に向かいあっている。
 むかし、坂下の谷は入江で舟の出入りがあり、漁師がいて網を干したのであろう。明治の末頃までは千川沿いの一帯は「氷川たんぼ」といわれた水田地帯であった。
 その後、住宅や工場がふえ、大雨のたびに洪水となり、昭和9年に千川は暗渠になった。なお、千川は古くは「小石川」といわれたが、いつの頃からか千川と呼ばれるようになった。
    文京区教育委員会  平成7年3月」

むかし、坂下の谷は入江で舟の出入りがあったという説明は、いまからすると信じ難いが、たとえば、鈴木理生「江戸はこうして造られた」(ちくま学芸文庫)の江戸の原型という地図(21頁)を見ると、小石川が日比谷入江へと流れ込んでおり、その入江(いまの皇居平川門のあたり)から4~5kmほど上流がこの坂下あたりであるから、江戸湾へ漁に出た漁師が網を干したことは充分考えられる。

小石川の伝通院前から南へ下る安藤坂の別名も網干坂であるが、これは「あぼし」坂と読むようである。

別名が網曳(あみひき)坂、網(あみ)坂、氷川坂、簸川坂(横関、石川、岡崎)。簸川(ひかわ)坂というのは、坂西側に簸川神社(氷川神社)があるためという。戦前の昭和地図(昭和十六年(1941))では網曳坂となっている。

網干坂中腹 網干坂中腹 東都小石川絵図(安政四年(1857)) 東都駒込辺絵図(安政四年(1857)) 一、二枚目は中腹のカーブの上を撮ったもので、ほぼまっすぐに上っているが、この上側で左にわずかに曲がっている。

この坂は、尾張屋板江戸切絵図の東都小石川絵図(安政四年(1857))、東都駒込辺絵図(安政四年(1857))の両方にのっている。いずれの地図でも端に位置するためである。これからここが江戸から続く坂であることがわかる。

三枚目は、前者の東都小石川絵図の部分図であるが、上側に描かれている千川の流域には田圃ができている。ここに下る道が左側上にあり、「アミホシサカ」とある。右端中央には極楽水が見え、そのわきに松平播磨守の屋敷があるが、ここにいま、播磨坂がある。近江屋板(嘉永三年(1850))にも「△アミホシサカ」とある。いずれにも坂下西側に氷川社があり、その別当が極楽水宗慶寺である。

四枚目は、後者の東都駒込辺絵図の部分図であるが、御薬園(いまの小石川植物園)の左に「アミホシサカ」とある。御江戸大絵図(天保十四年(1843))にはこの道筋があるが、坂名はのっていない。

網干坂中腹 網干坂上側 網干坂上側 網干坂上 一~三枚の写真のように、坂上側はかなり緩やかになる。さらにその先は、四枚目のようにほぼ平坦である。

坂上の北側、坂西側のあたりを小石川林町といったが、これは、上四枚目の江戸切絵図にも見えるが、江戸時代にこの坂の西側に林大学頭の屋敷があったので、明治維新後、上地されて町になったときに、この町名がつけられたという(石川)。坂上の北に林町小学校があり、この旧町名が校名として残っている。

坂下を直進し、千川通りを横断し、そのまま西へ進むと湯立坂という名坂に至るが、このときちょうど工事中であったので、この坂はいつかまた別の機会に訪れたときに紹介したい。

湯立坂を上り、春日通りを横断し、茗荷谷駅へ。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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一行院坂

2012年04月29日 | 坂道

一行院坂下 一行院坂下 一行院坂上 一行院坂上 前回の暗闇坂から白山通りの歩道に出て右折し、北へ進み横断歩道を渡り、西側の歩道を北へちょっと歩き、一本目を左折すると、一行院坂の坂下である。一枚目の写真は歩道から坂上を撮ったものである。坂下でちょっと曲がってからまっすぐ緩やかに西南へ上っており、距離の短い小坂である。白山四丁目37と千石一丁目14との間を上る。

三、四枚目は坂上から坂下を撮ったもので、坂下の向こうに白山通りが見える。白山通りから白山台地に上る坂であるが、坂の高低差はなく、蓮華寺坂逸見坂に比べるとほとんどないといってよいほどである。白山通りが蓮華寺坂下の白山下のあたりからここまで少しずつ高度を上げているのであろう。

ここにはいつもの教育委員会の標識が立っていないばかりか、横関、石川にも載っていない。岡崎、山野にはあるが、詳しい説明はほとんどない。

一行院坂上 一行院門前 東都駒込辺絵図(安政四年(1857)) 御大江戸絵図(天保十四年(1843)) 一枚目の写真は坂上の先を撮ったもので、このあたりはほぼ平坦である。坂上をちょっと進んだところにある一行院の門前を撮ったのが二枚目である。坂名は、この寺に因むことがわかる。この寺は『御府内備考』(文政十二年(1829))の原町の書上にある。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図東都駒込辺絵図(安政四年(1857))の部分図を見ると、寂圓寺の北西に一行院があり、その東北側に一橋邸があり、さらに一橋邸を取り囲むように広い酒井雅楽守の屋敷があるが、この坂に相当する道は描かれていない。門前は南西に向いていた。近江屋板(嘉永三年(1850))もほぼ同様である。

四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図では、一橋邸の位置がちょっと違っているが、上記の江戸切絵図とほぼ同じで、この坂に相当する道はない。

明治実測地図(明治十一年(1878))も明治地図(明治四十年(1907))も二つの江戸絵図とほぼ同じで、後者にはいまの白山通りのあたりに小川が流れている。

戦前の昭和地図(昭和十六年(1941))を見ると、いまの白山通りの予定線とともに旧道があり、この東南に延びる旧道につながる道が一行院の東南側にあるが、これがこの坂道である。

以上のように、各地図を見る限りでは、この坂は比較的新しく、大正~昭和初期にできたものと考えられるが、ここもまたどんな資料にこの坂名が記されているのか不明である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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暗闇坂(白山)

2012年04月28日 | 坂道

暗闇坂近くの階段 暗闇坂近くの階段の上から 暗闇坂上 暗闇坂上 前回の本念寺から白山通りの歩道に出て、横断し、反対側(東)の歩道を北へ進む。暗闇坂へ行こうとしたが、一本手前を右折してしまったらしく、一枚目の写真のように急な階段に行きつく。

伊賀坂蓮華寺坂逸見坂と、白山通りの西側の坂(白山台地へ上る坂)を巡ったが、この階段坂を見上げると、その前に巡った白山坂(薬師坂)などのある本郷台地にもどったという感じである。そのむかしは崖であったのだろうと想われる急な階段を上り、ふり返って西側を撮ったのが二枚目である。さきほど通った崖下の道が見える。

階段上を直進し、次を左折し、北西にちょっと歩き、次を左折すると、暗闇坂の坂上である。三、四枚目の写真のように、ほぼまっすぐに西南へ下っている。ちょうど先ほどの崖の高低差をかなり短い距離で上下するため、勾配はかなりある方で、短い坂である。坂上から見て左端に沿って手摺りがつけられている。白山五丁目10と11との間を下る。

暗闇坂上 暗闇坂下 東都駒込辺絵図(安政四年(1857)) 御大江戸絵図(天保十四年) ここには、いつもの教育委員会の標識が立っていない。ここが暗闇坂と断定できない訳があるのかもしれない。

横関は、文京区白山五丁目(もと原町一四番地)を南に下る坂、と簡単にしか説明していない。

石川は、『新撰東京名所図会』が「町内(小石川原町)東の方、里俗鶏声ヶ窪、中山道より岐れて原町一番地と白山前町の間を南に下る坂あり」と記していることを紹介し、この坂道はむかしは酒井雅楽守と土井伊予守の屋敷の間の道であった、としている。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図東都駒込辺絵図(安政四年(1857))の部分図を見ると、西側の酒井雅楽守の屋敷と東側の森川伊豆守の屋敷との間に、略半円状にカーブして南へ続く道筋があるが、ここがこの坂と思われる。その北側の土井大隅守邸の上の道(中山道)に、此辺ケイセイカクホ、とある。近江屋板(嘉永三年(1850))もほぼ同様である。

四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図は、上記の江戸切絵図とほぼ上下反対となっているが、酒井邸の左斜め下に曲がった道筋があり、ここがこの坂と思われる。

明治実測地図(明治十一年(1878))を見ると、二つの江戸絵図と同様の道筋があり、いずれも坂下に寂圓寺がある。明治地図(明治四十年(1907))でも同じ道筋があるが、坂下から離れた位置に寂圓寺がある。

以上の各地図では、白山坂(薬師坂)上を左折し中山道を北西へちょっと進み左折すると、道が西へほぼまっすぐに延び、やがて突き当たり、ここを右折すると、道は西北へ延びているが、この途中にこの坂の坂上がある。

暗闇坂下 暗闇坂下 暗闇坂下 暗闇坂下の先の四差路 勾配のある坂を下り、ふり返って撮ったのが一、二枚目の写真である。坂下を進みちょっとカーブし、そのあたりでふり返って撮ったのが三枚目であるが、このあたりはまだ緩やかな勾配が続いている。四枚目は坂下の先の四差路であるが、進行方向に見事に食い違っている。

この坂は、上記のように武家屋敷と武家屋敷の間にあるためか、『御府内備考』(文政十二年(1829))には説明がないようである。

同名の坂は都内にかなりあり、樹木が生い茂り昼でも暗かった所と思われるが、本郷の東大そばの暗闇坂と同じように、いつごろからそう呼ばれたのか不明で、資料などはないようである。このため、そもそもこの坂名はどのように伝承されてきたのかよくわからず、ちょっと不思議な感がする。(上記の『新撰東京名所図会』にも「暗闇坂」とはないようである。)

上記の明治実測地図によれば、中山道から左折した道と中山道との間の一帯が鶏声ヶ窪である。現代地図を見ると、この道筋(東洋大学の南、西を通る)はいまもある。ということで、いつか機会があれば、この道経由でこの坂上に再訪してみたい。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)

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本念寺と荷風

2012年04月26日 | 荷風

本念寺近くの無名の階段坂 本念寺門前 大田南畝の墓 説明板 東都駒込辺絵図(安政四年(1857)) 前回の逸見坂上を直進し、その先の四差路を右折し、次を右折し、白山通り方面へもどるようにしてしばらく歩くと、無名の階段坂に遭遇したので、坂下から写真を撮った(一枚目の写真)。街歩きのとき不意に石段坂に出会うとなんとなくうれしくなるから不思議である。

ここをさらに下り東へ進むと、右手に本念寺が見えてくる。二枚目の写真は門前を撮ったものである。前回の逸見坂のちょうど西北の反対側に位置し、一本となりの道沿いにある。ここに、三枚目の写真のように、天明期の文人・狂歌師である大田南畝(蜀山人)の墓がある。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図東都駒込辺絵図(安政四年(1857))の部分図に、本念寺が現在と同じ位置に見える。近江屋板も同様である。

永井荷風は、蜀山人(大田南畝)が好みであったらしく、よくその作品などが日記「断腸亭日乗」にでてくるが、この寺に蜀山人の墓の掃苔に何回かきている。大正11年(1922)4月26日に次の記述がある。

「四月廿六日。日の光早くも夏となれり。午下小石川原町蓮久寺にて井上君先考の葬儀あり。焼香の後木曜会の二三子と本念寺に立寄り、蜀山人および其後裔南岳の墓を掃ふ。南岳墓碣の書は巌谷小波先生の筆にして、背面に真黒な土瓶つつこむ清水かなといふ南岳の句を刻したり。この日午前十時半頃強震あり。時計の針停り架上の物落ちたり。白山よりの帰途電車にて神田橋を過るに外濠の石垣一町ほど斜に傾き水中に崩れ落ちたる処もあり。人家屋上の瓦、土蔵の壁落ちたるもの亦尠からず。」

この日、ちょうど今日と同じ日であるが、友人井上啞々の父の葬儀でこの近くの蓮久寺(白山五丁目、東洋大学のわきにある)に来て、その帰りに本念寺に立ち寄り、蜀山人とその子孫の大田南岳(大正6年7月に亡くなっている)の墓参りをしている。午前に強い地震があったらしく、その被害の様子をかなり詳しく記している。関東大震災の一年四ヶ月程前である。

次は、大正13年(1924)4月20日である。

「四月二十日。午後白山蓮久寺に赴き、唖唖子の墓を展せむとするに墓標なし。先徳如苞翁の墓も未建てられず。先妣の墓ありたれば香花を手向け、門前の阪道を歩みて、原町本念寺に赴き南畝先生の墓を掃ひ、其父自得翁の墓誌を写し、御薬園阪を下り極楽水に出で、金冨町旧宅の門前を過ぐ。表門のほとりの榎、崖上の藤棚、壁梧、また裏手なる崖上の榎等、少年の頃見覚えたりし樹木、今猶塀外の道より見ゆ。裏門の傍に大なる桃の木ありしが今はなし。庭内に古松二三株ありしが今はいかがせしや。北鄰の田尻博士邸は他に引移りしと見えて、門前の様子変りたり。金剛寺阪の中腹より路地を抜け、金剛寺の境内を過ぎ、水道端に出て、江戸川橋より電車に乗る。」

この日も前回と同じく蓮久寺からこの寺に来ている。その後、ここから金冨町の旧宅まで歩き、旧邸の内外の光景をなつかしみながらここを通りすぎたようである。この日通った御薬園坂や極楽水のことは以前の記事で触れた。

次は、上記からかなり後の昭和16年(1941)10月27日。

「十月廿七日、晴れて風あり。午後散歩。谷中三崎町坂上なる永久寺に仮名垣魯文の墓を掃ふ。団子坂を上り白山に出でたれば原町の本念寺に至り山本北山累代の墓及大田南畝の墓前に香花を手向く。南畝の墓は十年前見たりし時とは位置を異にしたり。南岳の墓もその向変わりたるやうなり。寺を出で指ヶ谷町に豆腐地蔵尚在るや否やを見むと欲せしが秋の日既に暮れかかりたれば電車に乗りてかへる。」

この日、午後散歩に出て、団子坂の東にある谷中の三崎坂の永久寺に行き、江戸~明治の戯作者・新聞記者の仮名垣魯文の墓参りをした。永久寺はいまも同じ所にある。そこから坂を下り、団子坂を上り白山に出て、本念寺に行った。山本北山とは江戸中期の儒学者。南畝と南岳の墓の位置や向きが以前と変わっていることを記している。指ヶ谷町の豆腐地蔵を探そうとしたらしいが、どこであろうか。大久保の鬼王神社には願がかなうと断っていた豆腐をお礼にあげるというが、その類であろうか。そういったところに関心を持つのはいかにも『日和下駄』の著者らしいと思ってしまう。
(続く)

参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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逸見坂

2012年04月25日 | 坂道

逸見坂下 逸見坂下 逸見坂下側 逸見坂下側 前回の蓮華寺坂下の交差点を北へ渡り、白山通りの歩道をそのまま進み、二本目を左折すると、逸見坂の坂下である。歩道からまっすぐに南西へ上っている。一、二枚目の写真は、左折して坂下から坂上を撮ったものである。

この坂は、ほぼ直線状になっているが、二ヶ所で横道と接続し、特に下側の交差部で緩やかになっているので、坂に緩急がついて勾配がかなり変化する。

坂下を見ると、三、四枚目の写真のように、白山通りがすぐである。

二、三枚目の写真のように、坂下側に坂標識が立っていて、次の説明がある。

「逸見坂(へんみざか)  文京区白山4-32と34の間
 「白山神社裏門の南、小石川御殿町と指ヶ谷の間より南へ御殿町へ上る坂あり、逸見坂といふ、旧幕士逸見某の邸、坂際にありしより此名に呼ぶなり」(『東京名所図会』)
 武家屋敷にちなむ坂名である。このあたり「旧白山御殿町」で、逸見坂はその北のはずれにあたる。
 町名の由来は、白山御殿(後に五代将軍になった館林候綱吉の屋敷)からきている。
 御殿廃止後、幕府の薬園(現在の小石川植物園)となる。
 坂の西側の「本念寺」には蜀山人(太田南畝)の墓がある。
   文京区教育委員会  平成元年11月」

逸見坂下側 逸見坂中腹 逸見坂上側 逸見坂上 一、二枚目の写真のように、中腹でちょっとした勾配が続くが、四枚目の写真のように、坂上に至るとかなり緩やかになる。

横関は、白山神社裏門のところ竜雲院の前から西南に植物園の方へ上る坂としているが、竜雲院の前の道と現在の坂下(白山通りの歩道)との間は、広い白山通りで分断されている。

白山通りができる前の戦前の昭和地図(昭和十六年)を見ると、確かに竜雲院の前から延びている。明治地図(明治四十年)はちょっと道筋が違うが、竜雲院の前からこの道筋が延びている。坂下は、むかし、現在の歩道のところから白山通りを横切って竜雲院前まで延びていたようである。

坂上は、小石川植物園の裏に上るとされている(石川)が、三枚目のように、植物園に至る前の中間のところでかなり緩やかになっている。

東都駒込辺絵図(安政四年(1857)) 御大江戸絵図(天保十四年) 寛延三年図(1750)に、坂西側に「逸見弥左衛門」の屋敷が見えるという(横関、石川)ことで、この坂は逸見という武家屋敷があったことに由来するが、一枚目の尾張屋板江戸切絵図の東都駒込辺絵図(安政四年(1857))の部分図を見ると、白山権現裏手の龍雲院前から下側(南西)にまっすぐに延びる道に「ヘンミサカ」とあるものの、逸見という屋敷はない。近江屋板(嘉永三年(1850))にも「△ヘンミザカ」とあるが、逸見邸はない。

二枚目の天保十四年(1843)の御江戸大絵図の部分図を見ると、白山権現裏門のリュウウンジの前から斜め上に延びる道がこの坂道であるが、その右側(西北)に、坂下から、コンドウ、アサノ、サカイ、ヘンミ、とある。この「ヘンミ」が寛延三年図(1750)にあるという逸見邸かどうか確証はないが、同じと考えた方がよいような気がする。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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蓮華寺坂

2012年04月23日 | 坂道

蓮華寺坂上 蓮華寺坂上 蓮華寺坂上 蓮華寺中腹 前回の伊賀坂上を北へ進むと、広い通り出るが、ここを右折すると蓮華寺坂の坂上付近である。一枚目の写真は、そこを左折しちょっと上ったところから坂下を撮ったもので、伊賀坂からの道が右に写っている。二~四枚目からもわかるように、左に緩やかカーブして東へ下っている。勾配は坂上側で緩やかで、中腹のあたりで中程度といったところである。

坂下の白山下の信号で白山通りと交差し、一方、坂上を進むと、御殿坂(富士見坂)の坂上である。坂南側に蓮華寺があり、これが坂名になっている。別名、蓮花坂、御殿裏門坂(横関)。

坂下に坂標識(下四枚目の写真に裏面が写っている)が立っていて、次の説明がある。

「蓮華寺坂(れんげじざか)   文京区白山二丁目と四丁目の間
 「蓮華寺即ち蓮花寺といへる法華宗の傍なる坂なればかくいへり。白山御殿跡より指ヶ谷町の方へ出る坂なり」と改撰江戸志にある。
 蓮華寺は、天正15年(1587)高橋図書を開基、安立院日雄を開山として創開した寺院で明治維新までは、塔頭(たっちゅう)が六院あったという。
 なお、この坂道は小石川植物園脇の御殿坂へ通じ、昭和58年(1983)にハナミズキやツツジが植栽され、春の開花、秋の紅葉が美しい並木道である。
   文京区教育委員会  平成12年3月」

蓮華寺坂中腹 蓮華寺坂中腹 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御大江戸絵図(天保十四年) 中腹から坂下をみると、一枚目の写真のように、広い白山通りとの交差点が見えるが、さらにその先の交差点を右折すると浄心寺坂方面で、やや左に曲がって進むと、白山坂(薬師坂)である。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図に蓮華寺があり、その右(北側)の道筋がこの坂で、その上(西側)が伊賀坂上からの道である。この道が上一枚目の写真の右に写っている。近江屋板(嘉永三年(1850))も同様で、坂マーク△がある。(尾張屋板江戸切絵図の東都駒込辺絵図には、「レンゲジザカ」とある。)

四枚目の天保十四年(1843)の御江戸大絵図の部分図には「レンゲシ」とあり、そのわきの道がこの坂である。坂上の先に、「コテンサカ」と多数の横棒からなる坂マークとともに御殿坂が示されている。

蓮華寺坂中腹 蓮華寺坂下 蓮華寺坂下 蓮華寺坂下 坂下の横断歩道は、中腹からの勾配がそのまま続いた感じで、白山通りで平坦になっているが、その先の道でちょっと下り気味なので、むかしはもっと長めの坂であったのかもしれない。

この坂は、上記の標識のように『改撰江戸志』に説明があり、江戸から続く坂である。この改撰江戸志の説明は、『御府内備考』(文政十二年(1829))の「小石川之一」の総説で引用されている。また、蓮花寺門前町の書上には、次のような説明がある。

「一坂 長さ六十町、巾貳(貳)間余
 右同寺裏門より西の方白山大道通え通路致候坂にて、里俗蓮花寺坂と唱申候、」

白山大道通とは、同寺の裏門より西に方とあるので、御殿坂の方かもしれない。伊賀坂の説明にもあったが、この蓮華寺坂と同様に解すべきか。

白山坂(薬師坂)の記事で引用した森鷗外の短篇『田楽豆腐』の「木村は白山の坂を降りて右へ曲がった。盲学校のある丘陵を一つ踰(こ)えれば植物園の歴史的の黒い門のある町に出る。」にある、この丘陵とはこの坂のある白山台地で、これを超えたとあるので、この坂を上ったのであろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「鷗外選集 第三巻」(岩波書店)

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伊賀坂

2012年04月21日 | 坂道

伊賀坂下 伊賀坂下 伊賀坂下 伊賀坂下側 前回の白山坂(薬師坂)下を進み、白山通りの一本東側の裏通りを南に歩いてから白山通りの歩道に出て、指ヶ谷小入口の交差点で白山通りを横断し、そのまま小路に入って西へ進む。一枚目の写真は小路に入ってすぐに撮ったものである。

小路を進むと、二、三枚目のように、前方に指ヶ谷小の門が見えてくるが、このあたりが伊賀坂の坂下である。四枚目のように、門の前に坂の標識が立っていて、そのあたりから道がちょっと曲がりはじめる。

標識には次の説明がある。

「伊賀(いが)坂  白山2丁目28-29
 白山台地から白山通りに下る坂で、道幅は狭く、昔のままの姿を思わせる。この坂は武家屋敷にちなむ坂名の一つである。
 伊賀者の同心衆の組屋敷があった(『御府内備考』)とか、真田伊賀守屋敷があった(『改撰江戸志』)という二つの説がある。
 『東京名所図会』では真田伊賀守説をとっている。伊賀者は甲賀者と共に、大名統制のための忍者としてよく知られている。
   文京区教育委員会  平成9年3月」

伊賀坂中腹 伊賀坂中腹 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御大江戸絵図(天保十四年) 坂下から進み、小学校の門を過ぎると、上記のように少しうねってから、一、二枚目の写真のように、左にかなり曲がってから、坂上側の四差路手前でも右にちょっと曲がっている。坂下からずっと緩やかで、勾配はさほどない。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、白山権現の左上斜め方向に、「大岡作右エ門」という武家屋敷があるが、この左わきの道がこの坂と思われる。うねった道筋で、坂上を右に曲がってからまっすぐに蓮華寺の上まで延びている。近江屋板(嘉永三年(1850))もほぼ同じであるが、坂マーク△があり、また、坂わきの屋敷が大岡でなく、「赤井孫四郎」になっている。

四枚目の天保十四年(1843)の御江戸大絵図の部分図に、この道筋が見え、「イカサカ」とあり、坂わきは、「大ヲカ」になっている。なお、この絵図に、これまでの、胸突坂中坂浄心寺坂大円寺白山坂(薬師坂)が見える。

伊賀坂中腹 伊賀坂上側 伊賀坂上側 伊賀坂上側 坂上側は、二、三枚目の写真のように、四差路になっているが、ここをそのまま直進すると、二枚目のように、ふたたびちょっとした上りになって右に曲がっている。一、四枚目は、坂上側から坂下を撮ったものである。

以下は、『御府内備考』(文政十二年(1829))の指谷南片町の書上にある説明である。

「一坂 長さ壹(一)町余、巾壹(一)間
右当町西の方白山大道通え通路の坂にて、字伊賀坂と唱申候、
 但伊賀坂と唱候儀、古来より伊賀同心衆住居被致候に付伊賀坂と唱候由申伝候、」

上記によれば、この坂は、説明板にもあるが、伊賀同心衆の住居があったことに由来する。白山大道通への通路の坂とあるが、白山大道通とは、坂下の先の左右に延びるまっすぐな道のことであろうか。

同じく『御府内備考』の小石川之一の総説に次の説明がある。

「伊賀坂は太郎兵衛山の北の方なり、むかし真田伊賀守屋敷ここにありしかばかくいへり、其後松平備前守にたまへりといふ、いささかの坂なり、【改選江戸志】」

『御府内備考』は総説で他の書誌の記述をよく引用しているが、ここで引用の改選江戸志によれば、真田伊賀守屋敷があったことに由来し、その屋敷が松平備前守邸になっているとあるので、上記の両江戸絵図を見ると、西側一帯に広い松平邸がある。

伊賀坂上側 伊賀坂上 伊賀坂上 伊賀坂上 一、二枚目の写真の四差路を横断して曲がりながら上ると、坂上は、三枚目のようにほぼ平坦な道が北へまっすぐに延びている。北へ進むが、この途中ふり返って坂下側を撮ったのが四枚目である。

上記の改選江戸志にある太郎兵衛山とはどこだろうか。その山の北の方にこの坂があるから、坂の南の方の山である。本郷台地の一部である白山台とよばれる台地は、この坂の南側あたりが南端であるので、その辺をいったのであろうか。調べたら、尾張屋板江戸切絵図の東都小石川絵図(安政四年(1857))に「小石川戸崎町 太郎兵衛山ト云」とあった。御殿坂の東の方で、伊賀坂の西南方向である。また、「いささかの坂」とあるので、当時から勾配は緩やかであったと思われる。

石川は、どちらかというと、伊賀同心衆組屋敷説であるが、そうだとすると、駿河台には、甲賀坂があって、好一対をなすことになる。伊賀忍者とくれば、甲賀忍者である。

この坂は、坂下から進むと、中腹あたりからかなり折れ曲がり、坂上で道を横切ってからも曲がっており、しかも、細い道が続くので、勾配はさしてないが、むかしながらの坂道という雰囲気を感じさせるところである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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白山坂(薬師坂)

2012年04月19日 | 坂道

白山坂上 白山坂上 白山坂上 白山坂下 前回の大円寺から旧白山通りにもどり右折し、ちょっと北へ歩くと、白山上の交差点であるが、ここが白山坂(薬師坂)の坂上である。

一~三枚目の写真は坂上から撮ったもので、この坂は広い通りで緩やかに南へまっすぐに下っている。坂下から撮った四枚目からもわかるが、そんなに長い坂ではない。坂下の先は白山通りで、その交差点ちょっと手前を左折すると、前回の浄心寺坂である。

坂中腹付近に坂標識が立っていて、次の説明がある。

「薬師坂(薬師寺坂、浄雲寺坂、白山坂)  白山一丁目と五丁目の間
 『妙清寺に薬師堂有之候に付、里俗に薬師坂と相唱申候』(『御府内備考』)坂上の妙清寺に薬師堂があったので、薬師坂と名づけられた。また、坂下に浄雲院心光寺があったので、浄雲寺坂とも呼ばれた。また近くに白山神社があり、旧町名が白山前町で、白山坂ともいわれるなど、別名の多い坂の一つである。
 『新撰東京名所図会』には、「薬師堂は、土蔵造一間半四面。「め」の字の奉額、眼病全快者連名の横額あり」、と明治末年の姿を記している。
 このお薬師は特に眼病に霊験あらたかであったようである。土蔵造は、江戸の防火建築で、湯島本郷辺の町屋が土蔵塗屋づくりを命じられたのは、享保15年(1730)の大火後である。現存するものに無縁坂の講安寺本堂がある。
   文京区教育委員会  平成14年3月」

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 白山坂下 白山坂下 江戸名所図会 白山権現 一枚目の尾張屋板江戸切絵図小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図には、大円寺(大圓寺)から出て、北へ進んだところの五差路を左折した道に、多数の横棒からなる坂マークが描かれている。近江屋板には△の坂マークがある。坂上から見て、右側に白山権現があり、そのわきに別名の由来となった浄雲寺がある。御江戸大絵図(天保十四年(1843))にもこの道筋が見える。

この坂は、上記の説明板にもあるが、『御府内備考』(文政十二年(1829))の白山前町の書上に次のように説明されている。

「一坂 長さ七間半、巾貳(に)間
右当町北の方に有之候、尤同所妙清寺に薬師堂有之候に付里俗に薬師坂と相唱申候、」

上記に長さが七間半(13~14m)とあるように、当時から短い坂であったようである。

四枚目は『江戸名所図会』にある小石川白山権現社の挿絵の右半分である。下が裏門で、上の方に表門が描かれており、表門から出たところにあったこの坂は描かれていないが、のどかな雰囲気が伝わってくる。

現在は、坂の途中に地下鉄都営三田線の白山駅の出入口があるため、人通りも多くにぎやかな通りである。坂上を東へ谷中方面に進むと、森鷗外の住んだ観潮楼のあった団子坂に至る。この坂が鷗外の短篇小説『田楽豆腐』に次のようにでてくる。

「木村は白山の坂を降りて右へ曲がった。盲学校のある丘陵を一つ踰(こ)えれば植物園の歴史的の黒い門のある町に出る。」

主人公は、団子坂からこの坂まで来て下り、坂下の先を右折して、小石川植物園まで行った。この間に、蓮華寺坂を上り、御殿坂(富士見坂)を下っているはずである。この植物園あたりまでも鷗外の散歩コースであったのであろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「鷗外選集 第三巻」(岩波書店)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)

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大円寺・ほうろく地蔵

2012年04月18日 | 散策

大円寺門前 大円寺山門 大円寺説明板 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 前回の浄心寺坂上を直進すると、旧白山通りに出るが、ここを左折しちょっと歩くと、一枚目の写真のように道路を隔てて大円寺(大圓寺)が見える。すぐ側に材木屋があったりして、昔ながらの雰囲気が残っている一角である。

道を横断しそのまま進むと、二枚目のように、山門があり、そのわきに三枚目の説明板が立っている。これによれば、大円寺には、幕末の砲術家の高島秋帆、明治の小説家の斎藤緑雨の墓がある。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図に、現在と同じ場所に大圓寺が見えるので、昔からこの地にあったものと思われる。近江屋板にもある。天保十四年(1843)の分間懐寳御江戸絵図にも同じ位置に大エンジとある。また、文政十一年(1828)分間江戸大絵図にも同じ位置に大圓寺がある。

ほうろく地蔵 ほうろく地蔵 ほうろく地蔵説明板 上二枚目の写真にも見えるが、山門をくぐると、すぐのところに、一、二枚目の写真のほうろく(焙烙)地蔵がある。わきに立っている説明板(三枚目の写真)によれば、ほうろく地蔵は、前回の八百屋お七にちなむ地蔵で、お七を供養するために建立されたものであるという。

お七の墓はすぐ近くであるから、このあたりはお七伝説がまつわるところで、一大庶民信仰の地であることがよくわかる。

永井荷風は、『日和下駄』「第二 淫祠」で、「淫祠は大抵その縁起とまたはその効験のあまりに荒唐無稽な事から、何となく滑稽の趣を伴わすものである」とし、その例として、「芝日蔭町に鯖をあげるお稲荷様があるかと思えば駒込には焙烙(ほうろく)をあげる焙烙地蔵というのがある。頭痛を祈ってそれが癒(なお)れば御礼として焙烙をお地蔵様の頭の上に載せるのである。」と書いている。

焙烙(ほうろく)とは、素焼きの平らな浅い土鍋で、これが上の写真のように、たくさん奉納されている。
(続く)

参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)

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浄心寺坂

2012年04月16日 | 坂道

浄心寺坂上 浄心寺坂上 浄心寺坂上 浄心寺坂中腹 前回の中坂上からもとの道にもどり、公園のところで左折し、北へしばらく歩くと突き当たるが、ここを左折すると浄心寺坂の坂上である。

一枚目の写真は、そこから坂下を撮ったものである。ほぼまっすぐに西へ下っているが、ほんのちょっとうねり気味であるのに古めかしさを感じる。坂下の先で、右に少々曲がっており、薬師坂(白山坂)の坂下に出る。中腹のあたりでちょっと勾配があるが、それも中程度よりも緩やかといった感じである。

この坂の別名は、浄心坂、於七坂、乗信寺坂(横関)。

二枚目の写真は坂上のちょっと下から坂上を、三枚目は坂下を撮ったものである。そのあたりに坂標識が立っていて、次の説明がある。

「浄心寺(じょうしんじ)坂
 「小石川指ヶ谷(さしがや)町より白山前町を経て東の方、本郷駒込東片町へ登る坂あり。浄心寺坂といふ」(新撰東京名所図会)
 浄心寺近くの坂なので、この名がついた。また、坂下に「八百屋於七(おしち)」の墓所円乗寺(えんじょうじ)があることから「於七坂」の別名もある。
     文京区教育委員会  平成19年3月」

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 浄心寺坂中腹 浄心寺坂中腹 浄心寺坂下 一枚目の尾張屋板江戸切絵図小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図にこの坂が見える。すなわち、前回の中坂から「小役人」わきの裏通りを進んだ先の突き当たり左右の道がこの坂である。坂のわきが白山前町で、浄心寺、円乗寺が見える。ここにも坂名も坂マークもないが、近江屋板には坂マーク△がある。御江戸大絵図(天保十四年(1843))にもこの坂道が見える。

この坂は『御府内備考』(文政十二年(1829))の丸山新町の書上に前回の中坂の次に以下のように説明されている。

「一坂 右は町方北の方小石川指ヶ谷町え下り候所に有之、浄心寺坂と唱申候、此儀は浄心寺門前幷同寺より申上候、前文同様普請組合候場所には無御座候、」

同じく丸山浄心寺門前の書上には次の簡単な説明がある。

「一坂 長さ貳拾(二十)間、巾貳(に)間半 右里俗浄心寺坂と唱申候、」 

浄心寺坂下 浄心寺坂下 八百屋お七の墓 八百屋お七の墓の説明板 一、二枚目の写真のように、坂下に、坂下北側にある円乗寺への参道があるが、そこへ入ると左側に、三枚目の写真のように、八百屋お七の墓がある。四枚目の写真は、その参道入口わきに立っている説明板を撮ったものである。

以下は、石川に紹介されている『白山繁昌記』(白山三業組合発行)の八百屋お七伝説の一節である。

「お七は只左兵衛に逢ひたさの一心から家に火を放つに至りしが、直ちに捕へられて国法逃れがたく火刑に処せられたのは哀れな物語りである。此時奉行も裁断に当ってお七が心情の哀れなるに心を引かれ、何卒して其の一命を救はんとて、当時十六歳以下は法に問はざる掟であったので、「お七、お前は十五歳であらうが」と暗に助命の意志をほのめかしたが、お七ははっきり「十六歳で御座います」と答へて仕舞った。夫れでも町奉行は夫れはお前の間違ではないかと推して聞くのであったが、お七もはっきりと十六歳と答へて仕舞ったのだ。」
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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中坂(白山)

2012年04月15日 | 坂道

中坂上 中坂上 中坂下 中坂下 前回の胸突坂上を進み、次を左折し北へ歩き、左に公園が見えてくるが、その手前を左折しちょっと歩くと、一、二枚目の写真のように、中坂の坂上である(白山一丁目24と27との間)。かなりの勾配でまっすぐに西へ下っている。西向きであるので、前回の胸突坂のようにここも西日がまぶしい。

坂下は前回の胸突坂下から続く道で、曙坂や胸突坂と同じく本郷台地と中腹の間の坂である。

いつもの坂標識が立っていないが、中坂とは、横関によれば、それまであった二つの坂の間に新しくできた坂で、ここは、前回の胸突坂と、この北隣にある浄心寺坂との間の坂で、これらの後にできた新坂と思われる。同名の坂で有名なのは、九段坂と冬青木坂との間にある中坂である。

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 中坂中腹 中坂下側 中坂上側 一枚目の尾張屋板江戸切絵図小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図で、中央やや左にある「東儀」(表示は逆さま)という小さな武家屋敷のわきの道が胸突坂で、その隣が順に、鈴木、米田で、道を挟んで「小役人」とあるが、「米田」と「小役人」との間の道がこの坂である。ここにも坂名も坂マークもないが、近江屋板にもない。御江戸大絵図(天保十四年(1843))にもこの坂道が見える。

この坂は『御府内備考』(文政十二年(1829))の丸山新町の書上に新道坂・胸突坂の次に以下のように説明されている。

「一坂 十八間余、巾八尺程、
右は町方西の方裏通り中程、御武家屋敷の間より同所馬場の方え下り候所に有之、中坂と唱申候、尤新道坂、浄心寺坂相並び候中程に有之候坂故相唱来候哉に奉存候、前文同様武家方持に御座候、」

この説明でも、新道坂(胸突坂)と浄心寺坂に並び、その中程にある坂であるので、中坂とよんだとしている。

明治四十年(1907)の明治地図にも胸突坂と浄心寺坂との間にこの坂がある。この胸突坂と浄心寺坂との間、坂上一帯を丸山新町といった。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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胸突坂(西片)

2012年04月15日 | 坂道

胸突坂わき(南) 胸突坂下 胸突坂下 胸突坂下の階段 前回の曙坂上を左折し、突き当たりを右折し、次の突き当たりを左折して北へ進むと、一枚目の写真のように、やや下りになって、前方に胸突坂が見えてくる。この突き当たりでいきなり坂の中腹に出て、左折すると胸突坂の下りで、右折すると上りである。

こういったアクセスになる坂にときたま出くわすが、坂下や坂上とは違って、左右を見てはじめて坂を実感するので、ちょっとおもしろい初印象となりやすい気がする。

左折して坂下に行き、坂下から撮ったのが、二、三枚目の写真である。坂下側でちょっと勾配がある感じであるが、ほぼまっすぐに上って、中腹から上側はさほど急ではない。胸突坂というのは、上るとき胸が地面に突くほど急であることに由来するが、ここは、そうでもなく、その理由は後述する。

坂下は、前回の曙坂の坂下から続く道である。その道を坂下から横切って行くとすぐのところに小さな階段があり、それを撮ったのが四枚目の写真である。ここも坂上は本郷台地であるが、坂下は、曙坂と同じく白山通りの低地よりも一段と高いところにある。

二、三枚目の写真のように、坂下近くに坂標識が立っていて、次の説明がある。

「胸突坂(むな(ね)つきざか)(峰月坂・新道坂) 西片2-15と白山1-24の間
 「丸山新町と駒込西片町との界にある坂を胸突坂といふ、坂道急峻なり、因って此名を得、左右石垣にて、苔滑か」と『新撰東京名所図会』にある。
 台地の中腹から、本郷台地に上る坂、坂上から白山通りをへだてて、白山台を望む。「胸突坂」とは急な坂道の呼び名で区内に三ヶ所ある。
 この坂のすぐ南の旧西片町一帯は、福山藩の中屋敷跡で「誠之館」と名づけた江戸の藩校があったところである。
  文京区教育委員会  平成元年11月」

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 胸突坂下 胸突坂中腹 胸突坂中腹 一枚目は尾張屋板江戸切絵図の小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図であるが、この坂が見える。左端中央のやや下から右へやや右上がりに延びる道(「小役人」とあるところの下)が上一枚目の写真の道と思われ、この道が突き当たった上下の道が胸突坂である。突き当たったところに「東儀」という小さな武家屋敷がある。坂名も坂マークもないが、近江屋板にもない。御江戸大絵図(天保十四年(1843))にもこの坂道が見える。

これまで新坂石坂曙坂といずれも明治以降の坂であったが、ここで今回はじめて江戸から続く坂に出会った。というのも、ここが広い福山藩邸の北端にあたり、ようやく屋敷の外で、そこに坂道ができたからである。すなわち、胸突坂は、福山藩の中屋敷の崖端を下る坂道で、崖下(西側)の低地が丸山福山町である。馬場孤蝶によれば、明治の中頃まで柳町、指ヶ谷町から白山下まで水田であったという(石川)。

この坂は『御府内備考』(文政十二年(1829))の丸山新町の書上に新道坂・胸突坂として次のように説明されている。

「一坂長さ貳拾壹(二十一)間余、巾八尺程
右は町方西南の方武家屋敷脇より小石川馬場の方え下り候所に有之、新道坂と唱申候、尤当町裏通りを里俗新道と相唱候より坂の名に唱来哉に奉存候、同所を胸突坂共相唱候儀は登り急成所も御座候に付里俗に相唱来申候、右坂武家方御持場にて、当町拘り候儀無御座候、」

胸突坂中腹 胸突坂上側 胸突坂上 胸突坂上 横関によれば、急な坂のため胸突坂と名づけられたこの坂は、豪雨による崖崩れなどで坂がこわれてだんだん急坂が急坂でなくなり、いつの間にか、傾斜のない名前負けした坂になってしまった。胸突坂という名にふさわしくなく、そこで、苦しまぎれに峰月坂(みねつきざか)という名にした。

「む」を「み」に替えてできた坂名(むねつきざか→みねつきざか)のようで、横関は坂名の変化転訛の一例に挙げている。おもしろい別名である。

たとえば文京区関口の胸突坂のように現在でも急な坂とは違って、比較的緩やかな坂になっても胸突坂の名も残ったということらしい。

ところで、「峰月坂」の出典は何であるのか不明である。上記のように『御府内備考』に胸突坂、新道坂があるが、峰月坂の説明はない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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曙坂

2012年04月13日 | 坂道

曙坂上 曙坂上 曙坂下 曙坂下 前回の石坂上を北へしばらく歩くが、ここは先ほど通った道である。途中の四差路を左折すれば、前々回の新坂(福山坂)方面であるが、そのまま直進する。しばらく歩くと四差路があり、ここを左折し、まっすぐに進むと、一枚目の写真のように、曙坂の坂上が左側に見えてくる。

曙坂は、二枚目の写真のように、階段坂で、まっすぐに西へ下っている。住宅街につくられたこじんまりとしているがしっかりとした石段である。坂上と坂は西片二丁目だが、坂下は白山一丁目である。

坂上は本郷台地であるが、坂下は、新坂や石坂と違って白山通りの低地ではなく、一段と高いところのようで、地図を見ると、坂下の道からさらに下る階段が近くにある。

曙坂下石標 曙坂中腹 曙坂下 曙坂中腹 一枚目の写真のように、坂下右端に上部が欠けた石標が立っており、「曙坂」「昭和二十二年十一月三十日竣工」と刻まれている(東京23区の坂道)。

四枚目の写真のように、坂中腹の踊り場の端に坂標識が立っているが、次の説明がある。

「曙(あけぼの)坂
 『江戸砂子』によれば、今の白山、東洋大学の北西は、里俗に鶏声ヶ窪といわれるところであった。明治2年(1869)に町ができて、鶏声暁にときを告げるところから、あけぼの(暁と同じ)を取り町名とした。この坂の場所と、旧曙町、鶏声ヶ窪とは少し離れているが、新鮮で、縁起の良い名称を坂名としたのであろう。
 この坂は西片と白山を結び、人びとの通学や生活に利用されてきた。昭和22年(1947)には旧丸山福山町・曙会の尽力により石段坂に改修された。
  文京区教育委員会  平成13年3月」

明治四十年(1907)の明治地図を見ると、石坂上を北へと進んだ先、左折したところにこの坂があるが、戦前の昭和地図にはなぜか載っていない。戦後の昭和22年、上記のように石段坂に改修されたとあるが、そのとき、上記の石標が建てられた。幕末まで坂上と坂のあたりは備後福山藩の中屋敷であったと思われる。

旧白山通りの白山上の北側あたりの旧町名が駒込曙町であったが、この「曙」を坂名としたということらしい。また、根津権現のあたりを曙の里ともいった(以前の記事参照)。横関、石川、岡崎は、別名を徳永坂としているが、その由来は不明である。

曙坂中腹 曙坂中腹 曙坂上 曙坂上 岡崎に坂下から撮った写真が載っているが、素朴な石段坂といった感じである。現在と違って、手摺りがなく、ステップ無しスロープもないから、その後、改修されたのであろう。

この坂は二回目で、最初のときは坂下からアクセスしたが、坂下に到着して思いがけなく静かな住宅街に石段坂が突然あらわれて驚いたという覚えがある。とてもよい坂という印象が残っていたので、今回の坂巡りで再会を楽しみにしていた坂である。ここは最初のように、坂下に着いて見上げる方がよいように思えた。

坂上にもどり、左折して進んだが、ふり返って坂上を撮ったのが四枚目の写真である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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石坂

2012年04月12日 | 坂道

石坂下 石坂下 石坂下側 石坂下側 前回の新坂(福山坂)上を東へ進み、次の四差路を右折し、南へしばらく歩くと、曲がりながら下り坂となる。ここが石坂であるが、いったん、坂下まで下り、それからふたたび上った。

坂下の先は、蒟蒻閻魔(こんにゃくえんま)から延びてきた道につながるが、そこから引き返し、小路を通り抜けると、一、二枚目の写真のように広くなった感じの坂下になる。このあたりの上りはまだ緩やかである。

三枚目のように、坂下側の右端に坂の標識が立っているが、次の説明がある。

「石坂(いしざか)
「町内より南の方、本郷田町に下る坂あり、石坂とよぶ・・・・・」『新撰東京名所図会』
 この坂の台地一帯は、備後福山藩(11万石)の中屋敷、幕府の御徒組、御先手組の屋敷であった。
 明治以降、東京大学が近い関係で多くの学者、文人が居住した。田口卯吉(経済学者・史論家)、坪井正五郎(考古学・人類学者)、木下杢太郎(詩人・評論家・医者)、上田敏(翻訳者・詩人)、夏目漱石(小説家)、佐佐木信綱(歌人・国学者)、和辻哲郎(倫理学者)など有名人が多い。そのため西片町は学者町といわれた。
        ― 西片町の景 ―
 交番の上にさしおほう桜さきけり
      子供らは遊ぶ おまわりさんと
                 (佐佐木信綱)
  文京区教育委員会  昭和60年3月」

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 石坂中腹 石坂中腹 石坂中腹 上四枚目、二枚目の写真のように、ちょっと上ると、左にカーブしており、ぐるりとかなり曲がり、しかも勾配もつくようになる。この坂の特徴的なところである。

一枚目は、尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図であるが、いまの本郷通りの西側で、広い阿部伊豫守邸が見える。ここが上記の備後福山藩の中屋敷である。その屋敷の西端にある大善寺の辺りがこの坂の位置と思われるが、この坂はまだ見えない。

明治四十年(1907)の明治地図には、この坂が見え、坂下が広く描かれている。いまも広いがこれは当時からであったようである。この坂は、明治になってから開かれたものであろう。

坂名の由来はなにか、いずれの参考文献にも記されておらず、不明である。

石坂上側 石坂上側 石坂上 石坂上 上記の坂のカーブを曲がると、一、二枚目の写真のように、西へまっすぐに中程度の勾配で上ってから、坂上側で、三、四枚目のように右にカーブしながら北へ向きを変えて緩やかに上っている。坂上には石垣などもあり、古めかしさが残っている。

本郷台地の一部である坂上と、白山通りから東へ延びる低地である坂下とをつなぐ坂である。坂下の道は、菊坂下から本郷通りの方へ上っており、地下を南北線が通っているが、南北に延びる本郷台地の中央付近に東西へ発達した谷であったのであろう。

上記の標識の説明にもあるように、夏目漱石は、このあたりの西片町にも住んでいたことがあった。明治39年(1890)12月本郷区千駄木五十七番地(以前の記事参照)から本郷区西片十番地ろノ七号に転居している。現在の文京区西片1-14-8である(旅のあれこれ)というが、ここは、この坂上の通りの西側(四枚目の写真の左側)である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「新潮日本文学アルバム 夏目漱石」(新潮社)

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新坂(福山坂)

2012年04月09日 | 坂道

新坂(福山坂)近辺の案内地図今回の坂巡りは、文京区西片・白山の坂であるが、左の街角案内地図のように、新坂(福山坂)、石坂、曙坂、胸突坂、中坂、浄心寺坂などを巡った。

それから、さらに北側にある薬師坂や暗闇坂、また、白山通りの西側の伊賀坂、蓮華寺坂、逸見坂などにも行き、その後、網干坂を下った。

これらを訪れたのは、一年以上前で、ちょうど三月十一日の大震災の一ヶ月ほど前である。記憶は薄れてきているが、写真を見て思い出しながら記事にする。いまとなっては、3.11以前の記録ということで、なんか大事にしたいというように思ったからでもある。

新坂下 新坂下 新坂下 新坂下 午後地下鉄後楽園駅下車。

蒟蒻閻魔(こんにゃくえんま)から東へ向かい、白山通りを横断し、そのまま菊坂下方面に進み、途中、左折すれば、石坂であり、ここからはじめる予定であったが、道を一本勘違いし、白山通りの歩道を北へ歩いてしまった。途中で気がついたが、そのまま、進み、右の道に入り、次の四差路で右折すると、一、二枚目の写真のように、新坂の坂下である。

文京区白山一丁目と西片一丁目との境を西片二丁目へ上る坂で、別名が福山坂。

坂下からほぼ東へ上りながら右へ緩やかなカーブを描いて上り、それからほぼまっすぐに南へ上ってから、こんどは、左へ曲がりながら東向きになって坂上へと至る。勾配は坂下側でちょっときついが、次第に緩やかになる。

ほぼ南北に延びる本郷台地の中央に発達した谷で、現在、白山通りが通っている低地と、その東側の台地とを結ぶ坂で、谷から台地へ直登するのではなく、崖下を横切るようにしだいに高度を上げている。このあたりのことを、永井荷風は『日和下駄』「第九 崖」で次のように書いている。

「小石川春日町から柳町指ヶ谷町へかけての低地から、本郷の高台を見る処々には、電車の開通しない以前、即ち東京市の地勢と風景とがまだ今日ほどに破壊されない頃には、樹や草の生茂った崖が現れていた。」

新坂中腹 新坂中腹 新坂中腹 新坂上側 一~四枚目の写真のように、坂下から曲がり、その後、崖下の中腹では、ほぼまっすぐに上るが、その途中に、一、二枚目のように、文京区の坂標識が立っていて、次の説明がある。

「新坂(福山坂)
 『新撰東京名所図会』に、「町内(旧駒込西片町)より西の方、小石川掃除町に下る坂あり、新坂といふ」とある。この坂上の台地にあった旧福山藩主の阿部屋敷に通じる、新しく開かれた坂ということで、この名がつけられた。また、福山藩にちなんで、福山坂ともいわれた。新坂と呼ばれる坂は、区内に六つある。
 坂の上、一帯は、学者町といわれ、夏目漱石はじめ多くの文人が住んだ。西側の崖下一帯が、旧丸山福山町で、樋口一葉の終焉の地でもある。
   東京都文京区教育委員会 昭和63年3月」

この坂は、尾張屋板江戸切絵図を見てもなく(近江屋板も同じ)、明治になってから開かれた新坂のようであるが、明治四十年(1907)の明治地図を見ると、おもしろいことがわかる。当時の坂は、いまの坂下側がなく、一本南側の道を東へ上り、北へ曲がってから、いまの標識のちょっと下側あたりで坂の中腹につながっていた。このため、このつながり部分では、やや北向きからやや南向きに急激に曲がっていて、特徴ある道筋となっている。この坂下側の道は上の街角案内地図のように現存し、上三枚目の写真でちょうど人が歩いているところが、旧道筋とのつながり部分である。

戦前の昭和地図(昭和16年)を見ると、現在と同じ道筋となっているので、現在の坂下側は、この間に開かれたものと思われる。

ということで、上記の坂下の別の道筋を含めた坂が、本来の新坂というべきかもしれない。ここは歩かなかったので、いずれまた歩いてみたい。

新坂上側 新坂上側 新坂上 新坂上 一枚目の写真のように、坂上側で、左へカーブしながら東へ向きを変えて緩やかに上っているが、四枚目のように、坂上でもう一度左にちょっと曲がっている。

新坂というのは、東京には多い坂名で、横関によれば、維新後、明治になってからできた新坂はたくさんあるが、その地の人々は、人まねの新坂という名を捨ててしまって、もっとよい名をつけたがり、この新坂も福山坂と改名した、としている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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