東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

茶屋坂

2013年08月29日 | 坂道

茶屋坂上 茶屋坂下 茶屋坂下 茶屋坂下 前回の新茶屋坂の坂上をもどるようにして西南に進む。右下は先ほどまでの新茶屋坂である。

やがて突き当たり、ここを左折すると、一枚目の写真のように、左に平坦な道、右に下り坂が見えるが、この坂が茶屋坂である(現代地図)。

以下、写真を坂下から並べる。

二枚目は、坂下の小さな公園のわきから坂上側を撮ったもので、このあたりはほぼ平坦な道である。目黒区三田二丁目14番と15番との間。

三枚目はその公園を撮ったもので、茶屋坂街かど公園である(現代地図)。

四枚目のように、公園内に「茶屋坂の清水」と刻まれた石碑が立っている。その傍らに立っている目黒区土木部公園緑地課による説明板に石碑の説明がある。

茶屋坂下 茶屋坂下 茶屋坂下 茶屋坂下 公園の先をちょっと右に曲がると、一枚目の写真のように、まっすぐに延びていて、しだいに勾配がついてくる。

二枚目は坂下の四差路の手前から坂上側を撮ったもので、ここを左折すると、新茶屋坂の中腹に至る。

三枚目は交差点のあたりから坂上側を撮ったもので、中程度の勾配でまっすぐに上っている。四枚目はそのちょっと上側から坂下側を撮ったもので、東北角に坂の標柱(目黒区教育委員会)が立っている。

標柱には次の説明がある。

「茶屋坂(ちゃやざか)
 江戸時代、将軍が鷹狩りの際に立ち寄った、「爺々[じじ]が茶屋」と呼ばれる一軒茶屋がこの近くにあったのが由来といわれている。」

この上の坂角に別の標識(パネル)が立っているが、それには次の説明がある。

「茶屋坂と爺々が茶屋  三田2-12~14
 茶屋坂は江戸時代に、江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で富士の眺めが良いところであった。
 この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りの時は立ち寄って銀1枚を与えるのが例であったという。また10代将軍家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。
 こんなことから「目黒のさんま」の話が生まれたのではないだろうか。
  平成3年3月     目黒区教育委員会」

茶屋坂中腹 茶屋坂中腹 茶屋坂中腹 茶屋坂中腹 標柱の所から坂を上ると、突き当たり、左にほぼ直角に曲がる。

一枚目の写真は、曲がってから坂上側を撮ったもので、二枚目はそのあたりから坂下側を撮ったもので、この曲がりの前後でかなりの勾配となっている。

三枚目は曲がりのさらに上側から坂上側を撮ったもので、このあたりもかなり勾配がある。四枚目はそのあたりから坂下側を撮ったもので、突き当たり角に上記の標識(パネル)が立っている。

この坂について目黒区HPに次の説明がある。

「江戸の初め、田道橋を渡り三田方面に通ずる坂上の眺望のよいところに、1軒の茶屋があった。徳川3代将軍家光は、目黒筋遊猟の帰りにしばしばこの茶屋に寄って休息をとっていた。家光は、茶屋の主人彦四郎の素朴な人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたため、この茶屋は「爺々が茶屋」と呼ばれるようになった。あるとき、家光は「いつもお前の世話になっている。何か欲しいものがあったら取らせるからいってみよ」との仰せ。彦四郎は恐縮しながら、自分の屋敷の周囲を1町ほど拝領したいむね申して、これをいただいた。」(続いて、落語として創作された話が紹介されている。)

茶屋坂中腹 茶屋坂中腹 茶屋坂中腹 茶屋坂中腹 一枚目の写真は、直角にカーブした所のさらに上側から坂上側を撮ったもので、この上側で左にちょっと曲がっている。二枚目はその上側から坂下側を撮ったもので、坂下側はかなり勾配がある。

三枚目はそのあたりから坂上側を撮ったもので、坂上側は緩やかになっているが、ふり返ると、四枚目のように坂下側はまだかなり急である。

上述の目黒区の各説明では、江戸時代、将軍家光や吉宗が爺の茶屋に立ち寄ったことが紹介されているが、その出典がよくわからない。横関、石川は、次のように江戸時代の文献の記述を引用している。これらが基になっているのかもしれない。

『新編武蔵風土記稿』に「味噌下は渋谷村の方へ寄てあり、御遊猟御立場の辺なり、此所に茶店あり、土俗爺が茶屋と呼び世に聞えたる茶店なり」とある(横関)。

また、『東都一覧武蔵考』に「爺が茶屋坂 三田村と中目黒村の境、所謂永峰といへる山の坂なり眺望よし。享保の頃御成の時一老夫此坂にありて御供にすすめける。後かの老夫あり合せざりければ、爺はいかがしたりけるやと仰せありけるにより、御成の時は必ず彼を出すこととせしならん」とある(石川)。

茶屋坂上 茶屋坂上 茶屋坂上 茶屋坂上 一枚目の写真は、さらに上側から坂上側を撮ったもので、坂上が見える。二枚目はさらにその上から坂下を撮ったもので、このちょっと下側で右折すると下り坂となる。

三枚目は、さらに上側から坂上側を撮ったもので、ここを直進すると、突き当たるが、右に進むと、新茶屋坂の坂上である。 四枚目は、坂上から坂下側を撮ったもので、右に立っている勾配表示は、10%になっている。

この坂は、台地からトラバースするようにしてかなりの勾配で下り、かなり下ってから直角に曲がって谷へまっすぐに下っている。むかしもそうだったのか不明だが、坂上側のトラバース部分はそうだったような気がする。台地から谷に向けてかなり急斜面(崖)であったためそうならざるを得なかった。この近くの別所坂もそうである。

この辺の台地は、永峰と呼ばれたが、それは目黒川流域に発達した谷から見てつけられた地名のように思えてくる。谷から東北方面を見ると、崖のようになって峰が続いていたのであろう。どこからどこまでそう呼ぶのかわからないが、その語感からかなり長かったようにも思える。

御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 目黒白金図(安政四年(1857)) 一枚目は、御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図、二枚目は尾張屋板江戸切絵図 目黒白金図(安政四年(1857))の部分図である。いずれにも別所坂近くの新富士があるが、この坂がどこか、はっきりしない。

安藤広重の『名所江戸百景』に「爺々が茶屋」が描かれているが、坂の途中に茶屋があり、その向こうに田んぼが広がり、遠くに富士が見える。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、この坂があり、途中直角に曲がっているが、ここはいまと同じ所と思われる。坂の西側に火薬製造所、東側に射撃場がある。昭和16年(1941)の目黒区地図にも同じ道筋がある。これらから、現在の坂の道筋は、むかしからさほど変わっていないように思えてくる。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、233m、17m、6.9で、坂下側はかなり緩やかであるので、急な所はかなりの勾配である。

この坂は、数年前に訪れたことがあるが、目黒川方面からここに来たとき、日がかなり暮れてしまい、かすかな光で写真を撮りながら坂を上った覚えがある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)
「大江戸100景地図帳」(人文社)

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井の頭池~神田川(月見橋)2013

2013年08月26日 | 写真
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新茶屋坂

2013年08月10日 | 坂道

新茶屋坂下 新茶屋坂下 新茶屋坂下 新茶屋坂中腹 前回の目黒川沿いの道を東南へしばらく歩くと、やがて右手に中里橋が見えてくるが、ここを左折すると、新茶屋坂の坂下である(現代地図)。

ほぼまっすぐに東北へ上っている。坂下付近は緩やかであるが、しだいに勾配がついてきて中腹付近では中程度の勾配となる。台地の南西の斜面を直登するように上っていて、かなり長い坂である。

一、二枚目の写真は、坂下から坂上側を撮ったもので、この上でちょっと左に曲がっている。

この坂の東に江戸から続く茶屋坂があり、それに対して昭和初期につくられた新坂であるためこの坂名となったのであろう(下二枚目の写真のように中腹にあるバス停は茶屋坂であるが)。

昭和16年(1941)の目黒区地図を見ると、この道があるが、明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図にはなく、おもしろいことに、別所坂の東から茶屋坂までの間に台地と目黒川をつなぐ道はまったくなく、その間に火薬製造所とあるだけである。このあたりの南西の斜面には、現在、防衛庁の施設がある。

三枚目はさらに上側から坂上側を撮ったもので、この上でもちょっと左に曲がっている。四枚目はその上側から坂下側を撮ったもので、まっすぐに下っている。

新茶屋坂中腹 新茶屋坂中腹 新茶屋坂中腹 新茶屋坂中腹 一枚目の写真は、さらに上側から坂上側を、二枚目はそのちょっと上側のバス停から坂下を撮ったものである。

坂下の木立を抜けると、まっすぐな上りとなって、これがずっと続く。好んで坂巡りをやっているのだが、こういった単調な坂はちょっと苦手である。それでも、坂道の交通量がかなり少なく、坂西側は道沿いに高い建物がなくさほど圧迫感がないのが救いである。歩道にはまだ高くないが街路樹や低木の植え込みもある。ときたま散歩やジョギングの人とすれ違うのもよい。

三枚目はバス停よりも上側から坂上を撮ったもので、ようやく坂上に近づいてきた。四枚目は、そのちょっと上から坂下側を撮ったものである。

目黒区HPに次の詳しい説明がある。

「山手通りを中目黒駅から大鳥交差点に向かい、目黒警察署の先を左折すると、旧目黒村の小字名にちなんで、目黒川にかかる中里橋がある。橋を渡ると、こう配のゆるやかな長い坂道が、かつての海軍技術研究所に沿って続く。坂の中程にあるバス停に「茶屋坂」とあるが、この道は、右手奥の、3代将軍家光にまつわる「茶屋坂」に対して、昭和3年に開かれたずい道で、「新茶屋坂」と呼ばれる。

坂の途中にあるトンネル上には、昭和49年に廃止されるまで、三田用水が延々300余年にわたって流れ続いていた。

トンネルをくぐる辺りから、坂上にかけて左手に、うっそうと生い茂る松林は、江戸時代の目黒の姿を物語るかのように、当時の面影をしのばせていたが、ずい道は撤去され、町並みは変ってしまった。」

そのいまはないトンネルの写真がHPにのっている。 

新茶屋坂上 新茶屋坂上 新茶屋坂上 新茶屋坂上 一枚目の写真は、坂上のちょっと下から坂上を撮ったもので、二枚目は、そのあたりから坂下側を撮ったものである。

三枚目は、坂上を撮ったもので、この先はほぼ平坦となっている。この先で道を横断し、引き返すようにして南西へ進むと、左側に旧道が見えてくる(現代地図)。

四枚目は、そのあたりから進行方向を撮ったもので、右側が新茶屋坂で、左の道を直進すると、茶屋坂の坂上である。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」にあるこの坂の全長、高低差、平均斜度は、430m、12.4m、3.22で、長い坂であることがわかるが、同著の表を見ると、目黒区ではもっとも長い坂である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)

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鎗ヶ崎~別所坂~目黒川

2013年08月07日 | 散策

今回は、代官山と中目黒の間の鎗ヶ崎の交差点から別所坂を下り、目黒川に出て新茶屋坂、茶屋坂に行ってから目黒川を渡り、その西側の坂をいくつか巡った。前回の小川坂などよりも先(五月)に訪れたが、記事にするのが遅れていた。

目黒川日出橋 新道坂下 新道坂上 鎗ヶ崎の交差点 午後中目黒駅下車。

駅前の山手通りを横断し直進すると、目黒川にかかる日乃出橋である(現代地図)。

一枚目の写真はそこから下流側を撮ったもので、このすぐ下流に暗渠となった蛇崩川が注いでいる(以前の記事)。橋を直進すると、新道坂の坂下が見えてくる。二枚目はそのあたりから坂上側を撮ったものである。

坂を上り、駒沢通りと合流してから歩道をちょっと上ってふり返って撮ったのが三枚目で、右側が新道坂上、左側が駒沢通り。

歩道をちょっと上ると、四枚目のように鎗ヶ崎の交差点で、人も車も多い。ここを横断する。

鎗ヶ崎の裏道 鎗ヶ崎の裏道 鎗ヶ崎の裏道 別所坂の坂上側 交差点近くの小路に入る。ここは前回このあたりを歩いた後に地図で見つけたところで(現代地図) 、歩いてみたいと思っていた。

一枚目の写真のように狭い道で、この先でちょっと左にカーブしてからほぼまっすぐに南東へ延びている。二枚目はその途中で撮ったものである。

この道は、地図からわかるように目黒川の北東側の台地にあり、ちょうど目黒区と渋谷区の境界となっている。

先ほどの交差点付近の喧噪から逃れ、けっこう静かに散歩できる。やがて突き当たるが、その手前で撮ったのが三枚目で、ここを左折すると、中山坂の坂上で、右折すると、別所坂方面である(現代地図)。

四枚目は、右折してから進行方向を撮ったもので、ここを進むとまもなく別所坂の坂上につく。

明治44年(1911)発行の東京府荏原郡目黒村の地図を見ると、この道があり、目黒村と澁谷町との境で、ともに付近の地名が「字鎗ヶ崎」となっている。三田用水が、南にあってほぼ平行に南東へ別所坂上付近へと流れている。昭和16年(1941)の目黒区地図にも同じくこの道が見える。

石川によれば、このあたりの台地は永峰(ながみね)と呼ばれ、府内(朱引内)と府外の境界線であったという。鎗ヶ崎はすこぶる眺めのよいところであったとあるが、それは、現在の目黒川へと下る新道坂などからなんとなく想像できる。

別所坂下階段 別所坂児童遊園 別所坂児童遊園 別所坂階段 別所坂を下るが、ここを下りで通るのははじめてである。急で曲がりの多い坂とあらためて感じる。

勾配がようやく緩やかとなった坂下近くに左(東)へ上る階段がある。一枚目の写真はその階段の上り口を坂下から撮ったもので、かなり急である。

この坂を訪れるたびに気になっていた所で、今回ようやく上ってみた。以前は確かこの階段下に別所坂の標柱が立っていた。

上ると、そこは公園となっており(別所坂児童遊園)、二枚目は二段構造となった公園の上側から撮ったもので、西側の眺望がよい。

三枚目は、公園上側にある新富士の石碑を撮ったもので、左に写っている新富士の説明板によれば、これらの石碑は、別所坂上の近くに江戸時代後期に近藤重蔵により築かれた新富士(近藤富士)の山腹にあった。

この上側の公園は、別所坂の坂上とほぼ同じ標高と思われ、この階段を上下すると、この坂の高低差(約19m)をあらためて感じる。四枚目は、その下りを撮ったもので、かなり勾配があることがわかる。

別所坂下 別所坂下 目黒川田楽橋の上流 目黒川遊歩道 階段を下り、左折し、坂下に向かうが、その途中、ふり返って先ほどの公園のある高台を撮ったのが一枚目の写真である。ちょっとした山のようにも見える。

二枚目は、別所坂の坂下から目黒川方面へと西に延びる小径を撮ったものである。ここを進むと、やがて目黒川に至る(現代地図)。

その近くに田楽橋がかかっているが、三枚目は、そこから上流側を撮ったものである。

目黒川に沿って続いている遊歩道を東南へ歩く。四枚目のように、樹木が新緑でいっぱいとなっていて、五月のきつい日差しを遮ってくれ、なかなかよい川沿い散歩ができるが、いまのような夏の猛暑ではどうなのであろうか。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)
「荏原郡目黒村全図」(人文社)
「坂道ウォーキングのすすめ」(目黒区発行)

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