東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

二合半坂~牛天神~荷風生家跡(2014)

2014年12月30日 | 散策

二合半坂上 二合半坂標識 二合半坂中腹 二合半坂下 前回の幾代跡から靖国通りに出て、靖国神社の参道を右折し、神社から出て、斜め前方に進む。左折すれば早稲田通り、右折すれば九段坂上。

まもなく右手に中坂上が見え、さらに進むと、右手が冬青木坂上である(現代地図)。そのまま北へ細い道を進む。大使館や学校が続くため静かな通りである。かなり緩やかな下り坂であるが、このあたりが二合半坂の坂上である。

しばらくすると、ちょっと勾配のある下り坂になるが、その坂上側から撮ったのが一枚目の写真である。坂が突然あらわれた感じで、意外性がある。二枚目は、この傾斜の下側にある坂の標柱を入れて坂上側を撮ったものである。三枚目は傾斜のさらに下側から坂上側を撮ったものである。

この坂名は、かなりユニークであるが、この坂から見えた日光山が富士山の半分の高さ(五合)に見え、この坂からは半分しか見えないので五合の半分で二合半になるからという説が主流である。

さらに進み勾配のある所を下ると突き当たるが、ここを右折してから進行方向を撮ったのが四枚目である。横関によれば、右折してからも目白通りあたりまでこの坂が続くとしているが、かなり緩やかである。

御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 飯田町駿河台小川町絵図(文久三年(1863)) 甲武鉄道飯田町駅跡 神田三崎町 一枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図で、左下に順に、九段坂、中坂、もちのき(冬青木)坂が平行に並んでいる。冬青木坂上から二合半坂が右(北)へ延びている。

二枚目は尾張屋板江戸切絵図 飯田町駿河台小川町絵図(文久三年(1863))の部分図で、上から順に、九段坂、中坂、もちのき(冬青木)坂が平行に並んで、冬青木坂上から二合半坂が下(北)へ延びている。

これらの坂はすべて江戸時代から続く坂であることがわかる。

目白通りを横断すると、そこに甲武鉄道飯田町駅跡の石碑が立っている(現代地図)。それを撮ったのが三枚目の写真で、通りの向こうに先ほどの坂下方面が見える。

甲武鉄道は、明治22年(1889)新宿~八王子間が開通し、同28年(1895)飯田町まで延長したが、そのときの飯田町駅がこの付近にあった。その後、同37年(1904)御茶の水まで延長し、同39年(1906)国有化され、中央本線の一部となった。

この近くで缶コーヒーでちょっと休憩してから東へ向かい、日本橋川にかかる橋を渡り、ちょっと歩くと、神田三崎町界隈で出版社があり、四枚目のように、子供のころ読んだなつかしい少年雑誌の社名が見える。

小石川橋 小石川後楽園西側 牛坂下 牛天神 さらに北に歩き、左折して行くと、一枚目の写真のように、神田川にかかる小石川橋が見えてくる(現代地図)。神田川は奥の方から橋の下を右手に流れ、ここで日本橋川が左手に別れて流れる。

橋を渡り、外堀通りの歩道を左折し川沿いに首都高の下を西へしばらく歩き、信号で横断して北へ向かう。まもなく、二枚目のように塀が見えてくるが、小石川後楽園の西側である。

やがて大きな通りに出るが、横断し左折し、ちょっとしてから右折し、次の小路を右折しそのまま進むと、石段を右に見て、三枚目のように牛坂下に至る。牛坂を上り、右手に進むと、四枚目のように牛天神である。

安藤坂下

荷風生家跡 善光寺坂標識 後楽園駅 牛天神の石段を下り、直進すると、安藤坂下の信号である(現代地図)。ここを横断し坂上側を撮ったのが一枚目の写真である。広い通りがまっすぐに上っている。

歩道を上り、坂上側で左折し、突き当たりを左折し、道なりに進むと、緩やかな下りになるが、二枚目のように右手に荷風生家跡の標識が見えてくる。ここは何回も訪れているが、今回の最終目的地である。

荷風生家跡(1)
荷風生家跡(2)
荷風生家跡(3)

そのまま緩やかな下りを進み突き当たりを右折し、金剛寺坂を上り、坂上近くを左折し、無名坂上(以前の記事(1)以前の記事(2))を通り、春日通りに出た。この無名の階段坂のあたりは、鶯谷(うぐいすだに)と呼ばれたが、上野の同名の地とはもちろん違う。

ここから伝通院の前に出てから、善光寺坂を下った。途中、中腹の標識のところで撮ったのが三枚目である。

蒟蒻閻魔などによりながら後楽園駅まで歩き、そこで撮ったのが四枚目である。かなり日が暮れてきた。

携帯による総歩行距離は19km。

(この散策記は、今年の1月に出かけたものだが、途中で尻切れトンボ状態となっていて、年末になってようやく完結できた。)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)

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幾代跡(2014)

2014年12月29日 | 荷風

永井荷風は、西久保八幡町の壺屋裏の壺中庵に関根歌を囲った(以前の記事)。昭和2年(1927)10月頃のことであるが、次の年3月に三番町に移っている。ここで歌が待合「幾代」をはじめた。

荷風とお歌(1)
荷風とお歌(2)
荷風とお歌(3)

三番町幾代近くの地図 三番町の幾代の位置であるが、秋庭によれば、住所が三番町十番地、表通りから裏の路地に抜けた二階建ての待合で、この家は今次の戦火に焼けたが、九段三業事務所に近いふく源という家が、かつて幾代の在った場所であるという。

左の地図は、明治四十年(1907)の明治地図(左のブックマークから閲覧可能)の麹町区三番町の部分図である。三番町十番地を表す「10」が三つの区画に示されているが、「幾代」とテキスト挿入した位置の直下のあたりが幾代のあったところと思われる。

三番町と東側の富士見町あわせて富士見町芸者街と称し、幾代のあった頃、約百軒の待合があった。

赤線で示される電車通りが現在の靖国通りで、その上(北)に靖国神社が見える。 

幾代跡の通り 幾代跡の通り 前回の記事のように、新宿通りの麹町一丁目の交差点から永井坂を下り袖摺坂を上り、そのまま北進し、御厩谷坂のV字谷を下り上ると、まもなく四差路に至るが、そこを直進し、次の小路を左折(西へ)してから(現代地図)、その西側を撮ったのが一枚目の写真である。

そこからさらに直進してから、同じく西側を撮ったのが二枚目である。このあたりの右側前方付近が幾代のあったところと思われるが、例によって、その痕跡はなにも残っていない。ただ、街の雰囲気に色街であった名残がかすかにあるような気がする。

御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 東都番町大絵図(元治元年(1864)) 一枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図で、三ハン丁(三番町)とある中央斜めの道がいまの靖国通りで、その下が九段坂へと続く。その中央近くの鳥居と松平との間の道が御厩谷坂から北へ延びる道である。

二枚目は尾張屋板江戸切絵図 東都番町大絵図(元治元年(1864))の部分図で、上右の歩兵屯所の前の斜めの道が靖国通りで、その上が九段坂へと続く。堀田摂津守の屋敷の前を右(南)へ延びる道が御厩谷坂の道である。歩兵屯所のあたりに明治になってから招魂社(靖国神社)ができた。

両図からわかるように、この辺一帯は、江戸期には武家屋敷であり、明治になってから色街になったことがわかる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大江戸地図帳」(人文社)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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荷風とお歌(3)

2014年12月26日 | 荷風

お歌は、前回の記事のように、昭和三年(1928)四月十二日から三番町で待合「幾代」をはじめた。

昭和3年(1928)4月19日の「断腸亭日乗」に次の記述がある。

「四月十九日 晴れて風あり、午後小石川原町阿部病院に赴き電気治療を請ふ、帰途病人坂を下り安閑寺門前を左に曲りて指ケ谷町電車通に出づ、途次豆腐地蔵の門前を過ぐ、むかし見覚えたる門前の古碑依然として路傍に立ちたり、供物の豆腐をひさぐ豆腐屋も今猶在り、電車にて神保町に抵り書肆[店]松雲堂に憇ひ、主人と閑話す、琴峯詩訬七冊を購ふ、漫歩九段坂を上りお歌の家を訪ふ、是日待合開業弘めの当日にて楼上には遊客藝妓雑遝[雑踏]す、帳場の長火鉢にて夕餉を食し夜半車を倩[請]ひて家に帰る、」

荷風は、この日、午後小石川原町の阿部病院に行き、電気治療をしてもらった。現在の白山四丁目、小石川植物園の北東のあたりであろう。その帰り、病人坂を下るが、この坂は植物園内にあり、この東側に享保七年(1722)にできた施薬院があったからそう呼ばれた。鍋割坂、お薬園坂とも。坂下の安閑寺門前を左に曲りて指ケ谷町電車通に出たが、途中豆腐地蔵の門前を通り過ぎた。むかし見覚えのある門前の古碑が路傍に立っていた。供物の豆腐を売る豆腐屋が今もある。電車で神保町に至り松雲堂書店で休み、主人と話をし、琴峯詩訬七冊を購入した。ぶらぶらと歩き九段坂を上りお歌の家まで行った。この日は待合開業弘めの当日で、店は遊客や芸妓で混雑した。帳場の長火鉢で夕飯を食し、夜半車を頼み家に帰った。

同月30日には次の記述がある。

「四月三十日 晴れて風あり、三番町架設電話の事につき茅場町内海電話店を訪ふ、帰途太牙に憩ひ、薄暮三番町に赴く、招魂社昨日より祭礼にて人出おびたゝしく藝者家町は路傍に杭を立てゝ挑燈を挂け連ねたり、十一時過人稍散じたる頃お歌小久栄太郎等を伴ひて境内を歩む、天幕張りたる飲食店螺[栄螺]の壺焼を売るもの多く、その匂あたりに漲[みなぎ]りわたりたる、興業を終りたる見世物小屋の男女浴衣細帯にて外に出でつかれて物食へるさま哀れに見えたり、十二時過自働車にて帰る、空くもりて月おぼろなり、」

この日、荷風は、幾代の電話架設のことで茅場町の電話店に行き、その帰り銀座の太牙で憩い、薄暮れに三番町に行くと、昨日より招魂社(靖国神社)の祭礼で人出が多く、芸者家町では路傍に杭を立て提灯をかけ並べている。11時過ぎ人がやや散じたころ、お歌、小久、栄太郎等を伴って境内を歩いた。サザエの壺焼を売る天幕張りの飲食店が多く、その匂いがあたりにみなぎっている。興業を終えた見世物小屋の男女が浴衣細帯にて外に出て、つかれた様子で物を食べるさまが哀れに見えた。十二時過自働車にて帰ったが、空はくもって月がおぼろであった。

以上のように、荷風は、病院や書店に行き、古祠を訪ね、ぶらぶら歩き、銀座の知った店に行ったりして、気ままな生活を楽しんでいるが、この時期、一日の最後に三番町のお歌のところに立ち寄るのが日課となっている。近くの靖国神社で祭りがあると、お歌等を連れて散歩に出かけている。

5月8日には次のように幾代で起きた珍事が記されている。

「五月八日 細雨烟の如く新緑一段に濃なり、桐花開く、躑躅[つつじ]花また満開なり、夕餉の後三番町に徃く、お歌のはなしに昨夜来りし嫖客の中に小学校の教師と小石川原町辺なる某寺の住職と請負師との三人連あり、呑食ひして藝者を買ひ、今朝に至りて三人とも懐中無一物なれば、已むことを得ず教師と坊主二人を人質に引留め置き請負師一人を帰して金の才覚をなさしめたりと云ふ、恰天明時代の洒落本を読むが如きはなしなり、貧幸先生多佳余宇辞とか題せし洒落本に貧しき儒生と気負肌の男二人高輪の女郎屋に上りて翌朝銭なく雪降り出でたるにこまり果て店の男に傘を借りて帰る光景を描きしものあり、久しき以前一読したるものなれば大方忘れ居たりしに、お歌のはなしによりて偶然思浮べたるも亦可笑し、雨漸く烈しくなりしが幸に風なき故車を倩[請]ひて夜半家に帰る、」

この日、細雨が煙のようで新緑が一段と濃くなり、桐花が開き、ツツジの花も満開である。夕食の後三番町に行くと、お歌が話すことには、昨夜来た遊客の中に小学校の教師と小石川原町辺の某寺の住職と請負師との三人連れがあった。呑み食いして芸者を買い、今朝になって三人とも無一文であったことから、やむを得ず教師と坊主二人を人質に引き留めて置き請負師一人を帰して金の才覚をさせたと云う。あたかも天明時代の洒落本を読むような話しである。貧幸先生多佳余宇辞とか題する洒落本に貧しき儒生と気負肌の男二人が高輪の女郎屋に上りて翌朝銭なく雪が降り出したのに困り果てて店の男に傘を借りて帰る光景を描いたものがある。ずいぶん前に一読したものなので大方忘れていたが、お歌のはなしにより偶然思い浮かべたのもまた可笑しいことであった。雨が次第に激しくなったが、幸いに風がないので自働車を頼んで夜半に家に帰った。

さらに、次の年(1929)のことであるが、次の記述がある。

「三月廿七日 細雨糠の如し、雨中の梅花更に佳なり、大窪詩仏の年譜を編む、晡時中洲に徃く、帰途人形町にて偶然お歌に会ふ、市川団次郎待合の勘定百円ばかり支払はざるにより、督促のため辯護士を伴ひ明治座楽屋に赴きし帰りなりと云ふ、銀座通藻波に飰す、春雨夜に入りて猶歇まず、風また加はる、お歌自働車を倩[請]うて帰る、・・・」

この日、夕方中洲の病院に行き、その帰りに人形町で偶然お歌に会った。市川団次郎が待合の勘定百円ばかりを支払わないので、督促のため弁護士と一緒に明治座の楽屋に行った帰りと云うことであった。

幾代茶の間のお歌 お歌は、幾代茶の間で撮った左の写真のように、おとなしそうな感じで、また、荷風の見立てもそうであったが(以前の記事)、上述のように、三人連れの客が文無しであることがわかると、二人を人質にし一人を金策にだし、また、支払いが滞ると弁護士とともに督促に出かけている。こうした営業ぶりから、秋庭は、お歌はしっかり者だったと評しているが、荷風もちょっと意外な感じで同じ感想を抱いたかもしれない。

この年(1928)の年末に次の記述がある。

「十二月廿五日 ・・・、夕餉の後寒月を踏んで三番町に行く、今年は世間一帯不景気にて山の手の色町十年以来曾てなき程のさびしさなりと云ふ、冨士見町組合の待合茶屋売りものとなれりもの七八軒あり、戸をしめて貸家札を張れるもの二軒ほどありと云ふ、お歌の家は幸いにして毎夜嫖客二三人あり辛じてお茶ひかずどうやらかうやら年が越せさうに思はるゝ由なり、三更前車にて家に帰る、」

この日、夕食後寒月を踏んで三番町に行くと、今年は世間一帯が不景気でこの山の手の色町もこの十年でかつてない程のさびしさであるという。冨士見町組合の待合茶屋で売りに出ているものが七八軒、戸をしめて貸家札を張っているものが二軒ほどあるという。お歌の家は幸いにして毎夜客二三人ありかろうじてひまにならずどうやらこうやら年が越せそうであるとのことである。三更前車にて家に帰った。

前年(1927)三月に金融恐慌が勃発し、昭和三年(1928)は不景気が続いていたが、お歌の「幾代」はなんとか年を越せそうであった。
(続く)

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)

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善福寺川12月(2014)

2014年12月15日 | 写真

善福寺川12月(2014) 善福寺川12月(2014) 善福寺川12月(2014) 善福寺川12月(2014) 善福寺川12月(2014) 善福寺川12月(2014) 善福寺川12月(2014) 善福寺川12月(2014) 善福寺川12月(2014) 善福寺川12月(2014)

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荷風とお歌(2)

2014年12月09日 | 荷風

前回の記事に続く。お歌は、昭和三年(1928)三月に西久保八幡町から三番町へ移っている。荷風が歌の待合営業の希望を叶えさせたのである。待合とは、待ち合わせや会合のための場所を提供する貸席業のことで、芸妓との遊興や飲食を目的として利用された。現在はない。

昭和3年(1928)3月17日の「断腸亭日乗」に次の記述がある。

「三月十七日 三番町待合蔦の家の亭主妹尾某なるもの衆議院議員選挙候補に立ち、そのため借金多くなり待合蔦の家を売物に出す、お歌以前より蔦の家の事を知りゐたりしかばその後を買受け待合営業したしと言ふ、四五日前よりその相談のためお歌両三度三番町見番事務所へ徃き今日正午までに是非の返事をなす手筈なり、それ故余が方にては東京海上保険会社の株券を売り現金の支払何時にてもでき得るやうに用意したりしが先方売払の相談まとまらず一時遂に見合せとなる、お歌落胆すること甚し、・・・」

三番町の待合蔦の家の亭主妹尾某が衆議院議員選挙に立候補し、そのため借金が増え、待合蔦の家を売物に出したが、お歌は、以前より蔦の家の事を知っていたので、その後を買い受けて待合営業をしたいと言う。四五日前よりその相談のためお歌は両三度三番町の見番事務所へ行き今日正午までに是非の返事をなす手筈になっていた。そのため、私の方では東京海上保険会社の株券を売り現金の支払を何時でもできるように用意をしていたが、先方で売払の相談がまとまらず一時ついに見合せとなって、お歌はすっかり落胆してしまった。

しかし、四五日のうちに事態が好転したようで、次のように3月22日にその待合の譲り受けが決まった。権利金三千五百円、家賃七十五円であった(秋庭太郎)。

「三月廿二日 ・・・、夜お歌訪来りて冨士見町待合譲受の相談まとまりある由語る、」

3月24日~26日は次のとおりで、お歌は早速、25日に三番町へ引っ越しをしている。

「三月廿四日 ・・・、明日お歌壺中庵を引払ひ三番町待合蔦の家跡へ移転する筈なり、壺中庵にて打語らふも今宵が名残なれば夕餉して後徃きて訪ふ、去年十月の末こゝに住まはせてより早くも半歳は過ぎぬ、夜半家に帰る、」

「三月廿五日 快晴、東南の風吹きすさみて烟塵濛々[えんじんもうもう]たり、午後笄阜子来訪、余が旧著下谷叢話を贈る、晡時風稍[やや]しづかになりしかば銀座太牙楼に赴き葵山子に会ふ、晩餐をなし初更別れて三番町に赴く、お歌既に西ノ久保の家より引移りて在り、蔦の家といふ屋号を改め幾代となす、これは余が旧作の小説夏姿といふものの中に見えた[えたる]名なればなり、手拭屋の手代来たりて弘めの手拭の下図を示す、されど山の手の亡八家業は余の如き褊狭なる趣味を以てなすべき事にあらざれば万事世俗一般の好みに倣ふこととす、十一時過自働車を呼びて家に帰る、」

この日、荷風は、夕方風が静かになったので、銀座太牙楼に行き、葵山子に会い、晩餐をし、初更(午後7時~9時)に別れて三番町に赴くと、お歌は既に西ノ久保の家より引っ越しをしていた。蔦の家という屋号を改めて「幾代」としたが、これは、(荷風の)旧作「夏姿」に見られる名である。手拭屋の手代が来てお披露目の手拭の下図を示したが、山の手の亡八家業は自分のような偏狭な趣味を以てやることではないので、万事世俗一般の好みに倣うことにした。十一時過に自働車を呼びて家に帰った。

「三月廿六日 朝来風雨、午後に至りて霽る[はれる]、彼岸前より雨なく庭の草木塵にまみれ居たりしが驟雨[しゅうう(にわか雨)]のため生色忽勃然として花香更に馥郁[ふくいく]たるを覚ゆ、雨後の夕陽明媚なり、暮夜三番町に赴き夕餉をなし二更の頃家に帰る、細雨糠の如し、」

引っ越しの次の日、暮れてから三番町に赴き夕食をし、二更(午後9時~11時)の頃家に帰ったが、霧雨がこぬかのようだった。

3月28日に、次のように、警察に営業引継ぎ届けを出している。

「三月廿八日 ・・・、昼飯すませて後お歌と共に麹町まで歩む、営業引継ぎの願書を麹町警察署に出すといふ、三丁目角にて別れ家に帰る、・・・」

麹町警察署は、現在と同じ、新宿通りの始点(半蔵門)近くで、二人は、三番町から御厩谷坂を上下し、袖摺坂、永井坂を上下して歩んだのだろうと想像したい(現代地図)。

「四月初一 旧閏三月十一日 曇りて風甚寒し、午後笄阜子来訪、晡下お歌来る、相携へて銀座に出で藻波に登りて晩餐をなし、十一屋その他にて待合客用の杯盤雑具を購ひ、江島印房にて仕切判を注文し三番町に赴きて宿す、」

荷風は、この日、歌とともに銀座に出かけ、十一屋その他で待合客用のさかずきやさらなどの雑具を購入し、江島印房で仕切判を注文した。

「四月初四 ・・・、晩間お歌訪ひ来りて是日午後待合喜久川の亭主を伴ひ自働車にて中野高円寺に住める家主をたづね三番町家屋貸借の契約をなせし由語る、また弘め手拭染上りたりとて持参す、麻の葉つなぎの中にいく代といふ家名を白く抜きたるなり、但し余が意匠せしにはあらず、手拭屋にてなせしものなり、三更の頃お歌帰る、送りて門外に出づるに幾望の月皎々とと照りわたりふきすさむ風の冷なることさながら寒月の夜の如し、枕上に松の葉をよむ、過日琴曲家中能島氏よりたのまれたる歌詞をつくらむがためなり、」

この日、お歌は、中野高円寺に住んでいる家主を訪ね家屋の貸借契約をしたと語り、また、染め上がった弘め手拭を持参した。麻の葉つなぎの中に「いく代」という家名を白く抜いたものであるが、荷風のデザインではなく、手拭屋によるものであった。

以上のように、待合営業開始に向けて準備が着々と進んでいる。

「四月十一日 ・・・、薄暮お歌来りて三番町待合開業の許可状明日あたり所轄の警察署より下げ渡さるべしと言ふ、夕餉すまして後銀座に出で物買ひて帰る、お歌わが家より更に自働車を命じて三番町に帰れり、風甚冷なり、枕上鷗外全集翻訳の小説を読む、」

この日、お歌から待合開業の許可状が明日あたりに出ると聞かされた。

秋庭太郎は、歌女のもとにはいまなお、三月二十八日付麹町警察署の関根歌名義の待合茶屋営業許可書が残っている、と記している。

「四月十二日 空よく晴れ渡りしが微風冷にして花盛の頃とも思はれず、衰老のわが身ばかりかくやと思ひしに、若き人も今日は風さむしといへり、終日何事をもなさず、読書をする気力もなし、唯寐つ起きつくして日をくらし三番町に徃くべき時の来るを待つのみ、さて三番町に徃きても別に面白きこともなく心浮立たず、火燵[こたつ]によこたわりて煙草くゆらしお歌の針仕事するを打見やりつゝやがて家に帰るべき時の来るを待つのみなり、世の諺に死ぬ苦しみと云ふことあれど薬飲み飲み命をつなぎて徒に日を送るも亦たやすき業ならず、此夜高輪楽天居に句会ありと聞きしが赴かず、」

このころ、荷風は、あまり体の調子がよくなかったようで、一日中何もせず、読書をする気力もない。ただ寝て起きて日をくらし三番町へ行く時を待つだけで、三番町に行っても別に面白いこともなくこたつに横になって煙草をくゆらし針仕事をするお歌を見ながら家に帰る時を待つのみである、などと記している。

幾代茶の間のお歌 「四月十三日 ・・・、晩間三番町に行く、昨夜深更に及び嫖客[ひょうかく]登楼するもの三人ありしと、此の夜も夕方より客来りしとてお歌よろこび語る、林檎を食して三更後家に帰る、」

前日から予定通り営業を始めたようで、初日に深夜になってから客が三人来て、この夜も客が来たとお歌はよろこんで話した。

このように、お歌の希望であった幾代の待合営業が始まった。
(続く)

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

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荷風とお歌(1)

2014年12月05日 | 荷風

永井荷風は、西久保八幡町の壺屋裏の壺中庵と名付けた陋屋に関根歌を囲った。前回の記事のように昭和2年(1927)10月のことである。

荷風は、新年(昭和3年(1928))を迎えると、早速お歌を伴って雑司ヶ谷霊園に父の墓参りに出かけている。

『正月二日 晏起既に午に近し、先考の忌日なれば拝墓に徃かむとするに、晴れたる空薄く曇りて小雨降り来りしかば、いかゞせむと幾度か窓より空打仰ぐほどに、雲脚とぎれて日の光照りわたりぬ、まづ壺中庵に立寄り、お歌を伴ひ自働車を倩ひて雑司ヶ谷墓地に徃き、先考の墓を拝して後柳北先生の墓前にも香華を手向け、歩みて音羽に出で関口の公園に入る、園内寂然として遊歩の人なく唯水声の鞺鞳たるを聞くのみ、堰口の橋を渡り水流に沿ひて駒留橋に到る、杖を留めて前方の岨崖を望めば老松古竹宛然一幅の画図をなす、此の地の風景昭和三年に在って猶斯くの如し、徃昔の好景盖し察するに余りあり、早稲田電車終点より車に乗り飯田橋に抵り、歩みて神楽坂を登る、日既に暮れ商舗の燈火燦然として松飾の間より輝き出るや、春着の妓女三々伍ゝ相携へて来徃するを見る、街頭の夜色遽に新年の景況を添へたるが如き思あり、田原屋に入りて晩餐をなし、初更壺中庵に帰りて宿す、』

正月二日は父禾原の祥月命日である。前年までは一人だけの墓参りであったが(以前の記事その1その2)、今年は絶好の連れができたのに、どうも空模様がよくない。晴れた空が薄曇り小雨が降ってきたが、どうしたものかと窓から何度も空を見上げていると、ようやく雲が切れて日が差してきた。そんなやきもきした感じが伝わってくる。墓参の後、関口の公園(いまの江戸川公園)に入り、駒留橋に至ったが、前方の崖を眺めると、老松古竹が一幅の絵のようである。この地の風景は、この昭和三年でもこのような有様であるので、むかしはさぞかし絶景であったと想像するに難くない。飯田橋に行き、神楽坂を上り、田原屋で夕食にしたが、以前からのお決まりのコースである。

翌月の5日には次の記述がある。

『二月五日 雪もよひの空なり、日高氏の書を得たれば直に返書をしたゝめて送る、薄暮お歌夕餉の惣菜を携へ来ること毎夜の如し、此の女藝者せしものには似ず正直にて深切なり、去年の秋より余つらつらその性行を視るに心より満足して余に事へむとするものゝ如し、女といふものは実に不思議なものなり、お歌年はまだ二十を二ッ三ツ越したる若き身にてありながら、年五十になりてしかも平生病み勝ちなる余をたよりになし、更に悲しむ様子もなくいつも機嫌よく笑うて日を送れり、むかしは斯くの如き妾気質の女も珍しき事にてはあらざりしならむ、されど近世に至り反抗思想の普及してより、東京と称する民権主義の都会に、かくの如きむかし風なる女の猶残存せるは実に意想外の事なり、絶えて無くして僅に有るものと謂ふべし、余曾て遊びざかりの頃、若き女の年寄りたる旦那一人を後生大事に浮 気一つせずおとなしく暮しゐるを見る時は、是利欲のために二度とはなき青春の月日を無駄にして惜しむ事を知らざる馬鹿な女なりと、甚しく之を卑しみたり、然れども今日にいたりてよくよく思へば一概にさうとも言ひ難き所あるが如し、かゝる女は生来気心弱く意地張り少く、人中に出でゝさまざまなる辛き目を見むよりは生涯日かげの身にてよければ情深き人をたよりて唯安らかに穏なる日を送らむことを望むなり、生まれながらにして進取の精神なく奮闘の意気なく自然に忍辱の悟りを開きゐたるなり、是文化の爛熟せる国ならでは見られぬものなり、されば西洋にても紐育市俄古あたりには斯くの如き女は絶えて少く、巴里に在りては屢[しばしば]之を見るべし、余既に老境に及び藝術上の野心も全く消え失せし折柄、且はまたわが国現代の婦人の文学政治などに熱中して身をあやまる者多きを見、心ひそかに慨嘆する折柄、こゝに偶然かくの如き可憐なる女に行会ひしは誠に老後の幸福といふべし、人生の行路につかれ果てたる夕ふと巡礼の女の歌うたふ声に無限の安慰と哀愁とを覚えたるが如き心地にもたとふべし、』

お歌は毎晩のように夕食の惣菜を持ってやってくるが、この女は芸者をしていたものに似合わず正直で親切である。昨秋よりずっとその質や行いをみてきたが心より満足して自分に接しているようにみえる。女というものは実に不思議なもので、お歌は年まだ22~23ほどの若い身なのに、年50にもなりしかも病気がちの自分をたよりにし、悲しむ様子もなくいつも機嫌よく笑って毎日を送っている。むかしはこのような妾気質の女も珍しくはなかったが、最近になって反抗思想が普及してからは、東京という民権主義の都会に、このようなむかし風なる女がなお残っているのはじつに思いがけのないことで、絶えて無くなったがわずかにあるというべきである。自分はかつて遊び盛りの頃、若い女が年寄りの旦那一人を後生大事に浮気一つせずにおとなしく暮しているのを見る時、これは利欲のために二度とはない青春の月日を無駄にして惜しいと思う事を知らない馬鹿な女であると、はなはだこれを卑しんだ。しかし今日にいたってよくよく思えば一概にそうとも言えない難しいところがある。このような女は生来気心が弱く意地張りが少く、人中に出てさまざまな辛い目を見るよりは生涯日かげの身にてよければ情深き人をたよってただ安らかに穏なる日を送ることを望むのである。生まれながらにして進取の精神がなく、奮闘の意気がなく、自然に忍辱の悟りを開いている。これは文化の爛熟した国では見られないことである。されば西洋でもニューヨーク、シカゴあたりにはこのような女は絶えて少く、パリにあってはしばしば見ることができるだろう。自分はすでに老境に達し、芸術上の野心もまったく消え失せているとき、かつまた、わが国現代の婦人の文学政治などに熱中して身をあやまる者が多いのを見て心ひそかに慨嘆するとき、ここに偶然このような可憐な女に巡り会ったことは、本当に老後の幸福というべきである。人生の行路につかれ果てた夕べに、ふと巡礼の女が歌をうたう声に無限の慰安と哀愁とを覚えるような心地にたとえることができる。

荷風は、旧来の日本女性の特質につき若い頃はこれを貶めるような考えを持っていたが、いまやそうむやみに否定などすることができず、むしろ好ましい特質としている。お歌をそんな旧来の女性と捉え、最大級の賛辞を呈している。前年9月17日の日乗(前回の記事)にも似た記述があるが、それよりも徹底している。

こういったことになると、荷風は、妙に決めつけ断定するようなところがあるが、お歌のことでは、気に入ったとか、惚れたとか、そういった単純だが基本的な感情に基づいているのである。そして、これは、江戸懐古といった旧いものに愛着を感じる荷風独特の感性に由来することも忘れてはならない。総じれば、お歌が旧来の女性の特質を持っていることの嬉しさからやってくるというべきか。

いずれにしても、この末文の「人生の行路につかれ果てたる夕ふと巡礼の女の歌うたふ声に無限の安慰と哀愁とを覚えたるが如き心地にもたとふべし」という喩えが当時の荷風の心情をもっともよくあらわしている。
(続く)

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

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