東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

平和坂

2015年01月30日 | 坂道

平和坂下 平和坂下 平和坂中腹 平和坂中腹 前回の三井坂下から右折し戸越銀座から延びる通りを東へ進み、三本目を右折すると、平和坂下である(現代地図)。西品川二丁目8番と7番の間を南に上る。

この坂は、ここまでの清水坂宮前坂八幡坂三井坂と違って、坂下からいきなりちょっとした勾配で上りはじめる。このため、印象がちょっと違ってしまう。以前来たときは、たしか、坂上からだったので、そんな印象は残っていない。

坂下の通りから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、坂下から中程度の勾配でまっすぐに上っている。三井坂と同じく幅狭。坂下左(東)に平和坂の標柱が立っているのが見える。ステンレス鋼製のようであるが、同じものが坂上にも立っている。

坂下の通りにはちょっと離れたところに戸越GINZAの看板があるが、三ツ木通り商店街の旗がひらめいている。

坂下からちょっと上ってから坂上側を撮ったのが二枚目、 さらに上ってから坂上側を撮ったのが三枚目で、このあたりでもっとも勾配がある。さらに進んで坂上側を撮ったのが四枚目で、この先でちょっと緩やかになっている。

平和坂中腹 平和坂中腹 平和坂中腹 平和坂中腹 そのあたりから振り返って坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、坂下近くで、ある程度の勾配があることがわかる。

その上側から坂上側を撮ったのが二枚目、さらに上側から坂上側を撮ったのが三枚目で、このあたりは坂上に近く、緩やかになっている。

四枚目は、そのあたりで坂下側を撮ったものである。

二、三枚目の写真からわかるように、坂上近くになると両側に商店が増え、商店街が形成されている。坂下の東西に延びる通りは、三ツ木通り商店街であるが、ここは、通りに表示があるように、平和坂通り商店会である。坂下から上ってすぐの坂上にできた商店街というのは珍しい気がする。

平和坂上 平和坂上 平和坂周辺明治44年地図 平和坂周辺昭和16年地図 さらに上って坂上方面を撮ったのが一枚目の写真で、このちょっと先あたりが坂上といってよい。さらに進んで進行方向を撮ったのが二枚目で、このあたりでほぼ平坦になっている。

三枚目は、明治44年(1911)発行の地図のこのあたりの部分図である。明治末期には、戸越銀座の清水坂宮前坂八幡坂三井坂は荏原郡平塚村であったが、この坂は荏原郡品川町大字北品川宿であった。この明治地図で、北三ツ木と南三ツ木との東西に延びる境界が現在の坂下の三ツ木商店街通りの付近と思われるが、この坂はまだない。北側の貴船神社の位置と比べると、その結論になる。

四枚目は、昭和16年(1941)発行の地図のこのあたりの部分図である。上記の四つの坂は荏原区であったが、この昭和地図を見ると、品川区西品川五丁目に、坂下の商店街通りとともに南北に延びるこの坂ができている(番地"1012"の上に小さな浴場マークのある道)

これらの明治地図と昭和地図には、上側(北)に横(東西)に延びる百反坂が見えるが、当時からうねっていたことがわかる。

ここで、昭和地図や明治地図を見ていつも思うことを一つ。地図にはその対象の区や市や町や村などの境界が当然に表示されるが、その境界の外側の地図を省略していることである。これはきわめて不便である。こういった地図で、ちょうど境界付近の外側に探している所があると、意地悪をしているのではないかとさえ思うことがある。その地図が対象とする地域の範囲外は、これを表示しないというのが当時の地図作成上の常識であったのだろうか。ときどき、そういう疑問を抱くことがある。ただし、四枚目の昭和地図で、この坂の西の戸越銀座のあたりの道筋が表示されているが、例外である。

平和坂上 平和坂上の標柱 平和坂周辺の北へ上る無名坂 貴船神社から百反坂へ下る坂 さらに坂上を南側に歩くと、左側(東)に坂下と同じ坂の標柱が立っている。

そのあたりから坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、坂下に立っているアーチ状の紅白の柱の上側部分が写っている。

二枚目は、その標柱を撮ったもので、次の説明がある。

『平和坂
 大正時代、この地は東京府荏原郡品川町大字北品川の三ツ木耕地と言う地名であった、当時はこの坂から上の道は有隣社通りと言われていた、戦後二十三年有志総意で平和坂通り商店会を結成しこの時平和坂と名称された。』

この説明によると、大正時代にはこの坂があったようであるが、この時代にできたのであろうか。坂名の由来は不明だが、有志の総意で付けられたらしく、ちょっとおもしろい坂名の付け方である。この標柱は、各坂の品川区教育委員会によるものとは違うタイプであるが、有志の方々が建立したのだろう。

坂下までもどり、反対側の北への道を進み、次を右折し、しばらく歩き、次の突き当たりを左折し、北へ無名坂を上る。そのあたりで撮ったのが三枚目である。ちょうど戸越銀座のできた谷地から百反坂方面の台地に上る坂である。 貴船神社の脇を進んでちょっとの所から振り返って撮ったのが四枚目である。ここからちょっと歩くと、百反坂の中腹に出る。

坂下から山手線を越えて御殿山の方へ行こうと思ったが、坂下周辺の線路側は工事中で、おまけに百反隧道も通行止めのため、仕方がなく、工事中の白いパネルの壁に沿って南へ歩いた。しかし、歩いても歩いても脇の方には進めない。それでも歩いていくと、とうとう品川区役所前に出てしまった。その先で左折し、大井町駅へ。

後で地図を見ると、坂下の南から東側にでる道は元々ないようであった。そんなつもりはなかったのだが、久々にブログタイトルの如くさまよい歩いてしまった。

携帯による総歩行距離は15km。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市15区・近傍34町村⑱荏原郡品川町・大崎町全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑯品川區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)

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三井坂

2015年01月27日 | 坂道

三井坂下 三井坂下 三井坂下 三井坂下 前回の八幡坂下から右折し戸越銀座の通りを東へ進み、二本目を右折すると、三井坂下である(現代地図)。戸越二丁目7番と豊町一丁目5番の間を南に上る。

この坂は、清水坂宮前坂と同じように、まっすぐに上って、そのまま坂上にいたるが、清水坂や宮前坂よりも道幅が狭く、ひっそりとした雰囲気になっている。戸越銀座通りの脇道であるが裏道を感じさせる。

通りから曲がってすぐのところから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、坂下はしばらくかなり緩やかである。

さらに進んでから坂上側を撮ったのが二枚目で、まだ緩やかであるが、さらに歩いてから撮った三枚目では、勾配がはじまっている。

そのあたりから振り返って通り側を撮ったのが四枚目で、この坂はT字路になっていることがわかる。

品川区HPに次の説明がある。

『戸越銀座通りから戸越小学校に向かう坂を呼んでいます。
 戸越公園・戸越小学校・国文学資料館等この辺一帯は、かつて三井農園・三井文庫があったところであり、この名称はそのためです。
 現在坂の途中にある民家の塀に、昭和2年11月に建てられた「三井坂」の小石標が残されています。』

今回、この小石標には気がつかなかった。

三井坂中腹 三井坂中腹 戸越銀座周辺明治44年地図 戸越銀座周辺昭和16年地図 さらに上ってから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、その上側から坂上側を撮ったのが二枚目で、このあたりでは中程度の勾配になっている。

三枚目は、明治44年(1911)発行の地図の部分図、四枚目は、昭和16年(1941)発行の地図の部分図である(清水坂、宮前坂、八幡坂の各記事で引用したものと同じ)。

前回の八幡坂は、明治地図で、八幡社と行慶寺の右(東)に上下(南北)に延びる道で、昭和地図でも同様である。

明治地図には、八幡坂の右(東)に上下(南北)に延びる道がなく、明治期にはこの坂はなかったことがわかる。ところが、昭和地図を見ると、この坂ができている。坂上の先(南)に三井文庫があるので、すぐこの坂であることがわかる。

三井資料館HPによれば、1903(明治36)年10月に三井家の修史事業のために日本橋駿河町の三井本館内に三井家編纂室が設立され、三井家編纂室は、その後、1918(大正7)年に荏原郡戸越(現在の品川区豊町)に移転して、三井文庫と名称を変えた。

三井文庫は大正7年(1918)にできたとあるが、この坂もその頃にできたのであろうか。

三井坂中腹 三井坂中腹 三井坂上 三井坂上 さらに上って坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、そのちょっと上から坂下側を撮ったのが二枚目である。このあたりがもっとも傾斜している。

さらに進んで坂上側を撮ったのが三枚目で、坂上が見えてきて、坂上から先に坂よりもちょっと幅広の道がまっすぐに延びている。現代地図には、この先に文庫の森というのがあり、その中に旧三井文庫がある。

品川区HPの三井坂のデータによれば、この坂は延長100m、最大勾配が約9.0%(5.1度)である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市15区・近傍34町村⑰荏原郡大井町・平塚村全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑲荏原區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)

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八幡坂(戸越銀座)

2015年01月26日 | 坂道

八幡坂下 八幡坂下 八幡坂下 八幡坂下 前回の宮前坂下から右折し戸越銀座の通りを東へ進む。二本目を右折すると、八幡坂下である(現代地図)。戸越二丁目6番と7番の間を南に上る。

この坂は、これまでの清水坂宮前坂とかなり雰囲気が違う。清水坂、宮前坂は、まっすぐに上って、そのまま坂上にいたる単純な坂であるが、この坂は、坂下で緩やかにカーブし、中腹あたりで道幅が狭くなり、かなり古くなった家が並ぶ、といったようにむかしの面影を残している。戸越銀座の坂は、今回が二回目で、以前来たときも同じ印象を持った。

曲がってすぐのところから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、かなり緩やかに傾斜し左に曲がっているが、スムーズなカーブではなく、これがいかにも古さを感じさせる。

そのあたりから振り返って通り側を撮ったのが二枚目で、反対側の道が北へ延びている。

坂上側にちょっと進んでから坂上側を撮ったのが三枚目であるが、左にかくかくとちょっとずつ曲がっている。

四枚目は、さらに進んで坂上側を撮ったもので、この先で勾配がつきはじめるが、まだ緩やかである。

八幡坂中腹 八幡坂中腹 戸越銀座周辺明治44年地図 戸越銀座周辺昭和16年地図 そのちょっと先から坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、緩やかな坂下が清水坂宮前坂などと比べて長いことがわかる。

二枚目は、そのあたりから坂上側を撮ったもので、ちょっと傾斜がはじまっている。

三枚目は、明治44年(1911)発行の地図の部分図、四枚目は、昭和16年(1941)発行の地図の部分図である。

清水坂宮前坂の記事のように、明治地図で、八幡社と行慶寺の右(東)に上下(南北)に延びる道がこの坂である。昭和地図でも同様である。

八幡坂中腹 八幡坂中腹 八幡坂中腹 八幡坂標柱 さらに上ると左折する道があるが、そのちょっと手前から坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、この下側あたりから坂上側で道幅がちょっと狭くなっている。そのあたりから坂下側を撮ったのが二枚目である。

さらに上ってから坂上側を撮ったのが三枚目で、右側(西)にこの坂の標識が立っている。このちょっと手前右に小路があるが、小路の先の数段の短い階段を上ると、八幡神社の参道に出る。

その標柱を撮ったのが四枚目で、その小路と階段が右に写っている。標識には次の説明があるが、坂名の由来は明確である。

『この坂は、戸越銀座通りから戸越八幡神社脇を抜ける坂である。そのために八幡神社にちなんでこの名称がつけられたものである。』

八幡坂上 八幡坂上 八幡坂坂上 江戸名所図会 戸越八幡・行慶寺 さらに上ってから坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、下左側(西)の電柱の裏を左折すると、神社への小路である。

そのあたりから坂上側を撮ったのが二枚目で、さらに上側から坂下側を撮ったのが三枚目である。

四枚目は「江戸名所図会」にある戸越八幡と行慶寺の挿絵で、本文に次の説明がある。

『八幡山行慶寺 大崎より東海寺裏の方、戸越村にあり。文禄元年[1592]起立、浄土宗にして開山念誉上人。戸越八幡兼帯なり。願成院と号す。(梶原氏什宝ありといふ。)』

『戸越八幡 戸越村鎮守なり。天文年間[1532~1555]の鎮座なりといふ。御正体は聖徳太子の作、本地仏阿弥陀如来の像は春日の作なり。当社境内の小石を疱瘡の守とす。霊験ありとて土人これを拾ひ取って帰る。九月廿八日相撲あり。(分限帳、太田新六郎所領の中、六郷内戸越は梶原分云々。)』

八幡神社は1532~1555年の間、行慶寺は1592年に創立されたようで、いずれも江戸幕府ができる前である。

四枚目の挿絵は、このあたりの江戸後期の田園風景であるが、八幡神社が村の鎮守として人々の信仰を集めたと想像される。正月中に訪れ初詣の参拝をする人がたくさん来ていたが、そうする人の心は当時とあまり変わっていないのではないか。人間の心のある部分はそんなに簡単に変わらず、外形は変わってもその実はむかしから同じなのである。この坂の古びた雰囲気に誘発されてついそんなことを想ってしまう。

品川区HPの八幡坂のデータによれば、この坂は延長160m、最大勾配が約6.6%(3.8度)である。この坂は、清水坂宮前坂よりも長くなっているが、緩やかな坂下が長いためであろう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市15区・近傍34町村⑰荏原郡大井町・平塚村全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑲荏原區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)
「江戸名所図会(二)」(角川文庫)

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宮前坂(戸越銀座)

2015年01月24日 | 坂道

宮前坂下 宮前坂下 宮前坂下 宮前坂中腹 前回の清水坂下から右折し戸越銀座の通りを東へ進む。二本目を右折すると、宮前坂下である(現代地図)。戸越二丁目5番と6番の間を南に上る。

曲がってから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、坂下近くからかなり緩やかだが勾配がはじまっている。

二枚目は、通りを曲がってから振り返って通り側を撮ったもので、反対側の道が北へ延びて奥の方で左に曲がりながら緩やかに傾斜して上っている。

さらに進んでから坂上側を撮ったのが三枚目であるが、ちょっとした勾配がつきはじめ、まっすぐに上っており、ここを上ると坂上で、清水坂と同じく短い坂である。

四枚目は、さらに進んで中腹のあたりから坂下側を撮ったもので、右側(東)にこの坂の標識が立っている。

下一枚目は、その下側から左側(東)に標識を入れて坂上側を撮ったものである。

標識には、下二枚目の写真のように、次の説明がある。

『この通りは、付近にある行慶寺や戸越八幡神社に向かう道で、宮前通りと呼ばれている。
 坂の名称も、そこからつけられたものである。』

宮前坂中腹 宮前坂標識 戸越銀座周辺明治44年地図 戸越銀座周辺昭和16年地図 三枚目は、明治44年(1911)発行の地図の部分図、四枚目は、昭和16年(1941)発行の地図の部分図である。

前回の清水坂の記事で、明治地図の八幡社と行慶寺の右(東)で上下(南北)に延びる道がこれから行く八幡坂で、その左(西)の南北に延びる道がこの坂、さらにその左(西)の南北に延びる道が清水坂であろうと推測したが、そうすると一つ問題が生じる。現代地図(画面上)で宮前坂と清水坂との間隔が坂下の通りで168m、宮前坂と八幡坂との間隔が坂下の通りで123mで、宮前坂と清水坂との間隔の方が長いが、明治地図では、逆に、宮前坂と八幡坂との間隔の方がかなり長いことである。

明治地図で、上端(北)中央付近の百反通りと峰原通りとの合流地点近くの道は、下(南)に延びるにつれて右(東)へとカーブし、次第に東向きになるが、この道と宮前坂との位置関係が、現代地図におけるその道と宮前坂との位置関係と似ている。このため、明治地図で、八幡坂の左(西)の南北に延びる道が宮前坂であるとの推測はあながち大きな間違いではなさそうである。そうとすると、仮説であるが、その左(西)の南北に延びる道は、清水坂ではなく、現在、清水坂と宮前坂との間に別の無名の坂道があるが、この道といった方がよいのかもしれず、現在、清水坂とよんでいる坂道は、明治地図にはなく、その後できた坂なのかもしれない。

前回の記事における明治地図の清水坂の位置云々については訂正する必要があるかもしれないが、これ以外の資料がないので、とりあえず、こういう疑問点があるというだけにとどめておく。昭和16年の地図は、現在と似た位置関係である。

宮前坂中腹 宮前坂上 宮前坂上 宮前坂上 さらに上ってから坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、このすぐ右(東)に宮前坂広場という小さな公園があるが、その出入口の車止めが写っている。

そのあたりから坂上側を撮ったのが二枚目で、さらに上ってから坂下側を撮ったのが三枚目である。

そのあたりから坂上側を撮ったのが四枚目で、坂上の先は、宮前商店街で、その看板が見えるが、そのあたりでちょっと左にカーブしている。

品川区HPの宮前坂のデータによれば、この坂は延長72m、最大勾配が約8.8%(5度)である。この坂は、清水坂と似た坂であるが、清水坂よりもちょっと長く、その分勾配がちょっと少ない。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市15区・近傍34町村⑰荏原郡大井町・平塚村全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑲荏原區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)

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清水坂(戸越銀座)

2015年01月20日 | 坂道

戸越銀座駅 戸越銀座 清水坂下 清水坂下 前回の桐ヶ谷坂上の中原街道の歩道を西へちょっと進み、左折して小路に入り、その先で右折すると小さな公園があったので小休止。よく晴れているため冬の日差しがまぶしい。

小路の緩やかな坂を下ると、やがて左前方に池上線の戸越銀座駅のホームが見えてくる。そのあたりから撮ったのが一枚目の写真である。

踏切を渡り、右折しちょっと歩くと、戸越銀座の通りである(現代地図)。商店街が東西にまっすぐに延びているが、左折し、東側へ進む。二枚目はそのあたりから東側を撮ったもので、通りは第二京浜を越えて延びている。これから向かう坂はすべて、この先でこの通りの右側(南)に上る坂である。

このあたりの中華料理店で昼食をとってしばしの休憩。

第二京浜を横断し、二本目を右折すると、清水坂の坂下である(現代地図)。戸越三丁目2番と戸越二丁目1番の間を南へ上る。

右折するところから坂上側を撮ったのが三枚目、ちょっと坂上側に歩いてから撮ったのが四枚目で、緩やかな道が続いてから勾配がはじまっているが、この勾配を上れば坂上で、短い坂である。

戸越銀座周辺明治44年地図 戸越銀座周辺昭和16年地図 一枚目は、明治44年(1911)発行の地図から切り抜いたこのあたりの部分図であるが、現在とまったく違っている。二枚目は、昭和16年(1941)発行の地図の部分図で、現在とほぼ同じである。この30年の間に大きな改変・改修があったことがわかる。

一枚目の明治地図を現在と対比する基準となるのは、上端(北)中央付近の百反通りと峰原通りとの合流地点、そのちょっと左(西)から下(南)に延びる道、中央のちょっと下の八幡社と行慶寺である。これらの位置は現在と同じと思われる。

合流地点近くの道は、下(南)に延びるにつれて右(東)へとカーブし、次第に東向きになるが、その途中で、下(南)へほぼまっすぐ延びる道がある。この道の下側の左(西)に八幡社と行慶寺があるが、現代地図と比べると、この道が八幡坂(後で行く)と思われる。その道の途中に小川(用水路)が二本横切って東へと流れているが、下側(南)の小川のあたりが戸越銀座の通りになったのであろう。

戸越銀座の通りから南に上る坂は、西から順に、清水坂、宮前坂、八幡坂、三井坂、平和坂である。明治地図での八幡坂の位置がわかったが、この清水坂の位置はどこかと見ると、八幡坂の西に南へ延びる道が二本ある。その西側の道が清水坂と考えるのが妥当と思われる。明治地図では坂下側で曲がっているが、この道を南から北へまっすぐに延ばすと、八幡坂下からの東西の延長線に対しほぼ直交する。これは現在と同じである。また、この道の近くに「字藪清水」の地名があるが、これがこの坂名の由来であろうか。岡崎が指摘している。

品川区HPに名称の由来として次の説明がある。

『もともと「戸越」の地名は、この辺りが江戸越えの村だったことを由来としており、『江戸越えて清水の上の成就庵ねがひの糸のとけぬ日はなし』という古歌も残っています。この歌の「清水」をとって、 清水坂という名が付けられたと考えられています。』

その古歌の「清水」と、地名の「藪清水」は、由来がもともと同じなのであろうか。 

清水坂下 清水坂下 清水坂下 清水坂中腹戸越銀座の通りから曲がってちょっとしてから振り返って通り側を撮ったのが一枚目の写真である。反対側(北)の道が見えるが、上り坂になっている。

ちょっと進み坂上側を撮ったのが二枚目で、このあたりから勾配がはじまっている。

そのあたりから坂下側を撮ったのが三枚目で、坂下東側に末廣稲荷が見える。

さらに上って中腹から坂上側を撮ったのが四枚目で、ちょっと勾配がある中腹東側に五反田教会が見える。

このあたりは、目黒台地の東端で、この台地にちょうど東から西へと入り込んだ谷(窪地)で、その北側が百反坂上の台地である。明治地図のように、谷底に小川が流れていた。

この東西に延びる谷筋にできた元々の通りは、雨でぬかるんだり洪水が起きたりで、大正末期まで商業地としてはなかなか発展しなかった。ところが、大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災で東京都中央区の銀座は大きな被害にあったが、このあたりは竹藪が多くて地盤が強く、被害が少なかったこともあって新しい商店街立ち上げの気運が高まった。銀座では道路のアスファルト化のため舗道を撤去したが、戸越の人々は、その敷石のレンガを譲り受け、大八車で繰り返し往復し運び、道路を暗渠にしレンガを通りに並べた。昭和2年(1927)7月に商店街が発足したが、銀座の名称も譲り受けて「戸越銀座」と名付けられた。現在、銀座の名称を持つ商店街が全国に約300以上あるが、中央区の銀座に次ぎ銀座の名を一番先に持ったのは戸越銀座商店街であるという(戸越銀座商店街の戸越銀次郎ブログの戸越銀座の由来参照)。

大正12年(1923)の関東大震災は、それまでの東京を大きく変えるきっかけになったとよくいわれるが、この戸越銀座もそのようで、現在のように発展する契機になった。

清水坂中腹 清水坂上 清水坂上 清水坂上 中腹のちょっと上から坂下側を撮ったのが一枚目の写真で、中腹の東側にこの坂名の付いた歯科医院の看板が見える。この坂には標識が立っていないので、その代わりになる。

ちょっと上り坂上近くから坂上側を撮ったのが二枚目で、さらに上って坂上の向こうを撮ったのが三枚目である。坂上は南へまっすぐに延びている。

そのあたりで振り返って坂下側を撮ったのが四枚目である。

ちょっとまっすぐに上っただけで坂上にいたる短い坂であるが、坂名をつけた医院があったりして、付近の住民から親しまれている感じがする。

品川区HPの清水坂のデータによれば、この坂は延長が60m、最大勾配が約9.3%(5.3度)である。

同名の坂が、上野池之端文京区湯島などにある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市15区・近傍34町村⑰荏原郡大井町・平塚村全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑲荏原區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)

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桐ヶ谷坂

2015年01月17日 | 坂道

峰原通りと百反通りの合流点 桐ヶ谷坂周辺明治44年地図 中原口歩道橋から坂上側 中原口歩道橋から反対側(東) 前回の峰原坂上の峰原通りを西へ歩く。やがて百反坂上から延びてきた百反通りに合流する(現代地図)。

一枚目の写真はその合流点付近を撮ったもので、右が百反通りで、その奥が百反坂方面。このあたりも目黒台地の目黒川近くの東端に位置し、標高が20~30m程度である。

二枚目は、明治44年(1911)発行の地図からの部分図で、右下に日蓮宗大学の前の峰原坂から延びる道筋(峰原通り)が見え、右下の右端(東)から延びる道筋(百反通り)が見える。これらが下端近くで合流しているが、現在とほほ同じである。

合流の交差点を右折し、ちょっと歩くと、スーパーがあったので、甘味(一口チョコレート)を購う。歩きながら食べるのにちょうどよく、疲れる前に補給する。

第二京浜の交差点を横断し、そのままちょっと直進すると、桐ヶ谷の交差点であるが、このあたりが現在の桐ヶ谷坂の坂上である(現代地図)。ここを右折して坂を下る。

坂下近くまで下ると、中原口の交差点があり、歩道橋がある(現代地図)。その上から西側を撮ったのが三枚目の写真で、六車線の広い道路が中原街道。ここが始点で西へ横浜市西部まで延びている。

東側を撮ったのが四枚目で、中原口で第二京浜が右へ延び、中原街道が第二京浜から分岐している。

桐ヶ谷坂下 桐ヶ谷坂下 桐ヶ谷坂中腹 桐ヶ谷坂中腹 歩道橋を下ったところで坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、緩やかにまっすぐに上っている。

二枚目は、ちょっと上ってから振り返り、坂下側を撮ったもので、先ほどの歩道橋が見える。

さらに歩道を上ると、中腹に大きな交差点があるが(現代地図)、そこから坂上側を撮ったのが三枚目で、そこから坂下側を撮ったのが四枚目である。

歩道橋からの写真や一枚目の写真を見るとわかるが、このあたりは、交差点の真上に首都高目黒線の高架(第二京浜の戸越出入口につながる)が通り、その坂上側には、中原街道の荏原出入口につながるさらに高い別の高架がカーブして通っているため、妙に圧迫感を感じるところである。騒がしく、歩道沿いにはビルが立ち並び、ちょっと暗く、広い中原街道とあいまって、坂巡りでもなければ、好んで訪れたいと思うところではない。

品川区HPの品川区の坂に、この坂について次の説明がある。

『旧中原街道にあって、西五反田6、7丁目あたりから南西に平塚方面に向かって上る坂でしたが、現在は区画整理によって2代目の新街道(現在の中原街道)ができ、坂名も移りました。坂下では第二京浜国道と別れています。』

坂名が旧中原街道から新街道に移ったというのがちょっとおかしいが、その旧街道に興味がでてきた。今回の訪問前、この新しい坂のある新街道は旧道を呑む込むようにして拡幅されたのだろうと思い込んでいたが、調べると、そうではなく、平塚橋まで新街道とほぼ平行に延びる旧街道が北側に残っている。

上記明治地図の部分図に見える平塚村側へ突き出た道が旧中原街道で、その上側に坂名の由来となった「大字桐ヶ谷」の地名が見える。

桐ヶ谷坂中腹 桐ヶ谷坂中腹 桐ヶ谷坂上 桐ヶ谷坂上 横断歩道を渡り上側にちょっと歩いてから撮ったのが一枚目の写真で、坂上に近づいてきた。そのちょっと上側から坂下側を撮ったのが二枚目である。

さらに上り坂上の桐ヶ谷交差点を撮ったのが三枚目である。

そのまま西側に直進し、荏原出入口を過ぎると、これまでの高架下のうっとうしさからやっと解放される。高速道路などの高架下というのはどうも苦手である。

そのあたりでバス停を見ると、「桐が谷坂上」とある(現代地図)。このバス停を入れて中原街道を西側に撮ったのが四枚目である。

品川区HPの桐ヶ谷坂のデータによれば、この坂は延長が284m、最大勾配が5.7%(3.3度)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京市15区・近傍34町村⑱荏原郡品川町・大崎町全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑯品川區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)
「東京の道事典」(東京堂出版)

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峰原坂

2015年01月15日 | 坂道

百反通りから下る無名坂 居木神社 前回の百反坂上を西へと歩く。坂上の平坦な通りにも緩やかなカーブが何回か出現する。

百反坂から延びる百反通りのあたりは、目黒台地の目黒川に近い東端近傍に位置し、標高が20~30m程度である。

やがて右へ下る狭い無名坂が見えてくる。大崎二丁目6番と大崎三丁目14番との間を北へ下る坂(現代地図)。ここを右折してから坂下側を撮ったのが一枚目の写真である。ここは大崎駅への近道になっている。

この無名坂を下り、芳水小学校前を過ぎた先の四差路を左折し、道なりに進むと、ふたたび上りとなって、その坂上に居木神社がある(現代地図)。二枚目の写真はそこで撮ったものである。

峰原坂下 峰原坂下 峰原坂下 峰原坂下 居木神社の西を下り突き当たりを左折して進むと、坂の中腹に出るが、ここが峰原坂である。右折して坂下まで下る。

坂下は大崎警察署前の信号のある山手通りで(現代地図)、その近くから坂上側を撮ったのが一枚目の写真である。大崎三丁目1番と大崎四丁目2番との間を南へ上る。

坂下の歩道の端に立つ柱状の標識を入れて坂上側を撮ったのが二枚目の写真である。この標識は、百反坂と同じタイプの品川区教育委員会によるもので、次の説明がある。

『峰原という地名は、江戸時代の谷山村(飛地)内の字名であった。現在の大崎三・四丁目付近にあたり、坂名はこの地名からとったものである。なお、谷山村の本村は、西五反田二・三丁目の目黒川沿にあった。』

坂名の由来はもとの地名からで、百反坂よりもわかりやすい。

坂下からちょっと歩き、坂上側を撮ったのが三枚目で、まだかなり緩やかである。坂中腹の右(西)に立正大学品川キャンパスのビルが見える。

四枚目は、そのあたりから坂下側を撮ったもので、坂下の先に見えるのが山手通りである。

峰原坂中腹 峰原坂中腹 峰原坂中腹 峰原坂中腹さらに上側に歩いてから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、このあたりから勾配がつきはじめている。

そのちょっと上から坂上側を撮ったのが二枚目で、大学の門前近くである。

大学前の下側あたりから小カーブでちょっとうねっており、また、道路幅がちょっと変化している。

三枚目は、そのちょっと上側から坂下側を撮ったもので、四枚目は、さらに上から坂上側を撮ったものである。

この坂は、百反坂と同様に今回、初めて訪れたが、静かなところで車もほとんど通らない。

現代地図を見ると、ほぼまっすぐな道筋であるが、実際に歩いてみると、写真からわかるように、ちょっとうねったり、道幅が変化している。

峰原坂中腹 峰原坂中腹 峰原坂中腹 峰原坂周辺明治44年地図 さらに坂上側に歩き、振り返って撮ったのが一枚目の写真で、このあたりではほぼまっすぐに下っている。この坂は、峰原通りの一部である。

そのあたりから坂上側を撮ったのが二枚目で、さらに上側から坂下側を撮ったのが三枚目である。このあたりまではちょっとした傾斜が続き、中程度の勾配。

四枚目は、明治44年(1911)発行の地図から切り抜いたこのあたりの部分図で、立正大学の前身である日蓮宗大学(立正大学HP)が見えるが、その前(東側)の道がこの坂である。

大学の敷地の上に坂名の由来となった「字峯原」の地名が見え、その下に大きく「大字谷山」とある。

この当時、坂下は、大学の敷地の端に突き当たって、いまのようにもっと北まで延びていなかった。昭和16年(1941)の品川区地図を見ると、山手通りができており、そこまで坂下が延び、現在とほぼ同じになっている。

峰原坂上 峰原坂上 峰原坂上 峰原坂上 そのあたりから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、坂上にかなり近づいてきた。

さらに進むと、右に緩やかにカーブしているが、その先で振り返って撮ったのが二枚目で、坂上でかなり平坦となっている。

そのあたりから進行方向を撮ったのが三枚目で、その先の右に緩やかにカーブした先から進行方向を撮ったのが四枚目である。このあたりも目黒台地の目黒川に近い東端で、百反通りとほぼ同じ標高であろう。

坂中腹から坂右側(西)に大学の敷地が続き、坂左側(東)には民家がずっと並んで、好対照な風景をつくり出しているが、坂上の先は、両側とも民家が並び、静かな住宅地になっている。

品川区HPの峰原坂のデータによれば、この坂は、 延長が約250m、最大勾配が8%(4.6度)である。百反坂よりも短いが、同じ標高差であるので、勾配は百反坂の倍程度となっている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京市15区・近傍34町村⑱荏原郡品川町・大崎町全図」(人文社)
「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内⑯品川區詳細図」(人文社)
「東京人 april 2007 no.238 特集東京は坂の町」(都市出版)

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百反坂

2015年01月12日 | 坂道

今回は、大崎駅周辺から西へ上る坂を巡ってから、その南側にある戸越銀座近くの坂を上った。

百反坂下 百反坂標識 百反坂下 百反坂下 午前大崎駅下車。

南口から地上に降りて山手線を左に見ながら南へしばらく歩くと、信号のある交差点に至るが、T字路になっていて、右(西)へ二車線の道路が延びている。この道が百反坂で、交差点のあたりが坂下である(現代地図)。品川区大崎二丁目12番と西品川三丁目21番との間を西へ上る。

坂下の交差点の近くから坂上側を撮ったのが一枚目の写真で、歩道の端に柱状の標識が立っている(二枚目の写真)。品川区教育委員会によるもので、次の説明がある。

『この、現在「ひゃくたんざか」と呼ばれている坂は、古くは「ひゃくだんざか」と呼ばれていた。このあたりは、目黒川に向かって傾斜している台地の端にあたり、その傾斜が段々になっていることから名づけられたという。
 「百」とは、「数が多いこと」を意味する言葉で、「段々が多いこと」から「百段」になり、のちに「百反」に転化したものと考えられている。』

靖国通りの九段坂の由来として坂の段々の数を意味するという説があるが、標識の説明はこれと同じである。むかし(江戸期)の坂は、多くが段々坂であったのかもしれない。尾張屋板江戸切絵図の坂マークは多数の横棒からなるが、これは段々坂が一般的な坂の形態であったことを連想させる。

三枚目の写真は、交差点の反対側(南)の歩道から坂上側を撮ったもので、緩やかに右にカーブしている。四枚目は、ちょっと歩いてから坂下側を撮ったもので、坂下は、ほとんど勾配がなく、かなり緩やかである。

坂下付近には、JR線路を横断する踏切があったが、昭和43年頃に百反隧道、百反歩道橋ができたことで踏切は閉鎖された(品川区HPの品川の坂百反坂)。現在、坂下の山手線側は工事中で、歩道橋はなく、百反隧道も閉鎖されている。

百反坂中腹 百反坂中腹 百反坂中腹 百反坂中腹 坂下から上って、最初の信号の手前から坂上側を撮ったのが、一枚目の写真で、このあたりから緩やかながら傾斜がはじまっていて、また、緩やかに左へちょっとカーブしている。

二枚目は、さらに上ってから坂上側を、三枚目は、そのあたりから坂下側を撮ったものである。

四枚目は、さらに上から坂上側を撮ったもので、こんどは緩やかに右へカーブしている。

この坂は、現代地図を見てもすぐにわかるが、かなりくねくねとうねっている。坂下のちょっと上で右へ緩やかにカーブし、最初の信号のところで左へ緩やかにカーブし、その上で右に緩やかにカーブしている。

このブログで紹介してきた坂は、それ以前に訪れたことのある坂がほとんどであったが、この坂は、今回、初めて訪れた。ユニークな坂名であるが、その由来となった段々の痕跡などなく(当然であるが)、むしろくねくねと曲がっているのが特徴である。

百反坂中腹 百反坂中腹 百反坂上 百反坂上 さらに坂上側に歩くが、一枚目の写真のように、坂上に向けて緩やかな右へのカーブが続いているが、それが終わり坂上の手前でこんどは左にちょっとカーブしている。

そのちょっと上側から坂下側を撮ったのが二枚目である。緩やかな弧を描いて下っている。

さらに歩いて撮ったのが三枚目で、このあたりでほぼ平坦となっているので、坂上であろう。ここを右折する道があるが、ちょっとした勾配で下っている。

四枚目は坂上から坂下側を撮ったもので、坂上手前の小カーブが見える。

坂下から坂上まであたりを見渡しながら歩くと、坂の両側で印象がかなり違うことがわかる。坂の左側(南)はむかしながら(比較的)の街並みだが、右側(北)は高層ビルが並んで超近代的街並みであるので、好対照である。北側は歩道のわきに広場や埋め込みがあって余裕のあるつくりであるが、それでもなにか物足りず、無機質で冷たい感じであるのに対し、南側は狭くて古めかしいが、なにかほっとしたようなところがある。異な感覚かもしれないが、やはり古い方に愛着を感じてしまう。

百反坂上 百反坂上 百反坂下 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 坂上をさらに進み、その進行方向を撮ったのが一枚目の写真で、坂上の先でもきれいな弧を描いてカーブしている。

さらに歩いてから撮ったのが二枚目で、平坦な道になっているが、緩やかな小カーブが見える。

坂上から先は、両側ともに昭和の街並みであるが、ここは百反通りと呼ばれている。

この後、戸越銀座の平和坂からの帰りに、貴船神社前を通ってこの坂の中腹に出て坂を下ったが、三枚目は、その途中で撮ったものである。

四枚目は、御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図(西端南端付近)である。上(北)から江戸湾に流れ込んでいるのが目黒川である。川のすぐ左(西)にテキスト挿入した「大崎駅」付近の西側にはなにもなく、その下側に、上から矢口道、戸越道、大井道、と示されているだけである。この坂がこれらの道とどう関係するのか、品川区HPの江戸時代の道などで調べたが、不明である。

明治44年(1911)発行の地図を見ると、大崎町と品川町との境界にこの坂がある。坂下は山手線を横断し、東へ目黒川の近くまで延び、坂上は、西へ桐ヶ谷の方へと延びている。坂下の先を除き現在とほぼ同じである。

この坂は、坂下から坂上の先までみごとにくねくねと緩やかなカーブを繰り返しているが、都心の坂としては珍しい。似たような坂として、代官山駅近くの目切坂が思い浮かぶが、この目切坂は狭い一車線の坂道であるのに対し、この坂はちゃんとした二車線である。農道の名残であろうが、拡幅された後もそのむかしの道筋を残しているようで興味深い。

品川区HPの百反坂のデータによれば、この坂は、 延長が約400m  最大勾配が約4.3%(2.5度)である。そんなに勾配はないが、けっこう長く、歩きがいがある。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大江戸地図帳」(人文社)
「東京市15区・近傍34町村⑱荏原郡品川町・大崎町全図」(人文社)

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阿佐谷神明宮2015(元旦)

2015年01月01日 | 写真

阿佐谷神明宮2015(元旦) 阿佐谷神明宮2015(元旦) 阿佐谷神明宮2015(元旦) 阿佐谷神明宮2015(元旦) 阿佐谷神明宮2015(元旦)

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