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東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

押上(小梅とスカイツリー)

2010年02月28日 | 散策

長命寺から押上方面に向かう。

水戸街道で信号待ちのとき、空を見上げたら、建設中のスカイツリーが見えたので、これを目指して歩く。もうかなりの高さである(ネット中継によると2月20日で303m)。

途中、民家に小梅と書いた小さなプレートを見つけたので、携帯地図をみると近くに小梅小学校や小梅通りがある。小梅という消えた地名が永井荷風の小説「すみだ川」にでてきたことに気づく。

「すみだ川」は、荷風30歳のときの作品で、若き長吉とお糸をめぐる物語であるが、長吉の伯父が小梅瓦町に住む俳諧師の蘿月(らげつ)であり、若いとき放蕩三昧だった蘿月が陰の主人公である。母親は長吉にゆくゆくは大学に進んでひとかどの人物になってほしいと期待するが、長吉は母親の思いとは反対に学校をやめようとし母親の嫌う蘿月の世界に憧れを持つ。それは期待された進学をせず噺家の通い弟子となった荷風自身の若き頃の姿でもあった。荷風は明らかに自らを長吉に投影させている。その期待は未来を、その憧れは過去を象徴する。過去に執着する荷風の性行がよくあらわれている。

「小梅の住居から押上の掘割を柳島の方へと連れだって話ながら歩いた。堀割は丁度真昼の引汐で真黒な汚い泥土の底を見せてゐる上に、四月の暖い日光に照付けられて溝泥の臭気を盛に発散して居る。何処からともなく煤烟の煤が飛んで来て、何処という事なしに製造場の機械の音が聞える。道端の人家は道よりも一段低い地面に建てられてあるので、春の日の光を外(よそ)に女房供がせつせと内職して居る薄暗い家内のさまが、通りながらにすっかりと見通される。さう云ふ小家の曲り角の汚れた板目には売薬と易占の広告に交つて至る処女工募集の貼紙が目についた。」「すみだ川」の一場面であるが、堀割などもうないから過去の風景である。ここでも荷風の見た光景はもう過去のものとなった。

押上駅に近づくにつれ、見物の人やカメラを向けている人が目立つようになる。完成前であるのにすでに関心を集めている。東京スカイツリーは、高さ634mで自立式電波塔としては世界一の高さとなるとのこと(Wikipedia)。東京タワーよりも300m高く、約2倍であるから、東京タワー2基分の高さである。東京の眺望でもっとも目立ち未来の象徴ともいうべき施設となるのであろう。

今回見てまわった地蔵坂、子育地蔵、白髭神社、百花園、長命寺はすべてわたしの関心事である坂・荷風から選んだものであるが、鳩の街通りも含めて一地域にこんなに集中しているのもめずらしい。そういえば、長命寺のとなりの弘福寺はもと鴎外の墓所であり、荷風は鴎外の命日によく墓参し、また、白髭神社近くの法泉寺も「断腸亭日乗」にでてくる(
白髭神社と荷風の記事参照)。

荷風の関係だけで、百花園に遊んだ大沼沈山・鷲津毅堂、向島須崎に住んだ成島柳北などがあらわれてくるように、この辺は江戸・明治の時代に文人達に愛された場所なのであろう。あらためてそう感じる。

子育地蔵、白髭神社、百花園、長命寺などは過去の名残りでもって人々を懐古の情にひたらせる。他方、この近くにできるスカイツリーなる施設は超近代性、未来性でもって人々を引きつけるであろう。いわば、過去への視点と未来への視点とが混在する空間となる。しかし、荷風の時代の風景が失われたように、現代の風景が失われないという保証はない。未来に従属させるべく切り捨てられた過去があまりにも多いからである。過去を棄てることは未来を棄てることでもある。過去を見つめ、過去から現在、未来を見るという視点がいまこそ必要なのではないか。

現在は、それらが周辺とともにどうかこれ以上変わらないようにと願うしかないようである。いつかどこからかスカイツリーを遠望したとき、子育地蔵や柳北像のレリーフなどが確かにその近くに存在するという実感が現実であることを願うばかりである。

参考文献
「荷風全集 第六巻」(岩波書店)

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長命寺・成島柳北

2010年02月28日 | 散策

鳩の街通りから長命寺に向かう。

鳩の街通りから水戸街道にでて右折し、また右折し戻るようにして進み、言問小学校の脇を通り過ぎ墨堤通りにでて交差点を渡ると、そこは高速の下近くで、小公園のようになっている。ピンク色の河津桜が1本咲いているのが目立った。道なりに進んですぐ左折すると、長命寺の裏門がある。

中に入ると、左側に成島柳北の碑がたっており、碑の下側が丸くくり貫かれ、その中に胸像のレリーフがある。面長な顔が精緻につくられているが、鼻の天辺が欠けている。顔の中でもっとも出っ張っている部分なので風化しやすいのであろうか。震災や戦災によるものかもしれない。脇の説明板には明治18年(1885)建立とあるので、建てられてから120年以上経っている。

成島柳北は、天保八年(1837)2月浅草御厩河岸の賜邸に成島稼堂の三男として生まれる。甲子太郎、22才のとき惟弘と改める。字は保民・確堂。祖父司直は将軍侍講。18才で将軍侍講見習、20才で将軍侍講となる。27才のとき侍講職を解かれ、閉門。30才で歩兵頭並に登用。騎兵頭並に転ずる。32才で外国奉行、会計副総裁。この年(1868)4月江戸開城の前日に家督を養子に譲り、向島須崎村に隠棲。その後、38才で「朝野新聞」局長となり、次の年、讒謗律・新聞紙条例を批判したかどで5日間の自宅禁錮。政府批判を続け、投獄もされている。明治17年(1884)11月48才で向島須崎の自宅で没した。

柳北は、将軍侍講から武官となり、風流文人でもあり、明治維新後に新聞の世界に入ってジャーナリストとしても活躍したことから、その生涯は一身にして二生を経たとされる。

永井荷風は成島柳北の外孫にあたる人から柳北の日記の原本を借りて筆写したが、その主な経緯は以下のとおり。

「断腸亭日乗」大正15年7月14日「晴れて暑し。午後曾て高木氏より聞きたる大島氏来り訪はる。二十五六に見ゆ。成嶋柳北の孫なり。神戸市成嶋氏の家には柳北が安政頃より易簀の時まで書つづけし日誌在りと云ふ。晩間鷲津貞二郎来訪。」

同10月20日「午前大嶋隆一氏其祖父柳北成嶋先生手沢の日誌書簡を古き革包に収め、来り訪はる。日誌は嘉永六年に始り明治十七年に終る。大嶋氏去りし後、直に日誌を読みて覚えず日暮に至る。銀座に行きて夕餉を食し帰宅後また日誌を繙き深更に及ぶ。霜露漸く寒く月明昼のごとし。」

同10月21日「小春の好き日なり。・・・。午後柳北の日誌をよむ。安政元年より万延に至る七巻は硯北日録と題せられたり。・・・」

同10月30日「・・・。夜半帰宅の後柳北が墨上日乗を読み畢りぬ。東の窗既に明く、鶏鳴きて電車の響聞え出しぬ。」

同10月31日「病稍好し。終日柳北の硯北日録を筆写す。・・・」

昭和2年1月7日「・・・、燈下硯北日録の注釈をつくりて深更に及ぶ、雨歇みて夜少し暖なり、」

同6月6日「晴又陰、成嶋柳北の日誌を写し畢る、」

荷風は、南葵文庫(
飯倉附近の記事参照)司書の高木文氏の仲介で大島氏と会い、柳北の日記を借りてから毎日のように読み耽っている。私淑する柳北の日記に接した荷風の心情がうかがわれる。筆写は大正15年10月31日から昭和2年6月6日までで、7ヶ月程かかっているが、単なる筆写ではなく注記しながらだった。

「下谷叢話」(岩波文庫・荷風全集第15巻)には硯北日録のことが書かれている(第六や第二十九)。「下谷叢話」は初版が大正15年3月20日刊行(春陽堂)であり、その後上述のようにして知った硯北日録については昭和13年11月28日刊行の「改訂 下谷叢話」(冨山房)に反映されている(荷風全集第15巻の校異表)。

上記の写本は昭和20年3月9日夜の東京大空襲による偏奇館の焼亡とともに失われてしまった。荷風は自らの日記(断腸亭日乗)を持ち出すのが精一杯だったらしい。

柳北の日記の原本は、大島隆一氏の伯母飯田のぶ(柳北の娘)方に鞄ごとあずけられたが、牛込の飯田家は昭和20年5月24日の空襲で罹災し、失われた。荷風による写本も失われているので、柳北の日記はもはやこの世に存在しないと思われていた。ところが、昭和49年1月の日本橋三越での古書即売会に柳北の日記七冊が出品され、前田愛がこれを手に入れた。空襲で焼けたはずの柳北の日誌が一部残っていた理由は、前田の著書にあるが、推理小説を読むが如しである。

goo明治地図をみると、長命寺の辺りは向島須嵜(崎)町である。柳北の旧住居は、今回訪れることができなかったが、近くの言問小学校付近である。柳北の墓所はここではなく雑司ヶ谷霊園にあり、荷風の墓所に近い所である。

成島柳北についてはサイト
「成島柳北」が詳しく、硯北日録の一部をサイト管理者による口語訳つきで読むことができる。

参考文献
前田愛「成島柳北」(朝日選書)
永井荷風「下谷叢話」(岩波文庫)
「荷風全集 第十五巻」(岩波書店/1993年)

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向島百花園~鳩の街通り

2010年02月24日 | 散策

白髭神社から百花園に向かう。歩いて5分程度である。

梅の季節ということでたくさんの人が訪れていた。園内の各所に句碑が立っている。白梅の中に紅梅が目立ち、ここが写真を撮る人に人気である。一周したが、意外とこぢんまりとしている。時間があり人気が少なければゆっくりしたい所である。甘酒で一服し休憩。

百花園は、入口のパンフレットによれば、文化・文政期(1804~1830)、仙台出身の骨董商佐原鞠塢が交遊のあった江戸の文人墨客の協力を得て、花の咲く草花鑑賞を中心とした花園として開園した。昭和20年3月の東京大空襲で焼失したが、昭和24年に復興。

「万延元年庚申の歳沈山は四十三、毅堂は三十六になった。
 正月八日書家中沢雪城が沈山毅堂磐渓九皐の四友を招ぎ、妓を携え舟行して向島の百花園に梅花を賞した後、今戸の有明楼に登って歓を尽した。」

永井荷風「下谷叢話」(
白髭神社と荷風の記事参照)第二十九の冒頭である。

大沼沈山や鷲津毅堂らは百花園に遊んだはずと思って、同書をはじめからめくったらようやく見つかった。見落としがなければ、ここまで、百花園に行ったとの記述はないはずである。この日、沈山や毅堂らは招かれて百花園の梅を楽しんだようである。

同じく第三十三にも、八月中秋、沈山は長谷川昆渓、関雪江らと和泉橋から船を買って百花園の秋花を賞したとある。和泉橋は神田川にかかる橋で、ここからいまでいう遊覧船(屋形船)がでたのであろう。

百花園からでて次の通りを右折し、適当に左折して進むと、さきほど通った地蔵坂通りにでる。

第一寺島小学校の脇で右折し、そのまま進むと、突然鳩の街通りにでた。ここは予定していなかったので、意外感があってよかった。街歩きの楽しみの一つである。最初から最後まで予定通りではつまらない。

まっすぐに延びた狭い道を水戸街道方面に向けて歩くが、むかしながらの店が多く時間が引き戻された感じになる。しかし、営業してなさそうなところもあって少々寂しい。荷風戦後の「一幕物心中鳩の街」(『葛飾土産』収録にあたって『春情鳩の街』に改題)の舞台はここである。

引用文献
永井荷風「下谷叢話」(岩波文庫)
川本三郎「荷風と東京『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)
「荷風随筆集 (上)」(岩波文庫)
「荷風全集 第十九巻」(岩波書店)

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白髭神社と荷風

2010年02月23日 | 荷風

子育地蔵堂から北側に進むとまもなく白髭神社である。地蔵堂と神社との間の道が江戸時代からの旧墨堤の名残りらしい。この道は墨堤通りから一段低くなった位置にあるが、その段差部分が旧墨堤の跡なのであろうか。

白髭神社に入ると左側に鷲津毅堂之碑が建っており、その傍らに説明板がある。長年の風化作用によるものであろうか、碑文の左端が部分的に欠けている。鷲津毅堂は、文政8年(1825)尾張生まれ、幕末から明治にかけての漢学者・儒者で、明治政府に仕えたが、なによりも永井荷風の外祖父である(
前の記事参照)。毅堂については荷風の「下谷叢話」に詳しい。

下谷叢話で荷風は、鷲津氏の家は尾張国丹羽郡丹羽村の郷士であったとし、上記の碑文をも引用して鷲津家の系図などから、博学多才で門生多く一時に名をなしたとされる鷲津幽林からはじめている。幽林は、名を幸八、諱(いみな)を応と称した。

幽林には、四男一女があって、長男名は典、字は伯経、通称は次右衛門、竹渓と号した。長男典は家を継がず江戸に出て、幕府御広敷添番衆大沼又吉の養子となった。竹渓は化政の頃江戸の詩壇に名を知られた詩人であり、その子が捨吉、江戸最後の漢詩人といわれる大沼沈山である。

幽林の三男名は混、字は子泉、松隠と号し、丹羽村の鷲津家を継いだ。松隠が隠居した後、松隠の嫡子徳太郎が家学をついだ。徳太郎、名は弘、字は徳夫、益斎と号し、その家塾を有隣舎と名づけた。益斎には妻磯谷氏貞との間に三人の子があり、伯は通称郁太郎後に貞助また九蔵、名は監、字は文郁、号を毅堂といった。

上述のように、竹渓・沈山父子は鷲津氏の族人であり、沈山と毅堂は幽林の孫と曾孫にあたる。竹渓は晩年下谷御徒町に住み、沈山は仲御徒町に詩社を開き、鷲津毅堂も下谷竹町に住んだ。荷風は、これが、下谷叢話とした所以であるとしている。下谷叢話では竹渓、沈山、毅堂を軸として話が進む。

「断腸亭日乗」昭和11年11月9日「小春の天気限り無く好し。晏起。執筆二三葉。日は忽午なり。写真機を携え玉の井に赴けば三時に近し。・・・。歩むこと一二町、曹洞宗法泉寺の門前に至る。寺の生垣見事なり。老僧墓地の落葉を掃き居たり。又歩むこと一町ばかり、白髯明神の祠後に出づ。鳥居をくぐり外祖父毅堂先生の碑を見る。大正二三年の頃写真機を弄びし時この碑および白髯の木橋を撮影せし事ありき。其図今猶家に蔵せり。地蔵阪に至り京成バスの来るを待つ間新に建てられし地蔵尊の碑を見る。・・・」

荷風は下谷叢話(当初は、下谷のはなし)を大正12年11月3日に起草しており、それからかなり経ってからの白髭神社への訪問であるが、このとき地蔵坂の地蔵も見たようである。新に建てられし地蔵尊の碑とはどれであろうか。上部に「子育地蔵尊御由来」と記した碑であろうか。

川本三郎によれば、荷風は昭和11年4月21日から玉の井通いを始め、名作「墨東綺譚」を10月25日に脱稿したので、上記の白髭神社への訪問は、その後のことになる。

参考文献
永井荷風「下谷叢話」(岩波文庫)
川本三郎「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)

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東向島の地蔵坂

2010年02月22日 | 坂道

午後東武伊勢崎線曳舟駅下車

東武線に沿って北側に進み、最初の十字路を左折して直進し、水戸街道を横断すると、地蔵坂通りである。地蔵坂通りは水戸街道と墨堤通りとの間の商店街である。この日は人気が少なくひっそりとした感じであった。途中、寺島図書館や第一寺島小学校など寺島のついた名称があり、滝田ゆうの「寺島町奇譚」を思い出してしまう。寺島町の由来は、竹内誠編「東京の地名由来辞典」によれば、次のとおりである。

「古代、隅田川の流路は幾筋にも分かれ、岩盤の堅い高台は島となっていた。現在東向島と呼ばれている一帯もそうした島のひとつであり、そこには草分け的寺院、法泉寺と蓮花寺の二ヵ寺が建立されていた。このため、寺島と呼びならわされてきた。」 昭和7年(1932)、寺島町・吾嬬町・隅田町が合併して新区を編成する際に本所・向島とは別の寺島区案があったとのこと。

水戸街道から入ってしばらくまっすぐな道が続くが、次第にゆるやかにうねってくる。わずかであるが上りとなり坂上に至る。ここが地蔵坂で、坂上右側にある子育地蔵堂から坂名がついた。坂上で墨堤通りにつながる。子育地蔵堂は、きれいに手入れされており、幟などの様子からいまも信仰されていることがわかる。道路側には庚申塔などもある。子育地蔵堂近くの説明板を読んでいたら、若いお母さんふうの人がきてお参りをしていた。

上記の説明板によれば、子育地蔵は文化年間(1804~1817)に隅田川の堤防改修の際に土中から発見されたと伝えられており、子育地蔵にまつわる伝説があるらしく、また、地蔵坂は明治44年(1911)の堤防修築の時にできたものである。坂名があるものでは墨田区唯一の坂である。

堤防修築のために坂ができたというのはいかにも隅田川の近くの土地らしい故事であるが、その背景には流域の人々に多大の苦しみをもたらした隅田川の氾濫があったのである。すなわち、明治43年8月に豪雨のため堤防が決壊し大水害が起きたことから、現在荒川となっている荒川放水路が計画されたのであるが(前の記事の
岩淵水門参照)、上述の地蔵坂ができたとされる明治44年の堤防修築は前年の氾濫の修復のためであったと思われる。

永井荷風は「寺じまの記」(昭和11年4月22日)で、「次に停車した地蔵阪というのは、むかし百花園や入金へ行く人たちが堤を東側へと降りかける処で、路端に石地蔵が二ツ三ツ立っていたように覚えているが、今見れば、奉納の小さな幟が紅白幾流れともなく立っている。淫祠の興隆は時勢の力もこれを阻止することが出来ないと見える。」と書いている。淫祠への関心は日和下駄のときから変わっていないようである(
日和下駄(第二 淫祠)の記事参照)。

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)

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消えた地名・その記憶

2010年02月21日 | 荷風

断腸亭日乗など永井荷風に関する本を読んでいて地名がでてくると、よく地図をみるが、地名変更で消えている場合も多い。古い地図でみればよいが、現在との対比が大変である。現代の地図でもよくみると、その地名は消滅しても、別の形で残っていることも多い。すなわち、消えた地名が記憶されている。

明治12年(1879)12月3日生まれの荷風の生誕地は、小石川金富町45番地で、現在の文京区春日二丁目20番地であり、その地名は消えているが、現代の地図をみると、金富小学校がある。今井坂を下って水道端の通りにでた左側である。また、「金富町」が建物名についた集合住宅もあるようである。ところで、荷風は明治19年春、小石川小日向服部坂の私立黒田小学校初等科に入学しているが、当時は金富小学校はまだなかったのであろう。黒田小学校が現在の区立第五中学校である。

荷風は、5歳のとき弟の貞二郎が生まれたことから、下谷竹町4番地の鷲津家にあずけられた。鷲津家は荷風の母、恆の実家であり、恆の父、毅堂はすでに没していたが、母、美代が健在で、この外祖母に養育が託された。この下谷竹町の地名も消えているが、現在、大江戸線新御徒町駅の南側で佐竹商店街の西側に、竹町公園があり、そのとなりに竹町幼稚園がある。ここから下谷竹町4番地は少し離れた位置のようである。

荷風「断腸亭日乗」大正13年4月20日「午後白山蓮久寺に赴き、唖唖子の墓を展せむとするに墓標なし。先徳如苞翁の墓も未建てられず。先妣の墓ありたれば香花を手向け、門前の阪道を歩みて、原町本念寺に赴き南畝先生の墓を掃ひ、其父自得翁の墓誌を写し、御薬園阪を下り極楽水に出で、金冨町旧宅の門前を過ぐ。・・・」

蓮久寺は東洋大学の近くで白山五丁目に、本念寺は白山四丁目にあるが、原町という地名は消えている。ところが、現代の地図をみると、小石川植物園の近くに「原町寮」という施設があり、その地名が残っている。会社か官庁かどこかの寮と思われるが、かなり前からあるのであろう。

荷風は、本念寺から御薬園阪を下っているが、この坂は、別名鍋割坂、小石川植物園内に位置し、いまの植物園入口から上る坂道のそば辺りで、植物園東側の御殿坂と並行な坂である。この坂を下って極楽水に出たとあるが、ここは、現代の地図には示されていないが、播磨坂と吹上坂との間にある大きなマンションの脇の小公園内に極楽の井の跡として残っている。

偏奇館の近くにあった山形ホテルは、断腸亭日乗によく登場し、荷風が食事や接客のときによく利用していた。大正6年にロンドン帰りの山形厳によって建てられた小さなホテルだった。その子息が俳優の山形勲(大正4年生まれ)で、小学生のころホテルの食堂に来た荷風を憶えていると語ったらしい。

位置的には、現在の地形からまったく想像できないが、偏奇館から谷ひとつへだてた向かいの崖の上である。現在の泉ガーデンの通りと、霊南坂からの通りが右に曲がって続くサウジアラビア大使館のある通りとの角に「山形ホテル跡」の説明板がたっている。荷風のことも当然に記されているが、この説明板がある建物名が「麻布市兵衛町ホームズ」である。これを知ったときは、本当にうれしかった。よくぞ残してくれましたと感謝したい。

前の記事の飯倉も地名から消えているが、飯倉片町、飯倉の交差点名として、また、外務省飯倉公館や飯倉ヒルズという建物名として残っている。

荷風関連でちょっと調べただけで多くの例があるように、同じように消えた地名の記憶が残る各種名称はたくさんあるに違いない。

参考文献
東京23区市街図2005年版(東京地図出版)
秋庭太郎「新考 永井荷風」(春陽堂書店)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
川本三郎「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版)

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太宰治と三鷹(続き)

2010年02月17日 | 散策

太宰治展でなにをみたかほとんど覚えていない。
ただ一つ記憶に残っているのは、川端康成にだした手紙である。巻物状の和紙に毛筆で書いたもので、長く延ばされて展示されていた。はじめて読んだと思う。しかも現物で。

もう一度読みたいと思って探したら、東郷克美「太宰治の手紙」(大修館書店)にあった。これで読んでみたが、なにか感じが違う。そういえば段落がもっと細切れであったはずである。太宰の字が大きく巻物の縦は短いから当然のことであるが、読む調子が大部違ってくる。

この手紙は、昭和11年(1936)6月29日に船橋の太宰から鎌倉の川端へ宛てたもので、川端没後の昭和53年6月の「没後三十年太宰治展」(日本近代文学館)ではじめて公開された。川端はこれを大事に保管していたのであろう。前半部分を以下に引用する。(段落はわたしが適当に改行した。)

謹啓
厳粛の御手翰に接し、
わが一片の誠実、
いま余分に報いられた
心地にて
鬼千匹の世の中には
仏千体もおはすのだと
生きて在ることの尊さ
今宵しみじみ教えられました
「晩年」一冊、
第二回の芥川賞くるしからず
生まれてはじめての賞金
わが半年分の旅費
あはてずあせらず
充分の精進
静養もはじめて可能
労作
生涯いちど
報いられてよしと
客観数学的なる正確さ
一点うたがひ申しませぬ
何卒
私に与えて下さい
一点の駈引ございませぬ
深き敬意と秘めに秘めたる血族感とが
右の懇願の言葉を発せしむる様でございます
困難の一年で
ございました
死なずに生きとほして来たことだけでも
ほめて下さい

東郷によれば、太宰と川端康成との間には、これ以前に芥川賞を巡って因縁めいたことがあって、芥川賞委員の川端が第一回の「芥川龍之介賞経緯」の中で太宰を「さて、瀧井氏の本予選に通った五作のうち、例えば佐藤春夫氏は、「逆行」よりも「道化の華」によって、作者太宰氏を代表したき意見であった。この二作は一見別人の作の如く、そこに才華も見られ、なるほど「道化の華」の方が作者の生活や文学観を一杯に盛ってゐるが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあつた。」と評したのに対し、太宰は文藝通信(昭10・10)で「おたがひに下手な嘘はつかないことにしよう。私はあなたの文章を本屋の店頭で読み、たいへん不愉快であった。(中略)事実、私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。・・・刺す。そうも思った。大悪党だと思った」と反駁したという。

太宰は、昭和11年6月25日刊行の創作集「晩年」を川端に寄贈し、それの川端からの礼状に対する、折り返し状が上記の手紙であるが、上述のようなやり取りから1年もたっていない。東郷は、芥川賞の賞金の方が目当てだったとする。

太宰は、当時、パビナール(麻痺剤)中毒に苦しんでいて、このことも書いた「東京八景」には「気が附くと、私は陰惨な中毒患者になっていた。たちまち、金につまった。」とある。編集者などにも無心をしたというから、相当に困っていたのであろう。太宰は、こういったときの手紙も上手である。上述のような反駁の文章よりも相手に何かを頼むときの媚るような文の方がもっとうまいと思う。媚びてはいるがそれでいて相手の心も打つのである。

太宰治展をみてから、玉川上水の通りに戻り、その付近を散策した。駅近で、通りから入ったところに、『太宰治ゆかりの地 小料理屋「千草」跡』と刻まれた金属プレートがビルの植え込みの前にたっている。『この場所は、作家・太宰治が昭和22年7月より2階を仕事部屋として使っていた小料理屋「千草」の跡地です。』という説明もある。

ここから通りに出て右折し、少し歩いたところの歩道の植栽スペースに大きな石が置いてあり、となりの説明板に「玉鹿石(ぎょっかせき)」「青森県北津軽郡金木町産 1996年(平成8年)6月」とある。産地と6月からわかるように太宰に関係するものらしい。

この辺りが太宰と山崎富栄の入水の推定場所なのであろう。

太宰は、仕事場として、最終的に千草の2階とこの近くの山崎富栄の下宿先(野川家)の部屋とを使っており、玉鹿石のある入水の推定場所まではすぐである。歩いて2,3分程度ではないだろうか。わたしは、以前、心中のときの地理関係をよくわかっていない頃、太宰は夜半山崎と二人武蔵野をさまよい歩いたあげく行きついた「玉川上水」に身を投げたと思い込んでいたが、そうではなかった。あまりにも近いことを知って驚いた。わたしのイメージでは夜武蔵野の雑木林の小道をさまよう方が太宰の最後にふさわしかったのだが。

ぶらりと外出するように仕事場から出てすぐさま入水したのであろうか。昭和23年(1948)6月13日午後11時から14日午前4時までの間のことらしい。19日に遺体が発見されて、その日が命日となっており、太宰の誕生日でもあった。

太宰治展の後に印象に残ったことがあった。展示場からエレベータで下りたとき、一緒に下りて前を歩く二人連れの若い女性が「一人で死ねばよいのにね」と言うのを小耳にはさんだのである。このことを、玉鹿石の辺りをうろうろしながら、しきりに反芻した。「一人で」とは山崎富栄のことであろうか。そういう見方もあるのか。彼女らも相当の太宰ファンなのであろうか。そんなむかしのことをいっても、という思いにもかかわらず、なにか引っかかるものが残った。

太宰心中事件の後、山崎富栄による絞殺説や無理心中説などがあり、山崎に対する世間の風当たりは強かったらしい。山崎に対するファンの感情も推して知るべしである。嫉妬も混じったかなり激しいものだったのだろう。しかし、もし、それと同じ感情を現代の彼女らが持ったとしたら、それは当時と同じものではなく、太宰の作品に純粋に由来するものと考えるべきで、むしろ、驚くべきことは、60年後にもまだ若き人をそういう気持ちにさせる太宰の存在・普遍性であろう。まるで太宰が黄泉の国からよみがえったようではないか。その辺をぶらりと歩いていそうではないか。ささいな出来事から妄想がふくらんでしまった。

なお、太宰はちゃんと遺書を残しており、絞殺説や無理心中説は無理筋な見方というべきであろう。むしろ、そういった説がでた背景の方に問題がありそうである。

次に、三鷹駅の西側にある、中央線をまたぐ跨線橋に行ってみた。ここは太宰が住んでいた頃と変わっておらず、現存する唯一といっていいほどの当時の痕跡らしい。昭和4年(1929)竣工。近くに地下道ができたため、現在はあまり利用されていないとのこと。

太宰はここを訪れたらしく、ここで撮った写真がよく太宰関係の本に載っている。跨線橋に上がると、特に西側の眺望がよく、遠くに山並もみえる。太宰はこの上で津軽の方角を眺めていたという。

眺望がよく当時の雰囲気を残す跨線橋は三鷹の太宰散策のしめにふさわしいところであった。

 参考文献
太宰治「走れメロス」(新潮文庫)
太宰治「ヴィヨンの妻」(新潮文庫)
津島美知子「回想の太宰治」(講談社文芸文庫)
永井龍男「回想の芥川・直木賞」(文春文庫)
松本侑子「恋の蛍 山崎富栄と太宰治」(光文社)
東京人「三鷹に生きた太宰治」12月増刊2008no.262(都市出版)

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太宰治と三鷹

2010年02月16日 | 散策

玉川上水に沿って三鷹まで散策したときの思い出をそのときの写真を見ながら。

2008年12月に三鷹駅前のコラルで太宰治展が開催されていたときです。

井の頭線富士見ヶ丘駅下車。

南側に進み、中央高速手前を右折していくと、玉川上水が暗渠になる場所に至る。ここから玉川上水に沿って上流に向けて歩く。

以前にも通ったことがあるが、紅葉のためかなり印象が違う。柿の木などがあったりして田園の風景である。

やがて新橋に至る。この付近が太宰の遺体が発見されたところである。

井の頭公園の紅葉を見てから少し歩くと万助橋である。ここから三鷹駅前までまっすぐに道路が延びている。

その脇に玉川上水に沿って歩道があるが、上水の樹々が調和してよい散歩道となっている。

駅前から太宰治展に行く。

太宰は昭和14年(1939)1月に石原美知子と結婚した後、同年9月に三鷹に転居している。

昭和23年(1948)6月に亡くなるまで疎開のための一時期を除いて三鷹に住み続けた。

わたしは太宰治を20代前半の一時期によく読んだ。熱中し、1冊読み終えるとすぐに次は、という具合にして文庫本ででているものをほとんど読んだ記憶がある。わたしにとってこんなに吸引力のある作家はこれまでにもいなかった。同じことにもっと苦悩していた人がいる。太宰こそ自分を代弁してくれる。自分のことを書いている。太宰が最後の救いである。苦しんだ先にみえる太宰の苦悩。

別にいうと、太宰により一撃されて生じたこころの中の鐘の音が大きく長く止まないのである。大きく共鳴しなかなか減衰しないのである。しまいには自分でももてあましてしまう。これが大きすぎると、吸い寄せられすぎると、一生の路をも変えてしまう。

いまも太宰の命日の桜桃忌には多くの人が墓所の禅林寺に訪れるというから、たぶん太宰について似た体験をしている人は多いのであろう。

わたしの乏しい経験でも、学生時代の同級生が自死した事件があったが、失恋のためだったとしても太宰やニーチェを読んでいたらしい。太宰の影響はなかったとはいえない。

そうならなければ、どこかで多少の苦しみがあってもよい生活を送っていたに違いないなどと思うことで、麻雀を教えてくれた同級生を懐かしむことがある。そして、それよりも、なぜ自死を選んだ友がいて、生き長らえたわたしがいるのか、なぜそんな違いが生じるのか。それは理不尽なことではないのか。そんなつまらぬことが次々とこころの中にわきおこってしまう。鐘の音はすでに減衰してか弱くなっているはずなのに、途切れぬ細いがかたい心線が残っていてなにかのきっかけにまた共鳴してなりだすからなのか。

今回、久々に太宰を読んでみた。満願、富嶽百景、駆込み訴え、走れメロス、東京八景、ヴィヨンの妻。最後のものを除いて結婚前後の安定した時期のものであるが、いずれもよい作品である。

「駆込み訴え」は、「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。」で始まるユダの独白である。ユダの一人語りにぐいぐいと引き込まれて一気に読んでしまう。これを太宰は、夫人に口述筆記させながら、淀みもなく、言い直しもなく、一気に語ったというから、まさに太宰はユダになりきったのである。太宰にユダが憑依したのである。太宰はユダの心をはっきりと思い浮かべて語り部のように語ったのであろう。読む側が引き込まれ一気に読んでしまうのは、太宰の語りに感応し聴き惚れるからである。これこそ天才のなせる技である。

「私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまずしい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言われて、だまってそれを受けていいくらいの、苦悩は、経て来た。たったそれだけ。藁(わら)一すじの自負である。」(富嶽百景)

こういったところに太宰らしさがでる。太宰の最後の矜持である。この時期、苦悩はこれで終わったかのようであるが、しかし、戦後になると、そうではなくなるようだ。「人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」。昭和22年(1947)にでた「ヴィヨンの妻」の最後のせりふだが、これがひっくり返るのである。容易に反転するのである。--人ではいけない。私たちは、生きていくことができない--はじめから決まっていたかのように。
(続く)

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青山士

2010年02月12日 | 読書

岩淵水門の記事にでてきた荒川放水路完成記念碑の碑文が印象に残っていたので青山士(あきら)に関する資料を探したら次の本とサイトがあった。

 高崎哲郎「〈評伝〉技師 青山士 その精神の軌跡」(鹿島出版会)
 
土木学会図書館青山士アーカイブス

高崎の本により青山の前半生を簡単にたどってみる。
「青山士は明治11年(1878)9月23日、静岡県豊田郡中泉村に、青山徹・ふじ夫妻の三男として生まれた。中泉村は明治29年磐田郡に編入され、昭和15年(1940)見付町と合併し、現在は磐田市中泉である。」

生家は静岡県の旧家で、祖父の宙平の代で分家したが、分家した青山家が宙平の才覚で産をなしたようである。六人兄弟で、兄二人、姉、弟二人の4番目である。「長男、次男が養子となり、名目上の跡継ぎとなる。東京帝国大学工学部卒。内村鑑三の無教会主義クリスチャン。昭和38年(1963)3月21日死亡。享年84。」

明治29年(1898)東京府立尋常中学(のちの府立一中、現日比谷高校)を卒業し、一浪の後、第一高等学校に入学し、寮の同室に浅野猶三郎がいた。浅野は、内村鑑三の跡を歩んで後年無教会主義伝道師となるが、青山の人生行路を決定づけたとある。

「明治維新以降、キリスト教、中でもプロテスタント系のそれほど青年知識層に大きな影響を与えた宗教はない。これは昭和期のマルクス主義思想の影響に匹敵すると言っても過言ではない。文明開化の高揚の中で、キリスト教の世界に接近し、そこで「神」や宣教師と教会の世界に触れることにより、西洋に直接行ってみることのできない、つまり洋行のできない多くの青年たちも、近代文明や近代市民社会がどんなものであるかを感得した。信仰よりも西洋文明が青年たちをキリスト教に近づけさせたとも言える。」

「内村鑑三は札幌農学校第二期主席卒業生で、在学中にアメリカ人宣教師メリマン・C・ハリスから洗礼を受けクリスチャンとなった。」「内村の札幌農学校入学は明治10年(1877)9月であり、翌年青山が生まれた。」内村の同期には新渡戸稲造や廣井勇(いさみ)らがいて、廣井は青山の大学時代の恩師となる。

高崎は、内村鑑三が明治27年7月にキリスト教徒第六夏期学校で講演した「後生への最大遺物」(明治30年発行)が青山を内村の門に向かわせたことは間違いない、としている。この本は岩波文庫「後生への最大遺物 デンマルク国の話」で読むことができる。

「後生への最大遺物」で内村は、人間が後世に遺すことのできる遺物は勇ましい高尚なる生涯であるとし、勇ましい高尚なる生涯とは、この世の中は悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずること、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去ることである。

どうやら、これが内村の信仰の内実のようである。神は絶対的なものとしてつねにあり、これを信じることは神が支配する理想の世の中を信じることにつながる。内村の絶対的な神を前提とする理想論こそ青山を引きつけたものではないだろうか。この本で内村は箱根用水などの土木事業についてかなり言及しており、高崎によれば、同書が土木技師青山を生み出した。

内村は明治33年(1900)10月「聖書之研究」を発刊し、青山は東京帝大土木工学科入学後、この定期購読者になると同時に毎週日曜日午前10時から新宿角筈のクヌギ林の中の内村邸での「聖書講読会」に欠かさず出席した。このグループには小山内薫、大賀一郎(ハスの研究者)、浅野猶三郎らがいた。

「聖書之研究」第25号74頁にある青山の次の「感想録」(祈文)が紹介されている。

「在さざる時なく、亦所なく、万事を知り、為し能わざることなき愛なる父の神よ、私は実に汚れに穢れたるものでありまして、此の感想録を書くに当りましても尚お飾って書かんとしたものであります。又感じたこと以上のことを書いたかも知れません。どうぞ願わくはこれ等多くの罪より私を洗い潔め給え、又どうぞ我等に汝の真理を伝うる貴き器となりし諸先生方及び諸兄姉方を祝し給いて益々裕かに彼等の上にあなたの聖霊と恩寵とを下し給わんことを、又私は爾(あなた)の真理の説明者たるのみならず、爾の御業の真の証明者たるべきことを感じ、又爾に倚る喜びを感ずるものであります。どうぞ此の感を取去ることなく如何なる悪魔の剣も之を切り去ることなき様御守りあらんことを、又此の賤しきものをも爾の器となし給いて爾の為め、我国の為め、我村の為め、我家の為めに御使い給わんことを、又私は信仰弱きものであります。故に或は悪魔の誘いの為めに、あなた、あなたの御子及び師又は兄弟を売るに至らんことを恐るるものであります。・・・」

「聖書之研究」同号にある、青山の「感想録」に対する内村の「註」も紹介されている。

「斯かる祈を捧げ得る人が工学士となりて世に出る時に天下の工事は安然(ママ)なるものとなるべく、亦其の間に収賄の弊は迹(あと)を絶たれ、蒸汽(ママ)も電気も真理と人類との用を為すに至て、単に財産を作るの用具たらざるに至らん、基督教は工学の進歩改良にも最も必要なり」

青山は絶対なる神を前にして一見弱々しく自らの罪と信仰弱きことの許しを請うているが、これが内村の好みにあったのだろうか、土木工学を目指す青山を、単に財産を作るためでなく真理と人類のために、と励ましている。さらに、工学の進歩は真理と人類のためにこそあるべきことを示唆している。こういった理想論は、キリスト教を背景にしてもしなくとも、若い者を魅了するものである。理想論を信じるにたる明治という時代背景の下でしか成り立ち得なかったものとしても。

かくして真理と人類のためという大きな理想を持つに至った青山は、パナマ運河開削工事に参加すべく、明治36年(1903)8月11日、単身で横浜港から発つ。

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大塚三業通り~音羽の今宮神社(続き)

2010年02月10日 | 散策

富士見坂の坂下で、どこに向かうかと携帯地図をみると、音羽通りに平行に細い裏道が延びているのを発見したので、そこにする。農道または川の跡のような気がしたからである。お茶の水大学の西側の辺りからうねった道が続く。マンホールがあるから川が暗渠化したものと思って調べると、音羽川である。

音羽川は、護国寺門前町でもあった音羽の谷の東側を流れる。東弦巻川、水窪川、東青柳下水ともいわれた。水久保、水久保新田(現・豊島区東池袋四丁目付近、雑司ヶ谷霊園北側)を水源として東に流れ、最終的に神田川に注ぐ(菅原健二「川の地図辞典」)。地図を見ると、吹上稲荷神社の先を右折した小路の辺りから大学の西側へと流れていたようである。音羽の谷の西側を流れたのが弦巻川で、現在の高速下側の辺りなのであろう。

大きなビルのところで途切れる。引き返し右折すると、鼠坂の坂下である。階段と手すりのある細く延びた坂でかなり長い。一気に小日向の台地に駆け上ることができる。坂上を右に進み、すぐ右折すると、階段が続き、先ほどの鼠坂の中腹にでる。

戻って坂上を進むと、八幡坂の坂上にでる。ここに、「石川啄木初の上京下宿跡」の説明板がたっている。明治35年(1902)11月単身上京し、中学の先輩の旧小日向台町の下宿を訪ね、翌日、近くの大館光方に下宿先を移した。文学に燃焼した日々を過ごしたが、生活難と病苦のため翌年2月に帰郷したとの説明がある。

八幡坂を下り、そのまま直進すると、鷺坂の坂上にでる。直角に曲がりながら下っている。石垣のある風情のある坂で、人通りも少なくよい坂である。すぐ先には大きな交差点があり、かなり交通量が多く賑やかであるにもかかわらず、鷺坂の辺りは、しっかりと昔ながらの雰囲気を保っている。坂名は万葉集の歌から堀口大学や佐藤春夫らが命名したらしく、元は、目白坂から延びた無名坂だったとのこと(山野坂ガイド本)。

坂下で右に延びている道があるので進むと、今宮神社に至る。境内に入ると先日の雪が未だ残っている。以前、訪れたとき見逃したところである。たぶん鷺坂の坂下左側にあると思い込んだためらしい。荷風の断腸亭日乗にもでてきたような記憶があるが、どこか見つからない。

今宮神社の先はさっきの八幡坂の坂下である。明治時代のはじめまで現在の今宮神社の地に田中八幡宮があったのが坂名の由来らしい。この今宮神社の通りが先ほどの音羽川の続きのようである。

時間があるので、神田川に沿って上流に向けて歩く。この方向に歩くのは始めてのような気がする。気持ちのよい散歩道である。途中、胸突坂を上下し、脇にある水神社を見る。別名が水神坂とのこと。急なため胸を突くようにして上らなければならないことから命名され、他にも同名の坂がある。

さらに歩くと、面影橋の先の電気会社の入口に、山吹の里の石碑と説明板がたっている。この辺は「山吹の里」と呼ばれ、太田道灌の伝説がある所。近くに新宿区山吹町の地名が残っている。新宿の西向天神の境内に山吹坂というのがあるが、これらは各地に残っている「山吹の里」伝説の一つなのであろう。次の曙橋から高田馬場駅へ。

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大塚三業通り~音羽の今宮神社

2010年02月08日 | 散策

午後大塚駅下車。
南口から天祖神社へ行こうと、都電荒川線を右に見て坂道を上るが、なかなか風情がある。天祖神社から駅前南口に戻り、大塚三業通りの入口へ。

詩人の田村隆一は大正12年(1923)3月に大塚で生まれている。「当時の大塚はまだ東京の市外で、北豊島郡巣鴨村字平松というのが正式な地名。祖父重太郎(明治元年~昭和23年)は、大正9年9月1日、大塚の雑木林をきりひらいて、鳥料理専門の割享『鈴む良』を創業、大塚三業組合(料理屋、待合、芸者屋の三業者による組合)の創業者のひとり。したがって、ぼくの生れた環境は推して知るべし。」(現代詩文庫、田村隆一詩集、思潮社)

大塚三業通りを進むが、かなりうねっている。天祖神社にあった昭和初期の地図を見たときに気がついたが、ここは川だったようである。谷端川(やばたがわ)である。上流部の豊島区内では、谷端川、文京区内では千川、小石川、礫川と呼ばれ、長崎村の粟島神社(現・豊島区要町二丁目14番)の弁天池が水源とされ、千川上水の分水を合わせて南流した。現在、上流部の谷端川は暗渠化され下水道となり、西池袋四・五丁目では谷端川緑道となった(菅原健二「川の地図辞典」)。帰宅後調べたのだが、驚いたことに小石川の上流であった。地名ともなっており、永井荷風の生誕地である。

途中、左折し進むと、あさみ坂の上りとなる。かなりの急坂である。直進し、突き当たりを右折し、次を右折すると、ゆるやかに曲がった下りである。しばらくすると、東福寺がある。真言宗豊山派に属し、観光山と号す。小石川大塚にあったが、元禄4年(1691)に当地に移ってきたとの説明がある。坂上から東福寺までの道は狭いがよい通りである。門前に至るので昔からあった道なのであろう。いまの景色から往時を想像するのが楽しい。

次を左折し、坂を上るが、誤ったらしい。次の十字路を左折すると、さいとう坂であるが、静かな住宅地である。ここまでの坂はすべて谷端川から上る坂である。大塚三業通りに戻り、途中から西側に向かうが、大きな通りが三本あり、方向がわからなくなる。大きな通りは年代的には後からできたものであり、昔からの道を分断するからなのか、こういったことがよくある。

春日通りを新大塚駅方向に向かうが、途中で小路に逃げ込むように入って、ようやく昔からの道と思われる坂下通りにでる。この辺りは旧大塚坂下町とのことで、由来は護国寺へ下る富士見坂の坂下の北側にある町であるからとの説明が案内板にある。途中で右折すると、開運坂の上りである。まっすぐに延びた坂である。途中にある案内板によると、坂名の由来は不明とのこと。

坂上から大塚先儒墓所を目指す。江戸時代の儒学者の木下順庵や室鳩巣などの墓があるらしい。種村季弘「江戸東京《奇想》徘徊記」によれば、儒者棄場と呼ばれており、葬儀のとき死体を置き去りにしていったからとのこと。儒葬は手厚く葬る一方、道教系の荘子は自分が死んだら野原に放り出せと弟子たちに命じたらしく、儒葬ではなく道葬ではないかというのが種村の結論のようだ。

細い道の途中に「大塚先儒墓所」と刻んだ石柱がたっている。内に入ると、鉄扉に鍵がかかって入れない。説明板によると、近くの吹上神社で鍵の貸し出しをやっているとのこと。神社に行ってみたが、それらしいところが見つからない。吹上稲荷神社をでて右折し、小路を進むと、富士見坂の坂下にでる。

荷風の「断腸亭日乗」に昭和12年3月26日にここを訪ねた記事があると紹介されている。「晴れて風甚寒し。午後大塚坂下町儒者捨塲を見る。徃年荒凉たりしさま今はなくなりて、日比谷公園の如くに改修せられたり。路傍に鉄の門を立て石の柱に先儒墓所と刻したり。境内に桜を植ゑたるなど殊に不愉快なり。」
(続く)

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島崎藤村「飯倉附近」

2010年02月06日 | 読書

「大東京繁昌記・山手篇」の一篇で、植木坂の記事のときにでてきたので、平凡社ライブラリーのもので読んでみた。底本が東京日々新聞社編『大東京繁昌記・山手篇』初版(昭和3年(1928)12月、春秋社)。

飯倉町とは、江戸時代から明治初年までの飯倉10か町の総称(本間信治「江戸東京地名事典」)。10か町とは、飯倉一~六丁目、飯倉永坂町、飯倉狸穴町、飯倉片町、飯倉六本木町。現在の麻布台1~3丁目、麻布永坂町、麻布狸穴町、六本木5丁目の辺りであろう。

島崎藤村は、大正7年(1918)10月に西久保桜川町(現虎ノ門一丁目)から飯倉片町33番地に移っているので、移転から数年以上たってから書いたものであろうか。前の記事にもあったが、自宅近くのことを次のように書いている。

「南に浅い谷の町をへだてゝ狸穴坂の側面を望む。私達の今住むところは、こんな丘の地勢に倚って、飯倉片町の電車通りから植木坂を下りきった位置にある。どうかすると梟(ふくろう)の啼声なぞが、この町中で聞える。私の家のものはさみしがって、あれは狸穴の坂の方で啼くのだろうか、それとも徳川さんの屋敷跡の方で啼くのだろうか、と話し合った。東京の人の言草に「麻布のキが知れない」ということがある。それは何の意味ともよく分らないが、すくなくも下町の方に住む人達の中には今だに藪だらけの高台のように麻布の奥を考えているものもあるらしい。そういう人達ですら、梟の話ばかりは信じまいかと思う。もしこの地勢について幾つかの横町を折れ曲って行って見ると、あるところは一廓を成した新しい住宅地のごとく、あるところは坂の上下にある村のごとく、鶏の声さえ谷のあちこちに聞えるようなのが、この界隈の一面である。野鳥のおとずれさえこゝではそうめずらしくない。」

「鼠坂は、私達の家の前あたりから更に森元町の方へ谷を降りて行こうとするところにある細い坂だ。植木坂と鼠坂とは狸穴坂に並行した一つの坂の連続と見ていゝ。たゞ狸穴坂の方はなだらかに長く延びて行っている傾斜の地勢にあるにひきかえ、こちらは二段になった坂であるだけ、勾配も急で、雨でも降ると道の砂利を流す。こんな鼠坂であるが、春先の道に椿の花の落ちているような風情がないでもない。この界隈で、真先に春の来ることを告げ顔なのも、毎年そこの路傍に蕾を支度する椿の枝である。」

飯倉はふくろうの啼き声が聞こえる地であったようである。新しい住宅地や鶏の声が聞こえる坂の上下にある村のようなところもあり、野鳥のおとずれもあったらしい。住宅地も増えていた頃だったかもしれないが、未だ牧歌的な雰囲気が残っていたようである。

永井荷風が住んでいた偏奇館は飯倉から近く、「断腸亭日乗」大正9年11月29日に「近巷岨崖の雑草霜に染みたるあり。既に枯れたるあり。竹藪には鳥瓜あまた下りたり。時に午鶏の鳴くを聞く。景物苑然として村園に異ならず。」とあるように、ここでも鶏の鳴声が聞こえたようである。

徳川さんの屋敷跡とは、電車通りを挟んだ飯倉町六丁目にあった徳川邸の跡であろう。飯倉附近で最も広い邸宅で、震災後、逓信省(旧郵政省)に売渡したとあるので、現在、麻布郵便局のある辺りと思われる。

飯倉片町の電車通りから下った植木坂から鼠坂までの間は平坦で、全体として二段であるだけに、勾配が急だといっているが、いまもそのようである。藤村は、鼠坂を下りて森元町(現東麻布二丁目)にでかけ、そこには贔屓にした焼芋屋や泥鰌屋や床屋があり、知った顔に逢え気の置けないところが好きだったようである。下町の親和性が藤村を引きつけたのであろう。

荷風は、大正12年11月頃から南葵文庫というところを頻繁に利用しているが、飯倉の徳川邸の中の一角にあったことを今回、始めて知った。南葵文庫は、「図書総数十万余、主として日本歴史、日本地理、国文学などに関する図書が多かった」とあり、荷風は、武鑑などを閲覧しているが、当時執筆中の下谷のはなし(後の「下谷叢話」)のためだったと思われる。

「私は目黒のI君から書いてよこして呉れた我善坊のことで、この稿を終るとしよう。我善坊は正宗白鳥君の旧居のあったところであり、この界隈での私の好きな町の一つでもある。I君から貰った手紙の中には、次のように言ってある。」
「我善坊町は、実に静かな落ち着きのある谷底の町です。此処は昔は与力屋敷であって、其の当時は盗賊や罪人を追跡するには、此の町へ追い込むようにしたものであると言います。我善坊へ追込みさえすれば、地勢上捕縛するに便利であるし、与力屋敷のことゝで其処には与力達が待ち構えているし、大抵の犯罪者は難なく逮捕されたものであると言います。これも昔から我善坊に住んでいる古老の話を其のまゝ茲に御伝えいたします」。

我善坊町は、藤村も好きな町とあり、当時から静かで落ち着いたところだったようである。最近も歩いてきたが、いまも、かすかにその雰囲気が残っているようにも感じられる。いつまで残るのであろうか。

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岩淵水門

2010年02月02日 | 散策

午後赤羽駅下車。
アーケードのあるスズラン通りを進み、信号を越え、しばらく商店街が続くが、いつのまにか静かな住宅街となる。堤防のある通りにでたが、かなり高いため川がまったく見えない。地図で確かめると、少し下流側のようである。左折して進むと、やがて、上り坂になり、上ると、そこが志茂橋で、川が見える。この川は荒川ではなく、新河岸川である。

橋を渡ると、右手に荒川治水資料館がある。その前に、水準基標岩淵基準点や船堀閘門頭頂部や荒川放水路完成記念碑がたっている。そこから土手に上がると、ようやく荒川が見え、川全体を見渡すことができ、よい眺望である。

資料館のパンフレットなどによれば、荒川放水路以前の旧荒川が隅田川で、たびたび大きな水害が起きたので、明治43年(1910)に荒川の改修計画が立てられ、翌年から測量などが始まり、大正13年(1924)に岩淵水門が竣工し、昭和5年(1930)に荒川放水路(現在の荒川)が完成した。岩淵水門は5門のゲートを有し、それらの開閉で隅田川への流量を調整した。その後、この下流側に新岩淵水門が昭和57年(1982)に竣工し、大正時代の水門は役割を終え、現在、旧岩淵水門として残っている。旧岩淵水門は赤色乃至橙色で赤水門とよばれているとのこと。新岩淵水門は青い水門である。

旧岩淵水門の上を通って小島となっている水門公園に行く。中央がやや高く、下ると、かなり水面に近づく。新岩淵水門を正面に望むところで芝生に腰を下ろし、お茶と甘味でしばしの休憩。周囲をながめると、東京とは思えないほど広々とした風景である。いつもの街歩きではまずでくわすことのない風景で、水辺散策のよい点である。蘆の茂ったすぐの対岸が都立荒川岩淵緑地の上流側突端である。遠くの向こう岸は埼玉県川口市で、高層ビルが見える。

この小島は新岩淵水門からみて上流側真向いの位置にあり、対岸の緑地は荒川と隅田川を分離する位置にある。現在の隅田川は、荒川から小島と緑地との間を流れ、一部旧岩淵水門を流れ、新岩淵水門に向かい、そのすぐ下流で新河岸川が合流している。

下流側に向かい、新岩淵水門を渡り進むと、荒川側の底部が野球場になっていて、少年野球をやっている。突端側の底部に向けて下りると、高さ2mほどありそうな枯蘆の茂みの中に一人分の小道ができており、進むと、緑地の突端にでて、先ほどの小島が見える。突端部分を少し歩き、枯蘆の茂みの中に入って戻ろうとすると、小道が分岐しており、行き止まりがあったりして迷路の気分をあじわう。

帰りに資料館にまた寄る。荒川放水路は約20年にわたる難工事の末、完成し、延べ労働者数310万人、犠牲者998人(死者22人)であったとのことである。資料館の入口前の記念碑には次のように記してある。

「此ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナル犠牲ト勞役トヲ拂ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶センカ為ニ 神武天皇紀元二千五百八十年 荒川改修工事ニ從ヘル者ニ依テ」

荒川放水路工事の責任者だった青山士(あきら)による工事の犠牲者を弔うためのものであるが、誰の名前も刻まれていない。このような記念碑によくありがちな大臣や官僚などの名前がなく、青山の考えであるのだろうか、工事の困難さと従事した人たちの辛苦を想起させるよい記念碑である。

帰りは、熊野神社に寄り、志茂銀座を通るが、途中に、橋戸の子育地蔵尊というのがある。その説明文によると、祠に安置された四体の石像は江戸時代のもの(1700年頃)で、いつの頃からか、母親を中心に子育地蔵とよばれるようになったらしいとのこと。いまも信仰されているのであろう、よく手入れされている。また、この通りは旧奥州街道とのことである。志茂銀座から赤羽駅へ。

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