東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

三鷹駅跨線橋(2023)-太宰治 最後の聖地-

2023年12月28日 | 文学散歩

三鷹駅の西にある中央線などの線路を跨ぐように南北方向にかけられた跨線橋が解体・撤去されることになった(ここここここの記事)。

昭和4年(1929)に建てられ、90年以上経ち、老朽化したためという。2023年12月から工事が始まるとあるが、12月中旬でまだで、本格的には来年(2024)からであろう。通行はすでに制限されているが、まだ現存し、地上から眺めることができる。

ここは、太宰治の最後のといってよい聖地である。

そう思って、この跨線橋には三鷹に太宰散策に来たときに何回か訪れ、橋の上からの眺望を楽しんだ。高さ5m程度で、現在、それよりもずっと高い建物がたくさんあるが、太宰が生きた当時は、そんな建物は近隣になくひときわ目立ち眺望がよかったであろう。

この跨線橋はこれまで太宰関連の次の記事にした。
太宰治と三鷹(続き)
禅林寺(太宰治の墓)~三鷹駅西の跨線橋
桜桃忌(2016)
三鷹駅跨線橋 跨線橋案内パネル 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋






左から1,3~5枚目の写真は、この跨線橋を10月に撮ったもので、以下も同様。

三鷹駅南口を出て右折し、階段を下り、そのまま線路沿いに西へちょっと歩くと、跨線橋の階段が見えてくる(1枚目)。2枚目は、以前、この階段下付近に立っていた三鷹市による太宰案内パネルで、この跨線橋の南・東側の階段を下る太宰の写真が掲示されているが、1枚目の写真は同じ辺りを撮ったもの。

この跨線橋は、太宰関連でいうと、上記の写真などで有名となったものと思われる。

太宰関連でなくとも、100年近くの歴史があるので、むかしから住んでいる人には懐かしいスポットとなっているのであろう。

ところで、太宰が三鷹に住むようになった経緯を知りたいと思い、ちょっと調べたら次のようなことであった。それは太宰の結婚と関係し、その結婚には井伏鱒二が深く関わっていた。
三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋




太宰治は、昭和14年(1939)1月8日杉並区清水町の井伏鱒二宅で井伏夫妻の媒妁により石原美知子と結婚式を挙げた。山田貞一、宇多子夫妻(石原家名代)、斎藤文二郎夫人、中畑慶吉(津島家名代/津島家に出入りする呉服商)、北芳四郎(津島家に出入りする洋服仕立業)などが出席した。

前年7月中旬、中畑慶吉、北芳四郎が太宰の結婚相手の世話を井伏鱒二に依頼した。その頃、井伏の中学同期で仲のよかった高田類三の弟高田栄之介が東京日日新聞の記者で井伏宅に出入りしていたが、甲府支局勤務時に知り合った斎藤須美子と婚約をしていた。井伏はその縁で知り合いになった斎藤文二郎夫人せいによい相手はいないか問い合わせをし、せいからその話を聞いた娘須美子は知り合いの甲府高等女学校二年後輩の石原愛子に、適齢の姉美知子がいると母せいに告げたことからこの結婚話が始まった。

9月13日太宰は、井伏が滞在していた山梨県南都留郡河口村御坂峠の天下茶屋に行き、以後60日ほど、この茶屋の二階に滞在した。同月18日の日曜日午後、井伏の付き添い、斎藤せいの案内で、甲府駅の北5分位の所にあった石原家を訪問し、石原美知子と見合いをした。太宰はただちに結婚を決意した。美知子は、昭和4年(1929)3月甲府高等女学校を卒業し、同年東京女子高等師範学校文科に進学し、昭和8年(1933)卒業し、同年都留高等女学校の教諭となっていた。

10月中旬石原美知子が天下茶屋を訪れた。10月24日太宰は、井伏宛に、二度と破婚はしない旨を記した誓約書を送った。11月6日石原家で、井伏鱒二、斎藤文二郎、せいの立ち会いで、美知子の叔母2人を招き、婚約披露の宴が催された。11月16日御坂峠を降りて、石原家と斎藤家との中間辺りの、甲府市西堅町93番地の素人下宿寿館に止宿した。こののち、太宰は、歩いて10分位の石原家に毎日のように行き、手料理を肴に銚子3本ほど空けて帰った。12月24日石原美知子は県立都留高等女学校を退職した。12月25日斎藤せいが石原家に結納金20円を納めた。太宰は、明けて、昭和14年(1939)1月6日甲府市御崎町56番地の借家に移転した。

1月の結婚式後、甲府市の借家に居住していたが、5月上旬、東京近郊への転居を計画した。6月2日美知子とともに貸家を捜すために上京し、国分寺、三鷹、吉祥寺、西荻窪、荻窪と捜し歩いたが、手頃な家が見つからなかった。吉祥寺の三鷹よりの麦畑に六軒の新築中の家があったが、家賃が高かったので、家主に交渉したところ、6月末に近くにもう少し安い家賃の家を三軒たてる話を家主から聞き、それに期待して、その頃再訪しようと思い、甲府に帰った。7月15日上京し、三鷹に新築中の三軒の貸家のうちもっとも奥の家を契約した。家賃は24円/月。

9月1日甲府から、東京府北多摩郡三鷹村下連雀113番地の借家に移った。

以降、昭和20年(1945)の4~8月頃の甲府や青森の生家への疎開の時期を除いて、昭和23年(1948)6月に亡くなるまで三鷹に住んだ。(以上、山内祥史「太宰治の年譜」を参考にした。)

甲府から上京し、国分寺~荻窪の辺りをさがし、結局、三鷹の新築の貸家に落ち着いた。御坂峠の天下茶屋に行く前には昭和12年(1937)6月20日から杉並区天沼一丁目213番地鎌滝富方の貸部屋にいて、それ以前の昭和8年(1933)2月から荻窪周辺に住んでいたので(ただし、昭和10年4月~11年11月入院や船橋に転居)、この辺りには土地勘があり、井伏宅も近く、その貸家しかなかったようではあるが、妥当な選択だったように思える。
三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 三鷹駅跨線橋 田村茂「素顔の文士たち」表紙




この跨線橋を背景にした太宰治の写真が5枚残されている。それらの5枚は、写真家田村茂(1906~1987)が昭和23年(1948)2月23日三鷹で太宰を撮影した27枚の一部で、そのうちの1枚が上述の階段を下る写真で、もう1枚が左から5枚目の田村茂の写真集「素顔の文士たち」表紙にある、橋の上で眺めている写真である。これらの2枚を含めた27枚は、同写真集に掲載されており、はなはだ興味深い写真である。

田村茂は戦後の一時期、東京都三鷹市に住んでおり、同じ三鷹に居住の太宰とは一緒によく飲みに行く間柄であったという(wikipedia)。

上記の27枚の撮影コースは、玉川上水(3枚)から始まり、跨線橋(5枚)、両者の行きつけであった飲み屋「千草」(5枚)、再び玉川上水(3枚)、三鷹駅近くの踏切前(3枚)、古書店(3枚)と続き、最後は山崎富栄の下宿先で、最晩年の太宰の仕事場であった部屋(5枚)となっている(wikipedia)。同写真集に掲載された順と同じで、最後の1枚が物思いにふけるドアップの有名な写真である。その死のわずか四ヶ月程前で、最後の写真であったかもしれない。

参考文献
山内祥史「太宰治の年譜」(大修館書店)
田村茂「素顔の文士たち」(河出書房新社)
「新潮日本文学アルバム 太宰治」(新潮社)

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桜桃忌(2016)

2016年06月20日 | 文学散歩

三鷹駅南口 本町通り 本町通りわきの畑




6月19日(日)は桜桃忌というので、三鷹駅で下車し、駅前で昼食をとってから、禅林寺に行った。この日に太宰の墓を掃苔するのははじめてである。

前日は梅雨の季節というのにかなり暑かったが、この日は曇りでさほどでもなく助かった。

駅前南口から左手に玉川上水の樹木を見ながら歩き、すぐ右折し本町通りに入る(現代地図)。南へまっすぐに延びる道を歩き、千草跡の金属板や野川家跡の説明パネルなど見ながら進むと、まもなく、左手に太宰治文学サロンが見えてくる(以前の記事)。

さらに歩き、途中、前方を見ると、まっすぐな道がわずかであるが上下し、縦にうねっているのがわかる。かなり進むと、通りの両側に畑が広がっている。太宰が生きていた頃はもっと広かったのであろう。 

禅林寺 太宰治の墓 東京人増刊(太宰治特集)表紙




連雀通りに出て右折し、ちょっと歩くと、禅林寺前の交通標識がある(現代地図)。ここを右折し、進むと、禅林寺の山門が見えてくる。山門から入って森鴎外の遺言碑(以前の記事)のあたりに咲く紫陽花が梅雨の季節であることを感じさせる。

たくさんの人が来て行列をなしているのだろうかと、左の方から墓地に入り、小路の先を見ると、人がかたまっているがさほどでもなく、ちょっと拍子抜けした。それでも老若男女が来ており、いまでも幅広いファンがいることがわかる。お参りをしてまもなく引き返した。

次に、三鷹駅近くにある、太宰がよく通ったといううなぎ若松屋跡を訪ねた。ここで吉本隆明が太宰に会っているが、その内容は東京人12月増刊(2008)に詳しい(以前の記事)。

駅前から線路西側に歩き、太宰がよく行ったという跨線橋に向かう(以前の記事)。ここは、三鷹に太宰散歩に来たときの最終を飾る定番の地になっている。

若松屋跡 若松屋跡標識 三鷹駅西跨線橋




二十代のころ失恋や仕事などの悩みがいずれも解決不能なようにのしかかってきたことがあった。いまふり返ると多かれ少なかれ誰にでもあるという程度の意味しかないことだけど、実時間ではどうしてもなにかに救い(心の支え)を求めてしまう。それが吉本隆明と太宰治とそのころちょっと流行ったいくつかの歌だった。

太宰は一時期貪るように読み耽る一方、山崎ハコ・中島みゆき・森田童子などの歌声が心にしみた。どれもどちらかといえば明るい世界ではないが、太宰が「右大臣実朝」で実朝にいわせた「平家ハ、アカルイ。」「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」を信じて暗い孤独の中に沈んでいた。

当時、一回だけであるが、太宰治の研究会みたいな集まりに出かけたことがあった。かなり記憶が薄れているが、いまのようにインターネットがあるわけではなく、新聞や雑誌などの案内を見たのであろう。出席者の多くは私などよりもかなり年配の人たちであった。わずかであるが宗教的な雰囲気がし、ちょっとなじめなかったようなかすかな記憶がある。太宰を好む人はそういった傾向に陥り易いのかもしれない。思い入れが前面にでてしまうから。それでもいまならばどう感じただろうかとちょっと懐かしい。

同じころ、山崎ハコのコンサートに出かけたことがあった。たぶん、新宿厚生年金会館ホール。かなり離れた二階の席だったように記憶するが、声量のある歌唱をたんのうした。

吉本の太宰好きは当時から知っていたが、後年、中島みゆきファンとも知って、ちょっとうれしく、両者の感性があうのだろうとかってに肯いた。

参考文献
東京人「三鷹に生きた太宰治」12月増刊2008 no.262(都市出版)

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願行寺(駒込)~団子坂(2)

2012年09月21日 | 文学散歩

鴎外「青年」のT字路 T字路から新坂上方向 T字路の北 日本医科大・根津裏門坂上 前回の願行寺の門前の道を北へ向かうと、まもなく、一枚目の写真のように右折のあるT字路につく。ここを右折すると、二枚目のようにまっすぐに東へ延びており、その先は新坂(S坂)の坂上である。このT字路が次のように森鴎外『青年』の冒頭に出てくる。

『小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。扨(さて)本郷三丁目で電車を降りて、追分から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現の表坂上にある袖浦館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。
 此処は道が丁字路になっている。権現前から登って来る道が、自分の辿って来た道を鉛直に切る処に袖浦館はある。木材にペンキを塗った、マッチの箱のような擬西洋造である。入口の鴨居の上に、木札が沢山並べて嵌めてある。それに下宿人の姓名が書いてある。』

その下宿屋は、新坂の方から来てT字路の突き当たりにあったという設定である。 このT字路をさらに北に進んで北側を撮ったのが三枚目である。やがて四枚目のように信号のある交差点に至る。ここを右折すると根津裏門坂の下りとなる。四枚目の交差点の向こうにある建物が日本医科大学付属病院であるが、ここで、3月16日吉本隆明が亡くなった。

夏目漱石旧居跡手前(南) 夏目漱石旧居跡の北 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 上記の交差点を渡り、病院わきの道を北へ進むと、まもなく、一枚目の写真のように、左側の歩道に石碑が見えてくるが、夏目漱石旧居跡である。ここには、その何年か前に森鴎外も住んだ。二枚目は、そこからさらに進んで、北側を撮ったものである。

この道は、ここから右折すると、藪下通りという散歩に適したよい小径があり、このあたりに来るとついそちらに行ってしまうため、はじめて通るが、通行量が少なく、意外にも静かな散歩が楽しめる。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(天保十四年(1843))の部分図では、本郷追分から西教寺、願行寺の門前を通って北へ進むと、大田邸と有馬邸との境界の角に至るが、ここから大田邸と海蔵寺などとの境界が北に延びている。この境界が一、二枚目の写真の道である。四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))や近江屋板も同様である。

団子坂上の通り 世尊院門前 団子坂上 藪下通り上側の階段 やがて広い通りに出るが、ここを右折する。ここは団子坂上から西へ延びる道で、東の坂上方面に向かうが、一枚目の写真は、進行方向東側を撮ったものである。

途中、右折すると、二枚目のように、突き当たりに世尊院がある。上三枚目の尾張屋板江戸切絵図を見ると、江戸時代はもっと広い敷地であった。その団子坂近くの角地が、前回の記事のように、質商小倉の敷地で、後に鴎外が購入し、その家を観潮楼と称した。

さらに進むと、団子坂上近くの観潮楼跡にできた新装の森鴎外記念館が見えてくる。三枚目に写っているが、まだ開館にはなっていないようである。

坂上から藪下通りに入り、右側に森鴎外記念館が見えるが、その反対側は崖上で、四枚目のように、そこに階段ができている。これまで観潮楼跡ばかり見ていたためか、この無名の階段には気がつかなかった。

藪下通り上側の階段 藪下通り上側の階段 団子坂中腹から坂下 団子坂中腹から坂上 上記の無名の階段を下るが、一、二枚目のように踊り場が二箇所ほどあって長く、かなりの高低差がある。ここは、ちょうど団子坂の南に位置し、本郷台地の東端と根津谷との間の崖にできた階段である。坂下南側に第八中があり、そのとなりに汐見小がある。崖上の藪下通りからこの小学校の校庭がよく見える。

階段下をそのまま直進すれば不忍通りであるが、右折し南の方に歩き、途中右折し藪下通りに出た。団子坂上にもどり、坂を下ったが、その途中で撮ったのが三、四枚目である。

谷中銀座の方へ行ったりしてから、坂下近くのラーメン屋に入り冷たいビールで喉を潤した後、千駄木駅へ。

携帯による総歩行距離は9.2km。

参考文献
「鷗外選集 第二巻」(岩波書店)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)

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願行寺(駒込)~団子坂(1)

2012年09月19日 | 文学散歩

九月に入ったが、残暑が続き、いつものような街歩きになかなか出かける気になれない。昨年の今ごろはどこに行っているのかと見ると、築地からはじめて、隅田川に沿って勝鬨橋から上流へ新佃大橋~佃島まで歩いている。そのときの記憶からやはりことしの残暑は去年よりも厳しいと思う。 それでも、午後になって少し雲もでてきたので、出かけた。最近、森鴎外と芥川龍之介の記事で出てきた細木香以の墓のある駒込の願行寺である。

本郷通りから東 西教寺前 西教寺門前 願行寺手前 午後地下鉄南北線東大前駅下車。

駅の一番出口から出ると、眼の前が本郷通りで、ここを右折し、次を右折すると、一枚目の写真のように東へ向かう道がある。この右側の塀の向こうは東大農学部である。L字形の道で、すぐに突き当たり、左に曲がると、二枚目のように、北へまっすぐに延びている。その角に、三枚目の西教寺がある。

四枚目は、その門前からちょっと進んで、北へ続く道を撮ったものである。東大側の樹々が日に照らされてきらきらしており、暑さをいっそう感じさせる風景となっている。 この通りは南北線の東大前駅から近く、これができたため、この付近へのアクセスはきわめて便利である。本郷通りの裏道といった感じで、人通りも車も少ない。

願行寺門前 願行寺門前 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) ちょっと歩くと、左手に、一、二枚目の写真のように、願行寺の門前が見えてくる。ちょっと古びたいかにも昔からのお寺といった雰囲気である。田舎にはこのようなお寺がよくあり、どこかなつかしい気がしてくる。過去のある時点から時が止まったような感じがしてくるから不思議である。

森鴎外は、「細木香以」で、この寺を訪れたことを次のように記している。

『本郷の追分を第一高等学校の木柵に沿うて東へ折れ、更に北へ曲る角が西教寺と云う寺である。西教寺の門前を過ぎて右に桐の花の咲く寄宿舎の横手を見つゝ行けば、三四軒の店が並んでいて、また一つ寺がある。これが願行寺である。
 願行寺は門が露次の奥に南向に附いていて、道を隔てて寄宿舎と対しているのは墓地の外囲である。この外囲が本は疎な生垣で、大小高低さまざまの墓石が、道行人の目に触れていた。今は西教寺も願行寺も修築せられ、願行寺の生垣は一変して堅固な石塀となった。ただ空に聳えて鬱蒼たる古木の両三株がその上を蔽うているだけが、昔の姿を存しているのである。』

「十三」の冒頭である。本郷通り追分からこの道に入り、角の西教寺の門前を通り過ぎ、願行寺に至るコースを説明している。寺の外囲いは、むかしはまばらな生垣で、道から墓石が見えたが、これが石塀となったと記している。鴎外にとってこのあたりは以前から馴染んでいるところであった。鴎外「青年」の主人公が東京に出てきて訪ねた知り合いの下宿屋があったのは、ここからちょっと北へ進んだT字路のあたりである。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(天保十四年(1843))の部分図を見ると、追分から入ったすぐのところに、西教寺があり、その先に、願行寺が見える。四枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図であるが、上記二つのお寺が見える。近江屋板も同様である。江戸時代から寺の位置は変わっていないようである。

願行寺 細木香以の墓 細木香以の墓 願行寺に入り、右手に進むと、一枚目の写真のように前方に本堂が見えてくる。この正面を右に入ると、墓が並んでいるが、本堂の東わきに沿ってちょっと進んで右折し東に向くと、二枚目のように、墓の間にできた狭い道の突き当たりに真四角の墓石が見える。これが細木家の墓である。

こう書くと、いかにもすぐ見つかったようであるが、実はそうでなく、なかなか見つからないまま奥の方に行き、うろうろしていたら、掃除をしていたおばさんがいたので、尋ねると、親切にも墓前まで案内をしてくれたのである。三枚目が細木家の墓の全体写真である。

鴎外「細木香以」にもどると、次のように続いている。

『わたくしはある日香以が一家の墓を訪おうと思って、願行寺の門を入った。門内の杉の木立の中に、紺飛白(こんがすり)の浴衣を著た壮漢が鉄唖鈴を振っていて、人の来たのを顧みだにしない。本堂の東側から北裏へ掛けて並び立っている墓石を一つづつ見て歩いた。日はもう傾きかゝって来るに、尋ぬる墓表は見附からなかった。
 忽ち穉子(おさなご)の笑う声がしたので、わたくしは振り向いて見た。顔容の美くしい女が子を抱いてたゝずんで、わたくしの墓表の文字を読んで歩くのを見ていた。
 わたくしは捜索を中止して、「あなたはお寺の方ですか」と問うた。 「はい。どなたのお墓をお尋なさいますのです。」女の声音は顔色と共にはればれとしていて、陰鬱なる周囲の光景には調和していなかった。
 「摂津国屋と云うものです。苗字はさいきでしょうか。」魯文の記事には「さいき」とも「ほそき」とも傍訓がしてあるが、わたくしは「さいき」が正しい訓であるのを、たまたま植字者が「ほそき」と誤ったものかと思っていたのである。
 「では細いと云う字を書くのでしょう。」この女は文字を識っていた。
 
「そうです。御存じでせうか。」 「ええ、存じています。あの衝当(つきあたり)にあるのが摂津国屋の墓でございます。」抱かれている穉子はわたくしを見て、頻に笑って跳り上がった。
 わたくしは女に謝して墓に詣った。わたくしはなんだか新教の牧師の妻とでも語ったような感じがした。
 本堂の東側の中程に、真直に石塀に向って通じている小径があって、その衝当に塀を背にし西に面して立っているのが、香以が一家の墓である。
 向って左側には石燈籠が立てゝあって、それに「津国屋」と刻してある。
 墓は正方形に近く、稍(やゝ)横の広い面の石に、上下二段に許多(あまた)の戒名が彫り附けてあって、下には各(おのおの)命日が註してある。

 十四
 摂津国屋の墓石には、遠く祖先に溯(さかのぼ)って戒名が列記してあるので、香以の祖父から香以自身までの法諡(ほうし)は下列の左の隅に並んでいる。
 詣で畢って帰る時、わたくしはまた子を抱いた女の側そばを通らなくてはならなかった。わたくしは女に問うた。
 「親類の人が参詣しますか。」
 「ええ。余所(よそ)へおよめに往った方が一人残っていなすって、忌日には来られます。芝の炭屋さんだそうで、たしか新原元三郎と云う人のお上さんだと存じます。住職は好く存じていますが、只今留守でございます。なんなら西教寺とこちらとの間に花屋が住っていますから、聞いて御覧なさいまし。」
 わたくしは再び女に謝して寺を出た。そして往来に立ち止って花屋を物色した。』

鴎外がこの寺を訪ねて、細木香以一家の墓を探し当てるまでの顛末が記してある。墓の位置は、たぶん、いまと同じと思われるが、左側にあったという「津国屋」と刻した石燈籠はなかった。このあたりも戦時中は空襲にあって焼かれたと云うから、そのときなどに損傷したのかもしれない。

鴎外が墓参りに来る人を尋ねたときの「新原元三郎と云う人のお上さん」が香以の孫のえいで、芥川龍之介の実父新原敏三の弟元三郎の妻である(前回の記事)。

細木香以の墓 願行寺石塀 一枚目の写真のように、墓石の広い正面にたくさんの戒名が刻されているが、上記の鴎外の記述によれば、香以の祖父から香以の戒名は下列の左隅にあるとのことだが、なかなか読むことができない。おまけに、左端部分は風化したのか、焼けたためか、欠けている。

ところで、お墓の場所を教えてくれた掃除のおばさんと話していたら、この寺の縁者に当たるおばあさんが九十七、八で長寿を保っていると云うことであった。鴎外が上記のように願行寺を訪れたのは、香以伝の執筆中と考えると、大正六年(1917)であるが、鴎外に細木家の墓を指し示した顔容の美くしい女がこの寺の人で、幼子を抱いていたと云うから、その子がその長寿のおばあさんかもしれないと想像してしまった。そのとき一、二歳程度と考えると、年齢的にもちょうどあうからである。「抱かれている穉子(おさなご)はわたくしを見て、頻に笑って跳り上がった」と書いているように、鴎外の印象に残ったようである。

願行寺を出て左折し、門前の道を北に向かったが、二枚目の写真は、北側を撮ったもので、左側に願行寺の石塀が写っている。
(続く)

参考文献
「鷗外選集 第六巻」(岩波書店)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)

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芥川龍之介旧宅跡(田端)

2012年09月03日 | 文学散歩

与楽寺坂上側・上の坂手前 芥川龍之介旧宅跡の手前 芥川龍之介旧宅跡 与楽寺坂の坂上側の四差路を坂上から来て右折すると、前回の上の坂の記事のように、ちょっとした上り坂となる。ここを坂下側から撮ったのが一枚目の写真である。ここを直進すると、上の坂の坂上が左に見えてくるが、そのあたりから進行方向(北西)を撮ったのが二枚目で、ここを進んで突き当たり付近が芥川龍之介旧宅跡である。さらに進むと、三枚目のように、左手に芥川龍之介旧宅跡の説明板が見えてくる。

道順は、散策マップを見るとよくわかる(これは田端文士村記念館でもらったパンフレットにあるマップと同じものである)。

芥川家は、大正三年(1914)10月末、北豊島郡滝野川町字田端435番地に新築した家へ移転した。前年九月、龍之介は、東京帝国大学英文科に入学し、ここに養父母などと住んだ。芥川家は、もともと本所小泉町にあったが、明治四十三年秋、内藤新宿二丁目71番地に引っ越ししていた。養父の道章は新宿に住みながら土地探しをし、「田端にきめたのは、当時、田端三四三番地に道章と一中節の相弟子であった宮崎直次郎がいて、天然自笑軒という会席料理の店を出していたからであった。」(近藤富枝「田端文士村」)

芥川家の田端の家への坂道という写真が「新潮日本文学アルバム」にのっている。これが一枚目の与楽寺坂の四差路から北西へ上る坂と思われる(確証はないが)。この写真の坂道は、かなり荒れているが、当時の郊外の閑静な住宅地にできた坂道はこんな状態であったのであろうか。

芥川龍之介旧宅跡の説明板 芥川龍之介旧宅跡 芥川龍之介旧宅跡・与楽寺坂方面 一枚目の写真は、芥川龍之介旧宅跡の説明板で、ここには、大正三年から亡くなる昭和二年まで住んだととあるが、大学卒業後の大正五年(1916)12月横須賀の海軍機関学校の英語教師となったため、この間、鎌倉、横須賀に住んだ。教師と作家の二重生活であったが、大正八年3月辞職して、この田端の家に帰り、以降、作家専業となった。

二枚目は芥川龍之介旧宅跡の説明板を別の角度から撮ったもので、この左側の道を進むと、やがて、切り通しの道路を見渡すことのできるところに出るが、その向かい側が東覚寺坂である。三枚目は、芥川龍之介旧宅跡を背にして東南方向を撮ったもので、直進すると下り坂の先が与楽寺坂の四差路である。

田端駅前の田端文士村記念館に行って見たビデオにこの芥川の家も出てきたが、おかしかったのは、龍之介が庭の木に登ってそこから屋根へと移って、得意そうな表情になっているシーンがあったことである。素早い動作ではないが、確実に木へ屋根へと登っている。

龍之介が田端に住みはじめた大正三年当時、田端には画家、陶芸、彫刻などの美術家は多数住んでいたが、文学者はほとんどいなかった。しかし、龍之介がやがて文壇の寵児となったために文学者も多く住むようになり、田端文士村とよばれるようになったという。上記の散策マップにあるように、室生犀星、萩原朔太郎、堀辰雄、平塚らいてう、菊池寛などが住んだ。

参考文献
「新潮日本文学アルバム 芥川龍之介」(新潮社)
近藤富枝「田端文士村」(中公文庫)

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夏目漱石旧居跡(千駄木)

2012年02月12日 | 文学散歩

漱石旧居跡 漱石旧居跡 前回の根津裏門坂上の交差点(日本医大前)を坂下から進んで右折し、ちょっと北へ歩くと、一枚目の写真のように左側(西)に夏目漱石旧居跡がある。二枚目の写真のように、石碑と説明板が立っている(その内容は下二、三枚目の写真のとおり)。

前回の根津裏門坂の標識にも「坂上の日本医科大学の西横を曲がった同大学同窓会館の地に、夏目漱石の住んだ家(“猫の家”)があった。『我輩は猫である』を書き、一躍文壇に出た記念すべき所である。」と紹介されている。

漱石は、明治33年(1900)英国へ留学し、明治36年(1903)1月に帰国した。漱石夫人の「漱石の思い出」には、帰国のことは家族に知らされなかったが、当時、神戸入港などの汽船で帰朝する人々の一覧が新聞に載ったようで、その中に夏目の名を見つけた人がいて、それで知ったとある。

帰国したとき、家族は夫人の実家(牛込区矢来町)のちっぽけな離れに住んでいたので、漱石は毎日借家探しに出かけ、本郷、小石川、牛込、四谷、赤坂と山の手は所かまわず探し歩いた。その結果、運よく探し当てたのがここであったという。本郷区千駄木五十七番地の斎藤阿具という漱石の大学時代からの知り合いの家で、その当時、斎藤は仙台の第二高等学校の教授であったため空屋であった。

この家には森鴎外も明治23年(1890)10月から住み、同25年1月に千駄木二十一番地に転居している。漱石が鴎外と同じ家に住んだことは今回はじめて知った(下二枚目の写真の碑文、下三枚目の説明板にも説明されている)。ここに3月に転居し、4月に第一高等学校の講師となり、同時にラフカデオ・ハーン(小泉八雲)の後任として東京帝国大学英文科講師を兼任した。

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 漱石旧居跡石碑 漱石旧居跡説明板 一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、日本医大付属病院のあたりは大田備中守の屋敷で、その向かい(西側)が有馬邸、海蔵寺であるが、この漱石旧居跡のある道はのっていない。実測明治地図(明治11年)にはのっており、北へ延び、現在のように団子坂上から延びる道へつながっている。

二枚目の写真の漱石旧居跡石碑は、道路に対し直角に立っているが、その道側の側面に「題字 川端康成書」「碑文 鎌倉漱石会」と刻まれている。上二枚目の写真のようにそのわきの文京区教育委員会の説明板は道路に面して立っているので、どうでもいいことだが、なにか妙な具合である。

この家で漱石は『我輩は猫である』を書いたが、それは、その当時、神経衰弱が昂じ、高浜虚子にすすめられ神経を静めるためであったという。

漱石は、明治39年(1890)12月本郷区西片十番地ろノ七号に移るまで、この家に住んだ。この家は、当時のごく普通の家であるというが、現在、愛知県犬山市の明治村に移築され保存されている。実際の地にではなくともいまなお残っていることに驚くが、百年以上前の日本の木造家屋を残すにはこういった方法しかないのであろう。
(続く)

参考文献
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
夏目鏡子述 松岡譲筆録「漱石の思い出」(文春文庫)
「新潮日本文学アルバム 夏目漱石」(新潮社)
「新潮日本文学アルバム 森?貎外」(新潮社)

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禅林寺(太宰治の墓)~三鷹駅西の跨線橋

2011年12月16日 | 文学散歩

太宰治墓 太宰治墓 前回の森鷗外(森林太郎)の墓の斜め向かいに太宰治の墓がある(二枚の写真)。

以前、はじめてきたとき、その近さにびっくりしたものである。太宰も鷗外を尊敬していたというが、その墓が鷗外の墓とこんなに近くで、泉下の太宰も喜んでいるかもなどと思ってしまう程である。そのはずで、ここにしたのは生前の太宰の願いを容れたからであるという。

太宰の遺体が発見された6月19日が命日となっていて、翌年(1949)の一周忌のとき、今官一により「桜桃忌」と命名され、以来毎年、ここで偲ぶ会などの追悼行事が行われているとのこと。その年の11月3日、作家の田中英光が太宰の墓前で自殺した。

桜桃忌にはかなり多数の老若男女の太宰ファンが集まるというが、一度も来たことがない。そういったたくさんの人が集まるところは、はじめから避けてしまうからである。ただ、そういうふうなファンの心理はわかるような気がする。思い入れが強いほどそうなる。

五、六年前に、はじめてここを訪れたとき、たぶん、その桜桃忌の前後、梅雨明け前のころだったと思うが、なにかその余韻(前触れ)らしきものが感じられたような記憶がある。そのような特別な日ではなく、なにもないときに来た方が静かで、ひっそりとし、落ち着いた感じでかえってよいというのが私の感想である。

三鷹駅西の跨線橋 跨線橋説明パネル 三鷹駅西の跨線橋 三鷹駅西の跨線橋 禅林寺から出て、連雀通りで左折し、次を左折して北へ進み三鷹駅に向かう。きょうはだいぶ歩いたので、かなりつかれてきた。そのまま駅に行き、帰ろうと思ったが、やはり、太宰が好んで行ったという三鷹駅の西にある跨線橋(陸橋)に行ってみることにする。ちょうど暮れかかってきたので夕日が見られるかもしれない。そういえば、以前も最後に訪れたのがそこである。

駅の出入口の手前から階段を下りて、線路沿いの歩道を西へ歩くと、やがて正面に、一枚目の写真のように、跨線橋の階段が見えてくる。階段下のフェンスの壁の前に、二枚目の写真の陸橋(跨線橋)の説明パネルが立っている(一枚目の写真の右端にも写っている)。この説明パネルは、前回の野川家跡や伊勢元酒店跡などと同じシリーズで、太宰ゆかりの場所を示すものである。以前来たときはなかったように思う。太宰が階段を下りてくる写真がのっている。これ以外にもここで撮った写真があるようで、このため有名になったのであろう。

この跨線橋は、三鷹駅近くで、引込線などもある場所に南北に跨ぐように架かっている(四枚目の写真)。このためかなり長い。

太宰が生きた時代から残っているところはもうほとんどない中で、ここは唯一といってよい例外的な所という。当時の建物などは建て替えられて当時を偲ぶことができるものは何も残っていないのが現実で、かろうじて説明パネルなどでそういった場所であったことを知ることができるだけである。そういった時の流れからすると貴重な場所である。

跨線橋から西側 跨線橋から北東側 跨線橋から富士山 跨線橋 跨線橋の上に行くと、ちょうど日の入りの直前であった。一枚目の写真は跨線橋の西側、二枚目は北東側を撮ったもので、夕日に照らされた光景が印象的である。太宰もこういった風景を眺めたのだろうか。たぶんそうだろうと思い込んでしまう。

正面からやや左の方に夕日に映える富士山の上部が見え、そのシルエットの左わきから陽がまさに沈もうとしている。しばらく眺めてから、跨線橋を渡りその北の端で、陽が見えなくなったころに撮ったのが三枚目の写真である(若干トリミングしている)。ここから富士山が見えるとは知らず、思いかけず富士を背景にした落日の光景を楽しむことができた。期待していなかったからなおさらである。回りを見わたすと、夕暮れの富士山を見に来たと思われる人たちが集まっている。

上った階段を下り来た道を引き返し三鷹駅へ。

携帯による総歩行距離は18.1km(ただし、午前中に歩いた2km程度が含まれている)。

参考文献
東京人「三鷹に生きた太宰治」12月増刊2008 no.262(都市出版)
「新潮日本文学アルバム 太宰治」(新潮社)

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禅林寺(森鴎外の遺言碑・墓)

2011年12月14日 | 文学散歩

禅林寺?貎外遺言碑?貎外遺言碑 前回の太宰治文学サロンから禅林寺まで行くことにする。

本町通りを南へ歩く。三鷹の道は、新開地のためか、どれもまっすぐにつくられているが、この通りもまっすぐに南へ延びている。

ひたすら歩くと、連雀通りに突き当たる。ここを右折し、西へ歩くと、右手に禅林寺の入り口が見えてくる。

通りから一枚目の写真の山門までちょっと距離がある。山門から入ると、二枚目の写真のように、参道の右手に横長の石碑が建っている。よく見ると、三枚目の写真のように、森鴎外の遺言を刻んだものである。

禅林寺には、太宰治の墓があるが、森鴎外の墓もある。しかもきわめて近くである。鴎外の遺言碑は、禅林寺のホームページによると、昭和45年(1970)建立とある(このHPには太宰と鴎外の墓の案内もある)。

鴎外の遺言は次のとおりである。

余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ
一切秘密無ク交際シタル友ハ
賀古鶴所君ナリコヽニ死ニ
臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事
件ナリ奈何ナル官憲威力ト

雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森 林太郎墓ノ外一

字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ
依託シ宮内省陸軍ノ榮典
ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ手續ハ
ソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云
ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許
サス 大正十一年七月六日
        森 林太郎 言
        賀古 鶴所 書

森 林太郎
      男     於菟

    友人
     総代   賀古鶴所
              以上

(ホームページ「小さな資料室」の「鴎外の遺言」を参考にした。)

森?貎外墓森?貎外墓鴎外は、大正11年(1922)春頃から体の衰えが目立つようになり、6月半ばから役所を休み、病臥し、死期を悟ったのか、7月6日に大学以来の友人賀古鶴所に口述し筆記させたのが上記の遺言である。その後、7月9日午前七時に亡くなっている。

「新潮日本文学アルバム 森鴎外」にのっている遺言の写真を見ると、上記の禅林寺の遺言碑文は実物のとおり刻んだものであることがわかる(ただし「賀古 鶴所 書」までで、それ以下は省略されている)。たとえば、実物では、「奈何ナル官權」の「權」を改めてその左に「憲」とあるが、遺言碑文もそうなっている。

この遺言を読むと、鴎外の覚悟のほどが伝わってくる。鴎外は、石見人(現島根県津和野出身)である森林太郎(本名)として死にたいとしている。宮内省と陸軍にはつながりがあったが、しかし、それは生きている間のことであって、死んだら終わりで、それまでの縁によるあらゆる外形的な取扱は辞する。陸軍軍医総監(軍医として最高の地位)まで出世した官僚でもあったが、宮内省や陸軍からの栄典(勲章や位階)は絶対に固辞するとしている。死が近づき意識が遠くなる中、それでもこの点に限っては覚醒していた。官僚などもうまっぴらごめんだ。この瞬間、鴎外は、単なる岩見人として死ぬことになるが、しかし、その名はいまに至るまで残り、これからも消えることはない。それは決して陸軍軍医総監の故ではない。だが、鴎外といえども後世に名を残そうと文学に打ち込んだのではない。そうせざるを得なかったなにかがあるのだ。

墓地は本堂の裏手で、左端の方から入ることができる。真ん中の小路を進むと、右手に鴎外の墓がある。

鴎外の墓は、二枚の写真のように、墓表に「森林太郎墓」とあるだけで、遺言のとおりである。はじめ向島の弘福寺にあったが、関東大震災後、昭和2年(1927)10月禅林寺に改葬された。

鴎外を敬愛する永井荷風は、その祥月命日によく墓参りに向島に赴いているが、この禅林寺にも来ている。荷風の「断腸亭日乗」昭和18年(1943)10月27日に次のようにある。少々長いが全文を引用する。

「十月念七。晴れて好き日なり。ふと鴎外先生の墓を掃かむと思ひ立ちて午後一時頃渋谷より吉祥寺行の電車に乗りぬ。先生の墓碣は震災後向島興福寺よりかしこに移されしが、道遠きのみならず其頃は電車の雑沓殊に甚しかりしを以て遂に今日まで一たびも行きて香花を手向けしこともなかりしなり。歳月人を待たず。先生逝き給ひしより早くもこゝに二十余年とはなれり。余も年々病みがちになりて杖を郊外に曳き得ることもいつが最後となるべきや知るべからずと思ふ心、日ごとに激しくなるものから、此日突然倉皇として家を出でしなり。吉祥寺行の電車は過る日人に導かれて洋琴家宅氏の家を尋ねし時、初めてこれに乗りしものなれば、車窓の眺望も都て目新しきものゝみなり。北沢の停車場あたりまでは家つゞきなる郊外の町のさま巣鴨目黒あたりいづこにても見らるゝものに似たりしが、やがて高井戸のあたりに至るや空気も俄に清凉になりしが如き心地して、田園森林の眺望頗目をよろこばすものあり。杉と松の林の彼方此方に横りたるは殊にうれしき心地せらるゝなり。田間に細流あり、又貯水池に水草の繁茂せるあり、丘陵の起伏するあたりに洋風家屋の散在するさま米国の田園らしく見ゆる処もあり。到る処に聳えたる榎の林は皆霜に染み、路傍の草むらには櫨の紅葉花より赤く芒花と共に野菊の花の咲けるを見る。吉祥寺の駅にて省線に乗換へ三鷹といふ次の停車場にて下車す。構外に客待する人力車あるを見禅林寺まで行くべしと言ひて之に乗る。車は商店すこし続きし処を過ぎ一直線に細き道を行けり。この道の左右には新築の小住宅限り知れず生垣をつらねたれど、皆一側並びにて、家のうしろは雑木林牧場また畠地広く望まれたり。甘藷葱大根等を栽ゑたり。車はわづか十二三分にして細き道を一寸曲りたる処、松林のかげに立てる寺の門前に至れり。賃銭七十銭なりと云、道路より門に至るまで松並木の下に茶を植えたり。其花星の如く二三輪咲きたるを見る。門には臨済三十二世の書にて禅林寺となせし扁額を挂けたり。葷酒不許入山門となせし石には維時文化八歳次辛未春禅林寺現住?葬宗謹書と勒したり。門内に銀杏と楓との大木立ちたれど未だ霜に染まず。古松緑竹深く林をなして自ら仙境の趣を作したり。本堂の前に榧かとおぼしき樹をまろく見事に刈込みたるが在り。本堂は門とは反対の向に建てらる。黄檗風の建築あまり宏大ならざるところ却て趣あり。簷辺に無尽蔵となせし草書の額あり。臨済三十二世黄檗隠者書とあれど老眼印字を読むこと能はざるを憾しむ。堂外の石燈籠に元禄九年丙子朧月の文字あり。林下の庫裏に至り森家の墓の所在を問ひ寺男に導かれて本堂より右手の墓地に入る。檜の生垣をめぐらしたる正面に先生の墓、その左に夫人しげ子の墓、右に先考の墓、その次に令弟及幼児の墓あり。夫人の石を除きて皆曾て向島にて見しものなり。香花を供へて後門を出でゝ来路を歩す。門前十字路の傍に何々工業会社敷地の杭また無線電信の職工宿舎の建てるを見る。此の仙境も遠からず川崎鶴見辺の如き工場地となるにや。歎ずべきなり。停車場に達するに日既に斜なり。帰路電車沿線の田園斜陽を浴び秋色一段の佳麗を添ふ。澁谷の駅に至れば暮色忽蒼然たり。新橋に行き金兵衛に飰す。凌霜子来りて栗のふくませ煮豆の壜詰を饋らる。夜ふけて家にかへる。」(芒花:すすき、簷:のき)

断腸亭日乗 禅林寺断腸亭日乗 森家墓 荷風は、この日、晴れたからか、久しぶりに鴎外の墓参りを思い立った。三鷹に移ってからは一度も行っていない。渋谷に出てそこから井の頭線に乗って、吉祥寺まで行き、省線に乗り換え、次の三鷹で降りた。その途中、車窓からの風景が目新しく、細かな観察が続く。北沢のあたりまでは家が続き、巣鴨や目黒のあたりと似ているが、やがて高井戸のあたりに至ると、空気も清涼となって、田園森林の眺望が大変よくよろこんだ。田間に小川があり、貯水池に水草が繁茂し、丘陵に洋風家屋が散在する様子は米国の田園らしく見える。

三鷹から人力車で禅林寺まで行き、「葷酒不許入山門」(葷(くん)酒山門に入るを許さず)の石柱のことなどを書き連ね、一枚目のような禅林寺のスケッチを載せている。墓地に入り、鴎外の墓に香花を供えたが、二枚目のように森家の墓のスケッチも残している。帰途は駅まで歩き、同じ電車に乗ったようであるが、その沿線の景色が田園斜陽を浴び秋色が一段と美しかった。この後、新橋の金兵衛で夕飯をとり、凌霜子(相磯凌霜)から栗のふくませ煮豆の壜詰を贈られたが、戦時中の物不足が始まっていた。

荷風は、この日、久方振りの鴎外の墓参りを終え、その沿線の秋景色を堪能し、気分がよく印象に残ったのか、上記のように日乗の記述が多くなり、二枚のスケッチも描いている。

これ以降、戦後のどさくさのためか、鴎外の墓参りには来ていないようである。
(続く)

参考文献
「新潮日本文学アルバム 森鴎外」(新潮社)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)

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玉川上水(万助橋)~本町通り(太宰治文学サロン)

2011年12月12日 | 文学散歩

万助橋付近 万助橋付近 玉川上水沿い 玉川上水沿い 前回の井の頭公園の西端の万助橋で吉祥寺通りを横断すると、道路と玉川上水との間に歩道ができている。ここを西へ三鷹駅方面に進む。この道は、玉川上水に沿ってまっすぐに延びているが、風の散歩道というらしい。

ここまでは、玉川上水沿いに樹木で囲まれた散歩道ができており、そのため、野趣に富む散策ができたが、ここからは市街地であるので、もはやそのような雰囲気は期待はできない。それでも柵内側の玉川上水のほとりは、ここでも樹木で鬱蒼として、それまでの風景が残っている。葉が紅や黄に色づいている中で常緑の葉も目立つ。これらに空の青さが加わると、一年の内でもっとも鮮やかなコントラストをつくり出す季節と思ってしまう。落ち葉が歩道を埋め尽くし、枯葉の上を歩くとさくさくと音がする。この季節ならではの独特の感じである。

少量でも水が流れることで樹木の生育を助けている。都内のあちこちでみられるように、川を埋め立てて、その上を緑道とするよりも、堀を残し、水を流す方が緑のためにはよいのであろう。ここは、埋め立てられていないので玉川上水に沿ってグリーンのベルトができ、その上水本来の役割を終えたとはいえ、いまも都市に潤いをもたらす重要な機能を発揮しているといえそうである。

むらさき橋付近 玉鹿石 玉鹿石銘板 玉鹿石 むらさき橋を越え、少し歩くと、二~四枚目の写真のように、玉川上水と反対側の歩道の植え込みのところに大きな石が置いてある。わきの銘板には三枚目の写真のように青森県北津軽郡金木町産と記され、太宰の故郷産の玉鹿石である。このあたりが太宰治と山崎富栄の入水地点と推定されているようで、そのために置かれたのであろう。

このあたりのことは以前の記事でも触れた。そのとき、太宰治展からのかえりにふとしたことで耳にした「一人で死ねばよいのにね」についての感想に及んだが、今回、吉本隆明の太宰治の思い出インタビュー(「東京人」)を読んだら、次のようなことを語っていた。

「心中について、どうせ死ぬなら一人で死ねという人もいた。文学や芸術は政治のように人に強要する力はないが、人倫に制約されるものでもない。自由そのもの。一般的な倫理観で裁断できない。それでは批評したことにならない。」

吉本が語っているのは、心中当時世にあった太宰に対する批判の一つと思われるが、これにより、山崎にではなく、太宰に向けられたものもあったことを知った。よく考えてみれば、誰もが太宰ファンということはないから、当然ではある。そういった見方があったということは、いまもそう思う人がいても不思議でないということである。「一般的な倫理観で裁断」する結果、そのような批判に至るのか、しかし、それではなにも語ったことにならない。それを吉本は強調している。

当時、太宰に対するもの、山崎に対するもの、いろんな批判があったようであるが、もちろんこれらのことを現代の人は笑うことはできない。いまでも一般的な倫理観による裁断から自由ではないからである。もっといえば、それのみが横行しているといってもよい。

玉鹿石から西側 玉鹿石付近 小広場 小広場パネル 玉鹿石から西へちょっと歩くと、左手に、三枚目の写真のように、歩道がちょっと膨らんだような小さな広場があり、その端の植え込みに低くパネル(四枚目の写真)が立っている。太宰の写真がのっており、玉川上水のほとりに座り込んで流れを眺めているように見える。この写真は昭和23年(1948)撮影で、その服装から冬~早春のようであるが、入水はそれから数ヶ月後のことである。この小広場の近くも入水推定位置なのであろうか。

吉本隆明は生前の太宰に会ったことがあるという。そのことは知っていたが、上記のインタビューでそのときの様子を詳しく語っている。ここまで語ったのはこれが初めてではないだろうか。吉本は、学生のころから一貫して変わらない太宰ファンで、その訪問のときの印象が強かったという。

太宰の戯曲「春の枯葉」を学生芝居で上演するに際し、その許可を得るためであるが、二回目に訪ねてようやく屋台のうなぎ屋(若松屋)で会うことができた。そのときの会話をインタビューから拾うと次のようになる。

「太宰さんですか」
「そうだ」
「学生芝居なんだけど『春の枯葉』を上演したい。お断りしなければと思って来ました。お礼もろくに出せないけど許して欲しい」
「学校は面白いか」
「ちっとも面白くない」
「そうか。俺も小説を読んでもちっとも面白くない。小説なんて最初の二、三行読めばすぐわかっちゃうんだから。面白い作家なんていねえや」「俺がおまえだったら、闇の担ぎ屋をやるな」

「太宰さん、気持ちは、重たくはないんですか」
「俺は今でも重たいさ」

「おまえ、男の本質はなんだか知っているか」
「いや、わかりません」
「それは、マザー・シップってことだよ」

 (「春の枯葉」の中で歌われる流行歌の〈あなたじゃないのよ あなたじゃない あなたを待っていたのじゃない〉について)「(あなた)というのはアメリカのことをいってるんだよ」

(ヒゲを剃らずに放りっぱなしにしている吉本に)「おまえ、無精ヒゲを剃れ」

以上が、会話としてかっこ書きにされているすべてである。

玉川上水沿い 「千草」跡付近 「千草」跡説明パネル 上記の小さな広場からさらに西へ歩き、三鷹駅の手前二本目を左折し、本町通りに入るとまもなく、右手のビルの植え込みに三枚目の写真の金属プレートがある(二枚目の写真の左に小さく光っている)。太宰が晩年、執筆に利用していた小料理屋「千草」のあったところである。(二枚目の写真は本町通に入ってからふり返って撮ったもので、突き当たりが玉川上水である。)

太宰は、吉本が訪ねたとき、途中、うなぎ屋からなじみの飲み屋に移っているが、二人はかなりの時間一緒だったようである(他の人もいたようであるが)。そういったことや会話の内容から、太宰は吉本を気に入ったのではないだろうかと想像してしまった。「学校は面白いか」と聞いたときの「ちっとも面白くない」という答えが太宰の気分に合ったように想えるからである。

吉本は、そう答えた理由を、あちこちで書いているように戦争中は軍国少年であり、「勝手に戦争を始めて勝手に終わりやがって、こっちは一生懸命やったんだという思いがあったから、世の中に対してニヒルというか、やけっぱちの状態だった」からと語っているが、そういった心の状態が感覚の鋭い太宰に伝わったのであろうか。

さらに、「戦争に負けて、僕らは勝手に放り出された感じだったから、戦争の影響が深刻に残っていた。太宰はそれを軽みに変えていた。市民にとっては悪であるということをみんなひっくり返している。常識をひっくり返す。戦中も戦後の混乱期にも、考えたうえでのデガダンス、無頼なんだなと感じました。」と語っているが、太宰の独特の感性を吉本もまた鋭く感じ取っている。

野川家跡 野川家跡説明パネル 太宰治文学サロン 伊勢元酒店跡説明パネル 「千草」跡を右に見てほんのちょっと進むと、一枚目の写真のように左手の永塚葬儀社の塀に、二枚目の写真の野川家跡の説明パネルが張り付けられている。野川家は山崎富栄の下宿先で、富栄の部屋でも執筆していた。ちょうど「千草」のはす向かいであった。

一枚目の写真の右の通りが本町通りで、南へまっすぐに延びている。ここを南へしばらく歩くと、四差路の左角に三枚目の写真の太宰治文学サロンがある。そんなに広くはないが、太宰の資料や写真が展示されている。じつは、ここで、上記の野川家跡の説明パネルの存在を教えてもらった。

この出入口のわきの植え込みのところに、四枚目の写真の伊勢元酒店跡の説明パネル(三枚目の写真の右端に光っている)が立っている。この文学サロンのある所が太宰の一家が利用していた酒店であったとのこと。説明パネルにある地図を見ると、吉本が太宰に会ったうなぎ若松屋跡がこの近くにある。

吉本がもっとも印象に残ったという太宰の上記の「マザー・シップ」という言葉について、「母性性や女性性ということだと思うのですが、男の本質に母性。不意をつかれた。この人にしか言えない言葉だと思いました。考えている人なんだなと、ものすごく感心しました。」と語っている。同じころ別のインタビュー(「ユリイカ」)で吉本は「だからお前少しヒゲでも剃ってちゃんとしろ」といわれたと話しているが、吉本の訪問でこの有名な一言(マザー・シップ)が引き出されたといってもよく、そう考えると太宰も吉本になにか言い得ぬものを感じ取っていたのかもしれない。

続いて、「軽い人というよりも、軽くできる人だったじゃないかと思います。それができたのは、男というのは要するに男らしいとかそういうのじゃないんだよっていうのをよく知っていて、そういうところで生きていた人だったからだと思いますね。」(「ユリイカ」)と語っているが、上記の一言について吉本60年後の感想である。

ところで、吉本は、いつ太宰に会いにいったのだろうかと調べたら、昭和22年(1947)7月ころらしい。吉本23歳。太宰38歳、その死の前年である。

心中を知ったときの気持ちを聞かれた吉本は、次のように答えている。

「見事というと怒られちゃうが、太宰さんにしたら成功でしょう。何回か失敗もしているから。最後は成し遂げたという感じが、僕と友人の奥野健男(文芸評論家)にはあった。心中が伝えられた後、学校の近くの大岡山の飲み屋で二人だけの追悼会をやった。本気で太宰をわかっているって言えるのは俺とお前だけだ、と言いながら。」(この後、はじめに引用した「心中について、・・・」が続く)

本当にわかっているのは自分だけという思いは、思い入れの程度をあらわしているとはいえ、同時代を生きた人にそういう思いをできたのは稀少な体験であると思う。
(続く)

参考文献
東京人「三鷹に生きた太宰治」12月増刊2008 no.262(都市出版)
「ユリイカ」9月号 第40巻第10号 2008年(青土社)
「現代詩手帳」1972年8月臨時増刊(思潮社)
「新潮日本文学アルバム 太宰治」(新潮社)

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芥川龍之介と忠臣蔵(3)

2011年09月29日 | 文学散歩

前回の築地訪問の後、芥川龍之介が幼年時代から十代後半まで過ごした本所小泉町を訪ねた。

両国橋東側 回向院前 芥川龍之介生育の地の標柱 芥川家跡 柳橋の方から両国橋を渡って、東へ京葉道路の北側の歩道を進む。一枚目の写真は、両国橋を渡り、振り返って撮ったもので、欄干のわき遠くに神田川の河口にかかる柳橋が見える。

橋からちょっと歩き二つ目の信号のところが、二枚目の写真のように、回向院前である。この横断歩道を渡り、進むとまもなく、左手に横綱横町の小路が見えてくる。ここの歩道の右側(車道側)に三枚目の写真のように「芥川龍之介の生育の地」の標柱が立っている。四枚目の写真は、標柱の背面と、その向こうの龍之介が育った芥川家跡を撮ったものである。現在、食堂となっている。

尾張屋板江戸切絵図(本所絵図)を見ると、回向院の北側に小泉丁、横綱丁があり、東側に土屋平八郎邸がある。その北側に道を隔てて細川若狭守の屋敷がある。この本所絵図は、三版中最終版(1863)で、初版が嘉永五年(1852)であるが、この嘉永の本所絵図に、細川若狭守邸はなく、芥川などの小さな屋敷がある。近江屋板を見ると、回向院東側の土屋佐渡守邸、その東側の本多内蔵助邸の北側に、ひとまとめにして多数の姓が記してあり、その右の筆頭に「芥川」とある。芥川家は、代々御奥坊主をつとめた家柄で、この回向院の近くに屋敷があったものと思われる。

横綱横町と芥川家跡付近 芥川龍之介生育の地の説明板 説明板の写真 芥川龍之介文学碑 一枚目の写真は、横綱横丁の門構えの看板と、その左側の芥川家跡のあたりを撮ったものである。その看板の下右側に、二枚目の写真のような芥川龍之介生育の地の説明板が立っている。この説明文の下に、本所小泉町芥川家の写真がのっているが、三枚目は、その拡大写真である。私的には説明文よりもこの写真の方に興味がある。

芥川家は、本所区小泉町十五番地にあったが、明治地図を見ると、同番地は、両国橋から延びる電車通りに面し、そのわきに小路があるが、これがいまの横綱横町であろう。上記の説明板の写真は、明治時代の芥川家であるが、当時の雰囲気がよく伝わってくる。龍之介の養父道章は、東京府の土木課に勤務していたというが、これが当時の中産階級にふさわしい家なのであろうか。

標柱の所から東へちょっと歩くと信号があるが、ここで京葉道路を横断し、そのまま南へ直進し、一本目の左角に、四枚目の写真のように芥川龍之介文学碑が建っている。これが上記の説明板にある小学校前の文学碑と思われる。石碑には「杜子春」の一節が刻まれている。

吉良邸跡 本所松坂町公園由来 吉良邸跡 吉良邸跡 芥川龍之介文学碑を左に見て南へ進み、二本目を右折し、西へ歩くと、すぐの四差路の右側に、一枚目の写真のように吉良邸跡が見えてくる。ここは、二枚目の写真の説明板(三枚目の写真に写っている)のように、元禄15年(1702)12月14日赤穂浪士が討ち入った吉良上野介の上屋敷があったところである。昭和9年(1934)地元の有志が旧邸跡の一画を購入し史蹟公園とし、現在、墨田区管理の本所松坂町公園となっている。中に入ると、稲荷社があり、四枚目の写真のように、奥隅に上野介のみしるしを洗ったという井戸が再現され、吉良上野介の座像などがある。

吉良上野介の屋敷は、もちろんもっと広く、東西73間(133m)、南北35間(64m)、2550坪(約8400平方m)ほどで、この邸跡は86分の1程度という。この邸宅が本所松坂町一丁目、二丁目(現、両国二丁目、三丁目)にあったが、芥川家のあった本所小泉町十五番地の近くで、歩いて3~4分程度である。

芥川家は、下町的な江戸趣味の濃い一家で、家族全員が文学や美術を好んだというが、こういう雰囲気の中で、たとえば、大正5年(1916)2月作の短篇「孤独地獄」の冒頭に「この話を自分は母から聞いた」とあるように、龍之介は養母や伯母たちからいろんな物語や歴史話を聞いて育ったと想われる。そんな中に忠臣蔵物語もあったことは想像に難くない。なんといっても討ち入りの現場はすぐ近くであるから、話が真に迫りリアルであったに違いない。

上記の本所松坂町公園由来の説明板に「赤穂義士」とあるが、これが世間一般の忠臣蔵感であったし、いまでもまだそうであろう(「忠臣蔵」という言葉も「赤穂義士」とほぼ同義であるが)。勧善懲悪的な物語は世間に受けるものであるが、大石内蔵助ら赤穂浪士が艱難辛苦の末、主君の仇を討ったという忠臣蔵物語は、その最たるものである。龍之介の聞いた話もそういったニュアンスの濃いものであったであろう。

芥川龍之介は、前回の記事の短篇小説「或日の大石内蔵之助」を書いた大正6年(1917)8月当時、「鼻」(大正5年1月作)の発表後、師の漱石から讃辞を受け、大正5年(1916)12月から横須賀の海軍機関学校の英語教師の職を得て、その後漱石の死に遭遇したが、養父母らの実家から離れて鎌倉に住んで創作に打ち込んでいた。

そんな中で書かれた「或日の大石内蔵之助」は、単に歴史上の人物を俎上に載せて独自の解釈を加えただけのものではなさそうである。それは少年時代に聞いた物語を元にしながら、そんな物語を育む江戸から明治へと綿々と続く下町的な固定観念や親和的な雰囲気、それはおそらく、龍之介がもっとも馴染んだものであったに相違ないであろうが、そういったものを対象化した結果のように思えてくる。

誕生の地(鉄砲洲)がかつて赤穂藩浅野家の屋敷であったことを、感受性が強く人一倍鋭敏であったに違いない少年は、知ったのではないだろうか。それと育った近所が仇討ちの現場であったこととが結びついて少年の心に深く残った。そういったことが、この短篇を書くきっかけになったように思えて仕方がない。二つの偶然性が芥川の内部で必然性に転化したのである。

時津風部屋 吉良邸跡から両国駅方面にもどるが、写真は、その近くにある相撲部屋の時津風部屋である。
(続く)

参考文献
芥川龍之介全集1(筑摩書房)
新潮日本文学アルバム「芥川龍之介」(新潮社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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芥川龍之介と忠臣蔵(1)

2011年09月22日 | 文学散歩

築地川跡公園 浅野内匠頭邸跡 浅野内匠頭邸跡説明板 元禄江戸図(一部) 前回の築地三丁目から本願寺横を南に七丁目方面へ進むと、途中、公園風のところを横断するが、ここは一枚目の写真のように築地川を埋め立てたあとの公園らしい。位置的にはこのあたりに築地川にかかっていた備前橋があったと思われる。

橋の跡を越えてから左折し、次の信号を越えてちょっと歩くと、右手の歩道わきに樹々が茂った狭く細長い公園のような所がある。ちょうど聖路加看護大学の裏手のあたりである。ここに、浅野内匠頭邸跡と刻まれた石柱が建っている。

石柱のわきの説明板には、ここから南西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯八千九百余坪の地は、忠臣蔵で有名な赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していたとある。浅野内匠頭長矩は、元禄十四年(1701)三月十四日、江戸城内松の廊下で、高家の吉良上野介に斬りつけ、傷を負わせ、その咎で即日、切腹を命ぜられ、この上屋敷などは没収され、赤穂藩主浅野家は断絶となった。

四枚目は、元禄六年(1693)作の元禄江戸図(江戸図正方鑑)の部分拡大図(下が東)である。西本願寺の川を挟んで右斜め下に、「ハリマ アカシ アサノ □□」とあるが、ここが赤穂藩主浅野家の上屋敷であろう。西本願寺側の橋が、尾張屋板江戸切絵図にある備前橋で、そこから横に離れたところの橋が、同じく軽子橋と思われる。

現在の湊、明石町あたりの地は、鉄砲洲と呼ばれていた。寛永(1624~44)のころ、井上、稲富の両家が大筒(大砲)の試射をしたためこの名がついたという。出洲の形が鉄砲に似ているからとの説もある。

浅野家の鉄砲洲邸の立退きのときに、屋敷の後ろにたくさんの船を用意し、主家の重宝什器を始め、思い思いに立ち退き行く家中の財産家具を積み載せ、一々番号の札を付けて運搬させたので、さほどの混雑もなくその夜のうちに方付いたという伝説がある。

浅野内匠頭邸跡と芥川龍之介生誕の地芥川龍之介生誕の地芥川龍之介生誕の地の説明板 一枚目の写真のように、浅野内匠頭邸跡の石柱の右方十数m程度のところに、二、三枚目の写真の芥川龍之介生誕の地の説明板が立っている。

芥川龍之介は、明治25年(1892)3月1日京橋区入舟町八丁目一番地に父新原敏三、母フクの長男として生まれた。上記のように、現在、聖路加看護大学があるところである(下のgoo地図参照)。父は渋沢栄一経営の牛乳販売業耕牧舎の支配人で、このあたりに乳牛の牧場があった。ハツ、ヒサの姉がいたが、ハツは龍之介が生まれる前年に病没した。

辰年辰月辰日の辰の刻に生まれたので、龍之介と命名されたという。これは、師の夏目漱石が誕生日と生まれた時刻によると大泥棒となるという迷信から、それを避けるには金の字や金偏のつく字がよいとのことで、金之助と命名されたことと似ている。もっとも、当時は、一般的に誕生日の干支やその迷信などから命名することも多かったと思われる。

父42歳、母33歳の大厄の年の子であったため、旧来の迷信により形だけの捨て子にされたという。拾い親は、父敏三の友で耕牧舎の松村浅二郎であった。

芥川龍之介の生誕の地は、上記のように、かつて赤穂藩主浅野家の鉄砲洲の上屋敷があったところと重なる。といっても、赤穂藩主浅野家断絶の後、他家の屋敷となり、しかもかなりの時を経ているが。文久元年(1861)の尾張屋板江戸切絵図(京橋南築地鉄炮洲絵図)では、南西端が田沼玄蕃頭邸、そのとなりが松平周防守邸である。
 

誕生八ヶ月後、生母フクが発狂したため、龍之介は本所区小泉町十五番地(現、墨田区両国3-22-11)の母方の伯父(生母フクの実兄)である芥川道章に引き取られた。道章には妻トモとの間に子がなく、また、同家には道章の妹フキ(フクの直姉で生涯独身だった)がいて子育ての人手には困らず、龍之介は、主にこの伯母フキの手で育てられ教育されたという。姉ヒサも同家に引き取られたと思われる。

龍之介は、本所の芥川家で育ち、江東尋常小学校、江東小学校高等科、東京府立第三中学校(現、両国高校)を経て、明治43年(1910)9月、18歳のとき、第一高等学校第一部乙類に推薦入学した。同年、秋、芥川家は、本所小泉町から内藤新宿二丁目七十一番地に移った。その後、大正3年(1914)10月末、北豊島郡滝野川町字田端四百三十五番地に新築した家に転居した。ここが龍之介終生の住まいとなる。

この間、明治37年(1904)8月、12歳の時、龍之介は、芥川家と正式に養子縁組を結んだ。前々年12月に実母フクが亡くなっている。実父新原敏三は、耕牧舎の事業もきわめて順調で、龍之介を愛し手元で育てることを願っていたが、種々の理由からそれを断念したらしい。芥川家の上記の内藤新宿の転居先は、耕牧舎牧場の一隅にあった新原敏三の持家であったというから、両家は普通以上のつき合いがあったと思われる。

芥川家のあった本所小泉町は隅田川に近く、隅田川では明治43年8月に豪雨のため堤防が決壊し大水害が起きたので(以前の記事参照)、この年の秋の上記の転居は、これが理由であったかもしれない。
(続く)

参考文献
福本日南「元禄快挙録(上)」(岩波文庫)
朝日新聞社会部「東京地名考 上」(朝日文庫)
新潮日本文学アルバム「芥川龍之介」(新潮社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)

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