六角坂下を進み、突き当たりを左折しすぐに左折すると善光寺坂の坂下であるが、ここは後にし、突き当たりを右折する。この道をそのまま南へ進めば前回の堀坂下で、さらには富坂下に至る。次を左折し、千川通りで右折し南へ進む。やがて、右手に、源覚寺の門前の「こんにゃくゑんま」と刻まれた石柱が見えるが、通り過ぎてその先のコンビニによる。
蒟蒻閻魔のいわれとして、右の写真のように次の説明がある。
「源覚寺に伝わる閻魔像で、閻魔堂に安置されている。右眼が黄色く濁っているが、閻魔王が信心深い老婆に己の右眼を与え、老婆の感謝のしるしとして"こんにゃく"を供えつづけたという言い伝えがある。このことから、眼病治癒の『こんにゃく閻魔』として庶民の信仰を集めた。」
もどって、境内に入り、私も眼病持ちのためあやかってコンビニで買った蒟蒻を供えてお参りをする。写真のようにたくさんの蒟蒻が供えられている。いまのはビニール袋に入っているのでそのまま供えることができるが、そんなものはなかった昔はどうしていたのだろうかなどとつまらぬことを考えてしまう。(写真をあらためて見ると、桶が写っているので、ここに入れていたのであろう。)
永井荷風は『日和下駄』「第二 淫祠」で、「淫祠は大抵その縁起とまたはその効験のあまりに荒唐無稽な事から、何となく滑稽の趣を伴わすものである。」とし、民間信仰の例をいくつか挙げているが、ここも入っている(以前の記事参照)。
江戸切絵図を見ると、「源覚寺 コンニャク閻魔」とあり、門前には小石川(千川)が流れ、北隣の町屋が「小石川源覚寺門前」となっている。
源覚寺を出て左折し、ちょっと歩くと、むかしながらの商店街が続いている。このあたりは建物がほとんどビルであるが、そんな中で懐かしい雰囲気のある一角になっている。
旧町名は、初音町であるが、水上勉「私版 東京図絵」(朝日文庫)によると、水上はこのあたりに住んだことがあった。
「初音町のこんにゃくえんまの前の酒屋の路地奥に借家を見つけて、また本郷へ越した。
こんにゃくえんまは、富坂に住んだころから馴染んでいたし、初音町は都電の停留所もあって会社へも便利だった。都電通りからこんにゃくえんまに至るT字路の商店街で、ほとんど生活物資が買えた。えんま堂の前には市場もあった。」
水上勉は、富坂二丁目の高台の礫川小学校の近くにも住んでいたことがあったが、その後、松戸に越してからここに移ってきた。それまでは洋服の行商をやりながら小説も書いていたが、ここで、その洋服売りをやめて作家生活一本に入った。この初音町の家で、行商で歩いたため水虫になった足を石炭酸の入ったバケツに突っ込みながら少年時代を思い出して書いたのが「雁の寺」であるという。
商店街の先を左折すると、正面に善光寺坂が見えてくる。
(続く)
参考文献
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)