東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

桂坂

2012年05月28日 | 坂道

高輪台の代表的な坂である桂坂と聖坂を訪ねた。新旧桂坂を上り、二本榎通りを北上し、聖坂を下った。途中、台地からかつての海辺(第一京浜)へ降りると意外なところに出た。今回は聖坂でお終いとしたが、高輪台には他にも東へ、西へと下る坂がたくさんあり、以前撮った写真でいくつか紹介する。 

桂坂周辺現代地図 

桂坂下 旧桂坂下 芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 午後山手線品川駅下車。

駅前の歩道橋で第一京浜を横断し西側の歩道を北へ進む。

このあたりは、三、四枚目の江戸絵図からわかるように江戸時代までは海辺で、江戸切絵図を見ると、袖ヶ浦となっている。このためか、歩いていてもなんとなく低い感じがする。こういったところは、東京には他にもあって、たとえば外堀通りの溜池や日比谷通りの日比谷壕のあたりも低地を感じさせる。そのむかし大きな池や入り江であったからであるが、土地の記憶とよぶべきかもしれない。

やがて、信号のある交差点が見えてくるが、その手前を左折すると、東禅寺の門前に至る。その右わきを道なりに進むと、洞坂である。今回は、そちらへは進まず、信号まで行く。そこを左折すると桂坂の坂下である。一枚目の写真はそこから坂上を撮ったもので、中程度よりも緩やかな勾配で上っている。

坂下を左に見てそのまま歩道を北へ進み、次を左折すると、かなり緩やかな上り坂がある。ここが旧桂坂の坂下である。二枚目はその坂下から撮ったもので、まっすぐに上っている。

旧桂坂下側 旧桂坂下側 旧桂坂下側 桂坂下側 上の三枚目は、尾張屋板江戸切絵図の芝三田二本榎高輪辺絵図(文久元年(1861))の部分図であるが、これに海岸に面する常光寺のわきから直角に西へ延びる道がある。これが旧桂坂である。上の四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))や近江屋板でも同じである。

旧桂坂をまっすぐに進むと、右手に正覚寺の山門が見えてくるが、この寺は上記の江戸絵図にも見える。そのあたりでふり返って坂下を撮ったのが一枚目の写真である。山門をすぎると、すぐ突き当たるが、左折すると、二枚目のように、細い道となって、まっすぐに緩やかに上っている。ここを直進すると、先ほどの桂坂下のちょっと上に出る。ふり返って旧桂坂を撮ったのが三枚目である。

そこから、新桂坂(旧桂坂に対し)の坂下を撮ったのが四枚目である。ここまでまっすぐに上っている。上の現代地図と江戸切絵図とを比べるとよくわかるが、江戸時代には上記のL形となった旧道が桂坂であった。そして、ここから上が旧道と同じになるが、坂上側でふたたび新旧にわかれる。

桂坂下側 桂坂中腹 桂坂中腹 桂坂中腹 旧桂坂から出たところで右折して上るが、勾配がちょっとついてきて、一、三枚目の写真のように、緩く右にカーブしている。そこをすぎて、中腹になると、二、四枚目、下一枚目のように、まっすぐに上っている。

坂両側に高く築かれた石垣がよく目立っている。坂の風景からいうと、この石垣が続くところがもっとも風情がある。

この坂道は、坂下の第一京浜と坂上の二本榎通りとを結び、その西側の桜田通り、さらには目黒通りにもつながるためか、車の交通量がかなりある。このため、かなり騒々しいが、信号の関係からか、ときどきぴたりと車が通らないことがある。そういうときは、静かでなかなかよい坂と思うが、やがてまたもとにもどってしまう。(これでも休日であるから交通量は少ないのかもしれないが。)

桂坂中腹 桂坂中腹 桂坂上側 桂坂上側 一、二枚目の写真のように、坂も上側になると次第に緩やかになる。二枚目の歩道のちょっと先に赤茶色の道が見えるが、ここを左折し小路を進むと、洞坂の下りとなる。坂下を道なりに歩くと、東禅寺の山門に出る。車の多い桂坂を避けたい場合には、この坂に入ると、一転してかなり静かな散歩道となる。東禅寺からその裏手の都会の隠れ家のような住宅街を通って、階段を上ると、この坂の上側に出る。

坂下からでも坂上からでもこの迂回道を通って桂坂を歩き、その先で旧桂坂を歩くと、おもしろい坂道散歩を楽しむことができそうである。

上記の江戸切絵図を見ると、江戸末期には、坂中腹の南は東禅寺の敷地で、北側は松平兵部大輔、水野出羽守の各屋敷である。

三、四枚目のように坂上側でほぼ平坦になったところ、北側の歩道に坂の標柱(四枚目、下一枚目)が立っている(新桂坂下にも)。標柱には、次の説明がある。

「かつらざか むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう。」

桂坂上側 桂坂上側 旧桂坂上側 旧桂坂上側 標柱のところからちょっと歩くと、二枚目の写真のように、信号のある交差点があるが、ここからふたたび上りになっている。この上りは新桂坂で、交差点を右折すると、ふたたび旧桂坂である。

二枚目の左端に東禅寺の方から続く階段の手摺りの上部が見える。その階段の方から旧桂坂を撮ったのが三枚目である。かなり緩やかに上っている。

交差点から旧桂坂を進むと、すぐに四差路があるが、ここを左折すると、高輪台小で、そのわきを細い道が続いている。四枚目のように、小学校の塀と住宅との間に緩やかな上り坂が延びている。

『御府内備考』の高輪之一の総説に次の説明がある。

「桂坂  北町北横町より二本榎の方へ通る坂なり此辺蔦かつらの多くはへりしゆへ名とすといふ此説のごときは蔓(かずら)坂と書べきか又江戸砂子に鬘(かつら)を掛て身をやつせし出家の此坂にて頓死せるよりの名にて鬘坂と記たり」

上記の標柱の説明は、この御府内備考を参考にしているのか、ほとんど同じであるが、坂名の由来はいまいち明確でない。

旧桂坂上側 旧桂坂上 旧桂坂上 桂坂上 小学校わきの道はかなり長く続くが、その途中で坂下側を撮ったのが一枚目の写真である。さらに進むと、二枚目のように、旧桂坂の坂上が見えてくる。坂上の先は二本榎の通りである。三枚目は、二本榎の通りから旧桂坂上を撮ったものである。坂上を左折し、新桂坂上までもどり、坂上を撮ったのが四枚目である。

この坂は、坂下の第一京浜から坂上の二本榎通りまでかなり長い。特に、旧桂坂をたどると、いっそうその感じが強くなる。

上の現代地図と江戸絵図をふたたび見ると、坂上側の旧道もむかしと同じように残っていることがわかる。江戸絵図には、この旧桂坂の北側に承教寺があるが、この寺は現在も小学校の北側にある。そのさらに北には、泉岳寺があるが、尾張屋板に「義士四十七人ハカアリ」とある。

明治地図(明治四十年)を見ると、まだ旧坂のままであるが、坂下側が途中まで延びている。戦前の昭和地図(昭和十六年)には現在の新桂坂がある。

この坂は、坂下と坂上で旧坂が残って新坂と併存している珍しい坂である。以前の記事のように、旧桂坂が課題として残っていたが、今回ようやく歩くことができた。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第五巻」(雄山閣)

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八百屋お七のふくさ

2012年05月16日 | 読書

円乗寺参道 八百屋お七の墓 大円寺門前 ほうろく地蔵 文京区白山の坂巡りのとき、浄心寺坂下の円乗寺(一枚目の写真)にある八百屋お七の墓(二枚目の写真)、その坂上の先の旧白山通り北の大円寺(三枚目の写真)にあるお七に因む焙烙(ほうろく)地蔵(四枚目の写真)を訪ねた。

森鷗外の史伝の一つに『澀江抽斎』がある。澀(渋)江抽斎(文化二年(1805)~安政五年(1858年))は、江戸時代末期の医師、考証家、書誌学者である。この史伝に「八百屋お七のふくさ」というのが出てくるが、忘備のため、ここに書き留める。

「五郎作は又博渉家の山崎美成(よししげ)や、画家の喜多可庵(かあん)と往来していた。中にも抽斎より僅に四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、疑を質(ただ)すことにしていた。五郎作も珍奇の物は山崎の許へ持って往って見せた。
 文政六年[1823]四月二十九日の事である。まだ下谷(したや)長者町で薬を売っていた山崎の家へ、五郎作はわざわざ八百屋お七のふくさというものを見せに往った。ふくさは数代前に真志屋(ましや)へ嫁入した島と云う女の遺物である。島の里方を河内屋半兵衛と云って、真志屋と同じく水戸家の賄方(まかないかた)を勤め、三人扶持を給せられていた。お七の父八百屋市左衛門は此河内屋の地借(じかり)であった。島が屋敷奉公に出る時、穉(おさな)なじみのお七が七寸四方ばかりの緋縮緬(ひぢりめん)のふくさに、紅絹裏(もみうら)を附けて縫ってくれた。間もなく本郷森川宿のお七の家は天和二年[1682]十二月二十八日の火事に類焼した。お七は避難の間に情人と相識になって、翌年の春家に帰った後、再び情人と相見ようとして放火したのだそうである。お七は天和三年三月二十八日に、十六歳で刑せられた。島は記念(かたみ)のふくさを愛蔵して、真志屋へ持って来た。そして祐天上人から受けた名号をそれに裹(つつ)んでいた。五郎作は新にふくさの由来を白絹に書いて縫い附けさせたので、山崎に持って来て見せたのである。」(その二十三)

真志屋五郎作は、抽斎と交わりのあった好劇家で、神田新石町の菓子商で水戸家の賄方を勤めた家であった。この家には、数代前に嫁入した島という女の遺物に八百屋お七のふくさというのがあり、島が屋敷奉公に出る時、幼なじみのお七が縫ってくれたものという。

祐天上人から受けた名号をそれにつつんでお七の形見として大事にした島、百年以上前のふくさの謂われを白絹に書いて縫い附けさせた五郎作、これらのことをこういった史伝に書き残した鷗外まで、その間二百年余り。この史伝のほんの短い挿話であるが、一つの物語ができあがっている。もちろん、主人公は島とお七である。

参考文献
「鷗外選集 第六巻」(岩波書店)

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雑司ヶ谷霊園~東池袋中央公園

2012年05月15日 | 散策

公園わき案内地図 前回の記事のように、今回は雑司ヶ谷霊園までの予定で、次はどこへ行こうかとベンチで休憩しながら地図をながめる。ちょっと暑くなってきたので、冷たいジュースがおいしい。この近くにサンシャインビルがあるが、そのそばの東池袋中央公園に行くことにする。柳北の墓と荷風の墓との間で荷風の墓側(東)に東条英機の墓があり、これを見たからである。

荷風の墓地を右に見て北側から霊園を出て、左折し、次を右折し、都電荒川線の踏切を渡り、そのまま進む。日出通りを横断しさらに進むと、サンシャインビルで、そのそばを歩き、階段を上下すると、東池袋中央公園に着く。霊園から意外に近い。

この公園を含めたサンシャインビルの敷地には、明治28年(1895)警視庁監獄巣鴨支所ができ、後に、巣鴨監獄、巣鴨刑務所と改称し、関東大震災(1923)で被災したため府中に移転し、その跡地に昭和12年(1937)東京拘置所が設置された。東京拘置所は、戦後、連合軍に接収されて、多くの戦犯が収監され、巣鴨(スガモ)プリズンと呼ばれた。その後、昭和33年(1958)東京拘置所にもどり、昭和46年(1971)小菅に移転した。

戦後まもなくA級戦犯に対し東京裁判が開始されたが、裁判は市ヶ谷の旧陸軍士官学校(現在、防衛省がある)の大講堂を法廷として行われたので、巣鴨プリズンに収容されていた被告は、ここから裁判のたびに市ヶ谷へ護送された。

公園内の石碑 石碑の裏面 1945(昭和20年)8月8日米英仏ソによりロンドン協定と国際軍事裁判所条例が調印されたが、この条例の第六条で戦争犯罪について、(a)平和に対する罪、(b)戦争犯罪、(c)人道に対する罪、の三つに類型化した。この条例でドイツではニュルンベルク裁判が行われた。その後、米国主導で極東国際軍事裁判所条例が制定され、上記の戦争犯罪の規定が少し修正されて採用された。

東京裁判では「平和に対する罪を含む犯罪」を犯した者を扱うとされ、平和に対する罪(A級)を含む戦争犯罪人を主要戦犯またはA級戦犯と呼び、主に政府や軍の指導者であった。捕虜虐待などの戦争法規違反者はまとめてBC級戦犯と呼ばれ、軍人が多かったが、民間人もいた。BC級戦犯裁判は、アジアなどの各国複数箇所で行われ、日本では横浜(横浜地方裁判所内に設置された軍事法廷)であった。

東京裁判の歴史をごく簡単にたどると次のとおり。

・昭和21年(1946)4月29日東条英機や荒木貞夫や広田弘毅などのA級戦犯28被告に巣鴨プリズンで起訴状が手渡される。

・同年5月3日「極東国際軍事裁判所」が開廷する。午後の法廷は起訴状の朗読ではじまったが、このとき、珍事が起きた。被告の大川周明が前にいた東条のはげ頭をぴしゃりとたたいたのである。ほどなく再び頭をたたいて大川は奇声を発したりしたので裁判長は休憩を宣言した。起訴状朗読で全員起立した東京裁判の写真があるが、これには、確かに東条の後ろにパジャマ姿の大川が写っている。

・昭和23年(1948)4月15日東京裁判の審理が終了する。

・同年11月4日東京裁判の判決文の朗読が始まる。

・同年11月12日A級戦犯25被告に判決がでた。判決文朗読は土日をはさんで正味七日間を要し、その最終日であった。裁判の途中で松岡洋右と永野修身が死亡し、世田谷の精神病院に入院していた大川は審理から除外されていたので、判決のとき被告は25名であった。

判決は、全員が有罪で、東条英機、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章、松井石根、広田弘毅の7名が絞首刑、荒木ら16名が終身禁固刑、東郷が禁固20年、重光が禁固7年であった。絞首刑は、広田を除き、全員陸軍関係者で、海軍関係者はいない。

・同年12月23日真夜中午前零時一分から巣鴨プリズンで、絞首刑とされた被告7名の処刑が行われた。刑は二組にわけて執行され、第一組は土肥原、松井、東条、武藤で、第二組は板垣、広田、木村であった。

処刑場に行く前の仏間で、教誨師で僧侶の花山信勝師がブドー酒(別れの酒)と水(末期の水)で最後のわかれをしたが、第二組の広田が、この仏間へ入室したとき、花山師に「今、マンザイをやってたでしょう」とまじめな顔で聞き、花山師は「マンザイ? いや、そんなものはやりませんよ」とまじめな顔で応えた。
広田がまた言った。「このお経のあとで、マンザイをやったんじゃないか?」
花山師はようやく気がつき、「ああ、バンザイですか、バンザイはやりましたよ。それでは皆さんも、ここでどうぞ」
広田は板垣に言った。「あなた、おやりなさい」
うなづいた板垣の音頭で、割れるような大声で三人は「天皇陛下万歳」を三唱したという。

巣鴨プリズンの北西角に塀に沿うようにして処刑場のある建物があった。いま、その処刑場のあった公園の一角に、一枚目の写真のような自然石の碑が建っている。その裏面には、二枚目のような碑文が刻まれている。

公園北側の通り 公園北西角 巣鴨プリズンの処刑場では、A級戦犯7名を含め60名の絞首刑が執行された。このうち、51名が横浜の軍事法廷で死刑判決を受けたBC級戦犯で、大半が俘虜収容所関係の軍人・軍属であった。巣鴨プリズンはA級戦犯の処刑で有名であるが、それよりもはるかに多くのBC級戦犯が処刑されている。

アジア等の海外ではBC級戦犯1054名が処刑されているが、准士官・下士官が圧倒的に多い。准士官とは陸軍准尉と海軍兵曹長、下士官とは、陸軍では曹長、軍曹、伍長、海軍では上等兵曹、一等兵曹、二等兵曹である。将校では、下級将校に集中し、大尉が特に多い。これらのことは戦争とはなんであるのか(なんであったのか)を如実に物語っている、と思わざるを得ない。

一枚目の写真は公園の北側の通りで、二枚目は、その通りを直進したところの北西角である。この植え込みの向こうに上記の碑があり、かつて処刑場があった。このあたりは、いま、サンシャインを訪れる人たちで賑やかであるが、そのような歴史を知っている人はどれだけいるであろうか。

永井荷風の日記「断腸亭日乗」を見ると、昭和23年(1948)11月12日に次の記述がある。

「十一月十二日。晴。東京堂編輯員森鷗外先生選集の事につき来話。午後浅草大都座楽屋。夜俄に寒し。旧軍閥の主魁荒木東条等二十五名判決処刑の新聞記事路傍の壁電柱に貼出さる。」

判決が出た11月12日に、その判決内容を伝える新聞が壁や電柱に貼り出されていたのを荷風が見たようで、簡単に記している。それでも、「軍閥」「主魁」といった文言に荷風の心情の一端がかいま見えるようである。

処刑のあった同年12月23日は次のようになっている。

「十二月廿三日。隂りて寒し。薄暮常磐座楽屋。偶然戦争前オペラ館女優なりし西川千代美に逢ふ。伊豆伊東にて踊師匠をなし居れりと云。桜むつ子高清子等と福島に喫茶してかへる。」

処刑についてはまったく触れていない。無視したのか、単に知らなかったのか、わからないが、新聞などを読まないため知らなかっただけのような気がする。この日、正午、日本の神社仏閣や教会の鐘が一斉に鳴り渡ったという。

公園からジュンク堂書店へ行ってから池袋駅へ。

携帯による総歩行距離は、15.1km。

参考文献
平塚柾緒「図説 東京裁判」(河出書房新社)
林博史「BC級戦犯裁判」(岩波新書)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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玉川上水(鷹の橋~小平監視所)2012

2012年05月07日 | 写真
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神楽坂~雑司ヶ谷霊園(4)

2012年05月06日 | 荷風

雑司が谷一丁目 雑司が谷一丁目 雑司が谷一丁目 雑司ヶ谷霊園出入口 前回の薬罐坂(目白台)下で不忍通りを北へ横断し、歩道を西へ歩き、次を右折する。雑司が谷一丁目の住宅街を北へ縦断するように進むが、一~三枚目の写真はその途中で撮ったものである。細い道が続き、緩やかな上りとなっている。

しばらく歩くと、四枚目のように四差路に出るが、ここから先が雑司ヶ谷霊園である。そのまま直進すると、四差路があるが、ここを進むと、すぐ右が夏目漱石の墓の裏である。

下一枚目の尾張屋板江戸切絵図の雑司ヶ谷音羽絵図(安政四年(1857))の部分図のように、護国寺と鬼子母神との間、青龍寺(清立院)の北のあたりが雑司ヶ谷霊園であろう。

雑司ヶ谷音羽絵図(安政四年(1857)) 永井荷風の墓 永井荷風の墓 永井家墓所裏側 上記の四差路を左折し、西へ、北へとしばらく歩くと、右側に永井荷風の墓がある。詳しい場所は以前の記事のとおり。

二、三枚目は荷風の墓で、その左が荷風の父久一郎(禾原)の墓である。既にお参りに来た人がいたようで、百合の花や煙草が供えられていた。四枚目は永井家墓所の裏側を撮ったもので、生垣の中に荷風の墓がある。

上記の記事で、荷風は父久一郎の祥月命日である一月二日によくここに墓参りに来ていることを書いた。一日や三日に来たときもあったようである。大正14年(1925)1月1日の「断腸亭日乗」に次のように記している。

「正月元日。快晴の空午後にいたりて曇る。風なく暖なり。年賀の客は一人も来らず。午下雑司谷墓参。帰途関口音羽を歩む。音羽の町西側取りひろげらる。家に帰るに不在中電話にて久米秀治氏急病。今朝九時死去せし由通知あり。老少不常とはいひながら事の以外なるに愕然たるのみ。」

この日、墓参りに来て、その帰りに関口や音羽を歩き、音羽の町の西側が取り広げられていたとある。帝劇秘書久米秀治が急死したことに驚いている。

翌年、大正15年(1926)1月1日の「断腸亭日乗」は次のように長い。

「正月元日。曾て大久保なる断腸亭に病みし年の秋、ふと思ひつきて、一時打棄てたりし日記に再び筆とりつゞけしが、今年にて早くも十載とはなりぬ。そもそも予の始めて日記をつけ出せしは、明治二十九年の秋にして、恰も小説をつくりならひし頃なりき。それより以後西洋遊学中も筆を擱(お)かず。帰国の後半歳ばかりは仏蘭西語のなつかしきがまゝ、文法の誤りも顧ず、蟹行の文にてこまごまと誌したりしが、翌年の春頃より怠りがちになりて、遂に中絶したり。今之を合算すれば二十余年間の日乗なりしを、大正七年の冬大久保売邸の際邪魔なればとて、悉く落葉と共に焚きすてたり。今日に至りては聊惜しき心地もせらるゝなり。昼餔の後、霊南阪下より自働車を買ひ雑司が谷墓地に徃きて先考の墓を拝す。墓前の蠟梅今年は去年に較べて多く花をつけたり。帰路歩みて池袋の駅に抵る。沿道商廛(店)旅館酒肆櫛比するさま市内の町に異らず。王子電車の線路延長して鬼子母神の祠後に及べりと云ふ。池袋より電車に乗り、渋谷に出で、家に帰る。日未没せず。この日天気快晴。終日風なく、温暖春日の如し。崖下の静なる横町には遣羽子の音日の暮れ果てし後までも聞えたり。街燈の光のあかるさに、裏町の児女夜を日につぎて羽根つくなり。軒の燈火の薄暗かりし吾等幼時の正月にくらべて、世のさまの変りたるは、是れにても思知らるゝなり。」

この年も元旦に父の墓参りに霊南坂下から自動車に乗って来ているが、はじめに、日記「断腸亭日乗」を書き始めてからもう十年になることを記している。

日記は、その前、明治29年(1896)からずっと、米国、フランスでも、帰国した後もつけていたが、その後中断した。大正七年(1918)大久保余丁町の家を売却するとき、落ち葉と一緒に燃やしたが、惜しかったような気持ちもする。

墓参りからの帰りに、池袋に出たが、沿道に商店、旅館、酒屋がすきまなく並んでいる様子は市内の町と同じである。王子電車とは、いまの都電荒川線のことで、鬼子母神の神社の後ろまで延びたことを記している。池袋から電車に乗って、渋谷に出て帰った。偏奇館の崖下の横町では、女の子が羽根つきを日が暮れてからも街灯の光で続けていたが、自分の子供時代の正月と比べてなんという変わりようであろう。

以上のように、この年の墓参りの日の記述は多くなっているが、この頃、そういう気分であったのか、次の日、父の亡くなったときのことをかなり詳しく書いている。その冒頭を引用する。

「正月初二。先考の忌辰なれば早朝書斎の塵を掃ひ、壁上に掛けたる小影の前に香を焚き、花缾に新しき花をさし添へたり。先考脳溢血にて卒倒せられしは大正改元の歳十二月三十日、恰も雪降りしきりし午後四時頃なり。・・・」

成島柳北の墓付近 成島柳北の墓付近 成島柳北の墓 成島柳北の墓 荷風の墓に北へと向かう途中、左側に成島柳北の墓があることは以前の記事のとおりである。

一枚目の写真は、柳北の墓地のある方を撮ったもので、中央に見える小道を入ると、次の右側である。二枚目は、柳北の墓地の裏側の小道を撮ったもので、下側が傾いた松の木が写っている(一枚目の背の高い木)。

前回来たときの上記の記事で、次の昭和二年(1927)の「断腸亭日乗」を引用した。

「正月二日 好晴、今日の如き温暖旧臘より曾て覚えざる所なり、午下自働車を倩ひ雑司ケ谷墓地に赴く、道六本木より青山を横ぎり、四谷津の守坂を下りて合羽坂を上り、牛込辨天町を過ぎて赤城下改代町に出づ、改代町より石切橋の辺はむかしより小売店立続き山の手にて繁華の巷なり、今もむかしと変る処なく彩旗提燈松飾など賑かに見ゆ、江戸川を渡り音羽を過ぐ、音羽の街路広くなりて護国寺本堂の屋根遥かこなたより見通さるゝやうになれり、墓地裏の閑地に群童紙鳶を飛ばす、近年正月になりても市中にては凧揚ぐるものなきを以てたまたま之を見る時は、そゞろに礫川のむかしを思ひ出すなり、又露伴先生が紙鳶賦を思出でゝ今更の如く其名文なるを思ふなり、車は護国寺西方の阪路を上りて雑司ケ谷墓地に抵る、墓地入口の休茶屋に鬼薊清吉の墓案内所と書きたる札下げたるを見る、余が馴染の茶屋にて香花を購ひまづ先考の墓を拝す、墓前の蠟梅馥郁たり、雑司谷の墓地には成島氏の墓石本所本法寺より移されたる由去年始めて大島隆一氏より聞知りたれば、茶屋の老婆に問ふに、本道の西側第四区にして一樹の老松聳えたる処なりといふ、松の老樹を目当にして行くに迷はずして直ちに尋到るを得たり、石の墻石の門いづれも苔むして年古りたるものなり、累代の墓石其他合せて十一基あり、石には墓誌銘を刻せず唯忌日をきざめるのみなり、・・・」

上記の「日乗」で云う、成島家の墓のある所にそびえる「一樹の老松」とは、一、二枚目の松の木のようである。二枚目に写っているように「御鷹部屋と松」という説明板が道側に立っているが、それには、このあたりに江戸時代中期の享保四年(1719)以降、幕府の御鷹部屋があり、その屋敷内に松の木があった、とある。さらに、「この松の木は当時の様子をしのばせてくれます。」とあり、「この松の木」とは、上記の写真の松であろう。

上記の江戸切絵図を見ると、確かに、このあたりに「御鷹部屋 御用屋敷」がある。近江屋板(嘉永四年(1851))にも同じようにある。

三枚目は、二枚目の写真の小道を入り、ふり返って、松の根元部分を撮ったものであるが、右の奥に、柳北の墓が写っている。四枚目は柳北の墓側から松を撮ったもので、下右側の黒い墓石が柳北の墓である。左側面に「明治十七年十一月卅日終壽四十八 門生小澤圭謹書」とあり、明治17年(1884)11月30日に48歳で亡くなっている。

成島柳北の碑 成島柳北の胸像 上記の以前の記事で、「日乗」の一樹の老松はいまはないようであるとしたが、これは誤りで、現存しているようである。ということで、荷風の見た木がまだ残っているとはうれしい限りである。荷風が長年住んだ偏奇館の跡は土地そのものがなくなっている現在からすれば、この木は貴重である。

左の二枚の写真は、最近、向島の長命寺で撮った柳北の胸像のある石碑である。以前の記事でも触れたが、鼻の天辺が欠けている。

今回は、荷風の慣れ親しんだ神楽坂から出発し、小日向の坂を巡り、さらに、目白台を上下し、雑司が谷一丁目を縦断して雑司ヶ谷霊園に至ったが、途中の付属横坂のあたりや雑司が谷一丁目以外は、江戸切絵図にある道を通った。江戸趣味があり、切絵図にも親しんでいた荷風をしのぶにはまたよいコースであった(ちょっとこじつけ気味であるが)。

参考文献
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(上)」(岩波現代文庫)

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神楽坂~雑司ヶ谷霊園(3)

2012年05月04日 | 坂道

前回の薬罐坂上から付属横坂、三丁目坂、目白台の薬罐坂下を通って、不忍通りを横断した。

薬罐坂上 西側の道 小日向三丁目 付属横坂上 付属横坂上 前回の薬罐坂上を左折し、生西寺の北で東西に延びる道を西へ向かう。その途中で西側を撮ったのが一枚目の写真である。

前回の尾張屋板江戸切絵図 東都小石川絵図(安政四年(1857))の部分図を見ると、生西寺の北で東西に延びる道が見え、その西に四差路があるが、その手前で一枚目を撮った。この四差路は切絵図で南北方向に食い違っているが、以前の記事のように現在もそうである(東西方向にも食い違っているが)。ここを左折すれば、新渡戸稲造の旧居跡を通って、服部坂上に至る。この道も江戸から続いている。

上記の江戸切絵図には、荒木坂浅利坂新坂が見える。

小日向台町小を右に見て西へ歩き、突き当たりを右折し、北へどんどん歩く。ここは初めて歩く道で、大日坂の通りの一本東側である。静かな住宅街が続いている。途中、信号のある交差点のところでちょっと下り坂になり、さらに進むと、小日向三丁目のところで、二枚目の写真のように、道が妙に凸凹しているが、それを示す道路標識が道脇に立っている。如何なる理由かわからないが、この先も同じような所がある。

この途中で右折すれば、拓殖大学わきの無名の坂上に至り、そこを下ると、茗荷坂に出る(以前の記事参照)。

やがて左に公園が見えてくると、突き当たりで、ここを左折し西へ向かう。この道は春日通りと音羽通りとを結び、右側(北)がお茶の水女子大、左側(南)が音羽中、筑波大付属高・中で、文教地区となって、住宅地でないため、これまで歩いてきた道と雰囲気が一変する。

三枚目の写真のように、付属横坂の坂上に近づいてきて、付属高・中の出入口のあたりから下りはじめる。四枚目はちょっと下ってから坂上を撮ったものである。三、四枚目のように、石垣の上に新緑の樹木が見え、住宅やビルが見えず、通常の住宅街やビル街とはまったく違った風景となっている。無機的な感じもするが、たまにはこういった眺めのある坂もよい。

付属横坂上側 付属横坂中腹 付属横坂下 付属横坂下 下ると、一、二枚目のように、途中から右に緩やかにカーブしているが、このカーブがまたこの坂に一種の趣を与えている。まっすぐに下るよりも曲がることでなにか幻想的な雰囲気を醸し出している。

この坂は、付属横坂の記事のように、昨年も荷風の祥月命日に雑司ヶ谷霊園からの帰りに通った。そのときがはじめてであったが、それまでの賑やかな坂と違って静かな坂でほっとした覚えがある。

このあたりの散歩コースに是非、加えたい坂道で、どんな道と組み合わせても、それまでとはちょっと変わった落ち着いた風景を楽しむことができる。

そのまま下ると、音羽通りに出るが、その手前で撮ったのが四枚目で、通りの向こうにこれから行く三丁目坂が見える。

三丁目坂下 三丁目坂中腹 三丁目坂中腹 雑司ヶ谷音羽絵図(安政四年(1857)) 付属横坂下で音羽通りを横断するが、一枚目の写真は、横断前に三丁目坂を撮ったもので、坂下から西へまっすぐに上り、高架の首都高速道路の下を通りすぎてから、二枚目のように右へカーブしている。

この坂には以前も来ているが(以前の記事)、このときは、この南側の鉄砲坂下から高架道路の下を通って来たように覚えている。

四枚目は、尾張屋板江戸切絵図の雑司ヶ谷音羽絵図(安政四年(1857))の部分図であるが、上記の付属横坂はもちろんこの時代にはなく、安藤長門守の屋敷である。音羽通りの西側の三丁目と四丁目の間で桂林寺の北に道が見えるが、ここがこの三丁目坂であると思われる。緩やかにカーブしながら西へ延びている。

この切絵図には、護国寺近くの富士見坂、小日向の鼠坂、この近くの鉄砲坂などが見える。

三丁目坂中腹 三丁目坂上 三丁目坂上の先を右折した道 薬罐坂下(目白台) カーブ(一枚目の写真)してからまっすぐに上って、二枚目の写真のように坂上に至るが、ここは目白台地である。坂上を直進し、三つ目の交差点を右折すると、目白台の薬罐坂であるが、今回はそうせず、はじめの交差点を右折する。この道ははじめてである。三枚目は、その道の途中で撮ったもので、向こうに稲荷神社が見えてくる。

上記の雑司ヶ谷音羽絵図(安政四年(1857))に、護国寺のちょっと南に、小さく「コシカケイナリ」とある。近江屋板(嘉永四年(1851))にもあるが、これが上記の稲荷神社と思われる。しかし、神社に寄ってみたが、その旨の表示がなく腰掛神社であることはわからなかった。

神社のところで左折すると、ちょっと下りになって、やがて不忍通りに出るが、ここに薬罐坂下も合流する。四枚目の写真は、清戸坂のある不忍通りを北側へ横断してから、薬罐坂下を撮ったものである。

ここまで来ると雑司ヶ谷霊園はすぐである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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神楽坂~雑司ヶ谷霊園(2)

2012年05月04日 | 坂道

前回の神田川にかかる古川橋から、服部坂、横町坂、薬罐坂を通って、小日向台地を北へ向かった。

服部坂下 服部坂下 服部坂中腹 礫川牛込小日向絵図(万延元年(1860)) 前回の古川橋を渡ったところから撮ったのが一枚目の写真である。服部坂が見え、坂下手前の道が水道通り(巻石通り)であるが、橋のたもとから通りまでも緩やかに上っている。二枚目は通りに近づいてから撮ったもので、北へまっすぐに上っている。三枚目、下一枚目は坂の中腹で撮ったものである。

坂下から上って中腹右側の旧区立五中(現在、文京江戸川橋体育館)前の壁に坂の標識がはり付けられているが、その説明は以前の記事で紹介した。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図の礫川牛込小日向絵図(万延元年(1860))の部分図に、江戸川(神田川)にかかる石切橋のすぐ上流の橋が見えるが、ここが古川橋で、そこを北にまっすぐに進むと、神田上水(現在の水道通り)が流れている。ここにかかる橋を渡ると服部坂の上りである。上流側に大日坂が見える。

服部坂中腹 服部坂上 横町坂上 横町坂下 服部坂上まで上ると、二枚目の写真のように、山の上であるが、ビルばかりの眺望である。ここから荷風の時代は先ほど通った赤城神社の森が見えたのであろう。

ここは、神楽坂や赤城坂などのある牛込台地とは別の小日向台地(小石川台地の一部)である。この間に先ほど通ったように低地が広がっており、そのむかしは田んぼであった。中沢新一「アースダイバー」(講談社)の縄文海進期の地図を見ると、神田や大手町のあたりから入り込んだ入江が、飯田橋から江戸川橋の方までかなりの広さで続いている。

服部坂上からちょっと下り、左折すると、左手が福勝寺の門前で、横町坂の坂上である。ここも以前の記事で紹介した。

上記の礫川牛込小日向絵図に、服部坂上側に福勝寺があるが、この南側を下る坂が横町坂である。坂下を左折すると、薬罐坂に至るが、ここになぜか、切支丹坂とある。服部坂や大日坂と違って、坂名が道の中にではなく、道わきに表示されているので、切支丹坂へ至るのような案内の意味なのであろうか。下四枚目の江戸切絵図の東都小石川絵図を見ると、その右上にキリシタンザカ(庚申坂)が見えるが、横町坂下からはかなり離れている。

横町坂下 薬罐坂中腹 薬罐坂中腹 東都小石川絵図(安政四年(1857)) 横町坂は、上三、四枚目、一枚目の写真のように、勾配はそんなにないが、細くちょっとうねっており、むかしながらの坂という感じがして好ましい。

坂下を左折し北へ進み、次を右折し、突き当たりを左折すると、薬罐坂の坂下である。この坂も以前の記事で紹介したが、そのとき、坂上側の写真が少なかったので、今回は中腹から上側の写真を載せる。

坂下から緩やかな坂を進むと、ちょっと右に曲がってから(三枚目の写真)、二枚目の写真のように、中腹あたりから上側では、ほぼまっすぐに北へ上っている。途中左側が生西寺の門前である。

四枚目は、尾張屋板江戸切絵図の東都小石川絵図(安政四年(1857))の部分図で、上が北であるので、現在の地図と対比しやすい。服部坂上の福勝寺南の横町坂を下り、左折し、突き当たりを、右折、左折したところが薬罐坂下である。現在の道筋はこの江戸切絵図と同じである。

薬罐坂上 薬罐坂上 薬罐坂(近江屋板江戸切絵図) 薬罐坂(尾張屋板江戸切絵図) 一枚目の写真は、坂を上り、坂上を撮ったもので、二枚目は坂上から坂下を撮ったものである。ずっと緩やかな上りであったが、坂上近くでちょっと急になる。

上記の四枚目の東都小石川絵図(安政四年(1857))には、坂上を左折した道で、生西寺の北に「ヤカンサカ」とあり、上記の薬罐坂の位置(生西寺の北で東西に延びる道を東に向かい、右折し南に下る坂)と異なる。

一方、近江屋板(嘉永五年(1852))では、坂上を右折した道に、坂マーク△があり、東向きの上りを示すとともに、ちょうど坂上の鞍部のところに「ヤカンサカ」とある。

三枚目は坂上右側(東)の道(生西寺の北で東西に延びる道)を撮ったもので、緩やかであるが上りとなっているが、この坂が近江屋板(嘉永五年(1852))によれば薬罐坂である。

四枚目は上記と反対側の坂上左側(西)の道(生西寺の北で東西に延びる道)を撮ったもので、ここも緩やかであるが上りとなっているが、この坂が尾張屋板によれば薬罐坂である。

上記の違いについて以前の記事でも触れたが、いずれが薬罐坂であるのか不明である。

横関は、この小日向の薬罐坂について説明されたものを見たことはないとし、このため、坂の位置を尾張屋板のとおりに考えている。また、やかん坂は幽霊坂などと同じようなさみしいところの坂をいったとしているが、現在の生西寺の北で東西に延びる道(三、四枚目の写真)と、上記の薬罐坂とされている南に下る坂を比べると、前者の道は明るいが、後者の道はなんとなく暗く、こちらの方がやかん坂にふさわしいと思ってしまう。しかし、江戸時代にはどうであったのか、どちらも暗くさみしかったようにも思えてくる。

出発の神楽坂からここまでの道筋は、尾張屋板江戸切絵図にある道とほとんど同じである。江戸切絵図を見ると、このあたりは江戸から続く街であることをあらためて感じる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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神楽坂~雑司ヶ谷霊園(1)

2012年05月03日 | 坂道

4月30日は、永井荷風の祥月命日であったので、雑司ヶ谷霊園へ墓参りに出かけた。昨年も訪れて(昨年の記事参照)、それから小石川方面へと坂巡りをしたが、今回は、神楽坂から歩いて行った。例によって坂巡りをしながらである。コースは記事の中で紹介するが、小日向の服部坂経由である。

神楽坂遠景 神楽坂下 神楽坂中腹 神楽坂中腹 午後JR飯田橋駅下車。

まず、神楽坂の先から赤城神社に行き、赤城坂を下り、神田川にかかる古川橋を目指す。

駅から出て右折すると、下り坂であるが、その途中、神楽坂方面を撮ったのが一枚目の写真である。外堀通りの向こうからまっすぐに上っている。二枚目は坂下から坂上を撮ったもので、右側に坂の標柱が立っている。坂下側はちょっと緩やかであるが、しだいに傾斜がついてきて、中程度の勾配となる。休日で歩行者天国のためたくさんの人が道の真ん中を歩いている。

三、四枚目は坂下からちょっと上った中腹で坂上、坂下を撮ったものである。両わきに商店街があり、老若男女が歩いているが、こういった賑やかなところで、いろんな年齢層の人が繰り出しているのも珍しい光景である。どんな年齢層でもそれなりに楽しむことができる街なのであろう。

神楽坂上 三年坂上 神楽坂毘沙門天前 神楽坂通り(大久保通りの西側) 賑やかな坂を上るが、道の真ん中を歩くので、いつもの坂巡りとはちょっと違った雰囲気である。もっとも以前来たときも、休日でこんな感じであった記憶があるが。

一枚目の写真のちょっと上が坂上である。これから先は、平坦というよりもむしろ緩やかであるが下りとなっている。坂上の先で右折すると、二枚目の写真のように本多通りであり、三年坂上である。そこを通りすぎてちょっとすると、善国寺毘沙門天前で、三枚目のように、標柱が立っていて、緩やかに下っている。善国寺は、麹町の善国寺坂近くにあったが、寛政10年(1798)の火事で焼失したためここに移ってきた。標柱の説明は以前の記事のとおり。

緩やかな下りを進むと、やがて、大久保通りに至るが、ここを横断してその先を撮ったのが四枚目である。ここからふたたび緩やかであるが上りとなる。

神楽坂は荷風の『断腸亭日乗』によく登場するので、この坂を荷風を偲んでその祥月命日に歩くのもわるくない。この坂にあった田原屋によくきたようで、たとえば、大正11年(1922)3月15日に次の記述がある。

「三月十五日。不願醒客と神楽阪の田原屋に飲む。微雲淡月春夜の情景漸く好し。」

不願醒客とは、親友の井上啞々のことである。荷風が云うような情景はたぶんもう見ることはできない。

同年「八月三十日。晴れ。夜清元秀梅と牛込の田原屋に飲む。秀梅酔態妖艶さながら春本中の女師匠なり。毘沙門祠後の待合岡目に徃きて復び飲む。秀梅欷歔啼泣する事頻なり。其声半庭の虫語に和す。是亦春本中の光景ならずや。」

同年「十二月廿七日。清元秀梅と神楽阪の田原屋に飲み、待合梅本に徃き、秀梅の知りたる妓千助といふを招ぐ。此夜また暖なり。」

荷風の祥月命日ということであえて引用するが、それでもこういった漢文調であると、それなりのよい表現になっている。

朝日坂下 神楽坂通り西端 礫川牛込小日向絵図(万延元年(1860)) 赤城神社境内 神楽坂通りをさらに西へ進むと、一枚目の写真のように左に朝日坂下が見えてくる。さらに進み、東西線の神楽坂駅出入口(一番)を通りすぎると、二枚目のようにほぼ平坦となる。このあたりでは人通りもぐっと減る。ここからもどり、駅出入口の先で左折すると、赤城神社の大きな鳥居が見えてくる。

三枚目は、尾張屋板江戸切絵図の礫川牛込小日向絵図(万延元年(1860))の部分図である。左上に多数の横棒の坂マークとともに神楽坂とある。坂下の牛込御門からほぼまっすぐに延びており、肴町、通寺丁をすぎ、末寺丁のところで右折すると、赤城明神がある。現在の道筋は、これとほぼ同じである。

神社の境内に入ってびっくりした。四、五年前に来たときとまるで雰囲気が違っていたからである。四枚目は境内の中の広い階段を上ってからふり返って撮ったもので、新しく明るい感じとなっているが、以前はもっと樹木で鬱蒼としていた。あまりの変わりように驚き、這々の態で逃げるようにして神社西側の階段を下り、赤城坂上に出た。

赤城坂上側 赤城坂上側 赤城坂中腹 赤城坂下側 一、二枚目の写真は神社の階段から出たところの変則四差路付近で坂下、坂上を撮ったもので、坂標柱が写っている。ここがこの坂の要所である。 昨年末に神田川の石切橋からこの坂を上ったが(荷風生家跡~断腸亭跡~偏奇館跡(2))、そのときの印象がよかったので、ふたたびやってきた。今回は、反対に下るが、上記の標柱の下あたりからかなり急であることがわかる。『新撰東京名所図会』に「峻悪にして車通すべからず」とあるというから(岡崎)、むかしは、もっと狭く急な坂であったのであろう。

荷風は『日和下駄』「第十 坂」で「赤城明神裏門より小石川改代町へ下りる急な坂の如く神社の裏手にある坂をばなんとなく特徴のあるように思い、通る度ごとに物珍しくその辺を眺めるのである。」と書いている。荷風の好きな坂の一つであったようである。

赤城神社の境内からは江戸川べりの田んぼをこえて向こう小日向台の緑の眺望が美しかったという(石川)が、現在、このような眺望は望むべくもない。

赤城坂下 赤城坂下の先 改代町 古川橋 これまでの神楽坂~赤城坂は、牛込台地の東北端のあたりに位置する。一枚目の写真は赤城坂下から上側を撮ったものであるが、ここで牛込台地に別れを告げることになる。

坂下からまっすぐに北へ延びる道筋は前回歩いた道で、やがて石切橋に至るが、今回は、坂下の先で、二枚目の写真の交差点を左折し、次を右折し、三枚目の写真の改代町の通りに出る。ここを北へしばらく歩き、途中ちょっと賑やかな交差点を通りすぎるとまもなく目白通りに至る。この通りから北の方を撮ったのが四枚目で、神田川の古川橋が見え、その向こうに服部坂が見える。この橋のすぐ下流に石切橋がある。

上記の礫川牛込小日向絵図(万延元年(1860))を見ると、赤城坂下を左折し、次を右折すると、道がまっすぐに北へ延び、神田川の橋(古川橋)に至ることがわかる。神楽坂下からこの橋まで現在の道筋は、この江戸切絵図とほぼ同じで、昔から変わっていないようである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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