東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

大横川親水河川公園~スカイツリー2011(9月)

2011年10月27日 | 写真

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柳橋

2011年10月26日 | 散策

浅草橋から柳橋への小道 柳橋 柳橋北詰 柳橋北詰 前回の浅草橋北詰から神田川に沿って柳橋へと続く小道があったので(一枚目の写真)、ここに入る。河口がすぐそこの最後のところでようやく川沿いの散歩となる。もっとも防波堤が高くそんなに川が見えるわけではない。

次第に柳橋が近くなってアーチ型の姿が目立ってくる。屋形船で観光を終えたと覚しき人たちとすれ違うが、みなさんの顔がおだやかでいい表情をしているのが印象的である。水際近くに長くいると、心を癒すようなよい作用があるのかもしれないなどと思ってしまう。

やがて柳橋のたもとに着く。柳の木が植えられており、そよ風で揺らいでいるのが涼しげで心地よい気分になる。橋を渡った南詰にも植えられているが、橋名からいってごく自然なことに思える。

この橋は幹線道路に近いが、それが通っているわけではないので、人・車ともに通行量は先ほどの浅草橋などと比べてぐっと減る。喧噪から離れて静かで、橋からの眺望をゆっくりと楽しむことができる。下三枚目の写真のように、上流側を眺めると、屋形船が係留されている先にさきほどの浅草橋が見える。反対側に行くと、下四枚目の写真のように、眼の前はもう隅田川で、川向こう正面に高架の首都高速道路が見え、その右手下側に両国橋が見える。この橋が神田川最下流の橋であることをあらためて実感できる。

石塚稲荷神社 柳橋歩道 柳橋から浅草橋 柳橋から隅田川 浅草橋からの小道を左折し橋の北側へしばらく歩くと、右側に石塚稲荷神社がある。近くに総武線が通っており、電車の音が聞こえてくる。以前、隅田川河畔を南下したとき、総武線の手前で途切れたので、このあたりをうろうろしていたら、この神社の前に出た覚えがある。一枚目の写真のように、神社名のわきに火伏神とあるので、火除けの神として信仰されているのであろう。石の門柱には、柳橋芸奴組合、柳橋料亭組合、と浮き彫りされている。かつて柳橋が花柳界として賑わった時代の名残りであろうか。

神社からもどり、橋を渡るが、その途中、歩道わきの欄干の間にかんざしが横になって飛び飛びにたくさん取り付けられて、欄干の模様のようになっている(二枚目の写真)。かつてここにいた芸奴たちが使っていたものであろうか、面白いアイデアと思った。

この地は、もともと吉原や深川へ通う猪牙(ちょき)船の発着場で、船宿が並び、芸者もいてそれなりに賑わっていたが、天保の改革で深川が衰微して以来、とって代わってさらに繁栄したという。

橋名の由来について、前回記事の江戸名所図会は、柳原堤(柳原土手)の末(はじ)にあるから、と説明するが、橋の北側に立っている説明板(台東区教育委員会)によれば、これ以外に、近くに幕府の矢の倉があったので矢の倉橋、矢之城橋とよばれたが、この矢之城(やのき)を柳の字に書き換えた、橋畔の柳にちなむ、の諸説があるとのこと。

成島柳北は安政四年(1857)頃からこの柳橋の花街に出入りしたというが、その体験に基づいて著した『柳橋新誌』の初編冒頭に上記の江戸名所図会にも触れながら次のようなことを記述している。

この橋は、柳を以て名とするのに、一本の柳も植えられていない。旧地誌(江戸名所図会)が云うには、柳原の末に在るためにこう名づけた。しかるに、橋の東南に一橋があり、たもとに一樹の老柳があったため、人々は、故(もと)柳橋とよんだ。ある人が云うには、その橋に柳があり、これがむかしの柳橋で、今の柳橋は後に架けられその名を奪った。この説は江戸名所図会と違う。思うに、故柳橋の正式な名称は難波橋というが、これを知るものは少ない。あれこれ考え合わせると、江戸名所図会の説が当たっているのと似ている。

尾張屋板江戸切絵図(日本橋北内神田両国浜町明細絵図)を見ると、神田川の河口に柳橋があり、その南、隅田川の両国橋からちょっと下流に、薬研堀の河口に元柳橋がかかっている。薬研堀は米沢町三丁目にある短い堀であるが、その近くに薬研堀埋立地とあるので、埋め立てられて短くなったようである。

永井荷風は『日和下駄』「第三 樹」で、上記の『柳橋新誌』の部分を引用して次のように書いている。

「柳橋に柳なきは既に柳北先生『柳橋新誌』に「橋以柳為名而不植一株之柳〔橋は柳を以て名と為すに、一株の柳も植えず〕」とある。しかして両国橋よりやや川下の溝に小橋あって元柳橋といわれここに一樹の老柳ありしは柳北先生の同書にも見えまた小林清親翁が東京名所絵にも描かれてある。図を見るに川面籠る朝霧に両国橋薄墨にかすみ渡りたる此方の岸に、幹太き一樹の柳少しく斜になりて立つ。その木蔭に縞の着流の男一人手拭を肩にし後向きに水の流れを眺めている。閑雅の趣自ら画面に溢れ何とかく猪牙舟の艪声と鷗の鳴く音さえ聞き得るような心地がする。かの柳はいつの頃枯れ朽ちたのであろう。今は河岸の様子も変り小流も埋立てられてしまったので元柳橋の跡も尋ねにくい。」

その小林清親の東京名所絵は見たことはないが、荷風の名文から朝霧のこもる隅田川の様子などが思い浮かぶようである。元柳橋の跡は、荷風が『日和下駄』を書いた大正のはじめ頃、すでに埋め立てられており、よくわからなくなっていたようである。

下一枚目は、柳橋から両国橋にかけての鳥瞰図であるが、真ん中の大きな橋が隅田川にかかる両国橋で、その向こうに回向院などが見える。幕末のころ両国橋は現在よりもやや下流側にかかっていたが、この図からもそれがわかる。中央下側に神田川にかかる柳橋があり、その上流に浅草橋と浅草見附が見える。右端に、元柳バシ、とあり、橋のたもとに、やや傾いた柳の木が描かれているが、これが、柳北が云う一樹の老柳、荷風が小林清親の東京名所絵をみて記した少し斜に立つ幹太き一樹の柳であろう。江戸惣鹿子名所大全に「夫婦柳」とあり、もとは二本並んでいたが、柳北のころは一本だけになっていたという。

この鳥瞰図は、「新日本古典文学大系 100 江戸繁昌記 柳橋新誌」(岩波書店)の612頁からの引用である。もともと『柳橋新誌』の青表紙本という柳北に無断で明治二、三年頃刊行されたテキストの巻頭の口絵であるというが、幕末頃の柳橋・両国橋あたりの様子がわかるよい絵である。

柳橋・両国橋あたりの鳥瞰図 柳橋南詰 両国橋から柳橋 両国橋から隅田川上流 橋を渡り南詰に行き、左折すると、柳の木のさきに、二枚目の写真のように、石碑や説明パネルが並んでいる。右は中央区(橋北側は台東区であるが、南側は中央区である)による柳橋の説明板、真ん中は中央区教育委員会による柳橋の説明板であるが、それらによると、明治20年(1887)にかけられた鋼鉄橋が関東大震災(1923)で落ちたので、ドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを取り入れ、昭和4年(1929)12月に完成したのが現在のアーチ型の柳橋であるとのこと。左の石碑には復興記念と刻まれているが、関東大震災の復興事業として復興局により施工された。

説明板を左に見ながら進み右に曲がると、すぐ京葉道路の歩道で、ちょっと歩けば両国橋である。歩道を少し進むと、歩道から丸く突きだしたふくらみ部分があるが、ここから柳橋を撮ったのが三枚目の写真である。四枚目の写真はそこから隅田川上流を撮ったものである。

両国橋を東へ渡り、前回の記事のように、旧本所小泉町の芥川龍之介生育の地、旧本所松坂町の吉良邸跡を訪ねた。この後、両国駅からさらに東に歩き、錦糸町駅手前の江東橋から大横川親水河川公園を北へ歩き、スカイツリーの近くまで行った。

参考文献
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「新日本古典文学大系 100 江戸繁昌記 柳橋新誌」(岩波書店)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
石川悌二「東京の橋」(新人物往来社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和泉橋~浅草橋

2011年10月23日 | 散策

前回の記事で、両国の旧本所小泉町を訪ねたとき、神田川沿いを歩き柳橋経由で両国橋を渡ったが、その神田川沿いの小散策記である。

和泉橋南詰 和泉橋から下流 和泉橋 和泉橋南詰 神田小川町から万世橋に行き昼食をとり、そこから神田川の南沿いの道を東へ進む。川沿いといっても川を眺めながら歩くことのできる道ではない。このあたりは、川に沿ってビルが並んでいるので、橋でしか川を見ることができない。

しばらく歩くと左手に和泉橋が見えてくる。ここは昭和通りで、上には首都高速道路が通っていることから、かなり騒がしい。北詰には地下鉄の出入口などもあって、人通りも多いが、歩道が広くゆったりとしている。首都高は車道の上なので、圧迫感はさほどない。

橋の上から下流側を見ると(二枚目の写真)、このあたりは河口に近いためか流れがよどんでいる。ここからかなり上流側であるが、たとえば、中野区と杉並区の境界近くの善福寺川との合流地点と比べると雲泥の差で、上流と下流の違いがよくわかる。

現代は、昭和通りが通り、上には首都高、下には地下鉄日比谷線が走る交通の要所となっている。

比較的江戸初期の明暦三年(1657)の江戸地図(新添江戸之図)を見ると、浅草橋の上流にこの橋があり、古くからあった橋であることがわかる。江戸末期(1859)の尾張屋板江戸切絵図(日本橋北内神田両国浜町明細絵図)には、上流の筋違御門から和泉橋を経て下流の浅草御門まで南側の土手に柳の木がたくさん並んで描かれている。浅草御門の近くに、是より筋違までを柳原通りと云う、とある。

地図に絵を描くことは、江戸切絵図の特徴の一つで、永井荷風は、『日和下駄』「第四 地図」で次のように書いている。

「見よ不正確なる江戸絵図は上野の如く桜咲く処には自由に桜の花を描き柳原の如く柳ある処には柳の糸を添え得るのみならず、また飛鳥山より遠く日光筑波の山々を見ることを得れば直にこれを雲の彼方に描示すが如く、臨機応変に全く相反せる製図の方式態度を併用して興味津々よく平易にその要領を会得せしめている。この点よりして不正確なる江戸絵図は正確なる東京の新地図よりも遙に直感的また印象的の方法に出たものと見ねばならぬ。現代西洋風の制度は政治法律教育全般のこと尽くこれに等しい。現代の裁判制度は東京地図の煩雑なるが如く大岡越前守の眼力は江戸絵図の如し。更に語を換ゆれば東京地図は幾何学の如く江戸絵図は模様のようである。」

荷風は、江戸絵図を好み、この柳原の柳も例にあげているが、さらには、不正確な江戸絵図を正確な東京地図よりも直感的で印象的な方法と賞賛し、現代の西洋風の諸制度もみなこれと同じであるとまで批判している。江戸趣味の荷風らしい文明批判となっているが、近代日本の特質を簡単かつみごとに言い当てているようにも思える。荷風の指摘したことは過去の問題ではなく、いまに続く問題であるが、裁判制度一つとっても、それからおよそ百年後の現在、双方の悪いところを足し合わせたようなもっとややこしい問題となっている。

江戸切絵図に柳の絵が描かれた柳原通りは、一枚目の写真の説明板(柳原土手跡)のように、柳原土手ともよばれていた。昔町屋が土手の南側下まで並んでいたので、土手上を通行していたという。寛永六年(1794)火除け地とされ、その後、老中松平定信が凶作に備えて米を貯蔵する籾蔵を建てた。土手は明治六年(1873)壊された。

柳森神社 江戸名所図会 柳原堤 左衛門橋から下流 浅草橋 和泉橋の上流側の土手下に、一枚目の写真の柳森稲荷(柳森神社)があったが、このため、稲荷河岸ともいわれたという。関東大震災(1923)で社殿は焼失したが、その後再建された。

荷風の「下谷叢話」に和泉橋が次のようにでてくる。

文久四年(1864)八月中秋、大沼沈山は、長谷川昆渓、関雪江らと和泉橋から船を買って百花園の秋花を賞し、山谷堀の某楼に登って明月を迎えた(第三十三)。沈山らはこの橋から船で下り隅田川に出て百花園の近くまで上ったようである。

二枚目は、江戸名所図会の柳原堤の挿絵の一部で、和泉橋から浅草橋までの川沿いの風景が描かれ、船が川に浮かんでいるが、沈山らが乗ったのもこんな船かもしれないなどと想像するのも楽しい。別の絵には土手にたくさん植えられた柳が描かれている。

和泉橋から下流側の左衛門橋に行くと、三枚目の写真のように、屋形船が係留されている。次の浅草橋のあたりも同じである。江戸のむかしから隅田川巡りの屋形船の発着地であったようである。

浅草見附跡 浅草橋 浅草橋から下流 浅草橋から下流 左衛門橋から浅草橋に行く。ここは浅草の方から延びる江戸通りが通っているので交通量の多いところである。橋を北側へ渡ると、一枚目の写真のように、左側に浅草見附跡の石碑が建っている。上記のように、尾張屋板江戸切絵図を見ると、ここには浅草御門があった。江戸名所図会には次のように紹介されている。

「浅草橋 神田川の下流、浅草御門の入口に架(わた)す。この所にも御高札を建てらる。馬喰町より浅草への出口にして、千住への官道なり。この東の大川口にかかるを柳橋と号(なづ)く。柳原堤の末にある故に名とするとぞ。(この所、諸方への貸船あり。)」

千住への官道とは、日光街道と奥州街道で、日本橋、浅草御門、蔵前、小塚原町、千住の順で、その間二里であった。

浅草橋を見附として桝形櫓を造り番士をおくようになったのは、幕府の賦役で仙台藩伊達氏が神田川を掘りぬいたときの、万治、寛文のころと推定されるとのこと(石川)。

三、四枚目の写真のように、浅草橋から下流に柳橋が見える。

参考文献としてあげた「東京の橋」は、「江戸東京坂道辞典」の著者である石川悌二氏によるもので、橋にはさほど関心がなかったが同一著者ということで、以前古本屋で見つけたとき購入した。
(続く)

参考文献
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「江戸名所図会(一)」(角川文庫)
永井荷風「下谷叢話」(岩波文庫)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
石川悌二「東京の橋」(新人物往来社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佃大橋~佃島(2)

2011年10月11日 | 散策

佃島渡船の石碑(佃島側) 佃小橋への道 佃一丁目2番 佃一丁目3番 前回の佃大橋を渡り、東詰の歩道から階段で下におり、防波堤を越えて佃島に入ると、すぐのところに細長い小さな公園がある。ここに佃島渡船の石碑が建っているが(一枚目の写真)、前回の対岸の石碑と同じ記念碑である。

石碑の前から、二枚目の写真のように、通りが東へまっすぐに延びており、この先に佃小橋がある。三枚目の写真は石碑を背にして左手の道、四枚目の写真は右手の道を撮ったもので、両方に佃島伝統のつくだ煮屋が見える。

 文久二年(1861)の尾張屋板江戸切絵図(京橋南築地鉄炮洲絵図)
 明治11年(1878)の実測東京全図
 明治40年(1907)の明治地図
 昭和16年(1941)の昭和地図

手元にある上記の地図を年代順に見ると、佃島は、明治になってから大変貌を遂げたことがわかる。すなわち、明治11年には、懲役場のあった広い石川島のわきに佃島しかなかった。よく見ると、佃島には東西二つの島があり、この間に川があり、ここに小橋がかかっていた。これは切絵図(江戸末期)とほぼ同じである。ところが、明治40年には、北側に東京石川島造船所ができた旧石川島と接して新佃島が佃島の東にできており、さらには新佃島の南西には佃島よりもかなり広く月島ができている。また、相生橋が新佃島と深川越中島との間に明治36年(1903)にできた。

月島は、隅田川河口の浚渫土で埋め立てられてできた埋立地で、明治18年(1885)東京府技師倉田吉嗣が設計し、日本土木会社が請け負って築成された。北半分は明治25年(1892)、南半分は明治27年(1894)に完成した。明治を通じて次第に町地を拡充して築きたる島で、海中に突出して観月に恰好の地であったため築き島(月島)と名づけられたという。

昭和15年(1940)6月月島と対岸の間に勝鬨橋が開通し、ここにあった勝鬨の渡しが廃止されている。月島には、月島渡という別の渡し場もあった。

昭和16年の地図には、月島の西に勝ちどきの埋立地の一部ができており、南には晴海ができている。さらに、晴海の東には豊洲などもできている。明治以降、佃島から先の東京湾は南へとどんどん埋め立てられていったことがよくわかる。

現在の東京湾の地図を見ると、晴海、豊洲のさらに南には有明、台場、青海などの埋立地ができており、佃島、月島は銀座のちょっと先の内陸地のような位置といってもよいほどである。それでも佃島、月島に徒歩や車で行こうとするとかならず橋を通ることからここが島であることがわかるが、有楽町線と大江戸線の地下鉄が通っていることもあって、島という感覚も薄くなっている。

住吉神社住吉神社江戸名所図会 佃島佃小橋への道 上記の佃島渡船の石碑を背にして左の道(佃一丁目2番)へ進み、次を右折すると、一、二枚目の写真のように、住吉神社があるが、この神社は佃島の発祥と深い関係がある。

江戸初期、徳川家康が摂津国西成郡(大阪市)佃村から呼び寄せた漁民に隅田川の河口の洲島を与えて漁業を営ませたことから島名を佃島としたという。その後、正保三年(1646)に現在地に創建されたのが住吉神社である。移住した漁民の郷里である摂州の住吉神社から分祀したもので、海上の守神として信仰された。

『江戸名所図会』にある佃島の挿絵は、対岸の船松町側から見た俯瞰図であるが、佃島の原風景を見るようで、はなはだ興味深い。隅田川の河口には大小たくさんの船が往来している。佃島に手こぎの渡船が着いた。渡し場の前から続く道と、行き交う人々が見える。両わきに家々が並び、その先に橋がある。これがいまの佃小橋(四枚目の写真)であろう。橋を渡った先にも家が見え、橋の左手には樹木に囲まれた住吉神社がある。はるか遠くに上総、安房の山々が見える。

一枚目の写真のように、住吉神社にはむかしからの様子が伝わる雰囲気が残っているが、背後にそびえる高層マンションによって現在に引きもどされる感覚になる。これはここだけに限らず、佃島全体がそうで、どんなアングルでも新旧混在の風景となる。

佃小橋佃小橋佃小橋佃川支川の堀留まり 住吉神社から佃小橋に行く。一~三枚目の写真のように、ここは欄干が朱色に染まっているので、よく目立つ。この橋の下の川が佃川支川(つくだがわしせん)である。

戦前の昭和地図(昭和16年)を見ると、住吉神社と佃の渡し場のある西側と、東側との間に隅田川から続く川があり、ここに小橋がかかっている。すなわち、佃川支川は、隅田川からの支流が住吉神社の裏手で直角に折れ曲がり、小橋の下を通って佃川に至る。佃川は、新佃島と月島との間を流れていたが、昭和40年(1965)3月佃一丁目から南側の初見橋まで埋め立てられ、昭和62年(1987)4月残る堀も埋め立てられ、現在、道路となっている。この埋立のため、佃川支川は、四枚目の写真のように佃小橋の南で留まっているが、ここは、かつての佃川との合流点近くと思われる。この近くで佃川に佃橋がかかっており、佃橋と初見橋との間に新月橋という橋もあった。

前回の記事の「佃渡しで」の吉本隆明は、大正13年(1924)11月25日京橋区月島東仲通り四丁目1番地(現・中央区月島四丁目3番)に生まれた。現在の月島の中央近く清澄通りの南側である。同年4月ころ祖父母、父母ら吉本一家は熊本県天草郡志岐村から月島に移ってきていた。その後、昭和3年(1928)頃、京橋区新佃島西町一丁目26番地(現・佃島二丁目8番6号)に移った。佃橋の東側すぐの所である。次に、昭和12年(1938)頃、新佃島西町二丁目24番地(現・佃島二丁目5番14号)に移ったが、佃橋から東へちょっと離れた所である。いずれの住居も佃小橋にも近く、その先に佃の渡し場がある。

吉本は、上記のように、佃島の東に明治以降にできた新佃島で育ったが、ここが「佃渡しで」の背景である。

「水に囲まれた生活というのは
いつでもちょっとした砦のような感じで
夢の中で堀割はいつもあらわれる
橋という橋は何のためにあったか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあった」

戦前の昭和地図(昭和16年)をふたたび見ると、新佃島は、南西側には佃川(佃堀)が流れ、西側には佃川支川が流れ、東側には相生橋がかかる大きな隅田川(晴海運河)が流れている。まさしく「水に囲まれた生活」で「いつでもちょっとした砦のような感じ」であったのであろう。「夢の中で堀割はいつもあらわれる」としているように、掘割のイメージが強くあらわれるが、佃川や佃川支川がその掘割であったと想われる。悲しみを流すために「少年が欄干に手をかけ身をのりだし」たという橋は、佃橋や佃小橋や新月橋などであろうか。

現在、佃島には、古くからの住吉神社があり、堀留まりとなった佃川支川と佃小橋がかろうじて残っているが、かつての風景を知らない者にとって、どの程度むかしのイメージを残しているのか不明である。しかし、ここだけ特別ということはないから都内の他地域と同じように相当に失われていることは確かと思われる。

特に佃川支川は留まりで池のようになってしまい、木製の小舟が沈んでいたりして、ちょっと無残な光景である。周囲を見わたすと、高層マンション群が歴史のある佃島に超近代性のイメージを付加しているように思えてくる。

佃川支川の堀留まりそばのベンチで一休みし冷たいペットボトルでのどを潤してから月島駅へ。

携帯による総歩行距離は9.4km。

参考文献
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
竹内誠 編「東京の地名由来辞典」(東京堂出版)
「江戸名所図会(一)」(角川文庫)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)
石関善治郎「吉本隆明の東京」(作品社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佃大橋~佃島(1)

2011年10月10日 | 吉本隆明

佃大橋西詰から佃島 佃大橋西詰から佃島 佃大橋から隅田川上流 佃大橋から隅田川下流 前回の佃島渡船の石碑のところから階段で佃大橋の歩道へ上る。一枚目の写真はそこから佃島側を撮ったもので、歩道がまっすぐ延びている。二枚目の写真は階段を上る前に佃島を撮ったものである。

上流側の歩道を佃島方面へ歩くが、上流の眺めがよい。三枚目の写真のように、橋の中程から中央大橋が見え、その向こう遠くにスカイツリーが見える。下流側には、四枚目の写真のように、勝鬨橋が見えるが、もうかなり遠くなっている。

隅田川は川幅が広いだけあって、川岸近くに高層ビルが建っていても、眺望がよい。東京の街中では見られない風景である。たまにはこういった広々とした風景のところを歩くのもよい。周りの風景は人工的だが、さわやかな風も吹くし、さらに、余りにも大量であるが、水もある。そんなことを感じながら歩いている途中、大型トラックが通ると、橋がかなり上下に揺れる。

佃大橋から佃島佃大橋東詰から湊三丁目佃島から佃大橋佃島から上流側 やがて佃島が近くなってくる。一枚目の写真は佃大橋から撮った佃島、二枚目、三枚目は橋を渡ってから対岸を撮ったもの、四枚目は佃島の防波堤付近を撮ったものである。

このあたりにくると、吉本隆明の「佃渡しで」というよく知られた詩を思い出してしまう。

佃大橋ができて佃渡しが廃止になったのが昭和39年(1964)8月で、この詩が収められた『模写と鏡』(春秋社)の「あとがき」の日付が同年11月5日である。佃大橋ができかかるころ、娘と二人で佃島に佃渡しで来たときの詩であるという。


佃渡しで

佃渡しで娘がいった
〈水がきれいね 夏に行った海岸のように
そんなことはない みてみな
繋がれた河蒸気のとものところに
芥がたまって揺れているのがみえるだろう
ずっと昔からそうだった
〈これからは娘に聴えぬ胸のなかでいう〉
水はくろくてあまり流れない 氷雨の空の下で
おおきな下水道のようにくねっているのは老齢期の河のしるしだ
この河の入りくんだ堀割のあいだに
ひとつの街がありそこで住んでいた
蟹はまだ生きていてそれをとりに行った
そして泥沼に足をふみこんで泳いだ

佃渡しで娘がいった
〈あの鳥はなに?〉
〈かもめだよ〉
〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉
あれは鳶だろう
むかしもそれはいた
流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)を
ついばむためにかもめの仲間で舞っていた
〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉
水に囲まれた生活というのは
いつでもちょっとした砦のような感じで
夢の中で堀割はいつもあらわれる
橋という橋は何のためにあったか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあった

〈あれが住吉神社だ
佃祭りをやるところだ
あれが小学校 ちいさいだろう〉
これからさきは娘に云えぬ
昔の街はちいさくみえる
掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいって
しまうように
すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かった距離がちぢまってみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
いっさんに通りすぎる


佃の渡しで「現在」と「過去」が交差する。「現在」しか知らない娘によって「過去」への回想が誘発され、月島生まれ新佃島育ちの詩人は失われた風景へと還っていく。河、蟹、泥沼、堀割、橋、欄干・・・

眼の前の風景から過去がよみがえる。掘割と橋と欄干は少年が発見した悲しみ処理装置であった。そこから身をのりだして流れたが、それでも残った悲しみが掘割・橋・欄干とともにうかび上がる。記憶の中の風景が感情をよびおこし、情景の中にズームアップされるかのようである。

眼の前の風景とともに記憶の中にある街はちいさくなる。ちいさくなった距離や風景は過去だけでなく、その未来である現在を暗示する。過去から現在への歩みをふりかえる。むかし遠くてわからなかったことがわかる。すべてを知ってしまった詩人は、虚無的なところに陥らず、悲しみの風景をうちにひめながら、なお力強く、「生きてきた道を」「いま」「いっさんに通りすぎる」。
(続く)

参考文献
「吉本隆明全著作集1 定本詩集」(勁草書房)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隅田川~佃島渡船場跡

2011年10月05日 | 散策

前回の明石町の浅野内匠頭邸跡と芥川龍之介生誕の地から勝鬨橋の方に向かい、その手前の天竹で昼食をとってから隅田川の川辺を上流へ佃大橋まで歩いた。

隅田川・勝鬨橋 隅田川テラス 勝鬨橋 隅田川テラス 勝鬨橋の上流側のたもとがちょっと広くなっているが、そこから隅田川と勝鬨橋を撮ったのが一枚目の写真である。階段を下りると、隅田川の川辺で、川面にぐっと近づく。二枚目の写真のように、ここから上流へ向けて川沿いに広い散歩道ができている。隅田川テラスと称しているが、水面との差がないので、親水的な感じとなる。満潮のせいか、水面が高い。

きょうもまた日差しが強いが、川からかなりの風が吹いてくるので、心地よく、暑さはさほど感じない。街中の散歩ではこうはいかない。

ちょっと歩き、振り返って撮ったのが三枚目の写真である。勝鬨橋全体が見える。このあたりから先は、四枚目の写真のように、煉瓦塀が続くが、見た感じはコンクリート塀よりもずっとよく、しゃれた雰囲気をつくっている。

永井荷風は、前回の記事のように、大正7年(1918)12月、この近く(京橋区築地二丁目30番地)に移ってきたが、その後、このあたりに散歩にきたことを「断腸亭日乗」に記している。

大正8年(1919)「四月四日。夜寒からず。漫歩佃の渡し場に至り河口の夜景を観る。」

大正10年(1921)9月11日には次の記述がある。

「九月十一日。秋の空薄く曇りて見るもの夢の如し。午後百合子訪ひ来りしかば、相携へて風月堂に徃き晩餐をなし、掘割づたひに明石町の海岸を歩む。佃島の夜景銅版画の趣あり。石垣の上にハンケチを敷き手を把り肩を接して語る。冷露雨の如く忽にして衣襟の潤ふを知る。百合子の胸中問はざるも之を察するに難からず。落花流水の趣あり。余は唯後難を慮りて悠々として迫まらず。再び手を把つて水辺を歩み、烏森停車場に至りて別れたり。百合子は鶴見の旅亭華山荘に寓する由なり。」

荷風は百合子(田村智子、白鳩銀子)と二人で銀座から掘割に沿って明石町の岸辺にきて、佃島の夜景を眺め、石垣にハンケチを敷き座った。意味深長な記述が続いているが、それは別として、荷風はこのあたりの地理は詳しかったので、このデートコースは荷風が設定したのであろう。この後、一月程度で二人の仲は急速に進む。

隅田川右岸標注 佃大橋 佃島渡船の石碑 佃島渡船場跡の説明板 佃大橋の手前に河口からの距離(1.0km)を刻んだ隅田川右岸の標柱が立っている(一枚目の写真)。二枚目の写真はそのあたりから上流側を撮ったもので、佃大橋の向こうに佃の高層マンション群が見える。

のまま歩くが、相変わらず、風が吹き、暑さを感じさせない。やがて佃大橋の下に至るが、そこをくぐると階段がある。ここを上下してテラスの外に出ると、樹が茂っているが、この下に佃島渡船の石碑が建っている(三枚目の写真)。そのわきの説明板(四枚目の写真)によれば、正保二年(1645)佃島とその対岸の旧船松町(この佃大橋西詰付近)との間に渡し船が通ったという。これを佃の渡しとよんだ。

尾張屋板江戸切絵図(京橋南築地鉄炮洲絵図)を見ると、船松町の対岸に小さな島がある。御用地、石川島、佃島であるが、この島と船松町との間に、渡シバ、とある。

昭和2年(1927)3月それまでの手こぎ渡船を廃止し無賃の曳船渡船にかわったが、その廃止を記念して建てられたのが上記の佃島渡船の石碑であるという。昭和30年(1955)7月には1日70往復にもなったが、同39年(1964)8月佃大橋の完成によって佃の渡しは廃止され、300年の歴史の幕を閉じた。
(続く)

参考文献
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする